【目次】 トップページ 室の八島の歴史の概
要 平安室の八島 中世室の八島 近世室の八島 近代/現代室の八
島 【索引】 メール

参考文献一覧

→中 世   →近 世   →近/現代   の参考文献にジャンプ

1)ここには室の八島関係の参考文献のみを掲載しました。それ以外の歌枕については、こ のウェブサイトに取り上げた史料の書誌事項を本文中に記載してあります。
2)「参考文献」と言っても、その文献に引用されている史料だけを参考にしたもので、文 献中で著者が考察していることは参考にしておりません。
3)ですから、この「参考文献一覧」は、史料○○の室の八島の記事を調べるために、市販 本××を参考にしましたと言うような意味になります。
4)本文中に引用していない史料の内容もいくつかここで紹介しています。ですからそれら も参考にして下さい。
5)きちんと記録を取っていなかったので、下記文献中には本文中に引用したものと異なる 文献が含まれています。すいません。
6)これら以外に沢山のウェブサイトに大変お世話になりました。

ここに挙げた史料以外に、室の八島に関する史料(江戸時代までの文献資料)があり ましたら是非ご紹介下さい。

和 歌
(1)国際日本文化研究センター 和歌データベース(リンク)
 和歌はここからの引用が中心で、その他いろんな所から拾ってきています。[国歌大観 ]のCD−ROMからダウンロードした資料を参照させてくれる所があれば良いのですが 。

(2) やまとうた(リンク)
 歌人略歴と作歌年代推定は、こちらのウェブサイトに多大なお世話になりました。

 和歌が作歌当時の室の八島を言い表しているとは思いませんが、当時の歌人が室の八島 をどのようにイメージしていたかがわかる貴重な資料です。和歌を作成年代順に並べ て観察すると室の八島のイメージの変遷などが見えてきます。

平安時代以前
[日本書紀]の671年
[国史大系]日本書紀、黒板勝美 編、吉川弘文館
[国史大系]日本書紀、経済雑誌社、1897−1901年、(国立国会図書館  デジタルコレクション(リンク)
新編日本古典文学全集[日本書紀]、小学館、1994−98年

[文徳天皇実録]の855年
[三代実録]の859年
[国史大系]文徳天皇実録 三代実録

[竹取物語](800年代末頃)
 新日本古典文学大系[竹取物語]、岩波書店、1997年

[和名類聚抄](934年頃成立)
[和名類聚抄]、正宗敦夫 編、風間書房、1977年

[能因歌枕]
 能因法師(988年−1053〜69年) 著
日本歌学大系[能因歌枕]、佐佐木信綱 編
(註)なぜか室の八島は載っておりません。

[狭衣物語](1069−77年頃?)
 源頼国女 著
新編日本古典文学全集[狭衣物語]、小学館、1999年・2001年

[袋草紙](1158年完成)
 藤原清輔(1104−77年) 著
新日本古典文学大系[袋草紙]、岩波書店、1995年

[奥儀抄]藤原清輔(1104−77年) 著
 からの引用文
[奥羽觀蹟聞老志]、宮城県、1883年(国立国会図書館 デジタルコレクション )

[清輔雑談集]藤原清輔(1104−77年) 著
 からの引用文
 →[広文庫]

[散木集註](1183年)顕昭(1130?−1209?)  著
 からの引用文
 →[広文庫]

広本[袖中抄](1185−7年頃〜添削終了は江戸 時代?)
 顕昭(1130?−1209?)ほか 編
[日本歌学大系] 別巻ニ 袖中抄、久曽神昇 編、1958年


中 世
[吾妻鏡]
[国史大系]吾妻鏡

[小山朝政譲状](1230年)
 →[中世都市「府中」の展開]

[平治物語](鎌倉時代初期、1220年頃?124 0年以前?)
 著者未詳
 新日本古典文学大系[平治物語]、岩波書店、1992年
 新編日本古典文学全集[平治物語]、小学館、2002年

[色葉和難集](1236年頃?)
 著者未詳
[日本歌学大系] 別巻ニ 色葉和難集、久曽神昇 編、1958年


[十訓抄](1252年成立)
 編者は未詳、菅原為長、六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業)説がある。
新編日本古典文学全集[十訓抄]、小学館、1997年
第一 可施人恵事「源経兼退請託人事」

「源経兼下野守にて在国時。或もの便書を以て雑事など乞に。大かた便りなきよしなどい ひて。はかばかしき事もせねば。冷然として二三町ばかりゆくを。人を走らかしてさらば とよびかへしければ。不便(ふびん)なりとて。しかるべき物などたぶべきかと思て帰た るに。経兼云。あれ見給へ。室の八嶋はこれなり。都にて人にかたり給へと云。いよいよ 腹立気有て帰りけり。これもまたかたはらいたくおかし。かやうのふるまひのみにあらず 。詩歌などにつきても。かならず禁忌の詞を除きて。越度なきやうに思慮すべき也。」

[新和歌集](1260年頃)
[群書類従]10巻 和歌部 新和歌集

[源平盛衰記](鎌倉時代)
 著者未詳
[新定源平盛衰記]、新人物往来社、1988−91年
[源平盛衰記]、ポプラ社、2004−05年

[補陀落山建立修行日記](鎌倉時代)
[続群書類従]28補陀落山建立修行日記

[宴曲集](1301−1319年)
 明空ほか 選集
日本古典文学大系44[中世近世歌謡集]、岩波書店、1959年

「羇旅
・・・かからずばかからましやは下野や 室の八島に絶えぬ煙 猶立ち返り見て行かん  いかなる思ひの類ならむ・・・宇都の宮・・・ 芦沼 ・・・氷室山・・・那須野・・・白河・・・浅香の沼・・・ 籬(まがき)の島 ・・・千賀の塩釜( 千賀の浦 )」

1336年の茂木知貞代祐恵の軍忠状
(出典)

[神道集](1352−60年頃)
[神道集]上野国児持山之事・富士浅間大菩薩の事、東洋文庫、平凡社、1976年

[都のつと]
 宗久(1350以前−80年以後) 著
新日本古典文学大系[中世日記紀行集]、岩波書店、1990年

[義経記](1411年頃?)
 著者未詳
 新編日本古典文学全集[義経記]、小学館、2000年

[歌林良材集]一条兼良(1402−81年) 著
 からの引用文
 →[広文庫]

[廻国雑記](1487年下野旅)
 道興准后(1430?−1501年?) 著
・袖珍名著文庫 巻47[海道記 廻国雑記]、源光行著・幸田露伴校・道興准后著、富 山房、1912年、50/112頁〜廻国雑記(国立国会図書館 デジタルコレクション)
・[廻国雑記の研究]、高橋 良雄、武蔵野書院、1987年

(註)[廻国雑記]の下野ルート
1)さの・・・日光山・・・宇津宮−きぬ川
2)とね川(赤岩の渡し?)−青柳(館林市青柳町?)− さぬきの庄 −館林−ちづか(館林市千塚町)−うへのの宿(佐野市植野町)−佐野・・・宇津宮−塩のや ・・・狐川・・・いな沢の里−黒川−よささ川−白河二所の関

(考察)栃木市付近を通過しているはずですが、室の八島には触れておりません。佐野か ら宇都宮まではどういう経路をたどったんでしょう?

親鸞上人伝絵(室町時代中期から末期)
高龍山報恩寺(東京都台東区東上野6−13−13)蔵
[紙本着色善信聖人親鸞伝絵]

[浅間御本地御由来記](室町時代)
[室町時代物語大成] 第八 浅間御本地御由来記(赤木文庫蔵、1773年写本)、角 川書店、1980年

[東路の津登](1509年旅)
 柴屋軒宗長(1448−1532年) 著
新編日本古典文学全集[中世日記紀行集]、小学館、1994年

[慈元抄](1510年?)
[群書類従]雑部 慈元抄

[雑和集](ざつわしゅう、ぞうわしゅう、1552 −1579年の間?)
 山科言継 著?
古典文庫 第367冊[雑和集] 、古典文庫、1977年

「むろのやしまの事
 いかでかは−おもひありとは−しらすべき−むろのやしまの−けぶりならでは
顕云、是は実方中将が歌也。此歌の返し、女歌
 しもつけや−むろのやしまに−たつけぶり−おもひありとも−いまこそはしれ
六帖にあり。
下野国の野中に嶋あり。俗はむろのやさまとぞいふ。むろは所の名か。其下野にし水の出 る気の立がけぶりに似たる也。是は能因の坤元儀に見えたる也。
又、法性寺殿内大臣の時歌合、恋、左
 たえずたく−むろのやしまの−けぶりにも−なをたちまさる−恋もするかな
判者基俊云、絶えず焚くむろのやしまのけぶりにもとよめる、いかに侍るべきことにか。 むろのやしまにたえず火をたくとは、なにに見えて侍るにか。むろのやしまと云事、二あ り。一には下野にむろのやしまと云所あり。一にはいゑなどに有かなへにむろぬりたるを よめりとぞ。ある文に見えたるは、いづれによりてよまれたるにかはべるらむ。たとひい づれにても、たえず火宅と云事、又見え侍らず。しかあればにや、惟成が歌にも、
 風ふけば−むろのやしまの−ゆふけぶり−こころのうちに−たちにけるかな
とよめるも、たえずたきたる火とは聞え侍らず。あさまのたけ、ふじの山などをこそ、け ぶりたえぬためしにはよみふるして侍れ。此たえずたくをおほむねにて此歌にはよまれて はべれば、かく尋ね申侍る也。見たる所すくなくて、さやうの事を又見はべらぬにや、申 やるかたなく。
俊頼抄云、左歌たえずたくといへる事、僻事(ひがごと)ともや申べからん。此むろの やしまはまことの火をたくにはあらず。野中にし水のあるが気のたつがけぶりと見ゆる也 。それをいはん事はいひがたし。但まことのけぶりとのみよみたれば、などかさもいはざ らん。歌がらはあしくも見えず。
私考俊頼歌云、歳暮
 さらひする−むろのやしまの−ことこひに−みのなりはてん−ほどをしるかな
此歌はかまどを室の八島とよめるにや。しはすのつごもりの夜、ゐなかのげすのかまどの 灰をさらへてをきとりおきて、それがきえきらぬさまにて、次の年あらんずる事を見る事 の侍るかや」

(考察)全文、広本「袖中抄」からの引用文と思われます。


近 世
[日光山紀行][御鎮座之記][東照権現御遷座之記 ](1617年旅)
 烏丸光広(1579−1638年) 著
 →[神道大系]

[(林)羅山詩集]
 林羅山(1583−1657年) 著
[林羅山詩集]・[林羅山文集]、京都史蹟會編纂、ぺりかん社、1979年

[太平山伝記](?年、江戸時代)
 →[神道大系]

[徳川実紀](1640年旧4月20日の記録)
[国史大系]徳川実紀

[本朝地理志略](1643年)
 からの引用文
 →[広文庫]
[続々群書類従]8 地理部 本朝地理志略

[八代集抄](1682年)
 北村季吟 著
[八代集抄]、北村季吟著、六合館、1902年(国立国会図書館 デジタルコレクション)

「詞花和歌集 巻第七
 <いかてかはおもひ有とも>
室八島、下野国の野中に島あり。そこに清水あるより出る気の立か煙に似たるを云也。袖 中抄・歌林良材等にあり。室の八島の煙にことよせて、しらせはしらすへし、さならては いかて我思ひをしらせんと也。此歌は秀歌の一也」

[栄花咄](天和・貞享(1681−1688年)頃)
 からの引用
[元禄文学辞典]、佐藤鶴吉 著、芸林舎、1976年

「むろのやしま
(一)・・・・・・
(ニ)香の名。栄花咄『名所香を聞きて、富士、浅間、室の八島、煙さまざま袖にとまり て、是は堺の伽羅大臣』」

[日光名勝記](1685年旅)
 貝原益軒(1630−1714年) 著
 新日本古典文学大系、岩波書店、1991年の「東路記」(あずまじのき)の「日光よ り上州 倉加野 迄の道を記す」に再録?

益軒全集の[扶桑記勝]貝原益軒(1630−1714 年) 著
 からの引用文
 →[広文庫]

[下野風土記](1688年編著)(室八島全文)
 編著者未詳
[下野風土記]、佐藤行哉 校訂、栃木県郷土文化研究会、1958年

「室八島 : 都賀郡 壬生より一里 半西へ去る
伝へて云う、いつのころにてやありけん、この所に長者あり、一人の息女を持つ。その名 をこの花さくや姫という。世に並びなき美人なり。その頃、都より公卿一人、この所へ流 されける。この人、琵琶・琴の上手なりければ、このさくや姫の師となし、琵琶・琴を習 はせけるが、後に密通してこの姫懐胎となる。さるに依りて、この公卿をも追い出しける 。その頃、都より国司来て、この姫を長者乞いけれども、懐胎の身なれば、与うべきやう なく、遠き所に隠し、国司へは、この姫死にたりとて、葬礼のまねをなし、棺の内へ鮗 (このしろ)と韮(にら)とを入れて火葬にす。世に云えるは、鮗と韮を合わせ焼く時は 、人を焼く匂いにたがわずと云う。この心を歌に、
 <下野や室の八島に立つ煙我がこのしろにつなし焼くなり>
古は鮗をつなしといえるを、この歌よりしてこのしろというといえり。我がこのしろとは 、我が子の代という心なりと。またある説には、韮をつなしというといえり。其の心にし ての歌には、
 <下野や室の八島に立つ煙は只このしろとつなし焼くなり>
さてさくや姫は程なく男子を産みたまう。この御子、室の八嶋の神となりたまうと。八つ の嶋の内に琵琶嶋・琴嶋と云う有りと。これは御父母のもてあそび給える故なりと。御母 さくや姫は駿河国の富士山の神となりたまうと。さるに依りて、富士へ参詣せん人は 、まず室の八嶋へ参り、この島の竹の葉を取り持ちて富士へ登る時は、山にて何のさはり なしと。此の神の生土(うぶすな、・・・の生まれた土地)、または御子の神の住み たまへる所なればなり。

 予、道春(林羅山)の[神社考記]を見るに
『駿河国に翁夫婦あり、籠を作りて世を渡る営みとなせり。ある時翁、竹を破りて見けれ ば、内に三寸ばかりの小女あり。夫婦喜び、養育す。年を重ねるに随いて、あたりも輝く ばかりなる美女となる。その頃は桓武帝の御世なりしが、この事聞こし召され、いそぎ后 にそなうべしとて勅使立てければ、姫ののたまわく『我人間に久しく住すべからず。もし 帝我が恋たまわば、富士山へ来たりたまうべし。』とて、富士山絶頂へ登りたまうて、こ の山の神となりたまう。勅使都に帰り、この事を奏しければ、桓武帝も富士山へ登りたま いて、ついに帰りたまわず。冠と御沓ばかり残りければ、臣下大臣も泣く泣く都へ帰りた まう』と云々。

 此に説いずれによらん。しかれども前に云える 鄙野 の言い伝えにして実と取りがたし。道春なんぞ 事を出さんや。しばらくこの事に依らん。また前の説とて捨てんとすれば、室の八島 より富士山の神出たまうと云う事世人皆云える事なり。また富士へ参るも、 この島より竹の葉を持つという事、道春の説にゆかりあり。二説拠り所あり。 伝覧の騒人を待ちて究めん。

 この地、当州に無双の名所なり。なんぞたやすく究めんや。予、この所に至り 見るに、八島の明神とて大社あり。社の右(社から見て右)に八島と云う所有り。島八つ 有りて、嶋毎に祠有り。左は清水涌きて、煙立ちしと云えども、今は水涸れて、所々に庭 たすみの如く残りて、煙立つ事なし。この所に並びてケブ村(癸生村)と云う里有り。こ の間数百歩に及べり。古は煙(ケムリ)この村まで立ち覆う故に煙村と書くと云えども、 云い間違えてケブ村と云う。 雑和集 にも、火を焚く煙のことく煙立ちしと云え、たの歌にも詠めり。
(和歌は省略)」

(参考1)
[癸生浅間神社 由来]
参考1以下の由来は、江戸時代中期以降に作られたものと思われる。

「下野国都賀郡大塚村癸生の浅間神社は木花咲耶姫の
命が父の大山祇の神の譲(ゆずり)を受けて秀峰富士山に
神として赴く時の伝説の土地です
木花咲耶姫は室の八嶋から癸生の地に逃れ臼掘る翁に
出会い、事情を話すと翁は機転をきかせ、姫を
臼のなかに入れてかぶせてくれた、そこに大勢の追手が
来たが翁は知らぬふりで臼の底を掘り始めたので
追手は気付かず去って行った
こうしたことで困った大山祇の神は思案の末に、咲耶姫に
富士山に起用(意味不明)にと諭し、尊には姫が亡くなったことにして
思川の畔、浅間さまのこの地で千駄焚(薪千駄、もや(意味不明)
千駄を積み、鮗(このしろ)、ニラを入れて焼く)をしました
咲耶姫は煙にむせび別れの涙をながし古里癸生をたち
富士山めざし、室の八嶋を後にし、一度橋を渡り、旅を
つづけ富士吉田口に着き仰ぐ富士山を登しが途中にて道に
迷ったとこに使いにきたお申の先達により、富士山頂に
鎮座し富士浅間の神となりました
この伝承を後世に伝える為に碑を建立しました」

*この碑の建立年の記載は無さそうだ。

(参考2)
[一度橋跡(いちどんばし) 由来]

「国府町萱場は木花咲耶姫の伝説の多い土地
である。
この橋は咲耶姫の命が父大山祇の神の譲
を受けた秀峰富士山に神として移る時、
故郷室の八嶋を離れる時に二度と帰らぬ
決意をして渡った橋で、「二度と帰らぬ一
度橋」と伝えられている。
此の地に咲耶姫の伝承を永久に伝える為
に碑を建立した。」

(参考3)
[見返り浅間 由来]

「木花咲耶姫命が父の大山祇の神の譲を受
けて、故郷室の八嶋を離れ秀峰富士山に
赴く時にこの地にとどまり、此処に腰を
おろして室の八嶋の方に向かって感無量
となり、暫らく故郷の地をながめて目に
焼きつけた後、一度橋を渡って一路富士
に向かって出発した処と伝承されている。」

*「この案内板は1998年に建立された」との別の案内板がある。

[新可笑記](1688年刊)
井原西鶴(1642−1693年) 著
 西鶴全集[新可笑記]、明治書院、1983−8年

[奥の細道](1689年旅)
 松尾芭蕉(1644−1694年) 著
[芭蕉自筆奥の細道]、岩波書店、1997年
ほか多数

[日本鹿子](日本賀濃子)(1691年刊)
 磯貝舟也 著
[日本鹿子]、磯貝舟也著、久富哲雄解題、クレス出版、1994年

[国花万葉記](國華萬葉記)(1697年)
 菊本賀保 著
[国花万葉記]、すみや書房、1969年

[本朝食鑑](1695年)
人見必大(1642頃−1701年) 著
東洋文庫296[本朝食鑑]、平凡社、1976年
×(魚偏+制)の項の挿話

「曾て聞いた話であるが、昔、野州室の八嶋の市中に富商がおり、一人の美しい娘をもう けた。この娘は、としごろを過ぎたがまだ他に嫁がず、空しく深窓の中に暮らしていた。 たまたま市辺に流寓の公子の某(なにがし)というものがおり、常に富商の家にきていつ しかしたしい間柄となり、遂に娘と密かに通じるようになった。父母はそうなったことを 予め識っていたが、拒む気持ちはなく、内心ではすぐにも娘をその公子に嫁がせ財を分け 与え同居させようと考えていた。けれども外部のそしりをはばかってまだ果たさぬうち、 州の 刺史 がその娘の美貌を聞き伝え、娘をお側へさし出すことをもとめてきた。親たちは もとめられてもあたえず、そうこうするうちに刺史は大いにいかって、心中常づね罪をか まえてその家をほうむろうと計画していた。父母は災禍がまさに至らんとするのを察し、 世間には『娘はやまいに遭ってにわかに病没いたしました』と表言し、新しく棺おけを造 り、その中に×(魚偏+制)魚(このしろ)数百尾を盛り入れて死者のように偽装し、父 母と親睦した者たちは、喪服をまとい柩を引き、ともに野に出てあな中に据えて荼毘(だ び)にふした。刺史はそのことを聞いて大いに哀嘆した。その後日を経て、父母および公 子は娘を携えてひそかに他国へ出ていった。後代の人はこの話を憐れみ、和歌にして悼傷 (傷悼(しょうとう)の間違い?)している。それから津那志(つなし)を子代(このし ろ)と呼んで×(魚偏+制)の字をあてるが、それはこの魚が娘の死の身代わりになった ためであるという。」

[和漢三才図会](1712年)
 寺島良安 編
[和漢三才図会]、寺島良安編、東京美術、1979年

[竹葉集]巻八[つぼのいしぶみ](1713年旅)
 連阿 著
新典社叢書[連阿著作集]江戸堂上派歌人資料、新典社、1981年

[烏糸欄](1716年旅)祗空 著
 からの引用文
[下野のおくのほそ道]、栃木県文化協会 編、栃木県文化協会、1977年、「室の八 島」の項

[奥州名取郡笠島道祖神記](1717年の事件)
佐久間洞巌 著
 仙台叢書 第五巻[奥州名取郡笠島道祖神記]

[太平山伝記](?年、江戸時代)
 →[神道大系]

[広益俗説弁](1716−27年)
 井沢蟠竜 著
[広益俗説弁 続編]、井沢蟠竜著、平凡社、2005年

[日光道之記](1727年刊)
[新注 絵入「奥の細道」曾良本]、上野洋三編、和泉書院、1988年刊 の「室の八 島」の段の註

[(続奥細道)蝶の遊](1738年旅)山崎北華 著
 からの引用文
 →[大日本地名辞書]

[諸国俚人談](1743年刊)
 菊岡沾涼(きくおかせんりょう)著
日本随筆大成 第2期第24巻[諸国俚人談]、吉川弘文館、1975年

「下野国惣社村室八島明神、(割注:壬生にちかし)野中に清水あり。其水気立登て、煙 のごとく見ゆるゆへに、むろのやしまの煙とよめり、法性寺内大臣の歌合の時、摂津が絶 えずたくむ炉のやしまとよみけるを、判者基俊、たえずたくの五文字を難じけるなり。ま ことの煙にあらざるゆへとぞ。
 いかでかは−おもひありとも−しらすべき−むろのやしまの−煙ならでは
                           実方
返し
しもつけや−むろの八島に−たつ煙−おもひありとも−今こそはしれ
                           女房」
(考察)その土地の人がこんなことをしゃべるか。

[鋸屑譚](おがくずばなし?)(1748年起稿)
 谷川士清(たにかわことすが、1709−1776年)著
日本随筆大成 第1期第6巻[鋸屑譚]、吉川弘文館、1975年

「室八島明神在2下野国惣社村1。詞花集に、
  <いかでかは思ありともしらすべき室のやしまの烟ならでは>
或云、野中有レ泉。其水気升ル如レ煙。」

[奥羽の日記](1755年旅)
南嶺庵梅至 著

「六月五日快晴にして、御山(日光のことのようだ)を跡に見奉り、惣社村室の八嶋の方 を遠見す。往昔火火出見の尊の住給ふ處とかや。木華咲や姫の謂有しより古哥にも煙の言 葉を用詠とかや。今日は八嶋も丘と成りて、八社立せ給ふとかや。

<青葦や−八嶌に戦く−風の跡>」

(考察)[奥羽の日記]は、松尾芭蕉の[奥の細道]を辿った紀行ですが、[奥の細道] 刊行(1702年)の50年後ともなると、『今日は八嶋も丘と成りて、八社立せ給ふと かや。』などというかなりいい加減な噂話が生まれるんですね。

[室八島](1756年刊)
 石塚倉子 著
[江戸時代女流文学全集]第4巻、古谷知新 編、日本図書センター、2001年(19 18−9年刊の復刻版)

[おくのほそ道鈔](1760年)
武田村径 著
[奥の細道古註集成]西村真砂子・久富哲雄 編、笠間書院、2001年
[おくのほそ道鈔]は松尾芭蕉[奥の細道]の注釈書です。

【又煙を読習し侍もこの謂也】の註
「詩花 <いかでかハ思ひありともしらすべき室の八嶋の煙ならでハ> 実方朝臣
同返し <下野や室の八しまに立けふり思ひありとハ今こそはしれ> 女房
一説ニ云、野中にある清水を室の八嶋と云。其水気立のぼるをけふりとよめりと 。
法性寺内大臣の歌合に摂津が、
 <絶ずたく(ツ トモ)室の八嶋の烟にも猶たちまさる恋もするかな>
とよめるを判者俊基卿、たへずたくの五文字を難じ給ふハまことのけふりにあらざるゆへ にや」

【このしろといふ魚を禁ず】の註
「俗に伝え云、浅間の御身がハりに此魚を野辺送りにして焼たると云ハ此所也。其焼たる 跡に今草木はへず、其しるし也と云つたふとや。」

(比較)[奥細道菅菰抄]、高橋(蓑笠庵)梨一、1778年
【室の八島】の註
神社ニテ、下野ノ国総社村ニ立。室ノ八島大明神ト号ス。祭ル神富士浅間ノ祖 神と云。乃チ木花開耶姫ニテ、下ニ見タリ。」

【此神は木の花さくや姫の神と申して〜無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に云々】の註
「日本紀ニ云、・・・(日本紀からの引用文)・・・、下略。」

【又煙を読習し侍もこの謂也】の註
「詞花 いかでかハ思ひありともしらすべきむろのやしまのけふりならでハ、藤原実方朝 臣
此外烟をよミたる歌、千載、新古今、続古今等に見えたり。一説に、此野中に清水あり 。其水気立のぼりてけふりのごとし。是を室ノ八島の煙と云と。

【このしろといふ魚を禁ず】の註
「・・・○むかし此処に住けるもの、いつくしき娘をもてりけり。国の守これを聞玉ひて 、此むすめを召に、娘いなミて行ず。父はゝも亦たゞひとりの子なりけるゆへに、奉る事 をねがハず。とかくするうちに、めしの使数重なり、国の守の怒つよきときこえけれバ、 せむかたなくて、娘ハ死たりといつはり、×(魚+庸)魚を多く棺に入て、これを焼キぬ。× 魚をやく香は、人を焼に似たるゆへなり。それよりして此うをゝ、このしろと名付侍ると ぞ。哥に、あづま路のむろの八嶋にたつけふりたが子のしろにつなじやくらん。此事[十 訓抄]にか見え侍ると覚ゆ。このしろハ、子代(コノシロ)にて、子のかハりと云事也。 此魚上つかたにてハつなじと云。」

(考察)[おくのほそ道鈔](1760)の頃の注釈は、まだ[奥細道菅菰抄](177 8年)よりまともでした。ところで室の八島に限ってですが、注釈書・解説書なるものは 、現在に至るまで、時代が下れば下るほどまっしぐらに真実から遠ざかって行くもののよ うです。今回の調査でそれが分かり驚いています。これでは読者はたまったものではあり ません。

[奥の細道]注釈書・解説書
・[新釈おくのほそ道]、木村正三郎 著、1896年(国立国会図書館 デジタルコレ クション)
・[注釈奥の細道]、三宅邦吉 著、1903年(国立国会図書館 デジタルコレクショ ン)
・岩波文庫[芭蕉 おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄]、萩原恭男 校注・ 解説、岩波書店、1957年
・講談社文庫[おくのほそ道]、板坂元・白石悌三 校注・現代語訳、講談社、1975 年
 *その他いくらでもありますが、省略する。

(註)上記の『まっしぐらに真実から遠ざかって行く』とは、これらの解説書を念頭に置 いて言っている訳ではありません。

[東海濟勝記](1762年旅)
 三浦迂斎 著
随筆百花苑 第十三巻[東海濟勝記]、中央公論社、1979年

「高田といふに至りてやどりす。日光より九里半。
室の八嶋過がてにミて、
 おもひある−身のたぐひかな−煙たつ−室の八しまを−過がてに見て
                       以 貞
 過がてに−室の八しまは−そなたぞと−くれ行そらの−煙こそミれ
室の八島というは、野中に清水あり。その水気のぼりて、けぶりのごとし。これをむろの やしまのけぶりといふ也。世のことわざにも、下野国は、海なふして島あり、王なくして 都ありといへり。都とハ宇津の宮をいふ也。むかしは宇津の都といひし。
八日
高田を夜こめてたちぬ。」

(註)高田前後のルート
日光−今市−大渡り−鬼怒川−舟生−玉生−高田−澤村−那須野の原−大田原−鍋掛
この高田は今の矢板市高田?

(考察)「高田といふに至りてやどりす。日光より九里半。」と「八日   高田を 夜こめてたちぬ。」との間に室の八島の話があります。どうもどこか他からここに紛れ 込んだようです。

[松しま道の記](1763年旅)
 五升庵蝶夢(ごしょうあんちょうむ、1732−1796、時宗の僧・松尾芭蕉を敬愛 する俳人) 著

(ウェブサイトより)
「佐野・天明を出て、惣社村、室の八島の明神に参る。木だち物ふり、宮立おくまりたり 。池の形せし叢に、かたばかりの八ツの小島有りて、各小祠います。神さびわたりて、い と殊勝也。何とやらん法楽の句奉りしも、かいわすれぬ。」

[類聚名物考](1753年−1779年)
 山岡俊明(?−1780年)著
[類聚名物考]、歴史図書社、1974年

「室八島 むろのやしま 下野国 下野国壬生の駅と飯坂(飯塚の誤写)との間に総社村 といふ所にあり。土俗云ひ伝ふ木花咲や姫を祭る神社なり。むかしこの神無戸室に入り焼 死給ひなんと誓ひ給ひし御中に火々出見尊産ませしに依て室八島といふと。そこの所に水 の烟を云ひならはせり。×(魚偏に制)魚(コノシロ)を此社に禁るよし縁起に見えたり 。此事芭蕉か紀行奥細道といふ記にも志るせり。(後略)」

(考察)『土俗云ひ伝ふ』は大嘘。『そこの所に水の烟を云ひならはせり。』は土地の言 い伝えですが、その他は芭蕉の紀行[奥の細道]の文を写しているだけです。
 山岡俊明は、[奥の細道]にある記述「このしろという魚を禁ず」が、現在の学者の多 くが言うところの土地の風習の話などでなく、この神社の縁起の話であると正しく理解し ています。この両者の差は関連知識の有無の差ではなく、文章読解力の差です。[奥の細 道]には、「コノシロの話は土地の風習の話である」などとは一切書いてないんです。「 −この神社の縁起の話である」とちゃんと書いてあるんです。

[日光山紀行](1777年)からの引用文
 吉成宝馬(1727−1798年)著
[下野のおくのほそ道]、丸山一彦 監修、栃木県文化協会、1977年、「室の八島」 の項

[和訓栞](1777年以降分割出版)
 谷川士清(たにかわことすが、1709−1776年)編
増補語林「和訓栞」(わくんのしおり)、名著刊行会、1967−73年

「下野ノ国総社の前に池あり。池ノ中に方二間ばかりの島八つありて、池に火(ほ)気起 り烟常に見えしを室の八島の煙とハ歌によめり。羅山子も水面ノ靄気××(いんうん?) 為レ煙といひ、西土の書に沢中有2陽焔1といふ是也。今ハ池のみ形ありて水涸ぬれハ烟も なしといへり。されは基俊か歌合の判にも攝津か歌を難して室の八島にたへす火焼とハ何 に出たるやといへり。
播磨の中将成のり下野に流されし時
 <我ために有ける物を志もづけやむろの八島にたえぬおもひハ>
六帖にも下野とよめり。二荒山記に垂仁帝之皇子池速別ノ命下野ノ国室ノ八島に住居すと いへり。」

(考察)八つの小島のある池(近世室の八島)と、攝津の歌(平安室の八島)と、播磨の 中将藤原成憲流刑の地・池速別ノ命居住の地(中世室の八島)とがごちゃ混ぜ。

[おくのほそ道](1779年)
 桃喬舎可常 著
[奥の細道古註集成]西村真砂子・久富哲雄 編、笠間書院、2001年
可常 著[おくのほそ道]は松尾芭蕉[奥の細道]の注釈書です。

[二十四輩順拝図絵](1803−9年作成)
 了貞 著
[ニ十四輩順拝図絵 親鸞上人御旧跡]、了貞 著、出版者 大塚宇三郎、1887年( 国会図書館 デジタルコレクション)

「室の八嶋 同国都賀郡にあり。
当国惣社大明神 当所惣社村に社あり。社人十二人。別当神宮寺。
祭る所の御神一座大山祇命と申は、富士浅間権現の御親神にてまします。俗伝に云、当社 の御神浅間権現の御身がはりに、コノシロといふ魚を野辺送りして焼給ひし旧跡にして、 今に其所ハ草木も生へず、常に烟立のぼるといふ。按るに、室の八島のけふりハ歌にもよ み、文に書きて、只其けしきの常ならぬを愛するのみなり。且それ人の骸を野辺送りして 荼毘する事は、元興寺の道昭法師にはじまりて、往古には我東方に火葬の事かつてなし。 まして神代の事をやすべて古くつたへたる説には此類のこと多し。
高祖聖人、当国御旅行の折から、所縁ありて御寄拝有し所と也。
室の八島といふは、当社の前に小島の如くなるもの八ツあり。其めぐりは卑くして池のご とし。今ハ水枯れてなし。島の大きさ、方二間ばかりもあり。各杉など生ひたりて、さな がら其趣あり。昔は、此所に地気立のぼりて煙のごとくに見えしとぞ、古歌などにも多く よみ合わせたり。これ全く四隣の木立鬱蒸して室の篭るがごとく、地中の水気これがため にたちかすめるものならし。法性寺内大臣の時、歌合せに、摂津か<たえずたくむろの八 島>とつづけたりしを難ぜしとなん。これまことのけふりにあらざるが故なり。
詞花<いかてかわ思ひあるともしらすべき室の八島の烟ならでは> 実方」

[閑田次筆](1806年刊)伴蒿蹊 著
 からの引用文
 →[広文庫]

[絵本室之八島]全6巻(えほんむろのやしま、18 07年?)
[繪本…][画本…][畫本…]などとも。
 中聖人晦所 著、 蓼華齋玉峯 画
分類:読本(よみほん、江戸時代後期に流行した伝奇小説)
    読本の代表が、ご存知の[南総里見八犬伝]
インターネットで「画本室之八島」が全文読めるんですが、私には字が読めません。
(インターネット画面で199ページ(本のページにすればその倍)もある長編です)

[日本古典文学大辞典]第1巻(あ−かほ)、日本古典文学大辞典編集委員会 編、岩波 書店、1983年
あらすじ:室八島明神の長官村主清足の妻瓢子は、愛猫と淫して妊み、堕胎せんとして 密夫権之進を食い殺し死す。血池の怪あり、胎より女子生じ夕顔と名付く…

(考察)「伝奇小説」というのが正しいんだろうか?とにかく「低俗な怪奇小説」です。 室の八島については、内容的にはちょびっとしか関係せず、室の八島が有名な名所だった ので本の題名に名前を借りただけのようだ。「本来の室の八島ってどんなとこ?」謎につ つまれていたから伝奇小説の題名にふさわしかったんだろう。

 すいません。筆者はこの史料[絵本室之八島]を読んでおりません。この史料の内容は 愛媛県立図書館さんにE−mailで問い合わせて教えていただきました。愛媛県立図書 館さん有難うございます。

[許我志](1808年)
原 念斎 編集
[古河市史 資料 別巻]古河市役所編 古河市役所 1973年

[塵塚談](1814年)
 小川顕道 著
古典文庫 54[塵塚談・俗事百工起源]、小川顕道 著・宮川政運 著、現代思潮社、 1981年

[答問雑稿](1802−1822年頃)
 清水浜臣 著
日本随筆大成 第2期 第18巻[答問雑稿]、吉川弘文館、1974年

[古河志](1830年)
 小出重固 編集
[古河市史 資料 別巻]古河市役所編 古河市役所 1973年

長唄[官女](1830年作)
 松井幸三 作詞

「そなた思へば室の八島で塩やく煙 立ちし浮名も厭ひはせいで 朝な夕なに胸くゆらす る」

(意味)「室の八島で藻塩を焼く煙のように浮名が立つのもいとわずに、あなたを思って 朝も夜も胸を焦がしています。」だそうです。
長唄[官女]では、どうも下野の室の八島と讃岐の屋島とが混同されているようです。

[駿河国新風土記](1834年完成)
 新庄道雄 著
[駿河国新風土記]、新庄道雄 著(1834年完成)、足立鍬太郎 修訂、飯塚伝太郎  補訂(1975年刊)巻24

 なお、浅間神社関係の史料を調べるなら
[浅間神社史料]、官幣大社浅間神社社務所 編 、東京 名著出版(1974年)
が便利です。

[室八島山諸書類調控帳](1838年)
 →[神道大系]

[正卜考](1844年刊)
 伴信友 著
[正卜考]、伴信友、出版者 林芳兵衛、1903年(国立国会図書館 デジタルコレク ション)

「俊頼朝臣の散木集に、
としのくれによめる、
 <さらひする室の八嶋のことこひに、身のなりはてむほどをしるかな>
顕昭の注に、さらひとは、攫と書けり。掃除する事なり。室の八嶋とは、竈戸を云ふと古 髄脳に書り。下野なる室の八嶋も、烟の起つ処なれば、それに思ひ寄せていひはじめたる にや。此れも除夜に民の竈戸を攫へて、来む春、年の中の事の吉凶みな見ゆと云めり。火 を日にあてて、消ゆ消えぬを見て知るなども申めり。ことこひとは、見むと思ふ事を乞ふ なり。それに吾身のなりはてむほどを知ると読なりとあり。袖中抄には件りの説を、おろ おろ注るせり。藻塩草占の条にも件りの歌を挙て、三ノ句を、「こととひに」として、下 野国室ノ八嶋それにてはなし、かまどを室の八嶋とよめるなり。しはすの晦日の夜、田舎 のげすの、かまどの灰をさらへて、燠をとりおきて、つぎの年のあらむずる事を待とかや 云々」

(考察)「下野国室ノ八嶋それにてはなし、かまどを室の八嶋とよめるなり」は、下野国 の歌枕である室の八島を否定しているのではありません。「この歌にある室の八島とは下 野国の歌枕のことではなく、竈のことです」と言っているんです。

[室の八島]
大関増業(1781or1782−1845年) 著
[如蘭社話]後編巻18、(後編は1913−1916年)如蘭社事務所発行
すいません。まだ閲覧できておりません。

[陸奥日記]小津久足(1804−1858年)著
 からの引用文
新日本古典文学大系 98[東路記ほか]、岩波書店、1997年の「東路記」の中の「 日光より上州倉加野迄の路を記す」の脚注

[皇都午睡](1850年)
 西沢一鳳 著
新群書類従 第一 演劇部[西沢文庫 皇都午睡](みやこのひるね・こうとごすい)ニ 編中の巻、国書刊行会編、第一書房、1976年

「室の八島
室の八島に立煙は古歌にも詠て下野国に小島の如く八ありて其廻りは低く池の如し今は水 なし島の大さ何れも方二間計り杉少し宛生たり此島の廻りの池より水気烟の如く立昇るを 賞じける也今は水なきゆへ烟もたたずと貝原翁の日光紀行に記さる是一所の名にあらず島 と号る所八村倶に都賀郡にて鯉が島高島萩島大川島卒島曲島沖島仲島等也とぞ」

[下野国誌](1850年刊)
国立国会図書館 デジタルコレクション

[校訂増補下野国誌]、河野(越智)守弘 著、佐藤行哉 校訂、徳田浩淳 再校訂、下 野新聞社、1968年
(この本は、[下野国誌]の原文に、余計なことを書き加えている(増補している)ので、 [下野国誌]をそのまま現代語訳したものだと思って参考にすると、 とんでもないことになります。)

二之巻 名所勝地
室八島(ムロノヤシマ)
都賀郡惣社村にあり。其隣郷に国府村ありて、古へは惣社村も国府の分郷なり。其所に清 水(シミヅ)と云う所あり。また煙(ケブ)村と云も並てありて、もと煙の立し所なりと 云い伝えたり。今は癸生(ケブ)村に作る。そは隣郷に壬生(ミブ)あれば、彼十幹の兄 弟(エト)に依て近世書改めしものなるべし。

 さて[袖中抄](1185−7年頃〜添削終了は江戸 時代?)第十八に
『下野国の野中に嶋あり、俗に室のやしまとぞいふ。室は所の名か。其野中に清水の出る 気の立が煙に似たるなり。是は能因が[坤元儀]に見えたるなり。
 また俊頼の歌に云。歳暮
 さらひする−室のやしまの−こさらひに−身のなりはてん−ほどをしるかな
此歌は、竈を室のやしまとよみたるにや云々』
とみえたり。

 守弘按(おもう)に、[袖中抄]に記したる如く、室は所の名にて、やしまと云は煙の 立しに依て唱えし名なるべし。其ゆえに、やしまとは元来竈の事なり。
 [文徳実録]に『斉衡二年(855年)十二月丙子朔、大炊寮大八島竈神』。おなじく 天安元年(857年)四月条にも見え、[三代実録]ニに『大膳職従五位下、大八島竈神 八前』ともみえ、
 また[竹取物語](800年代末頃)にも、『石の上の中納言、燕の子安貝といふもの を取り得んとして、やしまのかなへのうへに、のけざまに落給へり』とあるをもおもへ。

 また[色葉(イロハ)和難](1236年頃?)の三に『釜をばやしまと云なり。大嘗 会行幸にも、釜のわたるを、やしまのわたると云なり』と記したり。
 [和名抄](934年頃成立)には、竈はカマ、釜はカナヘとあれど、やしまは竈の 古名なること弁ふべし。
 さて黒川春村云、『[色葉和難]に釜とあるも竈なり。後世釜をカマというによりて写 しひがめたるなるべし。』
 [東鑑脱漏]に、『御所釜殿鼎鳴』とあるも釜は竈なることしるし。また同書に、『贄 殿足竈鳴』とあるは、アシカナエなり。さて竈は金輪にて、今いう五徳なり。先輩ヘツヒ の事と思えるもあるは委しからずといえり。

 或俗説に、『室の八島は那須郡なる、大野室、薄室、逃シ室、栢室、数ケ室、板室、室 ノ井、岡室等を云うなり』といい、また或る人は、『都賀郡の茂呂駅の辺りなる、中ノ島 、曲ノ島、鯉ガ島、大河島、萩島、高島、卒嶋、島田等の八ケ村をさして茂呂の八島なり 』などいえるは、付会の説にも論にもたらず。

 清輔[袋草子](1158年完成)巻三に、『源経兼、下野守にて在国之時、或る者便 書を持て国府に向ふ。叶ざるの間、術無しの由なんどいひて、はかばかしき事もせず、冷 然として出て、一・二町許行を、更によびかへしければ、不便(ふびん)なりとて、然る 可き物など賜可きかと思て、なまじひに帰り来るに、経兼の云「あれ見給へ、むろのやし まは是なり。都にて人にかたりたまへ」と云々、いよいよ腹立気有て出云々』。
 此事[十訓抄]巻ニにもみえて、少しもかはることなし。
 是即ち、室の八島は国府の近辺なると云う証なり。

[平治物語](鎌倉時代初期、1220年頃?124 0年以前?)巻ニ、平治元年、少納 言信西、事に座して其の子十余人、国々へ配流の条に『民部卿成範(シゲノリ)、下野国 について、我もすむべかんなる、室八島とて見やり給えば、けぶり心ぼそくのぼりて、折 から感涙とどめがたくおもはれしかば、なくなくかくぞ聞えける。
 我ために−ありけるものを−下野や−室のやしまに−絶ぬ思ひは』
此歌[続詞歌集]に載せて、それには、『東路の室のやしまに』とあり。成範卿は正二位 中納言、少納言通憲の男なり。遠流のことは[公卿補任]また[愚管抄]にもみえたり。 [平家物語]には、桜町中納言成範卿と記したり。
 さて[月詣和歌集]に『成範卿おほやけのみかしこまりにて東の方へまかりける道にて 霞をよめる。
 日を経つつ−都はとほく−なりゆけど−たちもおくれぬ−はるかすみかな』
 また清輔朝臣の家集にも『成範卿おほやけのみかしこまりにて遠くまかりたりけるに、 ことなほりて(赦免)都にかえりけるに、もとのすみかもあれうせて侍りければ、それへ つかはしける。
 鳥の子の−ありしにもあらぬ−古巣には−かへるにつけて−手をやなくらむ
返し、成範卿
 かたかたに−鳴てわかれし−むら鳥は−古巣にだにも−かへりやはする』
などもみえたり。

[義経記](1411年頃?)巻ニ、義経陸奥国よりのぼりける条に『宇都宮大明神をふ しおがみ室のやしまをよそにみて云々』。

[親鸞聖人行録]に、『下野国に御経廻ありて、室のやしまという所に、暫く御住居まし ますとなり。御旧跡の所は、室明神の東にあたりて、「思川」という 渡り あり。それよりまた東に越えて、花見が岡という小山あり。是上人御幽居の跡なり。此所 を大光寺村という。近隣に大なる池あり。上人常に愛させ給えリとて今にあり云々』。

 烏丸光広卿[日光山紀行](1617年旅)にも『富田を通り、栃木と云う所を過て、 音にきく室のやしまはみえけり云々』とあり。

 右の書ども、みな室のやしまは、今の地なりと云う明証なり。かくまで甚だし くいい立るは、上の付会の説あればなり。

 [狭衣物語](1069−77年頃?)巻一に、『中将の君は、ありし室のやしまの後 は、宮(源氏宮ナリ)のこよなくふしめになり給えるも云々』。

 宗久(1350以前−1380年以後)[都の裏(ツト)]に『いとどちりの世もあぢ きなくおぼえ、ありかさだめずまよひありきしほどに、室のやしまなどもすぎて云々』。

 宗長[東路の裏(つと)](1509年旅)に『壬生という所にゆく云々。室のやしま 近きほどなれば、亭主中務少輔綱房かれこれともなひ見にまかりたり。誠にうちみるより さびしくあわれに、おりしも秋なり。いうばかりなくて、
 東路の−室のやしまの−秋の色は−それともわかぬ−夕けふりかな』。

 このほか、紹巴が[下紐](註)巻一にも、『室のやしま云々』みえたり。
  (註)[下紐](したひも)は[狭衣物語]の注釈書ではないか?

 [慈元抄](1510年?)巻上に、『昔有馬王子零(おち)ぶれたまひて、下野国ま で下り給。其国に五万長者とて富人あり。其に立寄らせ給て奉公すべき由を宣う。長者置 き奉る。或時酒の半に巡の舞ありて皆舞けり。彼若殿原も舞べしと長者いいければ、王子 やがて立て歌をよみ給う。
 いなむしろ−川そひ柳−行く水に−流れをれふし−その根はうせず
と詠じて舞給ければ、長者只人にあらずとて座舗を立て、御手を引て、上座におき奉りけ るとなん。其頃、長者独の娘を持たり、かねては常陸の国司に参ずべきよし約束有ければ 、彼の王子忍び逢い玉ひて、程なく懐妊有ければ、国司より催促有りけれど、娘は早死し たりとて、喪葬の儀式をなして野辺に送る。棺には、つなしと云う魚を入れて焼て煙を立 つ。彼の魚は焼く匂ひ、人を焼くに似たればなり。その心を読める。
 あづま路の−室のやしまに−立けぶり−誰がこのしろに−つなしやくらん
このかはりにやくとよめり。それよりしてこのしろと云ふとなん。是歌故、王子幸に逢玉 う云々』。
按(おも)うに、右の王子のよみ給うという歌は、[日本書紀]顕宗巻に
 いなむしろ−川そひ柳−水ゆけば−なびきおきたち−その根はうせず
とありて、即ち顕宗天皇いまだ弘計ノ王(オケノキミ)と聞えさせ給いし時に、播磨国縮 見ノ屯倉ノ首(チヂミノミヤケノオビト)が家に仕えて、新室歌宴(ニイムロウタゲ)に よみ給いし歌なり。さればこの王(キミ)を播磨の王子と僻(ヒガ)おぼえして、そをま た有馬の王子と混じたるものなるべし。有馬の王子は孝徳天皇の皇子にて斉明天皇の御時 、蘇我赤兄と心を合せ、天皇をかたぶけんと計りしに、ことはたさで紀伊国藤白坂にて殺 され給い、東の方へ下り給いしことはものにみえず。さてまた此[慈元抄]と云う書も、 巻末に、永正七年(1510年)誌あれば、いと新らしき物にて、考証とすべき書にはあ らねど、「誰がこのしろに」といえる歌は、そのころよりいい伝えしものならん。されど その時より、つなじと云う魚をこのしろというは甚だひがことなり。[日本書紀]孝徳巻 に、塩屋の×(魚偏に制)魚と云う人ありて挙能之廬(コノシロ)と仮字あり。されば元 来コノシロと呼しことしらるれど、当所に鎮りいます惣社明神の神事に、毎歳九月九日、 コノシロを焼てささぐることは古例なりといえり。委しくは下の神社の部に云べし。」( 以下和歌が列挙されているが省略)

(頭註)「[散木集]に、
 川きりの−煙とみえて−たつなへに−浪わけかへる−室のやしまに
とよめるは、『田上にて、船にてやしまという所にて霧のいふせかりければよめり』とあ れば、近江の田上の辺りなる八島と云う所へ室といいかけたるなり」

三之巻 神祇鎮座
大神社(オホミワノヤシロ)
鎮座詳ならず。今都賀郡国府の惣社明神の相殿に祀りてあり。一説に、同郡太平山に鎮ま りいますぞ大神社なると云、其は下の太平権現の条にいうべし。
 さて大神社は、伊勢、近江、遠江、尾張、其外にもありて、祭神乃ち大名持ノ命の和魂 (ニギミタマ)大物主神なり。また三輪ノ神社も、皆ナ是に同じ、本居宣長の[古事記伝 ]の、刺国(サシクニ)大神の細註に、『大和国などに、太(オホ)と云う地名もあれば 、大(オホ)の神ともいふべし。尾張国中島郡、大神神社、臨時祭の式に、大、或ハ多ニ 作ルとあれば、これも大之神なる例なり』と、記したり。されど尾張のはともあれ、他の 大神神社は、みな大三輪ノ神社なれば、いとまぎらわし、大神社も、大神神社も、みな同 じ社なり。
 ついでに云、今の世俗大巳貴(オホナムチ)ノ命を、オホアナムチと唱うるは誤りなり (以下、ついでの話なので省略)」

三之巻 神祇鎮座
総社六所大明神
都賀郡国府にあり。社ある所を惣社村と云なり。一書に、惣社は景行天皇四十二年(11 1年)、国々の府中に、六所明神を祀るよしみえたり。上野国の惣社は、磐列(イハサク )根列ノ神ノ男(ミコ)、磐筒男(イハツツヲ)ノ命その外、総て六柱を祀るといい、武 蔵国の惣社は、大国魂ノ命にて、是も相殿に五柱を祀るよし、縁起にみえたり。常陸ノ国 の惣社も是に等し、されど府中惣社は、なべて[神名帳]には載らず、然るを 祝部 、神主等、あかぬことに思えるにや、[神名帳]の中なる、なにの神社、くれの神社など とあらぬ名を引つけて、おのがまにまに唱うるは、あたらぬ事なり。よく弁うべし。 (ごもっとも)

 さて当社祭神は木花開耶媛ノ命にて、相殿は天照大御神、天ノ忍穂耳ノ尊、日子番能爾 爾芸ノ尊、日子穂穂手見ノ尊、大山祇ノ命なりといえり。社領三十石、除地にて、内十五 石ハ大宮司国保斎宮、十石ハ神主野中出雲、五石祝部大橋大和、配当す。其外社僧神宮寺 、社家六人ありて、是らは配当なし。
 さて当所は、室ノ八嶋にて、上の名所部に委しく記したり、されば室明神とも唱うるな り(つまり室明神の室とは土地の名前であるってことね。)。祭礼は毎 歳八月朔日、内陣に蔵めおく、一口の鉾を形代(カタシロ)として、旅所に出し、九月八 日の夜、もとの内陣に納むるなり。鉾の形は十文字鎗に似て、長ニ尺許あり、さて翌九日 広前にて制魚(コノシロ)を焼てささぐ、此日国府村、田村の両村より、判官と唱ふる者 十二人、年番に出て神事をつとむるなり。制魚を焼くことは、名所部に挙たり、考合すべ し。」


近代/現代
[大日本博覧図 栃木県之部](1890年刊)
 青山豊太郎 編、精行舎、1890年刊
(復刻版:[大日本博覧図 栃木県之部]、あかぎ出版、1985年)

[宇都宮四近町村略志](1892年)
 栃木県 編
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

[日本大辞林](1894年)
 物集高見 編、宮内省
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

国語辞典
・[ことばの泉]、落合直文 著、1898−9年刊(復刻版:ノーベル書房、1979 年)
・[修訂大日本国語辞典]、上田萬年、松井簡治 著、冨山房、1915年初版、193 9年修訂版
・[改修言泉]、落合直文 著、芳賀矢一 改修、大倉書店、1928年刊
・[大辞典]、下中邦彦 編、平凡社、1936年

[栗里先生雑著]の「銷夏漫録」(1897年記)
[栗里先生雑著](りつりせんせい−)、栗田寛 著 栗田勤 編、出版者: 吉川半七 (1901年)の巻15 8頁 「銷夏漫録」(1897年記)
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

「室の八島
同書(清水濱臣の答問雑稿)に『下野の室のやしまは、・・・(答問雑稿引用)・・・後 の世の人のさかしことと思ひわきまふへき事になんありける。』
 寛(栗田寛)云、室の八島の名は、ふるくよりあらはれて、歌人のもてはやす名所なる が、其名所を偽り設けて、人を惑はすことありしとみえたり、かの河野守弘の下野國誌に も、室の八島の事ありきと覚ゆ、此説と合せ考へて見るべき也。」

[日本之名勝](1900年刊)
 瀬川光行 編、史伝編纂所 刊
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

[国語集解](1902年)
 岡吉胤 編、出版者岡吉胤
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

「都鄙旧蹟の部
・・・・・・
○むろのやしま
下野ノ国総社の前に池あり。池中に方二間はかりの島八ありて、火気起り、煙常に見えし を、室の八嶋の煙、とは歌によめり、西土の書に沢中有2陽焔1といふ是也、今は池のみ形 ありて、水かれぬれば、烟もなしといへり、二荒山記に垂仁帝之皇子池速別命下野国室の 八島に住居すと見えたり」

[神社覈録](1902年)
 鈴鹿連胤 撰、井上頼芦・佐伯有義 校訂、皇典研究所
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

「大神神社
大神は於保牟和と訓べし、印本一の神の字を脱す、今古本に拠りて号ふ
○祭神大己貴神
○府中六所惣社村 室八嶋惣社明神 相殿に存す[下野国志]
  類社
大和国城上郡 大神大物主神社の下見合すべし」

[下野神社沿革誌](1902−03年)
 風山広雄 編、風山広雄
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

[大日本地名辞書]坂東(1903年初版)
 吉田東伍 著
[大日本地名辞書]第六巻 坂東、吉田東伍、冨山房、1903年(第六巻の初版)、1 970年(増補版初版) 増補版中の[補]の部分がいつ追加されたかは未詳。

「惣社  今国府村の大字なれど、国府の東北半里にして、思川の岸辺に近し、[小山文 書]に、『惣社敷地、同惣社野』と云ふにあたる。惣社の民家の西、橡木、壬生の通路の 東に、室明神あり、東南して鳥居を立て、境内広く、老樹岑鬱たり。惣社の祀壇、即是な り。諸州の例と同く、六所明神とも称ふ。
 <たえず立つ煙やむろのやしまもる国つみかみの誓なるらむ>[新和歌集]宇都宮景綱 」

「室六所(ムロノロクショ)神社 (室八島) (八島)  即下野の惣社にして、室と は此地の旧名なり。中世以来、詞人(歌人)室の八島てふ、縁語を以て詠唱し、遂に東国 の名所と為る、因りて幾多の附会を招けり。

[神祇志料]に、『室惣社を以て、式内大神社に擬せるは非なり。諸国の例に拠るも、惣 社は当然式外とす。又六所の名字につきて、六神を祭るとて、其目を挙ぐるも、古義には あらず。殊に其室の八島の縁語に取りて、竈神を祭れる歟と疑ふも、誤れり。』(一書に は、式内大(オホ)神社は今惣社の相殿に祀るといへり)、
○[国誌]云、『総社六所大明神は・・・
清輔[袋草子]、『源経兼下野守にて在国之時・・・
○[平治物語](平治元年、少納言信西の子十余人、国々へ配流の条)・・・
○永正中[東路の苞]云、『室八島、近き程なれば・・・
元禄中[奥の細道]云・・・
[国邑志稿] 小川氏云、『俗説弁([広益俗説弁])に、室の八島を、上古木花開耶姫の、無戸室を作 りたまへる旧跡なりといふは誤れリ、是も[羅山文集]に『室八島、池中有八島(ヤシマ )、祭八神』などいひて、無戸室の事をも援きたるに、誤られしならん。』
○[続奥之細道]([蝶の遊])云、『室の八島を尋ね詣づ・・・
○[木曽路図会](貝原益軒 著)云、『惣社大明神の前に、室の八島とてあり・・・
[奥細道菅薦抄]云、『[詞花集]<いかでかは思ひありとも知らすべき・・・
[慈元抄]、『昔有馬王子零ぶれたまひて・・・
[国誌]云、『室八島は惣社村にあり・・・

補「室社」 [神祇志料]、大神(オホムワ)社、今総社村に在り、室八島大明神と云ふ ([巡拝旧祀記]・[式社考]・[神名帳考])按、[延喜式神名帳]旧訓於保武和とあ るに拠ば、神字の下神字を脱したるか、然らば大神神社にて大己貴神を祭るにや、本のま まならむには於保能神社にして多氏の神を祭れるに似たり、今は土人於保牟加美と唱ふと 云り、また執れか是を知らず、姑附て考にそなふ。」

(考察)大略[下野国誌]を参考にして書いているようです。吉田東伍は1916年刊の [下野国誌]に長い序文を書いています。

[日本歴史地理辞典](1907年)
 藤岡継平 編、六盟館
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

「シモズケノコー 下野国府 は今同国下都賀郡国府村大字国府にその址を存す、今壬生 町大字惣社に大神神社あり、古へは惣社六所大明神又は室明神と称し、式内の古社今は郷 社に列せらる、旧社領三十石を領し、別当神宮寺ありしが今廃す、大巳貴命他五神を祀る 、三輪氏の祖神なれば古此地方に三輪の族占住せしなるべし、同社は一説にもと同郡太平 山に鎮座せしものなりといふ、此地に室の八島といふ古跡あり、」

「ムロノヤシマ 室八島 は下野国下都賀郡壬生町大字惣社にあり、大神神社の側とす、 古来煙に寄せて和歌に詠じたるもの頗る多し、室とは地名にして八島とは竈の古名なり、 古此地に清水ありて気の立のぼること煙に似たれば、やがて竈に充てて八島と称せしとぞ 、今も壬生町の大字に煙の村名あり、又清水と称する字などあり、此地に又花見の岡あり て、その蓮華寺は親鸞聖人幽居の跡なりといふ、当時大光寺村といひ、親鸞池の辺まで八 島の故地に当たる。」

「ムロノヤシマ 室八島 は近江国栗太郡供御瀬にあり、・・・本文中に引用」

[画行脚](1908年)の「栃木付近」
 小林鐘吉 著、彩雲閣
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

[新撰名勝地誌](1910−1914年)
 田山花袋 編、博文館
(出所)国立国会図書館 デジタルコレクション

「大神神社(室の八島)
小金井停車場の西方三十余町、総社村にあり。古へ総社六所大明神または室の明神と称し 、下野の総社なり。此殿壮麗、境内瀟洒にして、毎歳八月一日を以て大祭を挙行す。社域 内に室の八島あり。古来名高き勝区にして、多く和歌に詠まれたり。
下野國志に曰『室の八島は総社村にあり。・・・さて袖中抄に・・・』。
古歌あまたあり、茲にはそのニ三を録す。
詞花集実方
 <いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは>
新古今集清輔
 <朝がすみふかく見ゆるや煙たつ室の八島の渡りなるらむ>
芭蕉の奥の細道に記して曰く『・・・・・・・・・』」

[明治神社誌料](1912年)
[明治神社誌料]、明治神社誌料編纂所 編、講談社、1975年復刻

[栃木案内](1914年)
 阿部善蔵 著、阿部善蔵 刊

[広文庫](廣文庫、こうぶんこ、1916−8年)
 物集高見 著、「むろのや志ま」の項
(復刻版:名著普及会、1976年)

[山水小記](1918年刊)の「日光」
 田山花袋 著
[現代日本紀行文学全集]東日本編、ほるぷ出版、1976年

[奥の細道の下野](1950年刊)
 小林晨悟 著、栃木渋柿会

[栃木県市町村誌](1955年刊)
 平井恒重 編、栃木県市町村誌刊行会

[広辞苑](1955年 初版発行)
 新村出 編、岩波書店

[講談社古語辞典](1969年刊)
 講談社


[室の八島と産育文学](1970年)
 細矢藤策 著、野州国文学第六号

室の八嶋に伝わる伝説
1)昔国司としてやってきた有馬王子が室の八島の庄屋の娘に魅かれ、嫁に欲しいと言う 。娘には言いかわした男がいたので娘は死んだと言って断り、鮗とニンニクとを焼いて屍 の焼ける匂いを合成して王子の目を逃れ、娘を男にくれてやったというのである。

2)昔、室の八島の長者の娘である木花咲耶姫が、常陸国司に見染められて所望され、そ れを断ると国司が攻めてくる。そこで逃げて癸生(けぶ)の仙元権現のところへ来たら、 神主が石臼の中にかくまい、臼のへりに筋を刻み、臼を作っているふりをして追手の目を 逃れる。一旦去った追手がまた引き返して来たのでやむなく棺を造り、棺の中にニラとニ ンニクと鮗とを詰めて焼き、煙と匂いを出して火葬を装う。追手はその匂いを嗅ぎ、人の 体を焼く匂いだとして姫の死を確認して去る。姫はその後富士山に飛んで行って浅間の神 となり給う。飛んで行く時に袖を捨てて行ったので片袖橋、故郷を見返ったので見返り橋 と名づけた。また土地の人々はニラとニンニクと鮗とを忌んで食べないと言う。

(註)これらの伝説の出所未調査です。

(考察)
1)について
 どこかの神社に正式に伝わった話じゃなく、土地のいいかげんな噂話が伝説になったも ののようです。

2)について
室の八島を神社でなく人の住む町(中世室の八島)としているところを見ると、これは[ 奥の細道](1689年旅)当時の下野惣社の縁起から派生したものでなく、それ以前の [下野風土記](1688年編著)当時の下野惣社の縁起から派生した物語と思われます 。そうするとこの話いつ頃作られたんでしょう?またこれは癸生の浅間神社の縁起と思わ れますが、下野惣社に対抗して、当社・癸生の浅間権現(本来は癸生の仙元権現であると こじつけてるんでしょう)が富士浅間神社の親神社であるとこじつけてるんでしょう。分 社のくせに親神社であるなどとはとんでもない。しかし「下野惣社(惣社大明神・室の八 島大明神)が浅間神社の親神社であるなどとはとんでもない。親神社は当神社である。」 と言い出したのは癸生の浅間神社ばかりではありません。栃木市の太平山神社、埼玉県の 鷲宮神社なども言い出しました。

*その他  細矢藤策氏の文献
・[室の八島の煙考]、細矢藤策、野州國文學、第三号、1969年
・[室の八島と唱導文学−成憲流離物語を中心に−]、細矢藤策、野州國文學、第五号、 1970年
・[室の八島と浅間信仰]、細矢藤策、栃高教研国語部会機関紙「国語」十二号、197 2年
・とちぎの小さな文化シリーズB[ふるさとの散歩道−栃木ゆかりの文学を訪ねて]、と ちぎの小さな文化シリーズ企画編集会議 編、下野新聞社、2002年

[下野のおくのほそ道](1977年)
 栃木県文化協会 編、栃木県文化協会 刊

[目で見る栃木市史](1978年)
 栃木市史編さん委員会 編纂、栃木市
室の八島にまつわる伝説

(要約)下野国に、むかし、五万長者と呼ばれる長者がおり、長者には常陸国の国司に嫁ぐ ことを約束した娘がいた。ある日、下野国に流離(さすら)い着いた孝徳天皇(596−6 54年)の子有馬皇子(640−658年)が長者の家に住み込み、いつしか娘と恋仲に なった。国司は婚姻の約束を果たすよう長者に催促するが、すでに娘は有馬皇子に心が移 ってしまい長者は途方に暮れる。そこで思い立ったのが娘を死んだと見せかけて国司に婚 姻を断念してもらうことだった。偽りの葬儀で、長者は棺(ひつぎ)に「子の代(このしろ 。子の代わり)」として「つなし(ニシン科)」とニラを入れて野辺送りをした。すると、 これを焼いた匂いが人を焼いたときと同じ匂いのため、国司は娘がほんとうに死んだもの とあきらめ、常陸国に帰って行った。いつしか「つなし」は「このしろ」とも呼ばれるよ うになった。むかし、大神神社で行われていた毎年9月9日の「つなし」を焼いて捧げる 神事は、この謂れによるという。
(註)他の資料から引用させていただきました。この伝説の出所未調査です。

(考察)[下野風土記](1688年編著)に登場していた木花咲耶姫が消えています。 また[慈元抄](1510年?)の登場人物である有馬皇子が出てきます。これは木花咲 耶姫の惣社大明神が大物主の大神神社に替わってから、木花咲耶姫が主人公では都合が悪 いので、[慈元抄](これは中世における武蔵の国の鷲宮神社の縁起譚か?) を参考にして大神神社が作り替えたものでしょうか?そして「室の八島にまつわ る伝説」でありながら、ここには室の八島という言葉は登場しません。当時の室の八島は 八つの小島のある池だったのでしょうか?だとすればこの物語に室の八島の池は関係ない ので(参考にしたと思われる[慈元抄]に出てくる室の八島とは下野国府の集落 のことです。つまり[目で見る栃木市史]の文の「五万長者と呼ばれる長者がお」る町と いうのが室の八島だったのです)室の八島の池は登場しません。

[坂東鎮護の地室の八島物語―坂東下野国](198 3年)
 島田 順三郎 著、栃木市国府町史跡めぐり同好会 出版

(考察)タイトルの[坂東鎮護の地室の八島]の意味が全く不明。室の八島が歴史上、鎮 護の地になったことは一度もない。それで、筆者(この私)の知らない史料を基にして書 かれたのでないかと思い、筆者の知らない史料が引用されていないか?斜め読みして探し た。しかし、筆者の知らない史料は見当たらなかった。どうも室の八島を全く誤解して書 かれた単なる架空の物語のようだ。それで興味が無いので、筆者はこの本を読んでいない。

[角川日本地名大辞典]栃木県(1984年)
 角川書店

[日本地誌]栃木県ほか(1987年)
 日本地誌研究所等 編、二宮書店

[栃木市史](1979−88年)
 栃木市史編さん委員会、栃木市

[日本歴史地名大系]栃木県の地名(1988年)
 平凡社

[大辞林](1988年)
 松村明編、三省堂

[神道大系]上野・下野国(1992年)
[神道大系]神社編25 上野・下野国、神道大系編纂会 編、神道大系編纂会

[日本国語大辞典]第二版(2000−2002年)
 小学館

[中世都市「府中」の展開](2001年)
 思文閣史学叢書、小川信 著、思文閣出版

角川ソフィア文庫「おくのほそ道、ビギナーズ・クラシック」 (2001年)
 角川書店

「室の八島明神(大神神社。栃木県栃木市)に参拝した。 同行の曾良は、『この神社に 祭ってある神は、木の花咲耶姫と申しまして、富士山麓の浅間神社(静岡県)と同じ神で す。この姫は、たった一夜で懐妊して、夫の瓊瓊杵の尊(ににぎのみこと)に疑われたの で、四方が壁の、出入り口のない部屋を作り、その中に入り、もし生まれた子が尊の実の 子だったら、火で焼け死ぬことはありません、と身の潔白を証明するために、部屋に火を かけました。そうして、無事に炎のなかから火々出見の尊(山幸彦)が誕生なさいました 。そこで竈(八島)のように燃える部屋(室)という意味で、室の八島と呼ぶようになり ました。また、室の八島といえば、煙にちなんだ歌を詠む習わしがありますのも、こうし た言い伝えによるのです』と解説した。
 さらに、この地方では、このしろという魚をたべるのを禁じている。このしろを焼くと 、人体を焼くにおいがすると言われるためらしい。こういう八島明神の由来を物語る話に は、世間によくしられているものもある。」

(考察)こんなメチャクチャな現代語訳の誤りをいちいち訂正していたら、日が暮れるどこ ろか夜が明けちゃいます。

「東京新聞」2004年8月31日の記事(?)
水滔々(13)『室の八島』のロマン 歴史はみつめている

「(前略)荒川宮司は・・・『歴史学者によれば、この池と島は古代の豪族の庭園だった と。これが歌に詠まれた室の八島ではないですね。十年ほど前まで、湧き水が枯渇して、 荒れ放題だったのを四十メートルほど下からポンプアップしました』・・・『子どもの時 から、神社の森の中は何も変わってない。でも、周囲にはあちこちに湧き水があり、幾筋 も小川が流れていた。小倉川(今の思川)まで、われわれガキ仲間の遊び範囲だったなあ 』・・・神社の森には平地では珍しいオオムラサキが生息していたり、高山植物も多い。 昔から異常に湿気が高いからだとされる。境内に柱を立てるため掘ったら一・五メートル 下は砂と砂利。ここが河原だったことを示している。近くから護岸用に打ち込んだと見ら れる炭化した丸太も発掘された。かつてこの地域が壮大な湿地帯だったことを裏 付ける材料には事欠かない。(後略)」

(考察)「歴史学者によれば、この池と島は古代の豪族の庭園だった」って、これは大間 違い。現在の池が作られたのは江戸時代の1738年ごろ。その前にあった大きな池でも 、作られたのは、かつて下野国府の集落のあった辺り一帯が室の八島と呼ばれるようにな った中世だろう。この池は本来の室の八島を想像して中世室の八島の地に作られたものと 考えられる。それにこれらの池は下野惣社の敷地内に作られたものと考えられる。「かつ てこの地域が壮大な湿地帯だった」って、何千年前の話?この神社は水上宮だったって言 うの?近くに古墳があると言うのに。「近くから護岸用に打ち込んだと見られる炭化した 丸太も発掘された。」って、場所はどこだろう?この丸太はいつ頃打ち込まれたのだろう ?丸太のどちら側が川あるいは湿地帯でどちら側が岸・陸地だったのだろう?


【目次】 トップページ 概要 平安 中世 近世 近現代 【索引】 メール