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第3章 中世室の八島 第1節 さすらいの旅のはじまり 室の八島はその後景観を失ったのか、平安時代末期の平治の乱(1160年)頃を境に して、室の八島と呼ばれていた場所の中心が下野国府(府中)に移動し、下野国府の集落 一帯がその土地の人達から室の八島と呼ばれるようになります。これが室の八島のさすら いの旅の始まりです。そうして移動後に室の八島と呼ばれるようになった場所の面積は、 平安室の八島の章で考察した内容が正しければ、元の面積よりかなり狭くなります。 それでは平安室の八島の景勝地というイメージは消えてしまったのでしょうか?いいえ 、そう簡単には消えません。室の八島の具体的場所が下野国府の集落一帯に移動した後も 依然として、景勝地というイメージは残ります。ということで室の八島が二つになります 。室の八島が二つになると、それらを組み合わせた「景勝地室の八島は、下野国府の集落 一帯のどこかにかつて存在した」という考えが生まれ(る、というのは推測にすぎません 。史料上現れるのは近世になってからです)、これらのイメージやら具体的場所やらが混 在することになります。 その後、 1300年代 までに国庁が今の小山市に移転し、それまで下野惣社(今は大神神社)周辺にその中心域 を移動していた室の八島、すなわち下野国府の集落は次第に寂れていきます。 その後の室の八島については何らかの変貌があったのか史料が乏しいところですが、15 09年に連歌師柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)が、室の八島であるとして栃木 市国府地区のどこかと思われる場所に案内されますが、室の八島の印象は「誠に打見るよ り淋しく憐れなりけり」でした。 その後、近世に入った頃から室の八島は大きく変貌し、室の八島の面積は更に狭くなりま す。おそらく明確に範囲が規定された土地でない場合は、時代が下れば下るほど、その面 積が狭くなるという歴史の法則が存在するのではないかと考えています。現在でも、昔は もっと広い土地の名称だったという所がいくつもあります。本来の室の八島は下野国府の 集落よりずっと広い土地だったのではないでしょうか? *平治の乱(1160年)以降の史料を、「中世室の八島」の史料として、ここに含めています。 1.平治の乱(1160年) [平治物語](平治の乱の顛末を描いた軍記物語、作者未詳、1199年以降1246年 以前に成立) 「信西(しんぜい、藤原通憲)子息各 遠流 に処せられる事」 「(藤原成憲(ふじわらのしげのり、1135−1187年)が)下野国府に着きて、 わが住むべかなる無露の八島とて、見遣り給えば、烟(けぶり)心細く上りて、 折から感涙止め難く思はれしかば、泣く泣く斯くぞ聞えける。 わが為に−ありけるものを−下野や−無露の八島に−絶えぬ思ひは ここをば夢にだに見んとは思はざりしかども、今は住家と跡を占め、習はぬ草の庵、 譬へん方も更になし。」 *すいません。上記の歌の意味は全くわかりません。 (考察)『下野国府に着きて見遣る、わが住むべかなる無露の八島』とは、とりもなおさず 下野国府の集落の事です。(下記(解析)参照) ということは、室の八島が、景勝地から下野国府の集落一帯に移動したということです。 (下記(追記)参照) そして、そこから心細く立ち昇る室の八島の烟とは炊煙・竈の煙?それとも焚き火の煙? まあそんなもんでしょう。 藤原成憲は下野国府に流されて、国庁の役人の監視のもとに謹慎させられたんでしょう。 地方の国府に配流された例としては、親鸞(しんらん)が1207年に越後国府に流された 例があります。 (解析)『下野国府に着きて見遣る、わが住むべかなる無露の八島』の解析 1.下野国府は行政名であり、室の八島は昔から有る土地の名であって、ただ同じ土地を 言い換えただけではないか?そして、 室の八島とは下野国府の集落の事ではないか? 2.ここで言う下野国府とは下野国庁の事ではないか?そして、そこから見える室の八島とは 下野国府の集落の事ではないか? 3.下野国府とは下野国庁のある街或いは町の事であって、そこから見える室の八島とは、 さらにその周囲の田園地帯を含む下野国府の集落全体の事ではないか? 1.〜3.のいずれにしろ、「室の八島とは下野国府の集落のことではないか?」 ということです。 (追記)このように室の八島の場所が変わったことは、古い史料から順にじっくり解析して こなければ、決して気付きません。 たとえば、大神神社(下野惣社)が登場する後世の史料から調査を開始すると、この [平治物語]に突き当たっても、「大神神社ばかりでなく、その周辺の土地も含めて 室の八島と言うのか」と大神神社を中心に考え、大神神社から離れて考えることは 決してできません。 室の八島を現在の栃木市惣社町辺りとする参考書が結構ありますが、これも大神神社から 離れられないからそういう表現になるんであって、離れられていれば下野国府という 言葉が出てくるはずです。この時代の室の八島はまだ大神神社とは何の繋がりもありません。 このウェブサイトの内容にはいろいろ批判もあろうかと存じますが、批判する前に必ず ご自身で「古い史料から順にじっくり解析して」みてください。そうでないと的を射た 批判にはなり得ません。そしてあらかたの史料はこのウェブサイトに揃っていますので、 どうぞご利用下さい。「参考文献一覧」には、本文に引用しなかった史料の文も載せています。 このウェブサイトで言っていることを覆せるかどうかのポイントは、新しく平安時代以 前の史料が見つかるか否かです。見つかりましたら是非筆者にもご紹介下さい。鎌倉時代 以降の史料は見つかってもたいした力にはならないでしょう。それよりあなたに探してい ただきたいのは、あの辺の地勢に関する情報です。それがあれば室の八島の場所をもっと 絞ることができるでしょう。 (参考)[源平盛衰記](げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき、鎌倉時代の軍記物) 呂巻 第二 「清盛息女事」 「御娘八人御座けるも、皆取々に幸し給へり。一は本は桜町中納言成範卿の相具 し給し程に、彼卿下野の室の八島へ被流後、花山院左大臣兼雅の御台盤所に成り 給へり。」 2.[小侍従集](1182年) 小侍従 (1121−1202年?) この歌は1160年−82年頃の歌か? 夏くれば−室の八島の−里人も−なほ蚊遣火(かやりび)や−思ひ立つらむ 夏くればって? (考察) 藤原隆信 (1142−1205年)の元久本[隆信集](1204年)によれば 、 平治の乱 (1160年)の罪を問われて下野国に配流された藤原成憲(しげのり、後に成範と改名、 1135−1187年)が、ほどなく謹慎を解かれて都に戻った(同じく1160年)後、 小侍従と対面しているようです (註4)。 この歌によれば室の八島は人の住む里のようですが、小侍従は成範から下野国府の集落が 土地の人達から室の八島と呼ばれていたことを聞いていたんでしょうか? この歌が室の 八島を下野国府の集落とする最初の史料のようです。 3.[小山朝政譲状](1230年) 「国府郡内 古国府 【地図】 大光寺 【地図】 国分寺敷地 【地図】 惣社敷地同惣社野(=/+)荒居 宮目社 【地図】 大塚野」 【地図】 (考察)平治の乱以降室の八島が下野国府の集落一帯に移行したようですが、 この[小山朝政譲状]の「国府郡内」が室の八島の場所となったんではないでしょうか? 4.[八雲御抄](1221−1242年の間)巻第 五 名所部 順徳天皇(1197−1242)著 「島 むろのや(島) 下野 是は野より水のけの煙の様にて立也。非島とも。依名入る。基俊曰、有両説。下野の野中 より立つけ(=気)也。一説には人家かなへ(=鼎)なり。有書云、如何。」 (考察).[袋草紙]に有る「内大臣忠通家歌合」などを参考にして、書いているだけの ようです。 5.[新和歌集](1260年前後) [新和歌集] 1) 安部資氏 よそにきく(音に聞く?)−室の八島を−来てみれば−煙ばかりぞ−名には立ける (考察)安部資氏は新和歌集成立頃の人でしょうか? 歌詞を読むとこの人は実際に室の 八島を訪れて実景を詠んでいるようです。そして室の八島の煙は歌に詠まれて有名だが、 実際に室の八島に来てみたら、歌に詠まれるにふさわしい場所はどこにも見当たらなかっ たと詠んでいます。 参考書によれば、1336年の茂木知貞代祐恵の軍忠状に「小山乃御舘」へ馳せ参じた とあり、その頃までには政庁が今の小山市に移っていたようですが、安部資氏が室の八島 を訪れた頃は、まだ栃木市の国府地区辺りに政庁があったんでしょう。 安部資氏は、「室の八島とはこの辺りのことです。かつてこの辺りのどこかに絶えず煙が 立ち昇る場所があったようです」とか何とか言って、今の栃木市国府地区辺り、すなわち 中世室の八島である下野国府の集落辺りを案内されたのでしょう。しかし、室の八島に実 際来てみると、そこには煙が立ち昇っていないばかりか、歌に詠まれるような景色も見当 たらなかったのでしょう。既に1100年頃までに室の八島は景観を失ったと考えられま すから。そして恐らくこの頃までには人々が頭に描くイメージ上の平安室の八島の面積と 下野国府の面積との大小関係は逆転してしまっていたでしょう。 2)宇都宮景綱(1235−98年) 室の八島見にまかりてよみ侍りける たえず立つ−煙やむろの−やしまもる−国つみ神の−誓なるらむ (考察) この「国つみかみ」を大神神社(下野惣社)とする話がありますが・・・ [源氏物語](1008年頃)の「10巻 賢木」の「六条御息所伊勢への下向を決心す る」に 八洲もる−国つ御神も−こころあらば−飽かぬ別れの−中をことわれ という歌があり、「八洲(やしま)もる国つ御神」という言葉のあったことが分かります 。 宇都宮景綱は、単にこの「八洲もる国つ御神」に引っ掛けて「室の八島もる国つ御神」 と詠んだんでしょう。博識振りを自慢するために、このように過去の歌を利用することは伝 統的に盛んに行われていたようです。「本歌取り」という言葉を高校生時代に習ったことが あります。 この「室の八島もる国つ御神」は、漠然と下野国の守護神を指したもので、具体的な神 社、下野惣社を指したものではないでしょう。宇都宮景綱(1235−98年)の時代、 下野惣社に下野国の惣社としての役割が残っていたでしょうか?それより下野国の神が守 る場所とは、当時下野国の政庁が置かれていた場所で、室の八島に政庁があったということ ではないでしょうか? なお歌冒頭の「たえず立つ煙」は、上記安部資氏の歌からわかりますように、当時室の 八島に煙が立ち昇っていたという事実を意味するものではありません。 6.[補陀落山建立修行日記][補陀落山草創建立記 ]とも(鎌倉時代) 二荒山(日光山)の開祖・勝道上人の行蹟を記した書 「尋2夫先祖1者。昔時人王十一代皇活目入彦五十狭茅帝第九王子巻向尊。勅使伊勢大神宮 奉レ崇2鈴鹿川上1。然王子依2事因縁1而下2向東国1。其後依2痾疾1損2一目1。因レ茲不レ能 レ還レ洛。遂住2下野国室八島1。」 (註5)。 (考察)ここには日光山を開山した勝道上人(735−817年)の先祖である、垂仁天 皇第九皇子の巻向尊(まきむくのみこと)が下野国の室の八島に住みついたと書いてありま す。そして文末には弘仁九年戊戌(818年)にこれを記すとあります。 もし818年作なら室の八島に触れた最古の史料ということになりますが、学者からは 鎌倉時代の偽作と考えられているようです。 室の八島に関する記述から推測しても平治の乱(1160年)以降の作と思われます。 この[補陀落山建立修行日記]が言う、巻向尊が居た頃(一世紀)室の八島が人の住む里 であったというのは全くの眉唾です。 7.[都のつと]つと:土産 宗久(そうきゅう、南北朝時代の僧・歌人。1350以前−80年以後)著 「いとど塵の世もあぢきなく覚えて、ありか定めず迷ひありきし程に、室の八島なども過 ぎて、・・・(脱字アルベシ)・・・身にしみ侍りき。」(次は白河の関へ飛ぶ ) (註7)。 (考察)宗久は室の八島の場所を知っていたようです。当時の室の八島の場所はどこだっ たんでしょう。おそらく下野国府の集落のあった辺りのことでしょう。 8.(参考)[親鸞上人絵伝](室町時代中期から末 期の作) 報恩寺(東京都台東区東上野6−13−13、浄土真宗大谷派 ?)蔵 親鸞:しんらん、1173−1262年 |
図の左半分:「国府の社也(意味不明)」の文字 図の右半分:「下野国むろのやしまのありさまなり」「国分寺也」の文字 (考察)平凡社刊 日本歴史地名大系[栃木県の地名](栃木市の大神神社(おおみわじんじゃ) の項にある[室の八島]の項)によれば、『親鸞が100日間室の八島に逗留した』 という伝説が地元にあるようです。 これはかつての大光寺村花見ケ岡の現在蓮華寺(今の住所は下野市国分寺、県道44号線沿い 【地図】 )がある場所に親鸞が幽居したという話のことを言ってるんでしょう。 親鸞が室の八島に立ち寄ったとすれば、それは1214年頃で、当時の室の八島は、 時代的に下野国府の集落のことで、3.[小山朝政譲状]で考察したように、 上記の大光寺村は室の八島のうちだったと考えられます。 しかし、上の絵は平安室の八島のイメージです。この絵によれば、室の八島は位置的に 思川(おもいがわ)にある沢山の中洲ということになりそうです。でも島が山のように 描かれていますので、中洲をイメージして描かれたものではなさそうです。 [親鸞上人絵伝]は鎌倉時代からいくつも作られていますが、想像して描いたとはいえ、 平安室の八島を描いた絵は[親鸞上人(聖人)絵伝(伝絵、でんね)] くらいのものでしょうか? 9.[義経記](ぎけいき、英雄伝記物語、室町時代 前期?) 著者未詳 ・巻第二 義経 陵(みささぎ)が館焼き給ふ事 (義経が元服してのち、京の鞍馬寺から奥州平泉に向かう途中の出来事) 「『(京の都から)遙々と奥州(の平泉)へ(まっすぐに)下らんよりも(かつて、平氏 に謀反を起こす際にはぜひ立ち寄り下さいと言っていた)陵(堀頼重)が許(下総国の 下河辺庄 )へ行かばやと思召し、吉次をば『(その先の)下野の室八嶋にて待て。義経は 人を尋ねてやがて追ひつかんずるぞ』とて、(吉次を先に行かせ、義経は)陵が許へぞお はしける。 ・・・・・・ かくて(=裏切り者の堀頼重の館を焼き払って)(奥州平泉に)行くに(当たって)は、 下野の 横山の原 、室の八嶋、 白河の関山 に人を付けられて(は)叶ふまじと思召して(=堀頼重に先回りされて、これらの場所に 追っ手を置かれていては困るので)、(上野国の 多胡 の知人宅を経由して奥州に行こうと考え)墨田河辺を馬に任せて歩ませ給ひける程に、馬 の足早くて二日に通りける所を一日に、上野国 板鼻 (板鼻で、後に義経の忠臣となる伊勢三郎という人物と出会う)と言ふ所に着き給ひけり 。」 ・巻第二 伊勢三郎 義経の臣下にはじめて成る事 (義経は、伊勢三郎を従えて奥州平泉に下ります) 「下野の室の八嶋をよそに見て、 宇都宮の大明神 を伏し拝み、 行方の原 に差しかかり、実方の中将の 安達の野辺の白 真弓 (を)、押し張り素引し肩にかけ、馴れぬ程は何おそれん、馴れての後はおそるぞ悔しき と詠めけん(「しらまゆみ×くやし」で検索してもこの歌見つからず)、安達の野辺を見 て過ぎ、 浅香の沼 の 菖蒲草 、影さへ見ゆる 浅香山 、着つつ馴れにし 忍ぶの 里 の摺衣、など申しける名所名所を見給ひて、伊達の郡 阿津賀志の中山 越え給ひて、まだ曙の事なるに、道行き通るを聞き給ひて、いさ追ひ著いて物問はん。」 (考察)ここに登場する室の八島も、[義経記]の制作年代や『下野の室八嶋にて待て』 などの用例から推定して、平安室の八島ではなく、中世室の八島の下野国府の集落のこと でしょう。 (牛若丸と弁慶の出会い) 10.[歌林良材集](下三十一) 一条兼良(1402−81年)著 「室八嶋事、詞花 いかでかハ−思ひありとも−志らすべき−室の八島の−煙ならでハ−実方 返歌 志もつきや−室のや志まに−立つ煙−思ひありとも−今こそハ志れ−女 右下野国の野中に嶋あり、俗にむろの八嶋といふ、其の野中に清水あるより出る気のたつ が、煙に似たるを云ふ也」 (考察)当時の人が室の八島をどのようにイメージしていたか、参考になると思います。 これ以前もこれ以後も歌論書・解説書の類には、なぜか中世室の八島である下野国府は一 切登場しません。西暦2000年の現在においてもです。なお、このように平安室の八島 のイメージが消えたわけではありません。中世を通じて生き続けます。 11.[東路の津登](あづまぢのつと、1509年 旅)津登(つと)=土産 [東路の津登] 柴屋軒宗長 著 「室八島、近き程なれば、亭主壬生中務少輔綱房(1479−1555年。壬生氏3代当 主)、彼是伴ひ見に罷りたり、誠に打見るより淋しく憐れなりけり、折りしも秋なり、言 ふばかり無くして、発句をと所望せしかば、 朝ぎりや−むろの八島の−ゆふけぶり 夕の烟、今朝のあさ霧にやと覚え侍るばかりなり、猶あはれに堪えずして、 あづま路の−室のやしまの−秋のいろは−それとも分かぬ−夕烟(けぶり)哉 人々のもあまたありしなり。」 (考察)参考書によれば、1336年頃までには政庁が今の小山市に移っていたようです ので、柴屋軒宗長が室の八島に案内された1509年頃までには、下野国府の集落が寂れ てしまったのでしょう。『誠に打見るより淋しく憐れなりけり』は、かつて下野国府の集 落があった辺りの景色のことと思われます。なお『猶あはれに堪えずして』とは、宗長の 抱いていた室の八島のイメージは、平安室の八島の「野中に清水のある所」だったんでし ょうか?それとも中世室の八島の「下野国府一帯」だったんでしょうか? ところで、綱房はどの辺りを室の八島と紹介したんでしょう?いつの頃からか国庁跡と 伝えられていた今の国府町にある 勝光寺 の周辺でしょうか?それとも後の [下野風土記] (1688年編著)に出てくる癸生村(けぶむら)辺りでしょうか?この室の八島は、壬 生綱房に案内されているところから、当時壬生氏の領地内に在った可能性があります。癸 生村辺りは壬生氏の領地だったのではないでしょうか? なお、宗長はこの旅の途中、佐野と壬生の間を往復していますが、[東路の津登]に「 とちぎ」という地名は登場しません。栃木市街辺りはまだ町として開けていなかったよう です。栃木市の中心市街地辺りは、周辺の国府地区、皆川・吹上地区と比較して開発がか なり遅れましたが、それはそこが室の八島の湿地帯だったからではないかと考えています 。栃木市嘉右衛門町辺りは昔嘉右衛門新田村と言い、大町(だいちょう )辺りは大杉新 田と言いましたが、この辺りには江戸時代「大ぬかり沼」という大きな沼が存在したよう で、これらの土地が開発される前は湿地だった可能性があります、 ところで、柴屋軒宗長は、室の八島の煙について「朝霧」(水の煙)や「夕煙」(飯炊く 煙で、火の煙)などと言ってますので、固まったイメージは持ってなかったようです。 12.[慈元抄](室町時代後期の教訓書、1510年) 著者未詳 「問ひて曰く、歌ゆゑに幸にあひたる人ありや。答へて曰く、昔、有馬王子零(おち)ぶ れたまひて、下野国まで下り給。其の国に五万長者とて富人あり。其に立寄らせ玉ひて奉 公すべき由を宣ぶ。長者置き奉る。或時酒宴の半ばに巡の舞ありて皆舞けり。彼若殿原も 舞べしと長者云ければ、王子やがて立ちて歌をよみ玉ふ。 いなむしろ−川そひ柳−行く水に−流おれふし−そのねはうせず と詠じて舞給ひければ、長者只人にあらずとて、座敷を立て御手を引きて上座におき奉り けるとなむ。其比(そのころ)長者独(ひとり)の娘を持たり。かねては常陸の国司に参 らすべきよし約束有りけるも、彼の王子忍び逢い給ひて、程なく懐妊有ければ、国司より 催促ありけれど、娘は早死したりとて、喪葬の儀式をなして野辺に送る。棺にはつなしと 云魚を入て焼きて烟を立つ。彼の魚は焼く匂ひ人を焼くに似たればなり。其の心を読める 。 東路の−室のやしまに−立煙−たが子のしろに−つなし焼くらん 子の代はりに焼くとよめり。それよりして、このしろと云ふとなむ。是歌故に王子も幸に 逢給ふ。」 (考察)本文中に室の八島の記載が無いのに、歌の中にいきなり室の八島の名が登場して いるように見えますが、実は類似の話が寺社の縁起物語にあり (下野惣社の縁起 物語の系譜) 、また [本朝食鑑](169 7年)のコノシロの項 に、[慈元抄]の話と出所が同じではないかと思われるほどよく似た話が載っており、そ れらを参考にすると、この話は中世室の八島の下野国府の市中を舞台とした話のようです 。 [本朝食鑑]は近世の書ですが、室の八島をずばり「市中」、つまり人の住む町である と表現したのはこの書くらいのものでしょう。 −補足説明− 第2節 中世における室の八島の印象 変貌するのは、室の八島の場所だけではありません、印象も変わります。平安室の八島 は華やかな印象でしたが、中世室の八島は、 [平治物語] (鎌倉時代初期)で代表されるようにやや暗い印象になり、それが [東路の津登] (1509年旅)、そして近世初期の [日光山紀行] (1617年旅)まで受け継がれているようです。 それは和歌の方も例外ではありません。 ・[長秋詠藻](ちょうしゅうえいそう、1178年) 藤原俊成(1114−1204年)の家集 「前中納言師仲卿、下野の国より帰京して後、配所(配流先=室の八島)にしてよみたりける歌 (註10) どもとて、見せに遣したりしを返すとて、添へてつかはしける、 いかばかり−露しげければ−東路の−言の葉にさへ−袖の濡るらむ 返し 師仲卿 思ひやれ−室の八島に−しほたれて−煙になれし−袖のけしきを」 (考察)平治の乱に際して1160年に室の八島に流された藤原成憲の わがために−ありけるものを−下野や−室の八島に−絶えぬ思ひは の歌が、室の八島の実景を詠んだ唯一の歌であるという話がありますが、室の八島に流さ れて謹慎している者が、室の八島を「わが為にありけるもの」と詠むでしょうか?それよ り、平治の乱の結果、1160年に室の八島に流された源師仲(みなもとのもろなか、1 116−1172年)のこの歌の方が、室の八島配流の雰囲気が出ているようです。詞書 にあるとおり、この歌が室の八島を実際に知っていて詠んだ歌であることはまず間違いな いでしょう。ただし、知っていたといっても平安室の八島ではなく、中世室の八島ですが 。 えっ「歌の意味は?」ですって。すいません、筆者にはとても解説できるだけの能力は ありません。「しほたれる」「なれる」「けしき」の意味を国語辞典で調べて、こんな意 味かなと勝手に解釈しているレベルですから。 ・[千五百番歌合](1202年) 藤原雅経 むかしより−たたぬけふりの−さひしきは−むろのやしまの−ふゆのゆふくれ (考察)1200年から1230年に掛けて、なぜか暗い歌が集中するようです。 ・[金槐集](1213年) 源実朝(1192−1219年) なかむれは−さひしくもあるか−けふりたつ−むろのやしまの−ゆきのしたもえ ・[歌合](1219年開催) すくもたく−むろのやしまの−ゆふけふり−むせふこころを−ひとにしらせよ ・[日吉社撰歌合](1232年) 藤原隆祐 まてしはし−けふりのしたに−なからへて−むろのやしまも−ひとはすみけり (参考)[吾妻鏡]1180年9月30日の項 「新田大炊の助源義重入道、東国未だ一揆せざるの時に臨み、故陸奥の守が嫡孫を以て、 自立の志を挟むの間、武衛御書を遣わすと雖も、返報に能わず。上野の国寺尾城に引き籠 もり軍兵を聚む。また足利の太郎俊綱平家の方人として、同国府中の民居を焼き払う 。これ源家に属く輩居住せしむが故なり。」 (考察)文脈からすれば、上記「同国」は上野国ですが、平家方の足利俊綱は源氏方の小 山氏と激しく対立していましたので、「同国府中」は下野国府中の可能性があるそうです 。[吾妻鏡]にあるこの事件はちょっと古いですが、藤原隆祐の歌はそのことを言ってい るんでしょうか? ・[続千載集](1320年) 藤原宗秀 きりはるる−むろのやしまの−あきかせに−のこりてたつは−けふりなりけり ・[新拾遺集](1364年) 法印守遍 あともなき−むろのやしまの−ゆふけふり−なひくとみしや−まよひなるらむ (考察)この歌が詠まれた頃は、既に政庁が小山市に移った後とはいえ、『あともなき』 という程かつての下野国府の集落が寂れてしまったことはないでしょう。『あともなき』 とは、かつて下野国府辺りにあったと考えられていた「野中に清水のあるところ」のことで しょうか? ・[沙玉集] 後崇光院(1372−1456年) ところから−むろのやしまの−あきのつき−くもりかちにも−たつけふりかな ・[東路の津登](1509年旅) 柴屋軒宗長 あづま路の−室のやしまの−秋のいろは−それとも分かぬ−夕烟(けぶり)哉 この章終わり
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