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第5章 近代室の八島・第6章 現代室の八島 以降の備考の 補遺


安養寺
宇都宮市材木町5−15
由緒:宗祖(親鸞)は下野国花見ヶ岡において大蛇を済度し草庵を創建、弟子順信房に譲 ったのが当寺の始まりである。
寺宝:花見岡草庵本尊阿弥陀如来(親鸞作)

崇神天皇
生没年未詳、古墳時代、実在した可能性のある最初の天皇。

豊城入彦命
記紀に伝わる古代日本の皇族。第10代崇神天皇皇子である。
東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる。

(註1) 村落のことを古くは島と言いました。ヤクザ言葉で縄張りを意味するシマはそれ から派生したものです。なお、沖縄では現在でも村落を意味する島という言葉が生きてい ます。

茂呂駅
現在の「栃木市岩船町茂呂」付近のようです。 【地図】

清水浜臣
(1776−1824年)江戸後期の国学者。江戸生れ。考証学派の影響を受ける。

大神神社
[下野国誌](1850年刊)の大神社の項に「大神社・・・今都賀郡国府の惣社明神の相 殿に祀りてあり」とあるところから、1700年代の幕府による式内社比定作業の絡みで 、どういう人たちが比定したのか知りませんが、この時代、既に式内社の大神(神)社が 現存社の下野惣社に比定されていた可能性があります。

ふる歌
『伊吹の山を尋ねなば−』の歌のこと。
[奥細道註](江戸時代後期か?調査未了)によれば、次の歌のことらしい。
「宗祇法師方角集
 下野の−いぶきの山を−尋ねなバ−むろのやしまの−にしにこそあれ」

 この歌が連歌師・宗祇(そうぎ 、1421−1502年)の作品とは思えませんが。
そうだ、下野の伊吹の山は、[下野国誌]が言う栃木市吹上町の小山などではなく、太平 山だ!?

あがた
地方。いなか。

磯上
[和名類聚抄](934年頃成立)
国郡部第十二 下野国
「下野国那須郡 那須、・・・、石上(いそのかみ)、・・・」
 磯上を、この[和名類聚抄]にある「石上」に該当する土地であるとして、この辺りが 古くから拓けていたと主張したいようです。

黒羽侯
この黒羽侯を[答問雑稿]の書かれた1802−1822年頃の黒羽藩主とすれば、第1 0代(在位1802−1811年)の大関増陽(藩主時代の年齢は19−28歳)か、第 11代(在位1811−1824年)の大関増業(藩主時代の年齢は31−44歳)が該 当しますが、年齢とその業績から推定して大関増業(おおせき ますなり、1781or1 782−1845年)と思われます。
 この大関増業の著作である[室の八島]が掲載されている、
[如蘭社話]後編巻18、(後編は1913−1916年)如蘭社事務所発行
という資料があるようですが、まだ調査できておりません。

(参考)
[創垂可継(そうすいかけい)](1817年)
下野国黒羽藩主・大関増業(おおぜきますなり 1782−1845)が、古記録や古老 からの聞き取りをもとに、黒羽藩の歴史・諸制度・法制・農政・藩士の家譜・郷村の地誌 等を編纂した叢書。

「那須の郷原(ごうはら)の中に所々離れて室という村名あり。これ古の室の八島の旧跡 なり。国造(くにのみやつこ)以来これは所々室々で氷室を製する事を命ぜられし土地な り。びょう茫たる広原にて川流れ彼の那須嶽より眺望するときは蒼海の如し。故に古より 室の八島と名付けしなり。大野室、数ケ室、薄室、板室、室野井、柏室、逃室、岡室皆一 二里または三四里は隔つ。」

伊吹山
和歌に伊吹山のさしも草と詠まれた山のことですが、どの山のことを言 ってるのかさっぱりわかりません。茶臼岳のこと?

御神体は男体山
[室八島山諸書類調控帳](1838年)にあり、この[控帳]編集時に内容をでっち上 げられたと思われる[下野国室八嶋大明神勧進帳(1675年)]によれば、
「惣社大明神ノ奥院ハ国長山(下の註)頂ニ有」だそうで、それで、故荒川宮司は大神神 社の御神体は男体山だと言ってたのでしょう。しかし[下野国室八嶋大明神勧進帳(16 75年)]には、男体山がこの神社のご神体であるなどとは書かれておりません。

国長(クニカミ)山 : 日光の男体山のことで、黒髪山に変わる前の名前であるとこじ つけられています。つまり「クニカミ山」が訛って「クロカミ山」となったってこじつけ たいわけ。

(註9) 上記宝馬の『日光山紀行』の文を読むと、1738年頃に池が小さく作り替えら れた後の小島には竹は植えられず、代わりに社頭に笹が植えられたようです。

(註10)
[延喜式神名帳](えんぎしき じんみょうちょう)(927年)
この中に惣社という名前の神社は無い。

[神社辞典]東京堂出版(1997)
「総社とは、一般には一国の総社を指していうが、一 郡・一郷の総社、寺院の総社、 私人宅の総社などの例もある。
各国総社 の起源については諸説があるが、平安中期から末期にあると推定される」

[時範記](ときのりき、じはんき)(1099年)
 平時範 著
 惣社(総社)の史料上の初見は、この[時範記]の康和元年(1099年) 二月十五日 の条の「因幡国総社」のようです。

という事で下野惣社は、平安時代の1000年〜1100年の間に創立されたものと 判断されます。

(註11) 1640年旧4月20日に三代将軍家光が東照宮社参の帰途室の八島に立ち寄ったことは [徳川実記] にありますが、室の八島を訪れたついでにこの神社を「参詣された折に名社の余りにも衰 退していることを嘆かれて社人等の請願も容れて諸大名に命じて多数の金品の寄進をされ た。」というのはこの神社の作り話です。

権禰宜(ごんねぎ)
禰宜(ねぎ) : 神職の職称(職名)の一つである。「祢宜」とも書く。 今日では、一般神社では宮司の下位、権禰宜の上位に置かれ、宮司を補佐する者の職称 となっている。

権禰宜(ごんねぎ) : 神職の職階の一つで、禰宜の下位にあたる最も一般的な 職階。宮司および禰宜が一般的に、1社に1人ずつと決められているのに対して、権禰宜には 人数制限は特に設けられていない。権禰宜の下位に「出仕」などの職階が置かれることもあるが、 それらは神職には含まれない。

富田村
1889年に駒場村、迫間村、奥戸村、西場村、稲岡村、多田木村、寺岡村が合併し足利 郡富田村が成立する 【地図】 。1959年足利市に合併する。

「沿革・・・・・・
往古下野の国庁は、上下毛野国に分かれてから室の八島(下都賀郡国府村地内) に移されたのであるが、両国を一体として毛野国と呼ばれていた時代には、当郡(安蘇郡 )の筑波村付近が国庁の所在地だったといわれる。その頃中仙道から足利・佐野を経て室 の八島に至るものとすれば、当地はその通路であった。」

(考察)この文は[富田村郷土誌](1911年編纂)に載っていた内容と思われますが、 室の八島の場所をずばり中世室の八島の下野国府の集落一帯としています。
これは、室の八島の現地ではとうの昔に忘れ去られたことが、室の八島から離れた土地で生 き残っていたということでしょう。これは昔の言葉が都でつかわれなくなった後も、地方 の方言として生き残っている例と似た現象でしょう(方言周圏分布)。


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