あその河原
秋山川である インターネットで調べると、「あその河原」の川とは「秋山川である」と言うのばかりで なく、「秋山川か?旗川か?」や「秋山川か?渡良瀬川か?」という考えもあり、「あそ の河原の川とは秋山川である」という説ばかりではないようです。 [万葉集] 日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分 の人々が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、759年までの約130年間の歌が 収録されており、体裁が整った成立は759年以後の、780年頃にかけてとみられてい る。 蛇足 「しがらみ」調査 1.弥生時代の遺跡 2200年前の環濠集落 滋賀県守山市の下之郷遺跡 しがらみ杭 「しがらみ」とは、川や溝に杭を打ち込み、杭に木や竹を横にとりつけて水の流れをせき止めるものです。 下之郷遺跡でも東側の環濠や、環濠の外側にある居住区の大溝の中にしがらみ杭が見つかっています。 居住区の大溝で見つかったしがらみ杭は、11本と4本の2列の木杭列が大きな溝を横断する形で設けられていました。 これにより、ここ溝には水があったことわかります。 しがらみは水位の調整や貯水などの役割を果たしたものと考えられます。 2.和歌 柿本集(※700年前後) あすかかは−しからみわたし−せかませは−なかるるみつも−のとけからまし 万葉集・武田訓(744〜759年) あすかかは−せせにたまもは−おひたれと−しからみあれは−なひきあはなくに 万葉集・武田訓(744〜759年) わきもこに−わかこふらくは−みつならは−しからみこえて−ゆくへくそおもふ 万葉集・武田訓(744〜759年) たまもかる−ゐてのしからみ−うすみかも−こひのよとめる−わかこころかも 古今集(905年) あきはきを−しからみふせて−なくしかの−めにはみえすて−おとのさやけさ 古今集(905年) やまかはに−かせのかけたる−しからみは−なかれもあへぬ−もみちなりけり (しがらみがいつの時代まで存在したのか分からないので、初期の史料しか参考にできません。 それで古今集までしか取り上げませんでした) 3.和漢三才図会 江戸時代の百科事典「和漢三才図会」は「寨柵(しがらみ)」は農地の灌漑(かんがい)用に 水を引くものと紹介。 4.広辞苑 水流を塞(せ)くために杭を打ちならべて、これに竹木を渡したもの。万二「あすか川ー 渡しせかませば」 5.日本国語大辞典 「しがらみ」を日本国語大辞典で引くと漢字では「柵、?」をあて、「水流をせき止めるために、 川の中に杭(くい)を打ち並べて、その両側から柴(しば)や竹などをからみつけたもの」とあります。 6.研究書 ”しがらみ”研究 本文編上・下、解説編 山根巴 編著、"しがらみ"研究刊行会、 昭和40 7.しがらむ【柵む】 @。からめる。 出典万葉集からみつける 一〇四七 「萩(はぎ)の枝(え)をしがらみ散らし」 [訳] 萩の枝をからみつけ花を散らし。 A「しがらみ」を作りつける。 出典狭衣物語 二 「涙川流るる跡はそれながらしがらみとむる面影ぞなき」 [訳] 涙が流れる跡ははっきりしていながら、しがらみを作ってせきとめておきたい面影は見ることができない。 (栞の語源が「枝折り」であるらしいように、「しがらむ」の語源も「枝絡む」なんでしょうかねえ) 考察 「しがらみ」が存在した時代に、「しがらみ」を説明したものは無いと思われる。 おそらく江戸時代には、「しがらみ」と呼ばれるものは無くなったのだろう。 それはおそらく土石を用いて築いた「堰」に替わったからだろう。だから、江戸時代以降の 史料・資料に解説されている「しがらみ」は皆 和歌等から推測したものだろう。 だから 6.のような詳しい研究書が出てくるのである。 下野国の人ではないようです。 栃木県に住んでる人が、「栃木県の日光に行ってきた」とは通常言わないのと同様に。 日光が栃木県以外にも在れば別ですが、日光は栃木県以外には無いでしょう。 「あそのかはら」で和歌を検索しましたが、日光同様、「あそのかはら」も下野国内にし か無さそうです。 朝廷から派遣されて来た役人が下野国府辺りに居を構えていて、その役人が「あそのか はら」を通って思う娘に会いに来る場合も、「下野国のあその河原」と詠むでしょう。 しかし、そんな例より、下野国外の男がこの歌を詠んだ可能性の方がずっと高いでしょう 。そのことは、両方の場合で、該当しそうな男の人数を大雑把で結構ですが考えて比較す れば、容易に判断できるでしょう。 こういう場合、役人云々の件は、「この歌を詠んだ歌人は下野国外の人ではない、下野国 の人である」と分かってから検討すれば良いんです。 これ、真実を追求する時の基本です。 この基本を守らないと、いくらでもユニークな発想が可能ですが、真実を見極めることは 決してできないでしょう。 流路を変えてる (参考)例えば渡良瀬川なんかは、かつて、太日川(ふとひかわ)と呼ばれ、約千年前( 平安時代の頃)は現在の流路と異なり、矢場川(やばがわ) 【地図】 を通り、古河市の西方で利根川の旧派川(はせん:本川から分かれて流れ出る川)であっ た合ノ川(あいのかわ)に合流し、現在の江戸川を通って、東京湾に注いでいま した。(栃木県発行の資料より) 江戸川 総武線に沿って言えば東京都江戸川区の小岩駅と千葉県の市川駅との間を流れている江戸 川は、古くは太日川・太日河(おおいがわ または ふといがわ)とよばれる渡良瀬川の下 流部であり、現五霞町元栗橋の西側を南下し、古くの葛飾郡の中央を南流し江戸湾(東京 湾)へ注いでいた。太日川の西には同じく江戸湾へ南流する利根川が並行してい た。 「更級日記」、「吾妻鏡」、「義経記」等に太日川を渡ったという記述が見られる。 1590年、徳川家康が江戸城に入ったときの利根川 当時の利根川は、関東平野を乱入しながら南下し、荒川や入間川と合流して、下流では浅 草川、隅田川と呼ばれて東京湾に注いでいました。 このままではお江戸が洪水におそわれる! 先見の明のあった家康は、水路や派川、堤防 などを築いて流れを東に移し、銚子で海に注ぐように大規模な河川改修を行いました。こ れを「利根川の東遷(とうせん)」と呼び、この結果、香取の海(霞ヶ浦およびその下流 部一帯にあった湖沼部分)は土砂の堆積が急速に進んで陸となり、現在のような穀倉地帯 が形成されていったのです。 とにかく、東京都と近県を含む地域の1000年前の推定地図を見ると、川だか、湖沼だ かがやたら多くて且つ複雑に入り組んでいて、何が何だかよくわかりません。 [和名類聚抄] 平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931 - 938年)、勤子内親王の求 めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。 名詞をまず漢語で類聚(同じ種類のものを集めること。)し、意味により分類して項目立 て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・ 博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、 漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。 安蘇郡 (参考) 1878年に行政区画として発足した当時の郡域は、2005年現在の行政区画では 概ね以下の区域に相当する。 (以下の地図は、より低倍率にしないと位置がわかりにくいです) 佐野市(村上町、上羽田町、下羽田町、高橋町を除く全域) 日光市(足尾 【地図】 町各町) 群馬県桐生市(梅田町 【地図】 の一部) 令制国時代の郡域としては、旧上都賀郡粟野町 【地図】 (現鹿沼市)の範囲まで広がっていたと 見られる。 安蘇郡の郷 安蘇郡とは、都賀郡と足利郡の間にあった群で、歴史的には領域の変化があったようです が、2005年から全域が佐野市となった地域のようです。 [下野国誌](河野守弘 著 1850年刊)1之巻 「郷古存廃 安蘇郡 安蘇、説多、意部、麻続 安蘇、説多、意部ともに廃す。 麻続 は存す。今は、小見(おみ) 【地図】 に作る。佐野天明駅の北の方にあり。また麻続の続は×(糸偏に責)の誤りなり。」 (考察)[下野国誌]は、現存地との名前の類似だけで場所を特定しているようです。 また佐野市のWSに次のようにありました。 安蘇(あそ)郷 : 佐野・犬伏・旗川 説多(せった)郷 : 葛生 意部(おふ)郷 : 植野 ・界 麻読(おみ)郷 : 田沼・赤見 (考察)[古事類苑]を調べても、これだけのことが言える根拠となる史料はなさそうな んですけど、どんな根拠があってこんなことを言ってるんでしょう?また郷名の読みは[古 事類苑]には載っておりませんでした。どうやって調べたんでしょう? 藤原清輔 多くの著作を残し、平安時代の歌学の大成者とされる。歌学書に『袋草紙』『奥義抄 』『和歌一字抄』などがある。 小倉百人一首の84番に 永らへば−またこの頃や−しのばれむ−憂(う)しと見し世ぞ−今は恋しき の歌がある。 ひさき ひさぎ(楸)は、トウダイグサ科アカメガシワ属の落葉高木の赤芽柏(あかめわしわ)の古 名と考えられています。初春の新芽が赤くて美しいのが特徴です。また、昔はこの葉をカ シワと同じように食物をのせるのに用いたことから「赤芽柏」の名がついたとのことです 。 かはおろし 川下ろし/川颪 : 川上から強く吹いてくる風。 たくふ =たぐう、比う・類う : つれだつ。ならぶ。寄る。添う。くっつく。 ちとり ちとり=ちどり=千鳥=いろんな種類の鳥。 の、はずですが、こんな簡単な古語の意味に対してもインターネットは全く役にたちませ ん。 「ウィキペディア」 によれば「ちどり」とは、 1)チドリ目チドリ科の鳥。 2)列車名「ちどり」。 3)ブレーキ (自転車)のうちセンタープルブレーキおよびカンチレバーブレーキにお いて、ブレーキシューを左右均等に引き上げるために必要な機構部品の名称。 4)酩酊(めいてい、酔っぱらうこと)や眩暈(めまい)などで、バランスがとれず片 足立ちになって歩行障害がおきる状態の様子。千鳥足のこと。 ですって! (少なくとも、戦後は「千鳥足」のことを「ちどり」とは言わなかったと思います が、「千鳥足」のことを「ちどり」と言ったのは、いつの時代なんでしょう?) [広辞苑](岩波書店)によれば、「ちどり」とは、 1)多くの鳥。 (これが最初に出てきます。2)以下は不必要なので省略し ます。) だそうです。 (考察)この「ウィキペディア」の説明から分かりますように、インターネット・ウェブ サイトというのは、玉石混交ですからご注意を。誰が書いたか分からない「ウィキペディ ア」の説明を信用するか否かは、全てあなたご自身の責任です。 源頼政(1104−1180) 平安後期の武将・歌人。 鵺退治 (ぬえたいじ)の話は有名である。 保元の乱(1156年)では義朝(1123−1160)・清盛(1118−1181) の側について戦った。だが次の平治の乱(1159年?1160年?)では清盛側に寝返 り、血族である義朝を倒す。それ以来清盛に優遇され( 源三位頼政 、げんざんみよりまさ )、平家全盛の世を生き延びた。しかし内心平家への憤懣がつのっていたのか、老齢にな って突如打倒平家の企てに加担し、以仁王(もちひとおう、1151−1180)を旗頭 に挙兵する。しかしまだ源氏再興には機が熟しておらず、ほどなく形勢不利となり、宇治 平等院での合戦で以仁王とともに命を落とすことになる。 蓮生(れんしょう or れんじょう) 俗名:宇都宮頼綱 通称:弥三郎 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。下野国の宇都宮氏5代当 主。宇都宮歌壇の礎を築く。謀反の嫌疑を受けて出家し、蓮生と号す。出家後は京都に住 み藤原定家と親交。 蓮生が、藤原定家に古今の歌人の色紙染筆を依頼し、これが小倉百人一首のもととなった とも言われる。 残念ながら蓮生は、下野国で最も有名な歌枕である室の八島の歌を小倉百人一首の中に加 えることを、藤原定家に頼むのを忘れたようだ。 裏書云(うらがき いう) 変な表現ですが、他人の書の裏書について言ってるわけではありません。自分の書につい て言ってるんです。そして意味は、「裏書のところで補足説明しますと・・・・というこ とです」と言う意味です。こういう訳のわからん表現が、鎌倉時代の書物辺りから見られ るようです。 大田和村 現在の栃木市藤岡町大田和(おおだわ) 【地図】 [名所部類和歌集] 「増補〉名所部類考・〈増補〉和歌組題集(目録題・内題「名所部類四季景物考」「和歌 組題集」)」(1747年)のことか? 内容説明省略 蓮乗 蓮乗は蓮生(「れんじょう」とも「れんしょう」とも読んだか?)・宇都宮頼綱(別名 弥三郎)の誤りと思われます。(4)宇都宮頼綱の歌 参照。 [歌枕秋寝覚](うたまくら あきのねざめ) 有賀長伯(1662−1737)著 江戸時代の歌枕辞典 安蘇沼 [日本歴史地名大系]の「 浅沼村 」の項に次の記述がある。( )は筆者(この私)の註。 「『 [沙石集] に、「下野国アソ沼(阿曽沼)(下野国のどこにあったかの記述は無いようだ)」に住み 殺生を好む鷹遣(鷹匠)が、夢の中で自分が殺したオシドリ(雄)の女房(雌)に 責められ 、翌朝雄にくちばしを合わせて死んでいる雌のオシドリの姿を目にし、哀れに思い出家し たという説話がある。 「アソ沼」は 小屋町 の田の中にあって、「 安蘇沼 」と記され、真菰が茂って 真菰の池 ともよばれた』という[下野国誌]。(つまり「表現を変えただけで、内容は次 の文も含めて全文[下野国誌]を丸写ししたもの」ということ。[古河志]なんか見ちゃい ない) なお[沙石集](巻九(一四))より先に成立した [古今著聞集] (巻二〇)では、類話の地を陸奥国のこととしている(沼の名は赤沼)。 ([今昔物語集]巻一 九第六話) 」 (考察)ところで、[古河志]にある『所の者の言う』三毳山の西の麓西浦村近くにある 「安蘇沼」とは、この沼のことでなく、かつて存在した「鯉名沼」またの名は「越名沼」 のことではないでしょうか? 那良淵 現在佐野市に奈良淵町 【地図】 が在り、以前は奈良淵村だったようです。そして[古河志]に出て来る那良淵はこの奈良 淵町と同じ所と思いますが、[日本歴史地名大系]の筆者は 奈良淵村のことだけに触れ て[古河志]の那良淵には触れておりません。それで、[古河志]の那良淵については[ 古河志]の記述以外のことは分かりません。 ところで、奈良淵町の近くを秋山川が流れていますので、[古河志]に「あその河原」 の候補地として挙がっている那良淵に在る河原とは秋山川の河原のことかと思われますが 、なぜ那良淵に在る河原が「あその河原」の候補地に挙がって来たのかは、[古河志]に は書いてありません。 [下野国誌] 『安蘇川原(アソノカワラ)・・・』の文は、「一般にこう信じられている」という史実 を述べた物でなく、[下野国誌]の著者・河野守弘が自分の考えを述べた物です。そして 自分の考えを述べる場合、通常その根拠を示すものですが、この[下野国誌]に出て来る 下野国南部の歌枕には、一部を除いてほとんど根拠が示されておりません。そし て「自分はこう思う」という書き方をするのではなく、「・・・(が真実)である」とい う書き方をします。真実を述べているのに「自分はこう思う」の根拠を述べることは無意 味ですから、「自分はこう思う」の根拠を示すわけがないんです。 河野守弘の、根拠を示さずに「・・・(が真実)である」という書き方は、この「あそ の河原」の川ばかりでなく、これから登場する「みかもの山」、「さしも草の伊吹山」、 「しめじが原」、「しわぶきの森」などの歌枕、および歌枕ではありませんが、史跡「安 蘇沼」などが皆然りです。ちゃんと根拠を示して「だから自分はこう思う」という書き方 をしているのは、「室の八島」だけでしょう。それは「室の八島」には、根拠として提示 できる史料が豊富にあったからということです。そして裏を返せば、河野守弘が「・・・ (が真実)である」と言ってる歌枕には、根拠として提示できる資料が殆ど無かったとい うことです。 また河野守弘には、河野守弘が言う歌枕なるものの当時の呼び名を隠すという悪い癖が あります。その例として、この「あその河原」の川の他に「みかもの山」、「伊吹山」、 「しわぶきの森」などがあります。当時の呼び名を明らかにしているのは史跡「安蘇沼」 の「真菰の池」と「しめじが原」の「しらちが原」(これは疑問)くらいのものでしょう 。 河野守弘は、歌枕以外は史実を忠実に書いていますが、なぜか歌枕に限ってはかなり自 信があるようです。 と言うことで、近年の学者は皆[下野国誌]の「・・・(が真実)である」に騙さ れているんです。 学者は皆、[下野国誌]の言うとおり、「あその河原の川とは佐野市街を流れ る秋山川のことである」と言っており、「秋山川以外の川である」と言ってる学者は一人 もおりません。彼らには「あその河原の川を秋山川とする根拠」は必要ないんです。[下 野国誌]という著名な本の著者が「あその河原の川とは秋山川のことである」と言ってい るので、彼らにとってはそれが真実なんです。[下野風土記]などという誰が書いたか分 からない薄っぺらな史料は見向きもしません。彼らに取って下野国の歌枕について書いた 史料は[下野国誌]しかないんです。 根拠を示さないこういう資料の言うことは決して参考にしてはいけません。 これが「その歌枕とは何か?」を追及する上での基本です。もし根拠が示されているな ら、その示されている根拠、すなわち引用されている史料だけが参考になるんです。 河野守弘 栃木県芳賀郡二宮町の人。下野国の地誌出版を志して、20年の歳月を掛けて各地を調査 し、1850年に[下野国誌]を出版しました。 川なり ここでは、「安蘇川原」の説明に「安蘇川原のある安蘇川」のことを説明しています。つ まり安蘇川という名前の川がかつて存在したという前提で説明してるわけです。もうむちゃ くちゃです。 佐野ノ中川 「佐野 安蘇郡佐野庄を云なり、佐野ノ中川と云は、渡瀬川 【地図】 のことなり。」([下野国誌 ]) [名所今歌集] 1817年に、中尾義稲が編集した歌集。詳細不明。 タイトルから判断すると、最近詠まれた、各地の名所を詠んだ和歌を集めたもののようで す。 [下野歌枕] 河野守弘らは下野国の名所・勝地に関する和歌・狂歌を一般から募集し、175首を[下 野歌枕]に編集し、その中から108首を[下野国誌]に収めています。 なお、歌枕の地を探求しようという本研究の目的にとって、[下野歌枕]の歌の存在は全 く邪魔なので、本研究では[下野歌枕]を無視して話を進めます。 (つまり秋山川のこと) 当時の川の名前(当時、葛生辺りでは「秋山川」、佐野の町辺りでは「佐野川」、と呼ば れていたんだろうと筆者は考えてます)を隠してるんです。河野守弘という人は困った人 です。 生まれても 但しこの書き方は、『河原は「あそのかはら」だが、川の名前は「安蘇川」ではない』こ とを意味するものと思われます。 (註3) そんな無茶な。これこれの根拠があるから「安蘇の河原」の川とは秋山川のことである」 という結論を導き出すべきところを、その導き出すべき結論を、結論を導き出す根拠に使 っちゃった。「安蘇の河原の川(安蘇川)とは秋山川のことなので、『秋山川は鎌倉時代 まで安蘇川と呼ばれていた。』、従って安蘇川とは秋山川のことである」と。 『「安蘇の河原」の川とは秋山川のことである』は、[下野国誌]あたりに書いてあった のを、吟味もせずに拾ってきたんでしょう。 吉村光右 [角川日本地名大辞典(9)栃木県](1984年)の編集委員の中に、この先生の名前 はありませんでした。[角川日本地名大辞典(9)栃木県](1984年)の『秋山川は 鎌倉時代まで安蘇川と呼ばれていた。』の文は、[栃木県大百科事典](1980年)を 参考にして、吉村光右氏以外の人によって書かれた可能性があります。 執筆しています。 つまり、吉村光右氏は、栃木県芳賀郡茂木町の高校の先生で、秋山川の在る佐野市や安蘇 郡に詳しい人ではなかったということです。 佐野町の西を流れ、 現在の佐野市天明町辺りを「佐野町」としてるから、「佐野町の西を流れ、」 となるわけです。 みかもの山 [延喜式](えんぎしき) [養老 律令 ]の施行細則を集大成した古代法典。延喜5年(905)、藤原時平ほか11名の委員に よって編纂を開始したから「延喜の式」と言います。 [養老律令]:古代法典の一つ。藤原不比等らが718年 (養老2年) [大宝律令](7 01年制定)を修正,撰定したもの。律は10巻12編,令は 10巻30編から成る。 同年に成立したとする説と,編修事業に着手したとする説とがある。 [大宝律令]:701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。律6巻・令11巻 の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と 令が揃って成立した本格的な律令である。 駅馬(えきば、はゆま) 律令制で、駅家(えきか、うまや)に備えて駅使の乗用に使った馬。また、中世以降、宿駅 に備えて一般の旅客の用に供した馬。 もう少し詳しい[世界大百科事典]第2版(日立ソリューションズ・ビジネス)の解説。 「日本古代の駅伝制で駅に配置した馬。公務出張の官人や公文書伝送の駅使が前の駅から 駅馬に乗り駅子に案内されて駅家(うまや)へ到着すると,駅長は前の駅の駅馬をその駅 子に送り返させ,当駅の駅馬に駅子を添えて次の駅まで送らせる。・・・」 はゆま : はやうま(早馬)の音変化。はいま。 駅使 : 律令制で,駅馬や駅家を使うことを許された,公用で急行する使者,および公 用で旅行する者。えきし、はゆまづかい、うまやづかい。 下野国の駅家 駅家(えきか/うまや) : 古代日本の五畿七道の駅路沿いに、約16km間隔で 整備された施設。単に駅(えき)とも称する。駅家には、駅使が利用する駅馬や 宿泊・休憩施設などが備えられていた。 [延喜式](927年成立)の頃、古代の街道・ 東山道 がどの辺りを通っていたかが分からないと、駅家の位置はわからないんですけどね。とい うことを前提にして次の参考資料を読んで下さい。 (参考1) [下野国誌](河野守弘 著、1850年)一之巻 「延喜兵部式下野国駅馬 1)足利、2)三鴨、3)田郡、4)衣川、5)新田、6)磐上、7)黒川 各十疋 1)・・・「 足利駅 」は今に存す。 2)「三鴨駅」は都賀郡下津原(現栃木市岩舟町下津原) 【地図】 と云所なり。和名抄には三島驛家と誤て記したり。 (足利駅−16km−三鴨駅 直線距離(以下同様)) 3)「田郡(タコホリ)駅」は、今多功(タコウ、現河内郡上三川町多功) 【地図】 駅に作りて存す。 (三鴨駅−15km−国庁)(国庁−10km−田郡駅) そもそも藤原奈良の法は五十里(三十里の誤写? 533.5m×30=16.0km) に一駅を置きたりとあれば、今道 八里 余りの間にあること、考えて知るべし。 4)「衣川(きぬがわ)駅」は宇都宮の東の方にて、今の石井村(現宇都宮市石井町) 【地図】 のあたりなるべし。[回国雑記]にも、宇都宮より常陸の小栗へ行給うの条に、衣川と云 所にて云々とみえたり。 (田郡駅−14km−衣川駅) 5)「新田(ニヒタ)駅」は氏家の東なる桜野村、上野新田(現さくら市櫻野、上野) 【地図】 といふ所なりといへり。・・・ (衣川駅−17km−新田駅) 6)「磐上駅」は今の石上村なり。(現大田原市上石上・下石上。下記(参考2)の6)参照 【地図】 ) (新田駅−19km−磐上駅) 7)「黒川駅」も黒川村(那須郡那須町黒川) 【地図】 にて、ともに那須郡なり。 (磐上駅−22km−黒川駅) すべて足利、三鴨、田郡、衣川、新田、磐上、黒川、それより奥の白川駅まで駅々の間七 八里許りづつあり。」 (考察)これらより、[下野国誌]は、駅の所在地を特定するために、駅名と現 存地名との類似を主な根拠としていることが分かります。 [下野国誌]は、最後に『駅々の間七八里許りづつあり。』と言ってますが、[下野国 誌]が言う一里とは約2kmのようなんです。それで『駅々の間七八里許りづつあり。』 をkmに直すと、『駅々の間14−16km許りづつあり。』となります。ところが、筆 者が地図上で測定した直線距離でさえ22kmの所があり、とても『駅々の間14−16 km許りづつあり。』では有り得ません。 (参考2) [上代歴史地理新考]−東山道・附風土記逸文註釋− (井上通泰、三省堂、1943年) 「1)足利駅 上に同じ 2)三鴨駅 上に同じ 3)・・・「田郡」は異本並に[高山寺本]・[和名抄]に「田部」とあり。「田郡驛」 又は「田部驛」は都賀郡の内黒川の西にて今の壬生町 【地図】 附近にあらざるか。・・・ (三鴨駅−15km−国庁)(国庁−5km−田郡駅) 4)「衣川駅」 上に同じ (田郡駅−18km−衣川駅) 5)「新田駅」 上に同じ (衣川駅−17km−新田駅) 6)「磐上駅」 [下野国誌]が言う石上は今上下二村に分れて太田原驛の西の方にありと いへり。上石上、下石上は今の那須郡野崎村の大字にて郡の西界に近し。[下野國誌]の 説はいたく方向を誤てり。古驛路は氏家町より東北に向ひ所謂關街道(国道293号→国 道294号?) 【地図】 に由りて即伊王野 【地図】 ・蓑澤 【地図】 などを經て隣國白河郡の旗宿 【地図】 に出でしにこそあれ。・・・ 「磐上駅」は新田より石上、黒川と相次ぐを思へば其地は湯津上(ゆづかみ)村(現大田 原市湯津上) 【地図】 にあたること判知に餘あり。「磐上驛」址はおそらくは箒川の 左岸 即湯津上より少し西南に當るべし。 (新田駅−19km−磐上駅) つぎに、 7)「黒川驛」は伊王野 【地図】 附近なるべし。・・・ (磐上駅−15km−黒川驛) 次驛は即陸奥國雄野驛(場所がわかりません。いくつか説があるようですが)なり。・・ ・」 (考察)駅馬制度を設けた目的から考えて、下野国府 【地図】 の集落に駅馬に相当する機能が有ったはずですから、[上代歴史地理新考]が言う「田郡 駅」が下都賀郡壬生町に在ったとする説は、(国庁−5km−壬生町)ですので短すぎま す。 6)「磐上駅」と7)「黒川駅」とについては、[下野国誌]より、[上代歴史地理新考] が言ってることの方が説得力があります。 (参考3) 完全踏査[古代の道]ー畿内・東海道・東山道・北陸道ー 木下 良監修・武部健 著(吉川弘文館、2004年) 「1)「足利駅」 上に同じ 2)「三鴨駅」 上に同じ 3)「田部駅」 河内郡上三川町上神主(かみこうぬし) 【地図】 (国庁−13km−田部駅) 4)「衣川駅」 「衣川駅」は宇都宮市下岡本町 【地図】 (田部駅−16km−衣川駅) 5)「新田駅」 那須烏山市厩久保(うまやくぼ) 【地図】 (衣川駅−12km−新田駅) 6)「磐上駅」 [上代歴史地理新考]と同じく大田原市湯津上 【地図】 (新田駅−18km−磐上駅) 7)「黒川驛」 [上代歴史地理新考]と同じく那須郡那須町伊王野 【地図】 (磐上駅−15km−黒川驛) (参考4) [白河記行](1468年旅) 宗祇(1421−1502年)著 *旅の経路(これらの経路と室町時代の東山道・下野国ルートとの関係は?) 日光・・・ 鹽谷 −那須野の原−大俵(大田原市 【地図】 )−中川(那珂川)−K川−横岡(那須郡那 須町横岡 【地図】 )−二所明神(境の明神) (参考5) [廻国雑記] (1487年下野旅) 道興准后(1430?−1501年?)著 *旅の経路(これらの経路と室町時代の東山道・下野国ルートとの関係は?) 宇都宮−塩屋−狐川(現さくら市喜連川 【地図】 )−朽ち木の柳−いな沢の里(現那須郡那須町稲沢 【地図】 )−黒川(順序から言えば、稲沢のちょっと手前で黒川を渡ります)−よささ川(余笹川 )−白河二所の関(現境の明神) (考察)東山道・下野国ルートの解明は、かなり進んでいるようですが、まだまだ遺構の 発掘調査が待たれるようです。 駅家(えきか、うまや) 古代交通制度。特に官道交通の官使のために設置された施設。 大化の改新の詔から駅制が見え、大宝律令以後整備されたと思われる。 その規定によれば、 三十里 毎に一駅が置かれ、馬・船などを常置するとともに、宿・食 を提供する場でもあった。 従って、ここに集落をなすことも多かったと思われる。 都賀郡の郷 最後の『駅家』(うまや)は、「これらの郷以外に駅家の集落が一箇所ある」という意味 で付け加えたのかな? 下野国府の集落はここに含まれていないんですかね? (参考)[下野国誌](河野守弘 著、1850年)一之巻 「郷名存廃 都賀郡 1)布多、2)高家(タカヘ)、3)山後、4)山人、5)田後(タシリ)、6)生馬(イクマ)、7) 秀文(シトリ)、8)高栗、9)小山(オヤマ)、10)三嶋駅家(ミカモノウマヤ) (註)都賀郡の駅家は、三鴨駅家の一箇所だけだったようです。 1)「布多」廃す。・・・ 2)「高家」存す。今は武井に作る。家と井とは仮字(カナ)たがへど、後世に はかかる例数多あり。・・・さて武井は栃木駅の南の方にあり 【地図】。 3)「山後」、4)「山人」ともに廃す。 5)「田後」は存す。今は田尻に作る。是は栃木の西北の方にあり(場所がわかりません) 。 6)「生馬」存す。今は生駒に造りて、寒川郡に属す。小山駅より佐野への往還筋なり 【地図】。 7)「秀文」は「委文」の誤りにて、シトリなり。今は志鳥に作りて、太平山の西北の方にあり 【地図】。 8)「高栗」廃す。・・・ 9)「小山」存す。奥道中の駅家なり。 10)「三嶋駅家」は三鴨の誤りにて、今の下津原村と云所なり 【地図】 。[兵部式]に『三鴨駅』とみえ、また[万葉集]に『美可母乃夜麻』とあるも同所なり。」 みかほのせき ・[万代集](1248、1250年)巻十七:雑四 3393『みかほのせき』 ・[新和歌集](1260年前後)『みかほのせき』 ・[歌枕名寄](1303年頃)『みかほのせき』 ・[夫木和歌抄](1310年頃)『みかほのせき』と『みかほのさき』とが有る。 関所 ウィキペディアより。 古代の関所 律令制における関は 1)全ての公民を 本貫地 の戸籍に登録して勝手な移動を規制する「本貫地主義」を維持するために必要な浮浪の阻 止、 2)中央で発生した謀反の関係者の逃亡の阻止、 3)政府に不都合な情報(謀反の計画・実行者による地方への命令を含む)が関所の外に 漏れないように阻止する情報統制 の役割を果たしたと考えられている。官民が私用上の必要があって関所を越える際には、 所属する官司・国司・郡司に対して「過所」の交付を受けて関に提出する必要があった。 中世の関所 中世には、朝廷や武家政権、荘園領主・有力寺社などの 権門勢家 がおのおの独自に関所を 設置し、関銭(通行税)を徴収した。関所は中世の交通における最大の障害であった。 宿駅(しゅくえき) 旅客の宿泊所や荷物輸送の人馬などを用意した施設のある所で,古来主要な街道に設けら れた。[古代,中世] 歌集もあります ・[夫木和歌抄](1310年)巻廿一:雑三、9593、蓮生『みかほのせき』に対し て、巻廿六:雑八、12178、藤原知家(1182−1258年)『みかほのさき』 ・[新千載集](1359年−1360年頃)巻八:羈旅、804、蓮生『みかほのさき 』 乾 乾坤(けんこん)の乾のこと。 乾坤とは 1.天と地。 2.陰陽。 3.いぬい(北西)の方角とひつじさる(南西)の方角。 4.2巻で一組となっている書物の、上巻と下巻。 この場合の乾は上巻の意味。 [八雲御抄](やくもみしょう、1221−1242 年の間) 順徳天皇(1197−1242)が著した歌論書(先行する歌論書・歌学書をとりまとめ 、独自の体系に編成した大著)ですが、「その歌枕の場所はどこか?」など真実が問題に なるものは、後世の人が書写する度に、その時代の知識をもとにして書き直されることがあ りますので、元の[八雲御抄]に書いてあったかどうか検証する必要があります。 筆者がウェブサイトの国立国会図書館デジタルコレクションで見た 列聖全集.御 撰集2[八雲御抄](1917)(内閣文庫所蔵の慶長(1596−1615年)活字本 を元にしているようだ。)の「巻第五」−「名所部」−「関」 の分類の「関」の文字の 下に、 「みかほの関 : 山也。みかほの山は古名所。但在常陸国歟。是は慈覚大師誕生所也。 未詠歌歟 。」 とあります。[八雲御抄]には「みかほの山」とあって、「三毳の山」なんて漢字は使っ ていません。[下野風土記]にある三毳山の「三毳」の漢字は、[下野風土記]の著者が、 「足利ヨリ佐野エ入道ニ有」る土地の名前「三毳」を持ってきて、勝手にあてはめたもの でしょう。またなぜか[下野風土記]の『有但馬国』も違っていました。 国立国会図書館デジタルコレクションの[八雲御抄]では、「みかほの関」以外の 関の説明は皆分類名「関」の次の行以降に書かれてありますが(当然それが正し い書き方なんでしょう)、「みかほの関」に限っては、なぜか分類名「関」の下 に説明が書かれてあります。また「慈覚大師誕生所也」などと和歌と無関係な事柄が書か れてあるのは 異例です 。おそらくこの文は、後世[八雲御抄]を書写した人によって、分類名「関」の下の余白 に書き加えられたものでしょう。 (解析) ・「みかほのせき」で和歌を検索したら、宇都宮頼綱(1172−1259年)の次の歌 しかヒットしませんでした。 いしふまぬ−あそのかはらに−ゆきくれて−みかほのせきに−けふやとまらむ 上記『みかほの関』とは、おそらくこの歌に出てくる『みかほのせき』のことでしょう。 ・そして『みかほの関』という言葉(=宇都宮頼綱のこの歌)が登場する最古の史料は、 [万代集](1248、1250年)の可能性があり、『みかほの関』という言葉は、順 徳天皇(1197−1242)時代には存在しなかった可能性があります ・宇都宮頼綱(1172−1259年)のこの歌の「あそのかはら」の言葉から、『みか ほのせき』が下野国南部に存在したんだろうと言うことがわかります。 ・「みかほのやま」「みかほやま」で和歌を検索しましたが、一首もヒットしませんでし た。ということは、「みかほの山」は、歌に詠まれた名所だったということではないよう です。では、どんな手段で名が知られるようになったんでしょう? ・『』みかほの関 : 山也。』は、「関」が簡単に「山」に結びつくわけはないので、 これは、 宇都宮頼綱(1172−1259年)の いしふまぬ−あそのかはらに−ゆきくれて−みかほのせきに−けふやとまらむ の歌中の「みかほのせき」と [万葉集](600年代後半−700年代後半)の しもつけの−みかものやまの−こならのす−まぐはしころは−たがけかもたむ の歌中の「みかものやま」とが、結びついた結果生まれたものと思われます。つまり「 みかも」とは「みかほ」のことだろうと考えたんでしょう。そして「みかもの山」とは「 みかほの山」のことだろうと考えたんでしょう。 ・『みかほの山は古名所』とのことですが、「みかほの山」が古い名所と呼ばれ るようになるのは、いつ頃以降でしょう? ・烏丸光広の[日光山紀行](1617年旅) 「佐野を出て一里許(ばかり)盥窪(タライクボ)と云所あり、慈覚大師産湯あみ給ふ所 とかや」 ・[下野風土記](1688年編著) 『 三毳山 : [歌枕名寄] ニハ下野ノ名所ニ入』 つまり、[下野風土記]は、「みかもの山」が、下野国に在るらしいが、どこにあるか分 からないと言ってます。 ・しかし、「みかほの関 : 山也。みかほの山は古名所。但在常陸国歟。是は慈覚大師 誕生所也。 未詠歌歟 。」の文は、「慈覚大師誕生所」は「みかほの山」であると言って います。 この文は、現在の三毳山が万葉集に出てくる「みかもの山」ではないかと考えられるよ うになってから、作られた文と思われます。 ・国立国会図書館デジタルコレクションの[八雲御抄]は、「慶長(1596−1615年) 活字本を元にしている」そうです。 つまり、「みかほの関 : 山也。みかほの山は古名所。但在常陸国歟。是は慈覚大師 誕生所也。 未詠歌歟 。」の文は、慶長(1596−1615年)より前に存在したと いうことです。(ちょっと上の烏丸光広の[日光山紀行](1617年旅)参照) ・『但在常陸国か。』から分かることは、この著者は、他人から『みかほの関・・・是は 慈覚大師誕生所也。』という話は聞いていたが自分自身は「みかほの山」の所在を知らな かったということです。この著者はおそらく江戸の町辺りにいて、この話を聞いたんでし ょう。そしてそれは江戸時代初めの頃だったんではないでしょうか? 蛇足ですが、『是(みかほの関、みかほの山)は慈覚大師誕生所也。』は、詳 しくは知りませんが、慈覚大師・円仁(794−864)誕生の地は栃木市岩舟町下津原 の手洗窪(かつての盥窪(たらいくぼ))であるという伝説?に関連するもののようです 。なお慈覚大師誕生の地については、下都賀郡壬生町説もあるようです。 『みかほの関・・・』の文がいつ[八雲御抄]に書き込まれたのかを調べるために、こ の文がいつ書写されたどの伝本に登場しているかを確認する必要がありそうですね。 ・祐徳稲荷神社(中川文庫)も、内容・表示方法がデジタルコレクションの[八雲御 抄]とほぼ同じ。 ・京都大学付属図書館所蔵本も、内容・表示方法がデジタルコレクションの[八雲御 抄]とほぼ同じ。 ・[八雲御抄]成立後あまり時を隔てぬ鎌倉時代中後期書写の伝伏見院筆本(文化庁保管 、重要文化財)を見てみたいですね。 後日、横浜市立図書館に[八雲御抄 伝伏見院筆本 研究叢書]の有ることが分かったので 、同図書館に調べてもらったら、下記しましたように、なんと内容・表示方法がデジタル コレクションの[八雲御抄]とほぼ同じで、更に「みかほの関」の右上に小さく「下 野」とあります。」とのこと。 [八雲御抄 伝伏見院筆本 研究叢書] 「みかほの関下野」 「山也 みかほし山は古名所 但在常陸国歟 是は 慈覚大師誕生所也」 この「伝伏見院筆本」が「[八雲御抄]成立後あまり時を隔てぬ鎌倉時代中期書写」さ れたものとは とても思えません。 しかし、この[八雲御抄 伝伏見院筆本]が鎌倉時代中期の頃書写されたことは間違い ないようです。 ということは、[八雲御抄 伝伏見院筆本]に『みかほの関・・・』の文が書き 込まれ、それを書写あるいは活字化したものが上記の祐徳稲荷神社本、京都大学付属図書 館所蔵本、デジダルコレクション本 であるということでしょう。 なお[八雲御抄]−「巻第五」−「名所部」に載っている下野国の歌枕は次の通りです。 くろかみ山、みかもの山、ふたこの山、やますげの橋、あその川、むろのや島 三毳山 坤(こん=下巻)を読むと、 この三毳山は、二行後に出て来る万葉集の<下野ノ−三カモノ山ノ−>と詠われた山の事で、 「みかも山」と読みます。また『 [歌枕名寄] ニハ下野ノ名所ニ入』、すなわち、 この山は[歌枕名寄]には、下野の名所に入っているが、 下野のどこに在るか所在の分からない山です。 アホなそんな山の漢字名が分かるはずがありません。 もし所在が分かっていれば、「どこそこに在り」と書いて、『 [歌枕名寄] ニハ下野ノ名所ニ入』 なんて書き方はしないでしょう。 また「三毳(みかも)」の漢字名は、乾 (けん=上巻)の『今案云三毳カ、足利ヨリ 佐野エ入道ニ有 リ。』、すなわち足利と佐野との間の街道筋に在る土地の漢字名と 同じですって、そんなバカな! と言うことは、上巻・下巻の順序の関係から、最初に足利と佐野との間の街道筋に在る 「みかも」の地の漢字名が分からなかったので「三毳」の字を当て字し、その後に、 所在のわからぬ「みかも山」に「三毳山」の字を当て字したんでしょう。 たとえ、佐野との間の街道筋に在る「みかも」の地の漢字名が「三毳」で正しかったとしても、 その漢字名を所在の分からぬ山の名前に当てはめるのはおかしいでしょう。 つまりこれらの「三毳」は全て実際の名前でなく、「みかも」という地名・山名に当てた 当て字だろうということです。 当時、漢字の分からない土地の名前は、万葉仮名のように漢字の音(おん)だけを利用して、 漢字で書く習慣が有ったようです。(後で出て来る [曾良旅日記] の「室の八島」の箇所の「毛武(けぶ)という村」の例参照。「毛武」は当て字で、 正しくは「癸生」) なお漢和辞典を調べても、「毳」の音はセイ・ゼイなど、訓は獣毛・産毛(うぶげ)などで 「かも」の音や訓はありません。 ところが、和歌の歌詞の最後によく見られる「〜かも」の助詞に「毳」の漢字を充てる例が、 万葉仮名で書かれた[万葉集]の歌の中にあります。 (実は この事は ひょんなことから 見知らぬ人に教えてもらいました。こんな事が 私に分かるわけないてしょ) 1930 梓弓 引津邊有 莫告藻之 花咲及二 不會君毳 あつさゆみ−ひきつのへなる−なのりその−はなさくまてに−あはぬきみ”かも” これから分かることは、「毳(かも)」は漢字でなく、「毳」一字で「かも」の二音を表す 「万葉仮名」だろうと言うことです。 この「毳(かも)」は恐らく、正しくは「氈(かも、獣毛で織った敷物)」と書くべき漢字で、 「毳」は「氈」の略字あるいは異体字として日本で生まれたものでしょう(既に漢字の「毳」 が存在するのに気付かず)。氈より毳の方がずっと覚えやすい字なので、意味も読みも同じなら 誰でも氈でなく毳を使うでしょう。 そして「三毳」とは、万葉仮名の「三(み)」と「毳(かも)」とを組み合わせた言葉です。 ところで、「万葉仮名」の「毳(かも)」を使うなら、なぜ同じ使い方をする「万葉仮名」の 「鴨(かも)」を使わなかったんだろう? この辺、なんか[下野風土記]の著者の意図が有りそうですね。 もしかしたら、「三鴨」と書いたら、「三鴨の駅」と誤解されそうだからでしょうか? 足利と佐野との間にある「三毳」の位置(足利の駅から東に5〜6kmの位置に在ったか?)は、 足利の駅から東に16kmほど離れていただろうと推定される三鴨の駅の位置からかなり 西にずれているんです。 こういう誤解を防ぐために、土地の名前に有りそうもない万葉仮名の「毳」の字を 充てたんではないでしょうか? どうせなら 万葉集の次の歌の 「美可母」山を使っても 良かったろうと思うのですが。 之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟 しもつけの みかものやまの こならのす まぐわしころは たがけかもたむ [歌枕名寄](うたまくらなよせ、1303年頃) 編者:乞食活計之客澄月(人物詳細不明) 全国を五畿七道、68ヵ国に区分して、当該国の歌枕を掲出し、その歌枕を詠みこんだ歌 を列挙した歌枕歌集。 筆者が和歌検索に利用したWS(ウェブサイト)「国際日本文化研究センター 時代統合情報システム 和歌データベース」の[歌枕名寄]には『68ヵ国の区分』は有 りませんでした。畿内五国+六道の区分でした。それで『下野ノ名所ニ入』は、上記WS では『巻廿六:東山道五 ニ入』でした。 6797しもつけの−みかものやまの−こならのす−まくはしころは−たかけかもたむ 6802いしふまぬ−あそのかはらに−ゆきくれて−みかほのせきに−けふやとまらむ (考察)ウェブサイトの [歌枕名寄] 巻廿六:東山道五で、登場する歌の順序(かみつけ国→しもつけ国→みちのく)から判断 して、その歌に詠まれている地名がしもつけ国の歌枕であると判断されたものは次の通り 。 歌の順に:みかものやま→ふたこ(の)やま→あそのかはら→いふきのやま→しめちかは ら→むろのやしま→ くろとのはま →なす (註)「くろかみやま」の歌は、かみつけ国の歌の中に交ざっていました。 山は存在しなかった [下野風土記]を読むと、『足利ヨリ佐野エ入道』にある「三毳」とは、その中に山が含 まれるような、そんな広い土地ではなかったようです。 岩船山 この岩船山とは、岩船山にある有名なお寺・「岩船山高勝山」のことです。 原 念斎 古河出身の江戸時代後期の儒者、幕府役人。[許我志]は古河藩領内の地誌。但し古河藩 の老人の話を聞き書きし、それに自ら文献 調査したものを追加したもので、実地調査は していない由。 この時代、地名を書物のタイトルにする場合に、地名を当て字で書くことが 流行ってたんですかね?[許我志]は、ちゃんと書くなら[古河志]でしょう。 ○三毳山 三毳山の万葉仮名名は[下野風土記]の著者が創作した当て字ですから、この[許我志]の 「三毳山」の万葉仮名名は[下野風土記]から持ってきたものです。 また[下野風土記]の三毳山にはルビが振られていませんでしたが、この[許我志]の三毳山 には、「三毳(カモ)山」とルビが振ってあるので、「毳」の字は誰でも容易に読める字では なかったようです。 自ラ別ナルヨシ 地図で見ると三毳山には、229mの北の峯(青竜ヶ岳)と209.8mの南の峯(中岳) が見えるが、[許我志]当時には、どうも青竜ヶ岳が三毳山で、中岳が大田和山で 「それぞれ別々の山だ」っていう考え方(恐らく一部の知識人の考え方でしょう)も有った ということのようです。原 念斎は「そんなの一続きの山だろう」と考えていたようですが。 「自ラ」の意味は、いろいろ有ってよく分かりません。 小出重固 [古河志]は、上記の[許我志]を基に、小出重固が実地調査結果を反映さ せて作成し た古河藩領内の地誌。 [歌枕、秋寝覚] 有賀長伯(1662−1737)著の歌枕辞典。 『[許我志]に「みかも」といふ歌を引たるも疑なからずや。 』 「太田和山が万葉集に詠まれたみかもの山であったことは疑いないだろう」或いは「かつ て、この辺りに『みかも』という場所があったことは疑いないだろう」と言ってることと 同じ意味と考えられます。 [古河志]の 記述 [古河志]の 記述『[許我志](の大田和村(山)の項)に「みかも」といふ歌を引た るも疑なからずや。』は、「大田和村(山)の辺りにかつて『みかも』という名前の場所 が存在したことは疑いないだろう」と推測しているものと思われます。 と言うことは、つまり[古河志](1830年)当時、現在の三毳山辺りに「みかも」と いう名の土地も山も存在しなかったということです。 盥窪(タライクボ) もし『大師の産湯あび給う跡』なら、地名は 盥窪でよろしいと思いますが、現在の地名 はなぜか「手洗窪」です 【地図】 [日光山紀行](1617年旅) 烏丸光広(1579−1638年)著 「佐野を出て一里許盥窪(タライクボ)と云所あり、慈覚大師産湯あみ給ふ所とかや」( [下野国誌]から引用しました。) 筆者・つまりこの私は、原文を読んでいませんが、[日光山紀行]に「三香保崎/関」な どという名前は登場してこないでしょう。「三香保崎/関」と「慈覚大師誕生の地」とが 結びつくのは、もうちょっと後(同じく1600年代)だろうと考えています。 安蘇川 [古河志](1830年作)の「あそのかはら」に関する記述から判断して、[下野国誌 ](1850年刊)の時代に「安蘇川」という名前の川が存在したとは考えられません。 ですから[下野国誌]が現在の秋山川を「安蘇川」であると言ってますが、それが[下野 国誌]の著者・河野守弘のこじつけであることは明らかです。 [下野国誌]の「三香保崎」の項に出て来る地名・河川名などを基にして現在の地図を 見てみると、「三香保崎」の項にある「関川」とは現在の三杉川と思われます。また「鯉 名沼」に似た名前として現在、越名(「こいな」または「こえな」)町 【地図】 があり、「鯉名沼」または「越名沼」はこの越名町から北の鐙塚町(あぶつか)にかけて かつて存在した南北に長い大きな沼です(越名沼は戦後1965年頃までに干拓され水田 にかわったようです)。 また秋山川は現在まっすぐ南流して渡良瀬川に合流していますが、これは1922年の渡 良瀬川と秋山川との付け替え工事以後のことで、それまで秋山川は下流で東流し、越名河 岸(越名馬門河岸、こえなまかどがし。この辺り→ 【地図】) を経て、現在の三杉川の下流部を流れて、渡良瀬川に合流していました。つまり現在の三 杉川の越名町から下流部は1922年までは秋山川だったんです。そして三杉川は越名町 辺りで秋山川に 合流します ので)、「三香保崎」の項に『江尻の流れは安蘇川 に落ちるなり。』とある「安蘇川」 とは現在の渡良瀬川のことではなく、かつての秋山川(現在「旧秋山川」の表示あり)の ことです。 藻塩草 [藻塩草]という題の本がいくつかあります。宗祇の弟子である連歌師の宗碩が1513 年ころに編んだという膨大な歌語辞書が特に有名です。 「藻塩草」とは、「塩を採取するために用いる海藻アマモのこと。掻き集めて潮水を注ぐ ところから和歌では多く「書く」「書き集める」に掛けて用い、また、歌などの詠草をも さす。」(日本国語大辞典)。書名は歌語を書き集めたものということです。 三鴨村 1889年−1955年の間、それまで存在した甲村 【地図】 ・都賀村・太田村・大田和村(いずれも現在の栃木市藤岡町内)が合併した下都賀郡三鴨 村 が存在しました。 ××権現 本地垂迹思想に基づく神号で、「仏が権(かり=仮)に神の姿で現れる」の意味。 大田和権現 本地垂迹思想に基づく神名で、大田和村あるいは大田和山の鎮守の神の意味でしょう。 神社名を変更 神社名を変更するにはそれなりに動機が必要です。大田和権現が神社名を変更した動機と は明治政府による「国家神道」政策と考えられます。「国家神道」政策によって祭神を大 田和権現から無理矢理記紀神話の神・日本武尊に替えさせられましたが、その際に、神社 名を大田和権現から三毳神社に変更したものと考えられます。なぜなら祭神が大田和権現 (神名)から日本武尊に替わったのに、神社名が元の大田和権現(神社名)のままでは辻 褄が合わないからです。 三毳神社の由緒書き 三毳神社の由緒書きの内容のうち、江戸時代の歴史に関する部分は、おそらく大田和権現 時代の由緒書きに書かれてあったもので、比較的史実に則って書かれたものと思われます が、江戸時代より四百四年以上前の歴史に関する部分は、三毳神社になってからでっち上 げられた、全くのデタラメだと思われます。 神社名について 現在、三毳神社は三毳山麓の社と山上の祠と二つの建物が有ります。しかし、[三鴨誌] (1896年)には、『中ノ嶽ニハ三毳神社』、すなわち三毳山上に三毳神社があると書 いてあり、また三毳神社の社殿の寸法説明が一建物分しかありません。それで、もしかし たら当時、三毳山上の祠の建物しかなかったのかもしれません。そしたら当然、三毳神社 の「三毳」は三毳山の「三毳」でしょう。 なぜ三毳神社に名前を替えたかですが、 山の方は大田和山に代わって三毳山と呼ばれるようになったのに、その山にある神社が昔 の山の名前を使った大田和権現のままではおかしいでしょう。そこで、明治政府に三毳神 社に名前を替えたいと申し入れたら、それが認められたというところではないでしょうか ? 味もそっけも無い大田和という名前から、万葉集に「みかものやま」と詠われた由緒ある 山(実は、詠われたのではなく、ただ場所が出て来てるだけ)の名前に替えようと言うん ですから、明治政府は「是非そうしなさい」と認めてくれたでしょう。 (註4) 実は、「三杉川盆地窯跡群」は筆者がかってに付けた名前で、研究者達が付けた名前は「 三毳山麓窯跡群」です。 この名前を見て筆者は、「窯跡は現在の三毳山の東西南北のどの山麓に多く存在したんだ ろうか?」と考えました。誰だって同じ疑問を持つでしょう。 ところが栃木市藤岡歴史民俗資料館さんに教えてもらったら、三毳山麓には北面の山麓に ちょびっと有るだけで、ほとんどの窯跡は、三毳山の北に位置する三杉川盆地(佐野市で 使わている名称)の東の岩船山麓と西の山麓(寂光沢窯跡など)にあるんです。 だったら「岩船山麓窯跡群」と言うならまだしも、「三毳山麓窯跡群」というのはおかし いでしょう。こういうおかしい名前をつけると、後々間違ったこと(窯跡群は三毳山麓に 存在する)が定着してしまうんです。名前はよく考えてちゃんとした名前をつけましょう 。 「足利より佐野へ入る道に三毳有り」の謎 栃木県立図書館によれば、下記[下野風土記]にある「「足利と佐野の間に有る三毳の地」 について調査した資料は見当たらない」ということであった。 また、足利市教育委員会に、[下野風土記]にある「足利と佐野の間に有る三毳の地」 について、分かったら教えて下さいと問い合わせたところ、佐野市と栃木市の境にある 三毳山の資料が届いた。 [下野風土記]にある「「足利と佐野の間に有る三毳の地」については、おそらく誰も 調査していないんだろう。そもそも[下野風土記]などという史料の存在自体を栃木県の 皆んはご存知ないようだ。こちらが[下野風土記]の文を引用して「[下野風土記]に 載ってる三毳の地」と書いても、彼ら(栃木県立図書館、栃木県立足利図書館、 足利市教育委員会)には「[下野国誌]に載ってる三毳山」としか見えないようだ。 (1)[下野風土記](編著者未詳、1688年) 乾 (けん=上巻) 「阿蘇川原並美加保乃関 : 今案云 三毳 カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有 リ。 万葉十四 下野ノ−アソノ河原ヨ−石フマズ−ソラユトキヌヨ−ナガココロノレ 新千載 石フマヌ−阿素ノ河原に−行暮テ−美加保乃関(サキ)ニ−今日ヤトマラン 裏書云、 [八雲御抄] 『美加ノ保ノ関 慈覚大師誕生之処也、三毳ノ山古キ名所 也、有但馬国云々』」 坤(こん=下巻) 「三毳山 : [歌枕名寄] ニハ下野ノ名所ニ入 万葉十四 下野ノ−三カモノ山ノ−コナラノス−マクハシコロハ−タカケカモタン」 (考察) 1)[下野風土記]中の歌枕に関する部分を読んでの感想だが、[下野風土記]の著者は [下野国誌]の著者なんかよりずっと頭の良い人である。「足利ヨリ佐野エ入道ニ三毳有リ。」 は信じて良いのではないか? 2)『阿蘇川原並(=ならびに)美加保乃関 : 今案云三毳(みかも)カ、・・・』の 『三毳カ』は「美加保乃関の美加保とは三毳のことか?」と言ってるようだ。「みかほ」も 「みかも」も同じものと考えられたことがあったので、美加保の候補として三毳の地が 浮上したんだろう。 3)また足利と佐野との間を西から東に渡良瀬川が流れているので、[下野風土記]の著者は 『阿蘇川原』の川を渡良瀬川と考えたんだろう。 4)『美加保乃関ニ今日ヤトマラン』の「関所に泊まる」はおかしいので、この著者は 『美加保乃関』を「三毳の駅」つまり三毳にある宿場と考えたのではないか? つまり『足利ヨリ佐野エ入道ニ有』る宿場の在る場所が三毳という土地だったんではないか? 5)また、『阿蘇川原並美加保乃関 : 今案云三毳カ』の書き方から推理すると、 『阿蘇川原』と『美加保乃関』とが、ともに三毳に在ったとも取れる。 6)この著者は、「三毳山」と「阿蘇川原並美加保乃関or美加保乃関=三毳」とを全く 違う場所と考えている。三毳には、山が無いのかもしれない。 7)ところで、この三毳の地は[延喜式]にある足利の駅に近過ぎるので、同じく [延喜式]において足利の駅の隣の駅(通常駅間は約16km)と考えられている 三鴨の駅とは違うようだ。 (2)現在、足利と佐野の間に「みかも」という名前の土地はなさそうである。 根拠 国土地理院の二万五千分の一の地図で、足利と佐野の間を調べたが、「みかも」 という地名は見つからなかった。 正確には、足利と佐野の詳しい地図を調べるんだろうな。それと古地図を調べることも 重要だな。 (3)[下野国誌](河野守弘 著、1850年刊)ニ之巻 名所勝地 「三毳山(ミカモヤマ) 駅 都賀郡にあり。[兵部式]に三鴨駅とあるも此所なり。[和名抄]にもあり。山頂まで 七・八町許の登りなり、東北面は下津原村と云、西面は西浦村、南面は太田和村とて 三ケ村入会の地なり。ともに古は三鴨ノ郷なり。さて後に三香保崎とあるも、 此所にてミカホはカモの訛(ヨコナマリ)なり。」 (考察) 1)[下野国誌]の歌枕については、「当時一般にこう信じられている」という史実を述 べた物ではなく、@河野守弘が「自分はこう思う」ということをさも真実であるかのように「 この歌枕とは何々である」と書いたものである。そして河野守弘には、Aその歌枕の当時の 呼び名を隠すという悪い癖がある。現在の三毳山は[下野国誌]当時、三毳山などとは呼 ばれていなかったのである。[古河志](小出重固 編集、1830年作、古河藩領内の 地誌)によれば「大田和山」「みかほ山(=三顔山)」と呼ばれていたのである。 2)[古河志](1830年)の「大田和山(村)」の項から推定されるように、[下野 国誌](1850年)当時、現在の三毳山辺りに「みかも」と呼ばれる場所は存在しなか ったと考えられる。したがって『三毳山 (ミカモヤマ)』は河野守弘が勝手に付けた名 前であり漢字である。 3)河野守弘は[下野国誌]編集に際して[下野風土記]も参考にしており、三毳山の 「三毳」の漢字は、[下野風土記]の「三毳」を持って来たものである。 (4)[日本歴史地名大系](平凡社、1979年−2004年) 現在の足利市・佐野市・栃木市岩舟町・栃木市藤岡町の江戸時代の郷帳(ごうちょう、村 毎の石高(こくだか)の記録)から、これらの地に「みかも」と呼ぶ村が有るか無いかを 調べた。しかし「みかも」なんていう村はどこにも存在しなかった。ということは「みかも」は 村より小さい字(あざ)などの名前? ところで、江戸時代の足利・佐野辺りの字(あざ)などの詳細な地名って、何を調べれば いいの? それで、栃木県立図書館に「郷帳」に字(あざ)などの細かい地名って載ってるの?って メールで質問してみました。その回答が次です。 「当館で所蔵している以下の資料を確認すると、郷帳はどれも郡別に、「村名 (新田開発がされたときは新田名)」「石高」「知行者名」等が記載されており、 村内のさらに細かい字(あざ)名等は記載されていませんでした。 ・『関東甲豆郷帳 下野国 元禄郷帳・天保郷帳』 (『日本史料選書』(近藤出版社/編、発行 1988)より自館複製) ・『下野国郷帳 天保5年』(著者、出版者不明 1834 自館複製)」 (栃木県立図書館) (5)「足利ヨリ佐野エ入道」(その1)例幣使街道 倉賀野宿で中山道と分岐→玉村→五料→柴→境→木崎→太田→八木→梁田→天明→犬伏 →富田→栃木→合戦場→金崎→楡木(にれぎ)宿にて壬生街道(日光西街道)と合流して 日光へと至る。 太田宿(群馬県太田市) ↓ 八木宿(足利市福居町) : 現在、県道128号と152号の交差点を「八木宿交差点 」と言うようだ。八木宿辺りが[下野風土記]が言う「足利」だったのだろうか?いや八 木宿は「足利」の町の南側を、町並に沿って西から東に流ていた渡良瀬川の川向う(南側 )にあった小さな宿場だったようだ。 (八木節) ↓ 梁田宿(足利市梁田町) ↓ 渡良瀬川を北に越える。 : 足利と佐野の中間はこの辺りである。 【地図】 ↓ 川崎(足利市川崎町) ↓ 天明宿(佐野市天明町) : [日本歴史地名大系]によれば『佐野町(さのまち)とは 、近世における天明町・小屋町の総称』とのこと。この天明宿辺りが[下野風土記]が言 う「佐野」と考えてよいだろう。 (6)「足利ヨリ佐野エ入道」(その2)渡良瀬川の北側だけを通る道 (例えば、現在の県道67号線(桐生岩舟線)に相当する道、すなわち両毛線沿いの道が あれば、渡良瀬川の南側を通る例幣使街道などより「足利ヨリ佐野エ入道」の表現に合う 。) ところで[下野国誌]の地図を見ると、[下野国誌](1850年)当時、足利の町と 佐野の町との間に、「渡良瀬川の北側だけを通る道」が在ったようだ。そしてこの道は、 足利辺りでは、足利の町を通る道と渡良瀬川の南側の八木宿を通る例幣使街道とに分かれ ているが、寺岡村(現足利市寺岡町)で合流し、それより東側・佐野の町までは一本の道 のようだ。 また、[日本歴史地名大系](平凡社)の[栃木県の地名](1988年)によれば、寺 岡村(現足利市寺岡町)字(あざ)宿の三差路脇に「佐野道 足利道 太田道」と刻まれ た元文五年(1740年)銘を持つ道標(1980年に足利市重要文化財に指定)か残っ ているようだ。佐野道+太田道が例幣使街道であり、佐野道+足利道が「渡良瀬川の北側 だけを通って足利ヨリ佐野エ入道」である。この1740年時点で「渡良瀬川の北側だけ を通って足利ヨリ佐野エ入道」が存在したことがわかる。従って[下野風土記](168 8年)にある「足利より佐野へ入る道」とは、この「渡良瀬川の北側だけを通る道」の可 能性が高い。 「足利ヨリ佐野エ入道にある「みかも」の地」は、現在の町名で言えば次の町あたりに あったのだろうか? 足利市:常見町、八椚(やつくぬぎ)町、鵤木(いかるぎ)町、大久保町、迫間(はざま )町、多田木(ただぎ)町、奥戸町、駒場町、川崎町、梁田(やなだ)町、寺岡町 佐野市:村上町、免鳥町 これらの土地に「みかも」という場所がなかったか[日本歴史地名大系]平凡社)の [栃木県の地名](1988年)と[角川日本地名大辞典]の[栃木県](1984年) を調べてみたが、どちらの資料にも載っていなかった。 また、[古河志](1830年作、古河藩領内の地誌)に、足利郡上川崎村と下川崎村の 項目が有ったので調べてみたが、「みかも」という地名は載っていなかった。 (7)旧富田村 ところで、かつて足利と佐野の中間辺り(両毛線の富田駅辺り)に南北に長い富田村が あった。 富田村とは、明治時代の1889年に駒場村、迫間村、奥戸村、西場村、稲岡村、多田木 村、寺岡村が合併して足利郡富田村が誕生したが、1959年に足利市に吸収されて消滅 した村である。 そして、例幣使街道を通るにしろ、県道67号線沿いを通るにしろ、富田村辺りを通るこ とになる。 この辺りを探したら 「みかも」に関するヒントが見つからないか? その富田村の地誌[富田村郷土誌](1911年編纂)があるが、すいません、[富田村 郷土誌]はまだ閲覧できておりません。 (8)実地調査 実地調査するにしても、足利と佐野との間の街道沿いを調査することになるだろう。 実地調査は、古いお寺や神社の石碑に「みかも」と読む文字がないか調べてまわるのかな? あるいは、江戸時代の史料に「みかも」と読む文字がないか寺社に訊いて廻るのかな? 二荒の山 日光の寺社の歴史 但し、神仏習合時代の歴史ですから神社とお寺がぐちゃぐちゃです。(小文字 は筆者が追加) 766年:勝道上人(735−817年)、大谷川を渡り四本竜寺 【地図】 を創建。(日光山の起源) 767年:勝道上人、大谷川の北岸に二荒山大神をまつる。(本宮神社 【地図】 の創建=二荒山神社・輪王寺のもと。おそらく四本竜寺を中心とした神社でしょ う) 782年:勝道上人、二荒山(男体山)の初登頂を果 たす。(奥宮の創建二荒山 大神を祭る) 784年:勝道上人、中禅寺湖の北岸に神宮寺(中禅寺=現在の二荒山神社中宮祠 )を創建。 808年:下野国司・橘利遠、朝命により本宮神社の社殿造立。山菅の橋を架けて往来の 便に供す。 810年:嵯峨天皇(786−842年)より、四本竜寺を本坊とした一山の総号として 「満願寺」号を賜る。(つまり、これ以降お寺扱いとなったわけ) 829−33年:慈覚大師・円仁(794−864年)、このころ来山し、三仏堂 【地図】 (現在の輪王寺の本堂)を創建する。 927年:[延喜式神名帳]下野国河内郡 二荒山神社(つまり、河内郡の宇都 宮には二荒山という名前の神を祭った神社(官社)がありましたが、都賀郡の日光には官 社(神社)はなかったようです。おそらく、「満願寺」という号を朝廷からもらっている ように、日光の寺社はお寺扱いだったんでしょう。) 1215年:弁覚が新宮(現二荒山神社)を造営する。 1315年:仁澄により中禅寺の大造営が行なわれた。 ・・・・ ・・・・ 1617年:徳川家康(1543−1616年)に東照大権現の神号を勅賜。日光東照社 が完成し、久能山から徳川家康の神霊を遷葬する。 1636年:徳川家光により現在の東照宮の建物に造り替えられる。 1645年:東照宮の宮号が勅賜される。 1871年:神仏分離により日光山は満願寺、二荒山神社、東照宮に分かれる。 1883年:輪王寺号復活、満願寺が輪王寺と名称変更。山号は日光山。 [古今和歌六帖] 平安時代に編纂された私撰和歌集。全六帖(六冊)。およそ四千数百首の古今の和 歌を題別に収録する。[万葉集]から採られたと見られるものも1000首以上ある。 大中臣能宣 平安時代中期の貴族・歌人。三十六歌仙の一人。 なお、百人一首49番に みかきもり−衛士のたく火の−夜はもえ−昼はきえつつ−物をこそ思へ が能宣作として入っているが、作者は能宣ではないとの説が有力である。 日光山内 日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社、家光廟大猷院(たいゆういん)のある一帯 をさす。 【地図】 能因 平安時代中期の僧侶・歌人。俗名は橘永ト(たちばな の ながやす)。能因は法名。 小倉百人一首69番 あらし吹く−み室の山の−もみぢばは−竜田の川の−錦なりけり [古今著聞集] (ここんち ょもんじゅう) 「能因法師は、いたれるすきものにてありければ、<都をば−霞(かすみ)とともに−立 ちしかど−秋風ぞ吹く−白河の関>とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを 念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、「 みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。」 (口語訳) 能因法師は、とても風流な人で、「春霞が立つ頃に都を立ったが、陸奥の入り口である 白河の関に着いた頃には秋風が吹いていた」と詠んだのを、都にいてこの歌を披露するこ とは残念であると思って、人知れず家に籠もって日に当たって肌を焼いてから「陸奥国方 面へ修行に出かけた折によんだ。」と披露した。 (どうも、「都をば・・」の和歌は陸奥を旅した時の歌ではないようです。確かに。春に 都を立って、秋に白河の関に着くというのは、時間が掛かり過ぎです。どこをうろうろし てたんでしょう。) 「日光権現」 [新和歌集]の(1260年前後)に対して、既に1200年頃から日光の神は「日光 権現」だったようです。 [転法輪抄] 100年後の史料を引用するのは適当ではありませんが、適当な史料が無かったので参考 にさせていただきます。 [神道集](1352−60年頃)第二十三 日光権現事 「日光権現は下野国の鎮守である(この頃下野国の鎮守だったんですね)。往昔に赤城大 明神と后を諍いつつ、×佐羅×(小野猿丸)を語った事は遥か昔である。 二荒山 が 本地垂迹を顕した のは、人皇四十九代光仁天皇の末から桓武天皇の初め、天応二年(782年(9月30日 まで))年から延暦初年(この年も同じく782年(9月30日以降))の頃である。勝 道上人(735−817年)が山に登り、一大伽藍を建立された。今の 日光山 である。 日光山には男躰と女躰がある。 男躰の本地は千手観音である。 女躰の本地は阿弥陀如来である。 (男体山と女体山が有るということではなく、伽藍に男躰と女躰とが有るという ことのようですね。)」 道興准后 室町時代の僧侶で 聖護院 門跡 。 1486年から翌1487年に聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国。後に東国廻国を紀 行[廻国雑記]として著す。 准后(じゅごう・じゅんこう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后 (三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。 瀧の尾 滝尾(たきのお)神社。 【地図】 弘法大師が滝尾神社を創建したのが820年だそうです。この神社は、勝道上 人関係の神社じゃないんですね。 新宮(本社=現二荒山神社)、滝尾、本宮(四本龍寺、本宮神社、現輪王寺)の三社を もって日光三社(所)大権現というそうです。 中禅寺とて権現ましましけり (これを読むと中禅寺湖畔に、中禅寺の立派な伽藍があったのではないかと思われます。 なお1315年に中禅寺の大造営が行なわれました。) 『権現』とは、『仏教の仏が、仮に(=「権」)日本の神の姿で「現」れたもの』とする 本地垂迹思想による神号です。 ということは、『中禅寺とて権現ましましけり』を直訳すると、「中禅寺(当然お寺の 名前でしょう)という神が鎮座します」となって、筆者には何が何だか全くわかりません 。神仏習合っていうのは、複雑怪奇でホントにうんざりです。 インターネットWSの[日光修験]の記事によれば、『中禅寺とて権現ましましけり』と は次のようなことだそうです。 「勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、 中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称す る。」 もう一件インターネットWSより 「1872年の神仏分離により中宮祠(現二荒山神社中宮祠)と中禅寺が分離し、中禅寺 は「日光山 輪王寺 別院 中禅寺」となり、現在は、天台宗の寺院である。 1902年の大山津波で流失。本尊は中禅寺湖に流失したが、浮き上がり引き上げられた と云う。 のち中禅寺は現在地に移転、本尊立木観音も同時に現在地に遷座。 (現在中禅寺湖畔の歌ヶ浜にあり、「立木観音」) 【地図】 ※立木観音は明治の大山津波で、流出し現在の歌ヶ浜に移安する。高さ約6m。後補も 多いが12世紀後期の作と推定される」 渺漫(びょうまん) 果てしなく広がっているさま。 日光山 江戸時代には日光の寺社群を総称して「日光山」と呼んだようです。今の「日光山内」の 寺社だけのことじゃないんですね。 なお、新和歌集(1260年前後)の時代から、「日光山」という言葉は有りました。お そらく、意味はこれと同じだろうと思います。 続いて次の 日光山の条 参照。 日光山の条 「仏寺部の日光山の条」? そんなものは[下野国誌]にはありません。「日光山」とは 、五之巻(仏閣僧坊)の下記満願寺(神仏習合組織ですが寺扱いされていたようです)の ことのようです。 [下野国誌]五之巻 仏閣僧坊 「満願寺(神仏習合組織・満願寺の寺部分が今の輪王寺?) 都賀郡日光山なり。一条実相院とも云。一山の衆徒二十六院、坊舎八十宇あり、圭田一万 三千六百石。開山勝道上人なり。観世音の座す山と云義を以て補陀洛山と号(ナツ)くと 云。弘法大師登山してより日光山と改む。そは大日遍照の山と云義なるべし。・・・五十 一世ハ輪王寺一品守澄法親王と申奉る。夫より以来世々 輪王寺宮 と称し奉り・・・」 (「五之巻」には、その他「国分寺」の説明が有りますが、国分寺は日光の寺ではないの で省略します) [下野国誌]三之巻 神祇鎮座 「満願大権現(神仏習合組織・満願寺の神社部分・満願大権現が今の二荒山神社?) 日光山の新宮なり。延暦三年(784年)五月勝道上人(735−817)の崇め祀る所 なり。もう一社ハ今の 本宮権現 にて、新宮ハ・・・慈覚大師(794−864)の建立なりとぞ。・・・」 (参考1)日光山 輪王寺(にっこうざんりんのうじ) 比叡山「延暦寺」(滋賀県)に「延暦寺」という建物はありません。山上山下のたくさん の寺院を統合して「比叡山延暦寺」というんです。 「日光山 輪王寺」も同じで、日光山全体を統合していました。明治の神仏分離以降でも 本堂・大猷院・慈眼堂・常行堂・中禅寺・護摩天堂・四本龍寺等のお堂や本坊、さらに十 五の支院を統合して出来ており、その全体を指して輪王寺と総称します。 (参考2)明治期の輪王寺について 明治になると神仏分離令が出され、神と仏の区別がなかった輪王寺は窮地に立たされる。 1869年には輪王寺の門跡号が廃止されたため、古い呼び名の満願寺に戻っている。ま た、1871年には日光山の神仏分離がおこなわれ、過去には109か寺あった寺が満願 寺1か所に併合されてしまった。これらの悲運を乗り越え、1882年に一山15か院が 復興、翌年には輪王寺、そして門跡呼称も復活する。 (考察)[下野国誌](1850年)の頃、日光山内には、東照宮、満願大権現(新宮) 、満願寺があり、二荒山神社という名前の神社は無かったようです。 そして1722年に女流歌人・石塚倉子が『二荒山へ詣で 』ていますが、詣でたのは 神仏習合組織の満願寺でしょう。 おそらく、補陀洛山・二荒山・日光山は満願寺の山号で、補陀洛山=二荒山=日光山=満 願寺のことなんでしょう。但し補陀洛山という名前が存在したかどうかは疑問ですね。 黒髪山 柿本人麻呂 飛鳥時代の歌人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。 小倉百人一首3番 あしびきの−山鳥の尾の−しだり尾の−ながながし夜を−ひとりかも寝む ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証は ない。『拾遺和歌集』にもとられているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうである ように、人麻呂に擬せられた歌であろう。 うはたま 「うばたま・ぬばたま・むばたま」とは黒いものに掛かる枕詞で、植物ヒオウギの丸くて 黒い種子のこと。 山菅の橋 山菅 1.山に生えている野生のスゲ。 スゲ : 菅笠を編むカサスゲやたまに庭に植えるカンスゲを含むカヤツリグサ科のス ゲ属植物の総称で,植物学的にスゲと呼ぶ特定の種はない。 2.ヤブランの古名。(倭名類聚抄) ヤブラン(藪蘭) : 林野の中の陰地に自生するユリ科の多年草。花は上向きに咲 き、実は緑色。秋に根を堀り乾燥し、滋養強壮・催乳・咳止めに用います。 「やますけ」で和歌を検索したら42件ヒットしました。ほとんどは、山菅のことのよ うです。 柿本集 柿本人麻呂(660年頃−720年頃) おしてるや−やますけかさを−おきふるし−のちはたれきむ−ものならなくに 万葉集・武田訓(600年代後半−700年代後半) あしひきの−やますかのねの−ねもころに−われはそこふる−きみかすかたに (考察)柿本人麻呂の歌の「やますけかさ」の「やますけ」は、「山に生えている野生の スゲ」のように思えますが、万葉集の歌の「やますかのね」の「やますか」は「ヤブラン 」のように思えます。 山菅の橋 現在の神橋(しんきょう、おみはし、みはし) 【地図】 (伝説) 「奈良時代の末に勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加 護を求めた際、 深沙王 (じんじゃおう)が現れ、2匹の蛇を放つと、その背から山菅(やますげ)が生えて橋に なったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋(やますげのはし)や山菅の蛇橋(やま すげのじゃばし)とも呼ばれている。」 この話の基になったと思われる[補陀洛山建立修行日記](鎌倉時代の偽作)では、 「深沙王が現れて右手に持っていた赤い蛇と青い蛇の2匹の蛇を放つと、それらの蛇が繋 がって、大谷川に虹の形をした蛇橋が作られた。それで勝道上人がその橋を渡ると、たち まちその橋の上に山菅が生えた。そこで上人はその橋を「山菅の橋」と名づけた。」 (考察)この話の『それで勝道上人がその橋を渡ると、たちまちその橋の上に山菅が生え た。そこで上人はその橋を「山菅の橋」と名づけた。』の部分は、「なぜ『山菅の橋』と 呼ばれるようになったか?」その由来をでっち上げたものです。 理由1)蛇橋の話に山菅が登場する根拠がない。蛇の体に山菅が生える訳がない。 理由2)この橋の名前に「山菅の」だけがついて、「蛇の」がつかないのは納得できない。 この話は、「この橋にはなぜ橋脚がないか?」という話と、それと全く関係の無い「この 橋はなぜ山菅の橋と呼ばれるようになったか?」という二つの話を、一つの話にまとめあ げようとしたから、うまくまとめられなくて、話に矛盾が生じたんです。 この橋のことなのかどうかはっきりしませんが、清少納言(966年頃−1025年頃)の [枕草子] (1001年?)に「山菅の橋」の名が出てきます。 「61段 橋はあさむつの橋。長柄(ながら)の橋。天彦(あまびこ)の橋。浜名の橋。ひとつ橋。 うたた寝の橋。佐野の船橋。堀江の橋。鵲(かささぎ)の橋。山菅(やますげ)の橋 。一筋わたしたる棚橋、心狭けれど、名を聞くにをかしきなり。」 澄憲(ちょうけん、1126−1203年) 安居院流 唱導(=説教、説法)の祖 澄憲は唱導の名人として知られ、その美声は人びとを惹きつけ、多くの聴衆の感涙をさそ ったといわれている。子の聖覚も唱導の名手であった。 平治の乱(1159年)に際して、兄弟の藤原成憲ばかりでなく、澄憲も下野国(または 信濃国)に配流されたとの説があります。 [神道集]にある、安居院流によって唱導された神社の縁起譚の中の [上野国児 持山之事] に、主人公の配流先として下野国の室の八島が登場しますが、それには、安居院流唱導の 祖である澄憲が絡んでるんでしょう。 日吉大宮橋殿供養表白 日吉大社の橋殿橋を架けた時の、橋を架けた目的を公示した文書らしい。 大権菩薩 正式名称は、大権修利菩薩(だいげん・しゅり・ぼさつ) 禅宗、特に曹洞宗寺院で尊重され祀られる伽藍神(寺院を守護する神。)の1つ。 摂州(せっしゅう) 正式名称は、摂津国(せっつのくに) かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。領域は、現在の大阪府北 中部の大半、兵庫県南東部。 長柄橋 淀川の大阪府域のどこかに架けられていた古代の橋。(現在の長柄橋の場所ではない) この橋は1000年代には既に存在しませんでしたが、貴族たちの間で「天下第一の名橋 」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられたようです。和歌のほとんどは、水面にわ ずかに残った橋桁を詠んだもののようです。 (「なからのはし」で和歌を検索したら、155首ヒットしました。) ・古今集(905年) 伊勢(900年頃の歌人) なにはなる−なからのはしも−つくるなり−いまはわかみを−なににたとへむ ・赤染衛門集 赤染衛門(956年頃−1044〜1053年の間) われはかり−なからのはしは−くちにけり−なにはのことも−ふるるかなしき [神道集](1350−60年頃) 第三十八 橋姫明神事 「橋姫は日本国内の大小の川の橋を守る神である。摂州長柄の橋姫、淀の橋姫、宇治の橋 姫など数多いが、ここでは長柄の橋姫の由来を述べる。 人皇三十八代斉明天皇(594−661年)の御宇(在位655−661年)、摂州長 柄橋がたびたび架けられたが長持ちしなかった。そこに膝の破れを白布で縫付けた浅黄の 袴を履いた男が妻子と共に通りかかった。男は橋材の上で休みながら、「膝の破れを白布 で縫付けた浅黄の袴を履いた者を人柱を立てれば良い」と言った。橋奉行がこれを聞き、 男とその妻子を人柱に立てた。身を投げる時、妻は歌を詠んだ。 物いえば−長柄の橋の−橋柱−鳴かずば雉の−とられざらまし この女は橋姫と成り、人々は長柄橋の近くに神社を立て橋姫明神として祀った。」 [攝津名所圖會](秋里籬島(あきさと りとう)編集、1796−1798年刊) 「嵯峨天皇の御時、弘仁三年(812年)夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり 」(なお推古天皇の21年(613年)架橋との説もある。) 行基菩薩 ウィキペディアより、 行基(ぎようき、ぎょうぎ、668−749年)は、日本の奈良時代の高僧。 その業績によって、朝廷から菩薩の 諡号 を授けられ「行基菩薩」と言われた。 なお、その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも呼ばれていたようす。(「行基菩薩」 は本地垂迹思想の垂迹神に相当し、文殊菩薩は本地仏に相当するんでしょう。) 行基と同じような業績から神に祭り上げられた人物の例としては、行基以外は二宮尊徳 くらいのもんでしょうか? 実在の人物が神として祭られた例としては、行基(668−749年)の例は、かなり 初期の例ではないでしょうか? 菅原道真(すがわら の みちざね、845−903年 )の(おんりょう)のたたりを恐 れて、菅原道真を神として祭った時期は分かりませんが、行基の例はそれより150年以 上は古いでしょう。 なんか、なぜ神として祭られたのか分からないような実在の人物の神がいっぱいいるんで すね。戦国武将で神に祭られた人物が何人もいるでしょう(今でも神社があります)。遅 い例としては、 乃木希典(のぎ まれすけ、乃木将軍、1849−1912)です。 ところで、 靖国神社 の祭神のように、(新政府軍側・天皇側な どの)味方の軍関係者であるというただそれだけの理由で、時の権力者(朝廷、幕府、領 主、豪族など)によって神に祭り上げられた例って、日本の歴史上有るんでしょうか? もしどなたかご存知でしたらお教え下さい。 山崎の橋 現京都府八幡市−京都府乙訓郡(おとくにぐん)大山崎町 【地図】 で淀川に架かっていた橋。この橋も行基(668−749年)が725年に架けたという 話があるようです。 [土佐日記](933年頃) 紀貫之(866または872−945年)著 「十一日、雨いさゝか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見 て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の 橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。ここに 相応寺 のほとりに、しばし船をとどめてとかく 定むることあり。」 [都名所図会](秋里籬島 編集、1780年刊) 「山崎の橋は桓武帝即位三年(783年)にこれを造る。中頃より淀の橋をかけて絶えて なし。いまは舟渡しありて狐川の渡しといふ。いにしへの人家を南にうつして、いまの橋 本(現京都府八幡市橋本、上記大山崎町の淀川対岸)の宿これなり。」 これによって彼の橋を構え 『巌を彫り、穴を作り、これによって彼の橋を構え、これを造る。』 これは、刎橋(はねばし)という架橋形式の説明文と思われます。 ウィキペディアより 「刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上 に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下 のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。 これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てず に架橋することが可能となる。 日光の神橋では、刎橋と桁橋を組み合わせた構造を取っている。」 四十丈 現在の神橋の長さは28mなので、『四十丈』(約120m)は何かの間違い。 那須 源実朝 鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。 小倉百人一首93番 世の中は−つねにもがもな−なぎさこぐ−あまの小舟の−綱手かなしも ゆりがね(淘金) 土砂にまじっている砂金を水中で揺すって選び分けること。また、その砂金。 ゆる:揺る(「淘る」「汰る」とも書く)。水の中などで、ふるい動かして選び分けるこ と。「砂金をゆる」 [夫木和歌抄](ふぼくわかしょう) 鎌倉後期の私撰類題和歌集。撰者は冷泉為相(れいぜいためすけ)の門弟で遠江勝田(と おとうみかつまた)(現静岡県牧之原市)の豪族藤原(勝田)長清。 |