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第1章 室の八島の歴史の概要 の備考

(註01) 本ウェブサイトでは、和歌を含めて引用している史料はほぼ全て作成年或いはそれに代わ る数字を付して、作成年順に並べてあります。もし作成年或いは作成順番がおおまかでも 推測できないものは資料として使えませんので、ここに載せておりません。

読者ご自身で資料解析される場合も、史料は必ず古いものから順に取り上げ、史料と史料 との作成間隔(つまり何年間の開きがあるか?)などを充分考慮して解析してください。 別な言い方をすれば、史料の解析にあたっては必ず時間軸を導入して行ってください。で ないと結論を誤ること必至です。すいません。筆者(この私)の言いたい事分か りますか?


第1節 栃木県(下野国)の歌枕 の備考
(註02) 栃木県では、所在の明確でない栃木県の歌枕(栃木市の歌枕を含む)については、幕末に 書かれた河野守弘の[下野国誌](1850年)を信じて、「その歌枕とはどこそこである」と言う ことになってますが、[下野国誌]の言う下野国の歌枕がどういう代物であるか?これか ら分かります。

特に、歌枕について変に自信のある河野守弘が書いた下野国南部の歌枕の説明は、 誤解と付会ばかりです。そしてそれが一般の人に信じられているから困ります。
それで筆者(この私)は、その誤解と付会とを解くために、このWS 上で、その後始末にてんてこ舞い させられました。 [下野国誌]が無ければ、この歌枕調査はどれだけ楽だったことか?

歌枕についての河野守弘の書き方の特徴
@「自分はこう思う」とか「一般にこう信じられている」とかの書き方をせず、 「これこれが真実である」という書き方をします。
この書き方によって、栃木県の人達は皆「それが正しいんだな」と騙されています。
Aその歌枕の当時の名前を必ず隠します。それは、当時の名前が歌枕の名前と違っていたら、 ホントに歌枕なのか?と疑われるからです。

実は、栃木県の歌枕について書いた史料で、[下野国誌]より信頼できる史料が有ります。
それは、編著者不明の[下野風土記](1688年)です。でも残念ながら栃木県民からは、 [下野風土記]という史料の存在すらほとんど認められておりません。
この誰だか分からない[下野風土記]の編著者は、河野守弘よりずっと頭の良い人です。

たまくしげ
玉櫛笥・玉匣。櫛(くし)などの化粧道具を入れる美しい箱。「たま」は接頭語。歌語。
くしげにはふたがあることから「二(ふた)」などにかかる。(二荒山)


あその河原(安蘇の河原)
   下野国外の若者が 国境の川を渡って 下野の娘に会いに来ました。

和歌検索:キーワード「あその、あそかは(川=かは)和歌データペース

  しもつけの-あそのかはらよ-いしふます-そらゆときぬよ-なかこころのれ
  ひさきおふる-あそのかはらの-かはおろしに-たくふちとりの-こゑのさやけさ
  あつまめと-ねさめてきけは-しもつけや-あそのかはらに-ちとりなくなり
  いしふまぬ-あそのかはらに-ゆきくれて-みかほのせきに-けふやとまらむ
  いしふまぬ-あそのかはらに-ゆきくれて-みかほのさきに-けふやとまらむ

栃木県民は、「あその河原」の川を、佐野市中心部を南北に流れる 秋山川である 【地図】 と理解して?教えられて?ますが、ホントにそうなんでしょうか?これから歴史的に検証 します。

(1)[万葉集](700年代後半) [万葉集]
 巻14(東歌)下野國歌−3425
 志母都家努−安素乃河泊良欲−伊之布麻受−蘇良由登伎奴与−奈我己許呂能礼
 しもつけぬ−あそのかはらよ−いしふまず−そらゆときぬよ−ながこころのれ
 下つ毛野−安蘇の河原よ−石踏まず−空ゆと来ぬよ−汝が心告れ

*安蘇については (2)[和名類聚抄] 参照

(考察)
A : 現在この河原がどこに在ったのか分かっていないようです。
現在なら「○○にある××川の河原」といいますが、○○が「下野国」では範囲が広すぎ て、「あそのかはら」の場所を特定する役に立ちません。

B:「下野国」云々と詠んでるということは、この歌を詠んだ人は、 下野国の人ではないようです。
ということで、
 下野国外の若者が、下野国の「あそのかはら」を通って下野国の娘に会いに来たよう です。
「あそのかはら」は他国にも知られた場所だったんでしょうか?

C:「あそのかはら」の川はかなり大きく、「あそのかはら」の面積は、他の川の河原よ りずっと広かったんでしょう。だからこの歌に「あそのかはら」が登場して来てるんでし ょう。
またこの河原には石がゴロゴロしていたようです。

D: また「いつもなら「あそのかはら」を通ってあなたに会いに来るところですが、今 回はあなたに早く会いたかったので空を飛んでやってきました」と詠ってますので「あそ のかはら」は道路の一部だったようです。道路の一部をなしていた河原だったから皆によ く知られた河原だったんでしょう。

河原が「川沿いの道」だったんかなぁ?
でも栃木県南部の平野部なら、石がゴロゴロしている部分を避けて通れたような気がする んで、「川沿いの道」の可能性は低いな。
ということは、この歌の作者は川を(当然歩いて)渡ったんでしょう。川を渡る場合、浅 瀬を選んで渡る必要がありますから、浅瀬を求めて河原を川の上下流方向に歩いたんでし ょう。河原を結構な距離歩くからこの歌に河原が登場してるんでしょう。

E: この男は「あそのかはら」を南から北へ、あるいは西から東に渡ったんでしょうか ?「あそのかはら」辺りのこの川は、西から東に、或いは北から南に流れてたんでしょう 。
 ところでこの歌が詠まれた頃と現在では、河原の様子はすっかり変わってしまっている でしょう。川自体 流路を変えてる 可能性もありますね。

あその河原(安蘇の河原)の川が何川かは、この[万葉集]の解析でもう大体 分っちゃいましたね。
このように、歌枕の所在調査には、最初の和歌を深く解析することが、とても重要です。


(2)[和名類聚抄](わみょうるいじゅ(う)しょ う、934年頃成立) [和名類聚抄]
[和名類聚鈔]・[倭名類聚抄]・[倭名類聚鈔]とも表記。
国郡部第十二 下野国
「下野国 安蘇郡   安蘇、説多、意部、麻続」 安蘇郡の郷

(考察)郡と郷との名に「あそ」があるのに、河原まで「あそ」という名前だったら、「 あそ」がなんなのかわけがわからなくなるでしょう。ですから河原まで「あそ」という名 前であることはちょっと考えられません。

 では、もし「あそのかはら」の「あそ」が郡の名だったとしたら、河原の場所が特定で きるでしょうか? 範囲が広すぎて「あそのかはら」の場所を特定できないでしょう。と いうことは、特定の河原を指し示すのに「あそ郡のかはら」なんて言い方はしないだろう ということです。と言うことで、「あそのかはら」の「あそ」は川の名前か?郷の名前か ?でしょう。

 例えば、或る人が街道を進んで行ったら、大きな河原にぶつかったとします。その人は 、その河原を何と呼ぶでしょう?「何々川の河原にぶつかった」と言うでしょうか?それ とも「何々村の河原にぶつかった」と言うでしょうか? おそらく「何々川の河原にぶつ かった」と言うでしょう。これから考えると万葉集の歌の「あそのかはら」の「あそ」は 、川の名前である可能性の方が高そうです。

そうです。この川の名前は、上野国と下野国が分かれる前か後の「安蘇郡の川」(水源を安蘇郡に 発する川?)という名前だったんではないでしょうか?栃木県の鬼怒川が、はじめは 「毛(木)の国の川」を意味する「け(き)の川」だったらしいように。またこの川はかなり 大きかったようなので「安蘇郷の川」なんて名前ではなかったでしょう。安蘇郷の人たちは、 「安蘇郷の川」と呼んでいたかもしれませんが、他国の人は「安蘇郷の川」とは呼ばないでしょう。

(4)でもう1回検討します。

(3)清輔集・頼政集
・清輔集(1174年頃)
 藤原清輔 (ふじわら の きよすけ、1104−1177年)
 ひさき おふる−あそのかはらの− かはおろし に− たくふ ちとり の−こゑのさやけさ

・頼政集
  源頼政 (みなもと の よりまさ、1104−1180年)
 川辺千鳥
 あつまめと−ねさめてきけは−しもつけや−あそのかはらに−ちとりなくなり

(考察)藤原清輔(1104−1177年)の歌も源頼政(1104−1180年)の歌 も、共に「あそのかはらのちとり」を詠んでいますので、両歌が参考にした元歌が他にあ るのか?或いは両歌の間に派生関係(どちらかの歌を基にして、もう一方の歌が詠まれた )があるんでしょう。
 ということは、源頼政の歌の内容から、これらの歌の「あそのかはら」とは、下野国の 「あそのかはら」のようです。
 同世代の歌人・藤原清輔と源頼政とが、共に下野国の「あそのかはら」の歌を詠んでい るということは、この時代下野国の「あそのかはら」は、歌枕としてよく知られていたよ うです。

 これらの歌が下野国の「あそのかはら」を詠んだ現存する二〜三首目の歌でしょうか? [万葉集]に収録されてから400年後の作です。下野の「あそのかはら」は、400年 間も名所であり続けたんでしょうか?

 藤原清輔の歌は「あそのかはら」の風景描写が緻密で実景を詠んでいるように見えます 。しかしこの歌の作者・藤原清輔の経歴を調べてみても、彼が下野に来た様子はうかがえ ません。この歌は、下野国の「あそのかはら」を単に想像して詠んだ歌?それとも、他の 川を眺めながら、下野国の「あそのかはら」の景色もこれと同じなんだろうかと想像して 詠んだ歌?
 いずれにしろ、彼らは、「あそのかはら」の場所を知らずに、単に「あそのかはら」が 歌枕だからということで詠んでるんでしょう。

(4)宇都宮頼綱蓮生 、1172−1259年)
[万代集](1248年)巻十七 雑四 3393:[新和歌集](1260年前後): [歌枕名寄](1303年頃):[夫木和歌抄](1310年頃)
 いしふまぬ−あそのかはらに−ゆきくれて−みかほのせきに−けふやとまらむ

(考察)この歌は『あそのかはらよ 石踏まず』と[万葉集](700年代後期)に 詠まれてから500年後に『石踏まぬ あそのかはら』と詠まれた派生歌です。
 ところで、両方の歌に共通して出て来る「あそのかはら」という言葉は、500年間も 変わらなかった河原の名前(つまり固有名詞)だったんでしょうか?

 「あそのかはら」を河原の名前(固有名詞)とすると、「あそ」(郡・郷・川などの固 有名詞)と「かはら」(普通名詞)を組み合わせた「あそ の かはら」と音で区別でき ません。つまり「あそのかはら」と言っても、「あそのかはら」(固有名詞)なのか、「 あそ の かはら」(固有名詞+普通名詞)なのか音で区別できません。それで「あその かはら」は固有名詞でありながら河原固有の名前ではないので、場所を一箇所に限定でき ません。そんな名前を河原に付けるでしようか?ふつう三途の川の賽(さい)の河原のよ うに、「賽の」のような河原固有の名前を付けるんじゃないでしょうか? つまり「あそ のかはら」は河原の名前(固有名詞)じゃないだろうということです。

 「あそのかはら」は河原の名前ではなく、本来「あその郷のあそ川の河原」と言うべきところを、 和歌における文字数の制約から「あそのかはら」と略したんではないでしょうか? または、本来「あそ川の河原」と言うべきところを、文字数の制限から「あその河原」と 短縮したのではないでしょうか?

もし「あそのかはら」が固有名詞でなかったら、歌に詠まれてから500年も経って から、「あそ」が土地の名前か川の名前かも分からない「あそのかはら」という言葉から 「あそのかはら」の場所を特定することは不可能です。

 万葉集に詠まれた時の「あそのかはら」という言葉は、固有名詞(あそ)+普通名詞( かはら)だったと思いますが、400年後に詠まれた(3)の藤原清輔・源頼政の歌の時 代になると、「あそのかはら」=歌枕=固有名詞へと変わっていたんでしょう。ですから 500年後に詠まれたこの宇都宮頼綱の歌に出て来る「あそのかはら」は、固有名詞へと 化けた「あそのかはら」である可能性が高いんです。そしてこの宇都宮頼綱の歌は「あそ のかはら」の場所を知らずに、ただ「あそのかはら」が歌枕であるということで歌に取り 入れている可能性が高いんです。例えば室の八島などは西暦900年頃から和歌に詠まれ ていますが、その99%以上が室の八島の場所を知らずに詠まれたものと考えられます。

実は、この歌は
1)[万葉集](700年代後半)
   しもつけぬ−あそのかはらよ−いしふまず−そらゆときぬよ−ながこころのれ
   しもつけの−みかものやまの−こならのす−まぐはしころは−たがけかもたむ
2)[和名類聚抄](934年頃成立)
  国郡部第十二 下野国
  「下野国安蘇郡  安蘇、説多、意部、麻続」
と後出の
3)[延喜式](927年成立)
  巻二十八 兵部省
  「下野 駅馬   足利、三鴨、田郷(田部)、衣川、新田、磐上、黒川各十疋」
などの史料を直接間接に参考にすれば、「あそのかはら」の場所を実際に知らなくてもお およその場所は推測できるので、想像で詠めるんです。このような歌を、当時の「あその かはら」の場所を特定する根拠にしてはいけません。これは調査の基本です。史 料一件一件について、このような解析をする必要があります。(参考 [蒲生氏郷卿紀行]

時代が下って
(5)[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳
「阿蘇川原美加保乃関 : 今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有 リ。
万葉十四
下野ノ アソノ河原ヨ石フマズ ソラユトキヌヨナガココロノレ
新千載
石フマヌ 阿素ノ河原に行暮テ 美加保乃関ニ今日ヤトマラン
裏書云 、[八雲御抄](「みかもの山」の項で説明する)『美加ノ保ノ関 慈 覚大師誕生之処也、三毳ノ山古キ名所也、有但馬国云々』」

(考察)『阿蘇川原並びに美加保乃関』の書き方から、この著者は上の宇都宮頼綱の歌を 念頭において言っているんでしょう。しかし上に書きましたように、それは根本的に間違 っているんですが。つまりこの時点で、「あそのかはら」の場所を知るために確実に参考 にできる資料は、 [万葉集] の歌と [和名類聚抄] しかありません。ですから「あそのか はら」の場所を特定しようとしたら、地図などを参考にしながら、[万葉集]の歌と[和 名類聚抄]との解析に全力を注ぐべきなんです。

 この頃はまだ「あその河原」の所在は疑問符付きであり、三毳の位置も足利市と佐野市 の間として、現在の比定地(佐野市・栃木市岩舟町・栃木市藤岡町との境界付近)とは 異なります。このことから[下野風土記]の編著者が 足利の駅から三鴨の駅までの距離 (標準16km)についての知識が無かったことが分かります。

ところで『足利ヨリ佐野エ入道ニ有』る阿蘇川原の川とは何川でしょう?近くを渡良瀬川 (わたらせがわ)という大きな川が流れていますので、[下野風土記]の著者は、渡良瀬 川 【地図】 のことを阿蘇川原の川ではないかと考えていたんでしょう。
ということは、「あそのかはら」の川とは渡良瀬川のことではないかと考えていた人が、 筆者(この私)以外にもう一人いたようだということです。うれしいですね。 (私の考えは、(8)[下野国誌]の所で話します。)

 それにしても「今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ。」の「三毳」とは具体的に はどこなんでしょう?今でもあるんでしょうか?

(6)[室八島](1756年刊)
下野国南部の歌人・石塚倉子の作品集。
この[室八島]中に、「「あその川原」の川とは○○川である」という話は登場しません。 おそらく、当時万葉集の歌は知られていたが、場所が分からなかったからなんでしょう。

しかし、1600年代には各藩がこぞって歌枕などの場所探しを盛んに行っており、「あ その川原の川とは、現在の佐野市中心部を南北に流れる秋山川ではないか」という話( (8)[下野国誌] 参照)が1600年代に既に生まれていた可能性があります。しかし石塚倉子はそれを信 じなかったのかもしれません。彼女はかなり頭のよい人だったので。

(7)[古河志](小出重固、1830年作、古河藩 領内の地誌)
「巻之下 坤 已下佐野郷」
以下の内容は栃木県立図書館さんに調べていただきました。
  ※目次では「大田和山」ですが、本文中は「大田和村」です。
「○ 大田和村
・・・・・・
一  [名所部 類和歌集]                     蓮乗
   下野や−あその河原に−行くれば−みかもの崎に−宿をかりなん
  ※〈頭書〉 蓮乗 は宇都宮弥三郎が法躰の名なり。
新千載には、石ふまぬ−あその河はらに−行くれば−みかほのさきに− とありて、末は おなじ。
[歌枕秋寝覚] 等にはみかも山もみかほといふも見えず。
所のものゝいふには、此山(大田和山)の西の麓西浦村近く 安蘇沼 といふ有。其沼のへり、あそのかはら成べしと。又或人は佐野の庄に 那良淵 (ナラフチ)といふ所あり。そこの河原をいへりともいふ。いづれと定めがたし。
・・・・・・」
*「○大田和村」の詳細は「みかもの山」の項の (9)[古河志] 参照

(考察)大田和村の人達は、(5)の [下野風土記] 同様(4)の 宇都宮頼綱 の歌
  いしふまぬ−あそのかはらに−ゆきくれて−みかほのせきに−けふやとまらむ
を参考にして、「あその河原」の場所は「みかほ=みかも」の近くに在ったんだろうと考 えていたようです。
 しかし、[下野風土記]は「みかも」の位置を「足利と佐野の間の三毳」と考えました が、大田和村の人達は現在の考え方に近く、現在の三毳山の近くに在ったんだろうと考え たようです。そして大田和村の人達は『此山(現在の三毳山)の西の麓西浦村近く安蘇沼 といふ有。其沼のへり、あそのかはら成べしと。又或人は佐野の庄に那良淵(ナラフチ) といふ所あり。そこの河原(秋山川の河原と思われます)をいへり。』と考えていたよう です。この考えは大田和村の人達ばかりではなく、現在の三毳山付近の人たちが一般に考 えていたことなんだろうと思います。

 なお、上記の『此山の西の麓西浦村近く安蘇沼といふ有。其沼のへり、あそのかはら成 べしと。又或人は佐野の庄に那良淵(ナラフチ)といふ所あり。そこの河原をいへりとも いふ。』の文から判断して、「あそ川」という名前の川は当時存在しなかったようです。
というのは、もし当時「あそ川」という名前の川が存在すれば、「あそのかはら」は「あ そ川」にあったはずですから、「あそのかはら」の場所の説明文の中に「あそ川」の名は 必ず出てくるはずです。(河原の場所が分からなくても、川の有る場所の説明は必ず出て くるはずです)ところが、上の文では「あそ川」の名前が出て来ずに「あそのかはら」の 場所を説明できています。ということは、すなわち「あそ川」という名前の川は存在しな かったということです。

(8)[下野国誌](1850年刊) [下野国誌]
河野守弘 (こうのもりひろ、1793−1863年)著
安蘇川原(アソノカハラ)
安蘇郡佐野天明(てんみょう)駅の西を流るる 川なり 【地図】 。往古は天明の東を流れしといえり。水上(ミナカミ)は、同郡(の葛生地区の) 秋山 【地図】 と云う所より出て、末は 佐野ノ中川 とともに利根川に入るなり。
[万葉集](700年代後期)十四 東歌 下野国相聞往来歌
 しもつけぬ−あその河原ゆ−石ふまず−空ゆと来ぬよ−汝がこころのれ
[頼政卿家集] 川辺千鳥とあり。
 あつま女と−寝ざめてきけば−下野や−あその川原に−千鳥鳴なり
・・・(これ以降の [名所今歌集] [下野歌枕] の歌などは省略)」

(考察) [万葉集] (700年代後期)が編集されてのち千年も経ってから、突然[万葉集] に「あそのかはら」と詠われた川の詳細な所在地が、この[下野国誌](1850年刊) に出現します。そして[下野国誌]は「あそのかはら」の川を「天明駅の西を流るる川」 (つ まり秋山川のこと) であるとしています。

 [万葉集]の歌『しもつけぬ−あそのかはらよ−いしふまず−そらゆときぬよ−ながこ ころのれ』によれば、「あそのかはら」の川はかなり大きかったようですが、なぜ安蘇郡 か安蘇の郷付近で、圧倒的に大きい川・渡良瀬川じゃいけないの?
石がゴロゴロしてるか否かなんてのは問題になりません。上流にいけば石がゴロゴロして いる川はいくらでも在りますから。河原の面積が、他の川より圧倒的に広いから歌に詠ま れているんです。
下野国外の若者が下野国の娘に会いに来るときに渡る最大の川と言ったら渡良瀬川でしょう。 渡良瀬川を渡らなければ下野国の娘に会いに来られないんです。と言いますか、秋山川の 河原を通る前に、あの辺りで、圧倒的に大きい川・渡良瀬川の河原をかならず通らなけれ ばならないんです。この大きな川を歌に詠まずに他の小さな川を歌に詠む理由は、上記の 万葉集の歌には見当たらないでしょう。
渡良瀬川は下野国と上野国の境を流れているので、渡良瀬川を「下野のあその河原」の川 とは言わない、あるいは渡良瀬川の河原を「下野のあその河原」とは言わないって言うの? あんな昔のことがそこまでわかるんだろうか?
また秋山川より西にある旗川(はたがわ 【地図】 )じゃなぜいけないの?

どうも河野守弘は、万葉集に詠われた「あそのかはら」の「あそ」とは安蘇の郷で(或い は安蘇の郷を流れる川の名前で)、佐野の天明のことだと考えたようです。それで「あそ のかはら」の川とは天明の近くを流れている秋山川と判断したようです。

 しかし、今まで筆者が解析してきましたように、「あそのかはら」の川を秋山川である と断定するのは、ちょっと無理ですね。

なお、佐野市郷土博物館さんの調査によれば、佐野の町あたりでは、1800年代の初め 頃から、「あそのかはら」のある川・即ち「安蘇川」とは佐野川(現在の秋山川)のこと であると考えられていたようです。佐野市郷土博物館さんによれば、「佐野川とも安蘇川 とも呼ばれていたのではないか?」とのことです。確かに、現在の秋山川のことを「安蘇 川」と書いた江戸時代後期の絵図があるんです。

しかし、もし現在の秋山川が1800年代に安蘇川とも呼ばれていれば、1830年に書 かれた前記 [古河志] にある『佐野の庄に那良淵(ナラフチ) といふ所あり。そこの河原(秋山川の河原と思わ れます)をいへり。』の説は 生まれても 、『此山(現在の三毳山)の西の麓西浦村近く安蘇沼 といふ有。其沼のへり、あそのか はら成べし。』の説が生まれることは有りえません。

(参考)[下野国誌]の「安蘇川原」の項には、[従安蘇川原眺望三毳山之図] (安蘇川原より三毳山を眺望するの図)が一枚挿入されており、それには、 「三毳山」とその峠と思われる「三香保関」が描かれており、また遠景に「安蘇山」、 近景に「安蘇川」(つまり河野守弘は、これが秋山川のつもりのようです)と「佐野田」が 描かれています。
(この図は実景を写生したものではありません。河野守弘が、こんな絵を描いて くれと頼んで、画家に描かせたものと思われます。先に言いましたように[下野国誌]当 時、この絵に描かれた「安蘇川」などという名前の川は存在しません。)

(考察)この図の「安蘇山」と「三毳山」との位置関係から判断すると、この図は「三毳 山」の南方の位地から北を向いて描いたものと思われます。そうすると「三毳山」の手前 (=南側)に描かれている「安蘇川」とは、渡良瀬川ということになって、河野守弘が言 っている秋山川じゃないんですけどね。

 ここまで各史料を解析してきたように「あそのかはら」の川としては、渡良瀬川と 考えるのがすなおでしょう。
ところが、最近の参考書は、皆「あその河原の川とは秋山川のことである」とし ています。しかしその根拠を示したものは一切ありません。ですから「あその河原」の川 がなぜ秋山なのかさっぱりわかりません。ちゃんとした根拠を示さずに言っていることは 参考になりません。全て無視しましょう。それが真実を見極めるコツです。

(9)蛇足  (秋山川は鎌倉時代まで安蘇川と呼ばれていた。)
1)[角川日本地名大辞典(9)栃木県](1984年)の「安蘇の河原」の項に 『秋山川は鎌倉時代まで安蘇川と呼ばれていた。』(執筆者名無し)と書いてあったのには 驚きました。

しかしそんなことを書いてる史料見たこと無いし、有ったとすれば、鎌倉時代に書かれた史料 に、我々が知ってる秋山川周辺の地名が登場し、「そこを流れている川を安蘇川という」 と書かれてなければなりません。例えば「佐野の庄の天明駅を流れる安蘇川」と書かれた 鎌倉時代の史料がなければなりません。

2)そんな史料があるのか否か、栃木県立図書館さんにちょっと調査していただきました が、そもそも下野国について記した地誌自体が鎌倉時代には存在しなかった可能性があり ます。
その調査内容の一部を紹介しますと、
「[栃木県の地名 (日本歴史地名大系 9)](平凡社 1988)の「文献改題」(p.760-7 65)の「地誌類の系譜」の項に、以下のように書かれています。
『中世下野の様子は、聖護院道興の[廻国雑記](1487年下野旅)、連歌師宗長の[ 東路の津登](1509年旅)によってわずかに知られる。』」
だそうです。これらの史料は「安蘇川」にも「秋山川」にも触れておりません。

3)『秋山川は鎌倉時代まで安蘇川と呼ばれていた。』を解析すると、おそらく次のよう なことだと思われます。

[下野国誌]に書いてある「安蘇の河原の川とは秋山川のことである」という根拠の薄い話を 根拠にすると (註3) 、(4)の宇都宮頼綱(1172−1259年)の歌
   いしふまぬ−あそのかはらに−ゆきくれて−みかほのせきに−けふやとまらむ
は、秋山川を「安蘇川」と詠んだ歌であり、秋山川を「安蘇川」と詠んだ歌の中で、最も 遅い時代に詠まれたものである。そしてその時代とは、宇都宮頼綱(1172−1259年) の時代であるから鎌倉時代である。
と言うことで(「安蘇の河原の川とは秋山川のことである」を根拠にすると)『秋山川は 鎌倉時代まで安蘇川と呼ばれていた。』(従って安蘇川とは現在の秋山川のことである) となる。

[角川日本地名大辞典(9)栃木県](1984年)に『秋山川は鎌倉時代まで安蘇川と 呼ばれていた。』と書いてあるので、皆『秋山川は鎌倉時代まで安蘇川と呼ばれていた。 』(従って安蘇川とは現在の秋山川に間違いない)と信じきってます。

4)その後、栃木県立図書館さんから次の追伸がありました。
「[角川日本地名大辞典(9)栃木県](1984年)より前に発行された [栃木県大百科事典](1980年)の「秋山川」の項( 吉村光右 /執筆)に『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』とありました。」

しかし、平凡社の[栃木県の地名 (日本歴史地名大系 9)](1988年)に『中世下野の様子は、 [廻国雑記](1487年下野旅)、[東路の津登](1509年旅)によって わずかに知られる。』としかないのに、『秋山川は古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に 秋山川と名を変えた』などというそんな細かいことまで分かる史料があるとは到底思えません。

また[栃木県大百科事典](1980年)の『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に 秋山川と名を変えた』には、根拠となる史料の紹介がありません。
『根拠となる史料の紹介が無い』ということは、A.「紹介しなくても根拠となる史料を 誰でも知っている。」か、B.「推理を重ねて得た結論なので、根拠となる史料を簡単に 紹介できない。」の、いずれかでしょう。そして『古くは安蘇川と呼ばれていたが、 鎌倉期に秋山川と名を変えた』の場合は、A.ではないので、B.でしょう。

ところで、吉村光右氏は、平凡社の[栃木県の地名 (日本歴史地名大系 9)](1988年) 編集時には、「安蘇郡」や「佐野市」でなく「芳賀郡」の一部を執筆し、「安蘇郡」は 影山幹男氏が、「佐野市」は泉 正人氏が 執筆しています。
そして影山幹男氏が執筆した「安蘇郡」には「秋山川」の項目があり、それには『万葉集の <しもつけぬ−あそのかはらよ−いしふまず−そらゆときぬよ−ながこころのれ> に出てくる川を秋山川とする説がある。』とだけ有り、また泉 正人氏が執筆した「佐野市」 には「秋山川」「安蘇川」の項目は無く、最初の方に「秋山川(旧佐野川)」とあります。

影山幹男氏や泉 正人氏が[栃木県大百科事典](1980年)や[角川日本地名大辞典 (9)栃木県](1984年)の内容を知らずに平凡社の[栃木県の地名 (日本歴史地名大系 9)] (1988年)を執筆したとは到底考えられません。

ですから、影山幹男氏の言う『万葉集の<しもつけぬ−あそのかはらよ−いしふまず− そらゆときぬよ−ながこころのれ>に出てくる川を秋山川とする説がある。』は、 吉村光右氏の言う『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』は、 事実ではなく、単に吉村光右氏の説に過ぎないと言ってるものと思われます。

また泉 正人氏の「秋山川(旧佐野川)」の記述を解析しますと、「秋山川(旧佐野川)」 という書き方は、「現在の秋山川は、それほど遠くない昔(江戸時代?)には佐野川と 呼ばれていた確かな史料がある」という書き方と思われ、吉村光右氏の言う 「安蘇川から秋山川に名を変えた(鎌倉期に)」などという事実は無かったと言っているものと 思われます。おそらく泉 正人氏は吉村光右氏に遠慮して、直接的な否定を避けたものと 思われます。

つまり、吉村光右氏が[栃木県大百科事典](1980年)に書いた『秋山川は、 古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』という内容は、彼と同じく 平凡社の[栃木県の地名 (日本歴史地名大系 9)](1988年)の執筆者仲間である 影山幹男氏や泉 正人氏によって否定されたということでしょう。

5)上記の泉 正人氏の「秋山川(旧佐野川)」に関して、栃木県立図書館さんと 佐野市郷土博物館さんに調査して頂きました。

両者の調査結果から次のことが推測されました。
現在の秋山川は、江戸時代、佐野の町辺りでは「佐野川」とよばれ、葛生の町辺りでは 「秋山川」と呼ばれてたんだろう。
そして、明治時代になってから、川の名称が「秋山川」に統一されたようだ。
川の名が統一された年まではわからなかった(栃木県立図書館さんにも相談しましたが、 分かりませんでした)

(「川の上流では当時この川を「秋山川」と呼んだ可能性はありますが、 記録が少なく現在の資料では確認できません。
明治以降の地図には「秋山川」と表記されるようになり、名称が統一されたようですが、 明治初期の文書には「佐野川」が使用されているものもあり、名称統一の時期は不明です。」   以上佐野市郷土博物館さんからの情報)

(明治29年(1896年)に発行された[三鴨誌]の下記の文によれば、三毳山辺りでは 明治29年(1896年)頃まで現在の秋山川が佐野川と呼ばれていたことがわかります。)

「佐野川 : 水源は安蘇郡秋山村に発し、それより 佐野町の西を流れ、 同郡堺村大字馬門越名(まかどこいな、ここにかつて越名・馬門河岸があった)を経て・・・」

つまり、泉 正人氏の「秋山川(旧佐野川)」とは、佐野市辺りでは、明治時代に川の 名前が秋山川に統一されるまでは、「佐野川」と呼ばれていたってことです。

ということで、[栃木県大百 科事典](1980年)の「秋山川」の項( 吉村光右 /執筆)の 『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』は、全くのでたらめだと いうことです。

冗談ですが、
まさか「『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』のは、 葛生の町で呼ばれていた名前である秋山川の事である。」ってんじゃないでしょうね。
秋山川は、『水源は安蘇郡秋山村に発し』ですから、最初から秋山川という名前だったんです。 『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』なんてことはありません。

(蛇足の蛇足)
すいません。なぜこんなことを書くかは、あなたご自身でご想像下さい。
このWSのメールボタンを利用して、次のようなことを言って来た方がおられました。

  「室の八島の場所が現在よく分からないのは、過去において人為的に隠されたためだと思 います。(そのことを私と会って説明したい。)」

このメールに対して私は、次のように返事しました。
「貴方とお会いして説明を聞くつもりはありません。
それより、貴方がそのような結論に達した根拠とする史料名を教えてください。
その(それらの)史料から、貴方のおっしゃることが正しいか?否か?は、こっちで判断 します。」
それに対して、相手からの連絡がなく、やりとりは終わりました。
なお、このWSの後ろに「参考文献一覧」を載せておりますが、「室の八島の場所が人為 的に隠された」ということをほのめかす史料は一切ありません。
おそらく、彼が根拠とした史料の中には、「室の八島」という言葉は一切含まれていなか ったでしょう。もし含まれていれば、このWSの「参考文献一覧」に引っかかって来たで しょう。
この方のような結論の導き方をする人って、世の中には沢山いると思います。



みかもの山(三毳山)
   岩船山の名前を替えるわけにいかなかったので 
   大田和山の名前を「三毳山」に替えた?

   えっ 「三毳山」の三毳の字は漢字ではない?


和歌検索:キーワード「みかもの、みかほの、みかもやま、みかほやま」 和歌データペース
  しもつけの-みかものやまの-こならのす-まくはしころは-たかけかもたむ
  みかもやま-ならのうははに-おとつれて-かせわたるなり-あきのゆふくれ
  いしふまぬ-あそのかはらに-ゆきくれて-みかほのせきに(さきに)-けふやとまらむ

栃木県民は、万葉集に出てくる「みかもの山」を、現在の三毳山(みかもやま 【地図】
)のことであると理解して?教えられて?ますが、ホントにそうなんでしょうか?これか ら歴史的に検証します。

(1)[万葉集](700年代後期)
 巻14(東歌)下野國歌−3424
 之母都家野−美可母乃夜麻能−許奈良能須−麻具波思兒呂波−多賀家可母多牟
 しもつけの−みかものやまの−こならのす−まぐはしころは−たがけかもたむ

(考察)この歌「こならのす」以下の意味が断片でしかわかりません。全体を通した解釈 というのはありますが、とても素直に受け入れられるような解釈ではありません(これに ついて説明するのは面倒なんで、説明しません)。
 この歌からは、みかもの山が下野国にあるということはわかりますが、それ以上のこと はよくわかりません。なお、「みかもの山」なんていう名前の山は、幕末にこじつけられた 山以外現在の栃木県には存在しません。

(2)[延喜式]( えんぎしき、927年成立) [延喜式]
巻二十八 兵部省
「下野  駅馬    足利、三鴨、田郡(田部)、衣川、新田、磐上、黒川各十疋」 下野国の駅家

(3)[和名類聚抄](934年頃成立)
国郡部第十二 下野国
「都賀郡 布多、高家、山後、山人、田後、生馬、秀文([高山寺本]では委文) 、高栗、小山、三島、 駅家 ([高山寺本]には無い)」 都賀郡の郷

(考察)ここに挙がっている名前は、都賀郡内の郷の名前のようです。
「三島」は「三鴨」の誤記ではないかと考えられているようです。そして「三鴨」 は、延喜式]に出てくる「三鴨の駅」の在る郷のことのようです。
 さて「みかも」という土地が下野国に存在したことが推測できたので、万葉集の歌にあ る「みかもの山」の「みかも」が土地の名前なのか、山の名前なのかわからなくなってし まいました。
 「みかも」を土地の名前としてもその範囲がよくわかりませんので、万葉集の歌が、「 みかも」の地のどの山を指しているのかよくわかりません。
 また「みかも」を山の名前としても、その山が「みかも」という土地にあるとは限らな いんです。

「ふじの山」と言えば富士山を意味しますが、「佐野の山」と言っても佐野山を 意味しません、「佐野市にある山」を意味するでしょう。探せば佐野山と言う名前の山が どこかに在るかも知れませんが、その山は決して佐野市には存在しません(佐野川は全国 に有りますが、佐野山はどこにも無いかもしれません)。佐野山って、山の名前でなく、 落語に登場する江戸時代の力士の名前でした。

(4)藤原範光(ふじわらの のりみつ、1154− 1213年)
 みかもやま−ならのうははに−おとつれて−かせわたるなり−あきのゆふくれ

(考察)藤原範光は1172年−1182年の間の何年間か下野守だったことがあります。 その関係から『みかもやま』の歌を詠んでいるんでしょう。それは「みかもやま」の所在 を知っていて詠んだのではなく、単に万葉集(700年代後期)の『しもつけの−みかも のやまの−こならのす−まぐはしころは−たがけかもたむ』を参考にして『みかもやま』 の歌を詠んでいるだけなんでしょう。
万葉集歌「みかもの山」←→範光歌「みかも山」、
万葉集歌「こなら」の木←→範光歌「なら」の木、
これらの類似性から見て範光歌は万葉集歌の派生歌のようですね。

(5)[新和歌集](1260年前後)
宇都宮歌壇の歌集
(4)のように、下野人でない藤原範光が「みかもやま」の歌を詠んでいるというのに、 [新和歌集]の和歌872首の中に、「みかも」という名前の場所の歌は一首も有りませ ん。
ということは、「みかも」は和歌に詠まれるような場所ではなかったんでしょう。
そんな場所って分かるのかなあ。

(参考)[新和歌集]にある宇都宮頼綱(蓮生、1172−1259年)の歌
 いしふまぬ−あそのかはらに−ゆきくれて− みかほのせき に−けふやとまらむ

(考察)この『せき』とは 関所 のことなんだろうか?だとすると、「関所に泊まろう」と発想するのは何か変ですね。
 と言うことで、「みかほのせきに−けふやとまらむ」は「みかものえきに−けふやとま らむ」の誤写ではないでしょうか?そして、宇都宮頼綱が言ってる「駅」とは、 宿駅 のつもりなんじゃないでしょうか?

 この「みかほ」が一般化されて後世「みかほとは三顔の意味である」と説明されるよう になるんですから面白い。

 この歌の「みかほのせき」を「みかほのさき」と書いた 歌集もあります 。また「みかほ」は「みかも」の誤りだろうと書いた参考書もありますが、今となっては 確認できません。ここでは「みかほのせき」「みかほのさき」は[延喜式]にある「三鴨 の駅」のこととしておきます。

とすると、この歌が[新和歌集]の中で、唯一「みかも」を詠んだ歌と言うことになりま すが、 この歌の「みかも」がどういう代物であるかは、
同じ歌を取り上げた前の「あその河原」の節の(4)宇都宮頼綱の項の(考察)の 実は、この歌は 以下の文にある「あそのかはら」を「あそのかはら と みかも」と置き換えて考えればお分かりに なるでしょう。

時代が下って
(6)[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳
(けん=上巻)
「阿蘇川原美加保乃関 : 今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有 リ。
万葉十四
下野ノ−アソノ河原ヨ−石フマズ−ソラユトキヌヨ−ナガココロノレ
新千載
石フマヌ−阿素ノ河原に−行暮テ−美加保乃関(サキ)ニ−今日ヤトマラン
  裏書云、 [八雲御抄]  『美加ノ保ノ関 慈覚大師誕生之処也、三毳ノ山古キ名所也、有但馬国云々』」

坤(こん=下巻)
三毳山  :  [歌枕名寄] ニハ下野ノ名所ニ入
万葉十四
下野ノ−三カモノ山ノ−コナラノス−マクハシコロハ−タカケカモタン」

(考察)『阿蘇川原美加保乃関』の書き方から、この美加保乃関は、前 の(5)の宇都宮頼綱の歌の「みかほのせき」を指しているものと思われます。

・『今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ』は、「『美加保の関』は、足利から 佐野へ入る道に在る「みかも」のことか?」の意味と思われます。この当時、 『足利ヨリ佐野エ入道』に「みかも」という名の土地が在ったようです。
・また、『今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ』は、「『阿蘇川原 美加保乃関』は共に、足利から佐野へ入る道に在る「みかも」に在ったのか?」とも取れるので、 阿蘇川原の川と思われる川が「みかも」を、または「みかも」の近くを流れていたんでしょう。
・もし、阿蘇川原の川ではないかと思われる川が「みかも」の近くを流れていなかったら、 『阿蘇川原並美加保乃関 : 今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有 リ。』なんて 書き方はしなかったでしょう。

 これを読むと[下野風土記]の著者は、美加保と「みかも」は同じと考えたようです。 と言うことは、[下野風土記]の著者は、『美加保乃関』とは、「みかほの関所」か「み かもの宿駅」のことではないかと考えたんでしょう。だから、その場所は街道沿い に在って当然なんです(『三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ』)。

 また足利と佐野の間を渡良瀬川が流れていますので、[下野風土記]の著者は、渡良瀬 川を「阿蘇川原」の川ではないかと考えたものと思われます。

 この頃は、まだ美加保の関の所在は疑問符付きであり、「みかも」も現在の比定地とは 場所が違ってたようです。「みかも」の比定地が現在の「佐野市・栃木市岩舟町・栃木市 藤岡町の境界辺り」(の山)とされるのはもっと後のようです。

 また『三毳山』の説明の、『歌枕名寄ニハ下野ノ名所ニ入』は、「みかも山は[歌枕名寄 ]では下野の名所に入れられているが所在不明」という意味でしょう。
 当時『足利ヨリ佐野エ入道』にある「みかも」に 山は存在 しなかった んでしょう。現在は佐野市・栃木市岩舟町・栃木市藤岡町の境界に三毳山という名称の山 が存在しますが、この当時はまだ存在しなかったんでしょう。
 もし「みかも山」という名称の山が存在していれば「歌枕名寄ニハ下野ノ名所ニ入」などとい うまどろっこしい書き方はせず、直接「どこそこにあり」と書いたでしょう。


(7)作品集[室八島](1756年編集)
  江戸時代中期、栃木市藤岡町富吉 【地図】 に住んでいた女流歌人・石塚倉子(1686−1758年)の作品集。
この作品集の中に「みかもの山」「みかほの関」は登場せず。

(考察)石塚倉子が住んでいた栃木市藤岡町富吉は現在の三毳山 【地図】 の近く(東南東約6km)ですが、この作品集の中に、三毳山の近く(北東1.5km) にある 岩船山 【地図】 (富吉からの距離は、三毳山と同じく約6km)の名前は登場しますが、三毳山(山の名前 はいずれにしろ)は登場しません。 おそらく石塚倉子の時代、現在の三毳山はまだ 「みかも山」という名前ではなく、万葉集の「みかもの山」には比定されて いなかったんでしょう。

 [延喜式]に出て来る「三鴨の駅」が、現在の三毳山と岩船山とが在る辺りに在ったの ではないかとは、かなり前から考えられていたんだと思いますが、当時は「三鴨の駅」と 万葉集の「みかもの山」とが結びついてなかったようです(前の[下野風土記](168 8年編著)の段階でも、「みかもの山」と「みかほの関」とは結びついてなかったですね)。

(8)[許我志](1808年)
原 念斎 (はらねんさい、1774−1820年)編集
○三毳山
三毳(カモ)山ハ野州都賀郡大田和村ニアツテ、土民大田和山と呼ノトヤハリ一トツヅキ ナレド、 自ラ別ナルヨシ 。勿論サシタル山ニテハ有ラザル可ケレド、万葉集巻十四ニ、( 以下万葉仮名にルビ)シモツケノ−ミカモノヤマノ−コナラノス−マクハシコロハ−タカ ケカモタム。」

(考察)この、土地の人が「大田和(おおだわ)山」と呼んでる山が、今「三毳山」と 呼ばれている山の1808年当時の名称です。また次の[古河志]の文から推測して、 この[許我志]当時、この山は「みかほ(=三顔)山」とも呼ばれていたようです。
どうも大田和山(の北の峰)を万葉集に詠まれた「みかもの山」ではないか、と言ってるのは 一部の知識人だけのようですね。

と言うことは、[延喜式]に出て来る「三鴨の駅」の場所と万葉集に詠まれた「みかもの 山」の場所とが知識人の頭の中で結びついたということです。そして結びついた時期は、 女流歌人・石塚倉子(1686−1758年)の時代より後だろうということです。

おそらくかなり前から、[延喜式]にある「三鴨の駅」は、現在の三毳山と岩船山とが在 る辺りに在ったんだろうと推定されていたと思います。
[延喜式]に出て来る「三鴨の駅」に関してですが、官吏などの公用の旅行に供された駅 馬は一定の距離を走ると疲れてきますので、大昔の30里(今の約16km)間隔で馬を 交換する「駅」(駅家などとも)が置かれていました。それから考えると、古代の街道・ 東山道の下りで足利の駅の次の三鴨の駅は現在の三毳山と岩船山とが在る辺りに在ったん だろうということが推測されます。

   三毳山と岩船山との位置関係は、前の (7)[室八島] の地図参照

「みかもの山」の場所を現在の三毳山と岩船山付近に在ったのではないかと推定するため には、その前に「三鴨の駅」の場所を推定することが前提になると考えられます。

ところで、「万葉集に詠まれた”みかもの山”は今の”岩船山”ではないか?」と、なぜ 考えられなかったんでしょう。

それはおそらく、岩船山には775年に開基されたとされる有名な「岩船山高勝寺 (こうしょうじ)」が有り、ちゃんとした根拠も無く「岩船山高勝寺の有る岩船山はかつて 万葉集に詠まれた”みかもの山”でした」と名前を替えるわけにはいかなかったんでしょう。
それに対して、大田和山は『サシタル山ニテハ有ラザル』山なので名前を替えられても特 に問題は無いし、かえって万葉集に詠まれた山とされるなら、それは山にとって名誉だった んです。ですから現在、大田和山が三毳山に替えられても不平を言う人は一人もいないで しょう。大田和山を「みかもの山」にこじつけた人は、ほとんど後ろめたさを感じずに 気楽にこじつけてるんだと思います。 しわぶきの森の考察 参照

(9)[古河志](1830年作)
小出重固 (こいでしげかた) 編集
「巻之下 坤 已下(いか=以下)佐野郷」
以下の内容は。栃木県立図書館さんに調べていただきました。
  ※目次では「大田和山」ですが、本文中は「大田和村」です。
「○大田和村
大田和山は村の西辺に在り。背は近く安蘇郡也。所にてはみかほ山といへり。其故は三面 より見て同じさまなればなりと(つまり三顔山ってことね)。 山上にいささかのたわみあり。隔てゝ両社を斎(イハ)ふ。一つは権現 大田和権現也 一 社どうりやう権現也と。
・・・(参考にした本の二行省略)
一 [許我志]曰、三毳山ハ大田和村に在テ土民大田和山と云フ。
 万葉集巻十四 (万葉仮名にルビ)シモツケノ−ミカモノヤマノ−コナラノス−マクハ シコロハ−タカケカモタム
一 名所部類和歌集                     蓮乗
   下野や−あその河原に−行くれば−みかもの崎に−宿をかりなん
  ※〈頭書〉 蓮乗 は宇都宮弥三郎が法躰の名なり。
新千載には、石ふまぬ−あその河はらに−行・・・とありて、末は おなじ(かなり違うけどね)
[歌枕、秋寝覚] 等には「みかも山」も「みかほ」といふも見えず。
所のものゝいふには、此山の西の麓西浦村近く安蘇沼といふ有。其沼のへり、あそのかは ら成べしと。又或人は佐野の庄に那良淵(ナラフチ)といふ所あり。そこの河原をいへり ともいふ。いづれと定めがたし。
[許我志]に「みかも」といふ歌を引たるも疑なからずや。
・・・(以下省略)」

(考察)三毳山と言う名前は『[許我志]曰、三毳山ハ大田和村に在テ土民大田和山と云フ。』 の箇所にしか出てこないので、大田和山を三毳山と言っているのは[許我志]だけで、 土地の人は三毳山などとは言っていないという事でしょう。

この[古河志]を読むと、和歌に出て来る「みかほ」も「みかも」も同じものと考えられ ていたようなので、「三鴨の駅」が在ったろうと思われる辺りの山を、土地の人達は宇都 宮頼綱の歌を参考にして「みかほ山」と呼んだんでしょう。それより万葉集の歌を参考に して「みかも山」と呼んだ方が適当だったと思うんですが。

この[古河志](1830年作)を読むと、当時、現在の三毳山辺りに「みかも」 と呼ばれる場所は存在しなかったと考えられます。
なぜなら、和歌や文献の「みかも」「みかほ」に触れているにもかかわらず、「みかも」 という当時の場所に一切触れていないからです。また、もし三毳山辺りに「みかも」と呼 ばれる場所が存在したなら、小出重固がそれに触れずに、 『[許我志]に「みかも」といふ歌を 引たるも疑なからずや。』 と推測する必要は無いと考えられるからです。

 ところで、話が歌枕からずれますが、
現在、三毳山には三毳神社という神社(山麓の社 【地図】 と山上の祠 【地図】 )がありますが、この史料には出てきません。と言うことはつまり、当時三毳神社は存在 しなかったということです。

(10)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘 著
「三毳山(ルビを付け忘れたようです)駅
都賀郡にあり。[兵部式]に三鴨駅とあるも此所なり。[和名抄]にも(郷名の三鴨)あり。 山頂まで七・八町許(ばかり)の登りなり。東北面は下津原村(現、栃木市岩舟町下津原) と云、西面は西浦村(現、佐野市西浦町)、南面は太田和村(おおだわむら、現、栃木市 藤岡町大田和)とて三ケ村入会の地なり 【地図】 。ともに古は三鴨ノ郷なり(そんなこと分かるわけないだろ)。さて後に 三香保崎とよめるも此所にて、ミカホはミカモの訛(ヨコナマリ)なり( (5)宇都宮頼綱 の項で解析済み)
[万葉集]十四 東歌 下野国相聞往来歌
 志もつけぬ−みかもの山の−こならのす−まくはしころは−たかけかもたむ
・・・・・・(略)

[下野歌枕] の歌は省略します」

(考察)
(1)河野守弘は「大田和山」・「みかほ山」という当時の名前を隠し、「三毳山だ」と言ってます。 河野守弘はこういう重要な事実を隠す困った人です。{安蘇川原(アソノカハラ)}の項でも、 当時の「佐野川」という名前を隠したでしょう。

(2)一つ前の[古河志](1830年)の 記述 から判断して、[下野国誌](1850年)当時、現在の三毳山(みかもやま)辺りに 「みかも」と呼ばれる土地も山も存在しなかったと考えられます。

(3)ところで河野守弘が[下野国誌]を編集するにあたっては、[下野風土記]を参考にしていま す。[下野国誌]にある[補陀洛山建立記]は、[下野風土記]などを参考にして書いた と[下野国誌]に書いてありました。

ここで「三毳」という万葉仮名名は[下野風土記]の編著者が「みかも」という山や土地に充てて 創作した当て字ですから、現在の三毳山の「三毳」という万葉仮名は、[下野国誌]の著者・ 河野守弘が[下野風土記]から持って来たことは明らかです。

この「三毳山」っていう名前は傑作です。前記[下野風土記]に書いてありますように、 この名前は「こんな漢字を使った名前の山は実在しません」という名前なんです。 それを実在する大田和山(おおだわやま)に当てはめたんですから。

(4)河野守弘は、『[下野風土記]の「足利と佐野との間に三毳という場所がある」は、 著者が場所を間違えたんだろう。[延喜式]の三鴨の駅は現在の三毳山周辺にあったはずであり、 [下野風土記]にある三毳も現在の三毳山辺りの土地だったのを、著者が場所を間違えたんだろう』 と考えたんでしょう。

(5)ところで、[下野風土記](1688年編著)時代に存在した足利と佐野との間の三毳の 土地は、150年後の[下野国誌](1850年刊)時代にも存在したんでしょうか?
[下野国誌]に登場してきていないということは、それまでに他の土地に吸収されるなどして 名前が消えてしまったんでしょうか?字(あざ)や小字(こあざ)などの狭い土地 だったんでしょう。

(6)この[下野国誌]のように、根拠も示さずに「自分はこう思う」なんて資料は、全く参 考になりません。根拠として提示された資料だけが参考になるんです。[下野国誌]が「 自分はこう思う」でなく「・・・が真実である」という書き方をしていたから、だまされてここ に載せたまでです。[下野国誌]は、ここに取り上げる価値の無い資料です。ということで 、後ろの「遊行柳」の項では、[下野国誌]は参考史料としては取り上げておりません。

[下野国誌]は万葉集にある「みかもの山」を現在の三毳山としていますが、そこま で断定する証拠は無いでしょう。

歌枕の地を推定する上で極めて重要な基本事項は、まずその歌枕の地を特定できるだけ の情報が揃っているかどうかです。
万葉集に詠われた「みかもの山」が下野国の山であるというのは言ってよいでしょう。さ らに[延喜式](967年施行)に「足利の駅」に続いて「三鴨の駅」が記載されており、 また[下野風土記](1688年編著)に足利と佐野の間に三毳(みかも)という土地が あると書かれているので、「みかもの山」もその辺りに存在したのか? という程度のこ とは言ってよいでしょう
(これは「みかもの山」の「みかも」が山の名前であると限定できず、土地の名前かもし れないからそこまで言えるのです。)。

しかしそれ以上詳細な所在については今まで説明して来ましたように情報量不足で特定す ることは不可能です。そういうことを充分わきまえた上で述べないと、それは学問ではな く単なる空想遊びということになってしまいます。

 世間には、その歌枕の地を特定できるだけの情報が揃っていないにもかかわらず、そん なことにおかまいなく場所を特定している例が多々ありそうです。
 例えば、算数の問題が有って、「その答えは1から10の間にある」としか分かってい ないのにもかかわらず、「答えは3である」とか、「8である」とか答えるようなもので 、そんなの分かるわけないでしょ。この当たり前のことが、算数から離れたこのような歴 史の問題などになると、皆分からなくなるんです。

(7)現在の三毳山は和歌に詠まれるにふさわしい山だから万葉集の次の歌に詠まれたんだろう という人がいます。
   しもつけの−みかのやまの−こならのす−まぐはしころは−たがけかもたむ
しかし、『和歌に詠まれるにふさわしい山』にしては、三毳山に触れた和歌はこの一首し かないんです。しかも、歌詞をよく読んで下さい。和歌に詠まれるにふさわしい山だから という理由で「みかものやま」がこの歌に登場しているのではありません。単に「こなら 」だか「こならのす」だかの有る場所として「みかものやま」が登場しているにすぎない んです。こんなんで、「三毳山は和歌に詠まれるにふさわしい山である」などと言える訳 ないでしょ。

(8)[下野国誌]の「三毳山(ミカモヤマ)駅」の項には、上の文に続いて次の文 があります。

「[万葉集]十四 東歌 下野国相聞往来歌
 志もつけぬ−みかもの山の−こならのす−まくはしころは−たかけかもたむ
  下毛野    三毳      小楢 如   真細  子等  誰 気将持
契沖の[代匠記]に、『誰が男をかもたむ』と云う意といい、或人は『誰か気かもたむ、 我気ならでは』と云う意といえり。
小楢の如に、もし少女等の意あらば契沖のいいし如くなるべし。
また相聞と云うは、相思う心を互に告げ聞ゆるをかくいえり。後世に恋と云うにひとし。 されど[万葉集]には、親子兄弟の相したしむ歌をも載せてこと広し。
(これに続く[下野歌枕]の和歌は省略)」

 [下野国誌]のこの文を読むと、江戸時代には、この歌の解釈は簡単にはできなかった ことがわかります。また下句の『まくはしころは−たかけかもたむ』については、現在の 解釈内容とは全然違っていたようです。
 現在では、万葉集のこの歌の意味がさも分かってるかのように説明している参考書があ りますが、古語の知識が江戸時代よりそれほど上がったとも思えない現在、万葉集のこの 歌が正しく解釈できるようになったとは思えません。
 この項の最初に、「筆者にはこの歌の意味がよくわかりません」と言いましたが、分か らなくて当然なんです。

ところで、「アソノ河原」の歌の解釈はよく出来ていると思うのに、「みかもの山」の 歌の解釈はなぜ出来ないんでしょう? もしかしたら[万葉集]の「みかもの山」の歌の 歌詞には誤字が有って、それで解釈出来ないんではないでしょうか?
おそらく万葉集は、歌を詠んだ人と、その歌を万葉仮名で記録した人とが異なる例が多い でしょうから、聞き違えて文字化した例も有るんではないでしょうか?

(9)なお、[下野国誌]には、上記「三毳山」の説明に続いて、次の「三香保崎/関」の説明 があります。

「三香保崎(ミカホノサキ)関
(上記の「三毳山(ミカモヤマ)駅」と)同所なり。[八雲御抄]に、 三香保崎、慈覚大師誕生の地とあり。今下津原に大師の産湯あび給う跡とて 盥窪 (タライクボ)と云う所あり。烏丸光広卿の [日光山紀行] にもみえたり。
 さて此山の北より西に関川と云う流れあり。末は鯉名沼とて南北二十町、東西十五町許 の沼に入、江尻の流れは 安蘇川 に落ちるなり。
[新千載]旅 蓮生法師 [万代集]また[新和歌集]にも
 石ふまぬ−あその川原に−行くれて(ぬ、 藻塩草 )−みかほの崎(関)に−けふ(猶) やとまらん
(これに続く[下野歌枕]の和歌は省略)」

(11)三鴨村 三鴨村
(8)[許我志]の所で説明しましたように、「三鴨の駅」の場所は、幕末までには現在 の三毳山(みかもやま)の辺りに在ったんだろうと推定されていたと思います。この「三 鴨村」はそれを根拠にして誕生したんだろうと思われます。三鴨村が作られた当時、古代 の街道・東山道は三毳山の南を通っていたとする説があったようです。今でもあるようで す。

(12)[三鴨誌](1896年)
 三鴨村の白石信作 編集  [三鴨誌]は上記三鴨村の地誌です。
*栃木市藤岡歴史民俗資料館の石川様から[三鴨誌]をコピーして提供いただきました。 またその他色々教えていただきました。本当に有難うございます。

「○名勝
  三毳山 大字大田和字前山ニアリ・・・・」

(考察)[三鴨誌](1896年刊。[下野国誌](1850年)発行の46年後)時点 で、三鴨村の人・白石信作が「三毳山」と呼んでいるので、この頃までには[許我志] (1808年作)・[古河志](1830年作)に出て来る「大田和山」「みかほ山」と いう名前はあまり使われなくなっていたんでしょう。既に[許我志]・[古河志]時点で 「みかも山」の名前を受け入れる準備は出来ていたので、[下野国誌](1850年刊) が言う三毳山(みかもやま)という名前と万葉仮名を受け入れるのに抵抗はなかったんでしょう。

『○名勝 三毳山・・・』の内容からは、新しい知識は得られませんでしたが、「○神社  三毳神社・・・」から「三毳神社」のことがかなり分かってきました。

「三毳神社」については、筆者は以前から次のように推測していました。
1)[古河志](1830年作)の「大田和山(村)」の項に出て来る「大田和権現」が 、後に「三毳神社」に変わったんだろう。
2)[下野国誌](1850年刊)が現在の三毳山に使い始めた「三毳」の漢字を、この 神社が使っているので、「三毳神社」に変わったのは[下野国誌](1850年刊)以降 だろう。

更に[三鴨誌]から次のことがわかりました。
3)『祭神ハ日本武尊』(三鴨誌)

(考察)明治政府の「国家神道」政策によって、この神社の祭神が神仏習合時代の神・  ××権現 から記紀神話の神・日本武尊に変えられたものと考えられます。[古河志](神仏習合時 代の1830年作)当時の大田和権現(神社名)の祭神は 大田和権現 (神名)だったと考えられます。
2020年にインターネットで調べたら、現在の祭神は天香香背男命(あめのかがせお: 別名は天津甕星あまつみかぼし、『日本書紀』に登場する神)だって、いつまた 替えられたんでしょう。

4)『明治六年郷社ニ列セラレシ所同九年故アリテ故ノ如ク村社ニ復サレタリ』(三鴨誌)

(考察)『村社ニ復サレタリ』から察すると、この神社の社格は村社→郷社(1873年 )→村社(1876年)と変化したようです。
そして最初に村社に指定された時のこの神社は、「大田和権現」だったんでしょう。
それが『明治六年(1873年)郷社ニ列セラレシ』時、すなわち社格が村社から郷社に 上がった時に、この神社に大きな変化があったんでしょう。おそらくこの時に、明治政府 の「国家神道」政策によって祭神を替えられ、その際に 神社名を変更 したんでしょう。
すいません。1876年に故(もと)の村社に降格された故(ゆえ)はわかりません。

この事件は[三鴨誌](1896年)が編集される23年前の出来事ですから、編集者・ 白石信作はその辺りの事情を知っていたんです。しかし[三鴨誌]にずらずら転写した 三毳神社の由緒書き では「三毳神社は大昔から存在した」ことになっていますので、「1873年以前は大田 和権現だった、また祭神も違っていた」とは書けなかったんです。

ところで、三毳山以外に「三毳」と付く場所は存在しませんから、三毳神社の「三毳」は 三毳山の「三毳」から付けられたんでしょう (神社名につ"いて) 。と言うことは、[下野国誌](1850年刊)発行の僅か23年後(1873年)には 、現在の三毳山は三毳山と呼ばれていたんでしょう。[下野国誌]が言う「三毳山」の名 前が、かなりすんなり受け入れられたようです。

(13)[上代歴史地理新考]−東山道・附風土記逸文註− (1943年刊)
井上通泰(1867−1941年)著、三省堂
「下野國
・・・・・
一説に今の三毳山は本名大多和山にて、ミカモ山は今の岩舟山 【地図】 なりと云へり。
・・・・・」

(考察)そうです。戦前(戦中?)には「みかもの山=岩船山」説も有ったんです。 大田和山を万葉集に詠まれた「みかもの山」であるとするには根拠が薄弱なんで、このよ うに大田和山以外の山を「みかもの山」ではないかとする説が出て来て当然なんです。

(14)[栃木県岩舟町畳岡遺跡発掘調査報告書] (1976年)
     栃木県教育委員会編集
[延喜式]に出て来る三鴨駅は、「駒場(こまば)」や「馬宿(うまやど)」という地名 (「駒場」は牧場、「馬宿」は厩舎の在った土地の名前ではないでしょうか?)からの推 定や畳岡遺跡発掘調査結果から、現栃木市岩舟町の「新里(にっさと)」から「畳岡(た たみおか)」にかけての辺り 【地図】 に比定されているようです。異論もあるようですが。

(15)三杉川盆地窯跡群 (註4)
   栃木市作成の『栃木市歴史的風致維持向上計画』(PDF有り)参照

三毳山の北側を南北に流れる三杉川 【地図】 『地図』に沿って盆地がありますが、その東西の山麓に、 2004〜5年頃(?)37箇所の古い窯跡が発見されたようです。 西暦600年代末頃に創建されたと考えられる下野薬師寺には、この「三杉川盆地窯跡群」で 製造された瓦が使われたと推測されているようです。

ところで、[万葉集](700年代後半) の
 しもつけの−みかのやまの−こならのす−まぐはしころは−たがけかもたむ
の「みかも」を山の名前とすると、「みかもの山」が下野国のどこに在ったかわかりませ ん。
もし「みかも」を集落(を含む村域)の名前とすると、「みかも」の集落は三杉川盆地に 在った可能性が有ります。 その場合「みかもの山」は、三杉川盆地の東の岩船山?西の山?南の三毳山?北の山?  今までの情報から判断できるでしょうか?
なお 窯跡の多さから見て、みかもの集落の人達にとっての身近な山は、東の岩船山か、 西の山ですね。決して南の三毳山ではありません。

また、「岩船山高勝寺」(奈良時代の771年に開山とのこと)は、なぜ岩船山に 作られたんでしょう。その理由は分かりませんが、「みかもの土地を代表する山」といったら 岩船山だったからではないでしょうか? そう考えると、[万葉集]にある「みかものやま」とは 岩船山の事ではないでしょうか?

ところで[下野国誌](1850年刊)は、『東北面は下津原村と云、西面は西浦村、南面は 太田和村とて三ケ村入会の地なり。ともに古は三鴨ノ郷なり』と言ってますが、「三杉川 盆地古窯跡群」の調査結果から、『ともに古は三鴨ノ郷なり』なんて言う根拠は全く有り ません。[下野国誌]の著者・河野守弘のいい加減なこじつけに他なりません。

「みかものやま」についてのここまでの解析結果から、万葉集の歌の「みかものやま」の「みかも」 を山の名前としても、土地の名前としても、『現在の三毳山が万葉集に詠まれた「みかものやま」 である』とするには大いに疑問があるということです。

(16)大前製鉄遺跡群 『地図』
   栃木市作成の『栃木市歴史的風致維持向上計画』(PDF有り)より転載

「藤岡地域では 大前製鉄遺跡群と呼ばれる22箇所の製鉄遺跡が存在する。県南地域の 拠点的な製鉄遺跡で、鉄生産と鍛冶(鉄器生産)を窺わせる。時期は9世紀前半から 10世紀中葉と思われる。三毳山麓窯跡群と大前製鉄遺跡群は時期がほぼ同じで近接するため、 同じ勢力(経営者)であったと推察されている。」

「三杉川盆地窯跡群」で製造された瓦は、西暦600年代末頃に創建されたと考えられる 下野薬師寺で使われたと推測されているんです。
ところが、 大前製鉄遺跡群の時代は、800年代前半から900年代中葉で、時代が 違うでしょう。なに馬鹿なことを言ってるんだ。

これは 飛鳥時代〜奈良時代の頃 三杉川盆地に在った集落が、平安時代の頃には  三毳山の南に移動したと考えるのが素直だろう。

みかもの山」の項の最後に
(17)[下野風土記]の「足利より佐野へ入る道に三毳有り 」 の謎と編著者の謎
栃木県立図書館などに調べて頂きましたが、どうも、 [下野風土記] (1688年)の 「足利より佐野へ入る道に有る三毳」について、実際に存在したのか?足利と佐野の間の どこに存在したのか?などを調べた人は、過去にいないようだ。
「足利より佐野へ入る道に三毳有り」の謎

そして、もう一つの謎は、「下野風土記(1688年)の編著者は誰か?」です。

それを考えるヒントは、
1)足利と佐野との間の街道沿いにある「みかも」という狭い土地の名前を知っていた 人物である。ということは、佐野か足利の人間だろうということです。
2)「佐野より足利へ入る道」でなく、「足利より佐野へ入る道」と言ってることは、こ の人物は佐野の人間でなく足利の人間だろうということです。
3)と言うことで、[下野風土記]の> 編著者は、1688年頃活躍していた足利の知識 人だろうと思われます。

(ところが、「この考えは間違いだろう」と 後日の解析によって気が付いた。なぜなら [下野風土記]の 編著者は、足利と佐野との間の街道沿いにある「みかも」という土地の 漢字名を知らなかったので、足利や佐野の人間ではないだろう と気付いたからです。)

なお、足利市立図書館さんに次の資料を調べていただいた結果、「下野風土記(1688年) の編著者」に該当しそうな人物は、足利の歴史に見当たらないという結論でした。

『足利人物風土記』 足利市教育委員会 1993年11月発行
『足利市史 上巻の一』 関東史料研究会 1977年11月発行
『日本民俗学 下 歴史編 随筆編』中山太郎/著 大岡山書店 1931年発行

さあ困った、どうやって調べよう。


二荒の山(ふた(あ)らのやま)
和歌検索:キーワード「ふたら、ふたあら」 和歌データペース

  たまくしけ-ふたらのやまの-つきかけは-よろつよをこそ-てらすへらなれ
  きみもこす-ひともとはすは-しもつけや-ふたあらのやまと-われやなりなむ

以下に紹介する和歌が、何を、または何処を詠んだものなのかを知るには、ちょっと宗教 的なことを知っとく必要があるので、 日光の寺社の歴史 を簡単に説明しておきます。

(1)[古今和歌六帖] [古今和歌六帖] 、こきんわかろくじょう、976−982年?)
 読人しらず(喜撰?)
 下野や−ふたごの山の−ふたごころ−ありける人を−たのみけるかな

(考察)この「ふたごの山」は「ふたらの山」の誤りとする説が有力です。
「ふたごの山」ではなく「ふたらの山」でも、<・・ふたらの山の ふたごころ・・>と 続けられそうに思うんですが。

(2)[能宣集]
 大中臣能宣 (おおなかとみ の よしのぶ、921−991年)
 ふたらの山、やしろあるとまへに旅人多く行く、月いでたり
 たまくしけ−ふたらのやまの−つきかけは−よろつよをこそ−てらすへらなれ

(考察)この歌の「ふたらの山」は男体山のことでしょうか?そして社のある場所は、『旅 人多く行く』と言ってるんですから、これは、今の「 日光山内 」でしょうか?

(3)能因法師能因 、のういん、988年−1050or1053年)
1)[能因法師集]
 きみもこす−ひともとはすは−しもつけや−ふたあらのやまと−われやなりなむ

(考察)「きみもこす」とは「君も越す」?、男体山を越す?まさか!「ひともとはすは 」は「他人も問わずば」? すいません、歌の意味がよくわかりません。

2)[能因歌枕]
「下野國
ふたご山、きぬがは、中つかさの宮、いほのぬま、まゆみの杜」

(考察)[能因歌枕]の「ふたご山」は「ふたらの山」の誤写の可能性があります。中つ かさの宮、いほのぬま、まゆみの杜の所在については全く分かっていないようです。

(4)[新和歌集](1260年前後)
 [新和歌集]は下野から常陸にかけての歌人によって構成された宇都宮歌壇の 和歌集ですが、京都、鎌倉在住の歌人の歌も含まれているようです。

 権律師謙忠(ごんのりっし かねただ)
 日光にて神祇の歌よみける中に
 世を照らす−日の光こそ−のどかなれ−神の名におふ−山のかひより

(考察)この「日光」とは、中禅寺湖畔にあった中禅寺のことでしょうか?それとも麓に ある現「日光山内」のことでしょうか?この頃までには、二荒山の二荒を音読みして、「 にっこう(日光)」と呼ぶようになっていたんでしょう。なお漢字「日光」の初出は、1 138年作成の大般若経の奥書のようです。
「神様の有名な山」の神様って、この時代の神様は「二荒山大神」かな?それとも 「日光権現」 という神様かな?

(5)[廻国雑記](1487年下野旅)
 道興准后 (みちおきorどうこう じゅごうorじゅんこう、1430−1501年?) 著
「日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。
 雲霧も−およばで高き−山のはに−わきて照りそふ−日の光りかな

 此の山にや、 やますげの橋 とて深秘の子細ある橋侍り。くはしくは縁起にみえ侍る。又 、顕露(あらは)に記し侍るべきことにあらず。
 法の水−みなかみふかく−尋ねずば−かけてもしらじ−山すげの橋

 瀧の尾 と申し侍るは無隻の霊神にてましましける。飛瀧の姿目を驚し侍りき。
 世々をへて−給ふ契りの−末なれや−この瀧の尾の−瀧のしら糸

 この山の上三里に 中禅寺とて権現ましましけり 。登山して通夜し侍る。今宵はことに十三夜にて月もいづくに勝れ侍りき。 渺漫 たる湖水侍り。歌の浜 【地図】 といへる所に紅葉色を争ひて月に映じ侍れば、舟に乗りて、
 敷島の−歌の浜辺に−舟よせて−紅葉をかざし−月をみるかな

 翌日中禪寺を立出ける道に、かつ散りしける紅葉の朝霜のひまに見えければ、先達しける 衆徒長門の竪者といへる者にいひ聞かせ侍りける。
 山深き−谷の朝霜−ふみ分けて−わがそめ出だす−下もみじかな

 かくして、下山し侍りけるに、黒髪山の麓を過ぎ侍るとて、われ人いひすてどもし侍り けるに、
 ふりにける−身をこそよそに−厭ふ(いとう)とも−黒髪山も−雪をまつらむ

 おなじ山の麓にて、迎へとて馬どもの有りけるを見て、
 日数へて−のる駒の毛も−かはるなり−黒かみ山の−岩のかげ道
(以下省略)

(考察)『日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。・・・此の山にや、 やますげの橋とて・・・侍り』とあるところから、この『日光山』『二荒山』とは男体山 のことではなく、現在の「日光山内」のことのようですね。
 道興准后は奥日光の中禅寺湖畔までは登っているようです。

道興准后が中善寺湖畔まで登った理由はおそらく、一つは「中善寺湖畔に中善寺という立 派な伽藍があったんでしょう。」もう一つは「中善寺までは比較的整備された道路が有っ たんでしょう。( [下野国誌]の黒髪山の項 参照)」

(6)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘 著
「二荒山(フタラヤマ)
日光山 の古名にて、もと補陀洛山なるを、歌にはふたら山とよみ来たれり。委しくは、下の仏寺 部の 日光山の条 に記したり。」

(考察) 「二荒山(フタラヤマ)」は「日光山の古名にて」は、おそらく真実なんでし ょう。
しかし、「もと補陀洛山なるを」こういうのは後世の大嘘と考えておけばまず間違いない でしょう。日本人は由来の分からない地名の由来を探るのが大好きなようですが、もうい い加減に止めてはどうですか、由来の分かっていない地名の由来なんてわかりようがあり ません。そしていかようにもこじつけできます。
 栃木市の栃木という地名は地元の神明宮の屋根にある十個の千木(ちぎ)から来たって ?これは江戸時代に言い始められた単なる冗談でしょう。栃木という名前は、神明宮が作 られる前から存在した、現在の栃木市内のどこか狭い土地の名前だったのでしょう。

 二荒山(フタラヤマ)については『委しくは、下の仏寺部の 日光山の条 に記したり。 』ということは、河野守弘は、「二荒山とは、男体山のことではなく、日光に在るお寺群 (神社も含むんでしょうけど)を言う」と言ってます。(2)[能宣集]の大中臣能宣( 921−991年)の歌の「ふたらの山」は男体山を意味してたと思われますが、[下野 国誌]時代の二荒山(フタラヤマ)は、日光の寺社群を意味するように変わったんですね 。



黒髪山
和歌検索:キーワード「くろかみやま」 和歌データペース

  たひひとの−ますけのかさや−くちぬらむ−くろかみやまの−さみたれのころ
  うはたまの−くろかみやまに−ゆきふれは−なもうつもるる−ものにそありける
  うはたまの−くろかみやまの−いたたきに−ゆきもつもらは−しらかとやみむ

(1)柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、660年 頃−720年頃) 柿本人麻呂
・[柿本集]
うはたま の−くろかみやまの−やまくさに−こさめふりしき−ますますそおもふ
 うはたまの−くろかみやまを−あさこえて−やましたつゆに−ぬれにけるかも
・[万葉集](600年代後半−700年代後半)
 ぬはたまの−くろかみやまの−やまくさに−こさめふりしき−しくしくおもほゆ
 ぬはたまの−くろかみやまを−あさこえて−やましたつゆに−ぬれにけるかも

(考察)この頃の黒髪山は奈良県の佐保山丘陵の山 【地図】 、あるいは 岡山県新見市の山 【地図】 とする説が有力です。柿本人麻呂のこれらの歌は、「−くろかみやまを−あさこえて−」 と有るところから、奈良県の黒髪山でしょう。

(2)[堀河百首](1105年)
・藤原公実(ふじわらのきんざね、1053−1107年)
 たひひとの−ますけのかさや−くちぬらむ−くろかみやまの−さみたれのころ
・源俊頼(みなもとのとしより(-しゅんらい)、1055−1129年)
 うはたまの−くろかみやまに−ゆきふれは−なもうつもるる−ものにそありける
・隆源(りゅうげん、1086−1105年頃の歌人)
 うはたまの−くろかみやまの−いたたきに−ゆきもつもらは−しらかとやみむ
・源師時(みなもとのもろとき、1077−1136年)
 うはたまの−くろかみやまを−あさこえて−やましたゆきに−ぬれてけるかな

(考察)隆源の歌の「黒髪山の頂」をみると、この山は男体山のような気もしますが、源 師時の歌の「黒髪山を朝越えて」をみると、これが男体山とは思えません。これらは皆同じ 山なんでしょうか、それとも異なる山?

なおウィキペディアによれば、下記の黒髪山が存在するようです。
・黒髪山 (奈良県) - 奈良県奈良市にある山。
・黒髪山 (岡山県) - 岡山県新見市にある山。標高648m。
・黒髪山 (佐賀県) - 佐賀県武雄市・有田町の市町境にある山。標高516m。
・立田山 (熊本県)の別称。
・男体山の別称。

(3)[新和歌集](1260年前後)
 [新和歌集]は下野から常陸にかけての歌人によって構成された宇都宮歌壇の 和歌集ですが、京都、鎌倉在住の歌人の歌も含まれているようです。

 仙風法師
 白雪の−消えぬかぎりは−烏羽玉の−くろかみ山も−名のみなりけり

(考察)遅くともこの頃までには男体山が黒髪山と呼ばれていたようです。

(4)[廻国雑記](1487年下野旅)
 道興准后(1430−1501年?)著
「日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。
 ・・・・・・
黒髪山の麓を過ぎ侍るとて、われ人いひすてどもし侍りけるに、
 ふりにける−身をこそよそに−厭ふとも−黒髪山も−雪をまつらむ
おなじ山の麓にて、迎へとて馬どもの有りけるを見て、
 日数へて−のる駒の毛も−かはるなり−黒かみ山の−岩のかげ道」

(5)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘 著
「黒髪山(クロカミヤマ)
 都賀郡(今、上都賀郡)日光山の奥にあり。当国第一の高山にて、遥かに武蔵・下総・ 常陸等の国々よりも見ゆるなり。世俗は男体山とも呼なり。

 日光山の入り口・鉢石街より 中禅寺 まで、今道三里許あり。その中途馬返村 【地図】 と云所まで二里許の間は牛馬の往返あり。それより上の一里許は急にして馬足たたず。
 また中善寺より黒髪山の絶頂までは三里許にて、険阻なり。これは毎年七月七日に四十 八日の垢離して登山するのみなり。・・・」

(考察)『世俗は男体山とも呼なり』っていうことは、「世俗は黒髪山とも男体山とも呼ぶ 」っていうこと?何かすっきりしないね。
いや、河野守弘が言う『世俗は男体山とも呼なり』っていう意味は、「世俗は男体山と呼 んで、黒髪山とは呼ばない」っていうことです。



山菅の橋(やますげのはし) 山菅山菅の橋
和歌検索:キーワード「やますけANDはし」 和歌データペース

  おいのよに-としをわたりて-こほれなは-つねよかりけり-やますけのはし
  おいのよに-としをわたりて-こほれぬは-ねつよかりけり-やますけのはし
  おひかせに-としをわたりて-こほれねは-いねよかりける-やますけのはし

(1)808年
下野国司橘利遠が朝命により本宮神社の社殿を建立し、また山菅の橋(山菅橋、山菅の蛇 橋)を架けて往来の便に供す。
(出典)日光市のウェブサイト

(考察)或るウェブサイトに、
「[堂社建立記](龍光院天祐 著、1691年)には
大同三年(808年)下野国司橋利遠が勅によって新たに架替え、以後一六年に一度架替 えられたとある。当初は板橋で、寛永一三年(1636年)東照宮の造替に際し架替えら れ、石造橋脚を用いた現在の形状となった。・・・」と有りますが、すいません、筆者は この史料を知りません。

(2)[転法輪抄](てんぽうりんしょう)
1161年から1203年に至る 澄憲 の作品を主とし、その子聖覚(せいかく、1167−1235年)の編述であるとされて います。

日吉大宮橋殿供養表白
日本国名所大橋は、みな 大権菩薩 が作るところなり。 摂州 長柄橋行基菩薩 これを造る。 山崎の橋 は十一面観音の化身これを渡す。下野二光山山菅の 橋は、河深さ一十七丈(約50m、現在水面までは10.6m)、更に柱を立つこと なし。 二光権現 、巌を彫り、穴を作り、 これによって彼の橋を構え 、これを造る。」

(3)[歌枕名寄](うたまくらなよせ、1303年 頃)
巻廿六:東山道五
6830おいのよに−としをわたりて−こほれなは−つねよかりけり−やますけのはし
巻外:未勘国下
9717おひかせに−としをわたりて−こほれねは−いねよかりける−やますけのはし

[夫木抄](1310年頃)巻廿一:雑三
9466おいのよに−としをわたりて−こほれぬは−ねつよかりけり−やますけのはし

(考察)元々は同じ歌を筆写しているはずなのに、それぞれの歌で言葉が少しずつ違って るでしょう。このように、昔の人だって手書きのくずし字はまともに判読できなかったん です。ですから筆者(この私)なんかに判読出来る訳ないでしょ。

(4)[廻国雑記])(1487年下野旅)
 道興准后(1430−1501年?)著
「日光山にのぼりてよめる。また昔は二荒山といふとなむ。
 ・・・・・・
此の山にや、やますげの橋とて深秘の子細ある橋侍り。くはしくは縁起にみえ侍る。ま た顕露(あらは)に記し侍るべき事にあらず。
 法の水−みなかみふかく−尋ねずば−かけてもしらじ−山すげの橋」

(5)[東路の津登]津登=土産(1509年旅)
 柴屋軒宗長 著
「爰處より九折なる岩にも傳ひて攀上れば、寺のさま哀れに、松杉雲霧まじはり、槇檜原 のみね幾重ともなし、左右の谷より川流れ出たり。落合ふ所の岩のさきより橋あり。長さ 四十丈 にも餘りたらん。中をそらして柱も立てず見えたり。山菅の橋と昔しより云ひ渡り たるとなん。此の山に小菅生ふると萬葉にあり(この歌見つかりませんでした) 、故ある名と見えたり。」

(6)[日光山志](1824年 序)
植田孟縉 著
「神橋(ミハシ)・・・勝道上人の山菅の(蛇)橋の故事の部分は省略・・・
上世當國の國司橘利遠が、勅を奉じて板橋に造立せしは大同三年(808年)の事にて、 夫より星霜を經ること凡八百有餘歳にして、大神祖君御鎭座以後、寛永六己巳(つちのと のみ、きし)年(1629年)御修造を加へ給ふ、同十三丙子(ひのえね、へいし)年( 1636年)新規に御造立の結構は、長拾四間、幅三間、左右前後の欄干ともに總朱塗、 擬寶珠滅金、其餘手摺かなもの皆同じ、橋の裏板行桁は黒塗、兩方の入口に欄楯を設け、 金鎖して通行を禁じ給ふ、兩岸に大石を削て柱となす、萬代不易の石柱なり、・・・」

(考察)鎌倉時代に書かれたと考えられている[補陀洛山建立修行日記]中には、「下毛 野国司利遠」の名は登場しますが、彼が山菅の橋を改修したという話はでてきません。下 野国司・橘利遠が山菅の橋を改修したという史料はどの史料なんでしょう?

(7)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘 著
「山菅ノ橋(ヤマスゲノハシ)
日光山の入口にあり。今は神橋(ミハシ)と唱うるなり。その下の流れは大谷川といふ。 中禅寺の湖より落て、末はきぬ川に入なり。[八雲御抄]に、下野の山菅橋とあり、[枕 草子]に『山菅の橋名をききたるおかし』とあり。さて橋長は十四間許(約28m、現在 も28mです)にて朱塗りなり。・・・」



那須(なす)
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  もののふの-やなみつくろふ-こてのうへに-あられたはしる-なすのしのはら
  しもつけや-なすのゆりかね-ななはかり-ななよはかりて-あはぬきみかな
  あふことは-なすのゆりかね-いつまてか-くたけてこひに-しつみはつへき
  みちおほき-なすのみかりの-やさけひに-のかれぬしかの-こゑそきこゆる

 那須郡大田原の辺りより、陸奥の国境までをなべて那須野原と云うなり。[下野国誌] より。

(1)[能宣集]
 大中臣能宣(921−991年)
 世の中を 思へば苦し 忘るれば えも忘られず 誰も皆 同じみ山の 松が枝と 枯 るる事なく すべらぎ(天皇)の 千代も八千代も 仕へんと 高き頼みを 隠れ沼の  下より根ざす あやめ草 あやなき身にも 人並に かかる心を 思ひつつ 世に降る雪 を 君はしも 冬は取り積み 夏はまた 草の蛍を 集めつつ 光さやけき 久方の 月 の桂を 折るまでに 時雨にそぼち 露に濡れ 経にけむ袖の 深緑 色褪せ方に 今は なり かつ下葉より 紅に 移ろひ果てん 秋に会はば まづ開けなん 花よりも 小高 き陰と 仰がれん 物とこそ見し 塩釜の うら寂しげに なぞもかく 世をしも思ひ  那須の湯 【地図】 の 滾る(たぎる)故をも 構へつつ 我が身を人の 身になして 思ひ比べよ百敷に  明かし暮らして 常夏の 雲居遥けき 皆人に 遅れてなびく 我もあるらし

(2)[金槐集]
 源実朝 (みなもと の さねとも、1192−1219年)
 もののふの−矢並つくろふ−こてのうへに−霰(あられ)たばしる−那須の篠原

(3)[歌枕名寄](うたまくらなよせ、1303年 頃)
・三宮
 しもつけや−なすの ゆりかね −ななはかり−ななよはかりて−あはぬきみかな
・中務卿親王(?宗尊親王(むねたかしんのう)、1242−1274年)
 あふことは−なすのゆりかね−いつまてか−くたけてこひに−しつみはつへき

(4)[夫木和歌抄] [夫木和歌抄] 、ふぼくわかしょう、1310年頃)
 藤原信実(ふじわらののぶざね、1177−1265年)
 道おほき−那須の御狩(みかり)の−矢さけびに−のがれぬ鹿の−こゑぞ聞ゆる

(5)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘 著
「那須野 淘汰金(ユリカネ) 温泉(イデユ)
那須郡大田原の辺りより、陸奥の国境までをなべて那須野原と云うなり。その西北の方に 那須嶽と云山ありて、麓に温泉あり。その所に殺生石 【地図】 と云う毒石あり。・・・」



(註1) 今のように観光開発の進んでいない当時、歌枕は 本来の意味どおり昔から和歌に詠まれ た名所だったんです。

木沢から
木沢 : 現小山市喜沢 【地図】
当時、江戸の町の人達にはおおよその室の八島の場所は知られていましたが、栃木宿の場 所なんかはあまり知られていなかったんでしょう。
ですから、栃木宿を通って室の八島に行くという発想は無く、室の八島は壬生の城下町の 近くに在るという感覚で捉えられていたんでしょう。だから、芭蕉は栃木宿を経由せずに 室の八島に来てるんです。
 小山市喜沢→栃木市惣社町の大神神社→壬生町

[曾良旅日記](1689年旅)
日光へ行くなら日光街道(小山−宇都宮−日光市今市−日光)を通るべきでしょうが、芭 蕉らは、小山−飯塚−室の八島−壬生−鹿沼−日光市今市−日光 というコースを取り ました。室の八島は、芭蕉がぜひ寄りたかった歌枕だったようです。
→[曾良旅日記]


東照宮
江戸時代は神仏習合で、現在の輪王寺・東照宮・二荒山神社などは、ひっくるめて一つの 「寺」扱いだったと思います。東照宮が独立した神社になるのは、明治時代の神仏分離令以降 だと思います。


許されませんでした
そして、参拝者(=堂者(どうじゃ/どうしゃ):正式には修行者のことのようです)は 、裃(かみしも)を着けなければ、入れなかったようです。

















【目次】 トップページ 室の八島の歴史の概
要 平安室の八島 中世室の八島 近世室の八島 近代/現代室の八
島 【索引】 メール