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室の八島の歴史の概
要
(註01)

第1章 室の八島の歴史の概要
すいません。こんな名前を付けてますが、「室の八島の歴史の概要」は最後の第 4節に出てきます。
→第1節 栃木県(下野国)の歌枕  →第2節 栃木市の歌枕  →第3節 [奥の細道]の歌枕あれこれ 
→第4節 室の八島の歴史の概要


第1節 栃木県(下野国)の歌枕 (註02)
→あその河原  →みかもの山  →ニ荒の山  →黒髪山  →山菅の橋  →那須 →黒戸の浜
あその河原(安蘇の河原)、みかもの山(三毳山)、ニ荒の山、 黒髪山、山菅の橋、那須、黒戸の浜

・[万葉集](600年代後半−700年代後半)東歌
 しもつけぬ−あそのかはらよ−いしふまず−そらゆときぬよ−ながこころのれ
 しもつけの−みかものやまの−こならのす−まぐはしころは−たがけかもたむ

・[能宣集]
 大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ、921−991年)
 ふたらの山、やしろあるとまへに旅人多く行く、月いでたり
 たまくしげふたらのやまの−つきかげは−よろづよをこそ−てらすべらなれ

・[廻国雑記](1487年下野旅)
 道興准后(みちおきorどうこう じゅごうorじゅんこう、1430−1501年?) 著
 ふりにける−身をこそよそに−厭ふとも−黒髪山も−雪をまつらむ

 法の水−みなかみふかく−尋ねずば−かけてもしらじ−山すげの橋

・[金槐集](きんかいしゅう)
 源実朝(みなもとのさねとも、1192−1219年)の家集
 霰(あられ)
 武士(もののふ)の−矢なみつくらう−小手の上に−あられたばしる−那須 の篠原

(註)詞書(ことばがき)が「那須」云々でなく、「霰」(あられ)っていうの は何か変ですね。
 そうなんです。実は放送大学のテレビ放送を見て知ったんですが、この歌は那須で詠ん だ歌でもなく、那須を詠んだ歌でもなく、単に、「霰」(あられ)を詠むために、那須を 利用しただけの歌なんだそうです。だから、ここに取り上げたのは間違えたかも。


・[歌枕名寄](うたまくらなよせ、1303年頃)
1020年詠 菅原孝標女(すがわらのたかすえ の むすめ)
 まどろまじ−今宵ならでは−いつか見ん−黒戸の浜の−秋の夜の月

 下野国(しもつけのくに、しもつけこく 今の栃木県)の歌枕には あその河原 (渡良瀬川の河原?)、 みかもの山 (現在、佐野市・栃木市との境にある大田和山(おおだわやま)がその「みかもの山」だ ということで三毳山(みかもやま)と名前を替えられています。歴史はこのよう にして歪められてゆくのです)、室の八島(:栃木市)、 ニ荒の山 (ふた(あ)らのやま、男体山?日光山内?時代によって意味が変わっているよ うです。:日光市)、 黒髪山 (くろかみやま、男体山:日光市)、 山菅の橋 (やますげのはし、神橋(しんきょう、おみはし):日光市)、 那須 (なす:那須郡など)、 黒戸の浜 (くろとの浜:大田原市川田〜那須町稲沢辺り)などがあります、あるいはか つてありました。

中でも 圧倒的に 多くの和歌に詠まれ たのが室の八島です。 平安時代以来詠まれた和歌は、ざっと百首ほどはあるでしょう。

 黒髪山を詠んだ歌もそこそこありますが、古くは奈良県の佐保山丘陵の山、あるいは岡 山県阿賀郡新見町の山が専ら黒髪山として詠まれたらしく、どれが下野の黒髪山を詠んだ 歌か判然としません。それ以外の歌枕については和歌に詠まれたとは言え、その数はあま り多くありません。そういうことで室の八島は下野国随一の歌枕なんです。

歌枕の定義にはいろいろ小難しい話がありますが、室の八島はもっとも歌枕らしい歌枕の ひとつと言ってよいでしょう。そうして江戸時代には徳川三代将軍家光が日光社参の帰途 に立ち寄る(1640年、 [徳川実紀] )ほどの名所でした。室の八島は、少なくとも芭蕉らが訪れた(1689年)頃までは、 下野国随一の歌枕であったばかりでなく、今の我々には信じがたい話ですが、『当州に無 双の名所なり。』([下野風土記]1688年編著) だったんです  (註1)

 芭蕉は、陸奥の名所を訪ねる[奥の細道]の旅(1689年)で、途中、下野国の日光 に行く手前、小山(おやま、現小山市)の 木沢から 、室の八島を訪れていますが [曾良旅日記] 、その理由がこれでおわかりいただけると思います。[奥の細道]の旅の本来の目的から 言えば下野国の最大の目的地は日光ではなく室の八島なんです。
 芭蕉の時代、徳川家康を神として祭った 東照宮 は、事前に各藩の許可をもらっていなければ、境内に立ち入ることは 許されませ んでした 。芭蕉らは事前に参拝の許可を得ていたから、東照宮をお参りすることができ たんです。
 芭蕉らが日光を訪れたのは、[曾良旅日記]を読むとわかるんですが、日光の諸寺社見 物が目的だったのではなく、東照宮参詣が目的だったと言えます。しかし、歌枕でもなく、 旧跡でもない東照宮(1636年完成)は、[奥の細道]の旅における本来の目的地では ありません。

 このように書いてくると「下野の歌枕は他にも有るじゃないか」と言う人が出てくると 思います。そこで、ここに取り上げなかった歌枕、一般に下野の歌枕であるとされていな がら、ここに取り上げなかった歌枕なるものについてちょっと触れてみたいと思います。 下野国の歌枕であることが、まず間違いないだろうと思われるものは、あまり詳しく調べ ておりませんが、疑わしい歌枕については、この節で取り上げた下野の歌枕のいくつかの 例からも判りますように、かなりつっこんで調べております。



第2節 栃木市の歌枕(室の八島を除く)
しめじが原、 さしも草 の伊吹山、しわぶきの森
→しめじが原  →さしも草の伊吹山  →しわぶきの森  →(さしも草)

[下野国誌](河野守弘 著、1850年)には、下野国府付近の歌枕として室の八島の ほかに、しめじが原(標茅が原、標茅原)、さしも草の伊吹山、しわぶきの森(杜)が挙 げられており、栃木市はこの[下野国誌]の記述を根拠にしてこれらの歌枕を市の文化財 (史跡)に指定しています。また 善応寺 の「さしも草」は、市の天然記念物に指定されています( 栃木市の指定文化財 一覧【天 然 記 念 物】(リンク) ) 。
参考: 文化財指定年

 しかし、鎌倉時代前期の宇都宮歌壇の[新和歌集](1260年前後)872首の中に は、下野の歌枕である、 あその河原とみかほの関(1首) 、室の八島(7首)、日光山(2首)、黒髪山(1首)、那須野(1首)などの歌があり ますが、みかもの山、しめじが原、さしも草の伊吹山、しわぶきの森の歌は一首もありま せん。

 また江戸時代中期、下野国南部の都賀郡富吉村(今の栃木市藤岡町富吉 【地図】 )に居て活躍した女流歌人  石塚倉子 (1686−1758年)の作品集 [室八島](1756年刊)の中にも、室の八島は 和歌を含めて2〜3個所に登場しますが、それ以外の県南の歌枕(あその河原、 みかもの山、しめじが原、さしも草のいぶきの山、しわぶきの森)は一切登場し ません。その作品の一部を紹介します ([室八島]日光 紀行)
特にさしも草の伊吹山は数多くの和歌に詠まれ、また百人一首の藤原実方の歌
 かくとだに−えやは伊吹の−さしも草−さしも知らじな−燃ゆる思ひを
にも登場して、全国的には室の八島より有名な歌枕なので、栃木市付近に在れば、歌人で ある石塚倉子が室の八島をさしおいてもさしも草の伊吹山に触れないことは全く考えられ ません。
(補足)

 これら栃木市の歌枕は、近世になって突然栃木市付近に比定されるという不自然さがあ ります。おそらく、歌に「しもつけ」とあるだけで、これを下野国と解し、安蘇、三鴨、 室の八島同様、下野国府付近、あるいは下野国府に至る古代の街道・東山道沿いにあった んだろうとして、その辺りの場所にこじつけたものでしょう。そして例えばしめじが原という 名称の場所が複数あり、その中のどのしめじが原が和歌に詠まれた場所かと推測するなら まだしも、それまで全く違う名前で呼ばれていたものを、和歌に詠まれた場所であるとし て名前をしめじが原に変えられているんです。おそらくさしも草の伊吹山、しわぶきの森 やみかも山なども同様にして名前を替えられているんでしょう。

 その根拠のおぼつかなさは、次のしわぶきの森の歌からも窺えます。

1.しわぶきの森(しわぶきの杜)
   「しもつけ」って 国の名前? 植物の名前?

和歌検索:「語句検索」のキーワード「しはふき」 和歌データベース

・[朝忠集]
 藤原朝忠(ふじわらのあさただ、910−966年)
  本院の将曹 、しはぶき(=咳払い)するをききて
 しもつけや−しはぶきのもり(の)−しらつゆの−かかるをりにや−い ろかはるらむ

意味がよく分からない「本院」の警護役の一人が咳払いするのを聞いて思いつく、この歌の 『しもつけ』は、
見れば見るほど下野国ではなく、植物の シモツケ に見えて来ます。
白露 がかかる時季に色が変わっているのは、下野国のしわぶきの森ではなく、
京の都辺りに在って、よく知られた場所だったんでしょうけど、今となってはその所在のわからない しわぶきの森の紅葉したシモツケの葉でしょう。
そして『しもつけや』の「や」は、単に「の」の意味ではなく、強調の意味なんでしょう。
なお、歌に「しもつけ」とあるからと言って、それが下野国を意味するのはざっと半分、 残りの半分は植物のシモツケを意味するんです (註1)
(しわぶきの森の 資料解析)
(しわぶきの森の考察 )


2.しめじが原(標茅が原)
   「しもつけ」って 国の名前? 植物の名前?

和歌検索:「語句検索」のキーワード「しめつのはら、しめち、しめしかはら、しめしの はら」 和歌データベース

・[古今和歌六帖](976−982年?)
3589しもつけや−しめつのはらの−さしもぐさ−おのがおもひに −みをややくらむ
*この歌の「しめつのはら」とは「しめじが原」のことだろうと考えられています。そし て「しめじが原」に触れた最初の史料が[古今和歌六帖]のこの歌です。

 しめじが原については、この歌の『しもつけ』を下野国と解し、かつ『しめつのはら』 をしめぢが原として、その「しめぢ」を「湿地(しめぢ)」と解し、かつて下野国府があ ったと思われる辺りの湿地帯、今の栃木市川原田町辺り(ここは巴波川低地で最後まで残 った湿地帯でした)にこじつけたものと思われます。そしてこじつけた時期は近世です。
この歌の『しもつけ』については、これを下野国とするにはおおいに疑問があります。川 原田町辺りをしめじが原にこじつける事こそ、しめじが原の項の[下野国誌]の著者・ 河野守弘の言葉ではありませんが、まさに『論にもたらず。』で、この辺りは、 このウェブサイトの主題である室の八島、広義の室の八島の一部だったでしょう。
(下野国内のしめじ が原の資料解析)
(しめじが原 の考察)


3.さしも草の伊吹山
   しめじが原と同じ場所? 違う場所?

和歌検索:「語句検索」のキーワード「いふきANDさしも、いふきANDさせも」 和歌デ−タベース

・[古今和歌六帖](976−982年?)
3586あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ−おのがおもひに−みをこが しつつ
3588なほざりに−いぶきのやまの−さしもぐさ−さしもおもはぬ−ことにや はあらぬ
*「さしも草の伊吹山」に触れた最初の史料が[古今和歌六帖]のこれらの歌です。
(参考)
3589しもつけや−しめつのはらの−さしもぐさ−おのかおもひに−みをやや くらむ
2806いつしかも−ゆきてかたらむ−おもふこと−いぶきのさとの−すみうかりしを

 そしてさしも草の伊吹山も、これら[古今和歌六帖]の歌において、しめつの原(しめ じが原)の歌と同じく「さしも草」が詠み込まれているというただそれだけの根拠から、 しめじが原なる湿地帯から最も近い山(栃木市吹上町辺りの山らしいんですが、 どの山なのかよくわかりません)にあてはめて、さしも草の伊吹山であるとこじ つけたものと思われます。なお江戸時代には、下野国府付近のさしも草の伊吹山として、 吹上町辺りの山 【地図】 説ばかりでなく、太平山 【地図】 をさしも草の伊吹山とする説 [答問雑稿] もあったようです。

 このように書くと滋賀県、岐阜県の人は「さしも草の詠まれた伊吹山は、やはり滋賀・ 岐阜の県境にある伊吹山(標高1,377mの高山です 【地図】 )だったか!」と喜ぶかもしれま せん。確かに鎌倉時代以降、次の例のように、その伊吹山のさしも草を詠んだ歌が登場し ます。

・建保名所百首(けんぽう−、1215年)
 俊成女(としなりのむすめ、1171?−1254年?)
 ”さしも”やは−みにしむいろも−いぶきやま−はげしくおろす−みねのあきかぜ
*この強風を「伊吹おろし」と呼ぶようです。

・為尹千首(1415年)
 冷泉為尹(れいぜいためまさ)
  いふきやま−”さしも”まちつる−ほとときす− あをのかはら を−やすくすきぬる

 しかし、平安時代に詠まれたさしも草の伊吹の山、と言いますか最初に伊吹の山のさし も草と詠まれた山は、その伊吹山ではなさそうです。どこか所在のわからぬ伊吹の里 の名も無き裏山か、誤解にもとづく架空の山だった可能性があります。その伊吹の山 について最も詳しく書かれた史料(と言ってもたったの二行ですが)は、[枕草子]の次 の歌です。

・[枕草子](1001年?)
清少納言(966頃−1025年頃)著
「まことや××くだる」と言ひける人に (註2)
 思ひだに−掛からぬ山の−させも草−誰か伊吹の−里は告げしぞ (枕草子挿入 歌)

 教科書にあるこの歌の意味にとらわれることなく、じっくり眺めてみて下さい。いろい ろ見えてきます。
(下野国内の さしも草の伊吹山の資料解析)
(さし も草の伊吹山の考察)


4.さしも草
   さしも・ぐさ? さし・もぐさ?

和歌検索:「語句検索」のキーワード「さしもくさ、させもNOTあさせ」 和歌データベース

 そもそも、さしも草(させも草)をヨモギであるとする通説自体、すこぶるあやしいも のです。というよりさしも草はヨモギではないでしょう。
(さしも草の考 察)


5.しめじが原、さしも草の伊吹山=栃木市説のまとめ
 ここで[下野風土記]や[下野国誌]などが「標茅が原」と「さしも草の伊吹山」を下 野国府付近とした根拠を推理してまとめてみましょう。

1)[古今和歌六帖](976−982年?)
3586あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ−おのがおもひに−みをこがしつ つ
3588なほざりに−いぶきのやまの−さしもぐさ−さしも思はぬ−ことにやはあら ぬ
3589しもつけや−しめつのはらの−さしもぐさ−おのかおもひに−みをややくら む

 鎌倉時代或いはもっと古い時代の頃のこと、これらの歌の内、3589の『しめつのはら』 の歌の頭の『しもつけ』を下野国と誤解した(しめじが原=下野説の根拠はこの一 首の歌だけのようです)。また[古今和歌六帖]にあって「しめつの原同様さし も草が詠まれている上記3586,3588の「さしも草の伊吹の山」は「しめつの原」の近くに あったんだろうとかってに想像した(伊吹山=下野説の根拠はこれらの[古今和 歌六帖]の歌だけのようです)。そして万葉集にある「あその河原」「みかもの山」 の歌、および「室の八島」の場所から、「しめじが原(しめつの原)」や「伊吹(の)山」 の場所も下野国府付近ないし下野国府に至る古代の街道・東山道沿いにあったんだろうと 考えた。

2)江戸時代には、初期の頃から「しめじが原」とは「湿地(しめじ)が原」であるとする妄 説があり、それを信じた。それで「しめじが原」は、下野国府付近ないし下野国府に至る 東山道沿いにあった湿地帯だろうと考えた。
そして特に、栃木市の川原田町・合戦場辺りの湿地帯が目立った。それで「そこが下野国府 近くの景勝地だったから、朝廷からの使者を通じて都へそして各地へ名前が広まったんだろう」 と考えたんでしょう。
もちろん「しめじが原」なんていう名前の場所は存在しません。

3)「さしも草の伊吹山」の所在地については、上に書きましたように、[古今和歌六帖] の歌から「さしも草の伊吹山はしめじが原のすぐ近くに在ったんだろう」と考えて、「し めじが原」から最も近い山・栃木市吹上町辺りの何の変哲もない山に比定した。【地図】 を見て下さい。栃木市が「しめじが原」に立てた案内板から最も近い山は栃木市吹 上町辺りの山なんです。分かりやすい地図を示せず、すいません。)
(現地に来られて、「しめじが原」と「伊吹山」を確認して戴ければ、私の解析が正しい とご理解いただけると思います)


下野の−伊吹の山を−人問はば−しめじが原の−西と答ひよ
 下記[栃木繁昌記](1899年)にこの歌が紹介されていました。この歌は 、1800年代前期に存在した「下野の−いぶきの山を−尋ねなバ−むろのやしまの−に しにこそあれ」(伊吹山=栃木市の太平山説)の歌を、[下野国誌](1850年)以後 に作り替えたものでしょう。

つまり[下野風土記](1688年)や[下野国誌](1850年)などの言ってる「 しめじが原」や「さしも草の伊吹山」の場所は、誤解や付会に基づくもので、根拠もへっ たくれもないということです。

 近江と美濃の境なる伊吹山については、鎌倉時代以降「さしも草の伊吹山」として詠ま れた和歌が登場して来ますが、下野国の伊吹山については、江戸時代以降はいざ知らず、 江戸時代より前に詠まれた和歌は一首もないでしょう。

ところで、「しめじが原」や「さしも草の伊吹山」は、いつごろ栃木市付近にこじつけら れたんでしょう。  それについては [録事尊縁起] のところでちょっと触れておきました。

6.栃木市の伝承地
[栃木繁昌記] (1899年)より



 ここまで書いたら[奥の細道]の愛読者から、「しかし、那須町芦野には遊行柳(ゆぎ ょうやなぎ)があるではないか」という声が聞こえてきそうです。そこで芦野の柳が歌枕 でないことを説明しておきましょう。

第3節 [奥の細道]の歌枕あれこれ
 松尾芭蕉が[奥の細道]の旅で訪れた太平洋側の歌枕のうち、史料が豊富に有るにもか かわらず、その実体や所在の曖昧なものについて、これから歴史的に検証します。
→黒塚  →しのぶもぢずり   →末の松山 →平泉

1.遊行柳(ゆぎょうやなぎ)
   西行の歌の歌枕は 柳? 道の辺清水?
   柳などの植物は歌枕になれるの?

和歌検索:「語句検索」のキーワード「ゆきょう」 和歌データべース

  所在地:栃木県那須郡那須町 芦野

・[奥の細道](1689年旅)
松尾芭蕉 著
−遊行柳−
「又、 清水ながるゝの 柳 は蘆野の里にありて 田の畔(くろ)に残 るこの所の郡守 戸部某 (ぐんしゅこほうなにがし)の、この柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづく のほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立より侍(はべり)つれ。
  <田一枚植て立去る柳かな> (考)

(考察)[奥の細道]のこの段を読むと、芭蕉の時代、「清水ながるゝの柳」と言っただ けで、頭に「西行法師のこれこれの歌の」と付けなくても、西行法師の
  <道のべに−清水流るゝ−柳かげ−しばしとてこそ−立ちどまりつれ>
の歌に出てくる柳のことであると分かるほど、この歌の柳は有名だったようです。
[松島一見記]

と言うことは、これから触れますが、この歌が登場する[西行物語](鎌倉時代 )や謡曲(つまり「能」の脚本のことね)[遊行柳](151 4年初演?)の内容が世間に広く知られていたためということでしょうか?
 ところが、これら・[西行物語]や謡曲[遊行柳]には、この歌の柳は芦野に存在した のではないと書いてあります。ということは、この柳が芦野にあるという芦野の殿様の話 を芭蕉が疑っていた可能性があるということです(西行に傾倒していた芭蕉です から、[西行物語]くらいは読んでいたのでは?既に1630〜40年頃には、江戸の町 に本屋が開業してたようですから)。そうすると芭蕉は、西行が歌に詠んだ柳が あるからというので、喜んでこの柳を見にやって来たのではなく、芦野の殿様がこの柳を 芭蕉に「見せたい見せたい」としつこく言うので義理で見に来た可能性があります。とい うことは、上記[奥の細道]には喜んで柳を見にやって来たように書いてありますが、そ れは単に作文しただけなのかも知れません。

 [奥の細道]に登場する芦野の柳が上記西行の歌にある「清水流るゝの柳」でないこと は、史料を調べれば分かります。西行のこの歌は、[新古今集]編集に際して後鳥羽上皇 がかき集めさせた94首の西行の歌の中の一つで、「題しらず」とありますから、どこで 詠まれたか分からない歌でしょう 「清水流るゝの柳 」関連史料。 それが芦野の柳を詠んだ歌である、となるのは近世のようです 「芦野の柳」関連史料 。しかし過去の史料もなくて、近世になってからそんなことが分かるはずがありません。 ということで芦野の柳が「清水流るゝの柳」であるとは考えられません。

 ところで道興准后(みちおき(どうこう) じゅんこう(じゅごう))の [廻国雑記] (1487年下野旅)の喜連川と那須町稲沢との間(つまり芦野ではありません。もっと 南です)に「朽木の柳」と呼ばれる柳が登場します。この朽木の柳はその後、[廻国雑記 ]を参考にして観世信光(1450?−1516年)が創作したと考えられる 謡曲[遊行柳] (1514年初演?)に登場する「朽木の柳」のモデルとなったと考えられます。謡曲[ 遊行柳]には、その昔西行が<清水流るゝ−柳かげ>と詠んだという朽木の柳の故事が登 場しますが、[廻国雑記]に朽木の柳の由来は一切書かれておりませんので、これは観世 信光が創作したものでしょう。

 また謡曲[遊行柳]では、「朽木の柳」の在った場所は白河の関を越えて陸奥側に入っ たところとなっており、芦野などという下野国側ではありません。

ということで芦野の柳が西行が歌を詠んだ柳であるなどとは考えられません。謡曲[遊 行柳]が作られた以降に、芦野氏がこじつけたものではないでしょうか。ついでに [曾良旅日 記] に出てくる「兼載の松」(けんさいのまつ)やらもこじつけたりして。おそらく兼載の故 郷である会津若松市の「兼載松」にあやかって芦野にも「兼載の松」が作られたんでしょ う(庵跡など松以外の遺跡はちゃんと史実に基づいているようです)。 柳にしろ松にしろ、芦野の名所にしようと言う領主の意図がプンプン匂います。ところで 、兼載の松、兼載の庵跡は芦野にまだ残っているんでしょうか?江戸時代にはなかなかの 名所だったようです 「愛宕山重修碑 」

芦野の役所に問い合わせたら、「兼載松」は、なんと土地の名前・字(あざ)名として今 でも残っているそうです。それで、「遊行柳」と違ってこちらは史実なので、芦野の役所 には「芦野は猪苗代兼載ゆかりの地である」として、宣伝するようお願いしておきました。 ・・・・・その後の2013年に、猪苗代兼載ゆかりの愛宕山が整備され、兼載の俳碑 が建てられたようです。そうだ、会津若松ではない、猪苗代兼載ゆかりの地は芦 野だ。がんばれ!

まとめ
「遊行柳」についての結論を、私の代わりに[下野風土記]の著者が書いちゃってますの で、私の「まとめ」の代わりにそれを書きます。

[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳
「 道ノベノ 清水流ルヽ柳カゲ シバシトテコソ立トマリケル
此歌新古今夏ノ部ニ入、 清水ノ題 ニテ西行ノ歌也、 此所トハ見ヱズ 、其他何レノ集、名所ノ部ニモ 見ヱヌ ハ、疑ラクハ前ニ云エル 黒戸浜ノ所 ニ中原師光、禁中黒戸ノ前ノ白菊ノ歌ヲ載ル類ナルヘシ、又遊行柳ノ謡ニ作レル故ニ云ル ナルヘシ 、若(もし) ニ似セテ云ハヽ似タル歌有、新古今十六 雑ノ部ニ、菅原太政大臣、柳ヲ題シテ
 道ノ辺ノ 朽木ノ柳春クレバ アワレ昔ト偲バレゾスル」

補足付き現代語意訳
「 道ノベノ 清水流ルヽ柳カゲ シバシトテコソ立トマリケル
この歌は[新古今集]の「夏の部」に分類され、「清水」の題で西行の歌である。
しかし[新古今集]には、この歌が芦野で詠まれたものであるとは書いてない。
その他、どの歌集の「名所の部」にも、「この歌が芦野で詠まれたものである」とは書い てない。
この疑わしさは、前に述べた、[歌枕名寄せ]に下野国の歌枕として載っている「黒戸の 浜」の存在の疑わしさと同じである。

芦野の柳が、西行の上記の歌に関連付けられたのは、謡曲[遊行柳]の影響を受けたため だろう。
(これをもっと具体的に言えば、江戸時代になって、参勤交代(1635年制度運用開始) のために芦野藩の江戸屋敷が造られ、芦野藩士が江戸で能の[遊行柳]を見てから、『能 の[遊行柳]に登場する「朽ち木の柳」は芦野に在ったのである』とこじつけられたんだ ろう)

(ところで、謡曲[遊行柳]では、登場する西行の歌の柳は白河の関の奥州側に在ったと なっている)
更に、謡曲[遊行柳]に登場する「朽木の柳」にぴったり当てはまる歌は、上記の西行の 歌なんかでなく、菅原道真の次の歌である。
道ノ辺ノ 朽木ノ柳春クレバ アワレ昔ト偲バレゾスル」 以上

[下野風土記]は、自分で実地調査せず、他人の資料を参考にしている部分が多 いということで、当時の下野国の実体を知るには問題が有るらしく、学者からはほとんど 無視されていま す が、この誰かわからない[下野風土記]の著者はかなり頭の良い人です。[下野風土記] の何箇所にも彼の頭の良さが現れています。

 でも、こんなことを分かってるのは、素人の偏執狂である筆者(つまりこの私)だけで しょうね。[下野風土記]が世間に認められることを切に望みます。

(補足)

謡曲[遊行柳]は、遊行19世・尊皓(そんこく?そんこう?−1496)上人の逸話を もとにしたものという話が、[藤澤智寰(ちかん)覚書]という史料に書いてあったよう ですが。 (蛇足)

2.黒塚、しのぶもぢずり、末の松山
 なお[奥の細道]に登場する歌枕で、本来の歌枕でないのは遊行柳ばかりではありませ ん。そのことは参考書にも書いてありますが (註4) 、筆者が独自に[奥の細道]に登場する太平洋側の歌枕をざっと史料調査しても、 黒塚しのぶもぢずり 末の松山 など、誤解や付会に基づくものが見つかります。

 俳聖松尾芭蕉を慕って[奥の細道]を辿るのはけっこうですが、芭蕉も壺の碑(つぼの いしぶみ)の段で
『むかしよりよみ置ける歌枕おほく語伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石 は埋れて土にかくれ(「しのぶもぢ摺の石」のことを言ってるようですね)、 木は老いて若木にかはれば(「清水流るるの柳」のことを言ってるようですね) 、時移り代変じて、其の跡たしかならぬ事のみ
と言っているように、歌枕を訪ねてまわるなどとはゆめゆめお思いになりませぬよう。恐 らく太平洋側でまともな歌枕は日光(男体山)と松島くらいのものでしょう。これらはち ょっとごまかしがききませんから。


 閑話休題、本題に戻ります。

第4節 室の八島の歴史の概要
 室の八島がなぜ多くの和歌に詠まれたかといえば、室の八島が煙を介して恋の歌と結び ついたからではないかと考えられます。「室の八島の煙は恋の煙」これがなんとも魅惑的 で多くの歌人の心を引き付けたのではないでしょうか。
しかし、室の八島の景色を見ながら、あるいは実景を知っていて詠んだ歌というのはほと んどなさそうです。そして室の八島の実景を描写した歌は一首もなさそうです。「室の八 島の煙は恋の煙」というイメージが一人歩きして多くの歌人に詠まれたようです。歌枕と はそういうもののようです。

 この室の八島ですが、国語辞典や参考書などで調べると、
1)栃木県栃木市惣社町(そうじゃちょう)にある 大神神社 (おおみわじんじゃ)のことである。
2)その境内にある八つの小島のある池のことである。
3)大神神社のある栃木市惣社町辺りの土地のことである。
4)野中に清水のあるところである。
5)いや本来は釜、または竈(かまど)、あるいは大晦日(おおみそか)に行われる竈の 行事のことで室の八島は実在した場所ではない。
等々いろいろ出てきます。これらを細かく分類したら何種類の室の八島が出てくるものや ら。
 インターネットで室の八島を検索すると、ほとんどは松尾芭蕉が[奥の細道]の旅で訪 れた歌枕として登場し、室の八島を大神神社あるいはその境内にあるそれぞれに小祠を祭 った八つの小島のある池であるとしています。

 また室の八島の煙についても、
1)上記の池から立ち上る水蒸気を煙に見立てたものである。
2)木花咲(開)耶姫が無戸室(うつむろ)に入って身を焼いた際に、無戸室から立ち昇 る煙のことである。
3)野中の清水から立ち昇る水蒸気を煙に見立てたものである。
4)炊煙、つまり竈の煙である。
とまちまちです。



 しかし、本来の室の八島は一つのはずですから、これらのほとんどは誤りか、あるいは 時代を限定して、××時代の室の八島は○○であると言わなければ正しいとは言えません 。室の八島は、平安時代末期以来、様々に変貌を繰り返しながら今日に至っています。つ まり室の八島には歴史があります。その歴史を無視して室の八島とは何であると言っても 正解とは言えません。

 では、その室の八島の歴史を紹介しましょう。室の八島の歴史をわかりやすく次の観光 宣伝文にまとめてありますので、まずはそれから。



絶えず立つ恋の煙 歌枕室の八島へのいざない

 あなたはご存知のつもりかもしれませんが、実は何一つご存知ない歌枕室の八島、その 歴史の旅へ、これからあなたをご案内致します。

 室の八島(むろのやしま)とは、下野国府(いまの栃木県栃木市国府地区(こうちく) 一帯)付近にあったと考えられる関東有数の、そして下野国随一の歌枕で、平安時代以来 「室の八島の煙」のように煙と結びつけて数多くの歌人に詠まれた名所です。そして江戸 時代には三代将軍徳川家光が訪れ、松尾芭蕉が[奥の細道]の旅の最初に訪れています。

●平安室の八島−絶えず立つ恋の煙
 室の八島が、下野国府付近のどこにあり、どんなところであったかは、詳しく記した史 料が無いのでよくわかりませんが、平安時代の史料に、(これは室の八島が本来の景観を 失った後の姿と考えられますが、)「野中に清水のある」ところとの記述があり、これは まさに近年まで各所に湧水の見られた「巴波川低地」(うずまがわていち)の特徴その ものです。

 そこで室の八島とは、広義には、栃木県南部を流れる利根川水系思川(おもいがわ)の 水が一部伏流して、栃木市の川原田町辺り、あるいは大宮地区で地表に湧出している湧き 水を水源として、栃木市街を南北に貫流する巴波川(うずまがわ )の本流および支流一 帯に、かつてあったと思われる広範囲にわたる湿地帯か?狭義には、そのどこかにあった、 名勝松島や象潟(きさかた)を内陸部に再現したような景勝地ではないかと思われます。
そして「蔵の街」でおなじみの栃木市街を含む一帯は、周囲の地区、すなわち西部の皆川 地区、吹上地区、東部の国府地区などより歴史的に見て開発されるのがかなり遅れました が、それはそこが室の八島の湿地帯で、開発に適さない土地であったためではないかと 推測されます。またそこを流れる現在の巴波川は、室の八島が川に姿を変えて、今に残った ものではないかと思われます。

 この平安室の八島は、1100年ころには、はるばる京の都から見物に来ようと思うほ どの場所でした。さぞ素晴らしい景勝地であったろうと想像されます。そこがどんな風景 であったか、現地を訪れて、「室の八島」という名称、あるいは「下野国の野中に島あり 」などの史料の記述をヒントに、あなたなりに想像されてはいかがでしょうか。

 また室の八島は、由来がはっきりしませんが、「煙立つ室の八島」「絶えず立つ室の八 島の煙」のように煙と結びつけて和歌に詠まれ、初期の歌によれば、室の八島の煙は「恋 の煙」−恋の思いが形となって現れたもの、恋の思いを伝える狼煙(のろし)−でした。 当時の都人は、まだ見ぬ室の八島に想いを馳せながら恋の歌を詠んだのです。あなたも一 首いかがでしょうか、恋の歌を。

 <下野や室の八島に立つ煙(けぶり)思ひありとも今日(けふ)こそは知れ>大江朝綱
 <いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは>藤原実方
 <かくばかり思ひ焦がれて年経(ふ)やと室の八島の煙にも問へ>狭衣物語
 <東路の室の八嶋に思ひ立ち今宵ぞ越ゆる逢坂の関>隆源 (1100年ころの和歌)  


●中世室の八島−さすらいの始まり
 その後室の八島は景観を失ったのか、平安時代も終わりの頃になりますと、室の八島の 中心がその周縁部にあった下野国府の集落の方に移動して、下野国府の集落一帯が室の八 島と呼ばれるようになります。[平治物語]によれば、平治の乱(1160年)に際して 、藤原成憲(成範、しげのり)や源師仲(もろなか)が室の八島に流されますが、この室 の八島とは下野国府の集落のことです。またその後、鎌倉時代には「親鸞(しんらん)が 室の八島に草庵を作って百日間逗留した」という伝説が生まれました。

 <夏くれば室の八島の里人もなほ蚊遣火(かやりび)や思ひ立つらむ>小侍従
煙が室の八島の縁語であるにもかかわらず、夏が来れば室の八島の里人も蚊遣火 の煙を思い立つのだろう。
 <待てしばし煙の下にながらへて室の八島も人は住みけり>藤原隆祐

 その後、1300年代までに下野国の政庁が現小山市に移転し、それまで下野惣社周辺 にその中心のあった下野国府の集落は次第に寂れていきます。室町時代の1509年に、 連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)が室の八島を訪れていますが、当時の 室の八島は、「誠に打見るより淋しく憐れな」風景でした。また江戸時代初期に近くを通 りかかった公家・歌人の烏丸光広(からすまる みつひろ)にとって、室の八島は「胸の 煙も空せばき心地して、涙は水よりも流れぬ」ほどの思いを抱かせる場所でした。

 <跡もなき室の八島の夕煙なびくと見しや迷ひなるらむ>法印守遍
 <あづま路の室のやしまの秋のいろはそれとも分かぬ夕烟(けぶり)哉>柴屋軒宗長


●近世室の八島〜現在の室の八島−宗教という迷路へ
 いつ頃のことでしょうか、前記下野惣社が室の八島の地の鎮守・室の八島大明神に 変わった後と思われますが、その神社の前、すなわち中世室の八島の地に本来の室の八島の 景色を想像して、八つの小島のある大きな池が作られます。そしてその池は、いつしか本来の 室の八島であると誤解されるようになります。

 ところがそこに或る神道組織が関与してきて、「室の八島とは池ではない、その池のあ る神社のことである」と、とんでもないことを言い出します。1689年、松尾芭蕉が[ 奥の細道]の旅で訪れる最初の名所として室の八島を訪れますが、芭蕉が同行の弟子・ 曾良に案内された歌枕の室の八島とは、室の八島大明神という神社でした。それは、芭蕉 がそれまで聞いていた室の八島のイメージと全く異なるものでした。そのため芭蕉は疑い、 [奥の細道]では室の八島の印象を一言も述べておりません。

 さて芭蕉が聞いていた室の八島のイメージとは、平安室の八島か、それとも中世室の八島か? いずれにせよ、今では陽炎(かげろう)が立つような『誠に打見るより淋しく憐れな』 風景の田園地帯に変わってしまったと聞いていたので、芭蕉はそれを思って 『涙は水よりも流れぬ』ほどの思いに浸りたかったことと思われます。ちょっと時代が ずれてしまいましたが、芭蕉の訪れたかった場所を探し出し、もし芭蕉がそこに来ていたら、 そこで彼はどんなことを考えたか想像してはいかがでしょう。

 <糸遊に結びつきたる煙かな>松尾芭蕉   (糸遊=陽炎 かげろう)

 そうして現代においては、かつて下野惣社であった現在の大神神社(おおみわじんじゃ )、および/またはその境内にある、それぞれに小祠を祭った八つの小島のある小さな池 、これらが歌枕室の八島であると広く信じられております。というより松尾芭蕉の「奥の細道」 ゆかりの場所となっております。

 さて、さまよえる歌枕室の八島は、この後どこへ向かうのでしょう。平安時代の故郷に 戻ることができるでしょうか。

                      2005年11月21日
                   文責 室の八島を名所にする会


(註)平安室の八島、中世室の八島、近世室の八島などの名称は、当会が勝手に 命名したもので、おおやけに認められた呼称ではありません。



地図による本来の室の八島の所在地説明はこちらにあります。→ 地図による説明


 以上で室の八島の歴史の概要は理解していただけたと思います。次は、各時代の室の八 島の説明に移りますので、下のボタンで時代をお選びください。





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