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第1章 室の八島の歴史の概要

第2節 栃木市の歌枕 の備考


さしも草
通説ではお灸のモグサの原料ヨモギであるということになっています。

善応寺(ぜんおうじ?ぜんのうじ?)
栃木市吹上町258 【地図】
現在、善応寺の本堂は無く、境内に聖観音の観音堂が残っているだけです。

文化財指定年
さしも草・しめじが原(ともに1961年)、下野惣社(室の八島)(1968年)、伊吹山 (1977年)、しわぶきの森(1988年) (註1)

これを見ると、例えば地元から「これこれを文化財に指定してくれ」と依頼されると、栃 木市は、何も調べずに、「はいそうですか」と言って文化財に指定しているのではないか と疑われます。
と言うのは、「さしも草」と「しめじが原」との文化財指定年が1961年で、「伊吹山」 の文化財指定年がなぜ1977年なのか?なぜ文化財指定年が違うのか?全く理解できま せん。そして1988年などという後になってから、なぜ「「しわぶきの森」が文化財に 指定されたのか全く理解できません。

実は、これらは全て[下野国誌](1850年)の記述だけを根拠にして、文化財に指定してる んです。ですから本来なら、これらの文化財は皆同じ年に文化財に指定されなければおかしいんです。

更に、「室の八島」の文化財指定年が一番先でないこの栃木市当局の無知さ、ひどいもん です。

石塚倉子(いしづかくらこ)
1686−1758(本名:玖羅)江戸時代中期、下野国都賀郡富吉村(今の栃木市藤岡 町富吉)という片田舎に在りながら、その才能を開花させた女流歌人。[室八島]はその 作品集です。

2012年の頃、東京国立博物館に所蔵されている浮世絵師・喜多川歌麿(1753?− 1806年)の版画シリーズ「近代七才女詩歌」の一つに、「下野室八嶋 倉子女」の美 人画とともに倉子の和歌「吹き送る−風のたよりも−誰(た)が里の−庵(いおり)に匂 ふ−梅の初花」が紹介されている版画が見つかったそうです。

[室八島]巻第五 日光紀行(1722年旅)
 石塚倉子(1686−1758年) 著
往路(冨吉村→小倉川(今の思川)→鹿沼)
 「享保七ほ×壬寅(みずのえ・とら)(1722年)にやどれる弥生 始の頃、おなじ国なる 二荒山。 へ詣でける道×、有ける川の名をとへば、『小倉川(ヲグラ川)となむ。さはいへど、此 所あづまのはてにして、古きためしの言の葉もなし(なぜヲグラ川という名前が付けられ たかの言い伝えもない)』と答ふ。さりとて、思ふ事いはで止みなむも、本意なきわざな ればとて、
 昔たれ−かすむ波路を−分けきつつ−をぐらき程に−渡り馴れけん
(昔誰かが、毎日職場に通うなどのために、朝夕の薄暗い時に波をかき分けてこの川を 渡っていたので、それで小暗川という名前が付けられたんじゃないのと洒落を言ってるわ けです)
鹿沼といへる所の、しれる人のもとに宿りける。」
(註)×印:筆者に読めないくずし字

復路(宇都宮→すがた川→をぐら川→室の八島→冨吉村)
「それより、室のやしまに至りぬ。是や此、『名にしおふ室の八島にやどもがな』と、俊 成の卿もながめ給ひけんなど、かれこれ思ひつづけて見れども、昔の人のくらべ給ひけん 、恋の煙も見えざりければ、
 名に立てる−煙やいづこ−春ふかく−室のやしまは−かすみわたりて
こと故なく(ことゆえなく=無事に)家に帰り来て、・・・」

(考察)石塚倉子は日光の行き帰りに、しめじが原、しわぶきの森の近くを通りかかって いるはずですが、それらの歌枕には一切触れておりません。しわぶきの森はいざ知らず、 しめじが原はその所在地について「さまざまの説ども」が生まれるほど名の知られた歌枕 なので、それに触れないことはちょっと考えられません。石塚倉子は多くの和歌から判断 して、しめじが原・さしも草の伊吹山=下野国説を信じていなかったんではないでしょう か、そしてこの1722年頃はまだしわぶきの森は下野国府付近に付会されていなかった んではないでしょうか?

 ところで、室の八島の煙が、下記二首の歌のように「恋の煙」であるなどとは、 今の人はほとんどご存知ないでしょうね。現在は水面から立ち昇る水蒸気(蒸気霧)を煙に 見立てたものであるなどと、全く無粋な話になってますが、本来は「恋の煙」です。

・上記の俊成の『名にしおふ室の八島にやどもがな』の正しい歌
 [千載集](1187年)
 藤原俊成(1114−1204年)
 忍恋を
 いかにせむ−室の八島に−宿もがな−恋の煙を−空にまがへむ
・[宝治百首](1248年)
 俊成女(としなりのむすめ、1171?−1254年?)
 宝治二年、百首の歌に、寄煙恋
 いかなりし−恋の煙の−消えやらで−室の八島 (註3) の−名を残しけむ

(補足)
(1)石塚倉子(1686−1758年)の作品集 [室八島]からわかること。

「あその川原」、「みかもの山」 : 石塚倉子はどちらにも言及していない。
→万葉集の歌に登場する歌枕「あその川原」の川、「みかもの山」は当時の何川、何山で あるという話は無かったんでしょう。それはおそらく、万葉集の歌は知られていたが、場 所が分からなかったからなんでしょう。

「伊吹山」、「しめじが原」 : 石塚倉子はどちらにも言及していない。
→当時どちらの歌枕も栃木市付近に比定されていたはずであり、そのことは石塚倉子も知っ ていたでしょう。にもかかわらず石塚倉子が触れていないということは、それを信じていな かった可能性が高い。石塚倉子はかなり頭の良い人です。

「室の八島」 : 石塚倉子は、室の八島を広い土地の名前と理解してたんでしょう。で なかったら上の歌に「室のやしまは−かすみわたりて」なんて歌詞は出てきません。彼女 は癸生村辺りを室の八島であると考えていたようです。
→下野国の人としてそれは当然です。[奥の細道]の言う「室の八島とは神社である」っ ていう話については、石塚倉子は[奥の細道]を読んでいなかったか、読んでいても馬鹿 馬鹿しいと信じなかったでしょう。下野国の人で[奥の細道]の言うことを信じる人はいな かったんです。

(2)しめじが原、さしも草の伊吹山、しわぶきの森などの歌枕が実際に栃木市に存在し たなら、それらに触れても良さそうですが、室の八島だけに触れて、それ以外の歌枕に触 れていない史料は次のとおり。

[新和歌集](1260年前後)宇都宮歌壇の歌集
[東路の津登](1509年旅)連歌師・柴屋軒宗長の紀行
[下野風土記](1688年編著)下野国の地誌 ただし伊吹山には触れている。
[奥の細道](1689年旅)俳人 松尾芭蕉 著
[室八島](1756年刊)下野国南部の歌人 石塚倉子 著

 しわぶきの森はいざ知らず、さしも草の伊吹山は[小倉百人一首]で知られ、しめじが 原は謡曲[田村]と[船弁慶]中の和歌に登場し、またお寺の御詠歌に詠われるほど名の 知られた歌枕です。
・[小倉百人一首]藤原実方(958?−998年)
 かくとだに−えやは伊吹の−さしも草−さしも知じな−燃ゆる思ひを
・謡曲「田村」 世阿弥(1363年−?年)作?
   [船弁慶]観世小次郎信光(1435or1450−1516年)作
 ただ頼め−標茅が原の−さしも草−我世の中に−あらん限りは


1.しわぶきの森
本院の将曹(ほんいん の しょうそう)
本院 : 1.主となる院。分院に対していう。 2.この院。 3.上皇または法皇が 同時に二人以上ある場合、その中の第一の人
将曹 : 宮中の警護役の一つ。
     但し、現在の京都御所内に院と付く場所はなさそう。

「本院の将曹」とは、上皇・法皇の邸(院、仙洞御所、せんとうごしょ)の警護役の事かも 知れない。

ここの「本院の将曹」とは、具体的な個人を指すのではなく、「警護役の一人が」という 意味のようだ。

シモツケ
バラ科シモツケ属の落葉低木。別名、キシモツケ(木下野)。北海道から九州にかけての 日本各地、朝鮮および中国の山野に自生する。成木の樹高は1mほどであり、初夏に桃色 または白色の集合花を咲かせ、秋には紅葉する。古くから庭木として親しまれて きた。

(参考)シモツケソウ(クサシモツケ)
バラ科シモツケソウ属。関東地方以西の本州・四国・九州に分布し、高原の日当たりのよ い草地に群生して生える多年草。草丈30〜100cm。葉は掌状に5〜7に深裂し、葉縁に不 揃いの鋸歯がある。花は4〜5mmで淡紅色の花弁を散房状に多数つける。(こちらは紅葉 しないようですね)

白露
1.〔しらつゆ・はくろ〕光によって白く見える露のこと。
2.〔はくろ〕二十四節気の一つで9月上旬の頃。このころから秋気が進んで露を結ぶとされる。

(註1) 一例紹介
・[拾遺集](1005−07年)
 読人不知
 しもつけ
 うゑてみる−きみたにしらぬ−はなのなを−われしもつけむ−ことのあやしさ
(キレイな花だったので庭に植えて鑑賞していた。しかし花の名前が分からない 。それでこの花に適当な名前を付けて呼んでいた。しかし後で分かったことだが、この花は 「シモツケ」という名前であった。)
というような意味でしょうか?掛詞の妙技を味わう歌のようです。
(こういう和歌って、詞書「しもつけ」がなかったら歌の解釈は不可能でしょう 。ということは、詞書も和歌を構成する重要な一部なんです。別物ではないんです。)



しわぶきの森の資料解析
 江戸時代後期に、下野国の人間によって現在の栃木市付近の森に比定されるより前に、 この森を詠んだ歌が平安時代に詠まれた一首しかなく、かつこの森に触れた和歌以外の 史料が、江戸時代末期に書かれた次の[下野国誌]しかない歌枕です。

(1)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘(1793−1863年)著
×(口偏に康)(シハフキノモリ)
右(=室の八島)に同じく、 国府村の 北の方にて 、惣社明神と、室の八島 との間にある森をいふなり。

朝忠 卿家集] 本院の将曹、しはぶきするをききて、とあり
 下野や−しはふきの森の−しら露の−かかるをりにや−色かはるらむ
(以後の[下野歌枕](河野守弘時代の歌集)の歌は省略)」

(考察)本文のページでこの歌にある「しわぶきの森」の場所を解析しているように、 『惣社明神と、室の八島 との間にある森』が「しわぶきの杜」である訳がないんです。 ですから[下野国誌]当時、『惣社明神と、室の八島 との間にある森』が「しわぶきの杜」と 呼ばれていたはずがないんです。「しわぶきの杜ではないか」とは、 言われていたんかもしれませんが。

 『しわぶきの杜とは、・・・をいふなり』と言われたら、誰だって、 一般にそう信じられていたんだな、と思うでしょう。ところがそれが間違いなんです。
「安蘇川原(アソノカワラ)」と「三毳山(ミカモヤマ)」との例から分かるように、 その森が「しわぶきの森」であると河野守弘が勝手にこじつけてるだけなんです。 『しわぶきの杜とは、・・・をいふなり』と断定した言い方をされるんで、今の学者が 皆騙されてるんです。
それと、河野守弘は、「当時その場所が何と呼ばれていたか?」の名前を必ず隠すんです。 なぜか歌枕に限っては、河野守弘という人は、ホントに困った人です。 (河野守弘は、歌枕についてはかなりの自信が有ったようです)

ところで、和歌以外で「しわぶきの森」に触れた史料は、幕末に刊行されたこの [下野国誌]以外にあるんでしょうか?
また 国際日本文化研究センター 和歌データベース (リンク) で、1500年頃までの和歌を「しはふき」のキーワードで検索しましたが、 しわぶきの森の歌は上記の一首しかヒットしませんでした。

[下野国誌]の惣社六所明神(今は大神神社)の項には『さて当所は、室ノ八嶋にて』、 すなわち惣社六所明神は室の八島に在る、とあります。この記述と、このしわぶきの杜 の項の『惣社明神と、室の八島との間にある』との位置関係に齟齬があります。さて?
 [下野国誌]にある都賀郡の地図を見ると、室の八島は惣社明神の北、癸生村辺りにあ り、「シハフキノモリ」は確かにこのしわぶきの杜の項の記述にあるように「惣社と 室八嶋との間に」描かれています (註11)

    [下野国誌](1850年刊)の百年後
(2)栃木県市町村誌(1955年刊)
   国府村 の項に次の説明が有る。

「×(口偏に歳の旧字体)杜(シワブキノモリ) ー 大字国府愛宕という所にある。 境内は巨樹中空に聳え古来しわふきするという詞より詠歌の名所となっている。 中古は俗に曉の森とも称したがこれは[枕ノ草紙]から(曉にしわふきとある)来たものと思われる。 現在は大日社となっている。」

(考察)この現・栃木市 国府町愛宕 の位置は、[下野国誌]にある「しわぶきの森」の場所・『国府村の北の方にて and  惣社明神(今は大神神社)と、(惣社明神の北、癸生村辺りに在る) 室の八島との間にある』とは明らかに異なります。何を根拠に「しわぶきの森」の場所を 現・国府町愛宕としたんでしょう?

それは、[下野国誌]が言う『惣社明神と室の八島との間』、すなわち現在の惣社町とその北隣の 大塚町との境界辺りには、既に森は存在しなかったということです。そして、当時在った大きな森は、 大神神社(旧・惣社明神)の南西約1kmの現・国府町愛宕に在った森だけだったということです。 (鎮守の森だったから残っていたのではないか?)
とにかく、しわぶきの杜の所在が現・国府町愛宕とされたのは、[下野国誌](1850年刊) 後の百年間の間だろうと思われます。

(3)栃木市教育委員会が立てた「しはぶきの杜」の案内板
国府町愛宕辺りではないかと思われる道路沿いに在る森に、栃木市教育委員会が立てた 案内板がある。

「栃木市指定史跡          昭和六十三年指定
            しはぶきの杜
森の中に小祠があり、地主の大関家では 大日様 を祀っ
ている。もとは愛宕神社が南に隣接してあり、これも
しはぶきの杜の神として、その地の人々に祀られていた。
この森の中に入ると、どこからともなく森の神の「しは
ぶき」(咳)が聞こえてきたのでこの名を生じたという。
平安時代以来の歌枕として有名である。
                    栃木市教育委員会」

(考察)本来の藤原朝忠の和歌からずれて、これだけバカバカしくなると、 もう考察する気になれません。さすがは栃木市教育委員会です。

(4)インターネット検索
「しわぶきの森」「しわぶきの杜」等で検索したが、栃木市のしわぶきの森しかヒットせず。

(5)「しわぶきの森」の所在についての結論
 「しわぶきの森」の所在に関する情報がまったく無いので、「しわぶきの森」の所在を 特定することは不可能です。

しわぶきの森の考察
 かなり穿った見方をすれば・・・どうもこの時代(ざっと江戸時代のこと)の歌枕の地 の探索というのは、現存地のなかで最もそれらしい場所を選択する、すなわちそこを歌枕 の地であると決めつけることであって、その選択された場所が正しいか否かは(大昔のこと なので今さら真実は分かりようもないということで)あまり問題ではなかったのではないかと 思われます。そうしてその選ばれた場所を歌枕の地であるとして 歌を詠むことが歌枕探索の目的 だったのではないかと思われます。そういうことでなければ、こんな「しわぶきの森」の 場所なんて探すはずがありません。分かりっこないんですから。

この後の「第3節 [奥の細道]の歌枕あれこれ」の「1.遊行柳」を読み進める過程で、 この(しわぶきの森の考察)を思い出して下さい。

2.しめじが原 へ続く。



下野国内のしめじが原の資料解析
栃木市民は、「しめじが原」が、栃木市に在ると理解して?教えられて?ますが、ホント にそうなんでしょうか?これから歴史的に検証します。

 この歌枕の名を知っている人は少ないと思いますが、結構和歌に詠まれており 、謡曲[田村]、[船弁慶]にこの歌枕を詠んだ和歌が登場し、また多くのお寺のご詠歌 に取り上げられているなど、ある方面の人たちには有名な歌枕なんです。

 鎌倉時代或いはそれ以前から、「しめじが原は下野国にあり」という説がありましたが 、下野国内のどこそこに「しめじが原」があるという史料は近世になって初めて登場して きます。

(1)[新和歌集](1260年前後)
宇都宮歌壇の歌集
[新和歌集]の和歌872首の中に、「しめじが原」の歌は一首もありません。

(考察)当時、和歌に詠まれた「しめじが原」は下野国にあったんではないかという話は あったはずですが、下野国のどこに在ったのか場所がわからなかったんでしょう。
というか、下野国には「しめじが原」などという場所が存在しなかったから、「しめじが 原」の歌が一首も無いんでしょう。和歌に詠まれるような場所なら、下野国の歌人にその 場所がわからないというのは考えられません。

この400年後の史料
(2)[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳
1)乾(けん、乾坤の乾=上巻)
「山中名所
山菅橋・・・、ニ子山・・・、黒髪山・・・
標茅原 :  志女治原 也、 中禅寺山 ノ内
六帖
 下野ヤ シメチガ原ノサシモ草 ヲノガ思ニ 身ヲヤ焼ラン
新古今廿
 ナヲタノメ シメチカ原ノサシモ草 我世ノ中ニ 有ランカギリハ
  右ノ歌ハ清水観音ノ御ウタトナン云ツタエタリ
歌枕(=歌枕名寄)
 秋クレバ 標茅ガ原ニ咲ソムル 萩ノハイ枝ニ スガルナクナリ」

2)坤(こん、乾坤の坤=下巻)
「伊吹山 : 花厳寺ノウラノ山ナリ、吹上村(現在の栃木市吹上町) ノ内
此山 歌ニヨメルイブキ山也共云」
(下巻には、しめじが原の記述が有りません)

(考察)下野国の「しめじが原」は、江戸時代に書かれたこの[下野風土記](1688 年編著)に初めて登場します。
1)(上巻)について
『山中名所』とは、下野国の山地部にある名所という意味でしょうか?
以下の(3)(4)(6)を参照すると、この標茅原とは、日光の戦場ヶ原のことのようで す。

2)(下巻)について
この[下野風土記 坤(=下巻)](1688年編著)に、現栃木市の伊吹山の記述は有 りますが、[下野国誌](1850年)の 「伊吹山」の項 に伊吹山と共に出てくる栃木市の「しめじが原」は載っておりません。「しめじが原」の 所在は、この頃まだ下野国府付近に比定されていなかったんでしょうか?しかしそれはち ょっと考えにくいことです。おそらく、まず「しめじが原」の場所を比定して、それから 最寄の山を伊吹山に比定するという手順を踏んでいたはず (註21) ですので、[下野風土記](1688年編著)の頃、すでに「しめじが原」は下野国府付 近(川原田村)に比定されていたと考えられます。

(3)[本朝食鑑][本朝食鑑] 、ほんちょうしょっかん、1695年)
 人見(小野)必大(ひとみひつだい、1642頃−1701年) 著
(現代語訳文)
 ヨモキと訓む。あるいはモクサと曰う。
・・・当今、 江州伊吹山の 艾 を上とし、野州中禅山中の標茅原の艾がこれに次ぐ。これらは俗に、昔から歌人 に詠まれているものという。それゆえ世人はこの二処の艾を採って収め蓄え、灸治の用と している。」

艾火(読み不明、音読みならガイカ?訓読みならモグサビ?意味は お灸に使っている時のモグサ?)
・・・当今、江州の伊吹山の艾が一番である。野州の中禅峯下の標地原の艾がそ れに次ぐもの。その他は、諸州のよいものを択んで使用するがよい。」

標茅茸 シメジタケと訓む。 標茅茸
[釈名] 標茅とは、茅(かや)の多く生える土地の名前である。下野の黒髪山の麓に標茅ガ原 という処があるが、これがその土地である。この茸は、 草茅卑湿 の地に生える ので、こう名づけている。俗に占地茸ともいうが、これは訓に拠って字を製ったものであ ろうか。」

(考察)『艾 ヨモキと訓む。あるいはモクサと曰う。』って、読みはわかったけど意味 は?この[本朝食鑑](1695年)によれば、ヨモギのことを「ヨモギ」或いは「モグサ 」と呼び、ヨモギを加工して作ったモグサには別の名前がなく、ヨモギと同じく「ヨモギ 」或いは「モグサ」と呼んでいたようです。
 『(江州胆吹山の艾と野州の中禅山中の標茅原の艾)これらは俗に、昔から歌人に詠ま れているものという。 (註22) 』とは、最も古い歌は[古今和歌六帖](976−982年?)の次の歌です。

3586あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ−おのがおもひに−みを こがしつつ
3588なほざりに−いぶきのやまの−さしもぐさ−さしもおもはぬ−こと にやはあらぬ
3589しもつけや−しめつのはらの−さしもぐさ−おのかおもひに−みを ややくらむ
*江戸時代には「さしもぐさ」とはヨモギのことであるという通説が有りました(現在でも 有りますが)。

[古今和歌六帖]のこれらの歌から、「伊吹山」と「しめじが原(しめつのはら)」とは 互いに近くに在ったんだろうとする説 (註23) と、「伊吹山」の場所と「しめじが原」の場所とを別々に考える説とが生まれますが、こ の[本朝食鑑](1695年)は後者の説に乗っています。そして後の(6)[もぐさの 研究]で紹介する(6−2) [叢桂偶記] (1800年)などは、前者の説に乗っています。

(つまり[古今和歌六帖]の上記の歌からは、さしも草の詠まれた「しめじが原」と、同 じくさしも草の詠まれた「伊吹山」とが互いに近くに在ったとも、遠く離れていたとも言 えないので、その結果として同じくさしも草の詠まれた場所ながら、近くにあったと する説と遠くにあったとする説との両方が生まれたのです。これ必然です。

[古今和歌六帖]の上記の歌から、
A.「伊吹山」の場所と「しめじが原」の場所とを別々に考える説(近江と美濃の境にあ る伊吹山と下野国の日光にあるしめじが原)と、
B.「伊吹山」と「しめじが原」とは互いに近くに在ったんだろう、そしてその場所は下 野国内なんだろうとする説
とが出てきたなら、
C.「伊吹山」と「しめじが原」とは互いに近くに在ったんだろう、そしてその場所は近 江と美濃の境なんだろう、すなわち「しめじが原」は近江と美濃の境にある有名な伊吹山 (1377m)の近くに在ったんだろうとする説
が有ってもよさそうでしょう。これは3589の歌の頭の「しもつけ」を下野国の意味でなく 、植物シモツケと判断した場合に有りうることです。

実は、C.に該当する史料があるんです [近江輿地 志略] 。いや、それどころか、現在、伊吹山(1377m)の裾野にではなく、[近江輿地志略 ]が言う所辺りに、 占治原 (しめじがはら)があるんです。
ということで、「しめじが原」と「伊吹山」との場所に関する説は、[古今和歌六帖 ]の上記の歌から導かれた可能性が高いんです。

『世人はこの二処(江州伊吹山と野州中禅山中の標茅原)の艾を採って収め蓄え、灸治の 用としている。』って、そのどちらかから自分でヨモギを採ってきて、あるいは誰かに採 ってきてもらってモグサを作るの?嘘でしょう。江戸時代の1700年頃のことですから、 売っているモグサを買って使うか、その辺に生えてるヨモギを自分で採ってきて、モグサ を作るんでしょう。

『この茸は、草茅卑湿の地に生えるので、こう名づけている。』とは、シメジタケのシメ ジとは湿地(しめじ)から来た名前で、この茸が 茅の生 えるような湿地 に生えるので標茅茸の漢字を充てる、と言っているようです。では標茅茸の 」はシメジタケとどう関係してくるんでしょう。かなりいい加減な話です。

 1700年頃、良質なモグサの産地として野州の「しめじが原」の名があげられていた ようです。野州のどこでモグサを生産していたんでしょう?ちょっとだけ調べてみました が、下野国のモグサ生産に関する史料はどうも無さそうです。また野州の「しめじが原」 のモグサが江戸で売られていたという記録はあるんだろうか?

(4)[大和本草](1709年版を参考にした)本 草=植物・薬草・薬
 貝原益軒(1630−1714年)著
「艾(ヨモキとルビ有り)
ヨモキヲ灸治ニ用ルユヘモエ草ト云ヲ略〆モクサト云。
モクサハ嫩葉(どんよう=若葉)ヨシ。
三月三日(新暦の3月30日頃)トルヲ上トス。
茎長クノヒ過タルハ力(ちから)ナシ。
茎短ク若キヲ良トス。
次ニ五月五日(新暦の5月30日頃)ニトル。
(現在は、十分成長した6−8月頃採取しているようだ)
江州胆吹山(いぶきやま)ニ甚多シ其麓ノ里春照(すいじょう)ナトノ民家ニ多クウル。
又下野ノ日光山ノ下標地原ノ艾ヲモ用ユ。
此二処ノモクサ古歌ニモヨメリ。
何レノ地ニテモ山野ニアルウルハシキ(色あざやかな)茎短キワカ葉ヲエラヒ用ユヘシ・ ・・」

(考察)ここではヨモギのことをヨモギまたはモグサと呼んでおり、それを加工して作っ たお灸のモグサの呼び名については触れておりません。おそらく、植物名とおなじくヨモ ギ・モグサと呼んでいたと思います。(参考: よもぎのあと

当時、モグサ製造用には普通のヨモギと オオヨモギ が使われていたと思うんだが、モグサの良し悪しにヨモギの種類は関係ないと言うことね。 それより『三月三日トルヲ上トス茎長クノヒ過タルハ力(ちから)ナシ茎短ク若キヲ良トス』、 つまりどれくらい成長したヨモギを使うかの方が重要と言うことね。ところで、一番モグ サの良し悪しに影響するのはモグサ製造工程における精製度(綿毛の割合の高いものほど 高級)のようです。

 この[大和本草](1709年版を参考にした)の
『(江州胆吹山と下野ノ日光山ノ下標地原の)此二処ノモクサ古歌ニモヨメリ』と、
前の[本朝食鑑](1695年)の
『(江州胆吹山の艾と野州の中禅山中の標茅原の艾)これらは俗に、昔から歌人に詠まれ ているものという。』とは、言ってることが同じなので、出所が同じなんでしょう。そし てその出所とは「・・俗に・・」、つまり世間の噂話であるということです。1700年 頃、この話が江戸の町に?かなり広まっていた様子がうかがえます。

(5)[室八島](1756年刊) [室八島]
 石塚倉子(1686−1758年)著
この中に「しめじが原」は登場せず。
石塚倉子は「しめじが原が川原田村に在る」という話を聞いていたと思いますが、信じな かったんでしょう。
作品集[室八島]の下野国南部の歌枕に関する記述を読んでの感想ですが、石塚 倉子は科学的な頭の持ち主です。かなり頭のいい人です。

(6)研究論文[モグサの研究](1)〜(11)より引用
これらをまとめた単行本は[もぐさのはなし] 織田隆三 著、森ノ宮医療学園出版部、 2001年

(6−1)[日本山海名物図会](1754年)巻之四
 平瀬徹斉 著
巻之四 「伊吹艾草」の図の箇所で、近江と美濃との境にある伊吹山のモグサと下野国の 標地原のモグサについて触れている。
「○下野の国日光山のふもと標地原(シメチカハラ)の艾(モクサ)又名物也。 是は古歌によめり。只たのめ志めちか原乃さしもぐさ我世の中にあらんかきりハ」

(解析)お灸のモグサがホントに日光の名物だったんかなぁ。
そこで、栃木県立図書館さんに江戸時代の日光名物について調査していただきました。 日光名物

(6−2) [叢桂偶記] (そうけいぐうき、1800年)
 原昌克(南陽)(1753−1820年) 著
 巻之二 「伊吹艾草」の項
(男体山の北西にある太郎嶽につらなる山を伊吹山とし、その山麓が標茅原で、戦場 ヶ原とも称すると説いている。)

(6−3)[日光山志](1824年 序)
 植田孟縉(うえだもうしん、1757−1843年)著
巻四 標茅原(戦場原
(戦場ヶ原を標茅原の異称であるとしている。この原野の中に清水の湧き出る霊沼があり 、日光開山の勝道上人が閼伽(あか)の水(佛前に供える水)を汲まれたがゆえに閼伽沼 ヶ原と呼び、いつしか赤沼ヶ原となり、これが合戦で流れた血の連想から戦場ヶ原となっ たという。(つまり標茅原と戦場ヶ原とは関係ないという説明ね。納得。)
(国立国会図書館 デジダルコレクション)

(考察)これら(6−2)[叢桂偶記](1800年)や(6−3)[日光山志](18 24年 序)を参考にすると、(3)[本朝食鑑](1697年)、(4)[大和本草] (1709年版参考)や(6−1)[日本山海名物図会](1754年)にある標茅原、 標地原とは、日光の戦場ヶ原のようです。

 しかし、人家もない戦場ヶ原がモグサの産地になることはありえません。ヨモギはどこ にでも生える雑草みたいな草です。そんなヨモギを原料にしてモグサを生産している所が モグサの産地になるんです。日光市街がモグサの産地というならわかりますが、日光市街 の人があんな山奥の戦場ヶ原までヨモギを取りに行く訳がありません。「伊吹艾(いぶき もぐさ)」も正確には伊吹山でなく、その麓の柏原宿辺りが産地なんです。「伊吹艾」の 「伊吹」はブランド名です。なお商品になるような良質のモグサでなければ、誰でもモグ サを作れそうです。モグサは奈良時代から作られていた記録があります。ただし用途はお 灸でなく、火打ちで火を起こす際に用いる火口(ほくち)ですが。そのころのモグサはもち ろん購入したのではなく、自家製造していたんです。

 [日本歌学大系]はじめかなりの史料を調べましたが、「戦場ヶ原=しめじが原」説に 結びつきそうな史料は[古今和歌六帖]の
3589しもつけや−しめつのはらの−さしもくさ−おのかおもひに−みをややくらむ
の歌しかなさそうです。ちょっと前に説明した(2)[本朝食鑑]の(考察)参照。
*江戸時代の下野国におけるモグサ生産に関するちょっとした調査 [江戸後期諸国産物帳集成]

 この[モグサの研究]によればこれら以外に岐阜・滋賀両県境にある伊吹山の中腹(前 に紹介した [近江輿地 志略] )、千葉県( 千葉寺 )、栃木県 宇都宮市 などの説もあったようですが、江戸時代には「しめじが原とは日光の戦場ヶ原である」と いうのが主流だったようです。ところがこれは下野国外の話で、下野国内では、次の(6 )[下野国誌](1850年刊)に出て来る栃木市のしめじが原説が主流だったと思われ ます。

(7)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘(1793−1863年)著
標茅原(シメチカハラ)
都賀郡川原田村にあり。 伊吹山より十余町東の方 にて、今 しらちが原と訛れり契沖 の[勝地吐懐編]にも『標茅原は伊吹山の裾野なるべし』と記したり。則此原中に 艾草 あまた生ず、さるを宇都宮、または日光山などにも、標茅原と唱へ来る所ありて、 さまざまの説どもいふめれど、 論にもたらず。 但し日光山の方には艾草ありて、是を摘てひたし物、またはあつ物などに調じ喰ふに、 味ひ甘味にして苦汁なし。そは深山に生るゆゑなるべし (註24)。 さて水戸のくすし(医師)原氏(原南陽)の[叢桂偶記]なる伊吹艾(いぶきもぐさ)の論に、 伊吹山標茅原は、ともに日光山の奥なる太郎ケ嶽につらなれる山なりと云は、妄説なり。 原氏はよくも考え得ずして[日光山名所記]と云ふ小冊を見て、是と究めしものなるべし。
[六帖]
 下野や−志めつか原の−さしも草−おのが思ひに−身をや焼らむ
(以後の歌は省略)」

(考察)
1)[勝地吐懐編]の記述・『標茅原は伊吹山の 裾野 なるべし』は、[勝地吐懐編]一巻本(1692)年の 「伊吹」の項の原文 では「(しめちか原は)いふき山のすそ野なと(をいふ)にや」、つまり、「しめちか原は、 下野国のいふき山のすそ野なんだろうか?」と言ってるだけで、根拠が有って 言ってるわけではありません。契沖著[類字名所補翼鈔](1697年)を読むと、 契沖は標茅原がどこの国に在るか知らなかったようです。

2)[下野国誌]の著者・ 河野守弘は、[下野国誌]を執筆する直前に[勝地吐懐編]を 確認することもせずに、うろ覚えの内容をそのまま書いたか、歌人仲間が、 「『標茅原は伊吹山の裾野なるべし』と契沖の[勝地吐懐編]に書いてある」と言ったのを、 [勝地吐懐編]で確認することもせずに、他人の言ったことをそのまま書いたんでしょう。

3)[下野国誌](1850年刊)に来て、初めて「しめじが原=都賀郡川原田村説」が出てきます。 [下野国誌]の著者河野守弘は、原南陽が紹介している「しめじが原=戦場ヶ原説」を「妄説なり。」と 言い切ってますので、その根拠を詳しく知っているようです。それなら、その根拠を [下野国誌]で披露してくれれば助かったんですが。しかし他の歌枕の説明からわかるように、 彼は根拠を示すような人間ではありません。歌枕については、かなり自身がありますので、 「俺の言うことが正しいんだ」という書き方です。

4)宇都宮の「しめじが原」とは、前記[もぐさのはなし]によれば池上町(いけがみちょ う、 【地図】 )、曲師町(まげしちょう)、二荒町(ふたあらまち)辺り(現在の東武宇都宮駅の北側辺り) にかつて存在した湿地帯である由、日光山の「しめじが原」とは戦場ケ原の湿地帯、 しらちが原も湿地帯で、これらを見ると「しめじが原」とは「湿地(しめぢ)が原」 であるとする通説が江戸時代に存在したようです( [江戸砂子]・[江戸遊覧花暦] 参照)。

5)それは単に「しめじ」という名前から想像した当時の妄説にすぎないんですが。そして、 もしこれらの場所の中に「しめじが原」という名前の場所があれば、それはそこが湿地帯 だからという理由で「しめじが原」という名前がこじつけられたに過ぎないんでしょう。 もしかしたら江戸時代には、「しめじが原」という名前は、湿地帯を意味する普通名詞と して使われたのかもしれません。

 そしてこれらの史料から、「しめじが原」などという名前の場所は下野国に存在し なかったと思われます。

6)もし、「しめじが原」という名前の場所が下野国に存在すれば、「その場所以外の場所 をしめじが原であるとする」史料が登場してくることは普通考えられません (註26)。 これから出て来る「下野国の伊吹山」についても全く同じです。伊吹山なんていう名前の山は 下野国に存在しません。(歌枕調査に当たっては、こういう解析をきちんとやること が重要です)

7)なお『日光山の方には艾草ありて、是を摘てひたし物、またはあつ物などに調じ喰ふに、 味ひ甘味にして苦汁なし。』について、
(3)[本朝食鑑](1695年)、(4)[大和本草](1709年版を参考にした) 、(6−1)[日本山海名物図会](1754年)等の記述から判断すれば、[下野国誌 ]の著者・河野守弘が日光のヨモギに触れるなら、お灸のモグサに触れても良さそうですよね。 しかし下野国人である河野守弘はモグサに触れておりません。おそらく、[下野国誌]の頃、 日光でモグサを大量には生産していなかったんでしょう。

というよりは、この[下野国誌]より、上記3史料の言うことが間違いてあることが証明されたと 判断すべきでしょう。

(8)[栃木市教育委員会の案内板]
栃木市教育委員会による「しめじが原」の比定地:栃木市川原田町1687他 【地図】 (東武日光線合戦場駅の西側(その辺りが川原田町1687)に、かつて水があったと 思われる窪地があり、そこに「標茅が原」の案内板(下記)があります。

栃木市教育委員会が立てた「しめじが原」の案内板
標茅が原(しめじがはら)
平安時代以来、標茅が原と伊吹山(ここ
より 西方2km。 )は、東国の歌枕として都ま
で聞こえた名所でした。現在この白地沼(しらじぬま)あ
たりが標茅が原のおもかげをもっともよく
残しています (註27)。 また、この地に生える「七
つ葉のよもぎ」で作った「さしもぐさ」
は、万病に効きめがあると言われています。
(和歌は省略)
                           栃木市教育委員会」

(考察)
1)この案内板の文章は、読めばわかるように、史料としては[下野国誌](1850年刊)の 「標茅原」の項「伊吹山」の項 とだけを根拠にして作られたものです。

うわぁ、「さしもぐさ」がヨモギでなく、ヨモギを加工して作った灸のモグサになっちゃ った。

また『この地に生える「七つ葉のよもぎ」で作った「さしもぐさ」は、万病に効きめが あると言われています。』って、いつから善応寺の境内に生えてる「七つ葉のよもぎ」で 作ったモグサばかりでなく、標茅が原の「七つ葉のよもぎ」で作ったモグサも万病に効く ようになったんだろう。
善応寺の境内に生えてる「七つ葉のよもぎ」で作ったモグサの効能が優れているのは、 善応寺の本尊・聖観音のご利益ですよ。善応寺の本尊・聖観音のご利益は標茅が原の 「七つ葉のよもぎ」にまでは及びません。
栃木市教育委員会はよくこんなデタラメな内容を案内板に載せたな。

2)何でこんな文が生まれたか?を推測してみます。

それにはまず、「栃木市指定天然記念物 さしもぐさ 所有者・占有者 善応寺」について 説明する必要が有ります。
栃木市のウェブサイトにある説明の「所有者・占有者 善応寺」だけでは、天然記念物 「さしもぐさ」が何か分からないので、栃木市教育委員会文化課にメールで質問しました。 しかし、それに答えると文化課に何か不都合があるらしく、質問は無視されました。
しかし、吹上地区まちづくり協議会のウェブサイトによれば、「栃木市指定天然記念物の さしもぐさとは七つ葉のヨモギである 」由。これから、教育委員会文化課が抱えている不都合の中身が見えてきました。

そして、その不都合の中身とは、
[下野国誌]伊吹山 の項の

『其(善応寺の)あたりに艾草あまた生ず、葉の形、尋常より大きくて 葉さき七尖 なり (=七つ葉のヨモギ)。尤も功能、他に異なるよし』

の文を、次のように誤解したことによって生まれたものだろうと考えられました。

教育委員会文化課は、
@伊吹山の項の文末に「さしもぐさ」の和歌が掲載されていることから、この文の「 艾草 」を「さしもぐさ」と読むと誤解した。
A上記の文の意味は、「善応寺辺りにたくさん生えてる艾草は七つ葉のヨモギである」 の意味なのだが、これを「艾草」とは「七つ葉のヨモギ」のことであると誤解し、 その「艾草」が、善応寺辺りにたくさん生えてると理解した。
@Aより「艾草」=「さしもぐさ」=「七つ葉のヨモギ」と誤解した。

こうして「栃木市指定天然記念物 さしもぐさ=七つ葉のヨモギ 所有者・占有者 善応寺」 が誕生した訳です。

Bそして、この「艾草」=「さしもぐさ」=「七つ葉のヨモギ」の誤解を[下野国誌]標茅原 の項の「艾草」にも当てはめるなら分かるが、なにを勘違いしたのか、更に次の誤解を重ねた。
C伊吹山の項に、(七つ葉のヨモギは)『尤も功能、他に異なるよし』とあるところから、 標茅原の項では、「艾草」=「さしもぐさ」=「七つ葉のヨモギでつくったモグサ」と誤解した。

 このようにして、『この地(標茅が原)に生える「七つ葉のよもぎ」で作った 「さしもぐさ」(=艾草=七つ葉のヨモギでつくったモグサ)は、万病に効きめがある と言われています。』と栃木市教育委員会の案内板の文が出来あがった訳です。

3)この私の推測は、1979年4月15日の「栃木市政だより」の記事から、完全に誤りであることが分かりました。
この市政だよりの記事によれば、

@さしも草とはヨモギの異称である。
A さしも草は栃木市指定天然記念物 である。
B七つ葉のヨモギで作った?お灸のもぐさを「さしもぐさ」と言う。
だって。

つまり
A.ただのヨモギが栃木市の天然記念物だって。 ぐえ〜。(この問題は上のAにあり)
B.「さしも草」と「さしもぐさ」とは別物だって。 ぐえ〜。
C.「さしもぐさ」とはお灸のもぐさだって。 ぐえ〜。
  (じゃあ、もし口で「さしもぐさ」と言ったら、それはモグサなの?ヨモギなの?)

こうなると、私のような常人には全く理解不能。 これじゃあ私が推測を誤るのは当然だ。
こんな事を考える方の頭の構造ってどうなってるんでしょうね。 

(9)[下野国内のしめじが原]のまとめ
「しめじが原」が下野国のどこそこに在ったという説は、近世になってから初めて出現し、 しかも一箇所だけではありません。また、下野国以外の説も複数ありました。


しめじが原の考察
(1)[古今和歌六帖](976−982年?)
 しもつけや−しめつのはらの−さしもくさ−おのかおもひに−みをややくらむ

(考察)しめじが原(しめつのはら)の名前が登場する最初の史料がこの歌です。 そしてしめじが原に触れた史料を調べればわかるんですが、しめじが原の所在地を 下野国とする、唯一の根拠がこの歌です。

この歌の「しもつけ」は下野国を意味するのでしょうか?
「しもつけ」を下野国とし、「しもつけや」の「や」に「しもつけ」を強調する意味がなく 単なる「〜の」の意味であるとすると(それも変な話ですが。「や」は間投助詞。 語調を整え、感動・余情・強調などの意を添える。)、歌の意味は「下野国の しめつの原のさしも草は、恋の思いに身を焼いているんだろう」または「下野国の しめつの原のさしも草と同じく、恋の思いに身を焼いているんだろう」となろうかと 思われます。
しかし前者は、「下野国のしめじが原の」と場所を限定されたさしも草がなぜ恋の思いに 身を焼くのかちんぷんかんぷんです。また後者は恋の思いに身を焼くのが誰なのか、 さっぱりわかりません。そしていずれにしろ、火と縁語関係にあるのは、「下野国の しめつの原のさしも草」に限ってということになってしまいます。
しかし同じ[古今和歌六帖]中に「あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ− おのがおもひに−みをこがしつつ」と詠う歌があることから考えれば、 火と縁語関係にあるのは「下野国のしめつの原のさしも草」に限定されるのではなく、 全ての「さしも草」でしょう。

 それに対して「しもつけ」を植物シモツケとすると、必然的に「しもつけや」の「や」は、 強調・感嘆・呼び掛けなど本来の意味を持つことになりますが、シモツケを擬人化して 「シモツケの花よ、お前は秋に葉を赤くする(紅葉する)が、それは、しめつの原の さしも草と同じく、恋の思いに身を焼くからなんだろう」となかなか味のある歌になります。 この解釈が正しいとは言いませんが、少なくとも上記の歌の「しもつけ」を下野国と 決め付けるのはかなり難しいと思われます。
なお、さしも草の生える場所を「しめつの原」と言ってますが、「しめつの原」は、 さしも草をよく見かける身近な場所だからなんでしょう。「しめつの原の」と場所を 明示したことに特に意味はないでしょう。

 なお、さしも草の登場しない、こんなしめじが原の歌もあります。
源俊頼(1055−1129)
 原上鹿
 あきくれは−しめちかはらに−さきそむる−はきのはひえに−すかるなくなり

(註)はきのはひえ  :「萩の這い枝」のようです。
   すかる(すがる):鹿
 *萩と似合うのは猪(花札)かと思ってましたら鹿なんですね。

この歌が、下野国のさしも草の生えるしめじが原を念頭に置いて詠んだ歌とは到底思えません。

 ところで[古今和歌六帖]にある「しめつの原」は、[下野国誌]などがいう 「しめじが原」と同じ場所なんでしょうか?

ついでに 「さしも草の伊吹山の考察」 の(1)[古今和歌六帖]も読んでね。
しめじが原とさしも草の伊吹山との所在=下野国説の解析は、この[古今和歌六帖]の 解析で済んじゃいます。

(2)[能因歌枕(廣本)]
 能因法師(988?−1051年以後)著
國々の所々名
山城國
「しめしの山」「しめし野」
*「しめじが原」は載っておりません。

(3)[和歌童蒙抄]( わかどうもうしょう) [和歌童蒙抄]
 藤原範兼(ふじわらののりかね、1107−1165年)著
[袖中抄] (1185−87年頃〜添削終了は江戸時代?)より抜粋
「童蒙抄云
  なほたのめ−しめしの原の−さしも草 末は同じ。(次の(4)[新古今和 歌集]参照)
しめしの原とは、そことさしたる所なし。只 しめたる野 と云なるべし。」

(考察)[和歌童蒙抄]では、しめしの原とは特定の場所ではないだろうとしています。 確かに「しめしの原」は普通名詞かもしれません。しかしさしも草の歌を詠んだ「しめし の原」は特定の場所でしょう。「そことさしたる所なし。」はちょっと考えられません。
 そしてこういう説が出て来るということは、1150年頃には既に場所が分からなくな っていた可能性があります。この文を読んだら「1150年頃にはしめじが原の場所は既 にわからなくなっていたようだ」ということを押さえることが重要です。これは客観的事実 と考えられるからです。「1150年頃にはしめじが原の場所は既にわからなくなってい たようだ」が掴まえられなければ、筆者(この私)のやってる調査は進められません。
 「しめたる野と云なるべし。」は、単なる個人の推測で客観的事実ではありませんから 、データとしての重要度はずっと落ちます。(筆者は、個人の推測は全て無視します。事 実だけを相手にします。)
 「1150年頃にはしめじが原の場所は既にわからなくなっていたようだ」を前提にし てそれ以後の史料を解析すると、次のことがはっきりと見えてきます。

 これ以降の史料で、ちゃんとした根拠を示してしめじが原はどこそこであると言ってい る資料は現在に到るまで全くありません。(1150年頃までには既にしめじが原 の場所はわからなくなっているというのに、その後に出てきた史料がしめじが原はここで すと言っても、そう簡単には「はいそうですか」とは言えないんです)

一口に、しめじが原といっても、類似の名前として、しめじ(orし、ち、ぢ、つ)が(o rの)原などがあり、どれがさしも草の詠まれたしめじが原の本来の名前なのかさえ、分 かっていないのが実態です。

(4)[新古今和歌集](1205−1210年)
 なほ(orなを)たのめ−しめちか(orしめしの)はらの−させもくさ(orさしもくさ) −わか(orわれ)よのなかに−あらむかきりは
          この歌は、清水観音(きよみずかんのん、十一面千手観音のこと?) 御歌となん言ひ伝へたる

(考察)この歌では「しめちかはらの−させもくさ」が、させも草の縁語である「火」を 導く序詞(じょことば)として使われておりません。また、この部分は前後との繋がりが よくわかりません。おそらく最初に詠まれた歌から変化してきているのでしょう。この歌 は 藤原基俊(1 060−1142年)の逸話 に登場する歌ですが、作られたのはそれよりずっと古いのではないでしょうか。

 歌の意味は「しめぢが原のさしも草よ、私(清水観音)がこの世にある限りは私を頼り なさい。」と解釈され、この歌以降 (註28) 、清水観音(十一面千手観音?)以外の観音様をご本尊とする寺でも、「しめじが原」・ 「さしも草」の歌を詠んで、それを御詠歌とするようになります (註29) 。なお[下野国誌]の伊吹山の項にある伊吹山善応寺の本尊も清水観音(十一面千手観音 ?)ではなく聖観音です。伊吹山善応寺にも「しめじが原」・「さしも草」の御詠歌があ ったんでしょうか?

 なお御詠歌では、さしも草は
・[日葡辞書](1603−04年)(葡(ぽ)=ポルトガル)
  さしも草:ニンゲン[訳]人類

(5)[八雲御抄](順徳天皇 著、1221−12 42年の間)第五 名所部
「原
しめぢが  下総。さしも草多生え云々」

(考察)[古今和歌六帖](976−982年?)の歌<しもつけや−しめつのはらの− さしもくさ−おのかおもひに−みをややくらむ>から判断して、この「下総」は「下野」 の誤りの可能性があります。
 江戸時代前期には、下総国内に、「かつて 千葉寺 がそこに在ったというしめじが原」の話がありましたが、順徳天皇(1197−1242 年)時代の下総国に、「しめじが原」の話が有ったかどうか?また有ったとしても、その 話は都までは届いていなかったでしょう。

(6)[百首歌合](1256年)
 しもつけや−しめちか原の−草かくれ−さしもはなにし−もゆる蛍そ

(考察)この歌の「しもつけ」を植物「しもつけ」とすると、この歌を解釈出来ないので 、この「しもつけ」は下野国のことでしょう。この頃までには、「しめじが原は下野国に あり」との説が誕生していたようです。
そしてこの歌は、おそらく「下野国のしめじが原」の場所を知っていて詠んだものではな く、「下野国のしめじが原」が歌枕であるという理由で詠んでいるのでしょう。

(7)「しめじが原」のまとめ
「しめじが原」の所在は1150年頃にはすでに分からなくなっており、またその後 、その所在に関する情報は誤解と付会に基づくものばかりで、真の所在を特定するのに 役立ちそうな情報は何ひとつ得られておりません。
従いまして、「しめじが原」の所在を特定するのは不可能です。

 なお、「しめじが原」の所在を下野国とする説は、唯一の根拠が、[古今和歌六帖] (976−982年?)の
 しもつけや−しめつのはらの−さしもくさ−おのかおもひに−みをややくらむ
 の歌で、「しもつけや」(シモツケの花よ)を「下野国の」と誤解したのが原因ですから、 「しめじが原は下野国のどこそこにある」という具体的な場所は、初めから存在しないんです。 ですから「しめじが原は下野国のどこそこに在る」というのは皆後世の誤解か付会です。

3.さしも草の伊吹山 へ続く。



3.さしも草の伊吹山
あをのかはら(青野原、青野カ原)
滋賀・ 岐阜の県境にある伊吹山(標高1,377m)の南東麓に位置する(不破の関ゆ かりの)関ケ原(岐阜県不破郡関ケ原町辺り)から東北東約8キロの岐阜県大垣市青野町 【地図】辺り。

青野原の戦い(あおのがはらのたたかい):
南北朝時代の1338年、美濃国青野原において、吉野の後醍醐天皇(南朝)の「足利尊 氏追討」の呼びかけに応じて、上洛を目指す北畠顕家(きたばたけ あきいえ)率いる「 南朝方の北畠勢」と、土岐頼遠(とき よりとお)ら「北朝方の足利勢」との間で行われ た一連の合戦。「南朝方の北畠勢」は青野原の戦いで勝利を収めたが、近江から京都への 突破をあきらめ、上洛は叶わなかった。
説明は省略しますが、両軍にとってかなり重要な戦いだったようです。
このように「青野原の戦い」が有名だったから、為尹千首(1415年)のこの和歌に青 野原の名が登場して来てるんでしょう。

関ケ原の戦いの呼び名は、当初「青野カ原の合戦」だった?
戦国時代の公家・近衛前久(このえ さきひさ、1536〜1612年)が、関ケ原の戦 いの5日後の1600年9月20日に記した[前久書状]には、「青野カ原ニテノ合戦」 と書かれていました。
「関ケ原」の記述が出現するのは、どうも同年10月の島津家の古文書以降のようです。
(「関ケ原」という地名を知っていて、ここでの戦いを「青野カ原ニテノ合戦」 と呼ぶのはちょっと考えにくい。近衛前久は、「関ケ原」という地名を知らなかったので はないでしょうか?)

(註2) ××部は、伝本によって「しもつけへ」「かかへ」「かうやへ」「やかては」と 異なるため無視します。

[枕草子]挿入歌
 この歌は、伊吹の里に下るという噂を聞きつけた人が、「それは本当ですか」と質問し たのに対し、歌の作者が「伊吹の里へ下るなどと、誰がそんな噂を流したんでしょう。そ んなこと思ってもみませんでした。」と返した歌と思われます。上句は、古今和歌六帖の 「伊吹の山のさしも草」の歌あたりが念頭にあって出てきたものでしょう。

 なお、[枕草子]の文中に前後の脈絡もなくこの二行が挿入されています。それはどう いうことかと言うと、「[枕草子]の書写が何回も繰り返される間に、元の文章からずれ てしまった」と、言うことです。



下野国内のさしも草の伊吹山の資料解析
栃木市民は、「さしも草の伊吹山」が、栃木市に在ると理解して?教えられて?ますが、 ホントにそうなんでしょうか?これから歴史的に検証します。

 さしも草の伊吹山とは百人一首51番にある藤原実方(さねかた、960頃−998年 )の歌
 女に初めてつかはしける
 かくとだに−えやは伊吹の−さしも草−さしも知らじな−燃ゆる思いを
で有名な歌枕です。

 さしも草の伊吹山については、 近江・美濃 の境なる伊吹山(1,377m、下の註)説と下野国の伊吹山説 とが鎌倉時代あるいはそれ以前からありますが、

(註) 曾禰好忠 (そね の よしただ、1000年前後の歌人)
 ふゆふかく−のはなりにけり−あふみ(近江)なる−いふきのとやま−ゆきふりぬらし

ここでは下野国内の伊吹山のみを紹介します。ただし下野国の伊吹山といっても、そんな 名前の山は下野国に存在しませんので、下野国のどの山を指しているのかは、近世になっ てから皆が好き勝手にこじつける山です。そうすると当然のことながら複数の説が登場し ますので、以下にそれらを紹介します。

(1)[新和歌集](1260年前後)
宇都宮歌壇の歌集
[新和歌集]の和歌872首の中に、伊吹山の歌は一首もありません。

当時「和歌に詠まれたさしも草の伊吹山は下野国の山である」という話はあったはずです が、実際には下野国に伊吹山という名前の山は存在せず、また「この山が和歌に詠まれた 伊吹山ではなかろうか?」と推測される山も存在しなかったんでしょう。だから[新和歌 集]の中に伊吹山の歌が一首も無いんでしょう。

(2)[東路の津登](1509年旅)
柴屋軒宗長 著
「十六日、壬生より佐野へ帰り行く間に、大平とて山寺あり、般若寺と(も)云ふ、一宿 して連歌あり、
 鹿の音や−染めばもみぢの−峯の松
松杉の深きさまなるべし。」

(考察)[東路の津登]の中に伊吹山は登場しません。
もし当時、次の(3)[下野風土記]で紹介する「さしも草の伊吹山が吹上村に在る」と いう話が下野国内にあれば、般若寺での上記連歌の会の際に、歌枕としては室の八島([ 中世室の八島]の項の [東路の津登] 参照)より有名な伊吹山の話が出ないことは考えら れません。そして吹上村の伊吹山のことを柴屋軒宗長が[東路の津登]に書かないことは 考えられません。
おそらく当時はまだ「さしも草の伊吹山が吹上村に在る」という話は無かったんでしょう 。

歌枕の場所の調査においては、これら(1)(2)のように「この史料にはなぜ歌枕○○ のことが書いてないか?」を解析することも重要なんです。

(3)[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳
1)乾(けん=上巻)
「山中名所
山菅橋・・・、ニ子山・・・、黒髪山・・・、標茅原・・・
伊吹山 : 或云サシモ草ノモユルト云 当国伊吹也、非近江云々一説載之。
 六帖
 アジキナヤ イフキノ山ノサシモ草 ヲノカ思ニ 身ヲコガシツツ
 後拾遺
 カクトタニ ヱヤワイフキノサシモ草 サシモシラシナ モユル思ヒヲ
 [歌枕名寄]には、自余(=その他)ノ歌 大略近江国ニ載之」

2)坤(こん=下巻)
「木村 花厳寺  : 都賀郡也、日光海道鹿沼ヨリ五里ホト西エ去ル
・・・(木村花厳寺の説明略)・・・
伊吹山 : 花厳寺ノウラノ山ナリ、吹上村ノ内
此山 歌ニヨメルイブキ山也共云」

(考察)
1)(上巻)について
このさしも草の『伊吹山』が、下野国のどこにあるかは書いておりません。それは、 [下野風土記]の編著者が伊吹山の在る場所を知らないからなんでしょう。つまりこの文は、 『或云「サシモ草ノモユルト云 当国伊吹也、非近江云々」一説載之。』を参考にして 「さしも草の伊吹山が下野国に在る」と書いているだけなんでしょう。

最後の行の『自余(その他)ノ歌大略近江国ニ載之』とは、正しくは
「[歌枕名寄(うたまくらなよせ)]の近江国の部には、さしも草の伊吹山の歌が 9首載っているが、その内の上記2首については、ダブって下野国の部にも載っている」
つまり、「上記2首以外の7首については、近江国の部にしか載っていない。」の意味です。

2)(下巻)について
しかし(上巻)と違い(下巻)では、「さしも草の伊吹山が吹上村に在る」という吹上村付近の 人の俗説を書いているようです。「さしも草の伊吹山が吹上村に在る」という話が、 初めてここに登場してきました。
『此山 歌ニヨメルイブキ山也共云』って、ここには、「この山がなぜ和歌に詠まれたか」の 説明が一切無いでしょう。それで、「この山がなぜ和歌に詠まれたか」に関する世間の噂話や 言い伝えなどは無かったのではないかとの疑いが出てきます。何か変ですね。実際、 この山には和歌に詠まれる理由は全く見当たりません。

江戸時代に描かれたと思われる華厳寺の鳥瞰図を見ると、華厳寺(山号は出井山?)は、 栃木市都賀町の 観音山 (203m) 【地図】 の東側の麓から中腹にかけて存在したようです。そして華厳寺の建物郡は東を向いて 建てられていたようです。

 そして、伊吹山の所在地説明にある『花厳寺ノウラノ山ナリ』から考えると、伊吹山は 観音山の西南西側隣にある梓町の?三角点山(標高234.7m。上の地図参照) のことじゃないかと思うんです。伊吹山という名前の山ではありません。


 ところで[下野風土記]の文を読むと、著者は華厳寺を実際に訪れているようです。そ してそこで土地の人から「あれが歌枕の伊吹山ではないかと言われている山です。『吹上 村ノ内』にあります。(『吹上村ノ内』は 厳密な話じゃないだろう)」と指を差して 教えられているようです。

また[下野風土記]の著者は吹上村には来てないようです。吹上村に来ていれば、頭の良 い著者のことですから、付近の人がその山を何と呼んでいるか[下野風土記]に書いたん じゃないでしょうか?それでは[下野風土記]の著者はなぜ吹上村にこなかったんでしょ う。それは、こんな何の変哲も無い山が多くの和歌に詠まれたさしも草の伊吹山であるは ずがないと考えていたからでしょう。

(4)[奥の細道](1689年旅)
松尾芭蕉 著
芭蕉は惣社村の室の八島大明神を訪れていますが、[奥の細道]では吹上村の伊吹山には 触れておりません。
当時、「さしも草の伊吹山が吹上村に在る」という話は下野国内だけの話で、江戸の町に は伝わっていなかったんでしょう。もし伝わっていれば、伊吹山は室の八島より有名な歌 枕なので、芭蕉が[奥の細道]で吹上村の伊吹山に触れないことはちょっと考えられませ ん。

(5)[勝地吐懐編]一巻本(1692年作成、17 92年に伴蒿蹊が補注校正。歌枕の研究書)
契沖(1640−1701年)著
「伊吹         近江 坂田郡
(続古今冬  曾根好忠)
 冬ふかく−野は成にけり−近江なる−いふきの外山−雪降ぬらし
此外に
 かくとたに−えやはいふきの−さしも草−さしもしらしな−もゆる思ひを
(袖中抄第二云此いふき山は美濃と近江とのさかいなる山にはあらず下野国いふき山なり 能因坤元儀に出なり)
これらの 哥九首 は、皆、下野の伊吹山の哥なり。
六帖に、
 あちきなや−いふきの山の−さしも草−おのか思ひに−身をこかしつつ
 なをさりに−いふきの山の−さしも草−さしもおもはぬ−ことにやはあらぬ
 下野や−しめつか原の−さしも草−おのか思ひに−身をややくらん
清少納言に、
 思ひたに−かからぬ山の−さしも草−たれかいふきの−里はつけしそ
これは清少納言か下野へ下らんとするよし、そらききしたる人のとひけるに、よめる哥な り。これによりて、六帖の哥を知へし。しめつか原は、清水観音の御哥とて、新古今に、 <しめちか原の−さしも草>とあるに同し。これもいふき山のすそ野なと(をいふ)にや 」

(註)この文は、[契沖全集 第八巻 随筆及雑著]朝日新聞社、1927年 の中の[ 勝地吐懐編](一巻本)より引用した文に、インターネットWSにくずし字で書かれた [勝地吐 懐編]上下 が有ったんで、それで()内の文を補足したものです。つまるところ、この文は[勝地吐 懐編](上下本)から引用した文であるということになります。
 なお、WSの史料には「1692年に契沖が書いたものを、契沖の死後、1792年に 蒿蹊(伴蒿蹊 ばんこうけい)が補注校正した」との奥付けがありました。契沖が書いた 当時の文そのままじゃないんですね。いつ書かれた文なのかが、歌枕調査には非常に重要 なんですが残念。

(考察)これを読むと、伊吹山=下野説には、清少納言の[枕草子]に出て来る上記の歌 の詞書の誤写『「まことやしもつけへくだる」と言ひける人に』も影響しているようですね。

 『これによりて、六帖の哥を知へし。』は、考え方が逆です。すなわち、伊吹山が 下野国にあるから[古今和歌六帖]の上記三首の歌が生まれたのではなく、[古今和歌六帖] の上記三首の歌の誤った解釈から伊吹山=下野説が生まれ、それが[枕草子]の 『しもつけへくだる』という誤写へと繋がったんです。

(6)[室八島](1756年刊)
   江戸時代中期に活躍した現在の栃木市の女流歌人・石塚倉子(1686− 1758年)の作品集。
 この中に伊吹山は登場しません。
 石塚倉子は「さしも草の伊吹山が吹上村に在る」という話を聞いていたと思いますが、 信じなかったんでしょう。さすが!

(7)研究論文[モグサの研究](1)〜(11)より引用
これらをまとめた単行本は[もぐさのはなし] 織田隆三 著、森ノ宮医療学園出版部、 2001年
・[叢桂偶記](そうけいぐうき、1800年)
  原昌克(南陽)(1752−1820)著
  巻之二 「伊吹艾草(「いぶきもぐさ」って読むんかなぁ)」の項
 (男体山の北西にある太郎嶽につらなる山を伊吹山とし、その山麓がしめじが 原で、戦場ヶ原とも称すると説いている。)

(考察)よくわかりませんが、山王帽子山(2077m)、三岳(1945m)辺りの山 【地図】 を指しているんでしょうか?地図を見てもそんな所に伊吹山と名の付く山は見当たり ませんが。伊吹山の所在地が[下野風土記](1688年編著)と異なっていますが 、これは時代が下るに伴って変化したというより、地理的差異によるものでしょう。つま り下野国内には「花厳寺ノウラノ山ナリ」説があったが、下野国外には「太郎嶽につらな る山」説もあったということでしょう。

(参考)織田隆三氏は[モグサの研究(2)−伊吹山考−]で、「歌枕・さしも草の伊吹 山とは?」について考察してますが、考察するに当たって、
A:さしも草とは、お灸のモグサの原料であるヨモギのことである。
B:さしも草の伊吹山は、滋賀県と岐阜県との境に在る高山・伊吹山か?栃木市の伊吹山か? (そんな名前の山は栃木市に無いんですが)のいずれかである。
これら二つの間違ったこと(後ろの 「さしも草の考察」 も参照)を前提にしているので、結論 は当然間違ってきます。 結論 を読めば、結論を導く前提が間違っていることが分かるでしょう。これらを前提にすれば 、誰がやっても結論は、「さしも草の伊吹山は栃木市の伊吹山である」となります。

なぜなら、
1)滋賀県と岐阜県との境に在る伊吹山に、さしも草という名前の草が生えているなんて 話は、平安時代の都人は聞いたことがありません。
2)また平安時代には、栃木県の伊吹山が、栃木県のどこにある山なのか全く知られてい ませんでしたから、「さしも草の伊吹山は、栃木県のどこそこには存在しない」と否定の しようがなかったんです。

 つまり、「さしも草のいぶき山」が、 滋賀県と岐阜県との境に在る伊吹山でないこと は簡単に説明できますが、「さしも草のいぶき山」が下野国の山でないことを、説明する ことは不可能なんです。そしたら、結論は、「さしも草の詠まれたいぶきの山」とは下野 国の山であるとならざるを得ないんです。
 そして、当然のことながら[モグサの研究]の著者の結論は、このことに影響されます。

(8)[答問雑稿](1802−1822年頃)
 那須嶽(茶臼岳 【地図】 )や栃木市の太平山を伊吹山とする説も存在したようです。
[答問雑稿]

(9)[録事尊縁起](ろくじそんえんぎ、1838 年写)
鹿沼市下粕尾949にある常楽寺(通称:録事尊 【地図】) の [録事尊縁起]

*下記[録事尊縁起]の内容は、2006年に鹿沼市に吸収されて、町名が消滅した 粟野町の[粟野町誌]のウェブサイトより転載(一部言葉を補足しています)。
 町名消滅以後このウェブサイトは無くなりました。

「中野智玄(ちげん)の娘の難病
粟野町下粕尾の思川沿いにある瑠璃光山蓮照院常楽寺の録事尊は、鎌倉時代の当町出身の 名医といわれる 中野智玄 (録事法眼) を祀るものであるという。 中野智玄は若いころ、宋に渡り医術をおさめた 名医であったが、一人娘小春の奇病だけはなおすことができなかった。 名医である父の 手によってもなおすことのできない病をいやすべく小春はあてのない旅をつづけ、 ついに神仏のお告げにより、吹上村伊吹山(イブキサンと読み、伊吹山善応寺のこと)の 七つ葉のさしも草(原文では七ツ葉之 差蓬草 )を灸することにより九死に一生を得た。・・・」

*[録事尊縁起](1838年写)抜き書き
 [日本伝説大系]第4巻(北関東編)、14「録事尊(中野智玄)」、1986年、み ずうみ書房 より
「・・・其夜牛みつのころ、白髪之翁来て申様は、『其方難病ニテ難儀之様子也、我灸て んを立遣スへし(遣ス間)、是より伊吹山え行七ツ葉差蓬草ヲ取灸すへし、 為難病共治する(じする)事疑なし』と申、かきけす如く消失けり。・・・ 夫より吹上村伊吹山へ参り七ツ葉之差蓬草取十七日灸す、・・・然者(しからば) 母は伊吹山へ参詣ニ遣し・・・」

(考察)
1)上記「抜き書き」の4行目の『伊吹山へ参詣』の伊吹山とは、次の(10)[下野国誌] に出てくる(伊吹山善応寺(イブキサン ゼンオウジ) 【地図】 のことでしょう。3行目の『吹上村伊吹山』も「参る」と言ってるので、これも伊吹山 善応寺のことでしょう。ということは、2行目の『伊吹山え行』の伊吹山も、「いぶきやま」 でなく「イブキサン」と読んで伊吹山善応寺のことでしょう。

2)[録事尊縁起]の文からは、伊吹山という言葉が山とお寺の両方を意味するとは思えません。 また現在の栃木市吹上町辺りの地図を見ても、善応寺と吹上町にある山とが一体の物である とは到底思えません。だって善応寺より山に近いところに他のお寺が二つ(正仙寺と東善光寺) も在るくらいなんですから。おそらく[録事尊縁起]が言う伊吹山は伊吹山善応寺のこと なんでしょう。
前出の(3)[下野風土記](1688年編著)に出て来る伊吹山は、 ちゃんと山であると書いてありましたが、この[録事尊縁起](1838年写)では、 出て来る伊吹山はお寺のことのようです。

3)[録事尊縁起]の話は、伊吹山に関する記述内容から推測して[下野風土記] (1688年編著)より後の1700年代か、1800年代初めかに作られたんだと 思います が、
[録事尊縁起]が作られた時には、伊吹山という名前の山は、存在しなかったんでしょう。
もし伊吹山(いぶきやま)と伊吹山(イブキサン)の両方が存在すれば、伊吹山という漢字に ルビをふらなければ、山なのかお寺なのか区別できません。
しかし[録事尊縁起]の伊吹山にはルビがふられておりません。ということは伊吹山 (イブキサン)というお寺しか存在しなかったんでしょう。(但し伊吹という山号 を持つお寺が登場し、さしも草が登場してきているので、この辺りの山だか寺だかが 「さしも草の伊吹山と関係ある」という噂話は存在したんでしょう。)

4)ところで、[下野風土記]の1688年頃に存在した山が、その後の100年くらいの間に なくなってしまうというのは変です。
おそらく[下野風土記]の1688年頃にも伊吹山なんていう名前の山は 存在しなかったんでしょう。
「歌枕の伊吹山は、吹上村の山のことではないか」と言う話があっただけで、 伊吹山という名前の山は無かったんでしょう。

5)そして「歌枕の伊吹山は、吹上村の山のことではないか」という伝説が昔からあったら 、この伝説は世間にかなり広まって、なかなか消えなくなりますが、伝説が消えたという ことは、この話が生まれたのが、[下野風土記]の1688年からそう古くはなく、あま り広まらなかったからでしょう。1600年代って、各藩がこぞって歌枕の地などを「そ れはどこそこだ」と盛んにこじつけていたようですからね。いいかげんな話ですが、河原田村 のしめじが原も吹上村の伊吹山も、壬生藩か、1640年にできた二度目の皆川藩によって こじつけられたんじゃないの?

6)なお、ここに登場する「白髪之翁」は伊吹山善応寺の本尊・聖観音(しょうかんのん) の化身でしょう。
また「母は伊吹山へ参詣ニ遣し」、すなわち(娘の病気が治ったので、母が伊吹山善応寺へ お礼参りした)ということは、「七ツ葉之差蓬草」の薬効は、多分に伊吹山善応寺の 聖観音のご利益であるということでしょう。七つ葉のオオヨモギで作ったモグサだからと言って 功能が優れているとは思えません。

7)また次の[下野国誌]に出てくる甲田貞丈の[徐嘯随筆]の内容・「伊吹山善応寺付近の 七つ葉のオオヨモギらしき草で作ったモグサが功能が優れている」という話は、 この[録事尊縁起]に出て来る「善応寺の境内に生えてる七つ葉のヨモギ」の話なんでしょう。

(10)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘(1793−1863年)著
名所勝地
伊吹山 (イフキヤマ)  里
都賀郡吹上村にあり、栃木駅より西北の方にて今道一里余りあり。 其所に 善応寺 【地図】 と云ふ真言宗の古寺ありて、 山号 を則ち伊吹山と号するなり (註32) 。また境内に観音堂 【地図】 たてり (註33)是は 古へ標茅原(しめぢがはら)にありしを、ここにうつしたる也とぞ (註34)其あたり艾草 あまた生ず、葉の形、尋常より大きくて 葉さき七尖 なり。 尤も功能、他に異なるよしは、甲田貞丈が [徐嘯随筆] に記したり。 (註35)

 さて伊吹山の事は、能因が [坤元儀] (こんげんぎ、こんがんのぎ)に『此山は美濃と近江との境なる山にはあらず、 下野なり 』と記したるよし、顕昭(1130頃−1209年以後)の[袖中抄] (1185−87年頃〜添削終了は江戸時代?)巻ニにみゆ。また契沖阿闇梨 (1640−1701年)の[勝地吐懐編]に、 『さしも草よむは、皆下野なり』 と記したり。 (註36)
[六帖]
 なほざりと−いふきの山の−さしも草−さしも思はぬ−ことにやはあらぬ
[同 ]
 あちきなや−いふきの山の−さしも草−おのか思ひに−身をこがしつつ
 ・・・・・・
[枕草子]清少納言
 おもひだに−かゝらぬ山の−させも草−誰かいふきの−さとはつげしぞ
[後拾遺]藤原実方
 かくとだに−えやはいふきの−さしも草−さしも志らしな−もゆる思ひを
(以後の歌は 省略 )」

(考察)
1)この[下野国誌]「名所勝地」の部では、「伊吹山(イフキヤマ)」とは山なのか、 お寺なのか、紛らわしい書き方をしてますが、後半の『さて伊吹山の事は』の文と、 下記「国産名物」の部の「伊吹艾」の説明文の内容から判断して、「名所勝地」の部の 「伊吹山(イフキヤマ)」は山なんでしょう。
そしてこの山は『吹上村にあり』と言ってるので[下野風土記]と同じ山を指しているんでしょう (今の吹上町には、山は次の山一つしかなさそうです)。しかし、 [下野風土記]の項で考察しましたように、現在の吹上町にある鴻巣山 (または富士山、標高約180m)を伊吹山とするには違和感が有ります。

2)この『吹上村にある』伊吹山とは有名な歌枕の「伊吹山」のことです。しかし、 何の特徴もなく、また独立した山とも思えない吹上村の山が和歌に詠まれた理由がわかりません。 近くにある観音山あるいは栃木市代表の山である太平山なら、「和歌に詠まれた」と言えば、 「そういうこともあったか?」と思いますが、吹上村の山は和歌に詠まれる理由が全く 見当たりません。ですから[下野国誌]は、まず最初に、吹上村の山がなぜ和歌に詠まれたかの 説明が必要なんです。しかし、[下野国誌]は、なぜ吹上村の山が和歌に詠まれたか? その故事の説明やら伝説の説明やらを一切しておりません。つまり、そういう故事やら、 その故事の伝説やらは一切無かったということです。

3)上の文には『吹上村にあり』としている 伊吹山 (イフキヤマ)の説明が無く三毳山の長い説明 と比較してみてください)、説明は皆伊吹山(イブキサン)善応寺というお寺の 説明ばかりです。しかし、そんな書き方が許されるわけ無いでしょう。 それから考えると、[下野国誌]が書かれた当時、おそらく、吹上村に伊吹山(いぶきやま) という名前の山は存在せず、存在したのは伊吹山(イブキサン)という山号を持つ善応寺という お寺だけだったんでしょう。
[録事尊縁起](1838年写し)が作られた時点で、吹上村には既に伊吹山と名のつく 山は存在せず、在るのは伊吹山(イブキサン)と呼ばれていた善応寺だけでしたから、 [下野国誌](1850年刊)当時、吹上村には伊吹山(いぶきやま)は 存在しなかったんです。
にもかかわらず河野守弘は、『伊吹山・・・都賀郡 吹上村にあり』と嘘をついてるんです。

4)おそらく河野守弘は[下野風土記](1688年編著)を読んで、『伊吹山・・・ 吹上村ノ内』ということを初めて知ったんでしょう。
河野守弘は[下野風土記](1688年編著)を読んでいました(証拠があります)が、 彼が[下野国誌]に[下野風土記]に書いてあるままの、『伊吹山(イフキヤマ)・・・ 吹上村にあり』としか書かなかったということは 、河野守弘は歌枕の伊吹山については、 土地の人から何の話も聞けず、ただ[下野風土記]の知識しかなかったんだろうということです。 それで、[下野風土記]の言うままに『伊吹山(イフキヤマ)・・・吹上村にあり』 としか書けなかったんです。
(ところで河野守弘は、[下野風土記]に書いてある伊吹山の場所を理解できたんだろうか? と言うのは[下野風土記]の伊吹山の所在地説明に矛盾が有るかもしれないからなんです)
しかし、河野守弘は、歌枕の所在については極めて自信がありますので、「自分はこう思う」 或いは「下野風土記にこう書いてあった」などとは決して言いません。『伊吹山・・・ 都賀郡吹上村にあり』、つまり「これが真実なんだ」という書き方をします。 そして栃木県の人達は皆この書き方に騙されてるんです。

5)ところで吹上村に、河野守弘の言う伊吹山と言う名前の山が無かったとしても、 河野守弘の言う伊吹山に該当する山は存在したはずです。その山は、現在の鴻巣山 (または富士山、標高約180m)です。でも、河野守弘はこの山の名前に 触れておりません。

実は河野守弘にはもう一つ、当時の名前を隠すという悪い癖が有ります。
河野守弘のいう「安蘇川」の当時の名前は「佐野川」です。また「三毳山」の当時の名前は 「大田和山、又一部の人が言うにはみかほ山(=三顔山)」ですが、河野守弘は これらの名前を隠しているでしょう。河野守弘という人はホントに困った人です。
栃木市の皆さんはこんな河野守弘の言う事を信じてるんです。

6)[下野国誌]当時、伊吹山という名前の山は存在しませんでしたが、[下野国誌]は、 さしも草の伊吹山は確かにここに有るんだという証拠に、伊吹山と山号の付くお寺・善応寺を 持ち出して来たんでしょう。そして善応寺が伊吹山のさしも草と関係があるんだという証拠に、 『善応寺のあたりに 艾草(モグサ=ヨモギ=さしも草)あまた生ず』という 話を持ち出して来たんでしょう。しかし、善応寺と艾草を結びつける 「善応寺付近の艾草で作ったモグサの効能がすばらしいという話」は、 甲田貞丈の本に書いてあるだけで、付近の住民の噂話には無かったんでしょう。

7)つまるところ、[下野国誌]当時、吹上村には、歌枕の伊吹山(いぶきやま)に関する 何の伝説も噂話もなく、ただ伊吹山(イブキサン)と山号のつくお寺があっただけなんではないか? そう思えてきます。だからお寺のことをグダグダ書くしかなかったんでしょう。

8)ところで[下野国誌]にある『伊吹山(イフキヤマ) 里』 の「里」については 、次の二首が関係してきます。

・[古今和歌六帖](976−982年?)
 いつしかも−ゆきてかたらむ−おもふこと−いぶきのさとの−すみうかりしを
・[枕の草子](1001年?)
 清少納言(966年頃−1025年頃)著
 思ひだに−掛からぬ山の−させも草−誰か伊吹の−里は告げしぞ

ここで「伊吹山」と「伊吹の里」との関係がわからなければ、「伊吹山」と「伊吹の里」との 位置関係に言及することはできません。ですが、「伊吹山」と「伊吹の里」との関係につ いて 書いた史料は一切ありません。ですから、[下野国誌]の『伊吹山(イフキヤマ) 里 』の 書き方には全く根拠がありません。なぜ『伊吹山(イフキヤマ) 里』と いう書き方をしたのか? [下野国誌]の著者・河野守弘という人の頭の構造は全く理解で きません。

ところがとんでもないことに最近は、吹上町の人たちが、「吹上町が伊吹の里だ」って 言ってます。
ご 勝手にどうぞ。

9)なお下記国産名物の部によれば、この伊吹山のヨモギで作ったモグサを 「伊吹艾」と言うとのこと。

[下野国誌](1850年刊)十二之巻
国産名物
毛氈、砂金、調布(同真岡晒布・足利染物)、牧馬、下毛草、日光黄連、同人参、同蕃椒 (トウカラシ)、大山田蕃草(タバコ)、鹿沼麻、伊吹艾、衣川黄骨魚 (キヌカハ アイサ)

「伊吹艾(つまりモグサのブランド名です)
都賀郡伊吹山よりでる艾を日本の最一とす。・・・さて「伊吹艾」の事は上の名所部 伊吹山の条に委しく挙たり。」

9)の(考察)
A.『都賀郡伊吹山』って、河野守弘が言ってることですから、勿論、 すぐ上で解析したように伊吹山なんていう名前の山は存在しません。
『都賀郡伊吹山よりでる艾を日本の最一とす。』とは、「伊吹山(いぶきやま)でとれる ヨモギから生産している「伊吹モグサ」は、効能日本一である。」と言ってるんでしょう。
しかし「名所部伊吹山の条」に伊吹山付近で「伊吹モグサ」を生産しているなんてことは 一切書かれておりません。全くのでたらめです。
伊吹山善応寺の観音堂あたりに七つ葉のヨモギが沢山生えており、「(そのヨモギで作った モグサは)『尤も功能、他に異なる』」と、「伊吹山近くのお寺・その境内に生えてる七つ葉のヨモギ・ それにまつわる鹿沼市のお寺の縁起譚の一部」を紹介しているだけです。
これっておかしいでしょう。伊吹山の名物であるさしも草で作った「伊吹もぐさ」に触れずに、 伊吹山近くのお寺だけに触れるなんて。
つまり伊吹山辺りでモグサは生産していなかっただろうということです。 ですから「伊吹艾」なんというブランド名もなかったろうと思われます。
このブランド名は、滋賀県と岐阜県との県境にある伊吹山の麓で生産されていたモグサの 有名なブランド名です。そして、[下野国誌]の著者河野守弘は、 そのことを知っていただろうと思います。

B.でもとにかく、上記の「国産名物」に伊吹艾が取り上げられているんで、 吹上村辺りでモグサを生産していたかどうか調べてみることにしました。
(以前栃木市教育委員会に「吹上町でモグサを生産していた記録はありますか?」と質問 したのに対する栃木市教育委員会の対応から判断して、「吹上町でモグサを生産していた 記録は無いな」と思われましたが、念のため、再度調べました。)

 具体的には、栃木県立図書館さんに、下記の2史料で吹上村の産物を調査して いただきました。
(1)[栃木県史附録 吹上藩県材料 全] 栃木県 編、栃木県 刊、1888年
(2)[吹上郷土誌全] 金子東五郎 編、吹上尋常高等小学校 刊、1913年

 その結果は次の「吹上村の産物」のとおりです。 吹上村の産物

(その他参考)
下野国におけるモグサ生産に関する史料
(1)[栃木県誌](田代黒滝 著、下野史談会, 1927年)
     国立国会図書館 デジダルコレクション
「七 古文に見えたる産物
@[延喜式] (927年成立)に、租穀とあれば租税に穀類を貢したることなるべし。其他筆、麻、紙 、牛皮、鹿角、紺布等あり。(モグサ、ヨモギは載っておりません)

A[海東諸国記](李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)著、1471年刊) に曰く、下野州 有2火井1 産2硫黄1

B[毛吹草](松江重頼 編集、1638年成立)に曰く、宇都宮笠(此は出家の著けたる ものなりと)、 鷹鈴 、餌カゴ、扇、団扇〈 麁相物 也〉、 那須大方紙 、漆、絹、日光苔(川にあり)、銅 云々

C[国花万葉記](菊本賀保 著、1697年)に曰く、州郡諸品名物之出所に云ふ。
日光苔(川にあり)、大方紙(那須郡より出る)、其他那須八寸などとて名紙多く江戸に 出る。漆、絹、宇都宮笠、鷹鈴、餌籠(エカゴ)、団扇、扇(宇都宮より出る) 、稲葉牛房、日光椀、同折敷、日光盆、同木鉢、銅(あしを山より出る)云々 ([和漢三才図会](1712年)の「下野国土産」も内容同じ) 。」

(2)[モグサの研究(10)産地について(1)]織田隆三 著、全日本鍼灸学会雑誌49巻2 号、1998.12.1
織田隆三氏は江戸時代のモグサ生産地( 11県 の町村)を調査しているが、下野国はモグサを生産している可能性小さいと考えたのだろ う、下野国については調査していない。

(3)[モグサの研究(11)産地について(2)]織田隆三 著、全日本鍼灸学会雑誌49 巻2号、1999.6.1
1873年分と1874年分について内務省勧業寮が行った物産調査にはモグサも挙げら れていた。モグサの生産県として13の県名が挙がっており、それぞれの生産量、生産額 が計上されている (註37) が、その中に栃木県の名前は無かった。

(上記史料・資料からの結論)
 おそらく、[下野国誌](1850年刊)当時を含めて江戸時代に、下野国では、 下野国外に出荷出来る程の量のモグサは生産していなかったでしょう。

(11)冨山房の[ 増補 大日本地名辞書](1970)
  吉田東伍(1864−1918)著
「伊吹(イブキ)山
今吹上村の城山の峰を指すごとし, 標茅原より抜く百二三十米突の小巒(しょうらん)のみ (標高百八十餘米)・・・[(下野)国誌]云、・・・」

(考察)[下野国誌]の「伊吹山」の項を正しく理解すれば、こういう内容になります。
1916年発行の[下野国誌.1至3之巻]では、吉田東伍がその序文 「下野国誌を三たび印行するの序」を書いてます。
*[下野国誌]1之巻 毛野名義,郷古存廃・2之巻 名所勝地・3之巻 神祇鎮座

だっちゅうのに、栃木市教育委員会文化課は何を勘違いしたのか、
(12)栃木市の「文化財一覧」にある史跡「伊吹山」の場所
「栃木市吹上町1610」
栃木市教育委員会文化課に教えてもらいましたが、これは古い地番表示で、 今の善応寺の観音堂辺りの土地のことだそうです。と言うことで、

栃木市の「文化財一覧」にある史跡「伊吹山」とは、「伊吹山(いぶきやま)」でなく、 「伊吹山(イブキサン)善応寺」の境内一帯の土地のことだって。
現在の地番は、他の人のウェブサイトを見ると「栃木市吹上町258」?  すいません。現地で確認しておりません。

(13)栃木市のウェブサイトと伊吹山善応寺の観音堂の案内板 とにある「伊吹山」の紹介文
1)2005年当時の栃木市のウェブサイトにあった「伊吹山」の紹介文

「伊吹山は『美濃(みの)と近江(おうみ)との境なる山にはあらず下野なり』 ([坤元儀](こんげんぎ))と記されているように、東国の歌枕として知られ、 平安時代以降多くの歌人に詠まれてきた名所です。[下野國誌]には、往時から、 特にここに自生する七葉の艾(よもぎ)をもって製した『もぐさ』は薬効があると記されています。 現在は、伊吹山善応寺(勝道上人開山)の観音堂一帯を指す地名となっています。」

2)2014年に他人のWSを見て追記した伊吹山善応寺の観音堂に有った案内板の内容
「栃木市指定文化財
第25号(天然記念物 さしも草) 昭和35年指定
第69号(史跡 伊吹山)      昭和52年指定

        伊吹山のさしも草

伊吹山は『美濃と近江との境なる山にあらず、
下野国なり』([坤元儀])と記しているように、
東国の歌枕として知られ、平安時代以降多く
の歌人に詠まれてきた名所です。江戸時代こ
の地に自生する七葉の艾(よもぎ)をもって製
した『さしもぐさ』は薬効があるとされていま
した。現在は、伊吹山善応寺(勝道上人開山)
の観音堂一帯を指す地名となっています。

けふもまたかくやいふきのさしも草
   さらはわれのみもえやわたらん
              和 泉 式 部

かくとたにえやはいふきのさしも草
    さしもしらしなもゆる思ひを
              藤 原 実 方

              栃木市教育委員会」

(考察)これらの紹介文はその内容から、 [下野国誌]の伊吹山の項 をベースにして書かれたものであることがわかります。

1)両文末の『現在は伊吹山善応寺の観音堂一帯を指す地名となって』いるという伊吹山の 読みって「いぶきやま」?それとも「イブキサン」?
伊吹山(イブキサン)善応寺の観音堂一帯は当然のことながら 伊吹山(イブキサン) 善応寺の境内なので、吹上町の人達は お寺の山号から「イブキサン」と呼んでたんじゃないの? (こういうお寺って成田山(新勝寺)はじめ沢山ありますからね。)もしそうだとすれば 土地の人達が言ってることは「現在は」ではなく過去においても全く正しいです。
この誤解から、ひとつ前の(11)の
「栃木市の「文化財一覧」にある史跡「伊吹山」とは、「伊吹山(イブキサン)善応寺」 の境内一帯の土地のこと」
が生まれたんだと思いますが、山でない善応寺の観音堂一帯を、吹上町の人達が伊吹山 (いぶきやま)と呼ぶわけありません。
吹上地区まちづくり協議会のウェブサイトにはちゃんと、「伊吹山は吹上町の善応寺付近の 標高180mの小山を指しています。」と書いてあります。

2)[録事尊縁起](1838年写)から判断して、1800年代初めには、吹上村には 既に伊吹山という名前の山は存在しなかったので、「吹上村の山が歌枕の伊吹山ではないか?」 という話・世間の噂は既に無かったと考えられます。
そして[下野国誌](1850年刊)の頃も「吹上村の山が歌枕の伊吹山ではないか?」 なんて話は無かったと考えられます。
従って、伊吹山が栃木市の文化財に指定された1977年頃「吹上村の山が歌枕の伊吹山ではないか?」 なんて話は無かったんです。

だから、吹上町の人達が伊吹山(いぶきやま)の名を持ち出すとは思えません。
もし吹上町の人から「吹上町の山が歌枕の伊吹山ではないか?」なんて話が出てきたら、 それは[下野国誌](1850年刊)の影響を受けて、[下野国誌]以降に 言い始めたものでしょう。

3)『現在は伊吹山善応寺の観音堂一帯を指す地名となっています。』って、 つまり伊吹山善応寺の観音堂一帯は山ではありませんので、栃木市教育委員会は 栃木市吹上町辺りに伊吹山と名の付く山は存在しないと認めたってわけね。 また本来の伊吹山の場所はよくわからないってことね。にもかかわらず栃木市教育委員会が 歌枕の伊吹山が栃木市吹上町にあると紹介する神経は全く理解できない。
(こういうことを解析して、きちんと押さえておくことが重要です。栃木市は [下野国誌]を根拠にして歌枕の伊吹山を特定してるんですが、実は[下野国誌]が言ってる 伊吹山がどの山を指してるのかはっきりしないんです。)

こういう内容の栃木市のウェブサイトや、善応寺の観音堂にある伊吹山の案内板を見て、 栃木市民は皆「歌枕の伊吹山(いぶきやま)が栃木市にある」って信じてるんです。
これって[下野国誌]の責任なの? 栃木市教育委員会の責任なの? それとも 栃木市民自身の責任なの?
更に、人によっては歌枕の伊吹山を、善応寺のことであると考える人が居ますが、それって [下野国誌]のせいなの? それとも栃木市教育委員会のせいなの?

とにかく、[下野国誌]と栃木市教育委員会文化部とが無かったら、栃木市の歌枕調査は どれだけスムーズに進んだことやら。

4)実は、上記「栃木市のWSにある伊吹山の紹介文」は、修正した後の文で、 修正する前の文には「伊吹山の辺りでモグサを生産していた」という記述がありました。 しかし筆者は、栃木市に生まれ育ちましたがそんな話を聞いたことがなかったので、 「伊吹山のある吹上町辺りでかつてモグサを生産していたという記録はありますか?」と 栃木市教育委員会文化課にEメールで質問しました。そしたら、その後間もなく 「伊吹山の紹介文」からモグサを生産していたという記述が消えました。つまり 栃木市の伊吹山付近でモグサを生産していたという記録は無いということです。 なお、こちらからの質問に対する栃木市教育委員会文化課からの回答は到頭来ませんでした。
これが、栃木市教育委員会文化課の対応の仕方です。

(14)「下野国内のさしも草の伊吹山」のまとめ
 室町時代から太平山と呼ばれていた史実の有る栃木市の太平山を、江戸時代に歌枕の 伊吹山とする例( [答問雑稿])からわかるように、ここに登場してきた山はいずれも、 かつて伊吹山と呼ばれていたということではなく、単に「この山が歌枕の伊吹山ではない か」と想像される山でしかないと考えられます。

 もし、下野国内に伊吹山という名前の山があれば、まず「その山が歌枕の伊吹山か?」 という史料が出てきて、その山が歌枕の山ではないと分かってから、伊吹山と呼ばれてい ない山が歌枕の伊吹山の候補として挙がってくるはずなんです。ところがここに挙げた沢 山の伊吹山候補の中に伊吹山と呼ばれていた山は一切出て来ておりません。ということで 、下野国には昔から伊吹山という名前の山は存在しなかったんでしょう。


さしも草の伊吹山の考察
(1)[古今和歌六帖](976−982年?)
3586あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ−おのがおもひに−みを こがしつつ
3588なほざりに−いぶきのやまの−さしもぐさ−さしもおもはぬ−こと にやはあらぬ
3589しもつけや−しめつのはらの−さしもぐさ−おのかおもひに−みを ややくらむ

(考察)伊吹山については、近江(と美濃の境)にある標高1377mの高山が大昔から よく知られておりました。ところが、この[古今和歌六帖](976−982年?)の上 記の3586と3588に登場するさしも草の生える伊吹山は、3589の歌から、同じくさしも草の 詠まれているしめつの原同様下野国にある山ではないかと考えられるようになります。
 一方、鎌倉時代になりますと、さしも草の詠まれた伊吹山は近江の伊吹山であるとして 、さしも草が詠み込まれた近江の伊吹山の歌が登場します。
 このようにして「さしも草の詠われた伊吹山」は、近江の伊吹山か?それとも下野国の 伊吹山か?という論争が鎌倉時代あるいはその前から存在しました。こういう経緯で出て 来た下野国の伊吹山説ですから、下野国内のどこにある山かという話は最初は無かったん です。
 しかし「さしも草の伊吹山は下野国にある山だが、どこにあるかわからない」なんて話 で済む訳がありません。当然のことながら、「下野国の伊吹山とは下野国のどこにある山 か」が問題になってきます。そうして.近世などという後世になって初めて、下野国の 伊吹山とはこの山のことではないかという説がいくつも現れます。しかし伊吹山なんてい う名前の山は下野国に存在しませんので、それらは全て違う名前の山です。

(2)[枕の草子](1001年?)
 清少納言(966年頃−1025年頃) 著
「まことや××くだる」と言ひける人に
 思ひだに−掛からぬ山の−させも草−誰か伊吹の−里は告げしぞ

1) 伊吹の里へ下る
 この伊吹の里がどこにあったのか、その所在は不明です。ところで歌の作者を清少納言 として、清少納言は好き好んで伊吹の里に下るのでしょうか?そうではなく夫か父親の転 勤に伴って下るのではないでしょうか?そして夫か父親が転勤するのは朝廷の命令による もので、赴任先は地方の国府など政治的拠点ではないでしょうか?しかし下野国府が伊吹 の里と呼ばれた形跡は全くありません。もし夫か父親の転勤にともなって下るのでなけれ ば、清少納言あるいはその家族と何らかの繋がりのある場所で、下る先は京の都からそう 遠くないところでしょう。下る先が辺雛な関東などということは全く考えられません。

 調べてみましたが、この[枕草子]の伊吹の里に該当しそうな場所は、現在全国のどこ にも見当たりません。そこで、例えば地域振興などのために、伊吹の里を栃木市国府地区 に無理矢理こじつけることは可能です。しかし、既に伊吹の里として売り出している所が 全国に何箇所もありますので、今更の感は否めません。一例紹介しますと、滋賀県米原市 伊吹1732−1に道の駅 伊吹の里(旬彩の森)があります。
 なに?[下野国誌]が伊吹の里とする栃木市吹上町が、今いぶきの里として売り出し中 だって!?ぎょぎょっ、するってえと何ですか、栃木市吹上町が清少納言の枕草子に登場 しているって訳ですか。そうして清少納言と思しき人が京から栃木市吹上町に下るという 噂が宮廷内で流れた訳ですか。これは珍説。どうせこじつけるなら下野国府のあった栃木 市国府地区を伊吹の里とした方がまだましです。でも残念ですが栃木市国府地区に伊吹山 にこじつけられそうな山は小山でさえ存在しません。とにかく栃木市吹上町が、いぶきの 里であるなどとご冗談もほどほどに願います。

2) 思ひだに掛からぬ山
 「思ひだに掛からぬ」の係る先は、その後に続くさしも草の生える「山」です。そして この山は古今和歌六帖などにある「伊吹の山のさしも草」の山のことでしょう。これから 少なくとも、このさしも草の生える伊吹の山が、近江の伊吹山でないことがわかります。 近江の伊吹山が都人にとって「思ひだに掛からぬ山」であるはずがないからです。

3) さしも草の生える山と伊吹の里との関係
 「思ひだに掛からぬ山の麓の伊吹の里」とすると、歌の作者が下向する伊吹の里の所在 までわからないということになってしまいますので不合理です。ここは「伊吹の里の思ひ だに掛らぬ山」、すなわち「伊吹の里のその存在すら知らない裏山」でしょう。このよう に山と里との関係を考えてもこの山が近江の伊吹山でないことがわかります。

 「伊吹の里の思ひだに掛らぬ山」と言っているのは、伊吹の里については人から話を聞 くなどして知っているが、さしも草の生える山については誰も教えてくれないので知らな いということではないでしょうか?そして誰も教えてくれないのは、伊吹の里に行ったこ とのある人でさえその山を知らないからではないでしょうか?

 さしも草の伊吹の山を誰も知らないということは、古今和歌六帖などにある伊吹の山が 、伊吹という地域名を山の名前、例えば近江の伊吹山と誤解したために生まれた架空の山 だからではないでしょうか?

4) と言うことで、平安時代に「さしも草の伊吹の山」と詠まれた山は、 どこか所 在のわからぬ伊吹の里の名も無き裏山か、誤解にもとづく架空の山であった可能性があり ます。下野国に伊吹山なんていう名前の山はもともと存在しなかったでしょう。

5) なお藤原実方の<かくとだに−えやは伊吹の−さしも草−さしも知じな−燃ゆる思 ひを>の「伊吹」は、通説で山の名前であるということになっており、誰も疑いませんが 、山の名前であると断定することはできません。藤原実方は清少納言とかなり親密な関係 にありましたので、清少納言同様「伊吹の山」を「思ひだに掛らぬ山」と考えていた可能 性があります。この歌の「伊吹」は里の名前かもしれません。

(3)[坤元儀]
 能因(988年?−1051年以後)著
以下の文は顕昭(1130頃−1209年以後)著[袖中抄](1185−87年頃〜添 削終了は江戸時代?)にある文。
「 かくとだに−えやはいぶきの−さしも草−さしもしらじな−もゆるおもひを
顕昭云、『えやはいぶき』とは、いぶきの山によせて「えやはいふ」と読る也。此いぶき の山は美濃と近江の境なる山にはあらず。下野国のいぶきの山也。能因[坤元儀]に出也 」

(考察)この能因のさしも草の伊吹山=下野説に対して、『能因は[古今和歌六帖]の歌 を根拠にして言っているだけで、実際に確認したのではないだろう。従って下野説は信頼 できず、さしも草の伊吹山は近江の伊吹山である』とする説があります。確かに「下野な り」の拠りどころはそうかもしれません。筆者もそうだと思います(下の註)。

(註)能因は、前者の山については、『美濃と近江の境なる山』、すなわち滋賀県と岐阜県
  の境に在る標高1,377mの有名な伊吹山のことであると言ってますが、後者の山に
  ついては『下野なり』、つまり下野国にある山だとしか言わず、具体的に下野国のどこ
  に在る伊吹山なのかということは言ってません。これでは前者と後者で言ってる内容
  にバランスが取れず、おかしいでしょう。つまり後者の山について能因が得ていた情報
  というのは、『下野なり』だけで、下野国のどこにあるかという情報は入っていなかった
  と言うことです。

 こういう解析結果が(1)[古今和歌六帖]の解析内容に結びついていくんです。  しかしそのことが「此山は美濃と近江の境なる山にはあらず」まで否定する理由にはな りません。能因はさしも草の詠まれた伊吹山が、少なくとも近江の伊吹山でないことを知 っていたのではないでしょうか?

 そして能因の[坤元儀]を[袖中抄]に引用したということは、顕昭自身、さしも草の伊 吹山の所在を知らなかったが、少なくとも近江の伊吹山でないことを知っていたのでしょ う。このように[枕草子](1001年?)を解析しても、[袖中抄](1185−87 年頃)を解析しても、鎌倉時代以降はいざ知らず、[袖中抄](1185−87年頃)以 前のさしも草の伊吹山が近江の伊吹山であることはまず考えられません。

(4) なお、平安時代のさしも草の伊吹山を特定するのに使える史料は、[古今和歌六帖]、 [枕の草子]と、この「袖中抄」にある[坤元儀]の一文だけです。
これらの史料から「さしも草の伊吹山」の場所を特定することは不可能です。
また、この後近世になっていろんな説が登場しますが、いろんな説が出てくるということは、 その伊吹の山がどこにあったのか分からないということを意味します。
そして新たな証拠が発見されることも無く、近世などというそんな後になって、[古今和歌六帖] (976−982年?)にある伊吹の山の所在が分かるはずがありません。「しめじが原」 「しわぶきの森」についても全く同じです。

(5)[八雲御抄](1221−1242年の間)
順徳天皇(1197−1242年)著
第五 名所部
「山
いぶき  美濃。通近江、さしも草。」

(考察)当時の都人は、伊吹山と言ったら、この山しか知らなかったんでしょう。そうし たら、「下野国のさしも草の伊吹山」に関する情報が入っていなければ、こう考えるのが 普通でしょう。

(6)[歌枕名寄](うたまくらなよせ、1303年 頃)
各地の歌枕を詠んだ古今の歌を収録した歌集
すいません。以下の歌がいつごろ詠まれたものであるかは、調べておりません。

巻廿三:東山道二(近江から美濃にかけての歌枕を集めたようだ)
 かくとたに−えやはいふきの−さしもくさ−さしもしらしな−もゆるおもひを
 けふもまた−かくやいふきの−さしもくさ−さらはわれのみ−もえやわたらむ
 あちきなや−いふきのやまの−さしもくさ−おのかおもひに−みをこかしつつ
 さしもくさ−もゆるいふきの−やまのはの−いつともわかぬ−おもひなりけり
 おもひありと−いふきのやまの−はるさめに−させもかつつも−もえいてにけり
 よとともに−もゆともいかか−いふきやま−さしもつれなき−ひとにしらせむ
 あふことは−いつといふきの−みねにおふる−さしもたえせぬ−おもひなりけり
 いふきやま−みねなるくさの−さしもこそ−わすれしとまて−ちきりおきしか
 さしもくさ−さしもひまなき−さみたれに−いふきかたけの−なほやもゆらむ
 いつしかも−ゆきてかたらむ−おもふこと−いふきのさとの−すみうかりしを
 (伊吹の里は、近江・美濃辺りに在ったと考えられてたんですね。伊吹の里は 、近江と美濃との境にある伊吹山(1377m)の麓辺りにあるんだろうと考えたんでし ょう。)

巻廿六:東山道五(上野から下野にかけての歌枕を集めたようだ)
 あちきなや−いふきのやまの−さしもくさ−おのかおもひに−みをこかしつつ
 かくとたに−えやはいふきの−さしもくさ−さしもしらしな−もゆるおもひを

 (参考)これらの二首に続く歌
 しもつけや−しめちかはらの−さしもくさ−おのかおもひに−みをややくらむ
 なほたのめ−しめちかはらの−さしもくさ−われよのなかに−あらむかきりは
 あきくれは−しめちかはらに−さきそむる−はきのはひえに−すかるなくなり

(考察)東山道五の二首は、東山道二の歌とダブってます。これから、[歌枕名寄](1 303年)の頃には、「さしも草の伊吹山」は、近江と美濃との境にある伊吹山(137 7m)と下野国のいぶき山とのニ説があったことがわかります。

(7)「さしも草の伊吹山」のまとめ
 今まで各史料を考察してきましたように、「さしも草の伊吹山」の所在を特定するのに 役立ちそうな史料はひとつもなく、「さしも草の伊吹山」の所在地は特定のしようがない ことは明白です。

それより、「さしも草の伊吹山」は、 どこか所在のわからぬ伊吹の里の名も無き裏山か 、誤解にもとづく架空の山であった可能性があります。
後ろの「さしも草の考察」の項の「(4)それでは、さしも草は何の植物か?」の (考察)も参照。
 なおさしも草の伊吹山を下野国にあるとする根拠は、
[古今和歌六帖](976−982年?)の
3586あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ−おのがおもひに−みをこがしつつ
3588なほざりに−いぶきのやまの−さしもぐさ−さしもおもはぬ−ことにやはあらぬ
3589しもつけや−しめつのはらの−さしもぐさ−おのかおもひに−みをややくらむ

だけですから、「しめじが原のまとめ」の所で説明したように、「しめじが原」同様「伊 吹山は下野国のどこそこにある」という具体的な場所は、初めから存在しないんです。で すから「さしも草の伊吹山は下野国のどこそこに在る」というのは、「しめじが原」の場 合と同様、皆後世の誤解か付会によるものす。

4.さしも草 へ続く。



さしも草の考察
通説では、「さしも草」とはヨモギのことであるということになってますが、ホントにそ うなんでしょうか?これから歴史的に検証します。

さしも草(させも草)とは、
百人一首の51番
藤原実方(960頃−998年)
 かくとだに−えやは伊吹の−さしも草−さしも知らじな−燃ゆる思いを
と75番
藤原基俊(1060−1142年)
 契りおきし−”させも”が露を−命にて−あはれ今年の−秋もいぬめり

の二首の和歌に出て来る草です。

(1)[古今和歌六帖](976−982年頃)
第六:草

1)小分類「さしもぐさ」

 3586 あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ−おのがおもひに−身をこがしつつ
 3587 ちぎりけん−心からこそ−さしもぐさ−おのがおもひに−もえわたりけれ
 3588 なほざりに−いぶきのやまの−さしもぐさ−さしも思はぬ−ことにやはあらぬ
 3589 しもつけや−しめつのはらの−さしもぐさ−おのがおもひに−身をややくらむ
 3590 かむつけの−いならのぬまの−おほゐぐさ−よそにみよりは−いまこそま され
小分類「かくもぐさ」
 3591 うかりける−みぎはがくれの−かくもぐさ−はずゑもみえず−ゆきかくれ なん
(以上、歌番号3586から3591までの連番です)

(考察)さしも草の名が登場する最初の史料がこの[古今和歌六帖]です。「第六:草」 には、「さしもぐさ」と「よもぎ」(下記)の小分類が別々にあり、古今和歌六帖の編集者 はさしも草とヨモギとを異なる植物と理解していたんでしょうか?

2)小分類「よもぎ」
 3956 われもふり−よもぎもやどに−しげりにし−かどにおとずる−ひとはたれそも
 3957 ふるさとと−なるぞわびしき−なつごろも−よもぎのうへの−つゆみるごとに
 3958 あきかぜや−よもぎのやどに−ふきぬらむ−こゑなつかしく−なくきりぎりす

 3991 あきかせの−ややふきしけは−きりきりす−うくもよもきの−やとをかるるか

(参考 : 「よもぎ」 の慣用句

(考察)
A.これらの歌を見ると、山や原に生えるさしも草と異なり、ヨモギは家の庭に生える雑 草(?)というイメージで捉えられています(ヨモギは「やど」の縁語のようですね)。 また[古今和歌六帖]のヨモギはさしも草と異なり、火と縁語関係にありません。

B.[和歌データベース]の和歌(=1500年頃以前の和歌)検索結果
・[古今和歌六帖]に限らず、ヨモギを詠んだ全ての歌で、ヨモギは火と縁語関係にありません。

・また、もし「さしも草」が「ヨモギ」であるなら、「さしも草」の歌の中に、一首くら い「さしも草」を雑草として扱った歌があってもよさそうでしょう。それで「さしもくさ」の 歌を調べました(さしも草の歌の最後は正徹(1381−1459)の和歌でした)。 その結果、「さしも草」を雑草として扱った歌は一首もありませんでした。

C.また、小分類「よもぎ」の絡みで調べた上記の(「よもぎ」の慣用句)からも、 ヨモギは雑草の代名詞のような存在で、決して火の縁語ではありませんでした。

これらのことからさしも草がヨモギでないのは明らかであると言ってよいでしょう。

3)「おほゐ草」
ところで、なぜか「さしもぐさ」の分類の中に「おほゐ草」(植物 フトイ の方言・古名)の歌があります。この歌は[古今和歌六帖]の中の唯一「おほゐ草」の歌です。 なぜ「おほゐ草」がさしも草の分類の中にあるんでしょう?さしも草の中に 分類されたのはいつの時代でしょう?

4)「かくも草」
「かくも草」については、これも同じく「も草」、すなわちヨモギの一種であるという話が あ りますが、[和名類聚抄]巻十 草木部 草類の黄連(蓮)の項を見ると、黄連の和訓とし て「かくまくさ」というのがあり、これがかくも草ではないかと思います。オウレン(黄 連)はキンポウゲ科の植物です。

(2) [本草和名] (ほんぞうわみょう、918年頃)と [和名類聚抄] (わみょうるいじゅしょう、934年頃成立)
どちらにも「さしも草」は載っていないようです。

(3)[能因歌枕]
 能因法師(988?−1051年以後)著
「忘草とは、萱草をいふ。すみよしのきしにおふ。
 さしもぐさとは、あれ野におふ、山のきしにおふ。
 かくもぐさとは、雨のふるをいふ。
 しのぶぐさとは、いゑともいふ。
 ことなし草とは、かべなどにおふる也。
 かべにおふるをば、いつまで草といふなり。
 さわらびとは、はじめのわらびをいふなり。
 をぎをば、ほにいづるといふ也。
 花すゝきをば、たゞはなすゝきといふべきか。
 こもをば、かつみといふ。・・・・・・(なお、ヨモギは載っておりません)

(考察)能因がさしも草をヨモギと認識していたら、他の草の説明の例からみて「さしも ぐさとは、よもぎをいふ」、「よもぎをば、さしもくさといふ」とあってもよさそうです。
また「ヨモギとは山のきしに生える草である」という発想は生まれません。ヨモギは 上に述べましたように、主に家の庭に生える雑草というイメージでとらえられていました し、また蓬生(よもぎう)という言葉がありますが、これから山を連想する人はいないで しょう。
ヨモギは山野を問わず生えますが、日当たりの良いところを好むので、山中の高木の下草 としては生えません。ヨモギの生える場所としては、「山のきしにおふ」は余分で、「あ れ野におふ」と言うだけで充分です。そこが我々がヨモギをよく見かける身近な場所なん ですから。

能因はただ、[古今和歌六帖]にあるさしも草の歌の、しめつの原を「あれ野」、伊吹の 山を「山のきし」に置き換えて説明しているだけのように思えます。参考にしたのは[古 今和歌六帖]だけではないでしょうけど。(さしも草は「あれ野におふ」「山の きしにおふ」という歌があったのではないでしょうか?)
 能因は、さしも草がどんな草か知らなかったんでしょう。そして能因はさしも草を知ら ないので、恐らくさしも草の詠まれた伊吹の山も知らないんでしょう。

さしも草のように和歌にしか登場しない言葉は、和歌の世界では「歌語」あるいは「歌言 葉」という言葉で片付けられていますが、おそらくどこか地方の方言でしょう。そして多 くの歌人はさしも草がどんな草か知らずにさしも草を取り込んで恋の歌を詠んでいるので はないでしょうか。

 それにしても「かくもぐさとは、雨のふるをいふ」とは何じゃ。まさか、さしも草と火 との縁語関係も、こういう訳の分からぬ関係から来てるんじゃないでしょうね。
「かくも草」の歌
[古今和歌六帖](976−982年頃)
 わかやとに−かくもをうゑて−かくもくさ−かくのみこひは−われやせぬへし
 うかりける−みきはかくれの−かくもくさ−はすゑもみえす−ゆきかくれなむ

[古今和歌六帖](976−982年頃)のこれらの二首では、「かくもぐさ」が雨の縁 語となっておりません。「かくもぐさ」が雨の縁語となるのは、もっと後の時代のようで すね。

(4)[和歌色葉](1198年)
「さしも草は蓬をいふ。又よもぎに似たる草なりともいへり。」

この頃に、さしも草=ヨモギ 説が出始めるようです。

(5)「さしもぐさ=ヨモギ」説が信じられるようになるのはいつか?
1)和歌の解析
私がいつも和歌の検索に利用している「和歌データベース」は室町時代の和歌までしかデータが 有りません。
そして、室町時代のさしもぐさの和歌は、正徹(1381−1459)の[草根集]に有る 次の5首だけです。

しかはみて−よるやほくしを−さしもくさ−もゆるいふきの−みねのゆふやみ
さしもくさ−もゆるひかりは−つれもなき−くももいふきの−そてのいなつま
さしもくさ−しくるれはなほ−もゆるこそ−いふきのみねの−もみちなりけり
さしもくさ−もゆるひまなき−うきくもの−いふきのやまは−ふるしくれかな
さしもくさ−もゆるおもひの−ままならは−しめちかはらや−あさまならまし

ということで、前記(1)[古今和歌六帖]の小分類「よもぎ」の(考察)2.で、 この、正徹(1381−1459)の和歌以前に「さしも草を雑草として扱った歌は 一首もありませんでした。」 と有りますように、正徹の和歌以前に、「さしもぐさ=ヨモギ」 とした和歌は有りませんでした。
従いまして、「さしもぐさ=ヨモギ」として扱った和歌が詠まれるとすればそれ以降です。

つまり「さしもぐさ=ヨモギ」説が信じられるようになるのは、1450年より後だろう と思われます

2)[古今和歌六帖標注](1831)、山本明清(1796−1837)著
「さしもぐさ
『頭』又云「さしもぐさ」即艾也。或人云、よもぎは広き名、もぐさはもえ草の義也。 今按ずるに、よもぎは野に在る時の名、もぐさはもみ製したる時の名といはば論なかるべし。」
(私の意訳)
「さしもぐさ
(頭註)「さしもぐさ」とは漢字で書けば艾のことであるとする説がある。或る人が言うには、 この艾をモグサと読む時は、燃やして蚊遣火或いはお灸のモグサとして利用する「もえ草」の 意味であり、ヨモギと読む時は、「その他の利用を含めた広い意味の言葉である。」とのこと。
今按ずるに、上記のように言えば、異論は無いだろう。」

「さしもぐさ=ヨモギ」が通説になるのは、これより後のようです。

(6)さしも草を灸のモグサの原料であるヨモギとする根拠
 昔の歌学書など主な史料をいくつか調べましたが、さしも草を灸のモグサの原料である ヨモギとする根拠は、
1)さしも草が火の縁語であること。
2)そして、さしも草がなぜ火の縁語なのかという疑問から、さしも草という名前を(さ し・も草)と分解して、さしも草を「も草」(ヨモギの異称。)の一種であるとする。
の2点だけのようです。
ヨモギはお灸のモグサの原料なので、火の縁語となり得るんです。しかし、

1)について
 さしも草は特に火との縁語関係が強いですが、多くの植物が「− 萌える 」、「燃えるような−」と表現されますので、さしも草ばかりでなく、その他の植物も火 の縁語となり得ます。実際こんな和歌があります。
・藤原敦忠(906−943年)
 我が恋は−今は木の芽の−春なれや−雨降ることに−燃え(萌え)まさるらむ
・[金玉和歌集](1004−1012年間)
 焼かずとも−草は燃え(萌え)なん−春日野を−ただ春の日に−まかせたらなん

(考察)これらの歌では「燃え」と「萌え」とが、掛詞になっています。

・[新続古今集](1439年)
 知られしな−しのびの丘の−初草の−はつかなるより−燃ゆる思ひは
次の実方の歌と構造を比較してみてください。そっくりです。
・藤原実方(958?−998年)
 かくとだに−えやは伊吹の−さしも草−さしも知じな−燃ゆる思ひを(百人一首)

(考察)初草(=若草)が、さしも草同様火の縁語のように使われていますが、若草はさ しも草でもヨモギでもありません。若草萌ゆるの萌ゆると、燃ゆる思ひの燃ゆるとを掛詞 にしているものと思われます。さしも草が火の縁語になったのは、このように萌ゆと燃ゆ とを掛詞としたのがきっかけでしょうか?

2)について
 さしも草をさし・も草と分解すると、さしも草がなぜ火の縁語なのかを都合よく説明で きるので分解しているだけであって、さし・も草 と分解する合理的根拠はありません。

また「も草」がヨモギの異称であることを前提にしていますが、「も草」が植物ヨモギを 意味するようになるのは、1500年代以降の可能性があります( [日本一鑑] 窮河話海の部 五・花木「艾 ヨモキ モクサ」(1565−66年頃))がモグサを植 物ヨモギとする史料上の初見?)。

 さしも草が最初に歌に詠まれた当時、「もぐさ」という言葉があったかどうか?あった としても植物名ではなかった可能性があります。その「もぐさ」の意味として考えられる のは、
@生のヨモギの葉を火にくべて・いぶして 蚊遣火 として使う場合のヨモギのことを「もぐさ」と呼んだのではないか?
A火打ち石で火を起こす際に使う 火口 (ほくち)を「もぐさ」と呼んだのではないか?
そして
B灸のモグサ(この言葉は鎌倉時代に生まれたのではないかと考えてい ますが)
です。

これらはいずれも火の縁語となり得るものです。最初はさしも草という言葉の一部「も草」 が火の縁語だったが、その後それが誤解されてさしも草が火の縁語となったのでしょうか?
例えば、[古今和歌六帖]の3586あぢきなや−いぶきのやまの−さしもぐさ−おのがおも ひに−身をこがしつつ の歌ではさしもぐさの「もぐさ」が火の縁語だったと仮定して、 それを知っていなければ「さしもぐさ」の「もぐさ」が火の縁語であるなどとはわかりま せん、誰でも「さしもぐさ」が火の縁語であると誤解するでしょう。そういう誤解からさ しも草が火の縁語になったのではないでしょうか?(筆者がちょっと調べたところでは、 こういう例って、いくつもあるんじゃないかと思われます)

(7)それでは、さしも草は何の植物か?
 わかりません。

 さしも草とはどんな草か?については、[日本国語大辞典 第二版]小学館(2000 −2002年)に、過去の研究成果(「室の八島」と違って、「さしも草」につ いては、ちゃんと研究した人がいるんです。でも筆者はその研究論文を探せませんでした。
もしかしたら[さしもぐさ](渡辺千秋 著、1903年)かもしれず、この本は国 立国会図書館のデジダルコレクションにあり、インターネットを通して読めるんですが、 くずし字で書いてあるんで私には読めませんでした。インターネットで調べると[左志毛 具佐](飯塚久敏 著、1849年?)って本も見つかったんですが、これもくずし字で 書かれていて私には読めませんでした。)
が まとめられていますので、図書館で でも参照してください。それにはさしも草とは何かを推測するための、いくつかの ヒントが載っています。
「さしも草」が何の植物であるか分かっていれば、 説明は一行で済みますが、[日本国語大辞典 第二版]の「さしも草」の説明文はごちゃご ちゃ書いてあってとても長いんです。そして、さしも草とはなんの草だと言ってるのかさ っぱりわかりません。これを一言で言えば、「さしも草が何の草かは、よく分かっていない。」 ということです。つまりこれが、過去のさしも草の研究の結論です。

 と言っても、[日本国語大辞典]第二版を参照される方はあまりいないと思いますので、 補足しておきます。

 [古今和歌六帖]のさしも草の分類になぜかおほゐ草(フトイ)の歌が混ざっていまし たが、実は、フトイをさしも草とよぶ広島県・山口県の方言が存在した(する?)んです 。

1)[両国本草(長門周防両國本草、長防産物名寄)](1737年)
 鳥田(or島田)智庵(田智庵、田智庵貫通、田智庵貫通斉) 著
 周防之部
 「丸スケ : サシモクサ」
 (次の2)[本草綱目啓蒙]から「丸スゲ」とはフトイのこと。)

2)[本草綱目啓蒙](1803年)
 小野蘭山 著
巻之十五・章之八・水草類
「香蒲 蒲黄(註 フトイのこと)・・・[集解]莞 ツクモ和名鈔 タマクモ オホヰ 倶ニ同上 マルスゲ マルガマ ニヨイ オヰ仙台 フトヰ ブツジヤウ大和本草 トウ ヰ勢州濃州 リウセイ江州 サシモグサ芸州(安芸:今の広島県の一部)  リウキウ播州 シチトウ備前 オヱ羽州
(後の文章部分は省略)」

3)長崎県西彼杵郡地方のことわざ
「サセモグサ(サシモグサ)の実多き時は大寒」 (註41)

(考察)これらの資料を見ると、さしも草とは「フトイの古語であるおほゐ草の西日本の 方言」である可能性があります。しかし、これらの資料だけでは、さしも草がフトイであ ると断定することはできません。でもさしも草をヨモギとする根拠の薄弱さと比べれば、 少なくともさしも草がヨモギであるよりフトイである可能性の方がずっと高いと言えるで しょう。ヨモギがさしも草である確率は、フトイ以外の植物がさしも草である確率と同じ でしょう。

またさしも草がフトイでなかったとしても、「西日本の方言」である可能性が残ります。 さしも草を「西日本の方言」とすると、さしも草が詠まれたしめじが原や伊吹山が関東の 地名である可能性はかなり低くなります。

またさしも草をヨモギでなくフトイ(池や沼などに群生する水草)としても、この「栃木 市の歌枕」の節の「伊吹山」と[能因歌枕]の項で考察しましたように「××山のさしも 草」という表現はしっくりしないんです。××山に生えていたのはフトイだったのかどう か?あるいはフトイの生える××山というものが本当に存在したのかどうか?ここからも さしも草の伊吹山が誤解に基づく架空の山ではないかという疑いが出てくるんです。

(8)補足と蛇足
 現在ヨモギは漢字で蓬と書きますが、これは[和名類聚抄](934年頃成立)という 国語辞典(?)を編纂する際に、似たような植物と間違えたもので、正しくは艾と書くよ うです。貝原益軒(1630−1714)の[大和本草]1709年版でも、艾と書いて 「よもぎ」と読ませています。
 ところで現在では、艾は「もぐさ」と読み、灸のモグサを意味します。しかし灸のモグ サを漢字で書くなら、熟艾(じゅくがい)と書くのが適当なようです。
 この熟艾、[養老律令](757年施行)の「軍防令」の「備戎具条」に火口(ほくち )の意味で登場します(読みはわかりません)。しかし[延喜式](9 05年編纂開始967年施行)の[和名考異]によれば、熟艾は「もぐさ」とは読まず、 「やいくさ(焼き草?火口のこと?)」、「やいはくさ(ヤイト クサ(現在、ヨモギの方言にあり、灸草)の誤写?)」と読むようです。つまり さしも草の歌が最初に詠まれた頃、お灸のモグサを意味する「もぐさ」なんていう言葉は なかったんです。

 そして「もぐさ」という言葉の文献上の初見(?)は、灸のモグサを意味するもので、 [名語記](1275年)の「 やいとう のもぐさ如何。熟艾とかけり。」のようです。
(これ以前は、灸のモグサは、原料である植物名(例えばヨモギ)で呼ばれてい たんじゃないでしょうか?またモグサという言葉は、「燃え草・燃やし草」が訛ってでき た言葉ではないでしょうか?)

 そして、先に述べましたように、「もぐさ」が植物ヨモギを意味するようになるのは、 1500年代以降の可能性があります。
 室町時代物語の[鉢かづき]に、『しつかかやりひ、たくもくさ』という文が出て来ま すが、この文は、次の(註)から判断して、『賎が蚊遣り火、焚くヨモギ』、すなわち蚊 を追い払うために、生のヨモギを火にくべて、いぶしている光景を描写した文ではないか と思われます。

(註)蚊遣り火:よもぎの葉、カヤ(榧)の木、杉や松の青葉などを火にくべて 、燻(いぶ)した煙で蚊を追い払うその火のこと。
『よもぎの葉』とは、『杉や松の青葉』同様に、生のよもぎの葉のことでしょう ね。

5.しめじが原、さしも草の伊吹山=栃木市説のまとめへ続く。


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