室の八島の真実・
第5章 近代室の八島(明治〜第二次世界大戦の頃ま で) 学者の関与始まる。 混沌の時代あるいは歴史上最大の危機の時代 明治時代に入って学者が関与して来ると、学者の間から歌枕(すなわち歌に詠まれた名 所)の室の八島の存在を否定するような見方が現れます。その例として室の八島の解説に 歌枕の説明のない国語辞典などが出版されるようになります。そして、室の八島という名 所の存在を否定する元になった説なのでしょうか(それとも室の八島という名所の存在が 否定されるようになってから生まれた説かはわかりませんが)、「室の八島=竈(かまど )説」と、史料を読み違えたのではないかと思われる、「室の八島=除夜に行われる竈の 行事説」が出現します。 このようにして、近世には四つないし五つあった室の八島が、この時代にはその四ない し五がぼやけてきたと言いましょうか、ゼロ近くまで落ちかけたと言いましょうか。そし て、それに新しい室の八島が二つ加わり、室の八島は都合六つないし七つに増えます。と いうことで現在室の八島を国語辞典や参考書などで調べると、第1章第4節 「室の八島の歴史の概要 」 の初めに書いたようなことになります。 1.「室の八島の草庵」記念碑(一番古いのは1880年) 大神神社の南隣の もと国府中学校があった所に「親鸞聖人(1173−1263)が 室の八島に草庵を作って百日間逗留した」ことを記念して親鸞の銅像と記念石碑「見眞大師 室の八島 御艸庵遺蹟」が、宇都宮の 安養寺 によって立てられており、浄土真宗の信者は「ここが草庵跡」と理解してますが、 碑文を読むと、石碑のある場所は惣社村で、草庵のあった場所は大光寺村と書いてありました。 つまり草庵の有った場所に現在の蓮花寺が作られたようです。 現在の大神神社が、それまでの室の八島大明神・惣社大明神から大神神社に替えられるのは 1890−1900年頃と考えられますが、「親鸞が室の八島に百日間逗留した」ことを 記念して、最初にこの場所に記念碑が立てられた時期は、まだ室の八島大明神の時代だった ようです(親鸞の像が作られるのは、戦後です)。 と言うことで記念碑は、室の八島の地の当時の鎮守である室の八島大明神の傍に立てられた わけです。 室の八島というのは昔からの地名で、範囲は曖昧だし、時代によって範囲は替わった でしょう。そして「親鸞が室の八島に草庵を結んで 百日間逗留した」という記念碑を建てた当時、 親鸞が「草庵を作った」花見が岡の蓮花寺辺りは既に「室の八島」とは言われなくなりました。 それでしかたなく「草庵を結んだ」方でなく「室の八島」の方に記念碑を立てたんでしょう。 これが浄土真宗の信徒の誤解のもとです。 2.[宇都宮四近町村略志](1892年) 栃木県 編 この史料の後、室の八島明神・惣社明神が大神神社(おおみわじんじゃ)に変わります。 「国府村 大字は惣社、大塚、柳原、大光寺、田村、寄居、国府の七村なり(中略) 壬生町の西に接し、栃木より宇都宮に至るの途次にあり、此地に 国府の跡 、総社明神、室ノ八島、 花見ケ岡の旧跡 あり」 「総社明神 大字総社にあり、当社は 景行天皇四十二年 、諸国の府中に祭し所の一所にて、木ノ花開耶媛の命を祭り、相殿に天照大神、天ノ忍穂 耳ノ命、日子番能爾爾芸ノ命、日子穂穂手見ノ命、大山祇ノ命の五座を奉祀すといへり、 (以上は、古墳時代の事となっており、全くの作り話) ・・・・・・ 当社の 地方 は、元ト 室ノ八島の旧跡 なりしより、一に社号を室明神とも称したり、又都賀郡の式内なる大神神社ハ当社の境内 に在りしを、 天正六年 北条氏直皆川広照と戦闘の時、兵火に罹りしにより、その後当社の相殿に祭しよし、又一 説に大神神社は栃木町大字平井の山上にある太平山神社なりともいへり」 「室ノ八島 大字惣社国府の地方より、煙の立登りしを称せし名にして、此と限りたる区域あるにあら ざるへしといへり、守弘か[下野国誌]に「古へは惣社村も国府の分郷なり、其所に清水 と云所あり、また煙(ケブ)村と云も並ひありて、もと煙の立し所なりと云伝へたり、今 は癸生(ケブ)村に作る、そハ隣郷に壬生(ミブ)あれハ、彼十幹(十干)の兄弟(エト )に依て、近世書改めしものなるべし」としるし次に[袖中抄]第十八を引きて「下野国 ノ野中に島あり、俗に室のやしまとそいふ、室ハ所の名か、其野中に清水の出る気の立が 、煙に似たるなり」云々と記したり、尚ほ此地の外に、室ノ八島と称する所、本郡及芳賀 ・那須の両郡にありて、共に付会の説多し」 (考察)[宇都宮四近町村略志]には池について何も書かれておりませんが、 [ 大日本博覧図 栃木県之部] (1890年刊)の銅版画「室之八嶋大神社之図」には小祠を祭った八つの島のある池が 描かれており、現在の大神神社境内にある池は当時も存在したようです。ただし、銅版画 の池に「室の八島」という標示はありません。 『又都賀郡の式内なる大神神社ハ当社の境内に在りしを、天正六年北条氏直皆川広照と 戦闘の時、兵火に罹りしにより、その後当社の相殿に祭しよし』とは、当社が元々は式内 社の大神神社であったと時の政府に認めてもらいたいために、当時のこの神社がかってに 言っているだけのことでしょう。大神神社を祭るようになるのは、おそらく幕府が式内社 に注目するようになった近世中期以降でしょう。 [宇都宮四近町村略志]では、室の八島とは国府村大字惣社・大字国府辺りを漠然と指 し、(神社や池と言うような)『此と限りたる区域あるにあらざるへし』と言っています 。こういうあやふやなところが、次の「かまど説」や[除夜の行事説]の生まれる遠因と なったのでしょうか? 「尚ほ此地の外に、室ノ八島と称する所、本郡及芳賀・那須の両郡にありて、共に付会の 説多し」だったようです。 この付会の説に興味のあるかたは こちら へ。室の八島の煙=湯煙説があります。 3.室の八島=かまど説 [日本大辞林](1894年) 物集高見(もずめ たかみ)編、宮内省 刊 「むろのやしま 室八島。かまど。除夜に、民の、竈をさらひて、来年の吉凶をうらなふ 事ありて、その時の竈をいふとぞ。散木<さらひする−むろのやしまの−ことこひに−み のなりはてん−ほどをしるかな>」 (考察)歌枕室の八島の説明が無いところをみると、物集高見は、下野の室の八島は実在 した場所ではないと考えていたようです。源重之女の歌の 『−室の八島も名のみなりけり』 を室の八島は実在した場所ではないの意味と誤解したのでしょうか?「散木」と書いてあ るところを見ると、顕昭の [散木集註]や[袖中抄] を参考にして言っているようですが、それらに「下野の室の八島は実在した場所ではない 、竈を下野の室の八島に付会したものである」などと書いてあるわけではありません。下 野の名所ばかりでなく、竈をも「むろのやしま」と呼ぶようだ、と書いてあるだけです。 つまり物集高見は文の意味を読み違えているわけです。にもかかわらず2000年の現在 でもまだこんな間違った明治時代の説を信用している人がけっこういるんです。お気の毒 に。 4.[新釈おくの細道](1896年) 木村正三郎 著 [奥の細道]の注釈を紹介することは、本題ではありませんが、参考のためにこの時代の 注釈を一例紹介しておきます。 「室の八島は、下野芳賀郡(下都賀郡の誤り)総社村に在りし和歌の名 所なるが、今は其の跡田圃となれり(じゃあ、田圃になる前は何だったの?) 、室は地名(そんなこと分かるか)、やしまは竈の義にて (むろのやしまのやしまは八島で沢山の島の意味)、昔此の処の小池よ り水蒸気の登りて、煙りの如く見えしゆゑ、室のやしまと呼ぶと、古人いはれたり (但し江戸時代の古人ね)、祭神は木花咲耶姫にて(えっ、田圃に 祭神がいるの?)、富士の神と同じきゆゑ、一体といへるなり、日本書紀に、天 孫日向の高千穂の峯に降臨し給ひ、吾田の長屋(鹿児島県内説がある)といふ所に到りて (そうです。無戸室の故事の舞台は、下野国の室の八島ではありません)、 咲耶姫を幸し給ふに、姫一夜にして孕みたり、天孫あやしみて我が子に非ずと宣ふ、姫憤 り無戸室に篭りて火を放ち、胎内の児もし皇胤ならずは、妾まさに火に焚かるべしと誓ひ しが、姫の身は恙(つつが、災難)あらで、火々出見尊生れ給ひしこと見ゆ、こは荒唐の 事なれども(ごもっとも)、曾良志ばらく其の聞く所を語るなり (曾良が聞いた話は記紀神話でなく、下野惣社の縁起で、記紀神話の内容そのままではな い)、此のいはれなり迄曾良の言にて、将た以下は記者の語と見るべし (大間違い)。つなしは(魚偏に祭)魚(このしろ)なり、此の魚を炙るときは、 人の屍を焼く香あるゆゑ禁忌すといふ(そんな理由で禁忌したのではない。それ に誰が禁忌しているのか?)。」 (考察)この著者は『昔此の処の小池より水蒸気の登りて、煙りの如く見えしゆゑ、室の やしまと呼ぶ。』『室の八島は、今は其の跡田圃となれり。』というご自身の説明に矛盾 を感じていないようです。[奥の細道]の頃もこの[新釈おくの細道]が書かれた当時も 昔の小池は田圃などに変わっておらず、大きさは変わりましたが池は存在しますので、こ の説明から判断すると田圃に変わったのはかつて小池から登っていた水蒸気ということに なりそうです。ぎょっ 5.室の八島=除夜の行事説 [ことばの泉](1898−9年) 落合直文 著、大倉書店 刊 「むろのやしま 室八島。昔、除夜に、人民の、竈をさらひて、翌年の吉凶をうらなへる わざ。古語。散木<さらひする−むろのやしまの−こととひに−みのなりはてむ−ほどを 志るかな> (考察)歌枕室の八島の説明が無いところをみると、この[ことばの泉](1898−9 年)の著者・落合直文も[日本大辞林](1894年)の著者・物集高見同様、下野の室 の八島は実在した場所ではないと考えていたようです。室の八島を竈でなく、除夜に行わ れる竈の行事としていますが、上記の[散木集註]から引用した和歌は、竈のことを「む ろのやしま」と言い、占いのことは「むろのやしまのこととひ(言問い?)」と言うと言 っているんです。つまりこの[ことばの泉]の言ってることは、[散木集註]の稚拙な読 み違いによるものです。この「室の八島=除夜の行事説}が他の辞典に受け継がれて、西 暦2000年の今日まで生き続けているようです。開いた口がふさがりません。 (参考)改修[言泉](1928年刊) 落合直文著、芳賀矢一改修、大倉書店 刊 「むろのやしま:室八島【名】[地]下野国の歌枕。その址は、下都賀郡国府村大字惣社 。那須郡なる飯室・室井の辺、又、都賀郡茂呂駅の付近など、種々の説あり。東路のつと <あづま路の−室の八島の−秋の色は−それとも分かぬ−夕烟かな>」 (考察)[ことばの泉]の改修版であるこの[言泉]では、室の八島=除夜の行事が削除 されています。室の八島=除夜の行事などとはとんでもないということで、芳賀矢一が改修 時に削除したんでしょう。賢明です。 6.大神神社の誕生 [下野神社沿革誌](1902−03年) 風山広雄 編、逆川村(栃木県) この史料から、室の八島明神・惣社明神が大神神社(おおみわじんじゃ)に変わります。 「 国府村大字總社室八島鎮座 郷社大神神社 祭神大物主櫛みか玉命 相殿 祭神天津彦火々瓊々杵命、 大山祇命、彦火火出見命、木花咲耶姫命 新宮天照皇大御神 相殿 祭神正哉吾勝速日、天忍穂耳命 ・・・・・・ 本社創建遼遠にして詳ならず。延喜式内にして明治五年(1872年)郷社に列す。社伝 に曰く、磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、崇神天皇の皇居)の御宇天皇御世、豊城入 彦命を(註:次の文との脈絡なし?)日本大三輪大物主神及び相殿の神四座、新宮の神一 座、新宮相殿の神一座を室の八島の地に斎奉り賜ふ。延喜神名式に下野国都賀郡大神社と あるは則此御社の御事なり。 ・・・・・・ 室の八島は古より名高き勝地にして、和歌にも多く煙を詠合せぬ。此地は本社より 坤方五丁弱 ある野中にあり(今人家畑山林点々たり)て、此地より今尚清水数多湧出して、其水蒸騰 して煙の如く見ゆるが故なりと。[下野国誌]に曰ふ『室八島は総社村にあり。其隣郷に 国分村ありて、古へは総社村も国分の分郷なり。其地に清水と云ふ処あり、又煙村と云も 並てあり』(後略)・・・」 (考察)栃木県立図書館にメールして、下野惣社が明治時代のいつ、式内社の大神社に相 当する大神神社に替わったのか調べて頂きましたが、これこれの年に替わったというそう いう年はなさそうです。筆者の調査によれば史料上は、前出の[宇都宮四近町村 略志](1892年)とこの[下野神社沿革誌](1902−03年)との間に、それま での惣社大明神、室の八島大明神あるいはそれに類する名前の神社から大神神社に替わっ ていたようです。 補足説明 室の八島は『本社より坤方五丁弱ある野中にあり』とありますが、そんな所にも『今尚 清水数多湧出』する室の八島が存在したのかどうかちょっとわかりません。なお神社自身 は幕末の頃から、この文の冒頭にありますように、『国府村大字總社室八島(に)鎮座』 、すなわち室の八島を神社周辺の土地であるとしているようです。 7.[画行脚](1908年) 小林鐘吉 著、彩雲閣 刊 「栃木付近」の章 「延喜式の内の室の八島は往還に可なりの機屋がある処を左手に半鐘に付いて這入るので 、二町程も行くと繁った杉の森が有る。社は其の中央にあって、古歌に残っている八の泉 は哀れに形計りを止めて、草は茫々と生い茂り野萩や薄(すすき)や 水引 や水の中には藻が乱れて小 高い茂みには熊笹が所厭はず生へている」 (考察)冒頭の『延喜式の内の室の八島』とは「式内社である室の八島」の意味でしょう 。小林鐘吉は、神社と境内の池をまとめて室の八島としています。これは現在の考え方と 同じです。ただし『古歌に残っている八の泉は哀れに形計りを止めて、草は茫々と生い茂 り野萩や薄や水引や水の中には藻が乱れて小高い茂みには熊笹が所厭はず生へている』様 子を見ると、この神社は池を室の八島とはしていなかったんでしょう。 8.やしま=釜説 修訂[大日本国語辞典](1915年初版、1939年修訂版) 上田萬年(かずとし)、松井簡治 著、冨山房 「むろのやしま 室八島(名)「やしまは釜なりと。 色葉和難抄 」昔、除夜に竈を払い清め、翌年の吉凶を占ひたりといふこと。散木集冬<さらひする− 室の八島の−ことこ(と)ひに−身のなりはてん−程を知るかな>袖中抄十八「むろのや しま中略師走の晦日の夜、田舎のげすの、かまどの灰をさらへて、おき取り置きて、其れ が消えきらぬさまにて、次の年あらんずる事を見る事の侍るにや」 (考察)歌枕の説明なし。室の八島=除夜の行事説も「やしまは釜なり」も大間違い。 国語辞典に「(歌枕むろのやしまの)やしまは釜なりと。色葉和難抄」を採用したのは 、この[大日本国語辞典]が最初でしょうか? 9.室の八島の煙=炊煙、竈の煙説 [山水小記](1918年刊)中の「日光」 田山花袋 著 「下野國志に、室の八島の夕暮の炊煙に包まれたさまを描いた挿繪が一枚入つてあるが、 それを見ると、昔の旅行のさまが歴々(ありあり)と私の眼の前に浮んで見えるやうな氣 がした。」 (考察)田山花袋が見たという挿絵は、明治期に出版された[下野国誌]に見当たらない ので、1916年版でしょうか?それとも[下野國志]は誤りでしょうか?いずれにしろ 、この文を読むと室の八島の煙を炊煙、竈の煙とする見方もあったようです。この炊煙と いう発想は [平治物語] (鎌倉時代初期)辺りから出てきたものでしょうか?水面から立ち昇る水蒸気説を否定す る説もあったんでしょうか? 10.[花の話](1928年) 折口信夫 著 「『ほりかねの井』など言ふものも、後になつて出来た。下野には『室の八島』がある。 此類のものは他にも沢山ある。旅行者が、旅路の見聞談を敷衍して話した為に、都の人々 は非常な興味を持つて居た。『常陸帯』の由来も其一つである。総じて東国のものは、奥 州に跨つて、異国趣味を唆る事が強かつた。」 (考察)折口信夫は「室の八島」も「ほりかねの井」同様後世作られたものであると言って います。これは、本来の室の八島はどんなところであったか?実際に存在したのか?など と疑っているようです。 11.[大辞典](1936年) 下中邦彦編、平凡社 刊 (1)ムロノヤシマ 室の八島 八島は釜なりと。昔、除夜に竈を払い清め、翌年の吉凶 を占ひたるにいふ。[袖中抄]十八・むろのやしま(平)「師走の晦日の夜、田舎のげす の、かまどの灰をさらへて、おき取り置きて、それが消えきらぬさまにて、次の年あらん ずることを見る事に侍るにや」[散木集]・冬(平)<さらひする−室の八島の−ことと ひに−身のなりはてむ−程を知るかな> (2)ムロノヤシマ 室の八島 下野国の歌枕。栃木県下都賀郡国府村大字総社の辺なり といふ。夫木・島<待てしばし−けぶりの下に−なからへて−室の八島も−人は住みけり > 隆祐朝臣 (考察)落合直文の[ことばの泉](1898−9年)の影響を受けているのでしょうか 、(1)では室の八島を除夜に行われる竈の行事のこととしているようです。これが修正さ れずに少なくとも1985年の復刻版第14刷まで続いています。 この[大辞典](1936年)の内容を見ると、池の室の八島は、幕末からこの193 6年頃までの間、それ以前と比較して影が薄くなっていることがわかります。ところが戦 後になりますと、池が奇妙な形で復活することになります。 この[大辞典]の編集者が藤原隆祐の歌を取り上げたのはよかったです。この歌に登場す る室の八島は中世室の八島です。室の八島を人の住む集落だったとするのはこの資料だけ です。 この章終わり 第6章 現代室の八島(戦後の室の八島) よく言えば「俳枕室の八島」の時代、皮肉をこめて言えば「奥 の細道解説書室の八島」の時代 現在言われている神社や池の室の八島を室の八島ではないと否定するつもりはありませ んが、歌枕であるとすると、平安時代から歌枕だったのかと誤解されるおそれがあります 。そこで、第二次世界大戦(1945年終結)後に[奥の細道]の解説書やその読者によ って作られた現在の室の八島のイメージを「現代室の八島」「戦後の室の八島」「俳 枕室の八島」などとしておきます。 さらに宗教という迷路の奥へ 第二次世界大戦終結(1945年)後になりますと、室の八島と言っても影が薄くなり 、平安時代以来多くの歌人に詠まれた歌枕であるにもかかわらず、近世の作品である松尾 芭蕉の[奥の細道]に出てくる歌枕としてしか理解されなくなるようです (註3)。 そしてその[奥の細道]の解説書は、本来の室の八島が神社や池でないことを知ってか知 らずか、[奥の細道]の記述どおりに室の八島とは神社であると言い続けており、ときに 貝原益軒の [日光名勝記] (1714年刊)を引用して、その境内にある八つの小島のある池である(現在の池は貝 原益軒の時代の池ではないんですが)と言っているようです。ということで今ではほとん どの人が、室の八島とは神社である、または池であると信じています。おまけに池の八つ の小島に祭ってある小祠まで室の八島と関係があると考えているようです。これが西暦2 000年現在の室の八島の実体です。これを戦前までの室の八島と比較していただければ 分かると思いますが、神社や小祠を祭った池が室の八島とされるのは、室の八島の長い歴 史から見ればつい最近のこと、わずか50〜60年ほど前の第二次世界大戦終結後からなん です。 戦後の室の八島については、他のウェブサイトにたくさん紹介されていますので、ここ ではあまり紹介しませんし、個々の資料については説明しませんが、戦後の室の八島の特 徴は、[奥の細道]を起源とするが、[奥の細道]に紹介されている室の八島そのままで はなく、[奥の細道]の室の八島を誤って理解したその解説者や読者によって作られた誤 った[奥の細道室の八島]のイメージであるということです (註4) 。また直前の室の八島である戦前の室の八島とは全く繋がりがなく、歴史的に特異な経路 を経て誕生した室の八島であるということです。 なお池を室の八島とする見方には、大神神社が 境内案内 で、八つの小島のある池を室の八島として紹介していることも大いに影響しているでしょ う。江戸時代の惣社大明神(室の八島大明神)は室の八島を池から神社に転換しようとし ていました([奥の細道](1689年旅))が、それがうまく行かず、幕末には神社の ある土地が室の八島である([室八島山諸書類調控帳](1838年))と主張を変え、 次いで、明治時代以降のいつ頃からか知りませんが、 室の八島 を元の池に戻しました。 そして近年は、室の八島を神社周辺の土地とし、池のことは通説室の八島としています。 神社のやることもいい加減ですね。 ところで、大神神社の故荒川真澄宮司(−2004年?)時代に作られたと思われる [大神神社由緒] (晩年の作品か?)によれば、氏は室の八島を「景勝の地」、「名勝の地」と正しく認識 されていたようです(そのため最近の池の案内板では、「 通説 室の八島」と、頭に「通説」を付け加えているようです)。[奥の細道]の室の八島など 後世のエセ室の八島に振り回されていないところはさすがです。惜しむらくは、氏は中世 室の八島の地である大神神社周辺を、本来の室の八島の地であると誤解されていたようです。 なお、明治時代以降になりますと、中世室の八島「下野国府一帯」のイメージは完全に 消滅することになります [栃木県市町村誌]。 ところでもっとまともに室の八島を解説した本は無いのかと言えば、中世室の八島の下 野国府に触れた参考書類は皆無ですが、実は平安室の八島の真実にせまった辞典類がいく つもあります( [角川日本地名大辞典] [大辞林] ほか)。でも残念なことに、それらに書かれてあることはほとんど読まれておりません。ま た明治時代に吉田東伍が[大日本地名辞書](1903年初版)の中で豊富な史料を用い て室の八島を解説していますが(幕末に下野国の人によって書かれた[下野国誌 ]を参考にしたようですが)、ほとんど省みられておりません。この本は多くの 公立図書館にあり、収録されている史料だけでも眺めていれば、本来の室の八島が神社や 池などではないということが分かるんですが ・・・・・・などと、独り言を言っても世の中変わるわけでなし。現在は江戸時代に書 かれた「奥の細道」の記述、と言うよりその解説書のデタラメな解説内容をベースにして いにしえの歌枕が論じられ、加えてそれを読んで評論家やら読者やらが感動している時代 ですので、なんともはや申し上げようが御座いません。歌枕室の八島もここに極まれり。 1.[広辞苑](1955年 初版) 新村出 編、岩波書店 「室の八島 @(八島は釜の意)昔、除夜に竈をはらい浄め、翌年の吉凶を占ったこと。 散木『さらひする−のこととひに』 A栃木市国府町惣社にある大神神社(室の八島明神) 【地図】 。また(註)、そこにある池。 水気 が立ち上って煙のように見えるという。(歌枕)」 (註)また : この著者はこの「また」が、andの意味か?orの意味か?著者自身が 理解していないからこういう表現になってます。 (考察)@もAも大間違い。こんなでたらめな内容でも、[広辞苑]に載っているから その影響は大きいんです。[広辞苑]より後に発行された国語辞典が、皆[広辞苑]を マネしてます。→ なお@について、冒頭の『(八島は釜の意)』と、次の文の『昔、除夜に竈をはらい浄め、 翌年の吉凶を占ったこと』とが、どう結びつくのかチンプンカンプン。 なぜここに『(八島は釜の意)』を持ち出さなければならないの? 更に、説明の『昔、除夜に竈をはらい浄め、翌年の吉凶を占ったこと』は、「室の八島」の 説明文ではありません。この文は、その次の文『散木「さらひする室の八島のこととひに」』 に出て来る『室の八島のこととひ』という、昔宮中で行われていたと思われる年中行事の 説明文です。除夜に竈、すなわち室の八島 (註6) をはらい浄め、翌年の吉凶を占う、すなわち昔の言葉で言えば室の八島に 言問ふ ので「室の八島のこととひ」と言います。 また冒頭の(八島は釜の意)について、かつて「八島」が、竈神(かまどがみ)あるいは 竈を意味したことはありますが、(八島は釜の意)だった歴史は一切ありません。 ですから、最初に書きましたように『(八島は釜の意)と、「昔、除夜に竈をはらい浄め、 翌年の吉凶を占ったこと」とが、どう結びつくのかチンプンカンプン』なのは当然なんです。 だって(八島は釜の意)が歴史上存在しなかったので、両者が結びつくことは有り得ないんですから。 [色葉和難集] また、神社と境内の池との両方を歌枕の室の八島とするAは、松尾芭蕉の[奥の細道] の影響を受けて戦後生まれた、現在の代表的説です。この説は、この[広辞苑] (1955年 初版)が最初に言い出したんでしょうか?戦前までは、こんな説は 無かったんです。神社の室の八島と池の室の八島とは、室の八島としての歴史が全然違うんです。 まあどっちも本来の室の八島ではありませんが。なお[奥の細道](1702年刊)が 出て来るまでは、室の八島は宗教と無縁だったんです。 蛇足ですが、『大神神社(室の八島明神)』という表現をみると、大神神社 (おおみわじんじゃ)は別名室の八島明神とも言うのかと受け取れるでしょう。 しかしそんな神社は存在しません。この神社は、江戸時代には木花咲耶姫を主祭神とする 室の八島明神という神社でしたが、明治時代の1900年頃に倭大物主櫛みか玉命 (やまとオオモノヌシくしみかたまのみこと)を主祭神とする大神神社という別の神社に 替えられました。ということで大神神社は室の八島明神から場所と建物を引き継ぎましたが、 歴史は引き継げないんです。ですから大神神社が言ってる1900年より前の大神神社の歴史の話は 全くの作り話です。 →小学館発行の中型国語辞典・下記[大辞泉]などは、基本的にこの[広辞苑]の 考え方を踏襲したものです。ここには挙げませんが学研教育出版の[学研全訳古語辞典]も ほぼ同じ内容です。 [大辞泉]小学 館 「むろ‐の‐やしま 【室の八島】 @《「八島」は釜の意》古代の占いの一。除夜にかまどを祓い清めて、その灰の状態で翌 年の吉凶を占ったもの。 A栃木市惣社町にあった下野(しもつけ)の国の総社、大神(おおみわ)神社。そこにある 池からは絶えず 水気 が煙のように立ち上がっていたのを、かまどから煙が立ち上るのに見たてた。[歌枕] 「朝霞深く見ゆるや煙立つ―のわたりなるらむ」〈新古今・春上〉」 (考察)Aの『栃木市惣社町にあった下野の国の総社』とは、明治時代の1900年頃に 誕生した現在の大神神社のことではなく、それまで存在した惣社大明神・別名室の八島大明神の ことです。ですから、『栃木市惣社町にあった下野の国の総社、大神神社。』と書くのは 間違いです。 また『池からは絶えず水気が煙のように立ち上がっていた (註7) のを、かまどから煙が立ち上るのに見たてた。』って、この著者の単なる空想・つまり デタラメです。そんなことを言ってる史料は一つもありません。また 『かまどから煙が立ち上るのに見たてた。』って言ってるが、室の八島の煙を竈の煙に 見立てた史料は非常に少ないです。まあそんなことより池から立ち昇る水蒸気も、 竈の煙も、どちらも本来の室の八島の煙ではありませんが。 更にAの[新古今](1205−1210年)の歌にある室の八島は、土地(場所)の 名前でして、神社とは関係ありません。なぜって、[新古今](1205−1210年) の時代には、まだ[奥の細道](1702年刊)は生まれてませんから。 [奥の細道]が出てくるまでは、室の八島は宗教と無縁だったんです。 2.[講談社古語辞典](1969年刊) 「むろのやしま 室の八島 (「室」は出入り口をふさいだところ、「やしま」は、 かまどの意)下野の国都賀郡、今の栃木県国府村にある室八島明神。コノハナサクヤヒメを 祭り、同神が火中の無戸室で三神を出産したことに由来する社名という。「−に詣す」 (奥の細道・室の八島)」 (考察)えっ『室は出入り口をふさいだところ』だってそんなアホな、それコノハナサクヤヒメの 神話に出て来る無戸室(うつむろ)のことでは? これ以降の文もしっちゃかめっちゃかなので、 誤りをいちいち指摘する気になれません。 3.角川小辞典 35[歌枕歌ことば辞典](198 3年) 片桐 洋一 著 「むろのやしま【室八島】下野国の歌枕(西暦900年頃から和歌に詠まれた) 。今の栃木県栃木市。この地にある清水の水が蒸発して煙のように見える (1100年頃に出てきた間違った「室の八島の煙」説)ということから 「室の八島の煙」という形でよくよまれた。下野国の惣社である大神神社の池にある 八つの島がそれだということで芭蕉も参詣しているが(嘘つけ!道連れの曾良が 室の八島とは神社であるというから神社を訪れたのだ。池を訪れたのではない。 [奥の細道]に池のことは何も書かれてないだろう。あきれることにこの著者[奥の細道] を読んでない。)、おそらくは後の付会であろう(正しくは付会でなく、 誤解。)。「室の八島」は藤原実方の「いかでかはー思ひありともー知らすべきー 室の八島のー煙ならでは」(詩花集・恋上、実方集)という歌に始発するゆえに (始発の和歌なんか残ってるか!)陸奥守になった実方に託して陸奥の歌枕と されているが(この著者どっからこういうでたらめな話を仕入れてくるんだろう) 実方と小大君との贈答に「この頃はー室の八島もー盗まれてー思ひありともー えこそ知らせね」(実方集、小大君少異あり)などとあるのを見ると、『竹取物語』 にも見える宮中の大炊寮にあった「八島の鼎」のことではなかったかとも思われてくる。 「鼎」であれば「煙」とともによまれるのも当然であるからである。」 (辞典類に空想は書くべからず) (考察)『この頃は・・・盗まれて』ということは、以前は盗まれなかったということでは? そして以前は盗まれなかった、というより盗みようがなかった理由は明白でしょう。 この著者さん、室の八島について何も書いてない[竹取物語]なんぞを引用する前に、 [散木集註] でも読んでみては。 4.[角川日本地名大辞典]9;栃木県(1984年 ) 角川書店 「むろのやしま 室の八嶋<栃木市>栃木市惣社町地内の大神神社境内には8つの人工の 小島があり、それぞれに浅間神社の小祠があり(浅間神社だけではない) 、これを総称して「室の八島」という。 この地は、東方思川水系の小倉川が流れるが扇状地であるため伏流し、この付近で湧水と なってあらわれる。すなわち扇端部にあたる。水に縁のある「嶋」の地名もこのようなこ とからでてくるのではなかろうか。また古くから和歌の歌枕としてこの語が使用され、勅 撰和歌集である「八代集」にもしばしばあらわれ、藤原実方以来数十首の歌に詠まれた。 また「平治物語」「奥の細道」にも出てくる文学上の故地でもある。」 (考察)この著者が室の八島という名前に着目したところは共感しますが、平安時代の史 料は参考にしたんだろうか?参考にしていればもう少し本来の室の八島の真実にせまるこ とができたと思うんですが。それと「平治物語」と「奥の細道」が言う室の八島は全く別 物です。ところで扇状地の扇端部ってホント?地形図からはとても扇状地にはみえないん だけど。 5.[大辞林](1988年初版、価格約八千円) 松村明編、三省堂 「むろのやしま 室の八島 古来の和歌などに見える地名(そうです。地名です )。現在の栃木市惣社町 【地図】 にあったとされる。野中に清水が湧き出、立ち 上る水蒸気が煙に見えたという。現在、大神神社(上の地図に有り) の境内の池中の島を室の八島の跡というが、後の付会(つまりこじつけ) と思われる。(歌枕)<いかでかは思ひ有ともしらすべき−の煙ならでは>詞花恋上」 (考察)国語辞典や参考書類の中で、この[大辞林]の書き方が最もまともなようです。 (この辞典のように1980年以降の発行になると、内容がかなりまともになる印象です。) 『・・・あったとされる』『・・・見えたという』が、正確なところはよくわからないとい う謙虚な態度に好感が持てます。また『・・・、後の付会と思われる』も、本来の室の八 島ではないという意味で正しいと言ってよいでしょう。おそらくは付会でなく誤解を重ね た結果だろうと思いますが。 ・・・・・辞典類の記述はこうでなくっちゃ。 6.[日本国語大辞典]第二版(2000−2002 年、初版は1972−76年) 小学館 「むろのやしま 室八嶋 [1](「やしま」は釜の意)語義未詳。一説に、竈(かまど)のこと。昔、除夜に竈を 払い清め、その灰の状態で翌年の吉凶を占った習俗を「室のやしまのことこひ」といった という。*散木奇歌集(1128頃)冬<さらひする−むろのやしまの−ことこひに−身 のなりはてん−程を知るかな>*袖中抄(1185−87頃)十八「むろのやしま<略> 此歌はかまどを室のや嶋とよみたるにや。師走の晦日の夜、ゐ中のげすの、かまどの灰を さらへて、おきて、其が消きらぬさまにて、次の年あらんずる事を知ると云る事の侍る とかや」*色葉和難集(1236頃)五「むろのやしま<略>又一義云、むろのやしまと はかまどをいふなり。かまをぬりこめたるをむろといふ。室なり。かまをばやしまといふ なり。大嘗会の行幸にも、かまのわたるをばやしまのわたるといふなり [2]栃木市惣社町にある大神(おおみわ)神社の古称。そこにある池は水気が立ち上り 、煙のように見えるところから、つねに煙のたつ所として歌枕に用いられた。室八島明神 。室六所神社。*実方集(998頃)<いかでかは−おもひありとも−知らすべき−むろ のやしまの−けぶりならでは>*続詞花(1165頃)雑中「おほやけの御かしこまりに て下野国に遣はされける時、むろのやしまを見て、<わがために−有りける物を−東路の −室のやしまに−たえぬ思ひは>藤原成範」*和漢三才図会(1712)六十六「下野 <略>野中有2清水1、其水気上如レ煙、歌人称2之室八島煙1」 (考察)権威ある[日本国語大辞典]第二版でこのありさま。 7.インターネットウェブサイトより(2005年採 取) 1)「大神神社敷地内には、池の8つの島に祠がある「室の八島」が有り」 2)「大神神社境内にある「室の八島」という8つの祠」 (考察)これらは[奥の細道]愛読者のウェブサイトにある室の八島の説明です。このよ うに現在の室の八島は、近世室の八島の池と異なり、小祠が室の八島の一部ないし室の八 島そのものとなっています。これらは[奥の細道]に書いてある室の八島、すなわち神社 (の境内一帯)と、当の神社が(通説)室の八島であると案内している境内の池とを混同 し、かつ[奥の細道]の影響を受けて宗教が絡んできた、すなわち、池の8つの島の小祠 を室の八島と関係があると誤解したものです。そのように解説している[奥の細道]解説 書でもあるんでしょうか?それにしても2)の小祠そのものが室の八島であるというのは 無茶苦茶ですね。 この章終わり 第7章 総括その他 ここまで学習してきたところで、あなたに室の八島に関する問題を出します。 [問 題] 惣社町の大神神社の参道入口に「室の八島と肩書きのある大神神社」の看板があります。 これは先代の宮司時代に立てられたものですが、さて「この看板にある」室の八島とは何 を意味するんでしょう? A:神社ないしその神域 B:境内の池 C:池の8島に祭ってある小祠 として、該当する「この看板にある」室の八島を下記の中から選びなさい。 1.Aであり、Bは無関係 2.Bであり、Cは無関係 3.Cである 4.A+Bであり、Cは無関係 5.B+Cである 6.A+B+Cである (ヒント1) (ヒント2) [解答]と[解説] 解析結果総括 1.歴史上登場した室の八島 1.平安室の八島:本来の室の八島〜野中に清水のある所(900以前-1150年、250年 間以上) 2.中世室の八島:下野国府の集落一帯(1150-1600年、450年間)、 3.近世室の八島:その1 八つの小島のある池、その2 癸生村(けぶむら)辺り、その 3 下野惣社周辺の土地(1600-1850年、250年間) 神社縁起室の八島(奥の細道室の八島):下野惣社(今の大神神社 ) 4.近代室の八島:竈(かまど)、除夜に行われる竈の行事、室の八島は実在した場所では ない。(1850-1950年、100年間) 5.戦後の室の八島(俳枕室の八島):大神神社、その境内にある小祠を 祭った上記の池、あるいはその小祠そのもの(1950年-、50年間) 6.下野以外:近江の室の八島、なお近江以外にもあったか否かはよくわかりません。 (1100年-) 実は今まで誰も気付かなかった中世室の八島の時代が一番長かったんで す。また松尾芭蕉の[奥の細道]にある神社の室の八島が定着するのはつい最近のことな んです。 2.歴史上登場した室の八島の煙 1.恋の煙(900年頃) 2.火を焚く際に発する煙(1と3との間) 3.野中の清水から立ち昇る水蒸気(1100年頃) 4.下野惣社(今の大神神社)境内の池から立ち昇る水蒸気(近世初期) その他省略 3.和歌について 1.本来の室の八島がどんなところかをわかっていて詠まれた歌は一首も無いかも知れない 。 2.次の歌は、室の八島が本来の景観を保っていた時期か、或いは既に本来の景観は失われ ていたが、まだ場所は分かっていた時期の室の八島を見知っていて詠まれた唯一の歌かも しれない。 源重之女(1000年頃の歌人か?) 人を思ふ−思ひを何に−たとへまし−室の八島も−名のみ也けり 4.本来の室の八島とその煙について 本来の室の八島の景色を表現していると思われるのは、室の八島という名称だけのようだ 。 また本来の室の八島の煙は、和歌における恋の煙のようだ。 調査を始めた当初は、室の八島が六つも七つも出てきて、どれが正しいのかさっぱりわ かりませんでした。それがこのように正しい 発想・手順・技 法 でその謎を解いていけば、それらがきちんと整理されて理解できるようになるものです。 ・・・・・・これも「コロンブスの卵の話」ですか? 遊 び 地名・施設名をかってに替えちゃいます。 以上の調査結果から、名前を替えた方がよさそうな地名・施設名がありそうですので、 筆者がかってに名前を替えちゃいます。これは別に希望・要望ではありません。どこかに 要望したってそう簡単に替わるわけでなし。筆者はそんなまどろっこしいことはしません 。
さて、さまよえる歌枕室の八島は、この後どこへ向かうのでしょう。平安時代の故郷に戻 ることができるでしょうか? |