【目次】 トップページ 室の八島の歴史の概
要 平安室の八島 中世室の八島 近世室の八島 近代/現代室の八
島 【索引】 メール

第1章 室の八島の歴史の概要


第3節 [奥の細道]の歌枕あれこれの備考


1.遊行柳
芦野 【地図】
「遊行柳」 【地図】
 この地図の+部の記念碑のあるところが遊行柳、その左の神社が湯泉神社(ゆぜんじん じゃ、上の宮)です。遊行柳は、湯泉神社の参道に有ります。
その後ろの小高い丘が鏡山です。奥州街道は、国道294号線ではなく、奈良川の東側の 芦野の町の中心を通る道と思われます。そして奥州街道は、芦野の町南部の三光寺辺りか ら西に曲がっていたようです(県道72号線?)。

−遊行柳−
 多くの[奥の細道]解説書が、[奥の細道]のこの段を「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の 段」と言い、また多くの資料が、この段に登場する芦野の柳を「遊行柳」と紹介してます ので、筆者もこの段のタイトルを「遊行柳」としてますが、この段の文を読めばわかるよ うに、芭蕉はこの柳を、「遊行柳」ではなく「清水ながるゝの柳」と呼んでるんです。

 「遊行柳」という呼び方は、芦野の柳を謡曲「遊行柳」に関連付けた呼び方であり、「 清水ながるゝの柳」という呼び方は、芦野の柳を西行の和歌に関連付けた呼び方です。そ して芭蕉が芦野のこの柳を「遊行柳」でなく「清水ながるゝの柳」と呼んだのには、それ なりに理由があるんです。それは[奥の細道]「遊行柳の段」を読めばわかります。

 参考書が芦野のこの柳を「遊行柳」と呼ぶのは、それが歴史的に正しいのです。しかし [奥の細道]のこの段を「遊行柳の段」と呼ぶのは、誤りと言えるでしょう。なぜなら [奥の細道]のこの段は謡曲「遊行柳」とは一切関係ないんですから。芭蕉が芦野のこの 柳を「清水ながるゝの柳」と呼んでますので、この段を「清水ながるゝの柳の段」と呼ぶ べきでしょう。でも「清水ながるゝの柳の段」という名前はちょっと言い難いですね。芦 野の柳が「西行柳」とでも名付けられてれば言い易かったんですが。でも残念で す。芦野の柳が「西行柳」と呼ばれなかった理由・経緯はこのWSを読み進めればわかる でしょう。二箇所に書いてあります。

清水ながるゝの柳
「清水ながるゝの柳」とは、次の『西行の「清水流るゝ」の和歌に登場する柳』という意 味のようです。

[新古今集](1205年に一応完成)巻三・夏歌 262番 題しらず
  西行(1118−1190年、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶 ・歌人)
 道のべに−清水流るゝ−柳かげ−しばしとてこそ−立ちどまりつれ
  (参照 [新古今集]

 この[奥の細道]遊行柳の段では、この歌は西行が二度の奥州歴訪(1144年頃と 1186年の二回)のどちらかに際して、栃木県那須町芦野で詠んだものであるとしてい ます。

 しかし
(参考)義経街道
 古代の街道・東山道の、福島県白河市から、かつて白河の関が在った場所とされる 「旗宿」を通り、栃木県境に在る「追分の明神」 【地図】 を経て栃木県那須町 伊王野 に至る道を、土地の人達は、西行(1118−1190年)と同時代の源 義経 (1159−1189年)が、「1180年に兄頼朝の平家追討の挙兵に呼応して奥州平泉 から鎌倉へ向った道である」として、 「義経街道」 と呼んでいます。
 ということは、西行時代、東山道は芦野を経由していなかった可能性が有り、西行は芦 野を通らなかったかもしれません。

尚、芦野を通る街道「奥大道」(おくたいどう)の史料上の初見は[吾妻鏡]の1256年 の条(ーさくら市氏家ーさくら市喜連川地区ー矢板市川崎反町ー大田原市福原ー 大田原市黒羽ー那須町芦野ー)です。そして1189年に源頼朝が奥州征伐で通った路は 「中路」(なかつみち、なかのみち)ですが、芦野を通っているか否かは分かりません。

 西行時代の東山道のルートの検討はさておき、『西行は芦野を通らなかったかもしれま せん。』について、史料を参考にしながらこれから検証します。

田の畔に残る
『田の畔に残る』の表現だけではよく分からないんですが、芭蕉が『清水ながるゝの柳』 と呼んでるんですから、芭蕉らが訪れた当時、当然、柳の脇には「道の辺の清水」が流れ てたんでしょうね。でも、柳と田んぼとの間に川が在ったら、清水ながるゝの柳が『田の 畔に残る』とは言わないと思うんですが。

 なんか、芭蕉が西行の歌「道のべに−清水ながるゝ−」の「道の辺の清水は既に無くな っていた」と、言ってないことを考えると、芭蕉は、「この柳は西行の歌の『 清水なが るゝの 柳』ではない」と、言ってるような気がしてならないんですが。

 なお、インターネットに掲載されている「芦野の遊行柳」の写真をいろいろみても、 [遊行柳]の脇には、『道のべに清水流るゝ』と表現されるような川は無さそうです。 そしてそのような川のない理由を説明した案内板のようなものは、現地には無いようです。 と言うことはつまり、西行の歌に有る「道のべの清水」や、謡曲[遊行柳]に登場する川 は無視されているということです。そんな馬鹿な!

また、道路の両脇に(遊行柳と普通の柳(遊行柳が枯れた時の予備)との)柳の木が一本 ずつあるだけで、柳並木はありません。当然ですね。柳並木なんぞを作ったら、どの木が 「遊行柳」の木なのかわからなくなっちゃいますからね。
と言うより、芦野の人達は、この柳は西行の歌の「清水ながるゝの 柳」ではなく、謡曲 [遊行柳]に登場する「朽ち木の柳」の子孫であると考えてますから、柳並木がないんで す。
(朽ち木でも蘖(ひこばえ)があれば、命は繋がるんです)

この所の郡守戸部某
 [奥の細道]解説書によれば、『この所の郡守戸部某』とは、当時のこの所(芦野)の 領主・ 芦野資俊 のことだそうです。
 [奥の細道]には『この所の郡守戸部某の「この柳みせばや」など、折ゝにの給ひ聞え 給ふ』とあるところから、「芦野には、西行が<道のべに−清水流るゝ−柳かげ>と詠ん だ柳がありますので、是非遊びに来て下さい。ご案内します」と芭蕉に度々宣伝していた ことがわかります。
 どうも芦野の領主として芦野の知名度をあげたかったので、江戸でトップセールスして いたようです。敬服致します。[奥の細道]には出てきませんが、 曾良の旅日記 に出てくる「兼載の松」なんかも宣伝していたと思います。

田一枚植て立去る柳かな考
 『今日(西行がその柳陰に立ち止まり<道のべに−清水流るゝ−柳かげ−しば しとてこそ−立ちどまりつれ>と詠んだ)この柳のかげにこそ立より侍りつれ。 』
 そこで芭蕉の独り言
「この柳は、かつて西行がその木陰に立ち止まり、<−清水ながるゝ柳かげ−>と詠ん だと伝えられている木なんだなあ!」
芭蕉も同じ柳の陰に立ち、辺りを見回すと、農夫たちが並んで田植えをしている。
「ところで西行がここに来たのも夏のようだ。彼も農夫たちが田植えをしているのを見た んだろうか?歌によれば、彼は『ちょっと涼んでいこう』とここに佇んでいたようだが、 ついつい長居をしてしまったようだ。それは田を一枚植えるくらいの時間だったろうか? その間彼はどんなことを考えていたんだろう?・・・・とにかく西行は、この木陰にどの くらいの時間か立ち止まってから立ち去ったようだ。」
そこで一句
<田一枚植(えるくらいの時間だったろうか?西行がこの木陰に立ち止まり、 そし)て立去る柳かな>

 これを西行の和歌中の言葉と、芭蕉の俳句中の言葉とを対比して説明すると、 次のようになります。
1)西行:『しばしとてこそ立ち止まりつれ』→芭蕉:西行は当初「しばし(ちょっとの 間)」のつもりだったが、涼しくて気持ち良かったので、ついつい長居してしまったよう だ。それは『田一枚植える』くらいの時間だったろうか?『田一枚植える』とは、西行が 柳陰に立ち止まっていた時間を推測したものと考えられます。
2)西行:『立ち止ま』る→芭蕉:西行は「立ち止まった」後、当然のことながら『立ち去 』ったのである。


 立ち去るのは誰か?
『今日この柳のかげにこそ立より侍つれ』、芭蕉は「かつて西行もこの柳のかげにやって 来たんだなあ」と感激している。そして、誰でも同じことをすると思いますが、芭蕉も同 じ柳陰に佇んでいたであろう西行のことをあれこれ想像した。そしてそれを素直に俳句に した。
「この柳は、かつて西行が、田一枚植えるくらいの時間だったろうか、この木陰に佇み、 そして立ち去った柳なのだなあ」、これを無理こやりこ17文字に圧縮したのが <田一枚植て立去る柳かな>ではないでしょうか?このように立ち去るのを西行とすると、 前の文と俳句との繋がりがすっきりするでしょう。これが正しい解釈であるなどとは言い ませんが。「立ち去るのは誰か?」についていろんな説 (註1) があるようですが、ここで押さえておかなければならない大切なことがあります。
それは<田一枚植て立去る柳かな>の句は 『今日この柳のかげにこそ立より侍つれ』 の文を受けてそれに繋がるように詠まれたものでものである。則ち  「遊行柳の段は、俳句を含めてまとまった一つの文である」ということです (註2)
<田一枚−>の俳句を上のように解釈すると、文章部分が和歌における詞書(ことばがき) のように思えてきます。 また この俳句は この前文が無いと解釈困難な俳句と思われます。 おそらく この俳句は 「奥の細道」を書いている段階で詠まれたものと思われます。 曽良の[俳諧書留]にも載っていないんです。

「清水流るゝの柳」関連史料
(1)[新古今集](1205年に一応完成)巻三・ 夏歌
  262番 題しらず
  西行(1118−1190年)
 道のべに−清水流るゝ−柳かげ−しばしとてこそ−立ちどまりつれ

(考察)これが「清水流るゝの柳」の歌が登場する最初の史料のようです。「題しらず」 とありますから、詞書が無いのでいつどこで詠まれたか分からなかったんでしょう。

この歌が[新古今集]の「巻三・夏歌」に分類されたのは、歌に詞書が添えられていな かったので、知っていて夏に分類したのではなく、「『(この柳陰に)しばし休んでいこ う』と思って立ちどまったのは、おそらく涼むためだろう」と考えたからでしょう。もし これが「夏」以外の季節・例えば「秋」だったりしたら、知らなければ秋に分類できない ので、「おそらく詞書に「秋」と書いて有ったんだろう」、ということが分かるんですが。

 芭蕉の<田一枚・・・柳かな>の俳句や、芭蕉がこの歌に登場する柳を「清水流るゝの 柳」と言っている様に、この歌は柳だけが注目されていますが、「道の辺清水」は無視し ていいんだろうか?西行が柳陰に立ち止まったのは、柳陰が涼しいこともあったでしょう けど、「道の辺清水」が涼しげだったことも柳陰に立ち止まった理由の一つではないでし ょうか?
柳と言ったら、「地中の水分が多くても根腐れしにくい」という植物としての性質(参考: 銀座の柳 )から川端に植えるものと昔から決まっていたんです。「かはそひやなき」のキーワード で和歌を検索すると、1100年頃以降、 「川沿い柳 」の和歌 がいくらでもヒットします。つまりこの歌は柳だけに意味が有るんではなく、「川沿い柳 」の柳並木と「道の辺清水」との両方が一体となって意味をなしているんです。

西行のこの歌と「道の辺清水」との関係をお忘れなく。

(2)[西行物語](作者未詳、鎌倉時代、[西行一 生涯草紙][西行四季物語][西行一代記][西行記]とも称され,絵巻の形でも伝わる)

鳥羽殿 障子の絵の歌の事
「大治二年十月十日のころ、・・・・・・
清水流るる柳の陰に、旅人の憩むさまをかきたる所を
(別の[西行物語]では「清水流れたる柳の陰に、水むすぶ女房をかかれたるをみて」)
 道の辺に−清水流るゝ−柳かげ−しばしとてこそ−立ちどまりつれ」

(考察)これによれば、「清水流るゝの柳」の歌は、大治(だいじ)二年(1127年。 えっ西行(1118−1190年)が9歳の時?)、西行が障子絵(襖絵?衝立の絵?) を見ながら詠んだことになっています。

この話はあてになりませんが、「清水流るゝの柳」の歌がどこで詠まれたか分からない歌 だったから、障子絵を見ながら詠んだものとこじつけることができたんでしょう。

(3)[白河記行](1468年旅)
 宗祇(そうぎ、1421−1502年、室町時代の連歌師、姓は飯尾(いのお/ いいお )というが定かではない)著
*旅の経路
日光・・・鹽谷−那須野の原−大俵−中川−K川−横岡−白川の關(二所明神)−横岡へ 戻る

(考察)謡曲[遊行柳]が生まれる50年前の紀行です。宗祇は「遊行柳」の北東1km の横岡に宿泊しています(里の長をたのみてやどりとす)が、西行が歌を詠んだという「 清水流るゝの柳」、あるいは次に紹介する[廻国雑記](1487年下野旅)に登場する 「朽木の柳」に関する記述はありません。おそらく当時芦野に「清水流るゝの柳」も「朽 木の柳」も存在しなかったでしょう。
 もし後に観世信光(1450?−1516年)によって謡曲に取り上げられるほど名の 知られた歌枕の柳が既に芦野に存在していたら、連歌師である宗祇がそこに立ち寄らない ことは考えられません。反対に、坂東と陸奥の境の小さな町に在って、連歌師でさえ知ら ないような歌枕の柳を、おそらく奈良か京都辺りに住んでいたであろう謡曲作家が知って いるはずがないでしょう。

(4)[廻国雑記](1487年下野旅)
 道興准后 (みちおきorどうこう じゅんこうorじゅごう、1430?−1501年?)著
「宇都宮を立ちて行く道に、 塩屋 といへる所はべり。暮れ行くままに里々の烟(けぶり)立つを見て、
 旅ごろも−うらぶれて行く−塩の屋に−烟(けぶり=煙)かなしき−夕がすみかな
狐川(現 喜連川 )といへる里に行暮れてよめる、
 里人の−ともす火かげも−くるる夜に−よそめあやしき−狐川かな
朽ち木の柳といへる所に到る。古への柳は朽ちはてて、その跡にうゑつぎたるさ へ、また苔に埋れて朽ちにければ、
 みちのくの−朽ち木の柳−糸たえて−苔の衣に−みどりをぞかる (註3)
是(=朽ち木の柳)より、いな沢の里(那須町稲沢)、黒川、よささ川(余笹川)などう ち過ぎて、白河二所の関(境の明神)に到りければ、いく本ともなく山桜吹きみちて、心 も言葉も及び侍らず。」

(考察)
1)次に出てくる謡曲[遊行柳](1514年初演?)の「朽木の柳」は、制作年代の整 合性からみて、この[廻国雑記](1487年下野旅)の「朽木の柳」をモデルにしたも のと思われます。
2)また謡曲[遊行柳]の遊行上人は、上の道興准后の説明に書きました類似性から、こ の著者・道興准后本人をモデルにしたものと思われます。

 しかし、ここには謡曲「遊行柳」にあるような「朽木の柳」にまつわる故事は一切書か れておりません。
 なお、上の文によれば道興准后の辿ったルートは 喜連川−朽木の柳−那須町稲沢−黒 川・余笹川−芦野−境の明神 となり、朽木の柳は芦野になかったことになります。

喜連川と那須町稲沢との間の距離が有りすぎて、「朽木の柳」がどこに在ったの かわかりませんね。前の[白河記行](1468年旅)に名前の出てくる大田原辺りに在 ったんでしょうか?

(5)謡曲[遊行柳](1514年初演?)
 観世信光(1450?−1516年)作
(あらすじ)
遊行上人上総国から陸奥へ向かい、白河の関を越えて (註4) 新道を行こうとすると、一人の老翁が現れて、先代の遊行上人が通ったという川沿いの古道 へと誘い、路傍の柳を、あれが「朽木の柳」と言う銘木だと教える。そこで上人がその由来 を訊ねると、昔西行法師がここで、<道のべに清水流るゝ>云々の歌を詠んだ木であると語 り、その後で上人から 十念 を授かったが、まもなく朽木の辺りに消え失せた。
その夜上人が念仏を唱えてから仮寝をしていると、朽木の柳の精が白髪の老人姿で現れ、云 々。

(考察)ここに登場する「朽木の柳」が、昔ここで西行が<−清水流るゝ−柳かげ−>と 詠んだ木であるなら、大田原市佐良土(旧湯津上村内)にある光丸山法輪寺の 「西行桜」 ではありませんが、「西行柳」あるいは芭蕉が[奥の細道]で言ってるように「清水流る ゝの柳」とでも命名しておけばよかったものを、観世信光は[廻国雑記]の「みちのべの 朽木の柳」をモデルにしたものですから、西行の歌と全く関係の無い「朽木の柳」という 名前をつけてしまいました (註5)。 この名前は、遊行上人が朽木の柳の精に出会う事件の後につけられるべき名前です。

また、上記の『昔西行法師がここで、<道のべに清水流るゝ>云々の歌を詠んだ木である 』は、「川沿い柳」の柳並木の中の何の特徴もない、ただの一本の柳の木の話です。です から『昔西行法師がここで、<道のべに清水流るゝ>云々の歌を詠んだ木である』なんて ことは、西行本人か、当の柳の木(の精)でもなければ分かる訳がないんです。


以上、前の(4)[廻国雑記]と、この(5)謡曲[遊行柳]との解析から、謡曲[遊行 柳]の話は、伝説などに基づくものではなく、観世信光が作った全くの空想話であるって ことです。

 観世信光が謡曲[遊行柳]に西行の「清水流るゝ−柳かげ」の歌を取り上げたのは、 それが[西行物語]を介して世間に知られていた歌だったからではないでしょうか?

(6)[歌枕秋の寝覚](ーあきのねざめ)
    江戸時代の歌枕辞典
 有賀長伯(ありが(あるが) ちょうはく、1662−1737)著

(考察)この歌枕辞典の中に「草木」などという分類はありません。「清水流るゝの柳」 とは、西行の<道辺に−清水流るゝ−>の一首の歌のみに登場する柳、の意味で、場所で はありませんし、固有名詞でもありません。そんなものが歌枕とされるのかどうか?[歌 枕秋の寝覚]の中にこの柳は見つかりませんでした。おそらく載ってないでしょう。

実は[廻国雑記]に出てくる「朽ち木の柳」や、大田原市の光丸山法輪寺の「西行桜」な どは、「清水流るゝの柳」と同じ条件で歌枕になっている例だと思われるんですが、これ らはまともな歌枕ではなく、こじつけられた匂いがプンプンします。
([歌枕秋の寝覚]は、「武隈の松」の「武隈」も筆者には探せなかった非常に 使いにくい辞典です。)

 また1303年頃編集された[歌枕名寄](うたまくらなよせ、各地の歌枕を詠んだ和 歌を収録した歌集)にも西行のこの歌は載ってませんでした。{清水流るゝの柳}は、[ 奥の細道]愛読者の間では有名な歌枕ということになっているようですが、和歌の世界では 歌枕扱いされていないようです。少なくとも江戸時代前期までは。


「芦野の柳」関連史料
(?)[蒲生氏郷卿紀行](がもううじさと−、15 92年旅)
 蒲生氏郷(1556−1595年、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将)著(? )
「天つ正しき二十の年(天正20年、1592年)・・・白河の関を過ぎ行くほどに、下 野にいたりぬ。いと清く流るる川のべに、柳ありけるを、いかにと尋ね侍るに、是なん遊 行上人に道しるべせし柳よというをききて、げにや[新古今]に、<道のべに−清水流る る−柳かげ−>と侍りしを、おもひいでて、
 いまもまた−流れはおなじ−柳かげ−行まよひなば−道しるべせよ」
(出典)[群書類従]18 日記部・紀行部

(考察)この話ちょっと出来過ぎ。まるで下記[山家集(さんかしゅう)]にある、西行 が陸奥で藤原実方の墓に出会う話とそっくりです。なんか胡散臭い。
 この[蒲生氏郷卿紀行]は、蒲生氏郷が奥州会津から白河の関を越えて、下野国の「遊 行柳」→那須野が原→上野国の佐野の舟橋・・・など数箇所の歌枕に寄って歌を詠み、京 に着くまでを記した非常に短い文章です。
 ところで、実際の紀行なら必ずと言ってよいほど他の史料に書かれてない事実が書かれ ており、それが非常に参考になるんです。しかし、この[蒲生氏郷卿紀行]にはそれが一 切ありません。 その他の理由
[蒲生氏郷卿紀行]は、とても蒲生氏郷本人の紀行と思えるようなしろも のではありません。後世誰か馬の骨が蒲生氏郷の名を借りて戯れに書いたものでしょう。

・[山家集]:西行(1118−1190年)の歌集
みちの国にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひ ければ、中将の御墓と申すはこれがことなりと申しければ、
 ・・・・・・
 朽ちもせぬ−その名ばかりを−とゞめをきて−枯野のすすき−形見にぞ見る

(1)[松島紀行(松島 一見 記)](1661年旅)
 西山宗因(1605−82年、江戸時代前期の俳人・連歌師)著
 「下野国芦野といふ所に、西行法師のよめる清水流るゝ柳のもとにて
 <時雨にもしばしとてこそ柳陰>」

(考察)『西行法師のよめる清水流るゝ柳』と言っただけで、「これこれの歌の」という 説明がありません。それでも西行法師の
  <道のべに−清水流るゝ−柳かげ−しばしとてこそ−立ちどまりつれ>
の歌に出てくる柳のことであると分かるほど、この歌の柳は有名だったようです。
このことは、本文で考察した芭蕉の「清水流るゝの柳」の言葉の考察と同じです。

これが芦野の柳に関する最も古い史料でしょうか?栃木県立図書館に依頼してざ っと調べていただきましたが(また地元の那須町役場にも聞いてみましたが)、これより 古い史料はなさそうです。もしもっと古い史料が出てきても、謡曲[遊行柳](1514 年初演?)より古い史料は出てこないでしょう。なお、この1661年時点で、芦野の柳 が謡曲「遊行柳」にではなく、直接西行に関連付けられていたんですね。 それとも西山宗因が俳人・連歌師だったから、彼が謡曲より和歌に関連付けて「 清水流るゝ柳」と言ってるだけなんでしょうか?

 芦野の柳に関する史料の最も古いものが芦野資俊(1637−1692年、1646年 から芦野家当主)の時代のもの、と言うことは、芦野の柳が謡曲「遊行柳」に登場する「 朽木の柳」、あるいは西行の和歌に登場する「清水ながるゝの柳」にこじつけられるのは 、芦野資俊かその前の殿様(蘆野資泰、1611−1646年芦野家当主)の時代だった 可能性があります。

 別の解析をすれば、こじつけられたのは、「能の「遊行柳」が江戸の町で公演されるよ うになる江戸時代になってからのことでしょう。」そして「芦野藩の 江戸屋敷 が作られた以降のことでしょう」。江戸時代の前までは、芦野の人間は殿様も含めて誰も 「遊行柳」などという謡曲の中味を知らなかったでしょう。

 そしてこじつけた目的は、名所をこじつけることによって芦野の知名度をあげること、 あるいはより実質的に観光収益をあげることだったでしょう。

 おそらく「遊行柳」「清水ながるゝの柳」を芦野にこじつけた連中は、ほとんど罪悪感 も無くこじつけたんだと思います。[廻国雑記]の「朽ち木の柳」が菅原道真の歌の「朽 ち木の柳」にこじつけられていたのも、軽い気持ちからだと思います。

ところで最近の話ですが、2000ゼロゼロゼロ年頃テレビニュースで言ってましたが、 東京都指定の史跡の八割が根拠が無い、つまりデタラメ・こじつけだそうです。

 栃木市にも、湊町の白旗山勝泉院の(或いは勝泉院の脇に作られたものと思われる白旗 八幡宮の)「義経旗掛け桜」とか、片柳町の柴塚山(しばつかさん)の「弁慶太刀割りの 石」とか( [栃木繁昌記] 参照)、いかがわしい史跡があります。筆者が知らないだけで、栃木市にはもっともっと 沢山あるんでしょうね。

・[徒然草(つれづれぐさ)]
兼好法師(けんこうほうし)著
第73段
「世に伝ふる事、まことはあいなきにや、多くはみな虚言(そらごと)なり。
あるにも過ぎて人はものを言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたき ままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがて定まりぬ。(以下省略)」
世間で人から人に語って伝える事は、本当の話は面白くないのか、多くはみな嘘 である。
人は実際の有様よりもおおげさに言おうとするものなのに、まして、年月が過ぎ、場所も 隔たってしまうと、言いたい放題に話を作って、筆で書き留めてしまえば、その作り話が そのまま定着してしまう。(以下省略)


 かつては、こういうこじつけは、
1.大昔のことなので今さら真実は分かりようもないから、少々嘘をついてもばれないだろう 。
2.歌枕の場所がここだというのは嘘だが、大体この辺りであるのは間違いないので、当た らずと言えども遠からずだから良いだろう。(ところが往々にして「大体この辺りである 」が大間違いなのだが。)
3.歌枕の正確な場所が分からないからといって、「分かりません」のままにしておくより 、少々間違っていても「ここだ」と決め付ける方が意義があるだろう。

ということで、何のうしろめたさもなく行われていたんだと思います。

 芦野の柳についても、謡曲[遊行柳]が白河の関辺り(つまりこの辺り)で起こった出 来事を取り上げているのは間違いないので、この辺りに謡曲[遊行柳]の記念碑を建てよ う。いや記念碑より柳の木を記念碑代わりにして、この柳が謡曲[遊行柳]に登場する朽 ち木の柳ゆかりの柳であるとしたほうがおもしろいだろう。ということで、芦野の殿様は 記念碑を建てるようなつもりで、芦野の柳を謡曲[遊行柳]ゆかりの柳であるとこじつけ たんでしょう (註6)

 ですから、うしろめたさはこれっぽっちもないんです。芦野の柳が西行が<−清水なが るゝ−柳かげ−>と詠んだ柳であると、芦野の殿様が盛んに芭蕉に宣伝していたようです が、うしろめたさは微塵も感じられません。

(2)[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳

遊行柳 : 朽木の柳とも云う(「西行柳」「清水流るゝの柳 」とは言わないんです)同所(=芦野)。町よりは奥州の方なり。
遊行柳の謡はこの所を云えるとなり。昔遊行上人この所を通りたまい、ある時この柳の精 、老人となり、道のしるべして遊行の御札を請け、成仏したるとなり。その後近代の遊行 、陸奥へ下向の時、この所を通りたまいてこの柳に立ち寄る。
 年を経て−茂りそいつる(茂りぞいづる?)−道のべの−朽木の柳− 道しるべせよ」

(考察)芭蕉は、この柳を西行の歌に関連付けて「清水流るゝの柳」と言ってますが、 曾良が「遊行柳」と言ってます ように、謡曲[遊行柳]に関連付けて、「遊行柳」または「朽ち木の柳」と言うのが正し いようです。
現在の「遊行柳」の場所は、上記の『町よりは奥州の方なり』の記述と矛盾しな いようですね。
ところで、文末の歌ですが、この歌が第何代の遊行上人が詠んだものということになって いるのか、調べても分かりませんでした( [竹葉集] 参照)。この話と歌は、そっくり芦野の殿様辺りがでっち上げたものじゃないでしょうね 。その可能性はあります。「その後近代の遊行」から最後の歌までの文は、[下野風土記 ]の著者が知っている事実を述べているのではないのです。[下野風土記](1688年 )編集当時の言い伝えあるいは案内板に書かれた内容を書いているんです。

道の辺清水 : 同所なり。
昔西行法師この所を通りたまいし時、折りしも夏の頃にて暑さ耐え難かりしに、道の辺に 柳茂り清泉のいと冷(すず)しく流れければ、暫く立ち止まりて
 道のべの−清水流るゝ−柳かげ−しばしとてこそ−立ちどまりける (註8)
・・・(この後著者は、この歌は芦野で詠まれたものではないと否定しています。)・・ ・」

(考察1)「道の辺清水」があり、その清水には「川沿い柳」の柳並木があって、その並 木の柳のほとんどは枯れて無くなってしまいましたが、無くならずに残った一本の「朽ち 木の柳」が「遊行柳」のはずです。
でも[奥の細道]にある「田の畔に残る」の表現からは、「清水流るゝの柳」(遊行柳) と田との間に川が流れていたとは思えません。

なお、この[下野風土記]にある『同所なり』の表現では、道の辺清水が「遊行柳と同じ 所に在った」という意味なのか、「遊行柳と同じく芦野地区に在った」という意味なのか、 よく分かりません。
さて、「道の辺清水」はいったいどこに在ったんでしょう。

そこで、インターネットのホームページを調べたら、次の記事が有りました。
「上の宮湯泉神社右側(おそらく「向かって右側」)の小川は、西行法師が「道の辺に清 水流るる柳蔭、暫しとてこそ立ちとまり」と詠んだとされる山からの清水。」

(参考1)[陸奥鵆(むつちどり)]
天野桃隣(芭蕉の門人) 著
天野桃隣は、[奥の細道]の跡をたどる旅の帰途、1696年に遊行柳を訪れている。

「遊行柳芦野入口一丁右へ行、田の畔(くろ)に有。不絶清水も流るゝ。
   秋暑しいづれ芦野の柳陰」

(考察)『遊行柳芦野入口一丁右へ行』とは、「奥州街道の芦野の北の入り口」 から「右に曲がって約100m行った所なのか?」「約100m進んだ所を右に曲がった 所なのか?」はっきりしませんが、いずれにしろ遊行柳は奥州街道を西にずれたところに 在ったようで、現在の位置に在ったとしても矛盾は無いですね。
どうも[曾良旅日記]を読むと、「奥州街道の芦野の北の入り口」から「右に曲がって約 100m行った所」が正しそうです。

1696年「遊行柳」の近くに清水が流れていたようです。芭蕉等が訪れた1689年当 時も当然清水は流れていたでしょう。
しかし「遊行柳」と田との間に清水が流れていれば、[奥の細道]から表現を借りてきた んだとは思いますが、『遊行柳が田の畔(くろ)に有』とは言わないでしょう。
と言うことは、道路の「遊行柳」が有る側に対して、道路の反対側を清水が流れていたっ てことか?「遊行柳」のあるこの道は「川沿いの道」だったでしょうからね。
この道を温泉神社の参道とすると、ほぼ東西の道です。そして「遊行柳」は参道に日陰を 作る街路樹だったでしょうから、参道の南側に有り、「道の辺の清水」は参道の北側を流 れてたんでしょう。

これを読むと、「遊行柳」の脇には案内板が有ったのかも知れませんが、「道の辺清水」 の脇には案内板は無かったようです。これは、[奥の細道]を読んで得られる印象と同じ ですね。


(参考2)[烏糸欄](うしらん、1716年旅)
稲津五郎右衛門(1663−1733年、俳人で1714年からの俳号は祗空(ぎくう) )著

「二十九日、芦野にて翠桃道しるべして、遊行柳・みちのべの清水心よく、兼載の庵跡・ 炉路の松あり、緑いまにふかし。」

(考察)1716年当時、下野国黒羽の芭蕉門弟・鹿子畑豊明(1662−1728年、 俳号は翠桃)も[下野風土記]と同様に、柳を謡曲「遊行柳」に結び付け、「道の辺の清水 」を西行の歌に結び付けていたんだろうと思われます。
ところで当時「道の辺の清水」には水が流れていたと思います。流れていなかったら『み ちのべの清水心よく』なんていう印象にはなりません。


(参考3)与謝蕪村(1716−1784)の俳句(1743年旅)

「神無月(現在の11〜12月)はじめの頃ほい、下野の國に執行して 遊行柳とかいへる古木の影に、目前の景色を申出はべる。
     柳散 清水涸 石処々」

(考察)『遊行柳とかいへる古木の影に』と言いながら、この俳句はあきらかに 「道の辺清水」中心の俳句です。   柳散(遊行柳) 清水涸 石処々(道の辺清水)
ということは、「遊行柳」と「道の辺清水」とをひっくるめて「遊行柳」と言ってるよう な印象です。

おそらく初冬の頃だったんで「遊行柳」に葉がなかったんでしょう。朽木ではなかったで しょう。
また乾季だったから、「道の辺清水」に水が無かったんでしょう。「道の辺清水」とはそ ういう川だったんです。


(参考4)[奥羽の日記](1755年旅)
南嶺庵梅至(芭蕉の孫弟子) 著

(おそらく五月の)廿四日、白川を立て 吉次兄弟か塚 をミる。奥野の国境両社明神を拝し、芦野の里道野辺 の清水に望む。
<涼しさの−すゑやなかれて−柳陰>」

(考察)これによれば、松尾芭蕉らが芦野を訪れた年の60年後、芦野の名所は、 「遊行柳」でなく、「道の辺の清水」だったようです。そしてそこには、蕪村が訪れた時 と違って水が流れていたようです。

1713年頃には、「遊行柳」は柵で囲まれていたようですが( [竹葉集] )、1755年には、「道の辺の清水」の案内板はありましたが、「遊行柳」には案内板 も柵もなかった印象です。ホントかな?

1755年の頃になると、柳などという草木を名所にするより、「道の辺清水」という歌 枕を名所にすべきという考えの方が主になった可能性が有ります。

<涼しさの−すゑやなかれて−柳陰>
と詠んでいるところを見ると、柳の木は遊行柳一本だけではなく、「川沿い柳」の柳並木 が存在した印象です。

芭蕉らが芦野を訪れた時にも「道の辺の清水」に「川沿い柳」は存在したんでし ょうか?
「遊行柳」の一本しかなかった可能性が有ります。
本来、「道の辺清水」には、「川沿い柳」の柳並木が有りましたが、皆枯れてしまい、残 った一本の朽ち木の柳が「遊行柳」です。ですから、その朽ち木の柳を「遊行柳」として 名所にした時には、「道の辺清水」には「遊行柳」一本しかなかった可能性が高いです。

つまり、芦野に、一本の古木の「川端柳」のある道が奥州街道あるいはその近くに有った んで、その柳を「遊行柳」にこじつけて名所にしたわけです。


(参考5)[東国名勝志](1762年刊)
月岡丹下 画、鳥飼酔雅 文

これは紀行ではなく、東国の名勝を絵と文で紹介する案内書のようです。

この中に「遊行柳」と題する絵があり、画面左に道路と遊行柳、右に曲がりくねって流れ る川、背景に山が描かれています。
絵の中の説明文は

「遊行柳
みち野辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立とまりつれ

右のかたに清水の流れたへず。今に名水とす。ここにつづきて大木の柳に竹垣ゆひてむか しの根ざしとす。」

(考察)この絵がどれだけ実際の景色に忠実なのかは、疑問が有りますが、『右 のかたに清水の流れたへず。今に名水とす。』とあるところから、「道の辺清水」は、湯 泉神社に向かって参道の右側にあったようです。

(参考6)[東遊雑記](1788年旅)
古川 古松軒(ふるかわ こしょうけん、1726−1807年) 著

「道のべの清水・遊行柳は、芦野の町の北一町にあり。柳一樹あり、古木は幾度も枯れて、 植え継ぎし柳なり。」

「その湯泉明神の社あり。わずかに形のみにして、いかにも甚だ閑寂にして哀れに見ゆる 処なり。細き流れあり、これを道のべの清水と称して西行の名歌あり。」

「今の街道は図の如く(原本に図欠く)芦野町を通行せり。古は西の山に添いて遊行柳あ る方へ往来らし、地理に見え侍るなり。」

*(参考5)(参考6)は、那須町文化センターの赤羽根様から資料提供いただきました。 お蔭で「道の辺清水」の場所がよく分かりました。有難うございます。


(考察2)さて「道の辺清水」はどこにあったんでしょう?

どうも、「遊行柳」と「道の辺清水」とは同じ場所に在り、「遊行柳」と「道の辺清水」 とをひっくるめて、或る人は「遊行柳」と言い、また或る人は「清水流るゝ柳」と言い、 また或る人は「道の辺清水」と言ったんじゃないでしょうか?
しかし、「遊行柳」と田との間に川が流れていたとは思えません。「遊行柳」は、湯泉神 社に向かって道路の左側にありますが、「道の辺清水」は、芭蕉が訪れた当時の道路右側 にあったんじゃないでしょうか?

(考察3)前に 『西行のこの歌と「道の辺清水」との関係 をお忘れなく』 って言っといたでしょう。
 そうです。西行の歌を芦野に関連付けようとするなら、柳の木ではなくこのように道の 辺清水と関連付けるのが合理的でしょう。柳は枯れてなくなってしまえば、場所は分から なくなってしまうんですから。つまり柳の木は歌枕すなわち「歌に詠まれた名所」にはな りにくいんです。

 それと芦野の柳は、この[下野風土記]では謡曲[遊行柳]に関連付けられており、西 行の歌には 関連 付けられておりません
おそらくそれが本来の姿だったんでしょう。なぜなら、芦野の柳に付けら れた「遊行柳」という名前にしろ「朽木の柳」という名前にしろ、いずれも謡曲[遊行柳] に関連付けた名前だからです。西行に関連付けられていれば、上記謡曲[遊行柳]の(考 察)に書きましたように「西行柳」、「清水流るゝの柳」などという名前が付けられてい たでしょう。

どうも[奥の細道]の旅の頃、芦野の柳が謡曲にではなく、西行の歌に直接結びつけられ ていたことは、芦野の殿様が宣伝した先・すなわち松尾芭蕉ら江戸の町の人達くらいしか 知らず、下野国内には広まっていなかったのではないか?

さて、芦野の柳を謡曲「遊行柳」にではなく、西行に直接関連付けたのは一体誰でしょう? それは恐らく芦野資俊でしょう。能に関連付けられていた芦野の柳をわざわざ歌人西行に 関連づけ直したのは、彼が俳人だったからでしょう。歌人か俳人でもなければ、そんなこ とをしようとは思いません。

 なお那須町教育委員会が立てた案内板では、芦野の柳は、遊行上人が柳の精に出会う伝 説(そんな伝説は謡曲「遊行柳」のずっと後に創られたものでしょうけど)と関連付けられ ており、西行の歌には関連付けられてません。

(考察4)上記の(参考1)から(参考6)を読むと、「道の辺清水」が芦野の名所になる のは、どうも1710年以降のようだ。ところが)[下野風土記](1688年編著)は 既に1688年時点で、「道の辺清水」が芦野の名所であると言っている。と言うことは、 「道の辺清水が芦野の名所であると言い出したのは、[下野風土記](1688年編著) よりそう古くはなさそうだ」と言うことです。

(3)[曾良旅日記](1689年旅)
「一 芦野ヨリ(「境の明神」の在る)白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ 、木戸ノ外、 茶ヤ 松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ、八幡ノ大門通リ之内[ 十町程過テ 左ノ方ニ鏡山有]。 左ノ方ニ 遊行柳 (註9) 有。其 西 ノ四、五丁之内二愛岩(愛宕)有。其 ノ東ノ方、畑岸ニ 玄仍ノ松 トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブス ナ也。市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。」

(考察)松本市兵衛さんは、「遊行柳」は案内しましたが「道の辺清水」は案内してない んですね。でも前項の(2)[下野風土記](1688年編著)の内容から考えれば、松 本市兵衛さんが「道の辺清水」を案内しないことは考えられないんですが。
そう言えば、芦野の殿様も「道の辺清水」のことを芭蕉に話してませんね。
[下野風土記]の記述と松本市兵衛さんや芦野の殿様らの言動とのこの食い違いは、これ はおおきな謎ですね。

もしかしたら、(道の辺清水)を芦野の名所である」と言い出したのは、芦野の人間でな いかもしれません。黒羽藩の歌人(下記の参考)か俳人かもしれません。
芦野の人間が謡曲「遊行柳」に登場する「朽ち木の柳」を「遊行柳」として名所にしたの に対し、黒羽藩の知識人が、寿命が来れば枯れてなくなってしまうような草木を名所にす るより、同じ謡曲「遊行柳」に出てくる西行の歌ゆかりの「道の辺清水」を名所にすべき だろうと言い出したんじゃないでしょうか。

そう言えば、一つ前の(2)[下野風土記]の(参考2)祗空(ぎくう)の[烏糸欄] (うしらん、1716年旅)によれば、祗空に対して、「遊行柳」と「みちのべの清水」 とを現地案内したのは、黒羽藩の芭蕉の門弟・翠桃でしたね。

(参考)戸田茂睡 (とだ もすい、1629−1706年)
 黒羽で成長した(つまり活躍したのはもっと後の江戸の町に移ってからってこと)江戸 前期の武家・革新歌人。歌学の革新を唱え近世歌学の魁(さきがけ)をなした。

*これ以降も芦野の柳について書いたものはあるが、参考にならないのでここには掲載せ ず。


「愛宕山重修碑」(また「重修碑愛宕山記」、「重修 愛宕山記」などとも呼ばれる記念石碑、1848年建立)
葦野氏家臣・小林準作 撰文
「昔時連歌ノ宗匠、猪苗代兼栽ナル者、暫ク東麓ニ 卜居 シテ、佳景ヲ吟詠ス。其ノ後往々ニシテ、 辞人騒客 多ク此ニ遊ビ、以テ思ヒヲ寄セ述ベザル者無シ」

(註)重修(ちょうしゅう):再開発すること・リニューアルの意味。幕末の頃、 愛宕山を公園として整備しなおしたらしい。
芦野八景の一つである愛宕山は次の地図の+部の辺りらしい(次の地図の260 .1の三角点の番地は、「那須町大字芦野字兼載松」です。上の碑文参 照) 【地図】

(補足)
芦野の柳を、「清水流るゝの柳」と言うと西行が歌を詠んだ柳ということになり、 「朽木の柳」と言うと[廻国雑記]あるいは謡曲「遊行柳」に登場する柳ということになり、 また「遊行柳」というと謡曲名ということになってしまいますので、 いずれも適当ではありません。

 芦野の柳を呼ぶなら、例えば「田一枚の柳」のように呼ぶべきでしょう。この柳を訪れ る人たちは皆、芭蕉が[奥の細道]の旅の途中に訪れ、<田一枚−>の句を残した柳であ ると言うことで訪れてるんですから。つまり芦野の柳は歌枕などではなく俳枕なんです 。

(蛇足)[藤澤智寰覚書]について
そこで、神奈川県立図書館に[藤澤智寰覚書]について調べて頂きました。かなり詳しく 調べて頂いたんですが、要約すると、次のようになります。
1)「藤澤智寰覚書」の史料は見つからなかった。
  後世まで残るような史料ではないということです。
2)藤澤智寰は、時宗の本山・藤沢市の遊行寺(藤澤山無量光院 清浄光寺)の関係者の中 には見当たらない。
3)[藤澤智寰覚書]云々の出所は[下野国誌](1850年)らしい。

そこで、[下野国誌]を調べると、次のように書いてありました。
  歌枕「遊行柳」の調査は、1600年代以前の史料解析で分かっちゃったの で、1850年刊の[下野国誌]までは調べてませんでした。

[下野国誌](河野守弘 著、1850年刊)
二の巻 名所勝地
朽木の柳
「・・・・・・
[藤澤智寰覚書]に、人皇百四代後土御門院の御宇、文明三(1471年) 辛卯(か のとう)、遊行十九世尊皓上人、芦野修行ありけるに、枯木の柳の性、老翁と化し、上人 の前に来たり札を受、十念を授り、草木国土悉皆成仏の文を演説し給う。彼老翁の歌に、
 草も木も−漏ぬ御法の−声きけば−朽はてぬべき−後もたのもし
上人かへし
 おもひきや−我法の会に−くる人は−柳の髪の−あとたれむとは
と、吟じ畢(おえ)て柳の陰にかくれとなん、云々。柳化度のしるしを残されて建立あり し所なれば、其木を「遊行柳」と名つけて、寺を楊柳寺(現在は廃寺となってい るらしい)とまうすなり、云々。・・・・・・」

これを読むと、尊皓上人の逸話の内容が謡曲[遊行柳]の内容そのままだったり、逸話の 中に、江戸時代初期にこじつけられた芦野の名前が出てくるなど、江戸時代に書かれたも のであることはあきらかです。恐らく[下野国誌]の著者・河野守弘が、当時江戸の町辺り で売られていた本の内容を疑いもせずに[下野国誌]に載せたんでしょう。遊行19世・ 尊皓上人云々の話は [竹葉集] (1719年著)辺りを参考にしたんではないでしょうか?

(補足)ところで[下野国誌](1850年)には、[藤澤智寰覚書]以外に次のことが書 かれてありました。

「藤澤山清浄光寺の「伝え」に、十四代目の大空上人(−1439)此地を通ら れし時、彼柳の精、女に化して、上人の済度を願しにより、此所にて日中の勤行をせられ ければ、得脱しけるよし、謝して失ぬと、是より例となりて、代々の上人巡国の時は、必 ず此柳の下に至り、回向せらるる事、今に替らずと云へり、云々、と書き たり。」

(考察)藤澤山清浄光寺の「伝え」に『此地』『此柳』とあったはずはないので、「伝え 」には『此地』のところには「芦野の町」、『此柳』のところには「芦野の町の朽木の柳 」と書かれてあったんでしょう。ということは藤澤山清浄光寺の「伝え」は、謡曲[ 遊行柳]の「朽ち木の柳」はかつて芦野に在ったのであるとされるようになってから書か れたものであることがわかります。

「十四代目の大空上人が、今となってはどこか分からぬどこかを通った時、柳の精、女に 化し出て、上人の済度を願ひしにより、柳の所にて日中の勤行をせられければ得脱しける よし、謝して失ぬ」という逸話がいつごろにか作られたのに対し、藤澤山清浄光寺の「伝 え」の筆者は、この逸話は芦野の柳の逸話であり、謡曲[遊行柳]はこの逸話をヒントに して作られたものであると言いたかったんでしょう。
『今に替らず』の「今」とは、江戸時代中後期のことだろうと思います。

(註4) [歌枕への理解]桜楓社、1995年 など金沢規雄の著作参照。
・二条院讃岐(1141?−1217年)
 わが袖は−汐干(しほひ)に見えぬ−沖の石の−人こそ知らね−乾くまもなし(百人一 首)

1)江戸時代前期の伊達藩などでは、この歌の、干潮時にも見えない海底の岩という不特 定のものまで、海面から顔をだしているその辺の岩にこじつけて「沖の石」とし、それに 番人までつけて保護していたようです。 【地図】

2)おもしろいことに、福井県小浜市北部、若狭湾中にある二条院讃岐の歌の「沖の石」 も、海面から顔を出しているんですね。 【地図】この辺りにあるらしいが、小さ過ぎてこの 地図に載ってこない。

3)琵琶湖にも沖の石が在るようです。所在地は滋賀県彦根市八坂町(多景島の西) 【地図】




2.黒塚(安達が原)
   「おにこもれり」って何?

和歌検索:語句検索のキーワード「くろつか、あたちかはら、あたちのはら」 和歌データペース

これから昔話に出てくる「あだちが原の鬼婆」の話をするんだけど、「あだちが原の鬼婆 」の話って俺達・年寄りしか知らないんだね。 謡曲[黒 塚/安達原]

[奥の細道]
「二本松より右にきれて、 黒塚の岩屋 一見し、福嶋に宿る。」

[曾良旅日記]
供中ノ渡 (ぐちゅうのわたし)ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ 黒塚 有。小キ塚ニ杉植テ有。又近所ニ(白真弓)観音堂有。大岩石タタミ上ゲタル所、後ニ有。「古ノ黒 塚ハこれならん。右の杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らん」ト 別当坊 申ス」

(考察)[奥の細道]の旅当時(1689年)に、既に謡曲[黒塚/安達原]の舞台が福 島県二本松市にこじつけられてたんですね。

『その向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有・・・右の杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らんト別当 坊申ス』(曾良旅日記)  「黒塚は鬼婆の墓です」(二本松観光協会)

また近くの真弓山観世寺の白真弓観音堂(如意輪観音)の後ろに、『大岩石タタミ上ゲタ ル所』(曾良旅日記)=かつて鬼婆が住んでいたという『黒塚の岩屋』(奥の細道)有り、 『古ノ黒塚ハ(当時の黒塚である「杉植テ有る小キ塚」ではなく)これならん。』(曾良 旅日記)

 なに?芭蕉らが訪れた当時、「黒塚」とは鬼婆の墓であるとされていたが、別当坊が言 うには、黒塚とは、本来は、かつて鬼婆が住んでいた岩屋のことだろうって。
謡曲[黒塚/安達原]に岩屋なんて登場しません。『人里遠きこの野辺の 松風寒き柴の 庵に・・・』すなわち鬼婆が住んでいたのは柴(雑木)で屋根を葺いた粗末な家『柴の庵』 です。
「黒塚」を鬼婆が住んでいた土地の名前とすればスッキリするんですが、残念ながら二本 松市安達ケ原に「黒塚」なんていう名前の土地は存在しなかったんです。それで、「黒塚 =塚=墓=鬼婆の墓」をでっちあげたんです(「黒塚の岩屋」の方は、たまたま 観世寺に『大岩石タタミ上ゲタル』ような奇岩があったんで、それを鬼婆の棲家とこじつ けたんでしょう)
ところで二本松市安達ケ原って、いつ頃この地名が誕生したんだろう。

(1)[大和物語][大和物語] 、951年頃に原作が成立)
五十八段
「おなじ兼盛(平兼盛 ?−991年)、みちの國にて、閑院の三のみこの御こ(おほむ こ)にありける人(源重之の父・兼信 ?−?)、黒塚といふ所にすみけり、そのむすめ どもにをこせたりける(送った)、
  みちのくの−あだちの原の−黒塚に−おにこもれりと−聞くはまことか
といひたりけり。かくて、「そのむすめをえむ」といひければ、親、「まだいとわかくな むある。・・・」

(考察)ここに登場する歌の「おにこもれり」が、例えば『娘達のことを冗談で鬼と呼ん でいるだけで、実際の鬼のことを指しているわけではありません』の解釈のように、「鬼 篭れり」と解されているようですが。
 しかし、『そのむすめをえむ』目的で会ったことのない娘に初めて歌を送る (註11) のに、その娘を鬼に例えるような不躾は決して有り得ません。そんな冗談は通じません。 一発で娘に振られてしまいます。
 恐らく、「鬼篭れり」を『娘達のことを冗談で鬼と呼んでいる』のように解釈するのは 間違いでしょう。

 この[大和物語]の話の展開から推測すれば、兼盛の歌のおにこもれりは、「 隠れ住んでいる」の意味で、「隠(おん)にこもれり」が訛ったものと考えられます (こんなこと書いてる本はありませんが、まあ正解でしょう)。「おに こめて」で、「隠れ住んで」の意味に取れる次の歌があります。

・新撰和歌六帖(1243年)
 藤原為家(1198−1275年)
 あだち野の−原の黒塚−おにこめて心にくくも −世を過ぐさばや

(考察)「 あだち(野) の原」「黒塚」「おに」の共通点から、この歌は上記兼盛の歌から派生した歌でしょう。 この歌の「おにこめて」は、それに続く「心にくくも-世を過ぐさばや」から考えて「鬼 を篭めて」では意味が通じません。「隠れ住んで」の意味でしょう。「おに」は「隠(お ん)に」、「こめて」は 「篭めて」 でしょう。この歌、よく読むと「隠れ住む」のは どうも兼盛の歌と同じ源兼信の娘たちのようです。この歌は兼盛の歌を視点を変えて読 み替えたものではないでしょうか?兼盛の歌の「おに」と、この為家の歌の「おに」とは 、間違いなく同じ意味です。為家は、兼盛の歌の「おにこもれり」の意味を知ってたんで す。

実はこの歌、作成年代順からしたら(5)の後に載せるべきなんですが、その時代(12 00年代中頃)でも平兼盛(?−991年)の歌の「おにこもれり」の意味がちゃんと理 解できてたんですね。

(2)[拾遺集](1005年)
 平 兼盛(?−991年)
みちのくになとりのこほりくろつか宮城県名取市 【地図】 )といふ所に、(源)重之かいもうとあまたありとききて、いひつかはしける
 みちのくの−あたちのはらの−くろつかに−おにこもれりと−きくはまことか

(考察)この[拾遺集]の歌の詞書によれば、あだちの原、黒塚は名取の郡(今の宮城県 内)に在ったとなっています。この[拾遺集](1005年)が編纂されたのは、平 兼 盛(?−991年)の歌の、いい加減な数値ですがざっと50−70年後、また兼盛没後 15年です。そう時代がずれているわけではありません。また兼盛が歌を贈った娘たちの 父親である源兼信が住んでいたのは陸奥支配の一拠点付近ではなかったかと考えられます 。これらのことからこの[拾遺集]にある『みちのくになとりのこほりくろつかといふ所 に、重之かいもうとあまたあり』は、比較的信用のおける内容ではないかと思われます (上の[大和物語]にも、「黒塚」と、割愛しちゃいましたが「名取の御湯」と が登場して来てます) 。源兼信が住んでいたのが陸奥支配の拠点なら、正確なところは歴史学者が調べてくれる でしょう。

(3)[和名類聚抄](934年頃成立)
 なお [和名類聚抄 ] によれば、鬼自体が「陰に隠れてなかなか姿を現さない」存在であったためにオニ(隠が 訛ったもの)と呼ばれるようになったという説があるようです。そういうことで、もとも と「隠」が「鬼」と誤解される要素が存在したようです。

 しかし、兼盛の歌の「おに」について、「御尼(おに)のことで、もともと女性を喩え たもの」という説があります。(御尼(おに)なんて言葉有ったの?) 確かに「うら若き乙女たちが、黒塚にひっそりと暮らしていると聞きましたが、それは本 当ですか?」と、歌の意味としてはピッタリです。しかし『 そのむすめどもにをこせた りける(=送った)』歌に、「御尼」がなくても、「こもる」のが歌を送られた自分たち 女性のことであることはわかります。さぁ「おに」は「御尼」なんでしょうか?

(蛇足)今までのいくつかの歌枕の調査結果から分かりますように、歌枕の調査というの は、最初の史料と言いますか初期の史料にうんと頭を使うべきな んです。後代の史料に なればなるほど真実からずれてきてしまいますから。(分かりやすい例として 「あその河原」 参照)
「おにこもれり」を「隠れ住む」の意味であると解析できたのも、平兼盛の歌が最初の史 料であり、その歌にある「おにこもれり」を「鬼篭れり」と訳しているのに違和感を感じ たので、それをとことん追求した結果なんです。

(4)藤原基俊(1060−1142年)
 また、歌の意味がよくわかりませんが、「おにこもる」の「おに」が何となく鬼でも、 御尼でもなさそうな次の歌もあります。
・基俊
 たたひとつ−かとのほかには−たてれとも−おにこもりたる−くるまなりけり

 兼盛の歌の「おにこもる」は、「鬼こもる」ではなさそうですが、正確なところは上の 3首を解読する必要があろうかと思います。
・みちのくの−あだちの原の−黒塚に−おにこもれりと−聞くはまことか
・あだち野の−原の黒塚−おにこめて−心にくくも−世を過ぐさばや
・たたひとつ−かとのほかには−たてれとも−おにこもりたる−くるまなりけり

これらの歌に対し鎌倉時代になりますと、「鬼がこもる」の意味の「おにこもる」の歌 が登場するようになります。

(5)飛鳥井雅経(あすかい まさつね、1170− 1221年)
 あらたまの−はるをむかふる−としのうちに−おにこもれりと−やらふ こゑこゑ (註13)
この頃から兼盛の歌の「おにこもる」が「鬼こもる」と誤解されるようになったのではな いでしょうか?

(6)謡曲[黒塚/安達原](1465年以前の作品 )
 そうして兼盛の歌の誤訳がもとになって、安達が原の黒塚にかつて鬼が棲息したことに なり、それが 謡曲[黒 塚/安達原] へと引き継がれて、「安達が原の鬼婆」が一般化することになったものと思われます。 えっ?「一般化する」って、「安達が原の鬼婆」の話は、どの地方の、どの世代 の人達までがよく知っていた話なの?

 なお、謡曲[黒塚/安達原]には、鬼婆の住む安達が原が陸奥のどこにあったのかは出 てきません。また、上記[拾遺集]によれば、黒塚のあるアダチの原とは、[和名類聚抄 ]にある陸奥の名取の郡(今の宮城県内)にあったアダチの原のようで、安達の郡(今の 福島県内)にあったのではなさそうです。謡曲[黒塚/安達原]の「安達ケ原の鬼婆」が 住んでいた場所はいつから福島県の二本松市になったんでしょう。おそらく、能[黒塚/ 安達原]が江戸の町で上演されるようになってからでしょう(参勤交代の始まっ た1635年には二本松藩の江戸屋敷が存在したと思われます)

なお、鬼婆の住む安達ケ原の場所が、福島県の二本松市にこじつけられた後のこと (いや、おそらく、同時のことでしょう)と思われますが、謡曲[黒塚/安達原]の物語の その前段階の物語・「京の都に住む老女「いわて」が、京でいろいろ事件があった後、阿 武隈川のほとり(つまり二本松市安達ケ原のこと)まで来て、そこに棲みついて鬼婆となっ た」という物語が、おそらく、黒塚や黒塚の岩屋のある二本松市の観世寺によって作られ たようです。
二本松の民話「安達ヶ原物語」 、真弓山観世寺発行のパンフレット [奥 州安達ヶ原黒塚縁起] 参照)
 真弓山観世寺が物語をでっち上げたため、二本松の民話「安達ヶ原物語」と真 弓山観世寺発行のパンフレット[奥州安達ヶ原黒塚縁起]では、謡曲[黒塚/安達原]に 取り上げられたとする物語の最後が、謡曲[黒塚/安達原]の内容と異なり、真 弓山観世寺の本尊・如意輪観音の登場で締めくくられています。

なお、真弓山観世寺の開基が伝・阿闍梨祐慶・那智の東光坊(あじゃりゆうけい ・なちのとうこうぼう (註14) )・謡曲[黒塚/安達原]のワキだって。楽しいね。

(7)[諸国俚人談](1743年刊)
 菊岡沾涼(きくおかせんりょう)著
「黒塚は武蔵国足立郡大宮の森の中にあり、また奥州安達郡にもあり、東光坊悪鬼退散の 地は武蔵国足立郡を本所といへり」 (註15)

(考察)もう好きなようにどこなりとして下さい。

(8)「黒塚」のまとめ
 「安達が原の鬼婆」は
[大和物語](951年頃に原作が成立)に出て来る歌
 みちのくの−あだちの原の−黒塚に−おにこもれりと−聞くはまことか
の『おにこもれり』を「鬼篭れり」と誤解したのが発端です。
「おにこもれり」の正しい意味は、「隠(おん)に篭れり」(隠れ住んでいる)です。


3.しのぶもぢずり
 「乱れる」の縁語は しのぶもぢずり? しのぶ? もぢずり?

和歌検索:語句検索のキーワード「もちすり」 和歌データペース

*「しのぶもぢずり」は歌名所ではありませんが。こういうのは歌詞(うたことば)とか歌 語(かご)とかいう言い方しかないんですかね。「しのぶもぢずり」とは、地方の名産の 名前ではないかと思うんですが、印刷技術のなかった昔、地方の名産を紹介しているもの で、現存する史料といったら和歌くらいしかないようです。そういうことで「しのぶもぢ ずり」という言葉は、ほぼ和歌と和歌関連史料とにしか登場しませんが、和歌の専門用語 ではありません。

[奥の細道]
−しのぶもぢ摺の石−
「あくれば、しのぶもぢ摺の石 【地図】 を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に、石半ば 土に埋れてあり。里の童部(わらべ)の来りて教へける。『昔は此の山の上に侍りしを、 往来(ゆきき)の人の麦草をあらして此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落せば 、石の面下ざまにふしたり』と云ふ。さもあるべき事にや。
 <早苗とる手もとや昔しのぶ摺>」

(里の童(わらべ)の話の内容説明)
 「このしのぶもぢ摺の石(現在「文知摺石」、「鏡石」などと呼ばれているようです) は元はこの山の上にあったんですが、この石は鏡石でその鏡面を麦の葉で磨くと思う人の 姿が現れるという伝説がある。そこで行き来する人が興味を持ち、近くの麦畑に入って麦 の葉を取り、それでこの石の鏡面を磨こうとする。そのため麦畑が荒らされてしまうので 農民が怒って、この石を谷底に突き落とした。そうしたら鏡面が下になって土の中に半ば 埋もれてしまった。」
という内容。

 なお ご苦労 にも、明治時代の1885年に地中に半ば埋もれたこの岩を 掘り起こした人 がいて、それによれば、この岩は鏡石などでなく、人の手が加わっていないただの岩でし た。(恐らく、元々そこにあった岩でしょう)ということで、里の童の 話は、『その鏡面を麦の葉で磨くと思う人の姿が現れる』までが伝説だったのではなく、 話の最後の『鏡面が下になって土の中に半ば埋もれてしまった』までが伝説だったわけで す。

 おそらく先に「石の表面を麦の葉で磨くと、そこに思う人の姿が現れる」という鏡石伝 説があって、後世その鏡石とはこの石のことであるとする話が「しのぶもぢ摺の石」の有 るお寺?(正確な関係はよく知りません) 安洞院 によって作られたんでしょう。

(1)[古今集](905−914年)
 河原左大臣( 源 融 みなもとのとおる、822−895年)
題しらず
 陸奥の−しのぶもぢずり−誰ゆゑに−みだれむと思ふ−我ならなくに

(考察)この歌が「しのぶもぢずり」の登場する最初の史料のようです。この歌は源 融 が奥羽二国( 陸奥出羽 )の 按察使 時代(864−869年頃。但し遥任で実際には赴任せず)に詠まれたものと思われます。

 この歌によれば「しのぶもぢずり」と「乱れ(る)」がすでに縁語だったようです。
ということは、
1)「しのぶもぢずり」とは、その名前を聞けば誰でも容易に「乱れ(る)」という言葉 を連想できるものだったんでしょうか?
2)それともこの歌以前に「しのぶもぢずり」の歌がいくつもあって、それらの歌が作ら れる過程で「乱れ(る)」が「しのぶもぢずり」の縁語となったということでしょうか?
3)あるいは「しのぶ」あるいは「もぢずり」が「乱れ(る)」と縁語関係にあったとい うことなのでしょうか?


(2)[伊勢物語](900年代前半) [伊勢物語]
(第一段)
「昔、男、 初冠 して、奈良の京春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。その里に、いとなまめいた る女はらから住みけり。この男かいまみてけり。 思ほえず、ふる里にいと はしたなく てありければ、心地まどひにけり。男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。 その男、しのぶ摺の狩衣をなむ着たりける。
 春日野の−若紫の−すりごろも−しのぶの乱れ−かぎりしられず [業平集]
となむ 追ひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
 みちのくの−しのぶもぢずり−たれゆゑに−乱れそめにし−われならなくに (現代語訳)
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやき みやびをなむしける。」

(考察)[伊勢物語](900年代前半)の頃には、[古今集](905−914年)の 「みだれむと思ふ」が、後世編集された百人一首と同じく「乱れ そめにし 」に替えられています。「しのぶもぢずり」が摺り染めした布だからということなんでし ょうか?それとも単に「しのぶもぢずり」を「しのぶ摺り」に関連付けただけなんでしょ うか?もし後者だとすれば、しのぶもぢずりが何なのか今となっては全くわからないとい うことになります。

 在原業平(825−880年)の「しのぶの乱れ」の歌によれば、「しのぶ摺」でなく 「しのぶ」が「乱れ(る)」と縁語関係にあるようです。

ここで業平の歌が詠まれたのが、業平が二十歳前後の頃とします。そうすると840−8 50年頃詠まれたことになります。そして源 融の歌は、彼が按察使 時代(864−8 69年頃)に詠まれたものと思われます。そうすると源 融の歌は、業平の歌のざっと 20年後に詠まれたことになります
だいたい「Aと縁語関係にあった相手は何か?」や「AとBとはなぜ縁語なのか?」など の縁語の問題は、後の歌になればなるほど分からなくなる傾向があります。
ということで、業平の歌から分かるように、「乱れる」と縁語関係にあるのは、「しのふ もぢずり」でなく「しのぶ」であるのは間違いないでしょう。

 「しのぶもぢずり」が「乱れ(る)」と縁語関係にあったからと言って「しのぶ」が「 乱れ(る)」と縁語関係になることは考えられません。なぜなら「しのぶ」と「しのぶも ぢずり」とはおそらく全くの別物でしょうから。
反対に「しのぶ」と「乱れ(る)」とが縁語関係にあれば「しのぶもぢずり」が「乱れ( る)」の縁語になることは有り得ます。学術的なことはよく知らないんで、学術的に説明出 来ないんですが、要するに「しのぶ・・・」の範囲の中に「しのぶもぢずり」は含まれて しまうので、「しのぶ・・・」が「乱れ(る)」と縁語関係にあれば、「しのぶ・・・」 の中の一部「しのぶもぢずり」も「乱れ(る)」と縁語関係に成り得るということです。 何を言ってるかわかりますか?

 ということで 源 融の歌の場合もおそらく「しのぶ」が「乱れ(る)」の縁語だった んでしょう。とすると、しのぶもぢずりの「もぢずり」、すなわち染色方法の「捩り 摺り」と考えられているこの「もぢずり」が「乱れ(る)」と関係があるとする後世の説 は誤りです。

 ところで「乱れ(る)」と縁語関係にある「しのぶ」とは何でしょう?「 しのぶ摺 の狩衣」「しのぶの乱れ」から推測すると、「しのぶ」とは何か模様の名前のような気が しますね。少なくとも信夫郡(1968年まで福島県に存在した郡名)ではないでしょう 。

 また「春日野」の歌に「若紫のすりごろも」とありますが、男の着ていたしのぶ摺の狩 衣は若紫、すなわち「うすむらさき色」だったんでしょうか?それとも植物のムラサキで 染めたものだったんでしょうか?なお和歌に見られる植物ムラサキの産地は、万葉集時代 は蒲生野(滋賀県?)、託馬野(滋賀県?)、横野(所在地不明)、平安時代は武蔵野( 関東)で、陸奥の産地名は挙がってきておりません。
そこでもし、このしのぶ摺がムラサキで染色したものとすれば、しのぶ摺は陸奥の産物で はないでしょう。

 この[伊勢物語]から、しのぶもぢずりがどんなものであるか、名前の似ているしのぶ 摺と関連付けていろいろ想像することはできますが、[伊勢物語]に、しのぶもぢずりが 何であるかは一切書かれておりません。

(3)しのぶ草を染料に用いる?
「しのぶもぢずり」とは、しのぶ草で染色した布であるという説があるようですが、

・[公忠集]
 源公忠(889−948年)
 東に下る人に火打入れを贈るとて
orゐなかへくだる人に、しろきふくろをあをきものしてすりてひうちをそへてやるとて
 うちみては−おもひいてよと−わかやとの−しのふくさして−すれるなりけり

・[新千載集](1359年)
 藤原敦忠(906−943年)
 金の火うちに沈のほくち(火口?)をしのふすりの袋に入てつかはすとて読み侍ける
 うちつけに−おもひいつやと−ふるさとの−しのふくさして−すれるなりけり

(参考)植物のしのぶ草
1)シノブ科のシノブ。今日でも「忍ぶ玉」「吊忍ぶ」にする観賞用の植物で、常緑では なく黄葉し、露がつくと美しい。
[一条摂政集](961−992年)
 藤原伊尹(一条摂政)(924−972年)
 「しのふくさの紅葉したるを笛に入れ給える」

2) ウラボシ科 のノキシノブ(軒忍)。
[古今集](905−914年)1002番 紀貫之
 わがやどの−しのぶぐさおふる−いたまあらみ−ふるはるさめの−もりやしぬらん
*「宿のしのぶ草」はノキシノブと考えられているようです。

3)コケ類の植物。垣衣。
[本草和名](918年頃)
     「垣衣(略)和名之乃布久佐一名古介」
(現代語:垣衣(略)和名シノフクサ一名コケ)
どんな植物かよくわかりません。

筆者の見たウェブサイトには
[和漢三才図会]  垣衣 (かべのこけ)
            瓦松(しのぶぐさ) イワレンゲ? ツメレンゲ?
とありました。

(考察)これらの植物が染料として用いられていたんでしょうか?これらに染料としての 特長があるとも思えませんが。

 公忠の歌『わが宿のしのぶ草してすれる』の「しのぶ草」はノキシノブのように思われますが、 ノキシノブが染料に使われたとはちょっと考えにくい話です。
公忠の歌は、ノキシノブを火打入れの袋に擦り付けたら色がつきますが、その擦り付けた 痕を見たら我が家を思い出してくださいという歌と思われます。
そしてこの歌にノキシノブを持ってきたのは、 [能因歌枕] に『しのぶぐさとは、いゑともいふ』とあるところから、ノキシノブがこの歌の「わが宿 」の縁語だったんでしょう。
ノキシノブが当時染料として用いられていたということではなさそうです。

 敦忠の歌の『古里のしのぶ草して摺れる』は、何の草でしょう?この歌の「古里」も「 我が家」という意味なんでしょうか?

(4)しのぶもぢずりと宮城が原、宮城野
・[堀河百首(堀河院御時百首和歌)](1105−6年)
 大江匡房(1041−1111年)
 ともしする−みやきかはらの−したつゆに−しのふもちすり−みたれあひけり

(同じ歌が、後の[千載集](1187年)では
 おなし御時(=堀河院御時?)、百首歌たてまつりける時、照射のこころをよみ侍りけ る
 ともしする−みやきかはらの−したつゆに−しのふもちすり-かわくよそなき
と変わります。) (註16)

・[散木奇歌集](さんぼくきかしゅう)
 源俊頼(1055−1129年)
 みやきのの−しつくにかへる−かりころも−しのふもちすり−みたれしぬらし

(考察)これら西暦1100年頃、すなわち源 融の歌の約250年後に作られた歌に初 めて地域名が詠み込まれます。そしてその地域名は宮城が原と宮城野です。宮城が原・宮 城野とは[和名類聚抄]にある陸奥の宮城の郡(今の宮城県内)にあった地名でしょうか (確かなことは知りませんが)?このように初期の歌(といっても源 融の歌から200 年以上後の歌ですが)は、福島県ではなく宮城県内と思われる地名に関係付けられていま す。
 歌の作者が、しのぶもぢずりの産地をのちの[童蒙抄]に出てくる福島県の信夫郡と知 っていたら、宮城が原・宮野野を詠み込むことは考えにくい話です。もし彼らがしのぶも ぢずりの産地を知っていたとすれば、産地は福島県ではなく宮城県でしょう。あるいは、 彼らはしのぶもぢずりの産地を知らなかったのかもしれません。そして産地を知らなかっ たとすれば、都人にとってしのぶもぢずりが幻の物だったからでしょう。  どうもこの1100年頃までは、しのぶもぢずりはまだ福島県の信夫郡と結びつけて考 えられてはいなかったようです。これらの歌が詠まれる以前は、しのぶもぢずりの産地は 福島県の信夫郡と考えられていた、なんてことはあり得ません。この後1150年頃の[ 童蒙抄]あたりからしのぶもぢずりが福島県の信夫郡に関連付けられていきますが、「し のぶもぢずり」が初めて和歌に登場して後、300年近く経ってから、それまで産地とし ていたところは誤りで正しい産地が判明するなんて話は誰が考えても信用できるものでは ありません。1150年ごろ都人にとってしのぶもぢずりは幻の物だったんでしょう。

 それと、[伊勢物語]に登場するのは「しのぶ摺の狩衣」ですが、上記源俊頼の歌に登 場するのは「しのぶもぢずりの狩衣」です。源俊頼(1055−1129年)の時代には 、しのぶもぢずりとしのぶ摺は同じものと考えられていたんでしょうか?こういう歌が登 場するのが源 融の歌の50年以内なら「しのぶもぢずり」と「しのぶ摺」は同じものと 考えてしまうんですが、源 融の歌の300年後ですから、そう簡単には言えないんです 。

(5)[千載集](1187年)
 藤原顕輔(1090−1155年)

右大將兼長(1138−1158年)、春日のまつりの上卿に立ち侍りけるともに、藤原 範綱が子、清綱が六位に侍りけるに、忍摺の狩衣をきせて侍りけるを、おかしく見えけれ ば、又の日範綱がもとにさしおかせ侍りける
 昨日見し−忍ぶもぢずり−誰ならむ−心のほどぞ−限りしられぬ

(註)和歌を調べたら「しのぶ摺」が何か分からないかと思って、「しのふすり 」で和歌検索したら、この一首しかヒットしませんでした。

(考察)これを見ると「忍摺」と「しのぶもぢずり」が同じもののように見えますが。歌 にある「心のほど」とは、心が乱れている様子のことでしょう。その乱れと関連付けるた めに、「忍摺」を歌では「忍ぶもぢずり」と洒落たのではないでしょうか?おそらくこの 頃までには「乱れ(る)」は[伊勢物語](900年代前半)にあるような「しのぶ」の 縁語ではなく「しのぶもぢずり」の縁語になってしまっているのでしょう。

(6)源頼政(1104−1180年)
 わかそての−しのふもちすり−ぬれぬれて−みたれあひぬる−ここちこそすれ

(考察)この歌は表現が具体的で想像で詠んだものとは思えません。「わかそての-しの ふもちすり」とは、模様のことでしょうか?「みたれあひ」とは、その模様が複数あって 、袖が雨にでも濡れてよじれたために、それらの模様の並びが乱れたということでしょう か?でもこれだと、雨に濡れたために「乱れる」が「しのぶもちずり」の縁語になったの であり、雨に濡れなければ「乱れる」は「しのぶもちずり」の縁語でなかったことになりま すので、この歌はなんか変ですね。

この「しのぶ」は地名・人名にある篠生(しのぶ)のことでしょうか?(三つ前の大江匡 房の歌の (註16) 参照。)

 ところで、「しのぶもぢずり」という染め織物が実在するのに、その産地が分からない と言うことがあるでしょうか?次の広本[袖中抄]にあるように「しのぶもぢずり」は福島 県の産物なんでしょうか? それともこの歌の「しのぶもぢずり」も藤原顕輔(1090 −1155年)の歌同様「しのぶ摺り」のことでしょうか?作歌上、「しのぶ摺り」を時 に「しのぶもぢずり」と言い換える習慣があったということも考えられなくはありません 。この歌の場合、「みたれあひぬる」と詠むために、「しのぶ摺り」を「乱れる」と縁語 関係にある「しのぶもぢずり」と言い換えたのかもしれません。あるいは、上の藤原顕輔 の歌と合わせて考えると、当時「しのぶもぢずり」とは「しのぶ摺り」のことであると考 えられていたのかもしれません。
 もし「しのぶもぢずり」が「しのぶ摺り」と同じものであるなら、[伊勢物語]の記述 から若紫の「しのぶもぢずり」(しのぶ摺り)は、しのぶ草で染めたものではあり得ませ ん。また福島県信夫郡の特産物とは考えられません。
(参照)大江匡房(1041−1111年)
 ともしする−みやきかはらの−したつゆに−しのふもちすり−みたれあひけり

(7)広本[袖中抄]その1(1185−7年頃〜添 削終了は江戸時代?)
顕昭(1130頃−1209年以後)初稿著

「みちのくの−しのぶもぢずり−たれゆゑに−みだれんとおもふ−我ならなくに
  ・・・・・・
[無名抄] 云、しのぶもぢずりとは、陸奥国のしのぶの郡に乱れたるすりをこのみすりけ りとぞいひつたえたる。所の名とやがてそのすりの名とをつづけてよめる也。
遍昭寺の御簾のへりにすられてありしを四五寸ばかり切とりて、故師大納言(誰?)の清 和院の御簾のへりにまねはれて有かば世人見て興せし。此頃は(源 俊頼(1055−1 129年)の頃は)皆やりとられて失せにけるとかや」

(考察)1185年頃、すなわち源 融の歌の300年後に成立の書[袖中抄]がしのぶ もぢずりを説明するのに、その100年近く前に他人が書いた書[無名抄]の記述を紹介 しているということは、1185年頃すでに都人にとってしのぶもぢずりが何なのかわか らなくなっていたということです。以 後の史料はこのことを前提にしてご理解ください。

[無名抄]には、しのぶもぢずりは福島県信夫郡の産物であると書かれてあります。しか し上に挙げたように宮城が原・宮城野とセットでしのぶもぢずりが詠まれています。しか もその内の一首は、[無名抄]の著者である源 俊頼の歌です。この点から[無名抄]の 記述はそのまま信じられません。

[無名抄]のもう一つの謎は『遍昭寺の御 簾のへりにすられてありし』以下の文です。 これは1100年頃の都ではしのぶもぢずりがそれほど珍しかったということです。
こういう表現を見るとしのぶもぢずりとはかなりの貴重品だったのかと思ってしまいます が、しのぶもぢずりとはそういうものだったんでしょうか?そうとすればその産地がわか らないというのもおかしな話です


(8)広本[袖中抄]その2(1185−7年頃〜添 削終了は江戸時代?)
顕昭(1130頃−1209年以後)初稿著

「みちのくの−しのぶもぢずり−たれゆゑに−みだれんとおもふ−我ならなくに
  ・・・・・・
[童蒙抄] 云、もぢずりとはみちの国しのぶの郡にすり出せる也。打ちがへて みだれがはしくすれり。遍昭寺のあしすだれのへりにて有。

私云 、先年に 民部卿成範卿左京太夫脩範 などにいざなはれて、(顕昭が)西山の寺めぐりし侍りしに、遍昭寺に詣でて侍りしかば、 かの母屋の御簾はみくりのつると申物にて忍ぶずりのへりは皆失て侍らざりしかば (忍ぶずりのへりが皆失てしまった原因は)をのをのみすを折りつつこそもちて かへり侍りしか?」

(考察)[童蒙抄]の文は> [無名抄]を参考にして書いたもののようです。
『私云』以下の文の『忍ぶずり』は「しのぶもぢずり」の書き間違いでしょう。そうでな いと、ここに書く意味がありません。
とにかく、顕昭(1130頃−1209年以後) 時代の都人にとって、しのぶもぢずりが何か既に分からなくなっていたということです。


(9)[吾妻鏡] [吾妻鏡]
文治五年(1189年)九月十七日の条の「一、毛越寺の事」に、藤原基衡が雲慶(仏師 運慶のことと考えられています)に、「圓金百両・鷲羽百尻・七間々中径の水豹皮六十余 枚・安達絹千疋・希婦細布二千端・糠部の駿馬五十疋・白布三千端・”信夫毛地摺” 千端等」送ることが書かれています。

(考察)しかし参考書によれば、
「基衡(1105?−1157年?)の活動期である12世紀前半から半ばを少し過ぎる 頃、運慶(1100年代半ば頃の生まれと推測されています)はまだ幼少だったはず。ま た『吾妻鏡』はその前半部が文永年間(1264−75年)、後半部は正応−嘉元年間( 1288−1306年)の成立とするのが通説で、全部を14世紀初頭の編纂と解する研 究者もある。」
のようです。信夫毛地摺を送ったとの記録がどれだけ信用できるものやら。

この後、しのぶもぢずりについて解説した書は、後代になるほど増えていきますが、いず れも根拠に乏しく参考になりません。つまり鎌倉時代の1200年以降に書かれた書物を いくら調べたって、西暦900年以前の和歌に登場するしのぶもぢずりが何かなどわかり ようがないということです。


(10)「しのぶもぢ摺の石」伝説
 以下の解析・考察は、[しのふもちすり](下記)を参考にして行ったものです。
(横山玄彰編、(福島県の)岡山村の安洞院(つまり「しのぶもぢ摺の石」の有るお寺が 発行したもの)、1908年)(国立国会図書館 デジダルコレクション)

この本は「しのぶもぢずり」とは何か?を学術的にかなり詳しく調べたものですが、本 WSのように歴史を追って史料解析することをしていないので(この本に引用されている 資料の多くに作成年の記載がありません。)、この本を最後まで読んでも「それだけ調べ て、結局何がわかったの?」ということになります。

 明治時代の1885年頃に信夫郡の郡長・柴山景綱(1835−1911年)が書いた [信夫毛地搨石記]にある源融と虎女の話が有名で、文知摺石のある安洞院のウェブサイ トにある源融と虎女の伝説の説明文(下記)はその縮小版と思われます。[信夫毛地搨石 記]に有る話は結構長いので、何かに書いてあったのを写したものと思われます。

「遠い昔の貞観年中(859−877年)のこと。陸奥の地を訪れた源融は、村の長者の 娘・虎女と出会います。日ごとに二人の情愛は深まり、融公の滞留はひと月にも及び、再会 を約束し遂に都へと戻る日がやってきました。再開を待ちわびた虎女は、慕情やるかたな く「もちずり観音」に百日参りの願をかけました。
満願の日を迎えましたが、都からは何の便りもありませんでした。嘆き悲しんだ虎女がふ と目を遣ると、「もちずり石」に慕わしい融公の面影が彷彿と浮かんで見えました。しか し、近づくとそれはすぐに消えてしまいます。虎女は遂に病の床についてしまったとき、 一辺の歌が都の使いの者により虎女のもとに届けられました。
届いた歌には「みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに みだれ染めにし我ならなくに」と、融 が遠く都で恋の思いに心乱れている様子が記されていました。故事にちなんでもちずり石 は別名「鏡石」とも呼ばれています。境内の奥には虎女と源融(京都嵯峨の清涼寺より土 を移す)の墓が建立され、当時の歴史を今に伝えています。」

(考察)この話は、源融のしのぶもぢずりの歌の「しのぶ」を「信夫」郡(福島県)、「 偲ぶ」と関連付けて、後世文知摺石のある安洞院によって作られた自社の縁起譚みたいな もんでしょう。

源融と虎女との物語を伝えているのは、
1)[信夫毛地搨石記](柴山景綱(1835− 1911年)著、1885年頃)、の他に、
2)[しのぶもぢずり考](川崎千虎(1837−1902年)著)の補遺、
3)[もぢずり考補遺](福島県立図書でも作成年分からずとのこ)、
4)[もぢずり記](福島県立図書でも作成年分からずとのこと)
などがありますが、虎女が石を磨くのは3)と4)、虎女が麦の葉で石を磨くのは4)だ けです。おそらく元の話では石を磨かなくても源融の姿が顕れたんでしょう。4)は、 [奥の細道]等の影響を受けて麦の葉で磨くよう内容を変更しているんでしょう。、
これらの話と[奥の細道]にある里の童の話との違いを解析すれば、源融と虎女との物語 が[奥の細道]より後に作られたことは間違いないでしょう。

これら以外に、源融と虎女の登場しない話もあります。
[惟清抄](作成年分かりません。伊勢物語惟清抄(三条西実隆講義、1522年)?)
「むかし奥州に夫婦ありしに、男死たりに、石に姿の顕たれば忍郡といふなり」

その他、源融と虎女が登場する話・登場しない話などいくつもあるようです。またこれら の「鏡石」伝説の他に、別系統の伝説として、「しのぶもぢ摺の石を利用した染色の伝説 も有った可能性があり、その話を伝えている史料もあります。


(この項の参考)[奥羽觀蹟聞老志](おううかんせきぶんろうし、奥羽観跡聞老志)( 1719年完成)
 佐久間洞巌(本名:佐久間義和、1653−1736年)編

「信夫文字摺 土人言フ文字摺ノ石ハ今瑞上河上山口村小倉寺ノ畔ニ在、往昔好事ノ 者麥葉ヲ于石上磨、則所思之人影見、近郊麥隴之為蕪ニ就ク、故ニ農夫之ヲ惡ミ、倒 其石壓而于土中、其石猶在焉」

(考察)[奥の細道]の20年後の史料です。これを読めば[奥の細道]「しのぶもぢ摺 の石の段」の『里の童部』の話の内容がわかるでしょう。と言うのは基本的な内容は[奥 の細道]とほとんど同じですが、もっと詳しく説明されているからです。
 と言うことは、[奥の細道](1689年旅)や[奥羽觀蹟聞老志](1719年完成 )の頃、「しのぶもぢ摺の石」の伝説は、これだけの内容だったということでしょう。これ だけ短ければ、庶民の間の伝説として口伝えで伝わるでしょう。源融と虎女の物語のよう な長い物は、書かれたものがあるか、プロの語り部がいなければ伝わるものではありませ ん。しかし源融と虎女の物語を語るプロの語り部なんかいなかったでしょう。

(11)「しのぶもぢずり」染色法
上記[しのふもちすり]](横山玄彰編)には、「しのぶもぢずり」染色法について、次 のような興味有る話も載っていました。

江戸時代中期、仙台の城主・伊達吉村(1680−1752年)の時に、福島に『もぢ摺 の摺り方を発明したる者』がいたらしい。『多くの草花などを布にすり、これに丹青(た んせい、赤と青)を施し、すり模様を捺印して、之をしのぶもぢ搨とて・・・』この染色 法は岩を利用しません。

またいつ頃のことか、[しのぶもぢずり考](川崎千虎(1837−1902年)著)の 補遺では絵師・玉山峯實、また[信達古論名所記](作成年わかりません。福島県内公立 図書館の横断検索でもこの本見つからず)では絵師・玉出(たまだし)の今實が発明した 方法は『山口村文字搨石の面にしのぶ草形の紋形あり、この石面に赤土などを塗り、木綿 若しくは絹等を搨り・・・』

(12)「しのぶもぢずり」のまとめ
A)インターネットをいくら調べても出てこないので、「しのぶもぢずり」の現物も「しのぶずり」 の現物も現在に伝わっていないんだろう。同様にそれらの製造方法も伝わっていないんだろう。

B)信頼できる史料(データになり得る史料)を[古今集](905−914年)の源  融(822−895年)の歌
 陸奥の−しのぶもぢずり−誰ゆゑに−みだれむと思ふ−我ならなくに

 春日野の−若紫の−すりごろも−しのぶの乱れ−かぎりしられず
 陸奥の−しのぶもぢずり−誰ゆゑに−みだれそめにし−我ならなくに
の歌の出て来る[伊勢物語](900年代前半)の二件だけだとすると、それらから言え ることは、
1)「しのぶもぢずり」とは、何かわからぬ物か?それとも染め織物か?
2)本来「乱れる」と縁語関係にあったのは、「しのぶもぢずり」や「もぢずり」では なく「しのぶ」である。しかし、「乱れる」と縁語関係にある「しのぶ」とは何なのか、 さっぱり分からない。

C)いつ頃から分からなくなったのか知らないが、ざっと1100年頃には既に「しのぶ もぢずり」が何なのか?分からなくなっていたようだ。
と言うことで源 俊頼(1055−1129年)著[俊頼無名抄]、[和歌童蒙抄](藤原範兼(1107−1165年)著、1145年頃成立か ?)、[吾妻鏡](1200年代)などの史料の言うことは信頼できず。従って
1)「しのぶもぢずり」を産物として、その産地を今の福島県とするのは根拠が無い。 それより、1100年頃の和歌の内容から、宮城県の産物である方が可能性がある。

D)「データとして採用できるか否か」判断の難しい史料に、
[堀河百首]にある大江匡房(1041−1111年)の
  ともしする−みやきかはらの−したつゆに−しのふもちすり-みたれあひけり
の歌がある。
この史料を、データになり得る史料であると仮定すると、「しのぶもぢずり」とは、、何 かの繰り返し模様を摺った(模様を型染めした)布である可能性がある。型染め法、染料 、模様・・何に特徴があるんだろう?

E)もしかしら、源  融の「しのぶもぢずり」の歌の存在を知った時点から、都人には 「しのぶもぢずり」が何か分からなかったのかも知れない。

 とにかく、「しのぶもぢずり」に関する史料はどれが「しのぶもぢずり」の正しい 姿を伝えているのか判断が非常に難しいんです。その結果ほとんどの史料が「しのぶもぢ ずり」の真実を知る史料として採用出来ないんです。
 参考書によっては、『「しのぶもぢずりとは何か?」については定説がない』と書いて あるようですが、当然です。『「しのぶもぢずりとは何か?」については、信頼できる史 料がないのでよく分からない』というのが定説となるべきなんです。


4.末の松山
   えっ? 貞観津波(じょうがんつなみ)?

和歌検索:語句検索のキーワード「すゑのまつやま」 和歌データペース

[奥の細道]
「それより 野田の玉川 ・沖の石 (前出の註4) を尋ぬ。末の松山 【地図】 は寺(現在の末松山宝国寺)を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。松のあひあひ皆 墓はらにて、 はねをかはし枝をつらぬる 契の末も、終(つい)にはかくのごときと、悲しさも増さりて、塩がまの浦に入相のかね (いりあいのかね、日暮れ時に寺でつく鐘)を聞く。」

[小倉百人一首42番]
 清原元輔(きよはらのもとすけ908−990年)
 契りきな−かたみに袖を−しぼりつつ−末の松山−なみこさじとは

この歌を初めて知った時、あなたは、この歌の「末の松山」を地名すなわち固有名詞だと思 いましたか?
おそらくそんな人は一人もいなかったと思います。皆さん「末の松山」は普通名詞だと思 ったと思います。なぜなら「末」も「松山」も地名らしくないんです。
そして、誰でも「末の松山」の「末の」ってどんな意味なんだろうって考えたはずです。

(1)[家持集]
大伴家持(718−785年)
 しらなみの−こすといふかたに−つきぬれば−いまぞうれしき−みつのはま まつ

みつの浜 (御津の浜) : 難波にあった浜。と言うよりそこに海外に渡航する船が出入りするような 大きな港があったので有名。
・大伴家持は、難波と深い関係が有った。
ウィキペディアより
「755年、難波で防人の検校(けんぎよう、監督)に関わるが、この時の防人との出会いが 『万葉集』の防人歌収集につながっている。」

(考察)これは西暦700年代の古い歌です。そしてこの歌では白波が浜松(海岸の松林 ・松原という意味なんでしょうね)を越すという起こりえないようなことが起こっていま す。海岸の松原や松山を波が越えるとか越えないという歌はこの歌あたりが起源ではない でしょうか。

この歌の意味が分からないんですが、波が浜松を越えて来ることに恐怖を覚えてるのではなく、 「いまぞうれしき」と言ってますので、何かに嬉しがってる歌です。

(2)[古今集](905年)
東歌 みちのくうた
 君をおきて− あだし心 を−わがもたば−すゑの松山−浪もこえなむ

*みちのくうた : 「陸奥のどこかの場所を詠んだ」という意味ではなく、「陸奥で詠んだ」 という意味のようです。詠んだ人は陸奥の人か?都から陸奥に赴任した役人か?

(考察)この歌は、古今の和歌を収録した[古今集]にあるので、いつ作られたものか わかりませんが、大伴家持の歌よりは新しいのでしょう。というのは、

この歌は上記大伴家持の歌から派生して来た歌ではないかと思われるからです。
浜松より松山の方が、波が越えるのは困難です。それで「浜松を波が越す」から「松山を波が越す」 に変わったんでしょう。
それと「末の」の意味は、「(波打ち際から)最も遠く離れた」の意味でしょう。 波打ち際に在る松山より、遠くの松山の方が波が越すのは困難ですから。


大伴家持の「みつの浜松を浪が越す」の歌が作られてから、[古今集]のこの「末の松山 を浪が越す」の歌が作られるまでの間に、沢山の「浜松」を浪が越す歌や「松山」を浪が 越す歌が作られたような気がします。浪が越す対象が、「みつの浜松」からいきなり「末 の松山」に変化したとは思えません。

この歌の末の松山を浪がこえるとは、起こり得ないこと(が起こること)の単なる比喩で 、陸奥の具体的な場所を指したもの、すなわち地名ではなさそうです。
「末の松山」は、二条院讃岐の「わが袖は・・・」の歌の「沖の石」同様単なる比喩で、 末の松山という実在の場所を詠んだものではないでしょう。詞書の「みちのくうた」から、 この歌は陸奥で詠まれた歌と考えられますが、この歌は陸奥の末の松山という場所で詠まれた のではなく、陸奥のどこかの海岸の松山でも見ながら、あるいはそれさえ見もせずに陸奥で 詠まれたものでしょう。

ところが2011年の東日本大震災後、学者の間では、『「末の松山を波が越える」とい う言葉は、 貞観地震 (貞観津波、869年)の際の津波の体験・知識を基にして生まれたものである。そして 歌が作られた年が分からないにもかかわらず、「君をおきて−」の歌は貞観地震の直後に 作られたものである』と言う考えが 有力視 されているようです。

と言う事はつまり、学者の先生方は、上記大伴家持(718−785年)の歌の存在を知らないん です。そして、「君をおきて−」の歌が大伴家持の歌から派生して来た歌だろうということを ご存知ないんです。また、どうも「末の松山」を具体的地名だと思ってるようです。

甚大な被害をもたらした貞観津波発生後の20年以内(貞観津波869年〜次の(3) [寛平御時后宮歌合]889−893年)に、貞観津波が恋の歌の題材になるなんてことは 有り得ない。そんなことをしたら、津波に遭って亡くなられた人達への冒涜である。

2.黒塚(安達が原) の(3)[和名類聚抄]の(蛇足)に
「歌枕の調査というのは、最初の史料と言いますか初期の史料にうんと頭を使うべきなん です。後代の史料になればなるほど真実からずれてきてしまいますから。」
と書きましたが、「末の松山とは何か」の問題も、初期の歌・大伴家持の歌と、[古今集 ]の歌の解析でほとんど解析できちゃうようですね。

(3)[寛平御時后宮歌合](かんぴょうのおんとき きさき(orきさい)のみや うたあわせ、889−893年)
 藤原興風
 浦ちかく−ふりくる雪は−白浪の−末の松山−こすかとそ見る

(考察)上記(2)[古今集]の歌がいつ作られたものか分からないので、取りあえず、 この(3)を(2)の後に書いておきました。
これは、降る雪が「末の松山を越えつつある白浪」のように見えるという歌です。
この頃までには、「浪が超える」と「末の松山」との縁語関係が出来上がっていたよ うです。

(4)伊勢(872or874−938年以後)
 あぢきなく−などまつやまに−なみこさむ−ことをばさらに−おもひはなるも
 まつやまに−つらきながらも−なみこさむ−ことはさすがに−かなしき ものを
 岸もなく−しほしみちなば−松山を−したにて浪は−こさんとぞ思ふ

(考察)「波が越す」と詠うこれらの歌の『松山』は、固有名詞すなわち地名ではないでしょう。 普通名詞でしょう。
この「まつやま」とは、和歌における文字数の制約から「末の松山」を変形した言葉でしょう。 この歌の作者は「末の松山」が普通名詞であると考えていたから、「まつやま」と 変形したんでしょう。
もし、作者が「末の松山」を地名と考えていたら、「松山」と変形することはしなかったはずです。 変形したら地名でなくなってしまいますから。
すいません。歌の意味は全くわかりません。

(5)[能宣集]
大中臣能宣(おおなかとみ の よしのぶ、921−991年)
128暮の春、末の松山みる人あまたあり、波高き所
 音に聞く−末の松山−今日こそは−うちくる波の−こえこえず見に

483末のまつ山、浜づらにとしへたるさまざまの松あり、鶴、水鳥などあそぶ
 葦鶴の−群れゐる末の−まつ山は−いくそがさねの−千歳なるらむ

(考察)学者によれば、これらの歌は屏風絵を見ながら詠んだものだそうです。 この頃には、「末の松山」とは名所である、すなわち具体的な地名であるという見方が 出てきたようですね。

(6)[後拾遺集](1087年)
 藤原能通(ふじわらのよしみち)朝臣(1000年頃の歌人)
忍びて通ふ女のまたこと人にものいふときゝてつかはしける
 こえにける−浪をばしらで−末の松−千世までとのみ−頼みける哉

(考察)この歌では浪が越えるのは「末の松山」ではなく「末の松」となっています。こ の「末の松」は固有名詞とは思えません。普通名詞でしょう(「末の松」とは、 海岸の松林の中で、波打ち際から最も遠い松の木のことでしょう)。そして能通 時代の1000年頃までは、「末の松山」も普通名詞だと考える人が多かったんでしょう 。(「松山」や「末の松」が普通名詞なら、当然「末の松山」も普通名詞でしょ う)それが怪しくなるのはこの200年後からです。

(7)[能因坤元儀](こんげんぎ、こんがんのぎ)
 能因法師(988年−1053〜69年)著
広本[袖中抄](1185−87年頃〜添削終了は江戸時代?)からの引用
「[能因坤元儀]には末の松山、中の松山、もとの松山とて三重にありといへり。」

(考察1)私が[百人一首]で初めて「末の松山」という言葉を知った時、この「末の」 ってどういう意味なんだろうと疑問に思いましたが、[能因坤元儀]の文は、「『末の』 とはこういう意味てすよ。」と教えてくれてる文だと思います。

[能因坤元儀]の文は「末の松山」という言葉の意味を「末の松山とは、海岸 の波打ち際に近い順から、もとの松山・中の松山・末の松山と三重の松山があったと仮定 して、その内の、波打ち際から一番遠い松山のことです」と解説したもので、歌枕の現地 にこれら三つの松山が存在するということではないでしょう。

松山が三重に在る景色って、想像できますか?なかなか想像できないでしょう。松原・浜 松が三重に在る景色なら容易に想像できますが。と言っても三重の松原を作る必要がある とも思えませんので、実際に三重の松原が存在するとは思えませんが(「三重の 松原」「三重の浜松」でインターネット検索しましたが、一件もヒットしませんでした)
海岸から、内陸に向かって、松山が三つ連なって存在したからといって、それを「松山が 三重にある」とは言いません。「松山が三つ連なって存在する」とは言うでしょうけど。 「松山が三重に在る」と言うには、海岸線に沿って細長い松山が、内陸部に向かって三連 なければなりません。そんな「三重の松山」が実際に在ったら、それこそ天下の奇景ですので、 「三重の松山」のうちの「末の松山」だけでなく、「三重の松山」全体として現在に 伝わってなかったらおかしいでしょう。
例えば
<君をおきて− あだし心 を−わがもたば−三重の松山−浪もこえなむ>
などとして。
ところが、「三重の松山」なんか伝わってないでしょう(「三重の松山」でイン ターネット検索しましたが、一件もヒットしませんでした (註17) 。つまり、[能因坤元儀]にある「松山が三重にある」というのは、実景を述べたもので なく、「松山が三重にあるとしたら」という仮定の話なんです。

(考察2)[能因坤元儀]は、別名[諸国歌枕]という別名があったらしいです。
と言うことは、上記の文は、「[古今集]で「東歌 みちのくうた」とされているから 「末の松山は「みちのく」にあるとされているが、しかし・・・(上記の[袖中抄]の文 に続く)」という文のようです。

それを裏付けるように、 能因法師が記した別の史料・[能因歌枕]には「末の松山」は 「みちのくに」の分類の中に載ってないばかりでなく、[能因歌枕]自体に載っておりま せんでした。

(8)[奥儀抄](おうぎしょう)
 藤原清輔(1104−77年)著
「君をおきて−あだし心を−我もたば−末の松山−浪やこえなむ
あだし心とは他心也。君をおきて、こと心をもたばとよめるなり。万葉には異意とかけり 。
貫之歌にも
 桜より−まさる花なき−花なれば−あだし草木は−者ならなくに
とよめり。末の松山浪こゆるといふことは、むかしおとこ女に末の松山をさして、彼山に 浪のこえん時ぞ忘るべき、と契けるが、程なく忘れにけるより、人の心かはるをば浪こゆ るといふ也。かの山に実に浪のこゆるには非ず。あなたの海のはるかにのきたるには、波 の彼松山の上よりこゆるやうに見ゆるを、あるべくもなきことなれば、誠にあの浪の山こ えん時忘れん、とは契也。」

(考察)「海の沖合いから陸の方を見ると、波が松山を越えているように見えますが、実 際に波が松山を超えることはありません。もしそんなことが実際に起きたら云々」と言っ て上の歌の意味を説明しているようです。

(9)広本[袖中抄](1185−7年頃〜 添削終了は江戸時代?)
 顕昭(1130頃−1209年以後)初稿著
「君をおきて−あだしごころを−わがもたば−すゑの松山−なみもこえなん
顕昭云、すゑの松山とは陸奥にあり。
[能因坤元儀]にはすゑの松山、中の松山、もとの松山とて三重にありといへり。
また或本には末の松、中の松、本の松とも云へり。 (註18)
さればにや、唯末の松ともよめり。
 こえにける−浪をばしらで−末の松−千よまでとのみ−たのみける哉
或は只松山ともよめり。
 松山に−つらきながらも−浪こさむ−ことはさすがに−悲しき物を
『末の松山浪こす』といふことは、昔男をんなに逢て、末の松山をさして、彼山に浪のこえ ん時ぞ、こと心は有べき、と誓ひたるより、男も女も、ことふるまひするをば、末の松山 波こすとよむ也。何事によりて、おもひかけず山の波をこえん事をばちかひけるぞ、とお ぼつかなきに、かの山は遠くで見れば、山よりあなたに浪のたつが、山より上に見こされ て、山をこゆると見ゆるによりて、誠の浪のこゆべきよしをちかへるなめり。『あだし心 を我がもたば』とは、異心あるまじき事をいふ也。異をばあだしとよむ也。あだし国とい ふも異国也。異国は他国なり。されば『君をおきて』、こと心をもたばと云心也。」

(考察)この頃から末の松山が固有名詞化するようです。「顕昭云、すゑの松山とは陸奥 にあり。」は、[古今集](905年)の「みちのくうた」が[奥儀抄]にも取り上げら れるほど有名な歌だったので、いつしか末の松山という名所が陸奥に在ると誤解されるよ うになったんでしょう。そして後世、名所末の松山探しが行われた結果、その所在地とし て宮城県多賀城市、岩手県二戸郡一戸町などにこじつけられたものでしょう。

 次の[百人一首]の歌を最初に見たとき、どなたも末の松山が実在した具体的な場所の 名前であるなどとは考えなかったと思いますが、その考えなかったとおりだと思います。 そんな普通名詞で表現された場所が歌の作者に聞かずにわかるはずがありません。

・[百人一首]
 清原元輔(908−990年)
 契りきな−かたみに袖を−しぼりつつ−末の松山−なみこさじとは

(考察)どなたもこの歌の「末の松山」とは普通名詞だと思ったでしょう。そして「末の 松山」の「末の」とはどんな意味なんだろうと考えたでしょう。

(10)俊成女((ふじわらの)としなりのむすめ、 1171?−1254年?)
末の松山眺望
 なみにうつる−色にや秋の−こえぬらむ−宮城の原の−末の松山

(考察)驚いたことに鎌倉時代になると、宮城県に末の松山が出現します。まあその和歌が 歌集に取り上げられた直後から、と言いますかその歌にある歌枕が普通名詞から固有名詞 、すなわち歌枕に変わった直後から、歌枕の場所探しは始まったと思いますがね。
もちろん俊成女は、宮城の原には行ってないと思います。

(11)宮城県多賀城市の八幡宮の古鐘の銘 (1294年)
「奉謹鐘鋳、奥州末松山八幡宮(註)、大檀那介平景綱、大工が藤安吉、永仁二年(1294年 )」

(註)末松山八幡宮:現在は、「八幡」という末松山宝国寺付近の地名としてし か残っていないんでしょうか?

(考察)これは、上の俊成女の歌に出てくる末の松山と関係あるんでしょうか?

歌枕の所在を探そうとして、ヒントが「みちのく」しかなかったら、まず、1000年代 中頃まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった多賀城市あたりにそれらしい 場所がないか探すのが、順当な探し方です。

(12)[はて知らずの記](1893年)
 正岡子規
「舟塩釜に着けばこゝより徒歩にて名所を探りあるく。路の辺に少し高く松二三本老いて 下に石碑あり。昔の名所図会の絵めきたるは野田の玉川なり。伝ふらくこは眞の玉川に非 ずして政宗の政略上より故らに(ことさらに)こしらへし名所なりとそ。いとをかしき摸 造品にはありける。
<みちのくの玉川蝉の名所かな>
<涼しさにうその名所も見て行きぬ>

 末の松山も同じ擬(にせ)名所にて横路なれば入らず。市川村に多賀城堤の壷 碑(つぼのいしぶみ)を見る小き堂宇を建てゝ風雨を防ぎたれば 格子窓より覗くに文字 定かならねど 流布の石摺(=拓本)によりて大方は兼てより知りたり。ある説によれば こもまた正しき坪の碑にはあらざるよしなれど去りとては此古びやう摸造なりとも数百年 のものなるべし。」

(考察)正岡子規ほどの人はさすがです。

岩手県二戸(にのへ)郡一戸町から同県 二戸市 にかけて存在する浪打峠(なみうちとうげ)が「末の 松山」であるとの説もある。 【地図】

(13)「末の松山」のまとめ
 「末の松山を波が越える」とは、起こり得ないこと(または「起こり得ないこと」が起こる こと)の比喩で、「末の松山」とは、波が最も越えにくい、海岸から最も遠い松山と言う意 味の普通名詞です。
ですから、各地に在る「末の松山」は皆後世のこじつけです。
それで、いずれの「末の松山」付近にも、元の松山も中の松山も無いんです。


5.平泉
   俳句の定義って?

[奥の細道]
「三代の栄耀一睡のうちにして、 大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、 金鶏山のみ形を残す。まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、 和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて 南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、 功名一時のくさむらとなる。「国破れて 山河有り、城春にして草青みたり」と、 笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
  夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」

なんかこの俳句 気になる。
1.この俳句は「夏草や」と「兵どもが夢の跡」との二つの文で構成されている。俳句って  まとまった一つの文でなくて良いんだろうか? 川柳も短歌も 一つの文だと思うんだけど。
2.かつ 「夏草や」と「兵どもが夢の跡」との間に意味の繋がりが無い。
  「国破れて 山河有り、城春にして草青みたり」の季節は春ですが、芭蕉の俳句の 季節は夏です。わざわざ夏だという意味は有るんだろうか?
どうも「夏草や」は 詞書に相当する文章部分の「城春にして草青みたり」と繋がって いるようだ。
「城春にして草青みたり」は お城には草花を手入れする人がいなくなって、 「雑草が伸び放題だ」という意味ではないだろうか?
だったら「夏草や」より「蓬生(よもぎう)や」の方が良かったんではないか?「蓬生」とは 雑草が生い茂った荒地の意味です。

ところで[奥の細道]にはもう一つ気になる俳句が有ります。それは、
  象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花  です。
これも 「象潟や」と「雨に西施が合歓の花」という意味の繋がりのない二つの文で なりたっています。
また「雨に西施が合歓の花」は 文章が変。この文は「雨に濡れた合歓の花が まるで中国の伝説の美女・西施のように美しい」の意味でしょう。
だったら「雨の中に咲く合歓の花が まるで西施のようだ」という文にするべきでしょう。 そして「象潟や」は「象潟にて」と詞書(ことばがき)にすることは許されないんだろうか?  「象潟や」を「与えられた俳句の題」と同じ扱いにすれば、詞書が許されるんじゃ ないだろうか?

私は俳句はやらないが、次のような俳句はどうだろう?
「象潟にて
 雨に濡れて 花咲く合歓や 西施なり」

とにかく松尾芭蕉は 文の正確さより語呂の良さを重視しているようですね。









【目次】 トップページ 室の八島の歴史の概
要 平安室の八島 中世室の八島 近世室の八島 近代/現代室の八
島 【索引】 メール