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第4章 近世室の八島 の備考の補遺


惣社(総社)
特定地域内の神社の祭神を集めて祭った(合祀した)神社。多くは国の範囲で集めたもの を指すが、荘園や郡・郷・村などの地域内のものを集めたものもある。

古代日本の国司にとって、着任後最初の仕事は赴任国内の全ての神社を巡って参拝するこ とであった。総社の制度は律令制当初からあったわけではなく平安時代になって国府の近 くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが広まった。そのため総社は一般に 国府の近くに置かれた。かなりの数の総社は中世にいったん廃れ、後に再興されたもので ある。

[神道史大辞典] 吉川弘文館、2004年
「[古事記][日本書紀]・[風土記]などに、その祭神名が記されているのは、伊勢・ 大神(おおみわ)・松尾・住吉・宗像(むなかた)・鹿島・香取など特殊な場合に属し、 [三大実録]でも浅間神・弥彦神・大鳥神・小国神などと記し、それぞれで現在称されて いる神名を記していない。 [延喜式神名帳] にみられる・・・も、大半はその地名を冠した土地神的な神名で、日本神話(記紀神話の こと?)中に語られる神名の社は少ない。多くの神社で、その祭神を、中央神話(これも 記紀神話のこと?)で語られる神名にあてて称するようになったのは中世以降のこと とみられ、ことに明治以降そのようにさせられてきた。」

 下線部『中世以降のこととみられ』について、筆者なら次のように言います。
「近世以降のことと考えられる。まず、近世初頭に吉田神道によって主な神社の祭神が記 紀神話の神に替えさせられ、次いで明治時代の国家神道によりその他の多くの神社の祭神 が記紀神話の神に替えさせられた (註101) と考えられる。なお中世については勉強不足でよくわかりません。」

 ところで上記「中世以降のこととみられ」って、これ便利な表現ですよ 。これを読んだら皆さん、『多くの神社で、その祭神を、中央神話で語られる神名にあて て称するようになったのは、』中世からと思うでしょう。ところがそうじゃないんです。 中古まではそんなことが無かったのは確かだが、中世以降のいつからそうなったのかは判 らないと言ってるだけなんです。つまり「以降」と表現しておけば、以降のいつからそう なっても「そらみろ、俺の言ったとおりだろう」と言えるわけです。

宮目神社
現在、埼玉県北埼玉郡騎西町にある玉敷神社の境内社に宮目神社があります。また埼玉県 南埼玉郡宮代町に宮目神社の式内論社である姫宮神社があります。この姫宮神社の姫とは 宮目姫のことであるとする縁起譚があるようです。

火遠理命(ほおりのみこと)
[古事記]の「山佐知毘古(やまさちびこ)」(普通名詞の猟師の意味)

彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)
[日本書紀]「第十段一書(一)」の「よく山幸を得た」者(猟師)、
ないし「第十段一書(三)」の「山幸彦」(猟のうまい人という意味かな)、
また「第十段一書(四)」では「彦火火出見尊は火折尊(ほおりのみこと)と呼ばれる」

ところで、すぐ上の[日本書紀]「第十段一書(四)」にそうだと書いてあるんですから 、彦火火出見命と火遠理命とは同一神ではないでしょうか? これについては他の神社に も同様の例があり、どんな理由付けをしているのか? 同一神と見られていても一向にか まわないようです。神社にとって祭神は単なるお飾りですから、矛盾があっても差し支え ないんです。今でもこの2神は祭られているのかな?

祭神と御神体
祭られている六柱の神に対して、神の体・御神体が男体山のひとつだけということは、こ の神社の神はヤマタノオロチのような化け物ですね。

大神神社が山岳信仰から生まれた神社でもないのに、大神神社の御神体が男体山であるわ けないでしょ。
この神社は、江戸時代の1600年代には、吉田神道の支配下にありましたので、吉田神 道の影響で富士山と縁がありましたが、江戸時代後期になると、吉田神道の支配力が弱ま りますので、かつて当社が下野国の惣社であったことを思い出して(変な表現ですが)自 社を栃木県を代表する山・男体山に関係づけたようです。 御神体は男体山
(すいません。この辺のことはこの章の後ろの方で詳述します)

日光権現宮
歴史的には複雑なようですが、現在の二荒山神社に相当する寺社のことでしょう。

雷神社
2000年現在の小祠一式と比較すると、「雷神社」は雷電神社の書き間違いだろうと思 います。また、次の考察に出て来る聞目神社も聞耳神社の書き間違いでしょう。

大中寺
曹洞宗の寺院で 関三刹 の一つ。山号は太平山。
伝承によれば、1154年、真言宗寺院として創建されたという。1489年、在地豪族 の小山成長が快庵妙慶(かいあんみょうけい、1422年−1493年)を開山に招いて 再興。このときが実質的な創建とみなされる。
「大中寺の七不思議」 で知られたお寺です。

わけあって、1500年代に栃木市大平町榎本に新たな大中寺が建立されました。 【地図】

大中寺を舞台としたと思われる
[青頭巾]中に、舞台となる山の中の寺の名は出てきませんが、主人公の僧の名に大中寺 を開山した快庵禅師(かいあんぜんじ)の名を使っている、その他の理由で、[青頭巾] は大中寺を舞台とした物語であるとされています。 [青頭巾] は快庵禅師の徳を讃えるために作られた物語とも捉えることが出来るものです。

藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)
小倉百人一首27番には「中納言兼輔」として登場。
みかの原−わきて流るる−泉川−いつ見きとてか−恋しかるらむ

(註6) [室八島山諸書類調控帳](長重雄文書、1838年編集)
(室八島山とは、室の八島大明神(惣社大明神)のことです)
「一 表之額者 吉田二位殿 御直筆也
   正徳五辛未年(1715年)六月奉納」


吉田神道の「吉田家」
和漢三才図会(1712年)
寺島良安 編
「吉田ノ社
(山城国)愛宕郡神楽岡(現京都市左京区吉田神楽岡町)に在り
其殿を宗源殿と名く、神祇首領唯一の政所・・・
小社 日本国中大小の神祇三千百三十ニ座・・・
    山城 百二十二神
    大和 二百八十六神
     ・・・・・・
    下野 十一神」

同行
この「同行」の言葉は、[芭蕉自筆の奥の細道]に載ってないので、後から他人が付け加えたようだ。
ここの「同行」は、「どうこう」と読んでも「どうぎょう」と読んでもよく、 意味は「みちづれ」です。

(参考)
[奥の細道]三十八段 山中温泉
曾良が腹を悪くして、伊勢の国の長嶋に関係の者がいるので、曾良がそこへ一足先に 行くことになり、芭蕉が曾良と別れることになって
   <今日よりや 書付消さん 笠の露>

 この「書付」とは、「同行二人」(どうぎょう ににん)の事で、 二人づれであること。 多く四国八十八か所の巡礼者がいつも弘法大師といっしょにあるという意で笠などに 書きつける語。どうぎょうふたり。

但し芭蕉は この[奥の細道]の旅では 笠に書きつけた「同行二人」を 芭蕉と曾良と の二人連れの意味でもあるとして、二つの意味を掛けてる訳です。
そして 山中温泉で曾良と 別れることになり、そうすると「同行二人」でなくなるので、笠に書いた「同行二人」の 書付消さんとなったわけです。

ということで ここの「同行」は「どうこう」でなく「どうぎょう」と読んでも良いんです。 意味は「みちづれ」で同じです。

無戸室(うつむろ)
文字どおりの意味は「出入り口の無い部屋」ですが、日本書紀での意味は「一旦中に入っ たら、或ることが起こらなければ外に出られない部屋」の意味のようです。[古事記]を読 むと、中に入ったら他の人が出入り口を土で塗り塞いでしまうようですね。

「・・・即ち戸無き八尋殿を作りて、その殿内に入りまして、土もて塗り塞ぎて、・・・」 (古事記)、「・・・乃ち無戸室を作りて、其の内に入り居りて、・・・」(日本書紀)、 [古事記]の「戸無き八尋殿を作りて、その殿内に入る」も[日本書紀]の 「無戸室を作りて、其の内に入る」も意味がおかしい(無戸室の中に入ることは不可能です )ので、本来の物語の文からずれて来ていることがわかります。
 本来の物語の文は、おそらく「八尋殿を作り、木花咲耶姫がその殿内に入ったら、出入 り口を土で塗り塞いでしまう」の意味の文だったでしょう。そしてその話が作られた当初 は、文章化されなかったんでしょう。そしてその後も暫くの間は文章化されなかったんで しょう。そしてその間に [古事記]にあるような表現や、[日本書紀]にあるような表 現に変化していったんでしょう。
 ということで、「無戸室」なんて言葉は元々の物語には無かったでしょう。また[古事 記]の「戸無き八尋殿を作り」と[日本書紀]の「無戸室を作り」の表現を比較・考察す ると、どうも[古事記]の「戸無き八尋殿を作り」の文(物語)が作られた時代の方が[ 日本書紀]の文(物語)より古そうですね。

(はた)
筆者は次の使用例しか知りませんが、「Aか?Bか?はたまたCか?」と言うときの「は た」で「また」と同じ意味です。漢和辞典を調べると書いてあるようです。また「はたま た」は「また」を強調した言い方だそうです。
「また・・」「また・・」と「また」を繰り返して使うのを嫌うんで、二回目には「また」 を「はた」に替えるようです『又煙を読み習し侍るもこの謂なり。將このしろという魚 (うお)を禁ず』。
「また」を繰り返して使うのを嫌う例として「AまたはBまたはCまたはD」でなく 「AまたはB或いはCもしくはD」などと言うこともあります。それじゃあABCDEま で有ったらどう言うんですか?そんなの筆者には分かりません。筆者は「AまたはBまた はCまたはDまたはE」で良いと思うんですが。現在「はた」単独ではほとんど使われな いようですね。

陽炎
春の天気のよい穏やかな日に、地面から炎のような揺らめきが立ちのぼる現象。強い日射 で地面が熱せられて不規則な上昇気流を生じ、密度の異なる空気が入りまじるため、通過 する光が不規則に屈折して起こる。かぎろい。糸遊(いとゆう)。《季 春》

<糸遊に結びつきたる煙哉>
この俳句では、「糸」を「結ぶ」という縁語関係を楽しむために、「陽炎」の代わりに「 糸遊」を持ち出してきたようです。縁語って和歌で使うものだと思ってましたら、俳句に も縁語を利用する技巧があるんですね。

本来の室の八島は
但し、芭蕉が考えていた本来の室の八島とは、平安室の八島のイメージなのか、中世室の 八島のイメージなのかはっきりしません。

(註11) 芭蕉らが惣社河岸付近で小倉川を渡ってから室の八島大明神に来るまでの間が、こんなあ りふれた農村地帯の風景だったでしょう。おそらく芭蕉は室の八島大明神に来る途中この 俳句を詠んだんでしょう。
 曾良の話を聞いた後ではこういう内容の俳句を詠むだろうか?また[曾良旅日記]に よれば、『室ノ八嶋ヘ行、スグニ壬生ヘ出ル。』だったので、室の八島大明神から壬生ヘ 行く途中に俳句を捻っている時間的余裕は有っただろうか?

(註12) ということは、現在の私でも記紀神話の中で一番よく知っている木花咲耶姫の無戸室の話で さえ芭蕉は知らなかったということです。さて記紀神話の知識っていつ頃から一般に普及す るようになったんでしょう?

「不二一体也」
仏教用語か?「切っても切れない関係にある」の意味でしょう。

(註13) 完成文の『この神は木の花さくや姫の神と申して富士一体なり』を、文を省略せずに書く なら : 「この神は木の花さくや姫の神と申して富士山と不二一体なり」
そして意味は : この神社は富士山と切っても切れない関係にあります。というのは、 この神社の祭神は木の花さくや姫と言って富士山の神と同体なんです。

[駿河国新風土記]
 新庄道雄 著、1834年完成
「・・・この国人の常談に、富士の山上に コノシロの池 と云ありて、コノシロと云魚すめ り。故に富士浅間の氏子は、コノシロを食はずと云ことあり。・・・」

(考察)コノシロが浅間神社の御神体である富士山に生息する神聖な魚であるから、氏子 は食しないのであって、コノシロを焼くと死体を焼く匂いがするから食しないわけではあ りません(いつ頃から浅間神社の氏子はコノシロを食わなくなったんでしょう。 芭蕉の時代既に食わなくなっていたんでしょうか?)。おそらく江戸時代初期に 作られたコノシロ身代わり火葬の話が出てくる浅間神社の縁起譚はこの頃にはなくなって しまったんでしょう。それで「コノシロを食はず」の意味が本来の意味から完全にずれて しまっているようです。この頃には既に神社の由緒書きの書き方は、中世における縁起譚 中心の書き方から縁起譚が簡略化されて由緒書きの一部にすぎない書き方に変わっていた のではないでしょうか?[奥の細道](1689年旅)に出てくる下野惣社の由緒書きに 既にその傾向が窺えます(すいません。これらについては、これから解説すると ころです)
 なおコノシロは海の魚なので、富士山頂の池に実際に棲んでいたわけではありません。
(参考「コノシロ」)

後日追加しました。
[本朝食鑑](1697年)
 小野(人見)必大 著
(現代語訳文)
「(魚偏に制)魚 コノシロと訓む。
・・・通俗に、富士山の麓に江(いりえ)にそそぐ大河があり、ここにコノシロが多いが 、これは山神に愛されているからであるといわれている。それで富士嶺に詣る人は最もコ ノシロを忌む。あるいは市街の淫祠で 狐神を祭る場合にも制魚を供える が、これも狐が嗜むものだからである。凡そ婦女でこれを忌むものが多い。や はり屍気あるのに因るのであろうか。(屍気なんかありません。焼けば香ばしい 焼き魚の匂いがするだけです)・・・」

(考察)[奥の細道]とほぼ同時代に書かれたこの本で、既に『このしろと云魚ヲ禁ス』 の意味が若干ずれて来ています。[駿河国新風土記]ほどのずれようではありませんが。

(蛇足)
太平山神社の虚空蔵菩薩信仰とウナギ
      (『ウナギは虚空蔵菩薩の使者あるいは化身』であるから、信者は ウナギを食べないという)

 栃木市の室の八島大通り(筆者がかってに命名)には、明治時代の初 め頃まで、その中央に一本の水路があり、そこにウナギがうようよ棲息していたそうです 。ところで現在太平山の表参道側あじさい坂の登り口に六角堂がありますが、六角堂の正 式名称は連祥院般若寺(れんしょういんはんにゃじ)と言い、明治初年の廃仏毀釈に遭う までは太平山神社(太平大権現)の別当寺として同じところにありました。この連祥院般 若寺の本尊が虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)です。ただし江戸時代は神仏習合だったの で、太平大権現の本地が虚空蔵菩薩でもありました。大通りの水路のウナギうようよは、 この虚空蔵菩薩信仰によるものでしょうか?知りませんが。なお、大通りの中央にあった 水路は、その後土木県令と揶揄された三島通庸栃木県令(1883−4年)によって道路 両脇の2水路に別けられました。

本地垂迹思想
仏教が興隆した平安時代の頃に発生した神仏習合(神仏混交、奈良時代から始まっていた 、神と仏を同体と見て一緒に祀ること。詳しくは下記)思想の一つで、日本の八百万の神々 (垂迹神)は、実は様々な仏や菩薩(本地仏)が化身(権現(ごんげん))として日本の地 に現れた(垂迹した)とする考え。

神仏習合
  (ウィキペディアより)
「神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教) が融合(習合)し一つの信仰体系として再構成された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう) ともいう。
当初は仏教が主、神道が従で、平安時代には「日本で仏・菩薩が仮に神の姿となった」として、 阿弥陀如来の垂迹を八幡神、大日如来の垂迹が伊勢大神であるなどとする本地垂迹説 が台頭し、神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為などが行われた。
鎌倉時代には、神道側から神道を主、仏教を従とする反本地垂迹説が出された。
江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛した。
明治維新に伴う神仏分離令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた」。

吉田兼倶(よしだかねとも)
1435−1511年。朝廷と幕府の支持を背景に神祇管領長上という称を用いて、「宗 源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、 吉田家を神道の家元的な立場に押し上げていった。

神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう) : 意味はどうでもよい。
宗源宣旨(そうげんせんじ) : 吉田神道で、神宣として諸社に神階・神格・神号を授 けた文書。吉田兼倶に始まる。宗源とは吉田神道のこと。

「元本宗源神道」(げんぽんそうげんしんとう)
吉田兼倶自身は、元本宗源神道、唯一宗源神道、唯一神道などと称したが、一般には吉田 神道、卜部(うらべ)神道と呼ばれる。
特徴は、神主仏従説。

[唯一神道名法要集] より、
・「日本は神国であり、釈尊がでた天竺よりはるかに古い国である」
・「仏教は果実、儒教は枝葉、神道は万法の根本である」
・「元本宗源神道は吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコト(記紀神話の神)によって 伝えられた正統的神道であるとする。」
・[古事記]、[日本書紀]、 [先代旧事記] (これらを吉田神道では三部本書と言い重視した)
・本地垂迹説に対しては、浅はかで粗略な解釈であると批判を加え、神本仏迹説の神秘なこ とを主張している。

これから分かることは、吉田神道の言う神(神社の祭神)とは、記紀神話の神のことであり、 その記紀神話の神の頭には、本地仏や垂迹神などは関係してこないということです。

吉田神道が権力を持っていた江戸時代前期までは、この考えで全国の神社を支配してきた と 思いますが 、本地垂迹説を完全に払拭することはできす、江戸時代後期には本地垂迹説に負けて、記 紀神話の神は本地垂迹説における垂迹神と同じ地位に落とされたものと思われます。その ことが、栃木市の太平山神社の [太平山伝記] から読み取れます。

(註14) 吉田神道がどんなことをしたか、については、それを解説できるほど筆者には知識があり ませんし、解説する立場でもありませんので、各自お調べ下さい。但し、あまり参考にな る本はありません。それでインターネットで検索して記事を読みまくるのが良いかもしれ ません。最終的に筆者もそうしました。そしてインターネットの記事が一番参考になりま した。

全国の多くの神社を支配する
吉田神道は、江戸期には、徳川幕府が1665年に制定した 諸社禰宜神主法度 で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置き、明治時代までその歴史が続 きました。

富士権現・浅間大菩薩
権現 とか大 菩薩 とか言うところから、これらの神名が本地垂迹思想に基づいて付けられたものであること は明らかです。しかし次の木花咲耶姫の神名はそうではありません。

[集雲和尚遺稿]
 浅間神社の祭神を木花咲耶姫とする史料の初見は、[集雲和尚遺稿]にある1614年 に書かれた次の文のようです

「この神は、木花開耶姫。天津彦火々瓊々杵尊の妻なり。浅間神。開耶姫の御子三人あり 。火闌降命(ほすそりのみこと)、彦火々出見尊、火明命(ほあかりのみこと)。」

(考察)ここには変更後の[浅間御本地御由来記]に登場しない記紀神話の神である瓊々 杵尊、火闌降命、彦火々出見尊、火明命などが書かれており、この頃までには以前の浅間 神社の縁起譚だったと思われる[神道集](1350−60年頃)巻8−46の [富士浅間大菩薩事]や室町時代物語の [浅間御本地御由来記]の影響が薄れてきて (この頃[富士浅間大菩薩事]の富士山の祭神・赫野姫が降格され、富士山麓の足機山の 神になるようです)、記紀神話色が強化されているようです。
この頃までには現在の各神社の由緒書きと同じように[浅間御本地御由来記]のような 長ったらしい縁起譚は神社で作らなくなったんかもしれません。[奥の細道]に書かれた 1689年当時の下野惣社の縁起にもその傾向が見られます。浅間神社はまだ長ったらしい 縁起譚の影響を一部引きずっているようです。
 しかし. [日本鹿子] (1691年刊)を読む限り、[日本鹿子]の頃まで浅間神社の縁起には[浅間御本地御 由来記]の影響が色濃く残っていたことは間違いないと思われるんですが、この辺りのこ とはよく分かりません。(吉田神道が全国の神社を管轄するようになってから、従来のよ うな長ったらしい縁起譚は作らなくなったんかも知れません)

神道の研究
この辺りの研究、つまり神道思想の歴史の研究でなく、その神道思想の変遷が具体的に民 衆にどのような影響を及ぼして来たかの研究は遅れているんでしょうか?(神道思想の歴 史、つまり宗教者の誰かがどう考えたかなんてのは民衆の生活に関係ないんでどうでもよ く、それより彼等が何をしてそれで民衆の生活がどうなったかが重要なんだが、それにつ いて書いた本をついぞ見たことがない。)図書館で神道関係の本を調べましたが、吉田神道 によって浅間神社の祭神が替えられたなどと書いてある本はありませんでした。神社とは 、権力によって無理やり替えられるようなことでもなければ、神の社はそのままでその主 である神だけが替わるというような性格のものとは考えられず(祭神が替われば別の神の 社、つまり別の神社になるだろう。まあ神道の話がそんな簡単に割り切れる話ではないよ うですが)、近世初頭の神道界の勢力構造を調べれば、まっさきに吉田神道がその「権力 」の候補にあがってくるはずなんですが。なお江戸時代、下野惣社は吉田神道の管轄下に ありました。 正一位惣社大明 神

(註15) 芭蕉当時の浅間神社の縁起物語
 浅間神社の縁起の形では現存しないようですが、内容はおそらく、浅間神社の祭神が木 花咲耶姫に替えられて後の江戸時代に内容が書き換えられて今に伝わる [浅間御本地御由来記] のような内容で、本地垂迹時代に作られた本来の[浅間御本地御由来記]から 本地に関する部分 を削除し 、かつ物語のヒロイン「北の御方」を木花咲耶姫に置き替えたものだったでしょう。
 そしてヒロインを木花咲耶姫とした理由の一つは、[浅間御本地御由来記]より古い時 代に作られた浅間神社の縁起物語である、[竹取物語]のかぐや姫をモデルにしたと思わ れる赫野姫(かくやひめ)の登場する[神道集](1350−60年頃)巻8−46 [富士浅間大菩薩事] (にも関連付けるためと思われます。「富士浅間大菩薩の事」では、赫野姫とは、実は富 士山の仙女・「富士浅間大菩薩の女神」だったのであるとなっています。赫野姫(かくや ひめ)と咲耶姫(さくやひめ)、名前も似てるでしょう。

(註16)  「木花咲耶姫がやって来た下野国というのがより具体的には室の八島を指す」と言いま したが、それは[浅間御本地御由来記]にある五万長者の住む「下野国」というのが、こ の類の 縁起物語の歴史( 下野惣社の縁起物語の系譜 )を辿ればわかりますが、もともとは主人公の流刑の地である室の八島(中世室の八島、 [上野国児持山之事] )から派生したものなんです。そして下野惣社の縁起物語と思われる [下野風土記] にある話の、長者の住む「此の所」も中世室の八島から派生したものですが、[下野風土 記]では近世室の八島である池が室の八島ということになっています。

太平山神社
(1)木造 虚空蔵菩薩坐像(連祥院所蔵、鎌倉時代)
 栃木市のウェブサイトより
「鎌倉時代に 連祥院般若寺 の本尊として作られた、桧材の寄木造り、 彫眼 の素地像で、現在は六角堂に安置されています。・・・このような作例は平安時代のものに も時々見うけられ、・・・」

(2)[東路の津登](1509年旅)
 柴屋軒宗長 著
「十六日、壬生より佐野へ帰り行く間に、大平とて山寺あり、般若寺と(も)云 ふ、一宿して連歌あり、
 鹿の音や−染めばもみぢの−峯の松
松杉の深きさまなるべし。」

(考察)この[東路の津登]から、当時大平と名がつくのは神社でなく、お寺だったこと がわかります。山寺という言葉はありますが山神社・山社という言葉は聞きません。当社 のご神体でもない太平山という山の中腹にある現在の太平山神社は、この[東路の津登] にあるように、もともとは山寺だったんでしょうか?それも宗長が訪れて連歌の会を催す ほどの、かなり大きなお寺だったようです。それを神社がお寺の軒を借りて母屋を乗っ取 ったんでしょうか?神仏習合時代のお寺と神社の関係は分かりにくいですね。

(3) [国花万葉記] (國華萬葉記)(1697年)
菊本賀保 著
「大平大権現 平井村に立 社領五十石 別×
当社ハ 佐野源左衛門常世 の霊を祭ると云」

(考察)この史料以降 神社扱いされます。

(4)[和漢三才図会](1712年)=百科事典
 寺島良安(医師、大坂の人) 編
「大平大権現  平井村に在り  社領五十石
祭神 佐野源左衛門常世が霊と云
(この後佐野源左衛門を主人公とする 謡曲[鉢の木] のあらすじが続くが割愛する)
古今之を謳歌(ウタヒ)、剰(あまつさえ=そのうえ)、土人其の霊を祭るや、 未詳。・・・。
△按ずるに、神名帳に都賀郡に大神社有り、これか。」

*[東路の津登](1509年旅)と後の[下野国誌](1850年刊)「太平大権現」 の項に出てくる連祥院般若(教)寺は、大阪の人・寺島良安が編集したこの[和漢三才図 会]と[下野国誌]の「仏閣僧坊」の部とには出てきません。

(考察)『古今之を謳歌(ウタヒ)剰土人其の霊を祭るや、未詳。』は、神社がこんな曖 昧な内容の縁起譚を作るとは考えられません。恐らく大平大権現の祭神は佐野源左衛門で あると聞いて、誰かが謡曲「鉢の木」のあらすじを付け加えた、そういう資料があって、 [国花万葉記]や[和漢三才図会]はそれを参考にしたんでしょう。
しかし、 (7)[下野国誌] によれば、「その反対に、[鉢の木]の謡曲本に『常世が霊は下野国太平権現に祝い祭る なり』と書いてあり、[和漢三才図会]の編集者はそれを参考にしたんだろう」と言うこ とです。
 ところで、関東の人間が謡曲[鉢の木]の内容を知るようになるのは、江戸の町で能が 開催されるようになる江戸時代でしょう。ということは、太平大権現の祭神が謡曲[鉢の 木]の主人公・佐野源左衛門にこじつけられるのは、江戸時代でしょう。しかしかなり特 殊な事情がなければ、江戸時代になってから祭神を替えるなんてことは行われなかったで しよう。ということで、太平大権現の祭神・佐野源左衛門は存在しなかったでしょう。

(5)[室八島](1756年)巻第九
 石塚倉子 著
「太平山にたたせ給う権現の本地虚空蔵、弥生の始に開帳ありしかば、詣でて、
 栄えゆく−ちかひもさぞな−長閑なる−はるにひらけし−法の花ぶさ」

(考察)権現(垂迹神)は太平大権現、その本地仏は虚空蔵菩薩であるということです。

(6)[太平山伝記](1759年以降?)
「・・・・・・
古法太平三所
御本地・虚空蔵(本地仏)
 太平大権現御神躰(垂迹神) 天孫 太神(天孫大神(ニニギノミコト))(記紀神話の神)  明星
  御相殿二神 (註102)
御本地・大日
 熊野大権現御神躰 伊弉冊尊(イザナミノミコト) 日輪
  御相殿二神
御本地・千手
 日光大権現御神躰 大己貴尊(オオ(ア)ナムチノミコト 月輪
  御相殿二神
 右 天正十四丙戌年(1586年)ヨリ御同殿也、
 奥院 富士権現御神躰 木花開耶姫命也
・・・・・・
当時 神社造立 、天正十四丙戌ノ年(1586年)也、
            大檀主山城守 藤原広照
                 別当坊宣英
・・・・・・」

(考察)上記『神社造立、天正十四丙戌ノ年(1586年)也』は、上記(1)〜(5)の 歴史の経緯から見て矛盾は無いですね。その頃お寺扱いから神社扱いに変わったんでしょうか?

本地仏がいて、それに該当する垂迹神がいて、更にそれに該当する記紀神話の神 がいるって、江戸時代になると、祭神はもうメチヤクチャですね。こんな馬鹿げたことを 考え出すのは、江戸時代中期か、後期の頃でしょう。
 ここで言う「御神躰」とは、垂迹神或いは記紀神話の神のことであって、山ではありま せん。この頃の「太平山(神社)」には御神体に相当する山は存在しなかったということ です。今でも無いんでしょうね。
 [太平山伝記]の太平山とは寺の山号みたいなものでしょうね。神社(でも統括してい たのは坊さん(別当坊)ですね。)が作成した文書ですので、内容にしろ年号にしろどこ まで信用して良いものやらわかりませんが、これを見ると江戸時代には浅間神社と関連が あったようです。

(7)[下野国誌](1850年刊)三之巻 神祇鎮座(じんぎちんざ)
 河野守弘 著
「太平(オホヒラ)大権現
都賀郡太平山の半腹にたてり。 別当 連祥院般若教寺とも云、天台宗の大寺なり(大寺なのに[下野国誌]には載って いない)。」

「[和漢三才図会]に、『太平大権現祭神佐野源左衛門常世霊云々。・・・思うに[神名 帳]に都賀郡に大神社有り、曰く此れか』と記したり。常世が霊と云よしは、 観世太夫 が所蔵の謡曲本の[鉢の木]の注に、常世が霊は下野国太平権現に祝い祭るなりとありし なるによりしなるべけれども、これはもとより偽作なれば論にもおよばず。」

「さて当社の社務青木対馬が家記に、宝暦九年(1759年)神社御取調の時、太平山旧 号大神社、祭神天孫尊、相殿天照太神、豊受太神と、書上たるよし記し置たり」

(8)明治初年の廃仏毀釈で連祥院般若寺関係の堂宇はすべて破壊されましたが、190 4年に太平山の麓・あじさい坂の登り口に六角堂を建立、連祥院般若寺として再建されま した。

(9)2005年現在の太平山神社の祭神
祭 神:瓊瓊杵命、天照皇大神、豊受姫大神
相 殿:伊邪那岐大神、伊邪那美大神 天津神、國津神、他6柱
その他含め計60余神

(10)栃木市のウェブサイトより
「太平山神社
天長4年(827)慈覚大師により創建されたといわれ、武将武門や諸人の崇敬が篤く、 特に徳川3代将軍家光以来代々当社を崇敬した。神社拝殿の傍らに星宮神社があり建物が 仏堂である。この神社には神仏混合の名残で、神仏分離令以前は虚空蔵菩薩を奉っていた 。(つまり前記[太平山伝記]にいう虚空蔵菩薩以外の本地は存在しないも同然 であった)

(註17)  おそらく木花咲耶姫を祭神とする浅間神社の親にあたる神社である下野惣社の祭神がそ の御子ではつじつまが合わなかったでしょう。でもそれならなぜ木花咲耶姫でなく、木花 咲耶姫の祖神である大山祇神に替えなかったんでしょうね。この辺りよく分かりません。 ひとつ考えられることは、浅間神社の縁起譚にも、下野惣社の以前の縁起譚にも大山祇神 は登場してこなかったのではないかということです。というのは現存する[浅間御本地御 由来記]にも[下野風土記]にある下野惣社の縁起譚にも大山祇神は登場しないからです 。また前記[集雲和尚遺稿]中の1614年の文にも、木花咲耶姫の夫神のニニギノミコ トと三人の御子神の名前はありますが、大山祇神の名前はありません。

 なお、この木花咲耶姫の御子は[奥の細道]に出てくる彦火々出見尊のことと思われま す(参考: 神社名 ・祭神・小祠の変遷 )。しかし下野惣社の縁起が作り替えられる前からこの御子は彦火々出見尊であったのか 、それとも作り替えられた際に彦火々出見尊とされたのかよくわかりません。
 とにかくこの時代、下野惣社の祭神は最初木花咲耶姫の御子に替えられ、次いで木花咲 耶姫本人に替えられるなど吉田神道に引っ掻き回されたようです。

 ところで、芭蕉らがこの神社を訪れた当時、彦火々出見尊は相殿だったんでしょうか?

(註18)  吉田神道の戦術として、管轄下の多くの神社の由緒書きを、本地垂迹時代に作られた ものから新しい宗教思想に基づくものに作り替えたことでしょう。1700年代初めの頃 <笠嶋はいづこ 皐月(さつき)のぬかり道>(奥の細道)でお馴染みの笠島道祖神の 縁起なんかも、吉田神道によって作り替えられました。

(参考資料) 仙台叢書第五巻
この中の[奥州名取郡笠島道祖神記]、佐久間洞巌(佐久間義和)(1653−1736 年)著
この書には、1717年頃に吉田神道の卜部兼敬(うらべかねゆき、1653−1732) が縁起を作って笠島道祖神に賜ったと書かれており、また卜部兼雄(かねお、1705− 1787)によって1732年に笠島道祖神が正一 位に昇格されたと書かれている。

この神社の祭神も
本地垂迹時代の神(垂迹神になる前は出雲道祖神の娘)→記紀神話の神(猿田彦)→記紀 神話の神(猿田彦とアメノウズメ)
と変遷している。

(註19) 吉田神道からの圧力に対してこの神社はどう対応したんだろう?由緒書きを書き換えるこ とくらいはせざるを得なかったと思うが、室の八島が当神社の境内であるなどと氏子に話 したんだろうか?

(註20)  浅間神社ばかりでなく、埼玉県の鷲宮神社、群馬県の子持神社など本研究の過程で調べ た3社が、江戸時代初期までにはいずれもそれまでの祭神から記紀神話の神に替えられて います。
 その他、[神道集](1352−60年頃)と[和漢三才図会](1712年)を比較 すると、その間に祭神を記紀神話の神に替えられた神社がいくつもあることが分かります 。なお、[神道集]に収録されている約40社のうち、祭神が記紀神話の神である神社は 現在の鹿嶋神宮(祭神は天津児屋根命(あまつこやねのみこと)、ただしこれは神になる 前の姿、茨城県鹿嶋市宮中 2306-1)一社のみでした。 [神道集]の鹿嶋大 明神

 また室町時代から江戸時代初期に掛けて作られた短編物語をひっくるめて室町時代物語 または御伽草子(おとぎぞうし)と言うようですが、その中に30社弱の神社の縁起譚・ 本地物があります。その中の3分の1の神社の祭神を調べましたが、記紀神話の神を祭神 とする神社は一社もありませんでした。

この後、インターネットで調べたら、吉田神道によってどこそこの神社の祭神が替えられ たと言う史料・資料がいくつか出てきました。さて吉田神道はいつ頃からそんな権力を持 つようになったんでしょう?

 なお日本史の学者の間では、神社の祭神が時代によって何回も変わっていることは常識 のようですね。一般の人には伝わってきませんが。

(註21) 「芭蕉はなぜ、曾良から聞いたこの神社の縁起だけを[奥の細道]に載せたのか?」
という疑問がありますが、それは、芭蕉が室の八島の現地で、曾良から聞いたこの神社の 縁起のことしかメモしなかったからです。メモして来なかったんで、神社の縁起以外のこと は[奥の細道]に書けなかったんです。

(註30) 「『当社(室八嶋大明神)ハ富士浅間権現の御親神也』と言うから、室八嶋大明神の祭神 は、浅間神社の祭神・木花咲耶姫の親神である大山祇なのか?」と言っています。菊本賀 保は室八嶋大明神の祭神が誰かも知らず、また「当社ハ富士浅間権現の御親神也」の意味 も分からずに他人が書いた『当社ハ富士浅間権現の御親神也』をただ写しているだけです。

十干十二支
中国発祥の数詞で、十干(10)の周期と十二支(12)の周期とを組み合わせた (=10と12との最小公倍数を採った)、60を1周期とするもの。十干や十二支は、 暦を初めとして、時間、方位などに用いられるが、十干十二支は1周期60年の各年を表す数詞のこと。

「十干十二支」を略して「干支」と書き、「かんし」と読む。「干支」を「エト」と 読ませるのは、特定の時代の誤った言い方です。なぜなら「干支」の意味する数字は 60ですが、「エト」(兄と弟を意味する)が意味する数字は2で、60が2である 訳がないからです。こんなことは小学生でも分かる。と言うのは、小学生に失礼。「皆さん。 こんな簡単なことが、大人になると馬鹿になって理解できなくなるんですよ。」

十二支
十二支の各文字の原意は不明ですが、一説に、一年をざっと十二か月に分けて、その月における 植物の活動を表したものだったというのがあります。例えば、「子」は芽が出る様子を表し、 「亥」は種子を意味するなど。

数え歳
「数え歳」では、生まれた年が一歳で、翌年の元日に二歳となる。例えば大晦日生まれの 人は、その日だけ一歳で、翌日の元日にはもう二歳となる。

しかし、これではいかにも不合理でしょう。
ですから、そういう子については誕生日を偽って、1月何日生まれということにして出生 届けをしていたようです。落語家の故・立川談志の誕生日は1月2日ということになってい ますが、ホントの誕生日は12月2日だそうです。

それより、誕生日が来たら一歳歳をとる「満年齢」の方が合理的でしょう。
「数え歳」は、ヒトのように一年中子が生まれている動物に当てはめるのは不合理ですが、 子が生まれる季節が一定しているヒト以外の動物には適用しても良いでしょう。

ということで、競馬馬の馬齢は「数え歳」です。
なお日本競馬界の馬齢は、2000年までは「日本式馬齢」(生まれた年が1歳で、翌年 2歳となる)を採用していましたが、2001年から「国際式馬齢」(生まれた年が0歳 で、翌年1歳となる)に切り替えたようです。

「国際式馬齢」の例が有るなら、西暦もそれに倣って0から始めて欲しいですね。たとえば、 10世紀を、900年代でなく1000年代にして下さい。ずっと理解しやすいです。

「五黄の寅」
九星気学では帝王を意味して強い運勢を誇るとされる「五黄土星」と、十二支で強い金運力を 持つとされる「寅」が重なる、金運奇跡の年とされています。この機会が訪れるのは、 9年サイクルの九星と12年サイクルの十二支との最小公倍数(3×9/3×12/3=) 36年に一度で、2022年が「五黄の寅」 の年でした。
また 五黄の寅年生まれは、五黄の寅といって気が強いと言われます。特に女性に対して 使われていたような。

最近よく聞く(よく目にする)おかしな言葉 > >>
説明 説明
昔から有るけど
コンセント
電気を供給するために、家電製品 などの電気器具のプラグを接続する差し込み口。米: outlet
英: socket
コンセントは concentric(同心円状の)plug から誤解されたらしい。
ソケットよりアウトレットの方が紛らわしくなくて良いですね。
もっと昔からあるやつ
ピント
カメラ用語で、「ピントを合わせる」 「ピンぼけ」などのピント(焦点)の事。てっきり英語だと思っていたら、 オランダ語のbrand punt(焦点)から来た外来語、つまり日本語なんだって。punt(ピント) を英語表記すればfocal pointのpointの事。
レッテルを貼る「不良のレッテルを貼る」などと悪く言う時に使いますが、 レッテルって何?語源は、オランダ語の「文字」を表すletterで、 昭和に入ってから、商品ラベルの意味に変わりました。
平年の気温その言い方は間違いです。
平年とは閏年(うるうどし) でない年を言います。平年の気温が一定している訳ないでしょう。
気温の平年値 気温の平年値とは、西暦で末尾1年から30年後の末尾0年までの30年間 の平均値を言います。そして10年毎に改訂しています。
T字路ティーじろ丁字路ていじろ・ちようじろ。 丁は漢字
丁字(ちようじ)=クローブ(香辛料、生薬)、語源はどちらも釘の形から
震度5弱「震度5弱」っていうから、震度5より弱いのかと思ったら、 震度5でした。「震度5の弱」と言うべきでしょう。「1キロ弱」 と言ったら、1.0キロを超えてんの?それとも1.0キロ未満なの?
当然1.0キロ 未満でしょう。
模擬店最近は、祭りの会場などに出店される屋台のような簡単な作り の店の名前として使われる例が見られる。露店(ろてん)・屋台・出店(でみせ) など模擬店とは、学校の文化祭などに生徒によって出される店で、一般の店と 異なり利益をあげる目的のものでないので、消費税などは関係してこない。
バージンロードキリスト教式の結婚式において、結婚式場の入り口 から祭壇に至る通路を言う。wedding aisle
aisle(アイル)=座席脇の通路
結婚式の時だけ教会・チャペルを利用する日本で作られた和製英語です。結婚式でない時の 固有の呼び名は有りません。
イナバウアーフィギュアスケート用語。
体を反らす意味で使わ れているが、正しくは両足の形の名前。
レイバック
これが体を反らす意味。
荒川静香のは、レイバック・イナバウアー、サーキュラー・イナバウアーという。
温泉卵箱根の温泉で茹でた「茹で卵」を今では「黒卵」と呼んでい るが、
1960年頃は、確か「温泉卵」と呼んでいたはず。
黄身茹で卵 ざっとした話。黄身は60℃以上で、白身は70℃以上で固まる。
現在「温泉 卵」と称している物は、60〜70℃の間で茹でて作ったものです。
魔法瓶を利用す れば、家庭でも作れます。
グルメ「美味いもの」という意味のグルメは日本語です。もとのフ ランス語のグルメgourmetの意味は「食通・美食家」。
グルメなんて言葉は昔から知って ましたが、まさか意味が変わるとは夢にも思いませんでした。
日本語なら(美味から)
ビーミー?

外国語なら
DELICA?
「美味いもの」 の英単語は無い。ドイツ語なら delicatessen でも英語の意味は惣菜屋みたいな店。
2010年頃、旅先で美味い物を食べるテレビの旅番組に「グルメ旅」という名前を 付けたころから、「グルメ」の意味が誤解されるようになったと思われます。
難易度が高い「難しさの度合いが高い」って言ったら難しいことだけど、 「難しいか?易しいか?(=難易)の度合が高い」って言ったら、難しいってことなの? それとも易しいってことなの?難度が高い
(難易という言葉はあるが、 難易度という言葉は無い)
強度が高いとは言いますが、強弱度が高いとは言わないでしょ。
「深浅度の低い海」
「時速遅50キロで走る車」  ナヌ?
関係性がある
危険性がある
これらの言葉にある「性」は、21世紀に なってからマスコミで盛んに使われるようになったもののようです。関係がある
危険がある
これらの「性」は無用の接尾語です。
例えば 危険性が高い と言う場合などは、「性」が必要ですが。
狼少年今では、イソップ寓話にある「狼が来た」と言って村人を だます羊飼いの少年の話[羊飼いと狼]のこと。
或いはこの寓話から、狼少年とは 単に「嘘つき」のこと。
[羊飼いと狼]

嘘つき
1960年頃は、狼少年と言ったら、もっぱら[ジャングルブック]に登場する、 狼によって狼の子のように育てられた少年・モウグリのことでした。  日本のアニメ 『狼少年ケン』も狼によって育てられた少年の話でした。
三角コーン道路工事現場などでよく見かける円錐形のあれのこと。
「コーン」て「円錐」の意味なんだけど、「三角円錐」ってどんな形?
ロード コーン(road cone)が正しい名前らしい。パイロンは、 塔・柱・支柱の意味。
「カラーコーン」は、ある会社の登録商標です。
シリコン最近は耐熱樹脂の意味で使われているが、 シリコーンシリコン(silicon)はケイ素。シリコーン(silicone)はケイ素樹脂。
破天荒右のような意味で使われているが、 型破りな、常識破りな、自分勝手な破天荒の正しい意味は、
今まで人がなし得なかった ことを初めて行うこと。前人未到の境地を切り開くこと。
リベンジ右のような意味で使われているが、 再挑戦、雪辱リベンジの正しい意味は、
復讐、報復、仕返し、恨みを 晴らす。
計画停電以前、東電がやりましたね。
計画通りに停電させなくても  なんの説明も無し。そんな無責任な。
今後は東京23区も計画停電の対象になる そうです。
輪番停電NHKの教育番組でやってました。 東電の計画停電の内容を英訳し、次にこの英語を和訳したら、「計画停電」がなんと 「輪番停電」と変わりました。
つまり、地域を区切って順番に停電させること。
エコおそら和製英語で、economy(経済)の略ではなく、 ecological system(ecosystem)(生態系)の略。 エコフレ
(筆者がつくった造語)(ecosystem-friendly)
生態系に (地球に・環境に)やさしい(フレンドリー・カインドリー)の意味。
地方創生国語辞典によれば、「創生」とは「初めて生み出すこと。 初めて作ること。」地方活性化既に存在する「地方」を、 どうやってこれから初めて作るの?
領海にでも創ろうってんですかね?
ふるさと納税初めてこの名を聞いた時、「住民税を、現在住んでる町 でなく、故郷に納めることができる制度」かと思いました。そんなバカな。 そしたら 「ふるさと」とも「納税」とも関係ありませんでした。 他市町村への寄付他市町村へ寄付した額に応じて住民税が軽減されるんで、 住んでる市町村が税収減で困ってる。私には、このやり方が何かの目的を達成するための 法律手段としては全く理解できないんですが、皆さんは理解できますか?
消費増税この言葉を、消費税と同じ意味の付加価値税に当 てはめると「付加価値増税」となる。消費税率増「消費増税」= 「付加価値増税」の両辺から「増税」を引くと、「消費」=「付加価値」となる。 そんな馬鹿な。
ジェネリック医薬品(後発医薬品)「ジェネリック」とは、 「特許などで保護されていない」の意味だが、「ジェネリック医薬品」と言うと、右に 書いた内容の、強いて言えば「同品質医薬品」のようだ。後発と言ったら、目的は同じでも 品質が違うものでしょう。 先発医薬品の特許切れ後に他社によって作られた同一品質の医薬品。特許が切れる と自由競争になるので、購入者は安いところから買える。特許を持っていた企業も安くしないと 売れなくなる。という特許の常識が通用しない品なんです。  国が関与して自由競争に ならないようにしています。
あおり運転何が煽り(あおり)行為なのかチンプンカンプン。
誤用に基づく新語である。
だからこの「あおり」に漢字は無い。
危険運転・ 妨害運転「煽る(あおる)」の意味
「他人を刺激して、ある行動に駆り立てたりする。たきつける。扇動する。」
あおり運転にこんな意味は一切無い。
安心・安全以前は「安全」とだけ言ってたが、2020年頃以降 バカの一つ覚えのように、「安心・安全」と言っている。安全安心とは、 心に恐怖や不安が無いこと。人間は、危険な状態でも、それを知らなければ安心していられるし、 安全な状態でもそれが納得できなければ不安である。  これは心の問題で、安全の問題とは 整合しない。
趣旨と主旨最近「〜という趣旨の話をする」など、主旨と書くべき ところを趣旨と書いてるんじゃないかと感じる例がやたら目につく。
「趣旨」は「する目的」に限定する。
「話の趣旨」は、「話の内容」 「話の意味」と言い換える。
紛らわしさの原因は、趣旨の意味の紛らわしさによる。
「趣旨」の意味には「する目的」以外に「話の主旨」がある。
両刃(りょうば、もろは)の剣(つるぎ)相手を斬ろうとすると、 自分の体をも斬ってしまう剣。
どうも、実在する剣ではなく、言葉上だけに存在する 架空の剣らしい。
相打ち剣柄(つか)の反対側にも刀身があり、 かつ刃のある側が互いに逆の剣のこと。
柄(つか)を持って、相手を切ろうとして みてください。
但しそんな剣は実在しない。
ライフライン右の意味のライフラインは和製英語。
英語のライ フラインは、命綱またはそれに相当する物の意味
電気ガス水道、
ユーティ リティー(ズ)
私はよく、工務屋さんからユーティリティーという言葉を聞い てました。
(最近、ユーティリティーというゴルフクラブ用語が生まれたらしい。)
フードプロセッサー複数の処理ができるので、単にプロセッサー (処理機)と言っている。
しかし、チョッパー機能以外は、他に適した道具があるので 決して使わない。
チョッパーつまりチョッパー機能以外は付いてない のと同じである。
それで私は、チョッパー機能の付いたハンドブレンダーを使ってます。
アーティスト日本のマスコミによれば、アーティストと言ったら 歌手のこと。そして、芸術家の事は、決してアーティストとは言いません。シンガー、ミュージシャン日本には歌手以外のアーティストはいないようです。
尚、彼らが言うアーティストとは、芸術家の意味でなく、芸能人の意味のようです。
アポ電(アポイント電話の略)「窃盗・強盗などを働く前に相手に電話して 相手の様子を偵察する意味」で使われている。
2021年には、呼び名が「前兆電話」と替わった。
偵察電話
英語を使いたいなら「リコ電」でしょう。
アポイントとは、「面会・会合の予約」のこと。
リコはreconnaissance(偵察)の略。
食べ歩き2018年頃以降、「物を食いながら歩く」意味で 使われているが、こんな行儀の悪い行動に 丁寧な言葉の「食べる」を使うのは間違いである。 歩き食い「食べ歩き」とは、「食べ歩く」という複合動詞 が名詞になったもので、意味は「土地の名物料理やめずらしい食べ物などをあちこち食べて まわること」です。
私的(わたしてき)には相手に突っ込まれるのを避けるために、 はっきり「私」と言わずに、「私的」とぼかしているように聞こえるんだけど。私としてはこれで「他の人はいざ知らず、私としては」の意味で、 他人から突っ込まれることはないと思うんだけど。
この「的」、英語のromantic等のticの和訳として生まれ、その後使い方が拡張されたらしい。
例えば「五百円からお預かりします」など。えっ?「〜から」って どういう意味?全く理解できない。
これは、”ファミコン言葉””バイト敬語”などと 言うんだそうですね。
学者でもこの使い方はよくわからないらしい。
五百円お預かりしますこの「〜から」は敬語を使ってるつもりなんだそうです。
”バイト敬語”でウィキペディアに載っていました。
”ファミコン言葉”とは、 「ファミレスやコンビニの店員がよく使っている言葉」という意味です。
「〜になったら良いかな。」「良いかな?悪いかな?まあどっちでも いいや。」
「良いと思う55%、悪いと思う45%」ってところかな?
「〜 になったら良いな」せめて「〜になったら良いんじゃないかな?」って言って欲 しいですね。
「〜の可能性もある」テレビのニュースでよく聞く表現。
なぜ 「も」を使うのかチンプンカンプンな事が多い。
〜の可能性がある この「も」は「同類の事柄を並列・列挙する意を表す」です。
「も」を使うなら、「今も昔も」のように、「も」でつなぐ複数の物がないと 意味が通じないんですが。
コストパフォーマンス料金・価格に対する品質・性能を言います。 和製英語です。外国では通じません英語では  value for price などと言うようです。
軍事侵攻NHKだけが「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻だって。
じゃあ非軍事侵攻って有るの?
有る訳ないだろ。 侵攻とは軍事だ。ここは正しくは「侵略」と言うべきです。「侵攻」は 「他国やほかの領地に攻め込むこと」という意味です。
一方「侵略」は、 「他国に攻め入って、土地や財物を奪いとること」という意味です。
その他、ひき肉を意味するミンチやメンチなどの外国で通じない 和製英語初め、取り上げたらきりがありません。 これが日本語の現状のようです。
テレビでよく見かける国語学者達は、死語に関する自分の知識をひけらかす事には熱心ですが、 現在の言葉の問題には決して首を突っ込みません。ご立派です。

最近の言葉ではありませんが、おかしな言葉
「真珠湾攻撃」 attack on pearl harbor
国力に大差の有るアメリカに勝つためには、日本が桶狭間の闘いを仕掛けてそれに 勝利しなければならなかったが、それに失敗して(下記註)日本が負けることになったが、 そればかりでなく、日本に原爆が投下される原因を作った とんでもない攻撃。
(註)必ず撃沈しなければ日本の勝利に結び付かないアメリカの空母が真珠湾の 外にいることを知らなかった。にもかかわらず「トラ、トラ、トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ) 」だって、ご冗談を。

「攻撃」って言うから、私は戦争行為だとばかり思ってました。そしたら「真珠湾攻撃」 って戦争行為じゃないんですね。
真珠湾を攻撃した当時、攻撃前に宣戦布告を相手国に行う義務がありました(宣戦布告前から 小競り合いが始まっていて 宣戦布告しない例が多いようだが)。にもかかわらず 日本は宣戦布告せずに、1941年12月8日にいきなり真珠湾を襲撃しました。ということで、 「真珠湾攻撃」は戦争行為ではなく、平和時に起こした、とんでもない襲撃事件なんです。 (日本という国家が2403人(プラス負傷者1178人)もの 何の罪もないアメリカ人を大量殺害した殺戮事件なんです)だから「真珠湾襲撃事件」と 正しく呼ぶべきなんです。
でも残念ながら、日本人には「真珠湾襲撃事件」が 日本人が平和時に起こした大量殺戮事件である という認識は全くないようです。

それで、平和時に起こされた「真珠湾襲撃事件」の仕返しに、アメリカは日本に原爆を落とし たんでしょう。原爆開発者の言葉によれば、日本への原爆投下は真珠湾襲撃事件に対比される 行為のようです(つまり、仕返しだったということです。アメリカは 日本同様敵国である ドイツにもイタリアにも原爆は落とさなかったでしょう。仕返しのために、 ざっと100倍の日本人が殺されました)。なお、原爆投下は戦争行為です。
そして、日本人がアメリカ人に原爆投下の非を認めてもらおうとしても、アメリカ人に 真珠湾襲撃事件の非を持ち出されて、日本人は ぐうの音も出なくなります。

なお、アメリカ人の多くは、「戦争を早く終わらせて、戦争犠牲者を少なくするために 原爆を落としたのであって、その行為は正しかった」と教育され、そう理解しています。
確かにその理解は或る意味正しいです。
なぜなら日本政府は「日本が勝たなければ、日本人が天皇一人になるまで戦い続ける」覚悟 でした。
で、なぜそんな覚悟ができたかと言えば、「日本は現人神(註1)を中心とした神の国(註2) なんで、必ず神風(註3)が吹く」と信じていたからです。
(註1)現人神:あらひとがみ=天皇
(戦後の1946年に天皇が「私は神でなく人間です」と宣言するんです。これを「人間宣言」 と言います)

(註2)神の国:戦後の証言から 多くの人が信じていたことが分かります。
(註3)神風:神道用語です。
それで、日本軍がまだ米国本土を攻撃できず、反対に、1944年11月24日以降 日本の首都が空爆されるに至ったにもかかわらず、日本は降伏しようとせず、特殊機体などを敵艦へ 体当たりさせる自爆攻撃を命令して(最初の攻撃は10月25日ですが)、 それを「神風特別攻撃」と呼んだんです。
(戦闘員は「(日本国の神である)天皇陛下 万歳」と言って、敵艦に体当たりして行きましたが、 これは 「神は偉大なり」と言って、自爆攻撃するイスラム過激派のやりかたと共通してるんですね。)
但し残念ながらその戦術は、我が戦闘員を殺しただけで「神風」は全く吹かせられませんでした。

本来なら 開戦から半年後の1942年6月に行われたミッドウェー海戦で 米国に大敗北を喫し、圧倒的な 国力差(日本のGDPはアメリカの1/4しか有りませんでした)を見せつけられた時点で  日本は降伏すべきだったんです。それ以降の日本人の戦死者(それは日本人全体の戦死者 約310万人のほとんどでしょう)は、日本政府によって殺されたものと私は判断します。

「原爆投下によって戦闘員でない一般民衆を大量に殺害したので国際法違反だ」っていう 日本人もいるようですが、日本の国際法違反で始まった太平洋戦争なのに、アメリカに対 して「お宅の行為は国際法違反だ」って言うのは筋が通ってるんですかね?
(すいません。国際法を知らないんで間違ったことを言ってるかもしれません。)

 どうも国際法には罰則規定が無いようです。ですから大国は、自国に対するメリットと デメリットとを天秤にかけ、メリットの方が大きいと思えたら、国際法を無視して 実行するわけです。かなり無茶苦茶です。こんな状態では、とても地球に平和が訪れるとは 思えません。

{国際約束」とか「二国間協定」とかって、国際法に基づいて結ばれるものだと思うんですが、 近年の「慰安婦問題」「徴用工問題」など、日本と韓国との間のごたごたが容易に解決されない ことを考えると、「国際法」って何を規程しているんだろうって疑問に感じちゃいますね。
韓国では、大法院が「それは「二国間協定」外の問題である」と言えば、「二国間協定」は、 締約相手国と話し合うこともせず、国際法を考慮することもせずに韓国の都合の良いように 如何様にでも解釈できるようです。
どうも韓国においては、国際法とは国際間の紳士協定の別名のようですね。ですから、 政権が替われば、協定の解釈を如何様にでも変えられるわけです。

蛇足 harborは「湾」と訳すより、「港」と訳したほうが分かりやすいんですけどね。
harborはport(船が出入りする玄関という意味での港)ではありませんが、風待ち港・ 汐待ち港・船の係留地など船に関係する意味なんですから。
そして「湾」は船と関係なく「海や湖の一部で、陸に入り込んだ領域。」の意味で、 ふつうgulfやbayを「湾」と訳しているようです。
実際の真珠湾の場所を地図で見ると、ホノルルの近くに複雑に入り組んだ地形の入り江が あり、pearl harborは、その中の一部分の名前のようです。
次の戦争の話も読んでね。

○「おかしな言葉」ではありませんが、戦争の話をもう一つ。
この前の戦争を体験された我が国の先輩方々が、さも達観したかのように、口々に 「二度と戦争をしてはならない。」ってなことを言ってるでしょう。
でも、それってホントに正しいんだろうか?
戦争をする条件・あるいは戦争の戦い方って無限にありますよね。でもどんな条件・戦い方 でも戦争をしてはならないの?

まさか21世紀に起こるとは!
悪魔・プーチンが支配するロシアが いきなりウクライナを侵略した際、ウクライナは 侵略を防ぐためにロシアと戦いましたが、ウクライナは戦わずにロシアの侵略に まかせるべきだったんでしょうか?
またこの事件は、民主国が1独裁国に侵略された例ですが、民主国側は当該独裁国に対して、 戦わずに侵略されるままで宜しいんでしょうか?独裁国にこんなことを許していたら 決して平和な地球はやって来ません。

上記の「二度と戦争をしてはならない」に関連した「例えばの話」ですが
1.日本に戦争を仕掛けられて、負けてしまった国は「二度と戦争をしてはならない」と 思うでしょうか?「二度と日本に負けない軍事力を持たなければならない」と考えるので はないでしょうか?

2.日本に戦争を仕掛けられたけどそれを跳ね除けた国は、「二度と戦争をしてはならな い」と思うでしょうか?「軍事力をさらに充実させて、また日本が攻めてきても跳ね除け てやる」と思うのではないでしょうか?

3.自ら日本に戦争を仕掛けて勝った国は、「二度と戦争をしてはならない」と思うで しょうか?「日本なんてあんな悪い国は、機会が有ったらまたやっつけてやる」と思うの ではないでしょうか?

では、どういう国が「二度と戦争をしてはならない」と思うでしょう?

それは、上の3条件のどれにも当てはまらない国でしょう。それは、こちらから戦争を 仕掛けたにもかかわらず、悲惨な負け方をした国です。・・・それはとりもなおさず、 アジア・太平洋戦争における我が日本です。
日本人は、「あんなみじめな戦争はもうこりこりだ」と思ってます。 その思いから「二度と戦争をしてはならない。」と思うようになりました。
(だってそうでしょう。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦の後に、日本人は「二度と 戦争をしてはならない。」と思ったでしょうか?)

そしてこんな言葉が生まれた背景は、日本人が意識してるかしてないかにかかわらず、日 本人はこの前の戦争の教訓として「日本から戦争を仕掛けなければ決して戦争にはならな い」と信じているからです。

そして、日本が仕掛けた戦争は、日本が「今日で戦争は止めだ」と言ったその日から終わ ると信じています。ですから、日本が無条件降伏することを1945年8月14日に 連合国軍側に伝えましたが、そのことを国民に知らせた翌8月15日は敗戦記念日でなく 終戦記念日なんです。
しかし、1945年8月15日には決して戦争は終わっておりません。その後も戦闘は 続きました。「北方四島」は1945年8月15日以降の8月28日から(9月2日に 日本が降伏文書に調印したのにもかかわらず)9月5日にかけて、ソ連が侵攻し 占領されたのです。
そして、現在のロシアは、「北方四島は戦争によって獲得したロシアの領土である」と 主張しています。しかし これは明らかに 当時のソ連も承認した「領土不拡大の原則」違反です。
また千島列島をロシア・ソ連に返還するという話は、北方領土は、我が国固有の領土で、 一度もソ連の領土になった事が無いので、返還の対象にはなり得ません。

ところで私は、「ウラル山脈以東のシベリアは、独裁国家であるロシアの領地であるより、 民主国家である日本の自治州になった方が、住民にとって幸せじゃないか?」って 思ってんですけどね。

いろいろしゃべりましたが、以上の事から、この前の戦争から日本人が学ばなければならない 教訓は、「どんなことがあっても二度と戦争をしてはならない。」ではなく、
「決して こちらから戦争を仕掛けてはならない」というものでしょう。

(1.彼を知り己を知れば百戦殆(あや)ふからず。2.彼を知らずして己を知れば一勝 一負す。3.彼を知らず己を知らざれば戦ふ毎に殆ふし。)[孫子]=中国の春秋時代の 兵法書
アジア・太平洋戦争における日本は、この三つの内のどれに当てはまるでしょう?

そもそも、日本が戦争をしたくなかったら、米国のCIAや、イギリスのMI5か6に 相当する情報機関を作ってそれを充実させるしか方法は無いと思ってます。それでしか 戦争は防げないと思ってます。
(「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)ふからず」「上兵は謀を討つ(敵に対する情報収集 ・解析によって戦を避ける)。その次は交わり(外交)を討つ。その次は兵を討つ」 『孫子』。からの発想です。)
日本が戦争をしたくないなら、なぜ情報機関を作らないのか、私には全く理解できません。 自衛隊の「別班(べっぱん)」のような、国民にその存在さえ知らせないような組織ではだ めだ。

最後に、
「日本が中心になって、世界から戦争を無くす、無くせる」って、  えっ、まさか?
でも、日本国民がその気になって努力するのは大賛成です。
ところで、どんな矛にも耐える盾って無いもんですかね。そしたら世界から戦争が なくせるんだけど。

突然 変な問題を出します。
政教分離と言いながら、公明党は仏教系の政党です。では自民党は何系の政党でしょう?

話は代わりますが、
○韓国が「日本海」を「東海」と呼べって、アホか!
そんなことは、てめえが世界征服してから呼べ。そしたら「日本海」は世界征服した韓国の 東の海である。
もともと「日本海」とは「日本に所属する海」という意味ではない。(同様に、インド洋は 「インドという国に属する海」という意味でもない。)「日本海」とは「この海の向こうに 日本という国が有る」という意味の名前だ。
そして、朝鮮半島などというちっぽけな地域から見た「日本海」の呼び名ではない。 「ユーラシア大陸」から見た呼び名である。
そして「大西洋」とは西の海という意味だが、これは朝鮮半島から見た呼び名ではない。 ヨーロッパ(イギリスかな?)から見た呼び名だ。
これらの事から、「日本海」を「東海」と呼ぶことがいかにバカバカしいかわかるだろう。

例えば、A町に住んでいる人は、B町へ行く道を「B街道」と呼び、決してA街道と 呼ぶわけないだろう。
「日本海」の呼び名も、これと同じなんです。海は道、すなわち海路扱いなんです。 だから、日本が「日本海」と呼ぶわけないんです。 もし海の名前を各国によってかってに付けられるなら、日本は、「日本海」などでなく、「太平洋」 を「日本海」と呼ぶでしょう。
海の名前がどう決められたか知らないが、その際領海なんて考慮されることは 一切なかったろう。

話が全く変わりますが
○ものすごく気になってるんだけど、日本のトマトってありゃ何?
イタリアはトマトの種類が豊富で、ざっと分類すれば「(加熱調理用)クッキングトマト」 、 「サラダ用トマト」と「デザート用トマト」があるらしいんだけど、日本のトマトって ありゃ何用?
日本では、「生で食べる、完熟して甘く酸味の無いトマト」を狙って作っているらしいんで、 「クッキングトマト」や「サラダ用トマト」を作ろうとして作ってんじゃなさそうです。 どうも「デザート用トマト」「おやつ用トマト」「フルーツトマト」を作ろうとして いるようです。
でも私は、日本人が今のトマトを、デザート用・おやつ用として生食している例を全く 知りません。今の日本人は、トマトをサラダとして以外、生食する習慣は無くなった のではないでしょうか?

1960年代の頃、例のケチャップの「かごめ」が新聞紙上で 「トマトは 野菜か?果物か?」 というアンケート調査を実施しました。当時日本には、トマトを加熱調理して食べる習慣 はありませんでしたので、「トマトは野菜か?果物か?」とは「ご飯のおかずとして食べ るか?おやつとして食べるか?」という意味で質問したんだと思いますが、生食を念頭に 置いてますね。
アンケート調査の結果を知らないんですが、当時の甘酢っぱいトマトが懐かしいです。 「おかず(スライスしてちょっと塩を振る)」としても「おやつ(丸かじりする)」とし てもうまかったです。
ああいう甘酸っぱいトマトが好きな人が他にもいるんですね。居酒屋のメニューに「昔の トマト」ってのが有りました。
家庭菜園をしてる人に聞いたら、昔のトマトは作るのが難しいんで、最近はあまり作られ なくなったそうです。
そういえば、私が最近食べた「昔のトマト」らしいトマトは、スーパーなどには出回らな い、道端の産直野菜販売のトマトでした。
昔のトマトのように青みが残っている物は酸っぱいのかと思って、最近、すこし青みのあ るトマトを買ってみました。そしたらとんだこと、酸味もないし甘味もないし、「よくこ んな味の無いトマトを売ってるな」と思いました。
なお、或るホームページのトマ ト料理のレシピを見たら、トマトに酸味が欲しかったら酢を加えるんだって。

○もうひとつ野菜についての無駄話  初めて「キュウリもみ」を作った時
キュウリをスライスして塩をかけ、「キュウリもみ」って言うから揉んだら、キュウリの スライスがみんなポリポリ折れるの」。「なに キュウリもみは揉んじゃいけないの?」。
それから「揉むような手つきをして、キュウリと塩を混ぜると言うかキュウリの表面に 塩をまぶすんだ。そうすると浸透圧の関係でキュウリの水分が徐々に抜けてゆき、 キュウリが柔らかくなる」ということを覚えました。だったら「キュウリもみ」って 名前を変えて欲しいな。

もうひとつ。「ニンジンの皮を剥く」って言うでしょう。
テレビの番組で知ったんだけど、ニンジンの皮って、ものすごく薄い無色透明な皮膜で、 「表面の泥を落とすために機械で洗うでしょう。その時に、皮も一緒に落ちちゃうんだって。」 だから、「ニンジンの皮を剥く」って、実は表面の変質層を落とす事なんだって。

食料に関する、こういうおかしな言葉って、いくらでもありそうです。
・「モロッコいんげん」(モロッコを舞台にした映画「カサブランカ」の人気にあやかって タキイ種苗が命名。おもな産地は、海を隔ててお隣のイベリア半島。平さやインゲン)
・「サニーレタス」(乗用車・日産サニーの人気にあやかって命名。英語名は レッド・リーフ・レタス)
但し これは作り話。正しくは、
「太陽の恵みを全葉に受けて赤色がきれいに出た」というイメージで、名前を「サニーレタス」とした。
・「鯖の水煮」(「鯖の味噌煮」の名から考えれば「鯖の塩煮」でしょう)
・「ゴーヤ」(沖縄弁です。九州産のゴーヤを買ったら「レイシ」と書いてありました。 「ツルレイシ」または「ニガウリ」ってのがこの植物の標準和名らしいです。)
「標準和名」とは、「この和名を標準にしたらどうだろうか?」という程度の意味の 和名のことのようです。



下野惣社の縁起物語の系譜
  −コノシロ(ツナシ)身代わり火葬の話が登場する寺社の縁起譚の歴史−

1.夜明山朝日寺の伝説 (註103)
  夜明山朝日寺:(よあけざん ちょうにちじ、福岡県久留米市大善寺町夜明)
    臨済宗妙心寺派寺院。本尊は地蔵菩薩。筑後三十三観音霊場第20番札 所

*伝説のあらすじ*
 十二世紀末、この辺りに 藤原種継 (藤吉種継、藤吉氏種という伝説も有り)という豪族がいた。種継には一人娘がいて、そ の美しさは、遠く都まで噂が伝わるほどであった。やがて噂は京の都にも届き、役所から 迎えがやって来た。しかし種継は別れが辛く、使者が到着したその日、ツナシ( コノシロの地方名)という魚を焼いて煙を扇ぎたてた。使者が訳を聞くと、種継は娘が死 んだので火葬にしているのだと、嘘をついたので、使者は騙されて都に帰っていった。
 その翌年、平家の転覆を図り、鬼界ヶ島に流されていた 平康頼 という若者が、罪を許されて都に帰る途中、種継を訪ねて来た。娘は康頼と親しくなって 身ごもり、やがて男の子を出産するが、その子は口から光を発していたので、霞川に捨て られる。しかしその子は七日七夜たっても鳥獣に襲われることもなく元気だった。噂を聞 いた永勝寺の和尚は、男の子を連れて帰り大切に育てた。ちなみに男の子が捨てらていた 辺りは、その後、草木一本も生えず不毛霊地と呼ばれている。
 その後、聡明な男の子は後に宋に留学、帰朝後に朝日寺を建立した。この男の子が、開 山の神子(じんし)禅師栄尊(えいそん、1195−1273年)である。

(参考)[大日本地名辞書]、吉田東伍、1903年
「朝日寺
大善寺村の大字夜明にあり、古道場なれど、今臨済家に転ず、○[鎮西要略]伝、寛元四 年(1246年)、四条大納言家領三 (みづま)荘、造朝日寺、釈神子(覚禅房栄尊也 )為開山、蓋神子、(或曰神子)平氏判官康頼遺×、母筑後人藤吉氏種次女也、朝日者神 子其所生也。」

(考察)次の[神道集](1352−60年頃)[上野国児持山之事]にコノシロ身代わ り火葬の話が登場しますが、それ以前に、西日本にツナシ身代わり火葬の話が存在し、[ 上野国児持山之事]はそのツナシ身代わり火葬の話の影響を受けているのではないかと思 われます。そしてここに挙げました現在の朝日寺の伝説、縁起物語が、西日本のツナシ身 代わり火葬の話の後裔ではないかと思われます。

 [上野国児持山之事]にはコノシロの呼び名としてサモチとコノシロの二つが登場しま す。このサモチは、コノシロの西日本の呼び名ツナシが、その呼び名を知らない東日本( 上野国)に来て、サモチという名前に変化したのではないかと思われます。また西日本の 呼び名であるツナシ(サモチ)では何の魚かわからないので、[上野国児持山之事]では 、東日本で通じるコノシロという呼び名が付け加えられたものではないかと思われます 。


2.[神道集](1350−60年頃) [神道集]
巻6−34 [上野国児持山之事]
「人皇四十代天武天皇の御宇、伊勢国度会郡(わたらいぐん)より荒人神が顕れ、上野国 群馬郡白井保に児持山大明神として垂跡した。
阿野津 の地頭で阿野権守保明という人がいた。財産には不自由は無かったが、子宝には恵まれな かった。伊勢太神宮に祈願したところ、児守明神に祈るよう示現があった。児守明神に参 詣したところ、阿野の女房は懐妊し、持統天皇七年(693年)三月に美しい姫君が生ま れた。児守明神に授かった子なので、児持御前と名づけた。
姫君が九歳の秋、母は三十七歳で亡くなった。一周忌の後、阿野保明は伊賀国鈴鹿郡(伊 勢国鈴鹿郡の誤記か?微妙なところ)の地頭・加若大夫和利の姫君を後妻に迎えた。三年 後、後妻にも妹姫が生まれた。姫君が十六歳の時、継母の弟の加若次郎和理(かわかのじ ろうかずさと)という二十一歳の若者と夫婦約束をした。
姫君が二十一歳、加若次郎が二十六歳になった三月、夫婦で伊勢太神宮に参詣した。その 途中、伊勢の国司の在間中将基成が児持御前を見て恋煩いになった。国司は加若次郎を呼 び、この国の守護職と引き替えに児持御前を差し出すよう云った。加若次郎が断ると、国 司は立腹して「阿野権守保明と加若次郎が謀叛を企んでいる」という讒言を書状にして父 関白 に送った。関白は両名を捕縛し、加若次郎は下野国の室の八嶋に流された。保明 は罪が軽いということで許された。
児持御前は尼になろうとしたが、既に身重の体であった。夫の流刑先の下野に旅立とうと した時、継母は甥にあたる上野国の目代(国司の代理)・藤原成次を訪ねるよう云った。
国司の軍勢が児持御前を奪おうと押し寄せて来た時、継母は鮃鮎(サモチ)を焼 いてその周囲で念仏を唱え、児持御前の葬式であると偽った。
児持御前と乳母の侍従局は尾張国の熱田宮に着いた。鳥居の外の小さな家に逗留し、児持 御前はそこで若君を生んだ。そして、若君を侍従局に抱かせて再び旅立った。
東山道の不破の関を越える時、藍擂(あいずり)の模様の直垂(ひたたれ)姿の武士と連 れになった。木曽でまた梶(かじ)の葉の模様の直垂姿の武士と連れになった。上野国の 国府に着くと、前の目代の藤原成次は山代庄の石下という山里に移った後だった。児持御 前と二人の武士は山代庄に行って成次と面会した。
藤原成次と二人の武士は加若次郎を救うため下野国の室の八嶋に着いた。二人の武士は神 通を使って牢番を眠らせ、牢の戸を破って加若次郎を連れ出した。宇都宮の河原崎で四十 歳ほどの武士が現れ、二人の武士と話し合った。その後、四名は山代庄に入り、加若次郎 と児持御前は再会を果たした。
二人の武士は尾張国の熱田大明神と信濃国の諏訪大明神で、河原崎で話をした武士は宇都 宮大明神だった。夫妻は神道の法として『大仲臣経最要』を授かり、神通自在の身となっ た。

児持御前は白井村の武部山に神として顕れた。因位は児持御前なので、武部山の名を児持 山と改め、児持山明神と云う。本地は如意輪観音である。
乳母の侍従局は半手木鎮守と成った。本地は文殊菩薩である。
若君は岩下の鎮守と成り、愛東宮(突東宮)と云う。本地は請観音である。
加若次郎は見付山の峠に和理大明神として顕れた。本地は十一面観音である。
阿野権守夫妻も神道の法を授かって津守大明神と成り、伊勢太神宮の荒垣の内に鎮座して いる。
伊賀国の加若の父母も神道の法を授かり、伊賀国三宮の鈴鹿大明神と成った。
尾張国熱田で産所を貸してくれた宿の女房も神道の法を授かり、鳴海の浦の鳥居明神と成 った。
児持御前の継母は阿野明神として顕れた。
藤原成次も神道の法を授かり、尻高の山代大明神と成った。
山代庄は吾が妻と再会できた地なので、地名を改めて吾妻と呼ばれる。
阿野津から尾張熱田まで馬に乗せてくれた人も神道の法を授かり、馬は岩尾山の駒形、舎 人は今至の白専馬大明神と成った。
鮃鮎を我が子の身代りに焼いて助けたので、今は鮃鮎を「子の代(コノシロ)」と呼 ぶ。

(考察)この時代、コノシロの登場する歌はまだありません(少し文の違う[上野国児持 山之事]もあるんですね。それには和歌が二首ありました)。この縁起物語の歴史上の出 来事部分は、登場人物に播磨中将・藤原成憲(後に成範と改名)の名をもじった人物「在 間中将基成」「藤原成次」が登場するなど、 平治の乱 (1159年)が土台になっているようです。

 [神道集]の約400年後の1786年当時の児持明神の祭神は大己貴命(おおなむち のみこと)ですが (註105) 、おそらくこの神社の祭神大己貴命も浅間神社の祭神木花咲耶姫と同じく、吉田神道によ って替えられたんでしょう。児持明神とは現在群馬県北群馬郡子持村中郷にある子持神社 のことでしょうか?主祭神は木花開夜姫命であり、配神に大己貴命がいます。またまた祭 神が替えられたようです。(祭神の変遷:児持明神→(以後、次のように記紀神話の神に なります)→大己貴命→木花開夜姫命)


巻8−46 [富士浅間大菩薩事]
「人皇二十二代雄略天皇(生没年未詳)の御宇(456?−479年?)、駿河国富士郡 に子供のいない老夫婦が住んでいた。
「死後、極楽往生できるよう、仏祭りをしてくれる御魂子が欲しいものだ」と嘆いている と、後ろの竹林から五〜六歳くらいの幼女が現れた。
翁の名は筒竹の翁、媼の名は加竹の媼といった。老夫婦はその子を赫野姫(かぐやひめ?) と名づけて大切に育てた。姫は国司に寵愛され、夫婦約束をする深い仲となった。
老夫婦の没後、姫は国司に「私は富士山の仙女です。老夫婦とは前世で宿縁があったので 姫となりました。その果報が尽き、あなたとの宿縁も尽きたので仙宮へ帰ります」と云っ た。
国司が悲しむと、姫は「私は富士山の山頂にいます。恋しくなったら来て下さい。また、 この箱の蓋を開けてご覧ください」と 返魂香 の箱を与えて姿を消した。
男がその箱を開けて見ると、煙の中に姫の姿が見えた。ますます姫が恋しくなった男は富 士山に登った。山頂の池から煙が立ちのぼり、その中に姫の姿が見えた。男は箱を懐に入 れて池に身を投げた。

赫野姫と国司は富士浅間大菩薩として顕れた。男躰と女躰がある。その後、富士浅間大菩 薩は衆生利益のために山頂から下りて麓の村に鎮座した。
恋に迷っている人は大菩薩に祈れば必ず願が叶えられる。ある女が男に捨てられ、富士浅 間大菩薩に参詣して

 人しれぬ−思ひはつねに−富士の根の−たえぬ煙は−わが身なりけり
と詠んだところ、すぐに男が戻って来たという。」

(考察)この縁起は、[竹取物語]を基にして作られたようです。「かぐや姫」ならぬ「 赫野姫」は富士山の仙女(富士浅間大菩薩の女躰)なので、月へ戻らずに富士山の山頂に もどります。本地仏はわかりません。


3.[浅間御本地御由来記] [浅間記][源蔵人物語]その他の別名あり。
室町(時代)物語(御伽草子)のひとつ。
書き替えられる前の順番は、4.[慈元抄](1510年)の前と思われ、書き 替えられた後の順番は4.の後と思われます。

要約:下野国の(室の八島の)五万長者の娘(元文に出て来る、後の北の御方のこと)は 、美人の誉れ高かった。都の、源の玄官公という貴族が、この娘の話を聞いてまだ見ぬ恋 をし、下野の国守となって下ってきた。一方、娘の前に月のかつら男という童子が現れ、 人となって衆生を済度するために娘の胎内を借りたいと言い、白い蛇となって娘の胸に入 る。
 着任した玄官公は早速求婚する。長者は快諾し、この話を娘に伝えてお風呂に入れよう とするが入ろうとしないので、無理やり衣を脱がすと、娘は懐妊していた。国守の嫁には できないので、長者は、娘は死んだと告げ、わたとツナシ(コノシロの西日本の呼び名) を焼いて火葬を偽装し、娘に郎党の判官太夫行春に馬をつけて勘当する。(これ は静岡県の浅間神社の縁起譚ですが、ここまでは下野国(の室の八島)を舞台とした話で す。)
 流浪して川越に来たとき、娘は山中で姫を産む。行春が産湯の水を求めて離れた時に、 下野国に望み失った玄官公が駿河の国守として赴任の途中通りかかり、母親を連れて去る 。母は形見に唐の鏡を二つに割り、一片を形見として残し、幼児を捨てて玄官公に付いて 行く。
 その後に戻ってきた行春は姫を抱き上げ、人馬の跡をたどって母親を探しにいく。途中 宿を借りた相模国足柄の四万長者に乞われるままに、足を留めること十二年。
 姫は夢のお告げによって事の次第を知り、四万長者に暇を乞い、行春と共に母を尋ねて 再び旅に出る。行春は、途中姫を奪おうとする 清見が関 のじゃけん長者達を酒に酔わせ、姫を連れて逃げる。追い付いてきた悪党どもを行春は命 を賭けて防ぎ、姫を逃がす。姫がかろうじて逃げ込んだところが駿河の国守となった玄官 公の家で、めでたく母と対面する。 後に玄官公は駿河の惣社大明神、母(元文の北の御方) は木の花咲くや姫として富士山の浅間大菩薩(この箇所の正確な表現は下記「抜粋」 参照)、姫は山宮の神、ほか、四万長者・五万長者・行春もそれぞれ神となった という。

(要約文の出典)とちぎの小さな文化シリーズB[ふるさとの散歩道−栃木ゆかりの文学 を訪ねて](とちぎの小さな文化シリーズ企画編集会議〔編〕、下野新聞社、2002年 )中の「中世の語り部の根拠地室の八島」の章、細矢藤策(国学院大学栃木短期大学講師 )担当

原文からの抜書き:
「高き所に、高さ壱丈はかりにわたをつみたて、つなしと申魚を入レ、火を付、焼上げよ と申付、長者は国主へ出給ふ
 ・・・・・・
<鳥辺野の、けむりともなれ、たのみつる、わかこのしろに、つなし焼く らむ>
 ・・・・・・
 本より弥陀の御本願地、しやうふつあるこそ、ありかたけれ、一門けんそくまて神とな り、衆生を守らんとの、御ちかひにて、大夫殿の三月三日に御祭り、これは三月会と申。
国主は惣社大明神となり、北の御方は、浅間大菩薩とあらわれ給ふ、これ此花さくや 姫の、御ゑんきとかや、姫君は山宮の神と也、毎年四月の初申、九月十五日、十一月 の初申、惣して壱年に、四十五度の御祭り。」

(考察)[−御本地御由来記]という題名にもかかわらず、前の2.[神道集]巻6−3 4 [上野国児持山之事]にあるような本地に関する記述がありません(そんなバ カな!垂迹神・浅間大菩薩に対する本地仏は、大日如来か千手観音のはずです)

 また何の前触れもなく『これ此花さくや姫の、御ゑんきとかや』が挿入されています (えっ垂迹神・浅間大菩薩の名が出てきたと言うことは、此花さくや姫が本地仏 であると言うことなの?この部分の表現は、筆者には全く理解できません)

 これより、本地垂迹時代に作られた本来の[浅間御本地御由来記]が後に、記紀神話を 信奉する反本地垂迹思想により、論理を無視して無茶苦茶に書き換えられたことが分かり ます(なお『本より弥陀の御本願地』とあるところを見ると、仏教色を完全に排 除した訳ではなさそうです)
 これから「元本宗源神道」を打ち出した吉田神道によって浅間神社の祭神が木花咲耶姫 に替えられ、[浅間御本地御由来記」はその後に書き換えられたことが推測されます。そ して吉田神道が作った浅間神社の縁起物語は、この書き換えられた後の[浅間御本地御由 来記]のような内容だったことが推測されます。

 [浅間御本地御由来記]の段階に来てコノシロの歌が作られるようになりますが、まだ [慈元抄]にある話のように、コノシロを焼く煙が室の八島の煙に関連付けられてはおり ません。このことから、書き換えられる前の[浅間御本地御由来記]が、[慈元抄](1 510年)にある話より前に作られたことが考えられます。


4.[慈元抄](1510年)
  → [慈元抄]
  6.[(林)羅山詩集]癸巳日光紀行のところで解説する。


5.[下野風土記](1688年編著)
 編著者未詳
ここに採録されている話が、既に[本朝地理志略](1643年)にも採録され ているようなので、[下野風土記]の順番を6.[(林)羅山詩集]癸巳日光紀行(16 53年旅)より前にもってきています。またここに採録されている話の作成年は、書き換 えられた後の[浅間御本地御由来記]より後と考えられます。ということで[下野風土記 ]の順番を5としています。

「室八島 : 都賀郡壬生 【地図】 より一里半西へ去る(一里は2kmか?)
伝へて云う、いつのころにてやありけん、此の所に長者あり、一人の息女を持つ 。其の名をこの花さくや姫という。世に並びなき美人なり。其の頃、都より公卿一人、此 の所へ流されける。此の人、琵琶・琴の上手なりければ、此のさくや姫の師となし、琵琶 ・琴を習はせけるが、後に密通してこの姫懐胎となる。さるに依りて、此の公卿をも追い 出しける。其の頃、都より国司来て、此の姫を長者に乞いけれども、懐胎の身なれば、与 うべきやうなく、遠き所に隠し、国司へは、この姫死にたりとて、葬礼のまねをなし、棺 の内へ鮗(このしろ)と韮(にら)とを入れて火葬にす。世に云えるは、鮗と韮を合わせ 焼く時は、人を焼く匂いにたがわずと云う。この心を歌に、
 <下野や室の八島に立つ煙我がこのしろにつなし焼くなり>
古は鮗をつなしといえるを、此の歌よりしてこのしろというといえり。我がこのしろとは 、我が子の代という心なりと。またある説には、韮をつなしというといえり。其の心にし ての歌には、
 <下野や室の八島に立つ煙は只このしろとつなし焼くなり>
さてさくや姫は程なく男子を産みたまう。此の御子、室の八嶋の神となりたまう (註106) と。八つの嶋の内に琵琶嶋・琴嶋と云う有りと、是れは御父母のもてあそび給え る故なりと。御母さくや姫は駿河国の富士山の神となりたまうと。さるに依りて、富士へ 参詣せん人は、まず室の八嶋へ参り、此の島の竹の葉を取り持ちて富士へ登る時は、山に て何のさはりなしと。此の神の生土(うぶすな)、または御子の神の住みたまへる所なれ ばなり。・・・(この後、林羅山の[神社考記]を引用するなどして、この伝説に対する 著者の考察が続く)・・・室の八島より富士山の神出たまうと云う事世人皆云える事 なり。また富士へ参るもこの島より竹の葉を持つという事、道春(どうしゅん)の説 (註107) にゆかりあり。・・・」 (全文)

(考察1)伝説・言い伝えなどというと、いつのころか誰言うともなく話が生まれて、そ れが広まったものと考えがちですが、それらの殆どはそうではないでしょう。誰かがある 目的を持って話を作り広めたものでしょう。この[下野風土記]にあるこの話も、『伝え て云う』などと書き出していますが、これは神社が作ったその神社の縁起物語でしょう。

 [浅間御本地御由来記]から以前の縁起物語は、本地垂迹思想によって書かれていまし たが、[下野風土記](1688年編著)に来て初めて、反本地垂迹思想によって書かれ た神社の縁起物語が登場します。これ以前に木花咲耶姫の登場しない本地垂迹思想で書か れた下野惣社の縁起物語が存在したかどうかは知りませんが、[下野風土記]の木花咲耶 姫の登場するこの縁起物語は吉田神道によって作られたものでしょう。

 この縁起物語段階では、室の八島の煙はまだコノシロを焼く煙であって、[奥の細道] で曾良が説明しているように燃える無戸室から立ち昇る煙にこじつけられるのは、もっと 後のことと思われます。

(参考)[本朝地理志略](1643年)
 林羅山(1583−1657年) 著
東山道八箇国 下野国
「室八嶋、池中有2八嶋1、祭2八神1、世伝昔此州富人、有レ故於2庭池辺1積レ薪焼レ魚、故 歌人執レ之、以為2故事1」
(拙訳)室の八島は池の中に八つの島があり、それぞれに神を祭ってある。伝説によれば むかしこの国の長者がわけあって庭のこの池のほとりに薪を積んで魚を焼いた。この故事 からこの池が歌に詠まれるようになった。
(比較) [(林)羅山詩集] 室の八島の詩ならびに序(1636年)

(考察)この内容は、[下野風土記]に採録された上記の話が基になっているんでしょう 。これより[下野風土記](1688年編著)に採録された話は、「本朝地理志略」(1 643年)以前に作られたものであると推測されます。

(考察2)浅間神社の祭神は江戸時代が始まる頃に、木花咲耶姫に替えられましたが、そ れに伴って浅間神社の縁起物語も当然木花咲耶姫の登場するものに替えられました。そし てその内容は現存する[浅間御本地御由来記](室町時代に作られた[浅間御本地御由来 記]が、浅間神社の祭神が木花咲耶姫に替えられてから、一部書き換えられたものと考え られます)のような内容だったと考えられます。
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 浅間神社の縁起物語の最初の部分は、下野国が舞台になっています。そこで、それなら 下野国内にも同じ物語が存在しないと辻褄が合わないと考えられたのでしょう。[下野風 土記]にある下野惣社の縁起物語は、そういう理由で作られたものと考えられます。その ため木花咲耶姫の下野国時代の話が中心となっています。下野惣社の祭神である木花咲耶 姫の御子も、浅間神社の祭神が木花咲耶姫に替えられるのと同時期に替えられたのでしょ う。

 ところで『富士へ参るもこの島より竹の葉を持つという事、道春にゆかりあり。』、す なわち[神道集](1350−60年頃)巻8−46「富士浅間大菩薩の事」から派生し たという見方は的確で、筆者も同感です。当時の浅間神社の縁起は[浅間御本地御由来記 ]ばかりでなく、多分に「富士浅間大菩薩の事」をも参考にして作られていたんでしょう 。



6.[(林)羅山詩集]癸巳日光紀行 (1653年旅)
(考察) [慈元抄](1510年) の話は、[(林)羅山詩集]の[癸巳(みずのとのみ、きし)日光紀行](1653年旅 、下記)に『幸手の辺半里ばかり鷲の宮有り』とある鷲の宮の縁起物語が基になっている のでしょうか?同紀行によれば『有間王子良岑安世ここに来て神と為す云々、その本地釈 迦也云々』という本地垂迹時代の縁起物語が、この神社にあったようです。その縁起物語 とは、下野国の室の八島から有間王子が武蔵国の鷲の宮にやってきて、鷲の宮の神になっ た、その本地は云々という話でしょうか?そして[慈元抄]の話は、その一部分だけを取 り出して人生訓(?)にしたものでしょうか?

[(林)羅山詩集]、巻第六 紀行六「癸巳日光紀行」(1653年旅、1653年は十 干十二支(干支)の癸巳(みずのとのみ、きし)の年)
「幸手の辺半里ばかり 鷲の宮 有り、古来の霊社なり、われその名を聞きその社主を知るといえども、路の迂(う?、「 遠い」という意味なんだろうけど[広辞苑]になし)なるをもっての故に往かず、焉(こ こに?)われかつてその縁起を見るに十巻ばかり云ること有り、 有間王子良岑安世 (よしみねのやすよ)ここに来て神と為す云々、その本地釈迦也云々、室の八州の事ここ に起こる、かつ富士山の神、奥津の神(どこの神なのか調べてもわかりませんで した)、その余(ほか)処処この神と同体云々、あにただこれのみならんや、諸 方の神縁比比皆しかり、奚ぞ(いずくんぞ、なんぞ)もって論ずる足らん哉(後略)」 (なお、鷲宮神社にも(林)羅山詩集より古い史料は残っていない由)

(考察)『有間王子良岑安世ここに来て神と為す云々、その本地釈迦也云々』は、本地垂 迹時代のこの神社の縁起物語の話と思われます(この縁起物語は[神道集]にある縁起譚 とは内容が明らかに異なるので (註110) 、[室町時代物語集]時代の縁起譚と思われる)。

しかし、『室の八州の事ここに起こる、かつ富士山の神、奥津の神、その余処処この神と 同体云々」は、その後に作られた縁起・由緒の話と思われます。そして富士山の神と「同 体』(註111) であったという当時のこの神社の神は、有間王子良岑安世から木花咲耶姫に替わっていた のでしょう。富士山の神は、1600年前後の頃から木花咲耶姫でしたから。 [集雲和尚遺稿]

また、ここに引用するのを省略してしまいましたが、『(有間)王子野州長者の娘を携え 夜川を渉る』は、前の祭神・有間王子から今の祭神・木花咲耶姫(=野州長者の娘)に替 わる経緯を説明している、祭神・木花咲耶姫時代に作られた縁起物語の一文と思われます。
そしてこの文の後に「この野州長者の娘が鷲宮神社の現在の祭神・木花咲耶姫である」と いう話に続いていくものと思われます。

 以上のことから、この神社の祭神が次のように変遷したことが分かります。

垂迹神 : 鷲大明神([神道集](1352−60年頃)時代、本地仏は不明)

垂迹神 : 鷲大明神(有間王子即ち良岑安世がここへ来て神となる。室町時代
      か?本地仏は釈迦)

記紀神話の神 : 木花咲耶姫(1653年のちょっと前に替わったか?これ以降
         本地仏は存在せず)

記紀神話の神 : 天穂日命や武夷鳥命など(1680−90年ころに替わった
         か?)
↓ (下の註)
・・・

記紀神話の神 : 現在の天穂日命、武夷鳥命、大己貴命

(註)これ以降の鷲宮神社の祭神の変遷については
 駒沢史学76号(2011)〔研究ノート〕「鷲宮神社の祭神 ―近世における祭神変容の一 事例―」池尻 篤(インターネットHP(PDF)有り)参照

ところで、鷲宮神社の祭神はいつ頃から木花咲耶姫に替わったんだろう。浅間神社の祭神 が木花咲耶姫に替わった1600年頃から林羅山の[癸巳日光紀行](1653年旅)ま での間ということになるが、[癸巳日光紀行](1653年旅)時に、まだ木花咲耶姫の 前の祭神(有間王子良岑安世が神となる)時代の縁起に関する書類が残っていて、どうや ったのか知らないが、部外者の林羅山が参照できたことを考えると、1653年に近い時 期か?

『室の八州の事ここに起こる』 (註115) とは、『室の八島より富士山の神出たまうと云う事世人皆云える事なり。』(前出[下野 風土記])に対して、富士山の神が出た室の八島とは鷲の宮のことであると主張している ようです。そして、その根拠を祭神良岑安世時代の鷲の宮の縁起(仮に[慈元抄]の話を 鷲の宮の縁起としておきます)にとっているようです。[慈元抄]の話には、室の八島の 歌が突然出てきていますが、鷲の宮の神官達は、自社の縁起譚とは言え、かなり前に作ら れたものなので、そこに登場する室の八島を鷲の宮のことと誤解したんでしょう (室の八島などという大昔の名所の場所は当時よくわかっていなかったんでしょう) 。実はこの室の八島とは、有馬王子が下野国からやってきたその場所の名前なん ですが。そしてこの誤解と、世によく言う「室の八島より富士山の神が出た」が結びつい て、『室の八州の事ここに起こる』、即ち当時木花咲耶姫を祭神としていた「鷲宮神社か ら富士山の神である木花咲耶姫が出たのである」となったものと思われます。

 現在、栃木市の太平山神社の境内社の浅間神社に、「当社が全国浅間神社の本社である」 という、いつ掛けられたか当の神社も知らない古い案内礼が掛かっているようですが、既 に江戸時代初期に同様の主張をする神社(鷲宮神社)が存在したわけです。なお江戸時代 の癸生村(現在の栃木市大塚町内)の浅間神社なども下野惣社に対抗して「富士山の神・ 木花咲耶姫が故郷の室の八島にいた時に当社が助けてあげたんだ」と 主張していた ようです。


7.[奥の細道](1689年旅)
  → [奥の細道]


8.[日本鹿子](日本賀濃子)(1691年刊)
 磯貝舟也 著
「室八嶋大明神 : 惣社村ニ立。社領五十石。 別当神宮寺 。社人十二人あり。当社ハ富士浅間の御親神也ト云。
 俗に浅間の御身かはりにこのしろの魚をのべおくりしてやきたるといふも此所也。今に そのやきたる跡に草木はへず、そのしるしありと云伝る也。」

(考察)[日本鹿子]編集当時の室八嶋大明神の祭神は、富士浅間の祭神と同じ木花咲耶 姫か、その前身の木花咲耶姫の御子なので、上記の『当社ハ富士浅間の御親神也』の意味 は、「室八嶋大明神の祭神は富士浅間の祭神木花咲耶姫の親神である大山祇(おおやまつ み)である」ということではなく、「当社は浅間神社の親神社である」の意味でしょう。

 『俗に浅間の御身かはりにこのしろの魚をのべおくりしてやきたるといふ』は、下野惣 社の縁起が世間に伝わっていたとは考えにくいので、これは浅間神社の縁起が世間一般に 伝わっていたものと考えられます。

 このしろが御身かはりになる浅間とは、前記の[浅間御本地御由来記]と「下野風土記 」を見れば、これが木花咲耶姫であることがわかります。

 『−といふも此所也。』から、浅間神社にも下野惣社にも、このしろ身代わり 火葬の話が出てくる共通の縁起譚が存在したものと思われます。そしてそのうちの浅間神 社側の縁起譚が[浅間御本地御由来記]、下野惣社側の縁起譚が[下野風土記]にある話 であると思われます。

なお、「1.夜明山朝日寺の伝説」によれば、『今にそのやきたる跡に草木はへず、その しるしありと云伝る也。』こういう場所を「不毛霊地」と言うようです。現在の大神神社 には在りませんが、室八島大明神時代には「不毛霊地」が在ったようですね。


「下野惣社の縁起物語の系譜」あとがき
[日本鹿子]のこの文は、筆者の持っていた講談社学術文庫「おくのほそ道 全訳注」( 1980年)に引用されており、曾良が何を話したのかを解くキーとして、最初に目にし 、かつ最も参考になった文です。この文を睨んでいたらいろんなことが見えてきました。

 実は、最初[日本鹿子]だけを基にして、それから推理すると、それを裏付ける史料が 後から見つかり、またそれらから推理すると、それを裏付ける史料がまた見つかるという 次第で、このWSに掲載した史料を総合して室の八島の段を解読したということではなく 、このWSに掲載した史料によって筆者の推理の正しさが裏付けられたと考えています (註116)
ただし、推理したのは、下野惣社の由緒書きは誰が、どういう意図を持って作ったのかで 、それらは下野惣社の由緒書きをでっち上げた連中がひた隠しにしていることですから、 筆者の推理が正しいか否か確認のしようがありません。ただ推理するのみです。

 なお[奥の細道]とほぼ同時代に書かれたこの[日本鹿子]以降も下野惣社の縁起に関 する史料は出てきますが、時代が下れば下るほど内容が変わってきてしまいますので、曾 良の話を解読するための参考資料としては使えません。使える史料は[奥の細道]と同 時代のこの史料までです。(そういうことをよく理解して史料を解析することが 非常に重要なんです。)


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