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第3章 中世室の八島 の備考


1300年代
「1300年代」と言った場合、130X年の10年間を意味する場合と、13XX年の 100年間を意味する場合とが有るようですが、私が言ってる「1300年代」とは後者 の意味です。
 なぜ筆者が「世紀」を使わないかと言ったら、筆者は頭が悪くて、例えば12世紀と言 われてもそれが11××年のこと、つまり平安時代のこととすぐには結びつかないんです。1 2××年、鎌倉時代を思い浮かべてしまうんです。それはまずいですね。それで私は○○ 世紀と言わずに××××年代と言うことにしてます。

 但し「1000年代」の表現だと1000年からいつまでなのかわからないので、10 00−1999年を1000年代、1000−1099年を1000ゼロ年代、1000 −1009年を1000ゼロゼロ年代、また1200−1299年を1200年代、12 00−1209年を1200ゼロ年代と呼ぶことにしています。つまり「頭から続く0以外 の数字」の後に続く0の数を{ゼロ}という言葉の数で表現するわけです。
これは「1000年代の1000年」、「1000年代の最初の100年」、「1000 年代の最初の10年」と言った方が分かりやすそうですね。
ところで、何世紀という言い方はおそらくゼロが発明される前からの言い方なんでしょう。 今だったら最初の100年は1世紀(1−100年)ではなく0世紀(0−99年)と言う でしょう。
もう既にゼロは発明されてるんですから、「数え歳」は止めて「満年齢」に替えたいですね。
呼び方も変えたいなら「centXry}・「Y紀}、これらのX・Y部を変えるだけですから、 簡単です。


 ところで、話は逸れますが、
(質問1)「二十世紀」を「にじゅっせいき」でなく「にじっせいき」、「10回」「1 0本」を「じっかい」「じっぽん」と読んでる地方はありますか?

 筆者はいくつかの地方を転住して回りましたが、「二十世紀」を「にじっせいき」、「 10回」「10本」を「じっかい」「じっぽん」と読んでいる地方は一切ありませんでした。 どこも「にじゅっせいき」「じゅっかい」「じゅっぽん」と言ってました。「十」を昔風に 「じふ」と読んでいる地方なら「じふ」が促音化して「二十世紀」を「にじっせいき」、 「10回」を「じっかい」、「10本」を「じっぽん」と呼ぶんでしょうけど。

(質問2)「十」を「じゅう」でなく「じふ」と読んでる地方はありますか?
 「じふ」はすでに死語になってると思ってるんですが。

(質問3)反対に、「自負」を「じふ」でなく「じゅう」と読んでる地方はありますか?

(質問4)質問を変えますが「大化7年は、今から何年前ですか?西暦を使わず 和暦だけを使って計算して下さい。」

小侍従(こじじゅう)
平安時代後期から鎌倉時代の歌人である。女房三十六歌仙の一人。石清水八幡宮護国寺別 当光清の娘。太皇太后藤原多子の女房として出仕したため太皇太后宮小侍従あるいは大宮 小侍従と呼ばれ、また『平家物語』等に記されたエピソードから待宵の小侍従(まつよい のこじじゅう)として知られる。

夏くればって?
 夏はいつからいつまでなの? どうもこれってきちんと定義されてないんじゃないの? だからってこれを定義するのは非常に難しい。各季節がいつからいつまでなのかは何を基 準にするかによって一定しない。
でも、真夏・真冬と言ったら、一番暑い時期・一番寒い時期を指し、また冬は寒いもの、 春は暖かいもの、夏は暑いもの、秋は涼しいものと考えるのは、日本人なら共通でしょう。 そして何より、気象庁が気温を基準にして、夏日だとか冬日だとか言っている。
おそらく、このように気温を基準にして四季を区別するのが、日本古来のやり方なんで しょう。

 そこで考えた。一年の内の最高気温と最低気温との間を3等分して、上を夏、下を冬、 その間を春と秋にするやりかたである(かなりいいかげんな表現ですが、言わん とする意味はわかりますよね)。こうすれば、それが妥当か否かは抜きにして、 各季節がいつからいつまでなのか決められそう。

 今、手元に近年発行の[理科年表]からコピーした「気温の半旬別平年値(1971年 から2000までの平均値)」(半旬別とは、旬(=10日)/2=5日毎の、 5日平均の、という意味です。)という表がある(分かりにくい表名で すが、要するに「季節によって気温がどう変化するか?」の表です。「この表によって何 を言いたいか?」の違いによって、表のタイトルがゴロっと変わります。)。そこ でこの表の中から東京の値を使って、各季節がいつからいつまでなのかを調べた。

 (ところで、暑いとか、寒いとかは、人間が一日のうちで最も活発に活動している時間 帯の気温で比較して言ってるんであって、そういう意味で、ここでは一日の平均気温でな く、最高気温のデータを使って解析すべきだろうと考えました。そこで、後日、気象庁の、 東京に於ける1年366日の最高気温の変化のデータ(1981−2010年(計30 年間)の平均値)を使って解析しなおしました。それが次の表です。)

四   季
季節いつから、いつまで?何か月? 最高気温の変動
4月6日〜5月27日2か月 17.0−24.0℃
5月28日〜9月30日4か月 24.2−31.4℃
10月1日〜11月15日1か 月半17.0−24.1℃
11月16日〜4月5日4か月 半9.6−16.7℃


これより 各季節は ざっと 次の様に言って良いだろう。
春:4月〜5月、 夏:6月〜9月、 秋:10月1日〜11月15日 、冬11月16日 〜3月末

また 春(秋)と冬との境目の最高気温は17℃、春(秋)と夏との境目の 最高気温は24℃

 気象庁が最高気温25℃以上を夏日って言うでしょう。あれ、上の表の「夏」と大体 合ってるんですね。
 最高気温25℃以上の夏日は、6月06日から9月25日の間です。上の表の「夏」と あんまり違わないでしょう。
 そして最高気温30℃以上の真夏日は、7月21日から9月02日までです。
 小・中・高校の夏休みって、丁度真夏日なんです。すごい合理的ですね。

 なお、最も暑い時期は、8月3日〜8月9日(最高気温31.4℃)です。
 また、最も寒い時期は、1月18日〜2月1日(最高気温9.6℃)です。

これらのことから、6月を「初夏」、7月・8月を「真夏、盛夏」、9月を「晩夏、 残暑」。
(立秋(8月8日頃)以降を「残暑」と呼ぶのは、もう止めましょう。立秋は本来 気温と関係なく決められたものです。)
11月15日から12月いっぱいを「初冬」、1月・2月を「真冬」、3月を「冬の終わ り」と考えておこう。
(11月7日頃を立冬というのは、そこそこ合ってますね)

 どうです。あなたの季節感と合ってましたか? この表から次のことが分かる。
1.各季節の長さは一様でない。
  こんなに違うとは思いませんでした。
2.冬(4か月半)が一番長い。
  私は寒がりなので、今まで冬は11月から3月までの5か月間と感じてました。
3.秋(1か月半)は一番短い。
  「今日夏の気温なのに、翌日には冬の気温に変わる」そういう事が起きる事が有る。
  油断して薄着でいると、たちまち冬がやってくる。そんな経験はありませんか?
  秋の長さは冬の1/3しかないんです。
4.一季節内の最高気温の変動幅はほぼ7℃である。

*何で春と秋とで日数が違うの?
横軸を日付、縦軸を気温にとった1年間のグラフを書いてみるとわかるんですが、冬から 夏にかけての昇温曲線の勾配と、夏から冬にかけての冷却曲線の勾配とが違うんです。
地表は「熱しにくく冷めやすい」という性質があるのか?と思わせるような現象なんです。
これって日本列島を取り囲む海流の季節による変化や、大気(偏西風・季節風など)の季 節による変化などの影響? 夏と冬との日数の違いも、海流や大気の季節変化に影響 されているのかな?
もしそうだとしたら、国によって違うはず。上の表と同じような求め方をした「よその国 の季節の長さ」はどうなんだろう?

*その他雑感
1.信じられないことに、4月の初めはまだ冬に掛かってるんですね。

2.印象的には夏の4ケ月というのは長過ぎます。私は真夏だけを夏と感じてたんかなあ?

3.恥ずかしながら、筆者は「暑さ寒さも彼岸まで」の意味を誤解してました。彼岸は夏と 冬の中間で、春の彼岸(春分の日・3月20日(21日)前後の合計7日間)頃の気温と 秋の彼岸(秋分の日・9月22日(23日)前後の合計7日間)頃の気温は同じだと思って ました。そしたら違うんですね。「夏の暑さは秋の彼岸まで。冬の寒さは春の彼岸まで。」 という意味で、秋の彼岸と春の彼岸とでは、最高気温で約12℃の温度差があるんですね。 そして上の表から、「暑さ寒さも彼岸まで」と言うのは、なかなか合ってますね。

  ところで、春の彼岸の中日・春分の日は「春の真ん中」って意味ですから、 どうなってんの?

4.正岡子規が母親の言葉をそのまま俳句にしたという「毎年よ。 彼岸の入りに寒い のは、」は、春の彼岸を詠んだものであることがわかる。そして春の彼岸の頃寒いのは 当然です。まだ冬ですから。

5.まるで二十四節気(にじゅうしせっき)の存在を初めて知ったかのように、「2月4日 立春、暦の上では今日から春」って言うのは、いい加減に止めたらどうですか?
現代人はほとんど誰も昔の暦(二十四節気)なんか使ってません。それに2月4日ったら 上の説明からわかるように冬の一番寒い時期です。
暦上の春の意味って、我々が使っている春の意味と違うんじゃないの?大寒(だいかん)が 1月20日・21日頃の日、または1月20日・21日頃から立春(2月4日)の前日 までの期間で、大寒(おおさむ)の頃というのなら納得できます。ところが大寒(おおさむ) が終わった次の日(2月4日)が春というのは現代人の考え方とは明らかに違います。我々 現代人は、おおさむの時期の後に、寒さが緩む時期が来て、次に春がやって来ると考えているん です。なお立秋、大暑 (たいしょ) についても、季節が逆ですが同様のことが言えます。
但し、立冬だけは 11月8日頃で 約一週間のずれは有りますが だいたい合ってますね。

  暦にある二十四節気(にじゅうしせっき)の一つ大寒などというのは、気温で 決めてるようですが、同じく暦が言う季節ってのは気温と関係なく、地球の公転、 つまり太陽の高さとか、位置とかで決めてるんだそうです。冬の真中が冬至、春の真中が春分で、 冬至と春分の真中が立春だそうです。気温基準だ、いや太陽の高さ基準だ、などと二十四節気を 決める基準が一つに統一されていないから、おかしなこになるんです。小寒が大寒の前に しかなく、大寒の後に無いんです。しかし(こさむ)は(おおさむ)の後にもなければ おかしいんです。でないと(あたたかい)時季や(あつい)時季は決してやって来ないんです。


 日本人が言う「はる」に相当する漢字って無いんですかね。「暖季、暑季、涼季、寒季」 と書いて、「はる、なつ、あき、ふゆ」って読ませるべきなんですかね。

6.唱歌[早春賦](そうしゅんふ)の歌詞「春は名のみの風の寒さや」について
  これは、我々日本人が言う「はる」と、中国から入ってきた暦の「春」とをごっちゃ にしているからこんなおかしなことになってるんです。
「春は名のみ」の「春」が、日本人が言う「はる」なら、風の寒い時期は「はる」ではなく、 まだ「ふゆ」です。
また中国語の「春」なら、「春」には一番寒い時期も含まれるので、「春なのに風が寒い」 という表現は当たりません。
早春とは、中国語の春にはなっているが、まだ日本語の「はる」にはなってない時期のこと ですかね?

 童謡・唱歌[どじょっこふなっこ]の「ハルになれば しがこも解けて」の「ハル」は 中国語の「春」の意味ではなく、日本語の「はる」の意味ですね。

7.この辺、英語圏ではどうなってるんかなと思い、インターネットの英英辞典でsummerの 定義を調べてみました。
その結果、a period of hot, usually sunny weather.というのがあり、これは日本人が言う 「なつ」と同じですね。
ところがthe period from the middle of May to the middle of August in Great Britain. というのがあり、これは暦の「夏」ですね(現在のカレンダーで、立夏は5月5日頃、立秋は 8月7日頃)。
どうも英語圏でも各季節の定義って一定してないんですね。

8.(ついでに)東京都の2013年における日の出・日の入り時刻
  日の出  最早 06月13日±8日間 04:25
        最遅 01月07日±6日間 06:51
       最早時刻と最遅時刻との差 約2時間半
 *これは、明るくなり始める時刻の差が、2時間半もありそうだと考えても宜しいでしょうね。

  日の入り 最早 12月05,06日±6日間 16:28
        最遅 06月29日±5日間 19:01
       最早時刻と最遅時刻との差 約2時間半
 *日の出・日の入りの時刻は、毎月20〜30分ずつ早くなったり、遅くなったりするんですね。

 *日の出・日の入りの最早の日・最遅の日って、夏至(6月21日頃)・冬至(12月22日頃) とずれてんですね。
  そして「日の出・日の入りが最も早くなる日は、夏至・冬至の日より早く、 日の出・日の入りが最も遅くなる日は、夏至・冬至の日より遅い」んですね。

  これって、地球の自転軸と公転軸とが平行から23.4度ずれていることとか、 公転軌道が楕円であることに起因する現象らしいんですが、筆者にはよくわかりません。

  昼の長さ(日の出から日の入りまでの時間)の長短(2014年)
       最長 14時間35分(6月20日±1日)
       最短 9時間45分(12月22日±4日)
       最長と最短との差 約5時間
 *昼の長さの長短は、夏至・冬至と一致してますね。

一年間の各旬の最高気温の 平年値 (東京)
上旬中旬 下旬
1月10.39.89.6
2月10.010.510.9
3月12.013.414.5
4月16.918.820.9
5月21.922.623.9
6月24.925.426.2
7月27.829.330.7
8月31.431.230.7
9月29.427.225.1
10月23.422.020.3
11月18.816.915.1
12月13.812.411.3


藤原隆信
平安後期の歌人、画家。為隆の子。若狭守・右京大夫・正四位下等を歴任。のち出家して 戒心と号する。似顔絵の名手としても名高く、国宝『源頼朝』『平重盛』等は彼の筆とされ る。

平治の乱
保元の乱
 1156年(保元元年)に起こった「保元の乱」は、皇位継承問題などの朝廷内の内紛 から起こったもので、後白河天皇と崇徳上皇の分裂に、源氏と平氏の武力が加わった政変 です。
この乱で活躍したのが、後白河天皇方についた源頼朝(みなもと の よりとも)の父義朝 (よしとも)です。
 (※義朝の父為義(ためよし)と弟 為朝 (ためとも)は、崇徳上皇方について戦っています。)

 崇徳上皇方は、為朝が自慢の強弓で奮戦しますが、義朝の作戦に従った後白河天皇方は 、崇徳上皇の白河殿を襲撃して勝利をおさめています。

 その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、為義は斬首、為朝は伊豆大島に流されています。
 (※平清盛(たいら の きよもり)は、義朝とともに戦っています。)


平治の乱
 1160年1月(平治元年)の「平治の乱」は、「保元の乱」によって生まれた新た な朝廷内での対立から起こります。

 「保元の乱」後、後白河天皇は天皇親政を行います。その下で権勢を誇ったのが信西( しんぜい、藤原 通憲(ふじわら の みちのり))でした。

 しかし、後白河天皇が皇位を二条天皇に譲ると、信西と藤原信頼(ふじわら の のぶよ り)が対立します。

 一方、源氏と平氏の間でも、保元の乱での勲功第一のはずの源義朝より、戦功の薄い平 清盛の方がはるかに高い恩賞を受けていたことで、義朝の不満が増大していました。

 そして、信頼らの反信西派と義朝が結びついて起こされたのが「平治の乱」です。

 信頼と義朝は、平清盛が熊野詣に出掛けている隙に、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、 信西邸を襲撃します。これによって信西は梟首(きょうしゅ=さらし首)されました。

 しかし、清盛は急ぎ帰洛し、二条天皇を六波羅邸に移して、信頼・義朝追討の宣旨を賜 り、信頼と義朝を破ります。

 勝利した清盛は、参議正三位に列せられ、一族も多くの恩賞を賜りました。

 この戦いが、これから始まる平氏政権の基礎を築くことになります。

(註4) 元久本[隆信集](七六七・八)
「四位してのち(=従四位下に叙せられたのち)、 臨時祭加陪従 にてまゐりたり(1175−1184年)しに、舞人勤
めし事など思ひいでられて、小侍従の君の(御所内の)局を訪ねて申しいれ
し                           隆信
 歳を経て−かざしなれにし−桜花−同じ庭にて−よそに見るかな
かへし、民部卿成範、をりふし小侍従に対面しける程にて、
の返しはわれせんとて               成範
 挿し替ふる−かざしの花は−位山−登れば誰も−さこそ見るらめ」

遠流(おんる)
古代の律に定めた 三流 の一。流罪のうち最も重いもの。平安時代には、伊豆・安房(あわ)・常陸(ひたち)・佐渡 ・隠岐(おき)・土佐など、都を遠く離れた土地に流した。えんる。
京の都から見て常陸の国が遠流の地だったんですから、下野の国も遠流の地だっ たんでしょう。

中流(ちゅうる) : 律令制の三流(さんる)の一。中程度の重さの流罪。延喜式では, 信濃や伊予などへの配流。

近流(こんる) : 律令制の三流(さんる)の一。最も軽い流罪。延喜式では,越前・安 芸(あき)などへの配流。

[新和歌集]
下野から常陸にかけての歌人によって構成された宇都宮歌壇の和歌集ですが、京都、鎌倉 在住の歌人の歌も含まれているようです。

(註5) 半角のレ、1、2はレ点、返り点の代わりです。

(註7) 旅のルート:鎌倉(?)−(室の八嶋なども過ぎて)−白河の関−

下河辺庄
現千葉県野田市あたりに置かれた広大な荘園

横山の原
インターネットで調べても分からず。また和歌を「よこやまのはら」「よこたのはら」「 しもつけ」等のキーワードで検索しても分からず。所在不明です。
宇都宮市に"横山町があるが、「横山の原」と関連があるという話は無い。

但し、或るWSには、『 [義経物語]諸 本 に「よこたのはら」「よこ田のはら」「よこた山のはら」とあり,当地名の誤りかとされ ている (古典文学大系頭注) 現在の宇都宮市東横田町・上横田町 【地図】 付近に比定される 』とありました。

また、『下野の横山の原』だっちゅうのに、現福島県白河市だという話もありますね。但 し、現在白河市に横山という住所はありません。

(考察)もう、何処なりと好きなようにしてください。

白河の関山 【地図】
[義経記](1411年頃?)の頃、この「関山」辺りに白河の関が在ったんじゃないか という話が有ったんですね。

多胡
かつて群馬県高崎市辺りにあった群の名前。

板鼻
現群馬県安中市板鼻。後世の江戸時代のことですが、中山道上州七宿の中では最大級の宿 場でした。

宇都宮の大明神
現在の宇都宮二荒山神社のこと。

[神道集](1352−60年頃)巻5−24
宇都宮大明神事
「宇都宮大明神は 諏訪大明神 の兄である。
この明神には男躰と女躰がある。
男躰の本地は馬頭観音である。
女躰の本地は阿弥陀如来である。
橋本七所は大明神の御守である。
高尾神は大明神の一二の王子である。
この明神は千の犬、千の鳥、千の狐を眷属とする。 」

[和漢三才図絵](寺島良安 著、1712年)
「宇都宮大明神 祭神柿本人麿」

(考察)柿本人麿を祭神とする神社は、日本各地に多数存在します。
・柿本神社 - 兵庫県明石市
・柿本神社 - 奈良県葛城市
・柿本神社 - 和歌山県海南市日方
・高津柿本神社 - 島根県益田市高津町
・戸田柿本神社 - 島根県益田市戸田町
宇都宮大明神の祭神が柿本人麿というのは、寺島良安が何かの資料を見て言っているんで 、実際に現地で確認したものではないと思いますが、あながち誤りとは言えないようです 。


[下野国誌](1850年)三之巻
「二荒山神社 名神大
祭神は、・・・大己貴命男(おおなむちのみこと)、事代主神(ことしろぬしのみこと) ・・・[和漢三才図会]には、柿本人麻呂の霊と記したり。」

現在の二荒山神社 【地図】
「祭神は豊城入彦命で、大物主命(=大己貴命とみていいでしょう。)・事代主命を配祀 。」

(註)[延喜式神名帳]記載の「河内郡の二荒山神社」に関連して、
[下野国誌](1850年)の頃、河内郡の宇都宮には式内論社の「二荒山神社」が存在 したが、都賀郡の日光には式内論社の「二荒山神社」はまだ存在しなかった。

行方の原
「行方の原」でインターネット検索しても該当するものはヒットせず、「「ゆきかたのは ら」「なめかたのはら」でインターネット検索してもヒットせず。
 また「ゆきかたのはら」「なめかたのはら」「なめかた」「いくかた」「ゆくへのはら 」「しもつけ」で和歌を検索してもヒットせず。また「ゆきかた」で検索しても該当する ものはヒットせず。
「行方の原」とは、どんな名所なんでしょう?

行方郡(なめかたぐん) : 1896年まで福島県浜通り北部(現在の南相馬市・相馬 郡飯舘村)にあった郡。令制国下では陸奥国(のち磐城国)に属す。

 「行方の原」の名は、[義経記](1411年頃?)では、「 宇都宮の大明神」の次 に出てくるし、また福島県行方郡の場所は東山道沿いではないですし、どうも、「行方の 原」は福島県の行方郡に在ったのではなさそうですね。

安達の野辺の白真弓
白真弓は「あだちの原」の名物だったようです。

[兼盛集](平兼盛 ?−991年)
 みちのくの−あたちかはらの−しらまゆみ−こころつよくも−みゆるきみかな

(考察)[義経記]には、『実方の中将の安達の野辺の白真弓』とありますが、[実方集 ]の中に「あたち」或いは「しらまゆみ」を詠んだものは有りませんでした。
また、[義経記]では、『安達の野辺』は福島県に在ったとしているようですが、上の歌 の作者・平兼盛が住んでいた所は、福島県の安達が原ではなく、宮城県の名取郡の「あだ ちの原」だったようです。

(註)
白真弓 : マユミの木で作った、白木のままの弓。
     または、黒塗りの弓に白い籐を巻いたもの。流鏑馬(やぶさめ)に用いる。
マユミ : ニシキギ科ニシキギ属の木本。材質が強い上によくしなる為、古来より弓 の材料として知られ、名前の由来になった。

浅香の沼
下記安積山の麓にあったといわれる沼。

歌枕
[古今集](905年)巻十四:恋四
題しらず 読人不知
 みちのくの−あさかのぬまの−花かつみ−かつ見るひとに−こひやわたらむ

*「はなかつみ」と「あさかのぬま」とは縁語関係にあるといってよいだろう。「花かつみ」の歌は 多数有り。

[奥の細道](松尾芭蕉 著、1689年旅)
安積山の段
「等窮が宅を出でて五里許、桧皮(ひはだ、安積郡日和田村(下記))の宿(しゅく)を 離れて、あさか山有り。道より近し。此のあたり沼多し。かつみ刈る頃もやや近うなれば 、「いづれの草を花かつみとは云ふぞ?」と、人々に尋ね侍れども、更に知る人なし。沼 を尋ね人に問ひ、「かつみ かつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかかりぬ。」

[曾良旅日記]
「ヒハダの宿、馬次也。町はずれ五六丁過テあさか山有。壱里塚ノキハ也。右ノ方ニ有。 小山なり。
アサカノ沼、左ノ方、谷也。皆田ニ成。沼モ少残ル。惣テその辺、山より水出ル故、いず れの谷ニも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。」

*花かつみとは?
 私が持っている[奥の細道]解説書では、
[能因法師集]の
「こもの花さきたるをみて
はなかつみ−おひたるみれは−みちのくの−あさかのぬまの−ここちこそすれ」
を根拠にして、「古くは真菰のことであった」としています。

(考察)しかし、「花かつみ」とは何の植物なのか?を、極めて科学的に、かつ合理的に 、詳しく調べたウェブサイトがあり、 それによれば、「花かつみ」とは何の植物なのか よくわからないそうです。
そうです。真菰が「花・・・」なんて呼ばれていたとは到底思えません。ひどく地味な花 しかつけないんですから。
 私のWSの多くの歌枕についての調査結果と、結論が同じですね。そんなもんだと思い ますよ。

菖蒲草
[奥の細道]解説書より。
下記内容は、[無名抄](鴨長明 著、1211−1216年頃成立)に有り、とのこと。

藤原実方が陸奥国に流され(赴任させられたことを、『流され』と言っているようだ)、陸 奥守であったとき、端午の節句に 菖蒲を葺く ことを知らなかった土地の人に、「けふは あやめ をふくものを。尋ねてふけ」と言ったところ、「この国には菖蒲がない」と答えたので、 「さらば、あさかの沼の花カツミといふ物あらん。それをふけ」と言ったことから、あや めの代わりに花カツミを葺いたという話。

浅香山
福島県郡山市日和田町にある山。浅香山(現在は浅香山公園 【地図】 )は、山と言うより小さな丘だそうです。

阿津賀志の中山(あつかしの中山)
この辺りに在ったらしい 【地図】
地図の位地は、福島県伊達郡国見町に有る「阿津賀志山防塁」跡の位地ですが、このすぐ 東側・国見町大木戸という所に「中山」という所があるようです。

阿津賀志山防塁 : 1189年の「阿津賀志山の戦い」(源頼朝軍と迎え撃つ 奥州藤原氏の軍との戦い)の際に、阿津賀志山一帯に立て籠もる奥州藤原氏(大将・藤原国衡)の 防御施設として使用された。
 阿津賀志山中腹から阿武隈川まで約4キロメートルの距離であったと推定され、源頼朝 の軍勢が奥州へ攻め入ることを想定して事前に奥州藤原氏が築いていたと思われる。

牛若丸と弁慶の出会い
[平家物語](鎌倉時代)には、源義経の少年期のことは全く書かれておりません。 また 鎌倉幕府の事績を記した[吾妻鏡]には、[平家物語]と同様で、武蔵坊弁慶の 出自や業績、最期等については全く触れられておりません。
牛若丸時代の話が登場するのは、この[義経記](南北朝時代から室町時代初期に成立?) 以降のようです。
そして[義経記]によれば、牛若丸と弁慶との出会いは五条大橋ではありません。

([義経記]の巻第三「弁慶洛中に於いて人の太刀奪い取る事」「弁慶義経に 君臣の契約申す事」のあらすじ)
弁慶が999振りの太刀を奪い、あと一振りを祈願して五條天神社(現在、 下京区松原道西洞院西入にある「五條天神社」のことか?)に詣り、そこで待ち伏せして いると牛若丸(原文では御曹司)に出会った。そこで勝負を挑むのだが、弁慶は牛若丸に 敗れてしまう。
翌日、弁慶は清水寺に参拝し、そこで牛若丸を待ち伏せして、清水の舞台で、 再び勝負するが、またしても負けてしまい、牛若丸に主従の誓いをする。

そして、我々が知ってる五条大橋での闘いの話は、明治時代のお伽噺作家・巌谷小波 (いわやさざなみ)の[日本 昔噺](全24編)の第23編『牛若丸』(1896年)で 創作されたようです。

なお、これが元になって、1911年発表の文部省唱歌『牛若丸』(♪京の五条の橋の上  大の男の弁慶は 長い薙刀(なぎなた)振り上げて 牛若めがけて切りかかる)が 作られたようです。

[東路の津登](あづまぢのつと)
室町時代後期の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう、1448−1532年 、柴屋軒は号)の連歌を載せた紀行。

1509年に駿河の国から白河の関を目指して出発し、下野国の宇都宮まで至ったが、兵 乱と大雨のために白河の関行きを断念した。

「急がば回れ(瀬田の長橋)」の由来
柴屋軒宗長の歌<武士(もののふ)の−やばせの舟は−早くとも−急がば廻れ−瀬田の長 橋>に基づく。
琵琶湖を渡って京に上るには、 矢橋(やばせ) の港から大津への航路が近道に見えるが、風の影響などを受けて、しばしば、遅れたり危 険を伴ったりする。確実に行こうと思うなら、瀬田の唐橋まで南下していくべきである、 の意。

[本朝食鑑](1697年)の コノシロの項の挿話
「かつて聞いた話であるが、昔、野州室の八嶋の市中に富商がおり、一人の美し い娘を生(もう)けた。
・・・・・・
それから津那志(つなし)を子代(このしろ)と呼んで×(魚偏に制)の字をあてるが、 それはこの魚が娘の死の身代わりになったためであるという。」

(考察)[本朝食鑑]は近世の書ですが、室の八島をずばり『市中』、つまり人の住む町 であると表現したのはこの書くらいのものでしょう。

(註10) 平治の乱(1159年)以降の歌を「中世室の八島の印象」として、ここに含めています 。

勝光寺 【地図】
[宇都宮四近町村略志](1892年)
栃木県 編
「国府の跡
(国府村)大字国府にあり、今は勝光寺といへる寺の境内となりて、北と東西とに塁湟( るいこう、塁と堀)の形を存せるのみ、土人の口碑によれば、府廰は天慶の乱(てんぎょ うのらん、平将門の乱、935年−940年)に兵焚に罹り、鎌倉幕府の末より、室町の 始めの頃まで、かすかに遺形を存せしか、後故ありて勝光寺の境内となりし由いへり、」

[慈元抄]の補足説明
 この[慈元抄]の話が、室の八島、あるいは下野国に伝わる伝説と受け取られている向 きがあるようですが、そうではありません。[慈元抄]の話は、他国の下野国から有馬王 子やらが当国にやって来て、神社の神になった云々、という本地垂迹時代の、どこかの国 の神社の縁起物語が基になっていると考えられますので、下野国以外ならどこの国でもあ り得ますが。
 なお挿入歌の
 東路の−室のやしまに−立煙−たが子のしろに−つなし焼くらん
は[万葉集]にはありませんので、念のため。この歌は、余りにもうまく作られ過ぎてい ますので、おそらく[慈元抄]が書かれた1510年に近い時代に、知恵者が作って物語 の最後に付け加えたものでしょう。

 ということで『それよりして、このしろと云ふとなむ』はデタラメです。歴史上の事件 とコノシロ身代わり火葬の話とを結びつけた、このような寺社の縁起譚は鎌倉時代以降各 地に見られますが、その歴史の過程で、西日本の呼び名であるツナシと東日本の呼び名で あるコノシロ (註1) とが一つの縁起譚の中に取り込まれたものと思われます。なおコノシ ロの呼び名は古くから有り、次に説明しますように[日本書紀]にも出てきます。


コノシロ
コノシロの名前は、[日本書紀] 古典篇(その十三)孝徳紀の大化2年(646年)3 月条に「塩屋制魚(ルビ:挙能之廬、このしろ)」と出てきます。

一方、ツナシの呼び名の方は、大伴家持の次の歌にあるようです。ただしこれだとツナシ の呼び名は西日本の呼び名というより、北陸地方の呼び名ということになってしまいます ね。(なんか疑問)

・[万葉集]巻17−4011
 大伴家持(718−785年)
 放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦して作る歌一首(大伴家持が越中守在任中の747年 の歌)
「大君の−遠の朝廷(みかど)ぞ−み雪降る・・・汝(な)が恋ふる−その秀(ほ)つ鷹 は−松田江の−浜行き暮し−都奈之(ツナシ)とる−氷見(富山県内の地名)の 江過ぎて−多古の島−飛びたもとほり・・・」

 [慈元抄]にある『彼の魚(コノシロ)は焼く匂ひ人を焼くに似たればなり。』は、中 国の秦の始皇帝の故事から来たようです。始皇帝が真夏の旅先で亡くなった際、その死を 隠すために車に積んだ始皇帝の棺にコノシロを一緒に詰め、その腐臭で死臭をごまかした 、つまり運んでいる魚が腐りかけているんだとごまかしたそうです。決してこの魚を焼く と人を焼く臭いがするわけではありません。

 このコノシロ、食べると美味しい魚ですが、小骨が多いのが難点です。でもこの小骨は 三枚に卸して酢水に漬けておけば、きれいに溶けてなくなってしまいます。江戸前鮨の人 気ネタであるコハダが酢じめされているのは、本来はこういう理由からだったんではない でしょうか?

・[関八州古戦録](関東古戦録)(1726年)
 槙島昭武 著
*江の島参詣の帰途、品川沖を航行していた太田道灌(1432−1486年)の舟に九 城(このしろ)という魚が踊り入り、そこで道灌は、『九城(コノシロ)我が手に入る。 これ我が武を輝かす吉兆なり。』と喜び江戸に城を築くことを思い立ったという話が載っ ているようです。

(考察)魚が船に飛び込んでくると縁起が良いという話は今でも聞きますが、そ れがコノシロでもよかったんですね。

・[塵塚談](ちりづかだん、1814年)
 小川顕道(おがわあきみち、1737−1816年)著
「河豚(フグ)、魚偏に祭(コノシロ)、われら若年の頃は、武家は決して食せざりしも のなり。コノシロは此城(このしろ)を食うというひびきを忌みてなり。フグは毒魚をお それてなり。二魚とも卑賤の食物にて、フグの価一隻銭十二文ぐらい。コノシロは二三銭 にてありしが、近歳は二魚とも士人(しじん=さむらい)ももてはやし喰うゆえに、フグ は上市(ハシリ)一隻二百銅、三百銅にして、賤民の口へは思いもよらず。コノシロは今 世も士人以上は喰はざれども、魚鮓(スシ)にして士人も婦人も賞翫しくらう。フグも乾 フグは貴富も少しもおそれず喰う。コノシロのすしに同じ。」

 コノシロの名前は、[慈元抄]の話ではありませんが、「子の代(しろ)」から来てい る可能性は充分あります。かつて出産児の健康を祈ってコノシロを地中に埋める風習や、 これに類する風習が各地にあったようです。この風習は中国から来たものでしょうか、コ ノシロを漢字で「魚偏に祭」と書くのが気になります。

 コノシロは漢字一字で「魚偏に祭」の他に「魚偏に制」などとも書きます(倭名類聚抄 )。一般には「魚偏に冬」が用いられていますが、これは「魚偏に祭」の祭がくずし字で 書かれていたので見誤って「冬」としたもので、国字だそうです。これは小野篁(おのの たかむら、802−853年)の[歌字尽くし]という書物の誤りからきているようです 。

 コノシロに関しては、かつて全国各地にいろいろな風習があり、それらの風習を紹介す るだけで一冊の本になろうかと思われますが、民俗学関係の本を探しましたが、コノシロ の民俗学の本は見つかりませんでした。惜しいですね。まだ無いなら今から本にまとめて くれる方はいらっしゃらないでしょうか?


わが為に−ありけるものを−下野や−無露の八島に−絶えぬ思 ひは
1)[続詞花集](1165年頃)
 おほやけの御 かしこまり にて下野国に遣はされける時、むろのやしまをみて
                             藤原成範朝臣
 わがために−有りける物を−東路の−室のやしまに−たえぬ思ひは

2)[今鏡](1170年)三巻 鄙の別れ
「左兵衛督成範と聞え給ふも紀伊の二位の腹にて、その折、播磨の中将成範、弟美濃の少 将脩範など聞こえし、衛門督の乱れに、ちりぢりにおはせし時、中将下野におはして、か れにて詠み給ひける。
 わがために−ありけるものを−下野や−室の八島に−絶へぬ思ひは
とかや。 ひがごと どもや侍らむ。」

(考察)何のことを『ひがごと』と言っているんでしょう。『御かしこまりにて下野国に 遣はされける』のに、室の八島を『わがためにありけるものを』と詠っているからでしょ うか?

3)[平治物語](鎌倉時 代初期)


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