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近世室の八島

→池  →下野国府・癸生村  →[奥の細道]  →吉田神道の野望  →近世の印象


第4章 近世室の八島
室の八島がもっとも知れ渡った時代。但し知れ渡ったと言って も・・・
 下野惣社 は下野国の惣社としての役目を終えた後、室の八島の地の土地の神(氏神、産土神、地主神、 鎮守神?)になったんでしょうか?
この神社の近く、すなわち中世室の八島の地に、「本来の室の八島の景勝地は、かつて 下野国府の集落があった辺り一帯の土地(つまり中世室の八島の地)のどこかにかつて存在 したんだろう」という考えから生まれたものと思われますが、
本来の室の八島を想像してそのミニチュアとでも言うべき八つの小島のある池が作られます。
(すいません。この辺の経緯の分かる史料が見つからないんで、全くの想像です。なお当 初の池は現在の大神神社境内にある池より、ずっと大きな池でした)。

そして、この池はいつしか土地の人達から室の八島と考えられるようになり、池から立ち 昇る水蒸気(蒸気霧)が室の八島の煙であると考えられるようになります。
この室の八島の池は、その後下野国外まで知られるようになり、江戸時代を代表する室の 八島となります。

ところがこの池は1738年頃に今のような小さな池に作り替えられてしまいます。
そうなると当然のことながら土地の人は作り替えられた後の池を室の八島とは見なくなり、 室の八島と見るのは作り替えられたことを知らない人達だけになります。

 なお現在は、この池の八つの小島に小祠を祭ったものを室の八島と考えている人が多そ うですが、これは室の八島の池に下野惣社(今は大神神社)が小祠を祭っているだけであ って、小祠は室の八島と全く関係ありません (註0)

 ところで室の八島の池だけでも、室の八島がとんでもないものに変貌してしまったと思 いますが、
それに輪を掛けたように、下野惣社が(正確には或る神道組織が)「室の八島とは池では ない。この神社の境内一帯のことである」と言い出します。
それはこの神社の社殿が再建されて、縁起譚の内容を新しく作り替えるにあたって、室の 八島が池では都合が悪かったんです。
そうしてこの頃から、室の八島が宗教という迷路に迷い込みはじめ、第二次世界大戦後は さらに迷路の奥に迷い込むことになります。
なおこの神社(の境内一帯)の室の八島は江戸時代を通じて世間にはあまり浸透しなかった ようです。特に下野国の人たちは、こんな馬鹿馬鹿しい話を誰も相手にしませんでした。

 更に、池ばかりでなくこちらも「本来の室の八島の景勝地は、かつて下野国府の集落一 帯のどこかにあったんだろう」という考えから生まれたものでしょう、
下野惣社のある惣社村の北に隣接していたと思われる癸生村(けぶむら)辺りが、土地の 名前が室の八島の煙(けぶり)に関連付けられて、室の八島に比定ないし付会されます。
なおこの「癸生村辺り」の室の八島は、下野国内ではよく知られていましたが、下野国外 ではほとんど知られていなかったようです。

 池や癸生村辺りの室の八島(狭義の室の八島)が新しく登場して来ますと、中世室の八 島(広義の室の八島)はどうなったんでしょう? 
近世にはかつての下野国府の所在は全く分からなくなります。
そして中世室の八島の「下野国府の集落」は、「かつて栄えた室の八島の町」へとイメー ジを変えることになります。
「かつて栄えた室の八島の町も、今ではすっかり寂れてしまった。」これが松尾芭蕉時代 の江戸の町の人たちが抱いていた室の八島のイメージです。
こうなると室の八島は名所というより史跡というイメージですね。
但し当時の江戸の町の人達が「本来の室の八島はかつて栄えた町である」と考えていたか どうかはわかりません。
「室の八島という景勝地がかつてその町のどこかに存在した。」あるいは「室の八島の町 が出来る前は室の八島という景勝地だった」と考えていたのかもしれません。

 このかつて栄えた室の八島の町や室の八島の池など、近世は室の八島が最も広く知られ た時代と言えるでしょう。
[栄花咄] (えいがばなし、天和・貞享(1681−1688年)頃。もしかしたら[西鶴栄花咄] のこと?)によれば、「室の八島」という香(こう)まであったようです。
また [広益俗説弁] (こうえきぞくせつべん、1716−27年)によれば、『下野国室の八島は、往昔 八島大臣といふ人住せしより其名を得たり』などという俗説まで生れるようになります。 もちろんこの俗説は「かつて栄えた室の八島の町」のイメージから生まれたものです。

 室の八島がかなり複雑になってきましたので、この辺で整理しておきましょう。
本来の景勝地室の八島は中世には完全にイメージと化し、それに替わって室の八島の具 体的場所として「下野国府の集落一帯」が生まれます。
この「下野国府一帯」も近世には「かつて栄えた室の八島の町」とイメージを変え、新 たに景勝地室の八島と「下野国府一帯」との組み合わせから誕生した、「下野国府内の 特定の場所」癸生村辺りと「下野惣社の近くに作られた池」とが室の八島として加わり ます。

 ということで平安時代に一つであった下野国の室の八島は、中世には具体的な場所の室 の八島とイメージの室の八島を含めて二つに増え、これが近世には、四つ(景勝地、町、 池、癸生村)に増えることになります。

 これだけ複雑になりますと、明確には見えてこないんですが、下野惣社の社人、土地の 人、下野国内、国外で、抱いている室の八島のイメージに違いが出て来ている可能性があ ります。
 こういう状況ですので、近世以降については筆者の解析間違いが多々あると思います。 もし間違っていましたらご指摘下さい。


第1節 その1 八つの小島のある池
 近世になるといろんな室の八島が登場してくるようになりますが、その一つが室の八島 の池です。この池はけっこう知れ渡っていたようです。

1.[(林)羅山詩集]室の八島の詩ならびに序(1 636年旅)
 林羅山(1583−1657年)著
壬生 を距ること 一里 ばかり、室の八島有り。
往きて観る者余に告げて曰く、野に池有り、池の中に八島有り、島の大なるものは周(メ グリ)十数歩ばかり、小なるものはニ三丈ばかり(下記註1)。
島毎に小祠有り。日光の神、富士の神等の諸神をここに請迎す。しかもその始めを詳らか にせず。
池の畔に 堂宇 有り。 巫覡浮屠 棲む所なり。
羽林 実方東州を経歴する時水面の 靄気 ××(いんうん?)烟を為すを見、 詠みてこれを題す。もって好色の媒と為す (註2) 。爾来諷人墨客この烟を賦し、もって朝雲暮雨夜半の花霧に比す。
而してまた富士 朝熊 の烟火の類に非ず也、余往きて看ることあたわず。もって遺憾と為す。故に想ひ像きて 一絶 を綴ると云ふ。
(以下は漢詩)聞き説く、関東室の八洲、下毛野の水薄烟浮ぶ、雲に非ず、霧に非ず、池 辺の気涌きて、詞源と作りて艶流を引く」

(註1)周(メグリ):周囲のことでしょう。
    歩(ぶ):長さの単位。1歩=6尺(1.8m)
    丈(じょう):長さの単位。1丈=10尺(約3m)
    この文の歩と丈の使い分け方がおかしい。誤写はないか?

 島の大きさの計算
周囲十数歩の島 : 十数歩を15歩と仮定すると約30m、島を円形と仮定するとその 直径は8〜9m。これは現在の池の島よりかなり大きいですね。当時の池は今の池よりか なり大きかったのかもしれません。
 「池の畔に堂宇有り」の表現からも、当時の池が今よりずっと大きかったことは間違い ないでしょう。今のような小さな池なら、「池の畔に堂宇有り」ではなく「堂宇の傍らに 池あり」でしょう。

周囲ニ三丈の島 : ニ三丈は6〜9m、島を円形と仮定するとその直径は2〜3m。現 在の池の島はこんな大きさでしょうか?

(考察)室の八島は、江戸時代初期から、将軍 徳川家光が立ち寄り (1640年)、歌人でもない林羅山(1583−1657年、儒学者)が漢詩をよみ、 次に書きます貝原益軒(1630−1714年、本草学者・儒学者、福岡藩士)が立ち寄 るほど『この地、当州に無双の名所なり。』(下野風土記、1688年)でした。松尾芭 蕉の[奥の細道](1702年)で知られるようになった訳ではありません。
室の八島が『この地、当州に無双の名所なり。』(下野風土記)だったから、芭蕉も訪れ ているんです。
ただしこの時代、室の八島という名ばかりで、それに見合う実体が伴っていたとは思いま せんが。

 この[羅山詩集]が、室の八島の池が登場する最初の史料のようです。
[東路の津登] (あずまじのつと、1509年旅)の記述からは、当時室の八島の池が存在した様子はう かがえません。
たとえ[東路の津登]時代にすでに池が存在していたとしても、その池が室の八島と誤解 されるようになるのはもっと後でしょう。
この[羅山詩集]によれば、当時の下野惣社には神官や僧侶が住居にしていたお堂は在り ましたが神を祭る社殿がなく、室の八島とされていた八つの島のある池に八神を祭ってい たようです。
いつ頃から、またなぜ祭られるようになったのかは、羅山詩集に『しかもその始めを詳ら かにせず』と書いてありますが、筆者にもその経緯はわかりません。

 ところでこの、下野惣社が室の八島の池であった頃、[奥の細道]に登場する木花咲耶 姫の神は、この神社の祭神だったんでしょうか?

2.[日光名勝記](1685年旅、1714年刊)
 貝原益軒(1630−1714年)著
金崎 より 合戦場一里三十町 。金崎より室の八嶋に行には、合戦場へゆかずして、左の方へ一里半ゆけバ惣社村 あり。
其村に林有。林の内に 惣社大明神 あり。是、下野の惣社なり。其社の前に室のやしま有。小嶋のごとくなるもの八 あり。其まハりハひきくして池のごとし。今ハ水なし。嶋の大さいづれも方二間程あり。 其嶋に杉少々生たり。
室の八嶋、古哥に多くよめる名所也。しまのまハりの池より水気(すいき)の烟(けぶり) のごとく立ちけるを賞翫しける也。其村の人あまたに問しに、今ハ水なきゆへ、烟もなし といへり。わづかなる所なり。
此地ハ日光より小山に出る道の壬生といふ所にちかし。壬生、室八島より、 平柳 と云所を通りて 橡木 へ出る。金崎よりとち木へ行くに、合戦場を通らずして室の八嶋へよるは、半里ばかりの まはりなり。合戦場より橡木へ一里。室の八嶋は合戦場の通にあたる東にあり。橡木より 富田 へ二里」

(考察)この頃までには下野惣社の社殿は再建されていたようです。またこの頃の池は水 が涸れていたようです。最初は水はどうしてたんでしょうね、この辺りにも湧き水が有っ たんでしょうか?それとも雨水だけに頼ってたんでしょうか?なおこの後もずっとこの池 の水は涸れていたようです。

 ところで上記旅(1685年)の17年後頃に書かれた益軒の[扶桑記勝]によれば『 池の形ある内ハ、「 方二十間 」もあるべし』、約40m四方ですって、現在大神神社の境内にある室の八島の池よりか なり大きいですね。これだけおおきければ、村人がこの池を本来の室の八島であると誤解 するようになるのも頷けます。また[羅山詩集]にある『周(メグリ)十数歩』の島が一つ くらいあってもよさそうです。でもこの島は益軒が訪れた時には無かったようで す。そんなことってあるんだろうか。現在の大きさの池を約40m四方の池と記 憶違いするのはちょっと考えにくいので、当時の池は今の池よりかなり大きかったんでし ょう。

 ところで『其嶋に杉少々生たり。』って、そんなことより島には橋が架けられていたの か否か、そっちの方が重要でしょう。どうも橋に関する記述が無いところを見ると、この 頃の島には橋は架けられていなかったんじゃないの。
また、[(林)羅山詩集](1 636年旅)に有った島の小祠の記述がありませんが、 次の3.[下野風土記](1688年編著)を読むと、小祠はあったようです。

また『其嶋に杉少々生たり。』って、杉の若木が植えられてたんじゃないでしょう。若木 なら『生たり。』じゃなく『植えたり。』って表現したでしょう。ということは、小島に は杉の若木じゃなく杉の成木が生えてたんでしょう。そして「杉の成木が生たり。』と表 現しておかしくないくらいその小島は大きかったということでしょう。
今の大神神社の池の小島に杉の成木が生えていたら、決して『其嶋に杉少々生たり。』と は表現しません。

(ご注意)[奥の細道]解説書に引用されているこの[日光名勝記]を読んで、室の八島 を池だと思われている[奥の細道]愛読者がけっこう居そうですが、[奥の細道]に室の 八島とは池であるなどとは一切書かれておりませんので念のため。また[日光名勝記]に 紹介されている池は、現在の池ではありませんので念のため。


3.[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳
「室八島 : 都賀郡壬生より一里半西へ去る
・・・・・・
予、この所に至り見るに、 八島の明神 とて大社あり。社の右に八島と云う所有り、島八つ有りて嶋毎に祠有り、 左は 清水涌きて煙立ちしと云えども、今は水涸れて所々に 庭たずみ の如く残りて煙立つ事なし。・・・」 (全文)

(考察)『社の右(=社から見て右)に八島と云う所有り』の「所」には、「かつての池 の跡と聞いたが、とても池の跡には見えない」の意味がこめられているんでしょう。現在 の池の大きさの場所なら、「かつての池の跡です」と言われれば、そうだったのかと納得 できますが、約40m四方もの場所では、容易には納得し難いかもしれません。おそらく 浅い池だったんでしょう。また、この文に続く後の文に「昔はこの池から発生する霧が隣 村を覆った」という内容の表現もあり、かなり大きな池であったことが想像されます。4 0m四方よりもっと大きかったかもしれませんね。

4.[日光道之記](1727年刊)
 著者未調査
   (下記内容から判断して、松浦静山の「日光道之記」(1799)より古 い作品と思われます。)
「道より左方(=東の方)、 半里ばかり 、惣社村といふ所に、室八嶋の旧跡有。名所なり。古哥おほし。昔は野中なる池の内に嶋 山八ツ有て、常に煙の立上りける故に、天下の奇観にて、名所なりけるが、いつの頃より 煙絶えしか、今は惣社明神の廣前の枯池の中に、ちいさき山形八有て、見所もなき躰也。 惣社明神は木花開耶姫を勧請せりとなん。 御朱印社領 五十石。神名帳(=延喜式神名帳)には見えず。」

日光道之記
         左奥:惣社大明神、右手前:室の八島

(考察)当時の池にあった小島が、ここに表現されているように『山形』であったなら、 現在の池はその後に作り替えられたものであることになります。そもそも本来のこの池と 島は、室の八島を想像して作られたものと考えられますので、島の表面が平らであるはず がなく、このように山形をなしていたものと考えられます。
また上の図は、[日光道之記]の著者から室の八島の池の説明を受けて、絵師が描いたも のと思われますが、これは現在の大神神社境内の池ではないでしょう。

5.[蝶の遊](1738年5・6月頃旅)
 山崎北華(1700−1746年)著
   (松尾芭蕉の[奥の細道]の旅を辿る紀行)
「明れば室の八島を尋ね詣づ、木立ふりて神さびたるさまいと殊勝なり。茂れる森の内に 、いかなる人の作れるにや、めぐりめぐりて池を掘り、池の中に島と覚しきを八つ残した り。八島といふ名にめでてなせしなるべし。年久しき業とも見えず、をかしき事を構へた るものかな。此神は木の花咲や姫にてましましける。往昔より煙を歌によみ習はし侍る。 我も
 一くもり−室の八島の−たば粉かな
と云捨て烟管腰にさし、小倉川といふを渡り、壬生に懸り・・・」 (註3)

(考察)山崎北華は[奥の細道]を読んで、室の八島とは神社の境内だと信じており、室 の八島の池が在るなんてことは全く知りません。ですから池を見て、「誰がこんなおかし なものを作ったんだ。」と言ってます。

『めぐりめぐりて池を掘り、池の中に島と覚しきを八つ残したり。』とは、山崎 北華がこの池の作り方を推理した文で、「島にする予定の八箇所の地面は掘らずにそのま ま残し、それらの周囲をめぐりめぐって掘り下げることによって、一工程で池と八つの小 島とを同時に作ってある」と言っているようです。
これ今の池の作り方にピッタリです。今の池でも、池の中に島が作られていると見るので はなく、島の周りに水路が掘られていると見る人がいるくらいですから。おそらく島は今 と同じく、地面と同じ高さで表面も平らだったんでしょう。
 また、池の水が涸れていたとは言っていないので、山崎北華が訪れた当時の池には水が あったようです。

 ところで山崎北華は『年久しき業とも見えず』つまり、古くからあった池には見えない と言っています。まだ掘ったばかりらしく、池の縁も島の周縁も まだ土が崩れていないとか、 池の縁にも島の周縁にも全周囲に渡って草が生えていないなどから、この池は作ったばかりだなと 一目で分かったんでしょう。そしてそういう状況から池と小島の作り方もすぐわかったんでしょう。
それに対して、作られてから300年近くたっている現在の大神神社の池を見て、この池 の作り方に気づいた人はわずかしかいないでしょう。
それと作ったばかりなら当然池には水を張ってますから、池には水があったんでしょう。
 頭使って解析すれば、この文からこれだけのことが読み取れるんです

 これらの内容から、現在の大神神社境内にある室の八島の池は、前の[日光道之記] (1727年刊)とこの[蝶の遊](1738年 旅)との間に作り替えられたものと思われます。
(1738年頃に作り替えられたと言ってよいでしょう)

ところで元の池は現在どうなったか? 特に必要がなければ池を埋め戻すようなことはし ていないだろう。そこで現在の池の周囲(南南東側は表参道なので、元の池があったとす れば南側と西側)を見ると、そこに自然に出来たとは思えない(つまり人工的に作られたと 思われる)盛り土部と窪地がある。これがおそらく元の池の残骸だろう。だけど残念なが らその外側(=南西側)はすぐ大神神社の敷地外で、そこには公道と思われる道が走って いる。どうも元の池の大部分はその公道とその南西側の 大宮司邸 の敷地や水田に変わ ってしまった様だ。そこに池の面影は微塵もない。もとの池の位置がわかれば発掘して復 元したいんだがこれではいかんともしがたい。

6.[奥州道中 増補行程記](1751年)
 盛岡藩士 清水秋全(しみず しゅうぜん) 画・文
東洋書院刊「新南部叢書 奥州道中 増補行程記」(P43−図70)

(図中の室の八島の説明)
竹多し。名所。室の八島。小島々々二小社有。古歌 下野やー室の八嶋にー立煙ー誰かこ のしろのーつなしやく覧 つなしハ ひう をいみす也。 昔国々より 采女 上れりと。娘をかくしてつなしをやきて子ノ代としたりとも。

(考察)この中に『小金井』宿(現下野市内)から『惣社村』辺りを、まるで栃木宿の上 空から俯瞰して描いたような絵図があり、その中に『室の八島』の絵があって、それを見 ると池の位置も大きさも現在の大神神社の池と同じです。また島に橋が架けられているの も現在と同じです。(これらのことから清水秋全自身が実際に見て、この絵図を描いてい るのは間違いないでしょう)

ところで、室の八島の池が作り替えられてたことも知らず、また[奥の細道]を読んでな い人達にとっては、江戸時代初めからの知識である「室の八島とは池である」が、まだ生 きてるんです。

この頃までには、この神社は池を歌枕の室の八島とは見なさなくなり、この池は単に小島 にある小祠を祭るためだけの存在になってしまったんでしょう。小島に橋を掛けたのは小 島にある小祠をお参りするためでしょう。つまりこの池は、「室の八島」のミニチュアを 作ろうとして作られたものではなく、それまで有った大きな「室の八島の池」のミニチュ アを作ろうとして作られたものです。

 ところで、前の[蝶の遊]は小祠と橋について触れてません。もしかしたら小祠と橋は、 [蝶の遊](1738年旅)とこの [奥州道中 増補行程記](1751年)との間に 作られたのかも知れません。  と言いますか、
室の八島の池は、小島にある小祠をお参りできるように、島に橋をかけて完成ということ になります。ですから、山崎北華が訪れた時には、室の八島の池はまだ完成していなかっ たんでしょう。

ところで、九つある橋の内、八つは一枚岩で作られており、これらは最初に作られたまま なんでしょう。ところが、熊野神社の小島と二荒山神社の小島の間の橋は、木製の欄干の 付いたコンクリート製の太鼓橋のようなんで、この橋は明治時代以降に作り替えられたも のでしょう。おそらく、島間の距離が長いので橋として使える一枚岩がなく、最初は木製 の橋が架けられていたんでしょう。
真実を追究しようとしたら、こういう細かい解析をこつこつ積み重ねることが必 要なんです。
なお、小祠のある島は、室の八島の池の入り口側から順番に、筑波神社・天満宮・鹿島神 社・雷電神社・浅間神社・熊野神社・二荒山神社・香取神社の各島です。


7.[陸奥日記]
 伊勢松阪の豪商 小津久足(おづひさたり、1804−1858年)著
「半丁(約50m)あまりも森の中に入て御前にいたるに 正一位惣社大明神 といふ額かかりて大社なり。この御前のかたはらに水あせたる池ありて中に嶋めきたるも の八あるに、ちひさきはしをかけて、そを室の八嶋なりといふ。ここはよの歌人のいひふ るせしのみならず 源経兼 がこの国の守なりし時、あるものの使書持てこしがかへるをよびとどめて、この嶋のけぶ りをみせて、都にてかたれといひしほどの煙なりしが、今はそのなごりばかりも見えず。 さいひし(さ言ひし?)むかしも、まことのけぶりにはあらで、清水のいづる水気のけぶ りに似たるをいへるなりとや」

(考察)室の八島とは池であるというのが世間に浸透すると、[羅山詩集]の「藤原実方が この池から立ち昇る水蒸気を見て恋の歌を詠んだ」から始まり、[日光道之記]の『常に 煙の立上りける故に、天下の奇観にて』や、この[陸奥日記]の源経兼が『この嶋のけぶ りをみせて』のように、とんでもない尾鰭が付いて語られるようになるようです。それで この尾鰭の付き具合を見れば、世間にどれだけ浸透したかがある程度推測できます。

 それと現在では、池の小島に祭られている小祠を含めて室の八島と考えられていますが 、以上の史料から、近世においては小祠(小祠は近世を通じて存在したんだろうと思いま す)は室の八島と無関係な存在であったことが分かります。小祠が室の八島に関係付けら れるのは、ずっと後、戦後のことです。

第2節 その2 下野国府があった辺りの特定の場所
生き続ける平安あるいは中世室の八島のイメージ
 新しい室の八島が誕生しても、それまでの室の八島がなくなるわけではないようです。 それまでの室の八島は人々の頭の中にのみ存在するイメージと化し、イメージと具体的場 所とが入り乱れて混在するようになるようです。なおこの節の中には、中世室の八島の下 野国府の集落に由来する場所、本来の景勝地室の八島は中世室の八島のどこかに存在した のだろうという考えから生まれた癸生村(けぶむら、煙村)、その他場所がよく判らない もの、またイメージとして景勝地のイメージのもの、中世室の八島のかつて栄えた町とい うイメージのものなどをごっちゃに含めています。ということでこの節はかなりいい加減 な分類です。すいません。
 なお中世室の八島の章でちょっと触れましたが、歴史の流れから言えば、室の八島の池 より、これから紹介する下野国府があった辺りの特定の場所の室の八島の方が先に誕生し たのではないかと思われます。

1.[日光山紀行](1617年旅)(イメージ:中 世室の八島?、具体的場所:中世室の八島)
*[日光山紀行]は、また[御鎮座之記]、[東照権現御遷座之記]とも。(東照権現は 1617年5月に久能山から日光に遷座し、日光で遷座祭りが行われて朝廷より烏丸光広 が派遣されました。)
 烏丸光広(からすまる みつひろ、1579−1638年、公家・歌人)著
「富田を通り、とち木と云ふ所を過ぎてぞ、音に聞く室八島は見えける、さるは名高き所 にて、俊成定家の両卿も、 秀歌 をや詠じにし、扨(さて)かの御名残には、胸の煙も空せばき心地して、涙は水よりも流 れぬ、かくて 鹿沼 に着かせ給ふ (註4)

(考察)『富田を通り、とち木と云ふ所を過ぎてぞ、音に聞く室八島は見えける・・・か くて 鹿沼 に着かせ給ふ。』
日光へ行く道のどこから同行したのか分かりませんが、おそらく土地勘のある者が同行し たんでしょう。
烏丸光広は、後に例幣使街道となる道のどこかから、室の八島を眺めたものと思われます が、さてどの辺りから眺めたんでしょう?(合戦場辺りから?)
それと烏丸光広が訪れた1617年当時の「とち木」の集落はどの辺りにあったんだろう?

『音に聞く室八島は見えける』の室の八島は、近世室の八島(その1)の池ではあり得ま せん。位置的には今の栃木市大塚町辺りの集落を指しているものと思われます。
大塚町辺りの人家や林を見ながら『室の八島は見えける』と言っているのでしょう。これ から烏丸光広が抱いていたイメージは「野中に清水の有るところ」でなく、かつて栄えた 町であった可能性があります。そして室の八島の具体的場所も「かつての下野国府」の集 落ということになるでしょう。『かの御名残には、胸の煙も空せばき心地して、涙は水よ りも流 れぬ』とは、かつて栄えた町であったところが、今は見る影も無く寂れてしまったと嘆い ているのでしょうか?

2.[新可笑記](1688年刊)(イメージ:中世 室の八島?)
 井原西鶴 著
巻四 「書置の思案箱」
「古代下野の守護に仕へて武家随一の人あり。・・・思へば仮の枕、錦の褥(しとね)を かざれども夕の煙ぞ形見なる。室の八島の土に還る一世の栄花 多生輪廻 の基なりと。」

(考察)[奥の細道](1689年旅)の旅で松尾芭蕉が室の八島を訪れた同じ頃の大阪の 人・井原西鶴の作品です。『(生まれ故郷あるいは任地である?)室の八島 の土に還る』とは、人が住むかなり広い面積の土地をイメージしているようです。
 [本朝食鑑] (1697年)にある記述『昔、野州室の八嶋の市中に富商がおり』などを見ても、近世 においては、室の八島が漠然と中世室の八島の「下野国府一帯」のイメージでとらえられ ることはあっても、明確に下野国府と関連付けて認識されることは無かったように思えま す。このことから、近世初期には既に下野国府のあった場所が分からなくなってしまった ことが考えられます。不思議なのは、付近に国府村や古国府の字(あざ)があるにもかか わらず、室の八嶋の町が下野国府の集落と結びつかないんです。室の八島の町は下野国府 近くの別の町と考えられてたんでしょうかね?

3.[下野風土記](1688年編著)のケブ村(本 来のイメージ:平安室の八島?、具体的場所:中世室の八島の中の特定の場所)
 編著者未詳
「室八島 : 都賀郡壬生より一里半西へ去る
・・・・・・
予、この所に至り見るに、八島の明神とて大社あり。社の右に八島と云う所有り、島八つ 有りて嶋毎に祠有り、左は清水涌きて煙立ちしと云えども、今は水涸れて所々に庭たずみ の如く残りて煙立つ事なし。この所に並びてケブ村( 癸生村 )と云う里有り、この間数百 に及べり、古は煙(ケムリ)此の村まで立ち覆う故に煙村と書くと云えども、云い間違え てケブ村と云う」

(考察)
1)八島の明神の池から立ち昇る煙(蒸気霧)が村を覆ったので、その村を煙村というよ うになったというのは眉唾です。おそらくこの煙村というのは、平安室の八島と中世室の 八島とが合体して生まれた「室の八島の景勝地はかつて下野国府一帯のどこかにあったん だろう」という考えから生まれた室の八島で、癸生(けぶ)村は昔煙(けぶり)村と言い 、室の八島の煙から付けられた村名であって、癸生村辺りが本来の室の八島の場所である とこじつけているんでしょうか?こじつけたのはいつ頃、誰によってでしょう?ところで 室の八島の池の方は、誰かにこじつけられなくても、自然に誤解されるようになった可能 性があります。

2)[下野風土記]のこの文を読むと、八島の明神(現大神神社)も癸生村も共に室の八 島にあり、その室の八島は壬生より「一里半西」に在ったことになります。ここで、「一 里」を4kmとすると、「壬生より6km西」にある室の八島の位置は、現大神神社の西 北西約3kmの位置となってしまい、矛盾します。ここは、一里を約2kmと考えると、 「壬生より3km西に室の八島在り」となり、よく整合します。

(参考)
(1)[曾良旅日記](1689年旅) [曾良旅日記]
 河合曾良(1649−1710年)著
「一 廿九日(新暦5月18日) 辰ノ上尅 マヽダ(間々田)ヲ出。
一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右(左?)ノ方ニ有。
一 小田(小山)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木澤(喜沢) 【地図】 ト云所ヨリ左ヘ切ル。
   (傍註)此間姿川越ル。
一 飯塚 【地図】 ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿(しゅく)ハヅレヨリ左ヘキレ、
  (傍註)小クラ川(小倉川)
  川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシ (惣社河岸) ト云
    (傍註)乾(いぬい)ノ方五町バカリ、毛武(けぶ、癸生)ト云村アリ。 (註5)
  船ツキノ上ヘカヽリ、室ノ八嶋ヘ行、スグニ壬生ヘ出ル。此間三リト
  イヘドモ、弐里少余。」

(考察1)
1)ここに『乾(いぬい)ノ方五町バカリ、毛武(癸生)ト云村アリ』すなわち 「ここ(惣社河岸)から北西方向500mほど行ったところに毛武(けぶ)という村がある」と 出てきますが、曾良は単に癸生村の近くを通り掛かったという理由で『毛武ト云村アリ』 と旅日記に書いたんではありません。

芭蕉等は、小倉川を渡るまでの道中に、「室の八島は、壬生の城下町の西を流れる小倉川 を西に越えたところに在る」と聞いていたんだと 思います
それで、芭蕉らは小倉川を西に渡ってから(惣社河岸の上辺りで)、土地の人に「室の八島に 行きたいんですが、どう行けば良いですか?」と、室の八島への道を尋ねたと思いますが (あなただってそうするでしょう)、その際に村人が答えた室の八島の場所・癸生村辺り というものが、芭蕉らがこれから行こうとしている神社の室の八島の他に存在するという意味で 「毛武ト云村アリ」と旅日記に書いたんです。

2)芭蕉達の質問に対する土地の人の説明
「ここから北西方向500mほど行った所にケブという村がありますが、そこが室の八島の 場所です。ケブは室の八島の煙(ケブリ)から付けられた名前です。でも、そこに行っても、 そこはただの田園地帯なんで煙なんか立ってません。季節によって陽炎(かげろう)が立つ くらいです。」

しかし、村人の言う室の八島の場所は、曾良が江戸で教えられた室の八島の場所ではありません。 それで曾良は、 あらためて村人に「室の八島大明神(今の大神神社)はどこですか?」と 聞き直したんじゃないでしょうか?
それに対して村人は、「室の八島大明神は癸生村の先ですが、詳しい場所は癸生村でお尋ね下さい」 と答えたんじゃないでしょうか?
と言うことで、芭蕉らは 「室の八島大明神に来る途中に 村人の言う室の八島の場所である 癸生村を通ったんだと思います。

(「毛武」の字は、村人が「けぶ」と口で言ったのに対して曾良がそれに充てた当て字で、 漢字でなく、漢字の音たけを利用した万葉仮名的なものと考えておけば 宜しいのではないでしょうか。漢字で書いた方が地名らしく見えるでしょ。)

3)余談ですが、芭蕉らは、「室の八島大明神へはどう行けばよいですか?」と村人に尋ね れば良かったものを、「室の八島へはどう行けばよいですか?」と尋ねたから、癸生村へ の道を案内されたんです。
惣社河岸から室の八島大明神までの距離は五町、すなわち約500mではなく直線距離で 約1kmあります。また方角も、乾(いぬい)すなわち北西ではなく南西だったと思われます。
そしてそこに存在したのは神社の室の八島ではなくその神社の境内にある「池の室の八島」です。
(当時 神社は、室の八島にこじつけられたばかりで、まだ室の八島として世間に浸 透していなかったんです)
しかし池の室の八島を信じる人は、下野国内では神社の周囲に住む村人だけで、惣社河岸は、 その名前からも分かるように神社のある惣社村にあったと思われますが、神社のある場所から 1kmしか離れていない(しかし癸生村からは500mしか離れていない)ところで出会った 村人が信じていた室の八島は池ではなく癸生村辺りの室の八島なんですね。下野国外では 池の室の八島の方はよく知られていましたが。
このように『乾(いぬい)ノ方五町バカリ、毛武(けぶ)ト云村アリ』の一言を 解析すると、こんなことまで見えてくるんです。

4)こんなことを書いてる[奥の細道]解説書はありませんが、『乾(いぬい)ノ方 五町バカリ、毛武(けぶ)ト云村アリ』にはそれなりに意味があるんです。
「なんか毛武(けぶ)という知らない村があるなあ」だけでは「乾ノ方五町バカリ、 毛武ト云村アリ」と、傍註としてわざわざ付記する意味がないでしょう。
芭蕉は、確信が持てなかったんで村人が言う室の八島については[奥の細道]に書きませ んでしたが、曾良がいう神社の室の八島より、村人が言う癸生村辺りの室の八島の方が ホントの室の八島ではないだろうかと感じたでしょう。神社より村の方が、芭蕉がそれまで 聞いていた室の八島のイメージに近いんです。

でも芭蕉らが癸生村を訪れた様子はありません。室の八島はなにもない田園地帯であると 聞いていたが、有名な名所なので芭蕉は一度は来たかったはずです。でも、旅を急ぐので 寄り道している余裕は無かったんでしょう。
但し、神社へ行く途中に毛武村を通った可能性があります。それで付近の田園地帯の風景を 眺めて室の八島に来たつもりになったんでしょうか?神社に着く手前、その辺りで 「糸遊に結びつきたる煙哉」(かの有名な名所・室の八島も、今では煙の代わりに 陽炎(糸遊)が立つような田園地帯に変わってしまったんだなあ) の句を詠んでるようです。

『室ノ八嶋ヘ行、スグニ壬生ヘ出ル』とありますが、室の八島といっても芭蕉が思い 描いていたものとは全く異なり、「疑わしげな室の八島」の神社では、芭蕉は感慨にふける こともなかったんでしょう。

5)ところで、『(小倉川の)川原ヲ通リ、川ヲ越、惣社河岸ト云船ツキノ上ヘカヽリ』 の表現って、芭蕉らは小倉川を渡し舟で渡ったんではなく、惣社河岸より手前の浅瀬を歩いて 向こう岸に渡ったんじゃないでしょうか?
現在の川の様子を見ても、「探せば歩いて渡れる場所が有るかもしれない。」と思わせる ような深さの川です。

(考察2)(解析)曾良の[俳諧書留]の「室の八島」の箇所にある俳句は室の八島で 詠まれたものか?

松尾芭蕉等は室の八島(室の八島大明神(現在の大神神社)の事)に何時頃着いたか?
・ 辰ノ上尅(午前7時から7時40分。とりあえず午前7時半とする)間々田ヲ出。
・小山ヘ一リ半
・小山ヨリ飯塚ヘ一リ半
・飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。

ここで、飯塚から壬生までの距離と、飯塚から室の八島大明神までの距離とはほとんど同じ であると仮定すると、間々田から室の八島大明神までの距離は4里半(18km) ということになります。
そして歩く速度を4〜5km/時とすると、間々田から室の八島大明神まで歩いて3時間半 〜4時間半かかったことになり、間々田を午前7時半に立ったとすると室の八島大明神には  午前11時頃から12時頃に着いたことになります。
そして「室ノ八嶋ヘ行、スグニ壬生ヘ出ル。」です。

そうすると 曾良の[俳諧書留]の「室の八島」の箇所にある次の俳句は、室の八島よりずっと先に 進んだ土地で詠まれたことになります。

<入かゝる日も絲遊の名残哉(程々に春のくれ)>
<鐘つかぬ里は何をか春の暮>
<入逢の鐘もきこえず春の暮>

尚 曾良の[俳諧書留]では、「室の八島」の次は、日光をすっ飛ばして「那須の余瀬(よぜ  大田原市内)」です。


(2)[徳川実紀]大猷院殿御実記 「大猷院」
   巻四十三(1640年旧4月20日の記録)
「廿日卯刻山をおりさせ給ひ。今市の御旅館にて朝のおもの奉り。鹿沼駅にて井上河内守 正利御膳を奉る。河内守正利御前へめして御盃下され。金廿枚。 時服 十。羽織を給わり。長子帯刀正任に時服六。羽織そへてたまはり。家司二人へ時服二。羽 織一づつ下さる。正利より重助の刀。馬代金。綿百把。帯刀正任より太刀馬代献ず。
室八島は下野の国にて古名勝の地なりとて立ちより御遊覧あり。
壬生の城へやどらせ給ふ。城主 三浦志摩守正次 饗し奉り。金三十枚。時服二十給わり。家司に時服二。羽織を下され。正次より一文字の 刀。綿二百把献ず。

この日山にては薬師堂 曼荼羅供 行はれ。酒井讃岐守忠勝惣奉行として沙汰す。諸門跡参堂。前関白已下(いか=以下)着 座例の如し。(日記、紀年録)」

(考察)家光一行は日光社参の帰途、今の地名で言えば鹿沼市から栃木市方面に向かい、 栃木市の市街地に入る手前で東に折れ、途中栃木市国府地区辺りで室の八島を遊覧した後 、壬生町に向かったものと思われますが、これだけの内容では、家光が訪れた室の八島が どんな所だったのか、よく分かりません。
この[徳川実紀]には「室八島は・・・古名勝の地なり」とあるので、「名勝」を「景色 の良い土地のこと。」と解せば、また「遊覧」は「見物して回る」の意味ですから、 家光が訪れた室の八島は、池ではなく土地の名前だった可能性があります。 また、おそらく壬生藩の殿様に案内されたんでしょうから癸生村辺りの土地だったと思います。 当時癸生村辺りは壬生藩領だったと思います。

4.[本朝食鑑](1697年)(イメージ:中世室 の八島)
 人見必大 著
魚偏+制の項の挿話
「曾て聞いた話であるが、昔、野州室の八嶋の市中に富商がおり、一人の美しい娘をもう けた。・・・」

5.[竹葉集]巻八「つぼのいしぶみ」(1713年 旅)(イメージ:?、具体的場所:中世室の八島の中の特定の場所?)
 連阿(1671?−1729年) 著
「むろの八嶋は、一里あまり 海道 の西にありときけば、ふりはへとはむも(?)はるかに覚へけれど、かかるつゐで名ある 所々かたはしみのこさじ(見残さじ)と心がけぬれば、ともなへる人をば先にやりて、里の子のしるべ (道案内)につきてたどりゆく程、聞きしよりはいと遠かりき。ここぞそれとをしゆるも 、さだかなるけぢめもみえざれど、かすみわたる夕のけしき、何となく心とまりければ、
 かすむ日はーそれともわかずー煙たつーいづこが室のー八嶋成らん
 終の身のー煙とならんー世をしらでーむろのやしまをーよそにやはみん
夜に入て、小山といふ里につく。」

(考察)『ここぞそれとをしゆるも、さだかなるけぢめもみえ』ず、すなわち「ここが室 の八島だと教えられたが、どの辺りからどの辺りまでが室の八島の範囲なのかさっぱりわ からない」と言ってますので、この場所は池ではありません。連阿は里の子に癸生村辺り を案内されたんでしょうか?

6.[室八島](1756年上梓)巻第五 日光紀行 (1722年旅)(イメージ:平安室の八島?、具体的場所:中世室の八島の中の特定の場所?)
 石塚倉子(1686−1758年)著
「宇都宮→(小金井)→すがた川→をぐら川(今の思川)→
それより、室のやしまに至りぬ。是や此、『 名 にしおふ室の八島にやどもがな 』と、俊成の卿もながめ給ひけんなど、かれこれ思ひつづけて見れども、昔の人のくらべ 給ひけん、恋の煙も見えざりければ、
  名に立てる ー煙やいづこー春ふかくー室のやしまはーかすみわたりて
こと故なく(ことゆえなく=無事に)家に帰り来て、・・・」

(考察)室の八島の具体的な描写はありませんが、挿入歌の『煙やいづこ』(煙は室の八 島のどこに立っているのか?)、『室のやしまは かすみわたりて』を見るとこれも池で はなく、 栃木市国府地区辺 りのどこか 見晴らしの良い所で、そこを室の八島と詠んでいるようです。石塚倉子は室の八島に来る 途中、花見ケ岡の蓮華寺の前を通っているはずなので、この室の八島の場所は現在の大神 神社より南のようですね。ところで石塚倉子の遺作とも言うべき作品集[室八島]に、 [奥の細道](1702年刊)に登場する神社の室の八島は登場しません。倉子は[奥の 細道]を読んでいなかったんでしょうか?それとも[奥の細道]に登場する神社の室の八 島を信じなかったんでしょうか?いずれにしろ、室の八島の池さえ相手にしなかった倉子 ですから、室の八島とは神社であると聞いても相手にしなかったでしょう。

7.[広益俗説弁] [広益俗説弁] 、1716−27年)(イメージ:中世室の八島)
 井沢蟠竜(いざわ ばんりょう)著
巻四十一 雑類 地理 下野室の八島の説
「俗説云、下野国室の八島は、往昔八島大臣といふ人住せしより其名を得たり。・・・」

(考察)どんな根拠があってこんな俗説が生まれたのか、筆者には全くわかりません。 これかなり低レベルな俗説じゃないの?

8.浮世絵版画「近代七才女詩歌」(具体的場所:ものす ごく広い室の八島の一部)
喜多川 歌麿(1753頃−1806年))作
(歌麿の出生地は、川越、江戸、京、大阪、栃木などの説があります。栃木市民は「歌麿 の愛した町・栃木」という印象でとらえています。)

この「近代七才女詩歌」に6.で紹介した石塚倉子とその和歌が取り上げられています。
 吹き送る−風のたよりも−誰(た)が里の−庵(いおり)に匂ふ−梅の初花
そして倉子の紹介文として「下野室八嶋 倉子女」と有ります。

(考察)「下野室八嶋 倉子女」は「下野国の室の八島の住人である石塚倉子」という意 味でしょう。
石塚倉子は生前、現在の栃木市藤岡町冨吉に住んでいました。
だからと言って、上記の「下野室八嶋」が冨吉周辺の狭い範囲を意味するという訳ではな いでしょう。
室の八島とは大昔からあった地名で、どっからどこまでが室の八島なのかさっぱりわから ないのでしょう。
ですから、喜多川 歌麿の時代に「冨吉辺りまで室の八島の内ではないか」と考える人も 結構居たんではないかと思われます。

9.栃木市藤岡町の五輪塔の碑文
栃木市藤岡町の知人からの情報によれば、江戸時代後期に立てられたと思われる藤岡町の 五輪塔の碑文に次のように書かれているようだ。

「本邑室之八島」 邑(呉音 : オウ、漢音 : ユウ、訓はむら(村))

  いかなりし恋の煙の消えやらで室の八嶋の名を残しけむ      俊成
  かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしも志らじな燃ゆる思ひを 実方

(考察)「本邑室之八島」の碑文は 直ぐ上の「8.浮世絵版画「近代七才女詩歌」」 の考察を補強する史料である。
また「かくとだにえやはいぶきのさしもぐささしも志らじな燃ゆる思ひを」の歌は、 この五輪塔が、下野国の人達から「さしも草の伊吹山は下野国にあるのではないか?」と 考えられるようになる江戸時代に作られたものであることを表している。


*この節は後に続く (続き)


第3節 神社縁起室の八島(または[奥の細道]室の八島)
 室の八島が一旦さまよい始めると、想像もつかないようなものまで室の八島として登場 してくるようになるようです。次に紹介しますのは、驚くなかれ神社の室の八島です。と 言っても松尾芭蕉の[奥の細道]に出てくる室の八島ですから、驚く人は一人も居ないと 思いますが。

 現在では多くの資料が室の八島とは神社であるとしていますが、史料的には、『荒唐無 稽なこじつけばかりで書かれ、室の八島とは当神社(の境内一帯)のことであるとこじつ けている』下野惣社の由緒書き、その内容を同行者の曾良が紹介している[奥の細道 ]が唯一の原典なんです。そういうことで[奥の細道]の影響は絶大なんです。とい う面もありますが、現在では、室の八島は[奥の細道]でしか知られなくなってしまった ということです。悲しいかな。

 芭蕉らが室の八島を訪れた当時、下野惣社の前にある八つの小島のある大きな池(現在 はありません)が室の八島として広く知られていました。それに対して 下野惣社は 、こんな人工の池は本来の室の八島ではない(当然です)として、本来 の室の八島に戻そうとしました。ただし神社が考えていた本来の室の八島とは「かつて栄 えた室の八島の町」(中世室の八島)です。そういうことなら、この神社のある惣社村一 帯を室の八島とすべきですが、神社は室の八島という名高い名所を独り占めしたいために 、由緒書きの中で室の八島とは当神社・室の八島大明神の境内一帯のことであると こじつけました。 これが[奥の細道]に紹介されている室の八島の正体です。


1.[奥の細道](1689年旅、1702年刊)
 松尾芭蕉(1644−1694年)著
−室の八島の段−(芭蕉自筆の[奥の細道]より引用)
「室の八嶋に詣ス曾良か曰此神ハ
木の花さくや姫の神と申て富士一
躰也無戸(ウツ)室に入て焼たまふ
ちかひのみ中に火火出見のみこと
うまれ給ひしより室の八嶋と申又煙を
読習し侍るもこの謂也將このしろと云魚ヲ禁ス
縁記の旨世に伝ふことも侍し」 (一般の参考書 にある文)
<草稿>

(曾良の登場 )

(考察)「ここが歌枕の室の八島です。」といって曾良に案内された下野惣社で、芭蕉は 曾良から「室の八島とは一般に知られている池のことではなく、実は神社(の境内一帯) のことです。そしてここから浅間信仰が生まれました」と、現在の我々が聞いたら「曾良 は血迷ったか?」としか思えないようなこの神社の縁起(と言っても頭の良い連 中がちゃんとした意図をもって作った縁起譚ですが)を聞かされます。−−芭蕉 独り言:「曾良の話は、私が思い描いていた室の八島のイメージからかけ離れているよう だ(そりゃあそうでしょう。こんな話は今まで聞いたことがなかったんで) 。本当にこの神社が和歌に詠まれた 室の八島なんだろうか? 」 −−−結果的に芭蕉は曾良にだまされたことになります。そして後の学者は室の八島の段 冒頭の『室の八嶋に詣ス』(歌枕室の八島に参詣した)にだまされ、これを読んでいるあ なたは××にだまされたんです。

 この[奥の細道]と言いますか、曾良が説明した下野惣社の縁起が、室の八島を神社と する唯一の原典のようです。つまり[奥の細道]以前に室の八島とは神社であるなどと言 っている史料はなく、[奥の細道]以後、室の八島とは神社であるという史料が出現しま すが、それらは皆[奥の細道]の影響を受けてそう言っているんです。下野惣社はこの縁 起で、室の八島を八つの小島のある池から社殿が再建されたばかりの神社に転換しようと 図りますが、江戸時代を通じて世間一般にはあまり浸透しなかったようです。当然です。 こんな田舎の神社の寝言を誰がまともに相手にしますか。相手にしたのは、芭蕉の[奥の 細道]を読んでそこに書いてある室の八島をまともに信じた、文字通りの世間知らずな連 中ばかりです。ところがあなたもご存知のように、後々これがとんでもないことになりま す。

ちょっと寄り道結果的にちょっとどころでは なくなってしまいましたが
 ところで、[奥の細道]解説書における「室の八島の段」の一般的な現代語訳文(要点 のみ記した)は次のとおりです。

「室の八島明神に参詣した@。
同行の曾良が言うには
『この神社の祭神は木花咲耶姫と言って、浅間神社の祭神と同じですA。姫が身の潔白を 証明するために、無戸室に入って火を付け、その中で彦火火出見命Bを生んだという記紀 神話から室の八嶋と申しますC。また室の八島を和歌に詠む際には煙を詠み込む習わしが ありますが、それはこの燃える無戸室から立ち昇る煙に由来するものですD。』
ということである。
さらに、この土地では、このしろという魚を食べることを禁じているE。
このようなこの神社にまつわる言い伝えFが世間に伝わっているようだ。」

 この訳文を読んで、
@: 『室の八島に詣す(原文)』の室の八島とは、多くの和歌に詠まれた名所 ・すなわち歌枕のひとつだが、室の八島って、正式名称を「室の八島明神」という神社の ことなの? 或いはそれぞれに小祠を祭った八つ小島のある境内の池のことなの? それ とも神社が室の八島で、境内の池から立ち昇る水蒸気が室の八島の煙であるってことなの ?
A: 『浅間神社の祭神と同じです(解説書)』って、この神社は浅間神社の 分社 なの?それともたまたま祭神が同じだったということ?
B: 記紀神話では、無戸室でホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリ(ホスソリ )ノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)=彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)の三神 が生まれたことになっているが、曾良の話にはなぜその内の彦火々出見命しか登場しない の?
C: 『木花咲耶姫が燃える無戸室で彦火々出見尊を生んだという記紀神話から 室の八島と申します(解説書)』って、何を『室の八島と申します』なの?
D: @に関連するが、『燃える無戸室から立ち昇る煙』が、どういう経緯で池 から立ち昇る水蒸気と結びついたの?火と水とは最も仲の悪い関係なのに。
E: コノシロという魚を食べないという土地の風習の話がなぜ突然出てきたの ?
F: 曾良の話を『この神社にまつわる言い伝えの話(解説書)』であるとして いるが、神社の縁起(原文では『縁記』)と言ったら、由緒書きに書かれた神社 の由来のことだと思うんだが。

このような疑問を持たれた方が中にはいらっしゃることと思います。

   めったにいないようですが。
    と言っても[奥の細道]解説書の著者である先生方ご自身が何一つ 疑問に思ってない
    ですから、読者の皆さんが疑問を持たないのは当然です。

  →これらの疑問を抱かなかったあなたには、これから説明する内容はこれ らの疑問に対する
    解答なので、あなたにとって全く意味がありません。
    寄り道せずに次の
2.[烏糸欄] へジャンプ

そういう方のために、江戸時代の言葉を単に現代語に置き換えただけで、これらの疑問に ほとんど答えてくれず、曾良がどんなことを話したのかさっぱり分からない解説書の訳より 、もう少し丁寧に訳した現代語訳を次に紹介致します。

 でも、これを読んでもまるで狐につままれたような話と思うでしょう。それほどこの段 、と言いますか 曾良の話は難解 です。 曾良の話は、ちょっとでも疑問があったら徹底的に調査・解析しなければ、とても解読で きるような代物ではありません。そしてこれを解読しようという執念は、平安、中世、近世 室の八島と解き明かしてきたこの筆者(私のこと)にしか生まれなかったようです。加 えてこれらの室の八島を理解していなければ、「木に縁りて魚を求む」ばかりで曾良の話 を解読することは不可能だったでしょう。(室の八島という歌枕の近世までの歴史 をちゃんと知っていれば、室の八島についての曾良の話が 全くのデタラメ であることがわかるんです。そうして曾良の話を解読しようとしたら、歌枕と関係ない所を 攻めなければだめだということが分かるんです。)

<現代語訳>    筆者 訳
1)室の八嶋に詣ス:
 ここが歌枕の室の八島ですと道連れの弟子・曾良が言う室の八島大明神(下野惣社のこ と)に参詣した。

2)曾良か曰
『此神ハ木の花さくや姫の神と申て富士一躰也:

 神道家である曾良が言うには、
『境内からだと社殿に祭ってある祭神を確認できませんが、この神社の神は木花咲耶姫 (or木花開耶姫、このはな(の)さくやひめ)と言って富士山の神、すなわち 浅間神社 の祭神と同体です(「一体」でなく、正しくは「同体」と言います)。
 というのはこの神社の神・木花咲耶姫がこの室の八島の地(この神社の境内一帯の土地 のことです)から富士山へ行って富士山の神となったからです。室の八島は富士山の神・ 木花咲耶姫の故郷なんです。そしてそういうことで木花咲耶姫の故郷にあって木花咲耶姫 を祭神とするこの神社は浅間神社の親神社なんです。

3)無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に火火出見のみことうまれ給ひしより室の八 嶋と申:
 それからこの神社の縁起に(「記紀神話に」ではありません)、木花咲耶姫が 無戸室 に入って火を放ち、炎の中で 彦火々出見命 を産む話が出てきます。これは姫が富士山の神になる前のこの場所を舞台とした出来事で す。それで木花咲耶姫のこの故事からここを 室の八島と申し ます

4)又煙を読習し侍るもこの謂也:
 また、室の八島を和歌に詠む際には 煙を 詠む習わしになっています が、それもこの燃える無戸室から立ち昇る煙に由来するものです。室の八島とはそれほど 古くて由緒のある旧跡です。

−−なお室の八島の旧跡に建てられたこの神社が現在の社殿に再建される前のしばらくの 間、この前にある、それぞれに小祠を祭った八つの小島のある池、と言っても現在は水が 涸れているので師匠は池があるのに気付かなかったかも知れませんが、この神社にはこの 池しか存在しませんでしたので、一般にはこの池が室の八島であると考えられており、ま た池から立ち昇る水蒸気が室の八島の煙であると考えられていますが、今私が(=曾良が )説明しましたようにこの池を室の八島とするのは誤りです。−−

5)將このしろと云魚ヲ禁ス 』:
 それからまた、浅間神社の縁起に、祭神木花咲耶姫が危難に遭った際に、姫の身代わり に、焼くと死体を焼く匂いがするというコノシロという魚を野辺送りして焼き、姫は既に この世にいないと偽って難を逃れたという逸話があります。浅間神社の縁起にあるこの話 は世間に広く伝わっているので師匠もご存知と思いますが、実はこれも木花咲耶姫が富士 山の神、即ち浅間神社の祭神になる前の室の八島での出来事です。それでこの神社では現 在、身代わりとなって祭神・木花咲耶姫を救ったこの魚を食べることを 禁じています
と言うことである。

6)縁記の旨世に伝ふことも侍し」:
 以上、曾良が説明してくれたこの神社の縁起、すなわちこの神社の由緒書きにある当社 の由来の一部・コノシロの逸話などは、浅間神社の縁起を介して間接的ながら世間に伝わ っており、私も耳にしている。」


(説明)
1)室の八嶋に詣ス:
室の八島の段冒頭の『室の八嶋に詣ス』を「室の八島明神に参詣した」と訳している解 説書がいくつもありますが、室の八島は神社の略称などではありません、歌枕の名称以外 の何物でもありません。ですから『室の八嶋に詣ス』は「歌枕の室の八島に参詣した」の 意味に訳さなければ誤りです。

 当時のこの神社の名称は惣社大明神または室の八島大明神です (註8−1)。 そして神社名の頭に付いた「室の八島」は歌枕のことで、惣社村を含むその辺り一帯の土 地のことでしょう。室の八島大明神というのは、本来は神社名でなく、神様の名前です。 俗に言う神田明神も、江戸時代にはこの神社が神田明神と呼ばれていましたが、本来は神 社名ではなく神様の名前で、現在の神社にはちゃんと「神田神社」の額が掛かっています 。室の八島大明神が室の八島の地の神だったから、室の八島の神、すなわち室の八島大明 神と呼ばれるようになったものと考えられます (註8−2)。 なお [羅山詩集] には「日光の神、富士の神」という呼び方が載っていますが、その土地(山)の神様の本 来の呼び方はこういう呼び方しかなかったのではないかと考えています。

 この神社が室の八島大 明神。 と呼ばれるようになった当時、この神社は既に下野国の惣社ではなくなり、室の八島の地 の鎮守神に変わっていたんでしょう。この神社の前に室の八島の池が作られたのは、この 神社が室の八島云々という神社名だったからでしょう。神社名が違っていればここに室の 八島の池を作る理由がありません。癸生村に室の八島の池を作るならそれなりに理由のあ ることですが。

 なお、現代語訳文中の『道連れの弟子・曾良が言う』については、後ろの「4)又煙を 読習し侍るもこの謂也:」で説明します。

2)曾良か曰
『此神ハ木の花さくや姫の神と申て富士一躰也 and
3)無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に火火出見のみことうまれ給ひしより室の八 嶋と申:
1] 
当時この神社の社人は10人くらい居たと思いますが、『曾良か曰』って曾良 の話を聞くだけで、芭蕉はなぜ社人を捉まえて話を訊かなかったんでしょう?「お宅が有 名な歌枕の室の八島だそうですが」って。社人に話を聞けたら、室の八島について曾良の 話と違う話を聞けたんじゃないかと思うんですが。

2] 『無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に火火出見のみことうまれ給ひしよ り室の八嶋と申』、これを、意味がちょっと変わりますが、
「(木花咲耶姫が富士山の神になる前に、下野国の室の八島で)無戸室に入て焼たまふち かひのみ中に火火出見のみことうまれ給ひし」と書き換えると分かりやすくなったと思い ますが、

この文は、浅間神社の祭神木花咲耶姫の故郷が室の八島であることを意味し、また姫が室 の八島から富士山へ行って富士山の神になったことから浅間信仰が興った、つまり浅間信 仰はもとをただせば室の八島から生まれたことを意味し、そしてその室の八島にあって木 花咲耶姫を祭神とするこの神社が浅間神社の親神社であることを意味します。つまりこの 神社は浅間神社と同じく木花咲耶姫を祭神にしていますが、だからといってこの神社は浅 間神社の分社などではなく、反対に浅間神社の親にあたる神社であると曾良は説明してい るんです。信じがたいことですが、芭蕉の時代には実際そういう話が流布していたんです (日本鹿子)

なおこの部分には、祭神が木花咲耶姫である時代の縁起に、前の祭神である木花咲耶姫の 御子・彦火々出見尊が登場しています。この文だけではどういう説明をしているのか分か りませんが、前の祭神を登場させることによって、祭神が前の祭神から今の祭神・木花咲 耶姫に替わった経緯を説明しているのかもしれません。埼玉県の鷲宮(わしのみや)神社 の縁起に 同様の例 がありました。

3] 曾良の話に出てくる『(富士山の神である木花咲耶姫が)無戸室に入て焼 たまふちかひのみ中に火火出見のみことうまれ給ひしより室の八嶋と申』を説明するのに 、解説書は皆、古事記・日本書紀を用いて説明していますが、記紀は直接関係ありません (註8−3)

 曾良は下野惣社の縁起にある話をしたんです。そして下野惣社の縁起(と言っても縁起 のほんの一部ですが)は、記紀神話から借りてきて、それを作り替えて作ったものなんで す。だから無戸室神話の舞台があろうことか室の八島となっていたり、記紀神話では無戸 室で三神が生まれたことになっていますが、曾良の話ではまるで一神しか生まれなかった かのように、そのうちの彦火々出見尊しか登場しないんです。そして他の史料を参考にす れば、彦火々出見尊は木花咲耶姫がなる前のこの神社の祭神だったと考えられます。他の 二神が一緒に生まれたか否かはこの神社の縁起に関係ない話です。 (註8−4)

 もちろん、記紀神話にある木花咲耶姫の逸話は神々がまだ九州辺りを舞台にして活動し ていた時期の話なので、関東の室の八島とは全く関係ありません。 (註8−5)

4] 木花咲耶姫の無戸室の故事の部分が特に詳しく書かれてあったためか、「 室の八島の段の中心は記紀にある木花咲耶姫の神話で、曾良の口を借りてそれを持ち出す ことによって芭蕉は、これから陸奥の旅に出かける自分の思いを読者に伝えたかったのだ 」として、荒唐無稽な己の空想を長々とくっちゃべる解説書がありますが、曾良が話した 木花咲耶姫の逸話の箇所にそんな大それた意味の無いことは、室の八島の段の 草稿の項 で説明しておきました。

4)又煙を読習し侍るもこの謂也:
1] 
芭蕉らが室の八島を訪れた当時、この[奥の細道]に紹介されている神社の室 の八島なんてのは存在しなかったんです。曾良は、室の八島とは一般に知られている池の ことではなく、実は神社(またはその神域)のことですと言っていますが、それは単に下 野惣社がかってにこじつけているだけのことなんです。貝原益軒の [日光名勝記] (1685年旅)からわかるように、土地の人は誰もそんなばかげた話を相手にしており ません。もしかしたら貝原益軒が室の八島を訪れた時期(1685年旅)より後で、芭蕉 らが訪れる1689年までの4年間の間に神社が言い始めたことかもしれませんが。にも かかわらず、曾良の話を真に受けて歌枕の室の八島を神社とする無知な解説書の何と多い ことか。

 芭蕉は室の八島として神社の前にある池ではなく神社を訪れていますが、土地の人が「 室の八島とは神社です」などと案内する訳はないので、これは曾良に案内されたためと考 えられます。なお、江戸時代を通じて土地の人は神社に騙されることは一切ありませんで した。室の八島が神社であるなどとは、馬鹿馬鹿しくて土地の人はだれも相手にしなかっ た、そういうレベルの話なんです。曾良は神道学の師匠である吉川惟足(きっかわorよし かわ、これたりorこれたる)から室の八島とは神社のことであると教えられていたから、 その教えられたことをそっくりそのまま芭蕉に話したんです。曾良の話の中に曾良独自の 考えは一切含まれておりません。

2] [奥の細道]の本文を読んでも分かりにくかったと思いますが、曾良は、 上に書きましたように室の八島とは池ではないと言っているんです。ただし曾良が実際口 に出してそう言ったかどうかは分かりません (註8−6)。 しかし、曾良の話の内容は「室の八島とは池ではない」を意味しているんです。だって池 が無戸室の故事の舞台になれる訳ないでしょう。

 もっとも、曾良が『此(=室の八島の)神ハ木の花さくや姫の神』一神である と言っているにもかかわらず、字面上どこにも顔を出さない八神を祭った池を曾 良が紹介している室の八島であるなどと考えるのは深読みが得意な学者以外にいないと思 いますが。[奥の細道]に紹介されている室の八島を池だと信じている読者は解説書に騙 されているんです。実は筆者も騙されかけまして、室の八島が池なのかどうか確認するた めに室の八島の段を何回も読み返しました。その結果室の八島の段に紹介されている室の 八島が池である可能性は無いと分かったんです。 (註8−7)

5)將このしろと云魚ヲ禁ス 』:
1] 
また『このしろと云魚ヲ禁ス』は一部の解説書が言うような突然出てきた土地 の風習の話などではなく、これも曾良が話したこの神社の話です( [下野国誌]惣社六 所大明神参照 ) 。また神社の話といっても、多くの解説書が言うような祭神木花咲耶姫の無戸室の故事と の繋がりは全くありません。そしてこの神社がコノシロを食すことを禁じていたのは、現代 語訳に書きましたような理由からで、解説書が言うような「コノシロを焼くと死体を焼く 匂いがするから」という理由で、神社がコノシロを禁ずることはあり得ません。「コノシ ロを焼くと死体を焼く匂いがする」というのは、「木花咲耶姫を火葬にしたと偽装するた めに、焼くと死体を焼く匂いがするコノシロを代わりに焼き、その匂いでごまかした」と 繋がるんです。もっともコノシロはこんな内陸部には出回りませんから、神社が禁じなく ても氏子は食べませんが。

2] ところで『このしろと云魚ヲ禁ス』は縁起の話ではありません、当時の話 です。おそらくこの神社の由緒書きには、縁起譚を述べた後に「・・・ということで、当 社では現在コノシロを食すことを禁じています」とあったんでしょう。芭蕉は歌枕の室の八 島とあまり関係ない話なので省略してしまいましたが、曾良の話は、『このしろと云魚ヲ 禁ス』の前に現代語訳に書きましたコノシロ身代わり火葬の話があったんです。『(と言 うことで当社では現在)このしろと云魚ヲ禁ス』は、その縁起譚を説明した後に出てきた言 葉です。

 そして芭蕉が説明を省略してしまったこの話が、実はこの神社の縁起譚の中心部分なん です。それで、芭蕉が最後に『縁記の旨世に伝ふことも侍し』と言っているこの縁起とは 、このコノシロ身代わり火葬の話を指しているんです。(あるいはこの話の主旨 である「浅間神社の祭神木花咲耶姫の故郷は下野国の室の八島である」という話かもしれ ませんが。)また『無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に火火出見のみことうま れ給ひしより室の八嶋と申又煙を読習し侍るもこの謂也』は、歌枕の室の八島を神社(の 神域)にこじつけるために、縁起譚の中心部分を作った後に(と言っても、前か らあった縁起譚 [下野風土記] を作り替えたものですが)こじつけて追加されたものです。

3] と言うことで曾良が話した部分としてかぎカッコで閉じるべき位置は、多 くの解説書がそうしているような『將このしろと云魚ヲ禁ス』の前ではなく後ろが正しい んです。中には、文の最後までを曾良が話したものとする解説書がありますが、そうでは ありません。芭蕉は、つづり方の教科書どおりに最後を自分の言葉で締めくくったんです 。

6)縁記の旨世に伝ふことも侍し」:
1] 
『縁記の旨世に伝ふことも侍し』とあるところからか、多くの解説書が、曾良 の話を『世に伝ふことも侍し』この神社にまつわる言い伝えの話であるとしているようで すが、それは文の読み違いです。曾良の話は、『縁記の旨世に伝ふことも侍し』の『世に 伝ふことも侍し』話ではなく、文頭の『縁記』の話、すなわちこの神社の由緒書きにある 当社の由来の話です。この文の意味は、曾良が説明してくれたこの神社の由緒書きに書か れた『縁記』の話が『世に伝ふことも侍し』であって、『世に伝ふことも侍し』『縁記』 を曾良が聞いて、その聞いた内容を芭蕉に話した、ではありません。ちょっと分かりにく かったのは『縁起の旨』の前につけるべき「以上、曾良が説明してくれたこの神社の (縁記の旨世に伝ふことも侍し)」の文を芭蕉が省いちゃったからです 。芭蕉らは神社に来ているんです。そこで『縁記(縁起)』という言葉が出てきたら、そ れが神社が由緒書きに記した縁起(それが言い伝えをもとにして書かれたか否か はさておき)を意味すると考えるのが常識でしょう。それともなにか、「縁起」 でなく「由緒」でないとピンとこないんでしょうか。

2] 曾良の話を聞いて芭蕉は『(以上、曾良が説明してくれたこの神社の)縁 記の旨世に伝ふことも侍し』と言ってますが、こんな田舎の一神社の縁起が世間に伝わる わけがありません。下野惣社の縁起と内容が重なっていた浅間神社の縁起 (註8−8) が伝わっていたんです。と言うのは当時から浅間神社の分社は各地に多数存在しましたか ら。芭蕉が聞いたのも浅間神社の縁起です。だから芭蕉はこの神社の「縁起」そのもので なく、この神社の『縁起の旨(=主旨・内容)』が『(浅間神社の縁起を介して)世に伝 ふことも侍し』と言っているんです。


 さてあなたの読まれた[奥の細道]解説書の現代語訳・解説内容がいかなるしろもので あるか、これでおわかりいただけましたでしょうか?その解説書のおかげで、[奥の細道 ]に室の八島とは何だと書かれてあるのか、正しく理解されている方は、現在の[奥の細 道]愛読者の中に一人もいません。

 ところで、室の八島の段には、「神社」という言葉を補ったほうが、理解しやすい箇所 が何箇所かあります。そこで「神社」を補うと室の八島の段は次のようになります。

「(ここが歌枕の)室の八嶋(ですと曾良が言う神社)に詣ス
曾良か曰
『此(神社の)神ハ木の花さくや姫の神と申て富士(山の神、即ち浅間神社の祭神と)一 躰也
(この神社の縁起によれば、木花咲耶姫が富士山の神になる前に、彼女の故郷である下野 国のこの神社のある場所で)無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に火火出見のみことうま れ給ひしより(この神社(のある場所)を)室の八嶋と申
又煙を読習し侍るもこの謂也(と言うことで、室の八島とは一般に言われている八つの小 島のある池のことではありません)
將(この神社では)このしろと云魚ヲ禁ス』
(以上、曾良が説明してくれたこの神社の)縁記の旨(浅間神社の縁起を介して)世に伝 ふことも侍し」

 この「神社」という言葉が一切欠けていたことが、室の八島の段を難解にして、いろい ろ誤解を招いた理由の一つでもあります。さて芭蕉は、意図して「神社」という言葉を避 けたんでしょうか?芭蕉の文は非常に簡潔なので好評ですが、このように簡潔すぎて言葉 が足らないのが欠点です。おそらく江戸時代の人でも、誤りなく理解するのは難しかった でしょう。

 ところで、このウェブサイトは室の八島の歴史を紹介するものですが、[奥の細道]に 紹介されている神社の室の八島は、[奥の細道]が書かれた当時まだ存在しなかったんで す。それでこの段階で[奥の細道]の内容を詳しく説明することは、このように「ちょっ と寄り道」してせざるを得なかったんです。
 なお、当時の神道に興味があり、曾良の話の背景を是非知りたい、という方は こちら をご覧下さい。

2.[烏糸欄](1716年旅) 烏糸欄
 稲津五郎右衛門(1663−1733年、俳人で1714年からの俳号は祗空(ぎくう ))著
「先(まず)室の八島に立ちよる。村を惣社といふ。社の右に八つの小島あり、煙をもっ てその名たかし。今は水かれ烟たたず。島累々として神さび、森樹かうがうしく見ゆ。」

(考察)室の八島を、池でなく、池を含む神社としているようです。それを見ると祗空は 松尾芭蕉の門人なので、芭蕉の[奥の細道]の影響を受けているようです。そして『社の 右に八つの小島あり、煙をもってその名たかし』から、祗空は、室の八島の中にある池か ら立ち昇る蒸気霧を室の八島の煙としているようです。なお池の八島に祭ってある小祠が 室の八島の一部であるなどと考えるのは戦後の人達だけで、江戸時代にそんな馬鹿な考え をする人はおりませんでした。
室の八島とは池であると聞いていたところに[奥の細道]が登場してきたら、祗空がこの ように誤解するのも当然でしょう。現在の多くの[奥の細道]愛読者もこのように考えて いるのでしょうか?それにしては、池から立ち昇る煙と燃える無戸室から立ち昇る煙との 関係をどのように理解しているんでしょう?その前に[奥の細道]解説書はどのように説 明しているんでしょう?

3.[広益俗説弁](1716−27年) [広益俗説弁]
 井沢蟠竜(いざわばんりゅう、1668−1730年) 著
巻四十一 雑類 地理 下野室の八島の説
「俗説云、下野国室の八島は、往昔八島大臣といふ人住せしより其名を得たり。
今按(あんず)るに、非なり。室八島は、上古、木花開耶姫、無戸室(ウツムロ)をつく りてこもり給ひし旧跡なり。和歌に煙をよめるも、無戸室に火を放ち給ひし故事によれり 。八島は大八洲(オホヤシマ)を表せり。開耶姫の神社あり。『羅山文集』( 『羅山詩集』 の誤り?)に曰、室八島は池の中に八島有り。八神を祭る。『神代巻』を考ふるに曰、 (以下日本書紀の『神代巻』にある木花之開耶姫の無戸室神話が続くが省略する 。庶民は無戸室神話なんか知らないから、井沢蟠竜がここで説明してるんでしょう)

(考察)室の八島を木花咲耶姫の無戸室神話に関連付けて説明しているのは、[奥の細道 ]とこの[広益俗説弁]くらいですが、上記文中『今按るに、非なり。』に続く文が[奥 の細道]を基にして書かれたのか、別に下野惣社の由緒書きの内容を知っていて書かれた のかは筆者にはわかりません。しかしこの文にあるように、下野惣社の縁起にしろ、その 縁起を説明している曾良の話にしろ、室の八島を池であるなどとはしていないんです、境 内一帯を室の八島としているんです。
 もちろん、『(室の八島の)八島は大八洲(オホヤシマ)を表せり』は誤りです。沢山 の島の意味です。竈を意味するヤシマは「大八島竈神(「日本全土の竃神の代表 」というような意味でしょうか?)」の八島という言葉から来たんですが。

 こういう史料を読むとき、『俗説云、下野国室の八島は、往昔八島大臣といふ人住せし より其名を得たり』は、当時の室の八島に関する俗説を知る上で非常に参考になりますが、 『今按るに、非なり』以下の文は、単なる個人の見解なので全く参考になりません。言って いることが正しいか否か、筆者(つまり、この私)に判断される対象でしかありません。


4.[蝶の遊](1738年旅)
 山崎北華(1700−1746年、江戸中期の俳人,狂文家)著
   (松尾芭蕉の[奥の細道]の旅を辿る紀行)
「明れば室の八島を尋ね詣づ、木立ふりて神さびたるさまいと殊勝なり。茂れる森の内に 、いかなる人の作れるにや、めぐりめぐりて池を掘り、池の中に島と覚しきを八つ残した り。八島といふ名にめでてなせしなるべし。年久しき業とも見えず、をかしき事を構へた るものかな。此神は木の花咲や姫にてましましける。往昔より煙を歌によみ習はし侍る。 我も
 一くもり−室の八島の−たば粉かな
と云捨て烟管腰にさし、小倉川といふを渡り、壬生に懸り・・・」

(考察)山崎北華になりますと、室の八島とは池であるという話を聞いていなかったのか 、まともに[奥の細道]を信じたようで、神社を室の八島として、池を室の八島とは見て おりません。『年久しき業とも見えず』、すなわち最近作られたものであることが見て判 るような池だったので、例え山崎北華が室の八島とは池であるという話を聞いていても、 この池を室の八島と見なかったでしょう。

 神社の室の八島が世間に浸透すれば、室の八島の池のようにいろいろ尾鰭が付いて語ら れるようになってもよさそうですが、[烏糸欄]や[蝶の遊]を見ても、[奥の細道]に 書かれてある内容の域をあまり出ておりません。このことから、下野惣社が「室の八島と は神社である」と言い出してから50年ほど経っていると思われますが、神社の室の八島 はあまり世間に浸透しなかったことが分かります。


5.[奥細道菅菰抄](1778年)
 高橋(蓑笠庵 さりゅうあん)梨一(1714−1783年)著
     [奥細道菅菰抄](−すが(orすげ)ごもしょう)は[奥の細道]の 注釈書です。

[奥の細道]の文を引いて
「室の八島に詣ず : 神社ニテ、下野ノ国総社村ニ立。室ノ八島大明神ト号ス。祭ル神 富士浅間ノ祖神と云。乃チ木花開耶姫ニテ、 下ニ見タリ 。」

「煙を読習し侍るもこの謂也 : 詞花 いかでかハ思ひありともしらすべきむろのやし まのけふりならでハ、藤原実方朝臣   此外烟をよミたる歌、千載、新古今、続古今等 に見えたり。一説に、此野中に清水あり。其水気立のぼりてけふりのごとし。是を室ノ八 島の煙と云と。」

(考察)この[菅菰抄]の著者は[奥の細道]の記述をまともに信じたようで、室の八島 を神社であるとして、池に関する記述がありません。この頃はまだ室の八島を神社である と考える人は殆どおらず、反対に池を室の八島であると考える人は多かったはずですが。

 また、『祭ル神富士浅間ノ祖神』、すなわち「祭る神は富士浅間に祭る神・木花開耶姫 の親である大山祇神である」と言いながら、『乃チ木花開耶姫ニテ』と矛盾したことを言 っています。これらは[奥の細道]の記述を鵜呑みにしたばかりでなく、[和漢三才図会 ](1712年)以降の 内容のずれた資料 を参考にしたためです。

 室の八島を神社であるとしたり、『このしろと云魚ヲ禁ス』を解釈する上で誤解の元と なった [慈元抄]にあるような 話 を引用するなど、この[菅菰抄]あたりから[奥の細道]注釈書・解説書における室の八 島の説明が狂い始め、21世紀の今日に至るまで狂い続けることになります。と言うより 時代が下るに従って狂いはますます甚だしくなり、現在では解説の誤り個所を取り上げて 、いちいち訂正する気などとても起きなくなるほどの代物に成り果てます ([ソフィア文庫 ])。 この少年少女向けの解説書を読むと「室の八島の段」の誤った解釈がほぼ定着しているこ とが分かり、このまま行けば今後何年経っても誤りが訂正されることはないだろうと思われ ます。

 なお、この第三節に引用した史料からわかりますように、下野国の人で室の八島とは神 社であるなどと言っている人は一人もおりませんでした。


(続き)第2節 その2 下野国府があった辺りの特定の場所

9.[室八島山諸書類調控帳](1838年)(イメ ージ:中世室の八島、具体的場所:中世室の八島の中の特定の場所?)
(史料名にある「室八島山」とはお寺の山号で、神仏習合である当時の正式名称は「室八島山 (むろのやしまさん)神宮寺」と言ったんじゃないかと思いますが、要するに室の八島大明神 ・惣社大明神(=下野惣社)のことです。)

この[室八島山諸書類調控帳]は、編集当時(1838年)の下野惣社に記録が残ってい ないか、紙が傷んで読みにくい過去の出来事(「皆川落城之事」(1586年 小田原北条氏に降伏)から「一札之事」(1746年)まで)を、 どうやって調べたのか下野惣社の関係者が調べあげて記録したもののようです。

下野惣社は、1682年(?)に社殿を再建しましたが、その社殿再建のための寄付を募 る勧進帳なるものの一部を紹介します。

  下野国室八嶋大明神勧進帳
[延宝三年(1675年) 下野国室八嶋大明神勧進帳 卯八月十日]
「 ・・・・・・
一  天平三辛未(かのとひつじ)年(731年)、 竹生島神 現(あらわる)ニ依リ、古都府(である)五萬兵長館(の在る)琵琶島ト云(=の在る) 清水池ニ、竹生島神ヲ神鏡ニ(神鏡として=御神体として)移シテ祝祭、右(=清水池を) 御鏡之池と唱、

一  五萬兵長ケ館ノ琵琶島、惣社大明神ノ元宮ニシテ、惣社明神御誕生ノ地也、人皇十 二代景行天皇四十一年(111年)六月廿日、天子ヨリ祝祭ニヨリテ琵琶島ノ元宮ヨリ今 之地ニ移シ、宮柱太シク立テ、下野国惣社室八島六所大明神と祭モノナリ、古ハ此地 ハ宇津室八島ノ古都府ト唱、人皇十二代景行天皇四十一年(111年)、惣社と祭ル ニ依テ惣社と唱、天正十八年(1590年)小田原落城シテ村と成、夫より惣社と云ナリ 、

一 古都府ノ琵琶嶋、琴嶋ハ、下津毛野 国長 大曽根ノ先魂神(意味不明)ノ 武稚彦命 ヨリ 伊倭男太神 (なぜか、当時の祭神のことは紹介せずに、大昔の祭神を紹介しているようです )、宇津室八嶋代々霊神ノ住シ地ニシテ、下野国第一ノ古都府ナリ、・・・」 (註9)

再建前のこの神社の縁起が載っている [下野風土記] (1688年編著)の縁起と上記の縁起とを比較してみて下さい。
あまりにデタラメが酷いので、最後まで読む気になれず。尚 この「下野国室八嶋 大明神勧進帳」は紙の破損が酷く、文の途中までしか残っていなかったようです。

(考察)一読してわかりましたが、全くでたらめな内容の縁起譚です。

 「宇津室八島」の都名は面白いですね。「無戸室(うつむろ)」と「室の八島」とを 合成したものでしょう。無戸室(うつむろ)なんて言葉は、1682年(?)にこの神社の 社殿が再建されてから 作られた、この神社の縁起に初めて登場してくる言葉であると 考えられますから、それ以 前に作られた[下野国室八嶋大明神勧進帳(1675年)] に書いてあったとは思えませ ん。

 1838年に[室八島山諸書類調控帳]をまとめるときには、[下野国室八嶋大明神勧進帳( 1675年)]でまともなのは表紙だけで、後はボロボロだったんでしょう。 『文字が読めなくなる前に、この帳面に写し置いた』って、中身は皆[室八島山諸書類調控帳] (1838年)をまとめる際にでっちあげたんでしょう。

 また、[室八島山諸書類調控帳](1838年)の[下野国室八嶋大明神勧進帳(1675年)] に出てくる「琵琶嶋」、「琴嶋」も、[下野風土記](1688年編著)時代の縁起から [奥の細道](1689年旅)時代の縁起に替わってから、約150年経っていると思われます ので[下野風土記](1688年編著)時代の縁起の「琵琶嶋」、「琴嶋」から意味が 変わって来ちゃってます。

 更に[下野風土記](1688年編著)では、この神社は富士山の神(木花咲耶姫)と 関係ありましたが(祭神は木花咲耶姫の御子)、[下野国室八嶋大明神勧進帳(1675年)] では富士山の神と関係がなくなり、日光の神と関係してきます(祭神は「宇津室八島大神= 武稚彦命」。もちろん 即席にでっち上げた デタラメな祭神名 ですが)。
(資料に書いてある内容が信頼できるか否か?データとして使えるか否か? を確認するために、資料一件一件についてこういうことをきちんと解析することが重要 なんです)

 [奥の細道](1689年旅)の頃、下野惣社は由緒書きの中に室の八島とは境内一帯 のことであると無理やり書かされておりましたが、この[下野国室八嶋大明神勧進帳]が 書かれたと推測される1838年頃には、その呪縛から解き放たれて『古ハ此地ハ宇津室 八島ノ古都府ト唱』、すなわち室の八島とは都の名前であるとしています。これは中世室 の八島のイメージがこの頃まで残っていたということでしょう。それにしても隣郷に国府 村があるというのに、この都が下野国府と結びつかないんですね。もしかしたら『宇津室 八島ノ古都府』が、後世下野国府になったとでも言いたかったんでしょうか?

10.[下野国誌](1850年刊)(イメージ:平安 室の八島、具体的場所:中世室の八島辺り)
なお [下野国誌]の室の八島の説明文の中に 神社や境内の池は 一切登場しません。
 河野守弘 著
名所勝地
室八島(ムロノヤシマ)
惣社村にあり。其隣郷に国府村ありて、古へは惣社村も国府の分郷なり。其近所に (昔々の話ですが)清水と云地、また煙(ケブ)村と云も並てあり て、もと煙の立し所なりと伝えたり。今は癸生(ケブ)村に作る (註10)
そは隣郷に壬生(ミブ)あれば、彼十幹の兄弟( エト =兄弟の傍註)に依て、近世書改めしものなるべし (註11)
・・・・・・実はこの後が河野守弘が個人的に考えている室の八島の場所の説明 文なんですが、長ったらしいので省略します。・・・・・・   詳文はこちら。
右の書ども、みな室のやしまは、今の地なりと云ふ明証なり。」

(神祇鎮座「総社六所大明神」)

(考察)
1)長ったらしくて、かつ分かりにくい説明文を読むと、河野守弘はどうも、位置的には 中世室の八島の下野国府の集落一帯(村名としては国府村・惣社村・癸生村辺り一体の土 地)を室の八島と考えていたようです。しかしイメージとしては平安室の八島のイメージ のようです。

2)ところで1)が河野守弘が考えていた室の八島の場所だとすると、冒頭の『室八島は 惣社村にあり。』とは、何なんでしょう。恐らく付近の住民の考えなんでしょう。また惣 社村にある室の八島とは具体的に何なんでしょう。説明がありません。室の八島が惣社村 にあるとすれば、その室の八島とは、神社か?その境内にある池か?あるいはどこかの場 所か?ですが、河野守弘は「そんなのホントの室の八島じゃねえ」と考えていますので、 説明しないんです。悪い癖です。説明しないんだったら『室八島は惣社村にあり。』なん て書くな。というより、どうせ参考にしないんだから、お前の個人的な考えなんか載せる な。それより室の八島とは何処だと一般に考えられていたか?それが参考になるんだから 、それを書け。

3)ところが、[下野国誌]にある都賀郡の地図を見ると、室の八島は惣社明神の北、癸 生村辺りに描かれています。こりゃあいったい何なんだ。 実はここが下野国の多くの人 が考えていた室の八島の場所なんです。

これらから分かるように、河野守弘の書き方は全くしっちゃかめっちゃかです。それで「 [下野国誌]には室の八島とはどこだと書いてあるのか?」理解するのにかなり苦労しま した。何回も解析しなおしまして、やっとこの1)2)3)の解析に辿り着いた次第です 。結論として、[下野国誌が言っている室の八島の場所」を解き明かす上で参考になった のは、引用されている豊富な史料であるということです。

4)河野守弘は[下野風土記](1688年)を馬鹿にしていましたが、河野守弘の考え る「室の八島」は、結局[下野風土記]が言う「室の八島」の場所と同じでした。

 松尾芭蕉の[奥の細道]が言う「歌枕の室の八島とは、室の八島大明神のことである」 という話は、河野守弘が[奥の細道]を読んでいなかったか、読んでいても信じなかった んでしょう。
 また、室の八島大明神付近の住民の言う「室の八島とは、室の八島大明神の境内にある 、八つの小島のある池のことである」という噂についても、河野守弘は信じなかったよう です。

 「室の八島」については、河野守弘は沢山の史料を調べていますので、それらの史料か ら判断して、「室の八島」とは[奥の細道]がいう「室の八島とは室の八島大明神の境内 である」と言う話や、室の八島大明神の付近の住民の言う「室の八島とは、室の八島大明 神の境内にある、八つの小島のある池のことである」という話は信用せず、[下野国誌] では、神社や池については一切触れておりません。
 これは、かなり立派な解析です。「室の八島」以外の、史料の少ない歌枕についても、 こういう解析をしてもらえれば良かったんですけどね。
なお、下野国の多くの人は、河野守弘と同じ考え・知識だったんでしょう。

 ちょっと話がずれますが、
河野守弘は、「近年煙村を癸生村に書き換えたものだろう」と言っていますが、それより 200年前の1649年の文書に「癸生旦那衆」とあり、近年書き換えたものかどうか? (なお、こことは関係ありませんが、癸生川という名称がかなり古くからありま すね)

第4節 近世における室の八島の印象
 室の八島の印象として、平安時代は華やか、中世はやや暗い、というそれぞれの時代を 特徴づける印象というものがありましたが、近世になりますとそういったものがなくなり 、筆者には室の八島が無味乾燥なものになったように感じられます。
 近世の和歌については数知らないんですが、恋の歌はなくなります。ひとつ言えること は、室の八島の煙を水蒸気とみなして詠む歌が多くなるということです。そして無戸室を 焼く煙を室の八島の煙とした歌はみあたりません。そんな荒唐無稽な話を信じる歌人はい なかったんでしょう。神社の室の八島が世間一般に浸透しなかったことは、このように当 時の和歌からも読み取ることができます。

・[黄葉(和歌)集](こうようしゅう)
  烏丸光広(1579−1638年)
 室のやしま見にまかりけるに、雨のふりければ
 雨雲の−空にまかひて−けふぞ見る−室のやしまに−絶ぬ煙を (註12)

・[為景卿紀行]
  冷泉為景?(1612−1652年?)
 賑はへる−煙やここに−立ちまさる−民の竈を−室の八島に

・[室八島](1756年)
  石塚倉子(1686−1758年)
 巻一 春歌
 下毛野の名ところにて、春立心をよめと人のいへりければ
 春くれば−室のやしまの−けふりさへ−けさや霞に−たちかはるらん

 巻五 日光紀行(1722年旅)
 名に立てる−煙やいづこ−春ふかく−室のやしまは−かすみわたりて

この章終わり












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