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歌枕室の八島の歴史の旅 の備考の補遺の補遺


(註1) [奥の細道古註集成〈1〉1・漂泊の思い〜26・瑞巌寺]西村 真砂子 , 久富 哲雄編集 笠間書院 2001年 参照

(註2) 武田村径 著[おくのほそ道鈔](1760年)と 桃喬舎可常 著[おくのほそ道]( 1775年)
両注釈書の「將(はた)このしろと云魚ヲ禁ス」の註 : 「俗に伝へ云、浅間の御身が ハりに此魚を野辺送りにして焼たると云ハ此所也。其焼たる跡に今草木はへず、其しるし 也と云つたふとや。」([おくのほそ道鈔]の文で代表させました)

どちらの注釈書も[日本鹿子](1691年刊)の文を丸写ししたもの(桃喬舎 可常著は、おそらく武田村径著を書写したもの)と思われ、ほぼ同じ文でした。[日本鹿 子]の文丸写しのためどちらの注釈書にも、上記『此所』の説明がありません。そのため 『此所』がどこか?は[日本鹿子]を読まないとわかりません。 [日本鹿子]

 つまり、富士山の神・木花咲耶姫のコノシロの逸話は、[日本鹿子]に記載されている 『下野国の惣社村に立つ室八嶋大明神』すなわち現在の栃木市惣社町の大神神社(おおみ わじんじゃ)辺りを舞台とした出来事であると註しています。そして[奥の細道]では、 このコノシロの故事と全く繋がりの無い無戸室の故事も同じ場所の出来事であるというこ とになっています。「[奥の細道]の話は何か変だな」と思うでしょう。だって同じ神の 同じ場所での出来事なら話に少しぐらい繋がりがあってもよさそうでしょう。ところがそ れが全く無いんです。

 実は、[奥の細道]にある無戸室の故事の話は、コノシロの故事の話の後に作られたも ので、コノシロの故事と無戸室の故事とを結びつけると問題が起きるんです。
と言うのは、コノシロの故事では、木花咲耶姫の故郷であるかつて栄えた町を室の八島と していますが、[奥の細道]では、その町の中のコノシロの故事の舞台となった、そして [奥の細道]の無戸室の故事の舞台でもあった神社の境内一帯という狭い範囲を室の八島 としているからなんです。つまり後から作られた話・[奥の細道]の無戸室の故事の話で は、以前からあったコノシロの故事の話に出てくる室の八島の場所と違う場所を室の八島 としてるんです。[奥の細道]に紹介されている室の八島の場所というのはそういう場所 なんです。そんな室の八島の場所にちゃんとした根拠があると思いますか?

 なお、上記注釈書の文の冒頭に「俗に」とありますように、富士山の神(=浅間神社の 祭神・木花咲耶姫)のコノシロの逸話は世間に広まっており、芭蕉も聞いていたんです。
それで芭蕉は、「曾良が説明してくれた室の八島の場所と、世間に広まっている 室の八島の場所とは食い違っているなぁ」と思いながらも、どちらが正しいのか確認でき なかったので、しかたなく曾良の話をそのまま[奥の細道]に載せたんです。

平宗盛(たいらのむねもり)
平安末期の武将。清盛の三男。内大臣。兄重盛,父清盛の死後,一門を率いて源氏に抗戦 したが,壇ノ浦の戦で捕らえられ,近江で処刑。

[本草和名](ほんぞうわみょう)
901年〜923年の間(918年?)に作成された日本最古の薬物辞典(本草書)
「黄連 : (中略)和名加久末久佐」

[和名類聚抄](わみょうるいじゅ(う)しょう)
934年頃作成された日本最古の百科事典
巻十 草木部 草類の黄連(蓮)の項   「かくまくさ」

麻続
[和名類聚抄]には、「麻続」のルビなし。しかし、「麻続王(をみのおほきみ)などの 例から「麻続」は「おみ」と読むようだ。」ということなんでしょう。

佐野・犬伏・旗川
佐野(さの) =旧佐野町(天明町・小屋宿町)のこと。 【地図】

犬伏(いぬぶし) =旧犬伏町のこと。←犬伏町・富岡村・浅沼村・黒袴村・西浦村・鐙 塚村・富士村・韮川村・大栗村 【地図】

旗川(はたがわ) =旧旗川村のこと。1889年並木村、免鳥村が合併し旗川村となり ました。 【地図】


葛生
葛生(くずう) =旧葛生町のこと。葛生町(葛生町・中村・会沢村・多田宿のうち山菅 坪)は1955年常盤村(牧村・仙波村・豊代村)・氷室村(柿平村・水木村・秋山村) と合併しました。 【地図】


植野 ・界
植野(うえの) =旧植野村のこと。1889年植野村、赤坂村、田島村、君田村、飯田 村、船津川村が合併し植野村となりました。 【地図】

界(さかい) =旧界村のこと。1889年馬門村、高山村、高萩村、越名村が合併し界 村となりました。界小学校の位地 【地図】


田沼・赤見
田沼(たぬま) =旧田沼町のこと。田沼町(田沼宿・戸奈良村・栃本村・小見村・吉水 村・新吉水村・多田宿・山越村 )が1954年三好村(岩崎村・船越村・戸室村 )・野 上村(長谷場村・御神楽村・白岩村・作原村)が田沼町に編入。1956年飛駒村の一部・新合村が 田沼町に編入。 【地図】

赤見(あかみ) =旧赤見村のこと。1889年赤見村、小中村、石塚村、出流原村、寺 久保村が合併し赤見村となりました。 【地図】

鵺退治(ぬえたいじ)
鵺(ぬえ)とは伝説上の怪しい鳥のような動物。体の部分部分がそれぞれ別の生き物に似 ているとされ(つまり、キメラです)、得体の知れない存在の代名詞となっている。
[平家物語]では、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。また、[源 平盛衰記]では背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニ ワトリと書かれた史料もある。
しかし、元々「鵺」の語はトラツグミのような“夜に怪しい声で鳴く鳥”の総称のような ものだったが、後の時代に怪物の名として定着した。

「鵺のような」と形容されるのは政治家などの人物であり、「得体の知れない」「奇妙な 」「底が知れない」「食わせ者だ」「薄気味の悪い」といった意味合いを含む表現。

源頼政(1104−1180年)の鵺退治
[平家物語]より
近衛天皇(在位1142−1155年)の時代、夜な夜な宮中の屋根に正体不明の黒雲が 現れ、帝がそれにうなされる日々が続いていた。このとき帝の警護を任されたのが頼政だ った。頼政は信頼する部下の猪早太(いのはやた)一人だけを連れ、夜間の番をしている と、丑の刻(午前1時〜3時頃)、噂の通り宮殿の屋根に黒雲が現れた。頼政が矢を放つと見 事に命中し、何かが地に落ちたところを猪早太が駆け寄りとどめを刺した。灯りをともし て確認すると、頭は猿・体は狸・尾は蛇・手足は虎という化け物であった。
近衛天皇は大変に喜び、「獅子王」の号を持つ剣を頼政に褒美として与えた。

源三位頼政(げんざんみよりまさ)
朝廷で平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた源氏としては、源頼政 が突出した公卿の従三位に叙せられていたことから源三位頼政と称された。

浅沼村
現在の佐野市浅沼町。 【地図】
 [下野国誌]に『其(真菰の池の)東の方三町許に浅沼村あり、このところに古城跡あ りて、往昔阿曽沼四郎廣綱居住す。[東鑑]に、阿曽沼四郎ハ、浅沼四郎とも書たり、さ れバ浅沼ハ、もと阿曽沼の訛なること知るべし』とあり、[下野国誌]当時、「浅沼村は 古くは阿曽沼村という名前だった」という説があったようです。

[沙石集]
1283年成立の仏教説話集。

責められ
オシドリ(雌)は「あんたがうちの亭主を殺したんでしょう」と詰問の末、
日暮るれば−いざやといひし−あそ沼の−真菰(まこも)のうへに−独りかもねむ
と詠んで飛び去った。

小屋町
「浅沼村」の西に在った町ですが、現在の佐野市にこの地名は有りません。

安蘇沼
[下野国誌]が言う『安蘇沼 : 安蘇郡佐野天明駅の、東の入口小屋街と云所の田の中 にあり』の位置と、[古河志]が言う『此山(現在の三毳山)の西の麓西浦村近く安蘇沼 といふ有。』の位置とは異なるようだ。[下野国誌]の「安蘇沼・・・あり」は、「[沙 石集]に出て来る安蘇沼とは、小屋街の田の中にある真菰の池のことではないか?」という 当時の俗説でしょうか?

真菰の池
「真菰の池」は、[下野国誌]当時は東西約8m、南北約12mの小さな沼だったって。

 浅沼と阿曽沼との音の類似、および真菰の生える池の共通点から、浅沼村の「真菰の池 」が[沙石集]に出て来る阿曽沼であると考えられるようになったんではないでしょうか?
なおこの伝説の地は、宇都宮市一番町の「おしどり塚」など全国各地にあるようです。

[古今著聞集]
1254年に一旦成立し、後年増補がなされた、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説 話集。
(巻二〇)の粗筋
馬允某が陸奥国田村郷の赤沼でオシドリの雄を射るが、夢に女が現れて夫が殺されたこ とを恨み、
日暮るれば−さそひしものを−赤沼の−まこも隠れの−独り寝ぞ憂き
([沙石集]では
日暮るれば−いざやといひし−あそ沼の−真菰(まこも)のうへに−独りかもねむ)

の歌を口ずさんで泣く泣く去って行った。目覚めて見ると、雄鳥のくちばしをくわえたま ま雌鳥が死んでいた。これを見た馬允は出家した。

[今昔物語集]巻一九第六話
あらすじ
京に貧しい生侍がいた。産後の妻が肉食を望んだが、頼める知人も買う金もない。思案 にくれた彼は弓矢を持って美々度呂池に出かけた。池には鴨の雌雄が浮いている。放った 矢は雄鴨に命中した。大喜びで家に持ち帰り、翌朝調理しようと棹にぶら下げておいたと ころ、夜半に羽音がする。生き返ったかと見ると、夫を慕う雌鴨が来ているのだった。心 を打たれた男は愛宕護山の山寺に出家し、ひたすら聖人となって修行したという。

律令
東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法 や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。

東山道
道(みち)としての東山道 : 律令時代の東山道は、畿内と「行政区画の東山道」諸国 の国府を結ぶ幹線道路。

これからすると駅・駅家とは、国府間を結ぶ幹線道路の中継施設とも見ることが出来ます 。

足利駅
足利駅([和名類聚抄]では駅家(うまや))は、足利市伊勢町・助戸町付近に比定され ているようです。 【地図】

八里
駅間は16kmです。と言うことは、[下野国誌]が言う一里とは約2kmのようです。 [下野風土記](1688年)で使っている一里も、約2kmと考えると記述内容とよく 整合します。

インターネットで調べても、江戸時代に、「約2kmを一里とする地域が在った」などと いう記事は無いんですが、どうも「約2kmを一里とする地域が在った」ようですね。

左岸
河川を上流から下流に向かって眺めたとき、右側を右岸,左側を左岸と呼ぶんだそうです ね。

鹽谷
[下野国誌](1850年)名所勝地の部
塩屋里(シホノヤノサト)
「塩谷郡氏家駅と喜連川駅との間にて、早乙女(サオトメ)坂 【地図】 と云所なり。和名抄には、郡名にのみ塩屋ありて、郷名には無し。(この後[廻国雑記] の文を引用)」

現在の塩谷郡塩谷町は、1957年に玉生村・船生村・大宮村が合併して、塩谷村となっ たもので、[白河記行](1468年旅)にある「鹽谷」ではありません。

三十里
古代の1里は5町、1町は現在の約110m。従って1里は約550mとなり、三十里と は、約16kmです。

本貫地(ほんかんち)
律令制で,戸籍に記載された土地。(現在でいうと本籍地のようなもの)

権門勢家(けんもんせいか、−せいけ)
権勢のある門閥や家柄。平安前期から室町時代まで,権勢ある貴族が政治的,社会的に特 権を誇示している状態を指す語。

くろとのはま(黒戸の浜)
最初に (7) を読んで下さい。

(1)[八雲御抄](1221−1242年の間)
 「名所」部の「浜」の分類に、「くろとの浜」はありません。

(2)宇都宮歌壇の歌集[新和歌集](1260年前後)
 「くろと」「くろとの浜」の歌はありません。

(3)[歌枕名寄](1303年頃)巻廿六:東山道五
下野国の歌枕を詠んだ歌の中に、次の二首が有ります。
6828まとろまし−こよひならては−いつかみむ−くろとのはまの−あきのよのつき
6829うゑてみる−ところのなにも−にぬものを−くろとにさける−しらきくのはな

(6828の歌の解析)
この歌は[更級日記](さらしなにっき)に有る歌で、作者の菅原孝標女(すがわらのた かすえ の むすめ)が1020年、13歳の時に父の任地である上総国(かずさのくに 、現千葉県の一部)の国府(市原市に在ったと推定されている)から京の都に戻る途中、 東京湾沿いの海岸で詠んだものと考えられますので、下野国の黒戸の浜を詠んだものでは ありません。

(6829の歌の解析)
   植えてみる−所の名(=黒戸)にも−似ぬものを−「黒」戸に咲ける−「 白」菊の花
『(白菊の花を)植えてみる所の名』を黒戸というのですから、この歌の黒戸は、単にこ の歌を詠んだ歌人が住んでいた狭い範囲の土地の名前と思われ、歌枕になるような場所の 名前なんかではなかろうと思われます。
 それから考えますと、この黒戸が下野国の歌枕・黒戸の浜のことであるとはとても思え ません。なぜなら、単純に考えれば、下野国の黒戸の浜は景勝地だったから歌枕になった んだろうと思われ、また、下記(7)[那須野の民話]の説明から分かりますように、下 野国の黒戸の浜はとても人が住んでいるような場所ではなかったろうと思われるからです。


(4)[廻国雑記](1487年下野旅)
 著者・道興准后 は[廻国雑記]の旅で現那須町稲沢を通っていますが、[廻国雑記] の中では「くろとの浜」に触れておりません。どうも、当時「くろとの浜」は名の知られ た歌枕ではなかったようです。

(5)[下野風土記](1688年編著)
   [下野風土記 乾・坤]佐藤行哉校訂、栃木県郷土文化研究会、1958 年
 下記(7)[那須野の民話]によれば、[下野風土記]に「牛淵の近くに黒戸浜という 浜辺があった」と書かれてあったようです。

佐藤次信(継信)同忠信石塔 : 那須郡佐武井村(現大田原市寒井)にあり、 此所古ノ奥州海道也。
(佐藤継信・忠信兄弟は共に源義経の家臣で、いずれも源平の戦いで活躍した武将。 源平の戦い(1180−1185年)の際、継信は屋島の戦いで戦死し、忠信は源平の戦 い後、源頼朝の反感を買って京都で殺された。)
故ニ此ノ二ヶ所、兄弟ノ石塔ヲ立ルトテ、奥州忍(信夫)ノ里ニ人ノ妻ノモトヨリ此石塔 ヲ牛ニ引セ来タリシニ此所ニテ牛死、替ヲ求共牛ナシ、志ノ至ル所何クトモ同事ト、カク 此所ニ縁有ト見エタリトテ立置ト云伝タリ。良玉集([良玉集]はもっと古い史料 なので間違い。正しくは[玉葉](公家・九条兼実の1164−1200年間の日記)か ?)

(註)『佐藤継信同忠信石塔』は、各地にある源義経伝説の類の話と思われます。

黒戸浜 : 同郡右ノ石塔ノ近所、今ハ黒戸トハカリ云、古ノ奥州海道ニテ中川 (那珂川)ノ近所也。
マトロマジ 今宵ナラテハイツカ見ン 黒戸ノ浜ノ秋ノ夜ノ月 菅原孝標女
植えて見ル トコロノ名ニモ似タ物ヲ 黒戸ニ咲ル白菊ノ花 中原師光
 右黒戸ノ前ナル菊ヲ見テヨメルトイヱリト、今案、是禁中カ、(以下無用のため省略) 」

(考察)これらの歌は、上記(3)「歌枕名寄」に有る二首を引用したものと思われます。

ここで「黒戸」を国語辞典で調べたら、
黒戸(くろど) : 黒戸の御所(くろど‐の‐ごしょ)。宮中の清涼殿の北、滝口の戸の 西にあった細長い部屋。仏間に用いられた。薪のすすで黒くなっていたところからの名。 なお明治維新後の神仏分離に伴い黒戸は廃された。   と有りました。

 この「黒戸」の意味と上記の(6829の歌の解析)とから判断して、[ 下野風土記]の著者の『是禁中か?(=この歌にある黒戸の在った場所は宮中か?) 』( 言い換えれば、この歌の黒戸は下野国の歌枕・黒戸のことではないのではないか?)とい う判断は正しかったようです。
[下野風土記]の著者は誰か分かりませんが、後の「遊行柳」や「室の八島」の ところで考察してますように、この人はかなり博識な人であったことが、この黒戸の一件 からも分かります。

(6)[下野国誌](1850年)
 名所勝地部には黒戸の浜は紹介されてません。と、言うことは[下野風土記](168 8年編著)以降幕末の頃までには、歌枕・黒戸の浜の存在は忘れられてしまったようです 。


(7)[那須野の民話]112話(2006年)
 「黒川と那珂川の合流する所に黒川発電所(那須町稲沢 【地図】 )がある。この発電所の脇に牛淵と言われる大きな淵があった:大田原市川田(かわだ) 。・・・[下野風土記](1688年編著)に「牛淵の近くに黒戸浜という浜辺があっ た」と書かれている。黒戸浜と言ったり黒戸と言われていた。その浜をさがしてみたが今 はもうその場所を知る人はいなかった。」

((7)の考察)
この場所は国道294号線沿いです。ということは、古代の街道・東山道沿いの稲沢の里 の近くに黒戸の浜が在ったということでしょうか?もしそうなら、下野国の黒戸の浜が歌 枕になる可能性は有りますね。


(8)和歌の検索
 「くろとのはま」のキーワードで和歌を検索したら、[更級日記]の上記の一首しかヒ ットしませんでした。
 また「くろと」のキーワードで和歌を検索しましたが、下野国の黒戸或いは黒戸の浜を 詠んだものと思われる歌は一首もありませんでした。

(まとめ)
以上より、[下野風土記](1688年編著)の記述から、下野国に「黒戸」という名の 場所は存在したようですが、「黒戸」或いは「黒戸の浜」という名の下野国の歌枕は存在 しなかったと判断されます。

(ひとりよがりの空想)
 かつて、『[更級日記]の歌に出てくる「くろとの浜」とは「しもうさorしもふさ(下 総)」の浜である』と書いた史料が存在した。そして、それを見た[歌枕名寄](130 3年頃)の編集者は、くずし字で書かれてあった「しもうさorしもふさ」を「しもつけ」 と読み間違えた(そういう例があるんです)。そして「くろとの浜」「くろと」とは下野 国の歌枕の名前であると誤解してしまった。それで[歌枕名寄]には「くろとの浜」「く ろと」は下野国の歌枕であると書いた。

 その後、下野国の人が[歌枕名寄]に「くろと」「くろとのはま」という下野国の歌枕 が載っていることを見つけました。そして江戸時代前期の頃、下野国内で[歌枕名寄]に ある「くろと」「くろとのはま」探しが 行われました 。その結果、かつての東山道沿いの現那須町稲沢の近くの川沿いに「黒戸」という名の場 所を見つけました。そこで、ここが[歌枕名寄]に載っている歌枕の「くろと」「くろと のはま」ではないかと 考えました 。その場所が、[下野風土記](1688年編著)に紹介されていたんではないでしょう か?


行われました
江戸時代前期の頃って、各藩が、「場所が明確でない歌枕の地の調査」を盛んに行ってい たようです。

考えました
例えば中禅寺湖畔の「歌が浜」や「菖蒲が浜」のように湖なら浜はありますが、普通、川 には河原は在っても浜は無いんですが。

未詠歌歟
意味はわかりません。もしかしたら、『「みかほの山」を詠んだ歌は無いかもしれない』 の意味かもしれません。「みかほのやま」「みかほやま」で和歌を検索したら、確かに一 首もヒットしませんでした。

異例です
例えば「あふさかの関」の記載内容は次のとおり。 「あふさかの関 近 古今 萬 男  いはし水 祓」  また「みかもの山」などは「山」の分類の中に「みかもの 同  しもつけの−」とあるだけなんです。


合流します
三杉川が秋山川に合流するか、秋山川が三杉川に合流するかは、三杉川と秋山川とのどち らが大きい川かだけなんじゃないの?つまり小さな川の方から大きな川の方に合流し、そ の逆は無いということじゃないの?現在の地図の上からは旧秋山川が三杉川に合流してい るとしか見えないんだから。

三毳
三毳とは、[下野風土記]の著者が、「みかも」という音(おん)だけしか分からず、 漢字名の分からない、この場所の地名(三毳)と坤(こん=下巻)の山名(三毳山)との 両方に共通して当てた当て字で、万葉仮名の「三(み)」と万葉仮名の「毳(かも)」とを 組み合わせて作った言葉。 ([下野風土記]の備考の 三毳山 参照)
ということで、実は三毳は漢字でなく、仮名なんです。
後の[下野国誌]の三毳山も、この[下野風土記]から持ってきた言葉です。

栃木県立図書館
栃木県立図書館ってスゴイよ。
 こちらが1調査依頼するでしょ。それに対して彼らは、依頼者がホントに知りたいのは 1だけじゃないだろう、ホントはこういうことが知りたいんだろうって推理して、その答 えを回答してくれるんです。だから1の内容の質問に対して2〜3の内容の回答が帰って 来るんです。またその答え方が押し売り的じゃなく、「(依頼の主旨からちょっとずれま すが、)こういう資料もございます」って回答するんです。また「1の調査依頼に対する 回答はこうですが」って、最初に1の調査依頼に対する回答をしてくれるんで、説明が非 常に分かりやすいんです。これ当たり前のようですが、実は栃木県立図書館以外ではなか なかできないんです。どこも、自分はこう説明したいってのが中心になるんです。
依頼者の調査依頼文に対して、「依頼者が調査依頼したいホントの目的はこういうことだろ うと推理して、それに回答してくれる」県立図書館なんて、確率的に栃木県立図書館の一 機関だけでしょう。

八木節(やぎぶし)
現在では全国的な盆踊り歌であるが、元は両毛線沿線の群馬県と栃木県で愛されて来た俗 謡である。そして、「その発祥の地は群馬県か?栃木県か?」の争いが現在も続いている。

「アアー、さても一座の皆様方よ、わしのようなる三角野郎が、四角四面の櫓(やぐら) の上で、音頭とるとははばかりながら、しばし御免を蒙りまして、何か一言読み上げます る、文句違いや仮名間違いは、平にその儀はお許しなされ、許しなされば文句にかかる オーイサネ」

[世界大百科事典]平凡社より
「民謡。栃木県足利郡御厨町字八木(現、足利市)から出た名称。江戸時代に例幣使街道 にあたってた旧八木宿でおこなわれた盆踊りで、もと越後の「新保広大寺くずし」の口説 節が土着したもので、八木宿に近い山辺村堀込(現、足利市)に、通称堀込源太(本名  渡辺源太郎)という馬方の美声がこれをひろめたといわれる。」

(ここんちょもんじゅう)
鎌倉時代、伊賀守橘成季(たちばな の なりすえ、生没年不詳)によって編纂された世俗 説話集。

二荒山
男体山のことでしょうか?

本地垂迹を顕した
二荒山(男体山)が垂迹神になったということでしょうか?
そして『二荒山 が 本地垂迹を顕した』 のが、782年ということですから、これは勝 道上人が男体山に登って、山頂に二荒山大神の祠(現奥宮)を祭ったことを意味している ようです。

日光山
当時の「日光山」とは、中禅寺湖畔の伽藍のことでしょうか?それとも麓の「日光山内」 のことでしようか?
1315年に仁澄により中禅寺の大造営が行なわれた。ということですから、この「日光 山」とは、中善寺のことではないでしょうか?

聖護院
聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁 )の寺院。聖護院門跡( - もんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は増誉 (ぞうよ、、天台宗の僧、1032−1116年)、本尊は不動明王である。

日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞(かすみ?修験道特に本山 派の地域ごとの支配・管轄地域。)を統括する総本山である。

修験道(しゅげんどう):山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを 目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。

本山派(ほんざんは):平安時代から江戸時代にかけて存在した天台宗系の修験道の一派 。熊野三山を拠点とし、聖護院を本寺とした。

門跡
@ 平安時代には,祖師の法統を継承している寺院または僧侶のこと。門葉。門流。

A 平安末以降,皇族・公家の子弟などの住する特定の寺院を指すようになり,しだいに 寺格を表す語となった。

この場合は A

輪王寺宮
1655年に守澄法親王(しゅちょうほうしんのう)が輪王寺宮(りんのうじのみや)を 称した。寺名の輪王寺はこれによる。

本宮権現
[下野国誌]にはなぜか本宮権現の説明がありませんが、[日光山志](植田孟縉著、1 824年 序)にはちゃんと「本宮権現」の説明(四本龍寺、末社、紫雲石・・・)があ り、これを読むと、本宮権現とは簡単に言えば今の輪王寺に相当するようです。

深沙王
玄奘三蔵がインドへ行く途中、砂の中から現れ、玄奘を守護したと伝えられる。
姿は、1面2臂(ひ、腕)で髑髏の瓔珞(ようらく、飾りの一種)をつけ、象革の袴を履 く、持物については一定しないが、「蛇」や戟を持つものがある。
仏教の守護神の一人で、大般若経の十六善神の上首として信仰されることが多い。

安居院流(あぐいりゅう)
もと比叡山竹林院の里坊。その開基・澄憲を始祖とする説経師が根拠地としたので,この 系統の説経を安居院流という。

諡号(しごう)
諡号または諡(し、おくりな) : 貴人の死後に贈る、生前の事績への評価に基づく名 。

靖国神社(やすくにじんじゃ)
「明治以降の日本の戦争・内戦において天皇・政府・朝廷側で戦没した軍人を祀る神社。

(ですから、戊申戦争当時の幕府軍の兵士は敵ですから、当然、現在の「靖国神社」 の神には祭られておりません。
これだけで、「靖国神社」がどういう代物であるかは、ご理解いただけると思います。)

(東条英機が靖国神社に神として祭られましたが、当然です。彼は、昭和天皇のために戦 争したんですから。 つまり、東条英機は、「戊辰戦争における天皇側の一兵卒」に相当 するんですから、神に祭りあげなかったらおかしいでしょう。戦争中に死んだか、戦争後 に死んだかは関係ないんです。彼は、とにかく昭和天皇のために戦って死んだんですから)


前身は、1869年に明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社で、1879年 に靖国神社と改称。」
・・・これは何かの辞典の解説です。

次の1)or2)より前は、一人の人間(個人)に神性を認めて個人を神として崇めてま したが、1)or2)以降は、個人でなく、集団に神性を認めて、神として祭るようにな ります。
(すいません。今までの歴史から考えて、こういう現象は私には理解できません。)


1)【維新殉難者の慰霊顕彰】
幕府によって誅殺された志士の慰霊をどのように行うか。これは幕末から明治時代にかけ て最も重要な課題の1つでした。
文久2年(1862年)5月25日、真木和泉守が楠公祭で池田屋事件の殉難者を神式で 祀りました。これが天皇側の戦死者?を神式で祀った最初の例と云われます。

殉難(じゅんなん)とは
国家や宗教などにかかわる危難のために、身を犠牲にすること。

2)【桜山招魂社の創建】
慶応元年(1865年)、下関桜山に招魂場が建設されました。
招魂場には天皇側の奇兵隊の戦死者の共同墓地が造営され、その共同墓地の前方には鳥居 と社殿が建立されます。

3)【戊辰戦争の天皇側の戦没者の神格化】
太政官布告 慶応4年(1868年)5月10日
(すいません。布告文が長いんで、ここに引用するのを省略させていただきます。)

4)【京都霊山護國神社】
明治元年(1868年)、政府は殉難志士、戊辰戦争戦没者(ただし味方側の者だけ)を 御祀りした神社を京都に建立すると布告。この社が後の「京都霊山護国神社」です。

5)【東京招魂社】
1869年、戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、東京招魂社が建立されました。

(考察)靖国神社付属の施設・遊就館(ゆうしゅうかん)に行ったことがないんですが、 テレビ番組で見ると「『政府・朝廷』の利益の為にあなた方を犠牲にした。」という『政 府・朝廷』側の内容はなさそうです。そりゃそうでしょう、相手は神なんですから。テレ ビで見た内容は靖国神社の神がいかに当時の政府に尽くしたか?(神なのに変ですね)と いう内容ばかりのようでした。

相応寺
古代山崎には関戸院・河陽離宮・山崎駅の他、その域内に相應寺があった。
相應寺は権僧正壱演が866年に開基と伝える。(日本三代実録)
平安末期まではその面影を残していたと伝える(今昔物語)も、漸次衰微し、近世初頭に は一宇の草堂となり、幕末頃には廃絶したようである。
現在、離宮八幡宮境内に「扇形石・塔心礎」が残される。

特徴は何一つ無く
花厳寺(華厳寺)の有った観音山や太平山など付近の山と比較しても、全く特徴の無い山 です。

御種人参
高麗人参・朝鮮人参のこと。
「御種人蔘」の名は、八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種と苗を入手させ、 試植と栽培・結実の後で各地の大名に「御種」を分け与えて栽培を奨励したことに由来する。

胡鬼子
ツクバネの実、煎って食べたり、塩漬けにして料理のつまに利用するそうです。


小鳥の内臓の塩辛。

婿菜
むこな=シラヤマギク、春の若芽は、ヨメナ(嫁菜)に対してムコナ(婿菜)と呼ばれ食用 にされるそうです。若い葉を茹でて水にさらして、和え物、おひたし、汁の実などとして 食用にします。

ヨメナ:道端で見かける野菊の一種。秋に薄紫か白い菊の花をつける。ただし、よく似た 姿のキク類は他にもいくつかあり、一般にはそれらをまとめてヨメナと呼んでいることが 多い。
若芽を摘んで食べる。古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウ ハギと呼ばれている。ヨメナご飯なども有名。

川海苔
カワノリ目カワノリ科に属する淡水性の藻類。

春慶塗
漆塗法の一種。木地に黄または赤で色付けし,透明な透漆(すきうるし)を上塗りして木 目の美しさをみせる技法。

浅茅原(あさぢがはら)
東京都台東区花川戸にあり、「浅茅ヶ原の鬼婆」で知られる。
「浅茅ヶ原の鬼婆」は、観音菩薩の霊験譚として知られ、「一つ家の鬼婆(ひとつやのお にばば)」ともいう。また、一つ家(ひとつや)あるいは浅茅ヶ原(あさぢがはら)とも 称される。
この鬼婆の話に興味が御座いましたら、インターネットででもお調べ下さい。

実は、「奈良市奈良公園にある丘・「浅茅ヶ原」が歌枕で、沢山の和歌に詠まれています。
万葉集・武田訓(744〜759年)
かすかのの−あさちかはらに−おくれゐて−ときそともなし−わかこふらくは

浅茅:まばらに生えた、または丈の低いチガヤ。文学作品では、荒涼とした風景を表すこ とが多い。
チガヤ:イネ科の多年草で各地の原野や川の堤などに群生する。長い地下茎から束生する 茎は高さ30〜70cmで,節には白毛がある。春に開花。

(註21) 「しめしとは夏の一名也。(されば夏の原といふべき也)」は、「シメジとは茸の一名也 。(されば茸の原といふべき也)」の誤写でしょう。ところが「しめじとは夏の一名也。 」が[広辞苑]と[日本国語大辞典(第二版)]に載っているからお笑い草。

関の藤河
この歌に出てくる「せき」とは、673年から奈良時代の789年までの間、現在の岐阜 県不破郡関ヶ原町松尾に存在した「不破(ふわ)の関」のことです。
現在、不破の関跡 【地図】 の北西方向2〜3kmの所に藤川という場所がありますが、この歌の場合は不破の関を流 れている藤 河(現在の藤古川(ふじこがわ))という意味のようです。

壬申の乱
672年、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)が関ヶ原で戦った壬申の乱で は、藤古川をはさんで両軍が対峙したと言われています。(そんな史料あるのか な?)

この歌には、次の本歌があるようです。
古今集 神遊びの歌 陽成天皇(869−949年)大嘗祭美濃の歌 1084
美濃の国−関の藤川−絶えずして−君に仕へむ−万代までに
  この歌から「関の藤川」という歌枕?慣用句?が生まれたようです。

室町時代の公卿・古典学者の一条 兼良(いちじょう かねよし・かねら、1402−14 81年)の紀行に[藤 川 の 記](藤 河 の 記)があります。
思へ君−同じ流れの−絶えずして−万代契る−関の藤川

沓冠歌(くつ・かむり(かぶり、こうぶり)うた )
(辞典の説明は全く要領を得ない。元のページに戻って、「沓冠歌」の言葉の次に出てく る歌を見て、自分で考えるのが一番良いようです。
 こういう技法を「折句(おりく)と言うようです。

アイソ
ウグイ:コイ目コイ科ウグイ亜科に分類される魚。多くの地方でオイカワやカワムツなど と一括りに「ハヤ」と呼ばれるほか、分布の広さから数多くの地方名があり、アイソ・・ ・などとも呼ばれる。
私の知っているアイソとは、「ハヤの産卵時期で、体側に朱色の婚姻色が色を増す時期だけ アイソと呼ぶようです。」でした。

皮麻
麻製品を作る過程の初期の中間品で、大麻生産者は皮麻の形で出荷していたようですね。

2012年栃木県産 皮麻の作り方
大麻刈り取り当日に 数分熱湯につける(殺菌の意味も)。乾燥させる、保管する。出荷 時期に水につける。オ床に寝かせ 朝晩水で湿らせ、藁・布団で蒸らす・・・3日間(季 節により違う)発酵させる。皮を剥ぐ。皮麻のできあがり。出荷時に発酵させ皮剥ぐ方法 なので備後方式と違う。

宮葱、千手葱
或るウェブサイトより引用。
【宮葱】
・ 「宮ねぎ」(別名「ダルマねぎ」)とは栃木市吹上地区西部の宮町 【地図】 でのみ作られており、宮ねぎの名前は、この宮町に由来し、その栽培の歴史は、古く江戸 時代から続いています。
・見た目は、下仁田ネギとそっくりです。
・寒さが深まり降霜にあうと、葉部は先端から黄変し、軟白部の甘みが一段と増してきま す。
・宮ねぎの甘さと風味を楽しむには、半煮えの状態で食べるのが一番です。すき焼きや寄 せ鍋はもちろんのこと、ねぎぬた、天ぷら、焼き鳥等でお召し上がり下さい。また、そば やうどんの薬味としてもうってつけです。
・冬の旬の素材である「宮ねぎ」のおいしさを存分に味わう食べ方はずばり「すきやき」 です。

なお、今は「千手葱」と言う名前はないようです。

青芋(えぐいも?)
サトイモか?ヤマノイモのこと。
(ここでは、恐らくサトイモのこと。)

皮麻
荷縄にするような物ですから、あまり精製していない麻のようです。皮麻の作り方がWS に載っていました。

蜀黍
モロコシ(蜀黍、唐黍)は、イネ科の一年草・穀物。熱帯アフリカ原産。ソルガムとも呼 ぶ。古く[いつ?]は中国での呼称であるコーリャン(高粱)とも呼ばれた。主要な栽培食 物のひとつであり、穀物としての生産面積ではコムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに 次いで世界第5位である。熱帯、亜熱帯の作物で乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たな い地域でも成長する。

紫雲英青刈大豆
紫雲英と青刈大豆と二つの物じゃないかな?
紫雲英(ゲンゲ) : マメ科ゲンゲ属の植物。レンゲソウ(蓮華草)、レンゲ、とも呼 ぶ。肥料や飼料となる。
青刈(り)大豆 : 実の収穫を目的とせず,茎・葉を肥料や飼料に利用するための大豆 。

櫑子(らいし)
高坏(たかつき)に似た縁の高い器。酒や菓子などを盛った。櫑の訓は「さかだる」。
この意味で合ってるんだろうか?「櫑子四合」の意味がわからない。

(つるばみ)
ドングリのこと。「橡帛」とはドングリ色の布、つまり茶色の布のこと。

(はなだ)
現在の「藍色」のこと。

(はしばみ)
ヘーゼルナッツ(セイヨウハシバミ)の実のような色。柔らかい黄土色。

青木香
しょうもっ こう:合わせ香の材料の一。ウマノスズクサ科の植物の根とされる。
せい もっこう:ウマノスズクサの根を乾燥させた生薬。過去にはキク科の木香との間に 混乱が見られた。鎮痛・消炎・解毒のほか,薫香料として用いられる。

蓬莱山(ほうらいさん)
中国、古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱、方丈、瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地 方の東海中にあり、仙人が住み、不死の薬をつくっており、宮殿は金玉、白色の鳥獣がお り、玉の木が生えているとされた。

(ろく)
(あとに打消しの語を伴って用いる)
正常なこと。まともなこと。満足できる状態であること。また、そのさま。まとも。
「ろくな品物がない」「ろくに休みもとれない」

ウェブサイトの[語源由来辞典]より
「ろくでなし」の「ろく」は、一般的に「碌」と書くが、これは当て字である。
元々は「陸(呉音でロク)」と書き、日本で「陸(ロク)」は、土地が平らなことから物 や性格がまっすぐなさまを意味していた。
その否定として「陸でなし」となり、性格が曲がった人という意味が転じて、現在使われ ている「ろくでなし」の意味となった。

仙洞御所(せんとうごしょ)
退位した天皇(=上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処を言う。そこから転じ て退位した天皇(=上皇・法皇)の御所を言い、さらに転じて上皇・法皇の異称としても 使われた。

フツ
沖縄ではヨモギのことをフーチバと言いますが、これはフツが変化したものと思われます 。なお[倭名類聚抄]にもヒツというヨモギ以外の名前が載っています。


その単価からお灸のモグサに加工したものであることがわかる。

奥州街道
概略現在の国道294号線、このルートはいつ頃開通したんでしょう?
鎌倉時代には「開通していた」と書いた史料があるようですが、いつ頃開通したかは分か っていないようです。


東側にずれているようです
東山道のルートと関係あるのかどうか知りませんが、古代の白河郡の郡衙(ぐんが)は、 現白河市よりちょっと東の泉崎村関和久(いずみざきむら せきわく)に在りました 【地図】

門跡(もんせき、もんぜき)
皇族・貴族が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことで、寺格の一つ。

渇仰(かつごう)
仏教で、仏を心から仰ぎ慕うこと。

(ひこばえ)
樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。 太い幹に対して、孫(ひこ)に見立て て「ひこばえ(孫生え)」という。

奇瑞(きずい)
めでたいことの前兆として起こる不思議な現象。吉兆。

[元亨釈書](げんこうしゃくしょ)
日本の歴史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済宗の僧、虎関師 錬(1278−1346年)。全30巻。
「釈書」は釈、つまり仏の書物。収録年代は、仏教初伝以来、鎌倉後期まで700余年に 及び、僧の伝記や仏教史を記す。南北朝時代に大蔵経に所収された。

外ヶ浜(そとがはま)
外が浜は、青森県東津軽郡・青森市に相当する地域の陸奥湾沿岸を 指す古来の地名である。
古くはさらに広い範囲を指して、西は津軽半島の日本海沿岸を含むとする説や東は下北半島の 尻屋崎までとする説がある。

歌枕の地として知られ、西行や藤原定家など多くの歌に詠まれた。
 みちのくのー奥ゆかしくぞー思ほゆるー壺の石文ー外の浜風(西行)
 みちのくのー外が浜なるー呼子鳥ー鳴くなる声はー(註)うとうやすかた(藤原定家)

(註)うとうやすかた(善知鳥文治安方) : 伝説上の鳥の名。
陸奥(むつ)の国の外ヶ浜にすみ、親鳥が「うとう」と鳴くと、子が「やすかた」とこたえる という。
「うとうやすかた」で検索すると、いろいろ出て来る。

[延喜式神名帳]
[延喜式神名帳]中の「伊勢神宮」についての記載例を紹介します。
「大神宮(オホムカムノミヤ)三座(相殿坐神二座。並大。預月次新甞等祭。) 」

(考察)[延喜式神名帳]は「神社名帳」ではないので、(オホムカムノミヤ)の(オホ ムカム)とは、天照大御神(アマテラスオホムカム)のことでしょう。つまり「大神宮(オ ホムカムノミヤ)」とは、「天照大御神の宮(アマテラスオホムカムノミヤ)」の意味で しょう。
 また三座の神の内、天照大御神が主祭神で他の二座は相殿ですが、相殿の神名の紹介は 省略したんでしょう。

 このことを念頭において、「近世室の八島 の備考」の文まで戻ってください。

(註101) 例えば、神奈川県の大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)の主祭神・記紀神話の大 山祇(オオヤマツミ)は明治時代に替えられたもので、江戸時代には本地垂迹思想に基づ く石尊大権現でした。

関三刹(かんさんさつ)
江戸時代に関東における曹洞宗の宗政を司った3箇所の寺院。
  大中寺(だいちゅうじ) - 下野国(栃木県栃木市大平町西山田)
  總寧寺(そうねいじ) - 下総国(千葉県市川市国府台(こうのだい))
  龍穏寺(りゅうおんじ) - 武蔵国(埼玉県入間郡越生町(おごせまち))

「大中寺の七不思議」
 1.開かずの雪隠(せっちん)
 2.油坂
 3.馬首の井戸
 4.根なし藤
 5.東山の二つ(一つ)拍子木
 6.不断のかまど
 7.枕返しの間

*根なし藤 : これは、[雨月物語]の[青頭巾]に関連付けた話です。これより「大 中寺の七不思議」が、[雨月物語](1776年刊)以降にこじつけられた物であること が分かります。
大中寺の話によれば、[青頭巾]の主人公の快庵禅師が、物語の最後の方で、持っていた 藤の木の杖を地面に突 き刺して寺の繁栄を祈願したところ、この杖が芽を出し大きく育った、とのことですが、 [青頭巾]に藤の木の杖は登場しません。

[青頭巾]
物語の筋は、今昔物語(1120−1150年の間?) 19巻の2 「三河の入道 大江 の定基 出家すること」を参考にしたようです。

吉田二位殿
吉田家の歴代当主は正二位の位を与えられていました。この吉田二位殿とは 吉田兼敬(1653−1731年)のことかと思われます。

コノシロの池
[駿河国新風土記](1834年)より
「その広さ7、8間(14−16m)」「時ニヨリテ水ノアルコトモアリ。又ナキコトモ アリテ、魚ナドノ住ムベキ処ニアラズ」
コノシロ池は、富士山頂の浅間神社奥宮の近く、静岡県下山道口(富士宮口)から山小屋 ・富士館と郵便局の間を左方へ進んだ平坦な所にある、水溜りのようなものがコノシロ池 だそうです。 【地図】

狐神を祭る場合にも制魚を供える
柳多留
 このしろは−初午ぎりの−台に乗せ
  *コノシロは、初午(はつうま、下記)の際にお稲荷さんに供えるが、それだけで、 普段我々が口にすることはないの意味。・・・コノシロの風習は奥が深い!

(註)初午:2月の最初の午の日で、稲荷神社の祭りの日。

[唯一神道名法要集](ゆいいつしんとうみょうほう ようしゅう)
吉田兼倶 著。唯一神道に関する事項を問答形式で記述したもの。

[先代旧事記]
または、[先代旧事本紀](せんだいくじほんぎ)
(806−810年)以後、(904−906年)以前に成立したとみられている、神代 から推古天皇までの歴史書。
本文の内容は[古事記]・[日本書紀]・[古語拾遺]の文章を適宜継ぎ接ぎ(つぎはぎ )したものが大部分だが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。

思いますが
近世になってから、祭神を記紀神話の神・木花咲耶姫に替えられたと考えられる浅間神社 ・埼玉県の鷲宮神社・栃木市の大神神社の例では、祭神・木花咲耶姫に対する本地仏は存 在しなかったと判断されます。

諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)
徳川幕府が、1665年に制定した神社を統制するための法令。全国の神社に対し、社領 の売買禁止などのほか、吉田神道を正統としてその統制に服することを義務づけた。

権現
日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想 による神号。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で 、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示します。

菩薩
仏教において一般的に成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者のことを指す。
この意味だと、菩薩とは「仏に成ることを求める存在」ということになり、菩薩 は仏ではないということになりますね。そして仏とは大日如来などの如来のことということ になりますね。

本地に関する部分を削除し
でも、[浅間御本地御由来記]というタイトから「本地」という言葉を削除するのを忘れ ました。それで、現存する史料は、[浅間御本地御由来記]というタイトルにもかかわら ず、本文中に「本地」が登場しないというおかしなことになっています。でもこのことに 触れた参考書を見たことが有りません。おそらく参考書の著者は気づいていないんです。

連祥院般若寺 (れんしょういん はんにゃじ)
江戸時代には、太平大権現(現太平山神社)の 神宮寺 でしたが、1868年の廃仏毀釈に よりことごとく破壊されました。その後、1904年に太平山神社の参道・アジサイ坂の 登り口に再建されました。現在、其の建物の形状から「六角堂」の名で知られています。


神宮寺(じんぐうじ)
神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。別当寺、神護寺、神 願寺、神供寺、神宮院、宮寺ともいう。
別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。
神宮寺とその神社の関係は様々で、どちらが主体だったかなど一概には言えない。上賀茂 神社のように、神社の従属下に小規模な仏堂がわずかにあり、神宮寺と称した場合もあれ ば、日光東照宮のように、大社だが、寺院・僧侶(輪王寺)がその運営を完全に掌握した 場合もある。

715年には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国 家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始めた。

彫眼 (ちょうがん)
仏像の目を木から彫り出し、彩色などで表現する技法。

玉眼(ぎょくがん) : 平安時代末期に、より仏像の目に現実感を持たせる為に玉眼 という、水晶を加工して、像の内側から嵌め込み、内側に瞳を描き、後ろから紙を当てる 技法が発明されました。
 その一番古い例は奈良県長岳寺の阿弥陀三尊像(1151年)で、玉眼の技法が流行る とそれ以後の仏像の目の多くはこの玉眼で表現されました。

[国花万葉記]
どんな史料か?インターネットで調べましたが、「地誌」としか分かりませんでした。ま た編集者・菊本賀保の人物像は全くわかりませんでした。
 なおこの本が出版されたのが大阪ですので、菊本賀保は上方の人と考えられ、下野国の 地誌については、次の[和漢三才図会](1712年)同様、他の史料を参考にして書い ているだけでしょう。

佐野源左衛門常世
学者によれば、佐野源左衛門は謡曲[鉢の木]で創作された架空の人物のようです。

しかしおもしろいことに、佐野市の正雲寺地区公民館 【地図】 の北西、約18,000uの長方形の敷地に土塁が残されており、築城年代、築城者は不明とな っていますが、佐野源左衛門常世の居館であったとされています。[古河志]にも載って います。また佐野市鉢木町の願成寺 【地図】 には佐野源左衛門常世の墓があります。(どちらも葛生地区です)

謡曲[鉢の木]
北条時頼(1227−1263年)の廻国伝説をヒントに創作され、現在「北条時頼の廻 国伝説」の一つとなっている物のようです。
 作者は観阿弥(1333−1384年)か世阿弥(1363−1443年?)かという ことで作者不明。
 「鉢の木」事件の舞台は、『急ぎ侯ふほどに、これははや 上野の国佐野 のわたりに着きて候』、つまり上野国の「佐野の渡り」付近で、下野国の佐野付近ではあ りません。おそらく「佐野の舟橋」で有名な歌枕の地だったから、ここを謡曲[鉢の木] の舞台に取り上げたんでしょう。また謡曲[鉢の木]の作者は「佐野の渡り」辺りの地理 を、知る必要がなかったので、ほとんど知らなかったと思います。
佐野の舟橋の和歌
「さののふなはし」で和歌を検索したら、79首ヒットしました。
万葉集・武田訓(744−759年)
3420かみつけの−さののふなはし−とりはなし−おやはさくれと−わはさかるかへ
肖柏の[春夢草]
肖柏(しょうはく、1443−1527年)
 よのならひ−あやふきなかに−あつまちや−なさへうらめし−さののふなはし

上野の国佐野
群馬県高崎市の倉賀野駅近くの烏川沿いにある上佐野町・下佐野町・佐野窪町辺り。 【地図】

天孫
天(あま)つ神の子孫。特に、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫、瓊瓊杵尊(ににぎの みこと)。

明星
明星、日輪、月輪は、仏教関係の天体名だと思うんですが、すいません、よくわかりませ ん。

(註102) この「御本地虚空蔵」の項の「御相殿二神」とは、次の(7)[下野国誌]の記述から推 測して、天照太神、豊受太神のことと思われます。
 また同じく[下野国誌]の記述から推測して、次の「御本地大日」と「御本地千手」の 垂迹神は『神社御取調の時』(1759年)以降に追加された可能性があります。


「太平大権現・熊野大権現・日光大権現の三神が一緒に祭られるようになったのは」(1 586年から)の意味でしょう。
 その前は、太平大権現だけだったんでしょうか?江戸時代、他の史料に登場する祭神は 太平大権現(本地は虚空蔵菩薩)だけですから。

神社造立
「当時の立派な社殿を建てたのは」の意味でしょう。それ以前から社殿はありました。

藤原広照
皆川藩主の皆川 広照(みながわ ひろてる、1548−1628年(1576−1603 年藩主))のことと思われます。

別当
この場合の別当とは別当寺のこと。
別当寺(べっとうじ) : 専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理す るために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当( 社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺(じんぐう じ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。

観世太夫
猿楽(のちの能楽)観世流の家元のこと。観世流の始祖の観阿弥が、初代の観世太夫。太 夫とは、ある種の芸能人の称号、あるいは敬称で、観世、金春、宝生、金剛の四座の家元 をそれぞれ太夫と称し、観世太夫、金春太夫などという。

[神道集]の鹿嶋大明神
神になる前 垂迹(神) 本地(仏) 現在の神社
天津児屋根命 鹿嶋大明神 十一面観音 鹿島神宮

天津児屋根命(あまつこやねのみこと)とは、記紀神話の神ですが、[神道集] では鹿嶋大明神になる前の姿として登場しています。
尚、[延喜式神名帳]には、「常陸国鹿嶋郡 鹿島神宮 名神大・月次新嘗」とあります 。

鹿島神宮の現在の祭神は、武甕槌(たけみかつち)大神です。現在は「本地垂迹」の時代 ではありませんので、武甕槌大神は、現在の浅間神社の祭神・木花咲耶姫神と同様に、「 神になる前の姿」でも「垂迹神」でもなく、単に「祭神」です。

ウィキペディアによれば、
鹿島神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献上の初見は、[古語拾遺](807年 成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述だそうです。

[古語拾遺](807年成立)時代に、「鹿島神」には既に「武甕槌神」という記紀神話 の神の別名(と言うか、本地垂迹思想における本地仏に相当する記紀神話の神)が有った ということになります。えっまさか?
[古語拾遺]のこの内容は、[神道集](1350−60年頃)以降に書き換えられたも のではないでしょうか?

「トマトは野菜か?果物か?」
1893年、アメリカで「トマトは野菜か、果物か?」が争われた。
当時のアメリカでは、野菜の輸入には関税がありましたが、果物の輸入には関税がありませんでした。 そのため、当時ニューヨーク市最大のトマト輸入業者だったJohn Nix & Co.は 「トマトは果物」と主張し、税金を払わない方向へ持っていこうとしました。 しかし、税金を徴収したい農務省は「トマトは野菜である」と強く主張したため、 輸入業者は植物学者にトマトが植物学的に果物であることの証明を依頼し 「トマトは開花部分から成長し、種子を含む構造のため植物学的に果物といえる」と 説明してもらいました。
しかし両者が頑なに譲らないため、論争はついに裁判へと発展。裁判開始から1年後、 最高裁判所が出した判決は「トマトは野菜である」。
判決文には「トマトはキュウリやカボチャと同様に野菜畑で栽培される。 食事中には出されるが、デザートには出されない」と記されていました。

農林水産省によると、
苗を植えて1年で収穫する草本植物は「野菜」として取り扱っています。
一方で、目安として2年以上栽培する草本植物 及び木本植物で、 果実を食用とするものを「果樹」と定義しています。
(尚「2年以上栽培する草本植物で、果実を食用とするもの」に どんなものがあるのかを知らないので、 これは無視しましょう。
つまり、草の実が野菜で、木の実は果物としておきます。尚 年輪の無いのが草で、年輪の有るのが木です。)

スイカやメロン、イチゴなどは、栽培方法が定義上の果樹ではなく野菜に該当するため、 分類上は「野菜」ということになっています。農林水産省の生産出荷統計上では、 このように野菜とされるもののうち果実的な利用をするものを「果実的野菜」として、 さらに分類しているのです。

(註103) 朝日寺伝説にはツナシのほかにコノシロの呼び名も登場するものがありますが、他の史料 から引用したこのあらすじには、コノシロのことが省略されている可能性があります。ただ し元々の話にコノシロの名が登場していたかどうか?

藤原種継
実は、奈良時代の実在の政治家(737−785年)の名前と同じ。

平康頼
生没年未詳、 平安後期の武士。[平家物語]の「卒都婆流」などに登場する人物。


音読み:チョ
訓読み:た(まる)、みずたま(り)

[神道集]
南北朝時代の天台系遊行宗教者集団(安居院 唱導教団(あぐい しょうどうきょうだん) )によって語られたと思われる説話をまとめたもの。

阿野津
現在の三重県津市に在った日本の古代から中世にかけて栄えた港湾。

関白
関白が存在するのは約880年以降で、持統天皇(生没年:645−703年)時代には 存在せず。

(註105) [山吹日記]、奈佐勝皐(なさ かつたか)著、1786年
「中郷村より子持山に登る。東に双林寺あり。境内を登る。二十町余登りて子持明神の社 あり。大己貴命を祀る。鐘あり。永正十二年(1515年)の古鐘と云ふ。」

(考察)神道集(1350−60年頃)時代には、神の名であった子持明神が、この[山 吹日記](1786年)時代には神社の名前へと変わっています。ですから祭神が子持明 神から大己貴命に替わっても、神社名は子持明神のままというおかしな現象が起こってま す。

返魂香
返魂香または反魂香(はんこんこう、はんごんこう)は、焚くとその煙の中に死んだ者の 姿が現れるという伝説上の香。返魂・反魂とは、 死者の魂を呼び返すこと。死んだ人を よみがえらせること
もとは中国の故事にあるもので、中唐の詩人・白居易(はく きょい、772−846年) の[李夫人詩]によれば、前漢の武帝が李夫人を亡くした後に道士に霊薬を整えさせ、玉 の釜で煎じて練り、金の炉で焚き上げたところ、煙の中に夫人の姿が見えたという。

清見が関
清見関(きよみがせき)は、駿河国庵原郡(現・静岡県静岡市清水区)にあった関所の名 称。

(註106) 当時、池の八つの小島に既に日光の神他の八神が祭られていたのか否かはわかりません。 但し、この[下野風土記]からは八神はまだ祭られていなかった印象を受けますが。

(註107) 道春の説([下野風土記] (全文) 参照)
道春(林羅山)が[神社考記]で紹介している、[竹取物語]のかぐや姫をモデルにした と思われる赫野姫(かくやひめ)の登場する、本地垂迹時代の浅間神社 の縁起物語[神道集](1350−60年頃)巻8−46 [富士浅間大菩薩 事] に類似した話のことを言っています。この話は[竹取物語]をモデルにしていますから、 当然「竹の葉を持つという事、道春の説にゆかりあり。」ということになります。なお[ 下野風土記]によれば[神社考記]にある話の主人公は桓武帝ですが、[富士浅間大菩薩 事]の主人公は駿河国司です。

 下野風土記の著者が、下野惣社の縁起を道春の説、言い換えれば、下野惣社と全く関係 のない「富士浅間大菩薩事」に関連付けたのは卓見です。「富士浅間大菩薩事」には室の 八島も木花咲耶姫も出て来ませんが、それにも係わらず「富士へ参るもこの島より竹の葉 を持つという事、道春の説にゆかりあり。」と判断したのはするどいです(道春 の説の詳細を知りませんが)。このHPの作者(つまりこの私)が[奥の細道] 室の八島の段を解読するために着目した点(寺社の縁起譚に解読のヒントがありそうだ) と目の付け所は全く同じです。江戸時代にはこのように考える人がいたんですね。

鷲の宮
今の埼玉県久喜市鷲宮1丁目にある鷲宮(わしのみや)神社のことでしょ うか?現在の鷲宮神社の祭神は天穂日命(あめのほひのみこと、1691年には 祭神として存在)、武夷鳥命(たけひなとりのみこと、1707年には 祭神として存在)、大己貴命(おおなむちのみこと、初期の頃は主要な 地位にはいなかったようだ)の三柱(合祀祭神は省略。木花咲耶姫は居ません) です。

 和漢三才図会(1712年)には「山田庄(太田庄の誤り?)に在り、社領五百石」と あり、社領から見てかなりの大社だったようです(多くの神社の社領は50石ど まりです)。祭神については「未考」とあり、調べていないようです。

有間王子良岑安世
アリマのなにがしは、前出[神道集](1352−60年頃)の[上野国児持山之事]な どの縁起物語に登場する架空の人物(平治の乱の関係者である播磨中将・藤原成憲の名を もじったもの)。本地垂迹時代の鷲宮の縁起物語では、これを実在の人物良岑安世(78 5−830年)にこじつけているようです。

(註110) 神道集 第三十三[三嶋大明神事]
「鷲大明神も東国に飛び移り、武蔵国太田庄の鎮守となった。 」
 つまりこれは武蔵国太田庄の土地の神(言い換えれば鷲宮神社のこと)の縁起譚ね。神 道集では神様がここにやってきましたが、良岑安世はここに来てから神様になります。

(註111) こういう場合「一体」とは言わないんです。「同体」と言うんです。[奥の細道]の「富 士一体なり」はちょっとひねっているんです。

(註115) 「室の八州の事ここに起こる、かつ富士山の神、奥津の神、その余処処この神と同体云々 」と全くと言ってよいほど似た「室八しま之事と日光山、宇都宮、武蔵鷲宮、駿河富士浅 間御同体之神霊ニて御座候」の文が、1838年に編集された下野惣社の書類[室八島山 諸書類調控帳]中にあり、真偽のほどは分かりませんが1669年作成(下の註)の書類 の控えと云うことになっています。このことから両文書が言っている「室の八島の事」と いうのが、同じことを指しているだろうことが推測されます。そして「室の八島の事」と は”室の八島より富士山の神(木花咲耶姫)出給う”(前出[下野風土記])のことと考 えられます。(同様の意味ですが、木花咲耶姫の故郷室の八島での出来事・コノシロの故 事などを室の八島のことと言ってるのかもしれません。木花咲耶姫が室の八島から出たと いうことばかりでなく、室の八島での出来事・コノシロの故事なども世間に広く伝わって いましたから)

(註)1669年作成:上の文の「室八しま之事と日光山、宇都宮、武蔵鷲宮、駿河富士 浅間御同体之神霊ニて御座候」に限って言えば、「1669年作成」で矛盾はありません。

別当神宮寺
この場合の『神宮寺』は、固有名詞ではないでしょうか?つまり『別当神宮寺』は、「こ の神社の別当寺(=神宮寺)は神宮寺という名前の寺である」の意味ではないでしょうか ?

(註116) 例えば、木花咲耶姫が浅間神社の祭神になったのは近世だろう、と推理して証拠資料を探 したら[集雲和尚遺稿](1614年)がみつかり、それが浅間神社の祭神を木花咲耶姫 とする史料上の初見であるとわかったんです。

そして木花咲耶姫が浅間神社の祭神になったのは近世のことだろうと推理できたのは、、 室町時代に作られたと考えられる本来の[浅間御本地御由来記]が、浅間神社が吉田神道 の支配下に置かれてから書き換えられたなと推理できたからです。
だって[浅間御本地御由来記]というタイトルなのに、話の中に「本地」が出てこないん です。そして、何の前触れも無く、いきなり「これ此花さくや 姫の、御ゑんきとかや」 の一文が出てくるんです。それで、古事記・日本書紀を重視する吉田神道によって書き換 えられたなと、すぐ推理できました。


芦沼
現在宇都宮市や栃木県河内郡上河内町などに芦沼という地名が残っているが、この芦沼が どこの芦沼か不明。

籬の島(まがきのしま)
宮城県塩竈市,塩釜港内の海岸近くにある小島。
歌枕「わがせこをー都にやりてー塩釜のー籬の島のーまつぞ恋しき/古今 東歌」

千賀の浦(ちがのうら)
宮城県塩竈市にある古代の国府津(こうづ 註)のことで、現在の仙台塩釜港がこれに相 当する。

(註)国府津:日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国府への水運のために設けられ た港。国府が内陸等にある場合はその外港。

さぬきの庄
群馬県邑楽郡明和町に大佐貫という地名がある。前の「青柳」もこの「佐貫」も豪族名 などに基づく由緒ある地名のようです。

倉加野(くらがの)
現在の群馬県高崎市倉賀野町。高崎駅から高崎線(八高線)沿い東南方向の隣の駅が倉賀野駅。
中山道(木曽街道、木曽路)六十九次のうち江戸から数えて12番目の倉賀野宿が在った。 ここで日光例幣使街道が分岐している。

壬生より一里半西へ去る
[下野国誌]を参考にすると一里=約2km、「壬生より一里半西」は「壬生より約3k m西」、現在の栃木市大塚町辺り。

一里=約2kmとすると、この[下野風土記]の次の文とも整合する。
「この地(室の八島)、当州に無双の名所なり。・・・予、この所(室の八島)に至り見 るに、八島の明神(現大神神社)とて大社あり。」

鄙野(ひや)
下品で洗練され立ていないこと。また、そのさま。野鄙。

(そ)
=粗。雑なこと。

刺史(しし)
地方の長官

渡り
川などの渡る場所。渡し。現在の大光寺橋辺りに「思川」という名の渡りがあったんでし ょうね。

祝部(はふりべ)
神社に属して神に仕える職の一つ。ふつう神主・禰宜(ねぎ)より下級の神職を言う。

[国邑志稿](こくゆうしこう)
[大日本地名辞書]の基になった小川弘(心斎)の未完の地誌で、吉田東伍が切り刻んで[ 大日本地名辞書]用に編集しなおしたため、吉田東伍記念博物館に断片が残っているだけ のようです。













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要 平安室の八島 中世室の八島 近世室の八島 近代/現代室の八
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