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第4章 近世室の八島 の備考

下野惣社 惣社
(1)[延喜式](967年施行)
 この[延喜式]の「神名帳」(じんみょうちょう)には、惣社と名の付く神社 は無さそうです。

(考察)ところで [神道史大辞典] によれば、[延喜式神名帳]にある神の大半は「その 地名を冠した土地神的な神名で」あるということです 。また[延喜式神名帳]は神名帳であって神社名帳ではありません。

と言うことは、[神道史大辞典]では、例えば[延喜式神名帳]に栃木神社とあれば、そ れは神名を栃木神(=その地名を冠した土地神的な神名という、 栃木という土地の神を祭った「栃木神の社」を意味すると言っています。そういうことな ら神社名のところに祭神名を付記する必要はありません。ところで今は、祭神が 誰であるか、そんなの関係ねえという神社が多いのではないでしょうか?特に記紀神話の 神を祭神とする神社で。

(2)[時範記](ときのりき、じはんき)(1099年)
 平時範 著
 惣社(総社)の史料上の初見は、この[時範記]の康和元年(1099年)二月十五日 の条の「因幡国総社」のようです。

(考察)と言うことは、惣社が全国で初めて作られるのは[延喜式](967年施行)よ り後のことでしょうか?

(3)清滝寺(せいりゅうじ、きよたきじ、きよたきでら)の大般若経(1178年)
 現日光市の清滝寺
【地図】 所蔵の大般若経の奥書に、治承二年(1178年)六月二十一日「野 州惣社」でこれを書き写したとあるようです。

(考察) この『野州惣社』は、土地のことではなく神社のことでしょう。

(4) [小山朝政譲状] (1230年)
「 ・・・
  国府郡内
   日向野郷 菅田郷 蕗嶋郷
   古国府 大光寺 国分寺敷地
   惣社敷地同惣社野(=/+)荒居 宮目社
   大塚野
  ・・・」

(考察)この史料を見ると、下野惣社がかなり広い社領を有しており、かつその社領がこ の頃には小山氏の所領になっていたことがわかります。

 また『宮目社』とは、現在下野国庁跡に建てられている宮野辺神社のことでしょうか? この史料を見ると、この神社も大きな神社だったようです。また宮野辺神社が下野国庁跡 に建てられているところをみると、何かいわくがありそうです。それと[延喜式神名帳] に武蔵国 埼玉郡鎮座 宮目神社 とありますが、宮目社はこの神社と関係あるんでしょうか?

(5)[小山高朝寄進状](阿房神社文書)(1540年)
 「当国国府郡惣社郷之内ニ貫文之所」

(考察)惣社が土地の名前になってます。
この頃までには下野国庁は現小山市に移転してしまったので、この土地は下野国府でなく なっていましたが、下野総社は相変わらず元の位置に残っていたので、土地の名前が国府 から総社郷に変わったことが分かります。
また、下野国庁が現小山市に移った後も、総社の有った場所が「国府郡」なので、現小山 市も栃木市も「国府郡」に含まれたことが推測されます。

この頃肝心の神社の方はどうなっていたんでしょう?この史料からでは分かりません。

(6)[慶安郷帳](慶安:1648−1652年)
 田村、惣社村、大宮村、国府村、大光寺村、寄居村、大塚村、etc.

(考察)そして江戸時代初期に惣社大明神という神社が存在したことを考えると、下野惣 社は平安時代以来存続し続けたものと思われ、惣社大明神が下野惣社の後裔と思われます 。この惣社大明神(室の八島大明神とも)は、明治時代になって次の大神神社に替えられ ました。

次の大神神社へ続く

大神神社(おおみわじんじゃ) 【地図】
   栃木県栃木市惣社町477
・祭神
主神:倭大物主櫛みか玉命(やまとオオモノヌシくしみかたまのみこと)
配神:大山祇命(おおやまつみのみこと)
   瓊々杵命(ににぎのみこと)
   木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
   火遠理命(ほ おりのみこと)
   彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと)
・御神体:故荒川真澄宮司によれば日光の男体山である由。 (祭神と御神体)

(考察)本来は上記 下野国の惣社(総社) であったと推測されます。江戸時代の名称は惣社大明神・室の八島(の)大明神・あるい はそれらに類するもの、主祭神は記紀神話に登場する木花咲(開)耶姫(このはな(の) さくやひめ)で、松尾芭蕉が、この神社を歌枕の室の八島であるとして[奥の細道]の旅 の最初に訪れています。

 この神社は明治時代の国家神道になって、[延喜式神名帳]にある、すなわち式内社で ある下記 大神社 (ルビ:オホムワ)に代えられました。というより、ちょっとニュアンスが違って、明治 政府の神道政策(近代社格制度の導入など)に対応するために、この神社が自ら式内社の 大神神社であると主張し、それが政府に認められたフシがあります(式内社であ ると認められると、国の待遇が良くなるんだと思います)。大神神社と称するの は、漢字の大神社(読むとすれば「オホノ(おおの)じんじゃ」となるそうです)の方で なく、ルビの「オホムワ」の方を採用したものと思われます。また、大神神社は、同じく [延喜式神名帳]にある大和国の 大神大物主神社 (おおみわおおものぬし−)の分霊を奉祀し建立されたものである、ということなんでし ょうか?同時に主神も木花咲耶姫命から大物主命(倭大物主櫛みか玉命)に代えられまし た。しかし配神は全て、大神神社と関係ない、元の室の八島大明神(惣社大明神)時代の 神々です。神社のやることはメチャクチャですね。 (神社名・祭神の変遷)

 また境内には、八つの小島のある小さな池があって、それらの島に香取神社、二荒山神 社、熊野神社、浅間神社、雷電神社、鹿島神社、天満宮、筑波神社の八小祠があり、神社 ではこの池を(通説)室の八島であると案内しています。芭蕉らが訪れた当時の大きな池 にも小祠は祭られていたと考えられますが、これらの八小祠と一致していたわけではあり ません。 (小祠の変遷)

 なお、2004年(?)に荒川宮司が亡くなられてから、太平山神社(おおひらさんじ んじゃ)の宮司が兼務するようになり、神社が無人となったようです。それで寂れてしま わないか心配していたところですが、2005年12月14日に、原因は知りませんが社 務所が焼失してしまったようです。

次の神社名・祭神・小祠の変遷へ続く

神社名・祭神・小祠の変遷
(1)神社名・祭神の変遷
       上記 下野惣社 参考

1)[下野風土記](1688年編著)
神社名:−
祭神:木花咲耶姫の御子(彦火々出見尊か?)

(註)[下野風土記]に登場するこの神社には、まだ社殿は再建されておらず、室の八 島の池が神社でした。

(考察)木花咲耶姫が記紀神話の神なので、木花咲耶姫の御子がこの神社の神になったの は、吉田神道に替えられたものです。そして、木花咲耶姫の御子に替えられた時期は、1 600年代前半か?中頃と思われます。
神社名は、おそらく惣社大明神、別名室の八島大明神だったと思われます。
但し、これらは本来は神様の名前です。おそらく木花咲耶姫の御子に替わる前のこの神社 の祭神が、本地垂迹思想に基づく惣社大明神、別名室の八島大明神だったんだろうと思わ れます。そのころは神社名と祭神名は同じだったんだろうと思われます。

2)[奥の細道](1689年旅)
神社名:−
祭神:木花咲耶姫

(考察)[奥の細道]に登場する彦火々出見尊は、当時相殿(あいどの)の神だったんで しょうか?

3)[下野国誌](1850年刊)
神社名:総社六所大明神
主神:木花開耶媛ノ命
相殿:天照大御神、天ノ忍穂耳ノ尊(天照大御神の子で、爾爾芸ノ尊の父) 、日子番能爾爾芸ノ尊(木花開耶媛ノ命の夫)、日子穂穂手見 ノ尊(木花開耶媛ノ命の子)、大山祇ノ命(木花開耶媛ノ命の父 )

(考察)これらの相殿のうち、木花開耶媛ノ命の無戸室神話の主な登場人物でないのは天 照大御神と天ノ忍穂耳ノ尊です。これらの神は[奥の細道]の時代からこの神社の祭神だ ったんでしょうか?
 記紀神話では無戸室で三神がうまれたことになっていますが、この神社にはその内の日 子穂穂手見ノ尊しか祭られていません。この神社にとって日子穂穂手見ノ尊は特別な神の ようです。ということは日子穂穂手見ノ尊は[下野風土記]に登場する当時のこの神社の 祭神「木花咲耶姫の御子」だった可能性があります。日子穂穂手見ノ尊は[奥の細道]の 時代から相殿だったんでしょうか?

−明治維新(1868年)−

4)[宇都宮四近町村略志](1892年)
神社名:総社明神
主神と相殿は3)と同じ。

(考察)この神社は、この4)と次の5)との間の時期(1890−1900年)に違う 神社に替えられたようです。

5)[下野神社沿革誌](1902−03年)
神社名:大神神社(おおみわじんじゃ)
主神:大物主櫛みか玉命(大物主の命)
 相殿:天津彦火々瓊々杵命、大山祇命、彦火火出見命、木花咲耶姫命
新宮:天照皇大御神
 相殿:正哉吾勝速日天忍穂耳命

(考察)明治時代の1900年頃になると、神社が大神神社に替わり、主神も大物主櫛み か玉命に替わって、木花咲耶姫命は相殿の地位に落とされます。また天照大神の祭られて いた場所が、相殿から新宮に移ったようです。天忍穂耳命が天照皇大御神の新宮に祭られ ているところを見ると、天忍穂耳命は木花咲耶姫命との繋がりではなく、天照皇大御神と の繋がりでこの神社に来たようです。

−神社合祀令(1906年)−

6)[明治神社誌料](1912年)
神社名:大神神社
主神:大物主櫛みか玉命
配神:彦穂瓊々杵命、彦火々出見命、木花開耶姫命、大山祇命、倉稲魂命、伊弉諾命 、伊弉冉命

(考察)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とは[室八島山諸書類調控帳](1838年) に出てくる竹生島神のことか?
 天照大神がいなくなります。神社合祀令(1906年)と関係あるんでしょうか?

−太平洋戦争終結(1945年)−

7)2006年現在の大神神社
神社名:大神神社
主神:倭大物主櫛みか玉命
配祀:大山祇神、瓊瓊杵尊、木花開耶姫命、彦火火出見尊、火遠理命

8)2010−2014年頃
配祀:大山祇神、瓊瓊杵尊、木花開耶姫命、彦火火出見尊、天照大御神

(考察)火遠理命が消え、天照大御神が復活しました。火遠理命と彦火火出見尊とは同一 神ですからね。

短期間にこれだけ祭神が替えられました。明治時代の国家神道になって以降、いかに神社 が時の権力によってもてあそばれたかがよくわかります。

9)まとめ
・中世=本地垂迹の時代
  祭神 :本地垂迹の神(室の八島大明神・惣社大明神)
  神社名:祭神名と同じ。
・近世=吉田神道の支配下時代
  祭神 :記紀神話の神に替えられる。(彦火火出見尊、木花咲耶姫)
  神社名:本地垂迹時代と変わらず。
(単純に考えれば、祭神が替わればその神の社(=神社)に替わらなければおか しいのだが。彦火火出見尊神社、木花咲耶姫神社などと。)
・近代=国家神道時代
  違う神社に替えられる。
  主祭神:倭大物主櫛みか玉命
  神社名:大神神社
・戦後=国家神道時代と変わらず。
国家神道時代が終わったというのに、国家神道時代のままというのは間違いである。中 世の神社に戻すべきである。

(2)室の八島の池の小祠の変遷
1)[(林)羅山詩集]室の八島の詩ならびに序(1636年旅)
「日光の神、富士の神等の八神」

2)[下野風土記](1688年編著)
「社の右に八島と云う所有り。島八つ有りて、嶋毎に祠有り。」
 八つの島それぞれに小祠が祭られていたことは記載されているが、神の記載無し。

3)[室八島山諸書類調控帳](1838年)
日光権現宮弁天宮、天照大神宮、冨士浅間宮、鹿島大神宮、熊野三社 宮、天神宮、筑波権現、門神二社

(考察)これらはいずれも小祠ですが、これらが池に祭られていたか否かは記載がありま せん。これは1719年の記録ということになっていますが、年号がどれだけ信用できるの か悩ましいところです。これらの小祠の中で日光権現宮以外は下野国外の神社であり、こ れらの小祠の中にこの神社が下野惣社であった時代の名残は見受けられません。いつ頃か らこれらの神社が祭られるようになったんでしょう。

−明治維新(1868年)−

4)[大日本博覧図 栃木県之部](1890年刊)
「室之八嶋大神社之図」
浅間神社・ 雷神社 ・筑波神社・二荒山神社 香取神社・鹿島神社・熊野神社・天満宮

(考察)池以外の場所では、銅鳥居の外の参道両脇に見目神社と聞目(耳?)神社があり 、少し離れて大杉神社の小祠が描かれています。見目神社と聞目(耳?)神社は、位置的 に[室八島山諸書類調控帳]にある「門神二社」ではないかと思われます。

−太平洋戦争終結(1945年)−

5)2006年現在の池の小祠
[大日本博覧図 栃木県之部]の池に同じ。香取神社−二荒山神社−熊野神社−浅間神社 −雷電神社−鹿島神社−天満宮−筑波神社 の順。

次の大神社へ続く

大神社(ルビ:おほむわ)
(1)[延喜式](905年編纂開始−927年奏進−967年施行)の[神名帳]
「都賀郡 3座 並小
    大神社(於保武和)、大前神社、村檜神社」

(考察)これ以後江戸時代中期に至るまで大神社に関する情報なし。

(2)[和漢三才図会](1712年)
「大平大権現
・・・・・・
神名帳に都賀郡に大神社有り、これか。」

(3)1700年代前半
 徳川幕府により式内社の現存社への比定が実施される([日本輿地通志]編纂)。

(4)1759年(1751年?)
[下野国誌](1850年)
「太平(オホヒラ)大権現
・・・・・・
さて当社の社務青木対馬が家記に、宝暦九(元?)年(1759年(1751年))神社 御取調の時、太平山旧号大神社、祭神天孫尊(ニニギノミコトのこと?)、相殿天 照太神、豊受太神と、書上たるよし記し置たり」([下野国誌]については(7 )も参照)

(考察)太平山神社が式内社大神社の後裔ですって、こんな後世の話は当てになりません 。この(幕府による?)式内社の調査の際、下野惣社はどう回答したんでしょう?おそら く下野惣社も大神社の後裔であると回答したんでしょう。 (参考 「室八嶋一宮」の石仏有り) そうして大神社を巡って太平大権現と下野惣社が争った結果、次に取り上げる答問雑稿( 1802−1822年頃)の『結城と壬生の中ほどなる大神神社』や、[下野国誌](18 50年)の『大神社・・・惣社明神の相殿に祀りてあり』へと繋がったのかもしれません 。

(5) [答問雑稿](180 2−1822年頃)
「・・・結城と壬生の中ほどなる大神神社の森のうちに、・・・」

(考察)この大神神社とは下野惣社のこと。しかし、この神社は当時惣社大明神、室の八 島大明神などと呼ばれていて、まだ大神神社とは呼ばれていなかったはずです。後世書き 換えられたものか?それとも一部の学者の間にそういう説が存在したのか?その辺よく調 べる必要がありそうです。

(6)[奥細道洗心抄](1826)
「室ノ八島大明神と号す。
・・・・・・
この社ノのきに大神神社と石標をたてたれば、三輪の神(大和国大神大物忌ノ神社)と同 体にして大己貴命を祭れるなるべし。」

(7)[下野国誌](1850年)
「大神社(オホミワノヤシロ)
鎮座詳ならず、今都賀郡国府の惣社明神の相殿に祀りてあり、一説に同郡太平山に鎮ま りいますぞ、大神社なると云、」
  *この後は近代の史料に続く。 (→)

次の大神大物主神社へ続く

大神大物主神社
今の奈良県桜井市三輪の大神神社(三輪明神)
        ということになっています。
・祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
 配祀 大己貴神(おおなむちのかみ)
    少彦名神(すくなひこなのかみ)
・御神体 三輪山
 つまり 大神(おおみわ)の神(みわ)とは、三輪山の三輪(みわ)から来たものである ということです。

(参考)下野国の三和神社
(1)[続日本後紀]の838年
「下野国那須郡三和神預之官社。」

(2)[三代実録]
880年「授下野国従五位下三和神正五位上。」
885年「授下野国正五位上三和神従四位下。」

(考察)この[三代実録]の三和神を栃木市の大神神社であるとする説があるようですが 、ホントかね?

(3)[延喜式](927年成立)
[延喜式神名帳]に記載の下野国の式内社
都賀郡 3座 並小
    大神社、大前神社、村檜神社
那須郡 3座 並小
    健武山神社、温泉神社、三和神社

(4)現在の三和神社
栃木県那須郡那珂川町三輪726
祭神 大物主命
沿革
838年下野国那須郡三和神官社に預かる。[続日本後紀]
880年下野国従五位下三和神、正五位上を授けられる。[三代実録]
885年下野国正五位上三和神、従四位下を授けられる。[三代実録]
905年延喜式神名帳に選載され式内社となる。[延喜式〕

(考察)祭神の大物主命はいつ、どういう経緯で祭られるようになったんでしょう?

(註0) 話がややこしくなるので、いい加減なことを書きましたが、実は、これは元の大きな池に 当てはまる話で、現在の小さな池には当てはまりません。
と言うのは、現在の池は室の八島のミニチュアを作ろうとして作られたものではなく、元 の大きな池の水が涸れ、池を壊すにあたって、小祠を存続させるために、もとの 大きな池のミニチュアを作ったものなんです。


第1節 その1 八つの小島のある池 の備考
壬生(みぶ)
今の栃木県下都賀郡壬生町 【地図】

一里
この一里は、約2kmとすると辻褄が合いますね。

堂宇(どうう)
四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物。
金堂、本堂、講堂、法堂などの仏教寺院の仏堂や、神仏習合により堂内に明神や権現を祀る 鎮守堂など。

巫覡・浮屠
巫覡(きね、ふげき):神に仕える人。神官や巫女。
浮屠(ふと):僧侶

羽林(うりん)
公家の家格のひとつ

靄気(あいき)
靄(もや)

(註2) 藤原実方(958?−998年)の
 いかでかは−思ひありとも−知らすべき−室の八島の−煙ならでは
の歌のことを言っているものと思われますが、この歌の詞書に「人にはじめて」、すなわ ち「実方が思ふその女性に初めて歌を送る」とあり、995年藤原実方が「東州を経歴」 して陸奥に下向する時ではなく、その前に、都で詠んだものと思われます。

朝熊
「あさま」と読んで浅間山のことでしょうか?

一絶(いちぜつ)
一つの絶句(ぜっく)。
絶句 : 漢詩の形式の一つ。起・承・転・結の四句から成る。一句五字の五言絶句と、 七字の七言絶句とがある。
ここにある絶句は七言絶句。

金崎(かなさき)
今の栃木市西方町金崎 【地図】

合戦場(かっせんば)
今の栃木市都賀町合戦場 【地図】

一里三十町
この場合の一里は約2kmでなく、約4kmとすると辻褄が合いますね。

惣社大明神
現在は、大神神社(おおみわじんじゃ、栃木市惣社町477) 【地図】

平柳(ひらやなぎ)
今の栃木市平柳町 【地図】

橡木(とちぎ)
今の栃木市 【地図】 と言うか、当時、平柳と橡木とは別の村だったんですね。

「栃」の字は明治時代に作られた国字で、江戸時代には「杤」などとも書きました。
これは トチ=10(トウ)のチ=10個の千=万 という駄洒落から「杤」のトチという 字が生まれたものと思われます。

 それを明治時代に、なんで厂に万の旁(つくり)に替えたんでしょう? 漢和辞典を調べても、厂に万の字は有りませんでしたが、氏iライ、レイ、といし(砥石 ))という字はありました。木偏でなく石偏なら、砺(レイ、レ、とぐ(砥ぐ、研ぐ な どと同じような意味なんでしょう))という字がありますね。砺波平野。

 栃木の栃は、おそらくこれらに倣ったんでしょう。そんなことしなくても、どうせ国字 なんですから、「杤」でよかったのに。

「杤」の「トチ」は今でも人名に残ってるんですね。
2020年ミス・ユニバース日本代表の名字は、「杤木」と書く「トチギ」さんでした。

富田(とみだ)
今の栃木市大平町富田 【地図】
江戸時代前期の頃、栃木宿の西隣の宿は富田だったんでしょう。

上田秋成(1734−1809年)の[雨月物語](1776年刊)中に、栃木市大平町 西山田の 大中寺 【地図】舞台とした と思われる [青頭巾]という読本 (参考) がありますが、その[青頭巾]中に、この富田が「下野の国の富田の里」と出てきます。

方二十間
この「方」の意味は、[方丈記]の「方」と同じく「四角形、および四角形の一辺」の意 味でしょう。そして「方二十間」は「二十間四方」の意味でしょう。

八島の明神
後に出てくる [日本鹿子] (1691年刊)を参考にすれば、正式には「室の八島(の)大明神」だったんでしょう。 (でも神社も池も俗称は「八島」だったんですね。)
芭蕉等が室の八島を訪れた当時(1689年)の下野惣社の呼び名として、[日光名勝記 ](1685年旅)の「惣社大明神」の他に、この「室の八嶋大明神」の呼び名があった ことがわかります。

なお神社名の頭につく「惣社」や「室の八島」は土地の名前で、この神社はそれらの土地の 鎮守の神様だったんでしょう。
そして「惣社」とは、地方行政の単位(村の集合体)である「惣社郷」のことだったんでしょう。 一方「室の八島」の方は昔からの地名で、その範囲がよく分からず、「惣社郷」とかなり ダブっていたんでしょう。
だからこの神社は「惣社郷」の鎮守であり、かつ「室の八島」の地の鎮守だったんてしょう。

左は
「古は」の誤写? それとも「左は」の「左」は「左様なら」の「左」と同じ意味で、 「左は」で「さわ」と読み「それは」の意味?

庭たずみ
正しくは漢字で「潦」「行潦」と書く「にわたずみ(にはたづみ)」のこと。雨が降って、 地上に溜まったり、流れたりする水のこと。
この[下野風土記]には「 庭たずみ の如く残りて」とあるので、「流れる」の意味がな く、単に「雨が降って、地面にできる水溜り」の意味でしょう。

[能因歌枕](廣本)
能因法師(988?−1051年以後)作
「にはたづみとは、雨のふるにたまのやうにてある水のあわをいふ、又いかだやる共云ふ 、はかなき世にたとふ。」

(考察)これを読むと、「にわたずみ」とは本来、「雨が降ると地面に水溜りができます が、その水溜りに浮かぶ泡」のことだったようです。
  「にわたずみ」が[能因歌枕]に載っているということは、「にわたずみ」が和歌の題 材になっていたということです。和歌の題材になったのは、「にわたずみ」が「はかなき 世に例えられた」からでしょうか?「にはたつみ」で和歌を検索したら、49首ヒットし ました。

 藤原兼輔 (877−933年)
 にはたつみ−このもとことに−なかれすは−うたかたひとを−あわ とみましや

 鴨長明の方丈記(1212年)の出だしの文にある「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消 えかつ結びて久しくとゞまることなし。」の文は、「にわたづみ」の印象を参考にしてい るんでしょう。

半里ばかり
この場合の半里は約2kmのようです。ということはこの場合の一里は約4kmのようで す。

御朱印社領
江戸時代に寺院・神社などが将軍から朱印状の発給を受け、領主として知行する土地。

(註3) この[蝶の遊]では、池を室の八島として扱っておりませんが、池に関する重要なことが 書かれてありますので、この「第1節 その1 八つの小島のある池」にも引用しておき ました。

大宮司邸
確か 「大宮司 国保」の表札が掛かっていたと思う。

{下野国誌}(1850)三之巻 神祇鎮座 総社六所大明神
「大宮司国保斎宮、・・・神主野中出雲、・・・祝部大橋大和・・・」

神社の神官は 世襲のはずなのに、{下野国誌}には なぜか、故荒川真澄宮司の姓は出てきません。

ひう
どんな魚かわかりませんでした。とにかく岩手県辺りには「つなし」という名 前の魚はいなかったようです。

采女(うねめ)
宮中の女官の一。天皇・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った者。 律令制以前からあったとみられるが、律令制では諸国の郡司一族の子女のうちから容姿端 麗な者を出仕させて、宮内省采女司(うねめのつかさ)が管理した。名目的には江戸時代ま で存続した。

正一位惣社大明神
[室八島山諸書類調控帳]にある文 (註6) から、下野惣社が 吉田神道の吉田 家 の管轄下にあったと考えられます。
(室八島山とは、室の八島大明神(惣社大明神)のことです)

 なお今の大神神社(おおみわじんじゃ)の拝殿の奥には、西暦2000年の現在でも「 正一位惣社大明神」と縦書きした額が掛かっています。


第2節 その2 下野国府があった辺りの特定の場所 の備考
秀歌
藤原俊成
 かへるさは−煙や宿の−しるへなる−室の八島の−あまのつりふね
 いかにせむ−室の八島に−宿もかな−恋の煙を−空にまかへむ
藤原定家
 たくふへき−室の八島を−それとたに−知らせぬ空の−八重霞かな
 暮るる夜は−衛士の焚く火を−それと見よ−室の八島も−都ならねは
 下野国に罷りける人に
 立ちそひて−それとも見はや−音に聞く−室の八島の−深き煙を

鹿沼(かぬま)
今の栃木県鹿沼市

(註4) 烏丸光広は、この最初の日光社参の旅では室の八島を訪れておりませんが、この後の旅の 折に立ち寄り 歌を詠んでいるようです。

多生輪廻(たしょうりんね)
多生:仏教の言葉で、この世に何度も生まれ出ること。 生と死を繰り返す「輪廻転生」 「生まれ変わり」の思想です。
輪廻:生きかわり死にかわりすること。車輪が回転してきわまりがないように、霊魂が転 々と他の生を受けて、迷いの世界をめぐること。流転(るてん)。

癸生村
今の栃木市大塚町にその地名が残っています 【地図】 。当時癸生村は八島の明神のあった惣社村の北に隣接していたと思われます。

(ぶ)
長さの単位。1歩=6尺(1.8m)。
八島の明神とケブ村の里との間の数百歩を3〜4百歩とすると、約600〜800m。 大神神社の北方の東武鉄道宇都宮線の線路辺り(上の「癸生村」の地図参照)に癸生村の 集落があったんでしょうか?

[曾良旅日記](そら たびにっき)
河合惣五郎(曾良(そら)は俳号)による1689年及び1691年の日記を中心とした 覚書。その中に、芭蕉と[奥の細道]の旅を伴にした日記が有る。

辰ノ上尅
当時は、「不定時法」を採用していたので、正確な話ではありませんが(いや、[曾良旅 日記]は「定時法」で書かれていたという話がありますので、以下の説明は「定時法」で行 います)、辰ノ刻(尅)は、今の午前8時(正刻)の前後1時間を含めた午前7時から午 前9時までの2時間に当たります。
そしてこの2時間を40分ずつ3等分し、それぞれを上刻、中刻、下刻と言いました。
「辰ノ上尅」とは、今の午前7時から7時40分頃です。

(参考)昔の時刻と今の時刻との比較
昔の正刻今の時刻 打皷数
子(ね)の刻午前零時
丑(うし)の刻二時
寅(とら)の刻四時
卯(う)の刻六時六(明け六ツ)
辰(たつ)の刻八時
巳(み)の刻十時
午(うま)の刻午後零時
未(ひつじ)の刻二時
申(さる)の刻四時
酉(とり)の刻六時六(暮れ六ツ)
戌(いぬ)の刻八時
亥(い)の刻十時


打皷数から現在の時刻への換算式
(9−打皷数)×2

「お江戸日本橋七ツ立ち」の「七ツ」は現在の何時か?
(9−7)×2=4
答えは、午前四時となります。
ただし、江戸時代は現代とは時刻制度が大きく異なります。江戸時代の時刻制度では「日 の出と日の入りを境に昼夜を区別し、それぞれを六等分」しました。これを「不定時法」 と言いますが、「時刻の区分が季節によって変化する」のです。つまり、歌詞中の「七ツ」 は、春分あるいは秋分の日なら夜が明ける2時間前ということになりますが、現在の何時 かという答えは、厳密には季節によって違うということになるでしょう。
江戸時代、日本人はこの「不定時法」の時計を発明したんですから、日本人の技術力はす ごいですね。

(註5) この傍註は惣社河岸 ト云船ツキノ「上」の註です。
次の惣社河岸の註のところで説明しますが、多くの参考書がこれを傍注でなく、カッコ書きで 書いてまして、その結果本来の意味からずれちゃってるものが多々ありますのでご注意下さい。

惣社河岸(そうじゃがし)
補足説明:松尾芭蕉らが歌枕の室の八島だとして訪れた現在の栃木市惣社町の大神神社の 南東の方、かつて惣社河岸があった辺りの思川(おもいがわ、かつての小倉川(おぐらが わ))近くの道端に、[奥の細道]300年を記念して1989年より「惣社河岸」の記念 石碑が建てられています(すいません。場所が正確に分からないんですが、他の人のウェ ブページによれば栃木刑務所の南のこの三叉路 【地図】 辺りのようです)。

但し[曾良旅日記]の傍註『(惣社河岸の上から)乾ノ方五町バカリ、毛武ト云村アリ 』を現在の地図に当てはめて考察すると、惣社河岸は、記念碑のある場所より1km程上 流側に在ったんではないかと思われます。但し当時の正確な地理が分かりませんが。

ところで、「惣社河岸」の記念石碑の場所は、[曾良旅日記]のこの傍註を「室 ノ八嶋ヘ行く((惣社河岸の上から)乾ノ方五町バカリ)」と誤解した 結果でしょう。多くの[奥の細道]解説書が、傍註ではなくカッコ書きでそのように 書いてますから。丁度「惣社河岸」の記念石碑から乾の方角に室の八島大明神、 現在の大神神社があります。距離は五町でなく、約十町あります。[奥の細道]当時でも、 大神神社の周囲五町以内に思川は無かったと思います。川までの距離は最短で十町でしょう。

 筆者は、[奥の細道]解説書を読んで、
@江戸時代にかっこ書きなんてあったんだろうか?これは傍註なんではないだろうか?
Aかっこ書きの(乾ノ方五町バカリ)と(毛武ト云村アリ)とは前後の文との脈絡なく 意味不明だな、もとの文にはどう書いてあったんだろう?
などと疑問を持ちました。それで、もとの[曾良旅日記]にはどう書いてあったんだろうと、 [奥の細道]解説書を何冊も調べました。そうして元の[曾良旅日記]の文が本文に 書いたような文であったことが分かったんです。
参考書で多いのが、傍註でなくカッコ書きしたもので、
『ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカヽリ、室ノ八嶋ヘ行(乾ノ方五町バカリ)、スグニ壬 生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。』
とするものです。
 これで読者は皆、 惣社河岸から「乾ノ方五町バカリ」行った所に有るのが、「毛武ト 云村」でなく、室の八島(この場合の室の八島は現在の大神神社のこと)であると騙され ているんです。
 そして読者は(毛武ト云村アリ)の意味を、室の八島から「壬生ヘ出ル」途中に「毛武 ト云村アリ」なんだなと理解しているのです。室の八島から「壬生ヘ出ル」途中、芭蕉ら はおそらく「毛武ト云村」を通ると思いますので、こちらは偶然意味が合っているようで すが。

思います
当時、室の八島の位置を説明するのに、栃木宿の名前なんか出てきませんよ。

大猷院(たいゆういん)
徳川三代将軍家光(1604−51年)の法号。

時服(じふく)
時服は、毎年、春と秋とに、または夏と冬とに、朝廷から衣服の資を名目として皇親以下 諸臣に支給された禄である。
なお、江戸時代に将軍から大名、旗本に時服を賜うことがあったが、それは綿入の小袖を あたえた。

三浦志摩守正次
壬生藩の初代藩主。

曼荼羅供(まんだらく)
死者の追善供養を営む行事。

海道
ここでは日光街道のこと。連阿は現在の下野市小金井辺りから西に折れて栃木市国府地区 辺りに向かったんでしょう。ここからだと国府地区辺りまで「一里あまり」でなく二里弱 あります。

名にしおふ室の八島にやどもがな
正しくは、
藤原俊成(ふじわらのとしなり、1114−1204年)
 忍恋を
 いかにせむ−室の八島に−宿もがな−恋(こひ)の煙(けぶり)を−空にまがへむ

名に立てる
世に聞こえた。評判の。(室の八島の煙はかなり有名だったんですね)


[広益俗説弁]
一般の通説・伝説を,和漢の書を引用して検討・批判した江戸時代の啓蒙の書。合理的な 実証主義と批判精神が新鮮で,当時のベストセラーとなった。


第3節 神社縁起室の八島(または奥の細道室の八島) の備 考
下野惣社は
これからも便宜上「下野惣社は」などと神社を主語にして言いますが、実はその表現が正 確でないことは追々説明します。

こじつけました
これは全くおかしいですね。この神社が室の八島という 土地の鎮守神だったから 「室の八島大明神」って言うんです。ですから「室の八島大明神」の境内が「室の八島」で あるわけがありません。

一般の参考書にある「室の八島の段」の文
「室の八嶋に詣す(「けいす」と読んでいいでしょう)。
同行 曾良が曰(いわ)く、
『この神は木の花さくや姫の神と申して富士一体なり。
無戸室(うつむろ) に入りて焼けたもう誓いのみ中に、火火出見の命(ほほでみのみこと)生まれ給(たま) いしより室の八嶋と申す。
又煙を読み習し侍(はべ)るもこの謂(いわれ)なり。』
將(はた) このしろという魚(うお)を禁ず。
縁起の旨世に伝うことも侍(はべ)りし。」

(考察)冒頭『室の八嶋に詣す』(歌枕の室の八島に参詣する)、また『この(=室の八 島の)神は木の花さくや姫』(江戸時代のこの神社の祭神です)とあるところから、芭蕉 は、室の八島大明神(他に惣社大明神などとも呼ばれていたが、今は大神神社という別の 神社に替わっている)を歌枕の室の八島としているようです。

 ところで解説書によっては、今の大神神社が(通説)室の八島であると紹介している、 境内にあるそれぞれに小祠を祭った八つの小島のある池を[奥の細道]に描かれた室の八 島であると説明しているものがあるんでしょうか、この池を室の八島と信じている愛読者 もかなりいるようです。
 しかし上記曾良の話は『(木花咲耶姫が、この神社の境内で)無戸室に入りて 焼けたもう誓いのみ中に、火火出見の命生まれ給いしより(当神社(の境内)を)室の八 嶋と申す。』つまり「室の八島とは、この神社の祭神木花咲耶姫の無戸室の故事の舞台と なったこの神社の境内のことであって、当時室の八島として広く知られていた池のことで はない」と言っているんです。どういうことかと言うと、室の八島が池ではこの神社の祭神 木花咲耶姫の故事の舞台に成り得ないので、室の八島を神社の境内のことであるとこじつけ て池の室の八島を否定しているんです。また『煙を読み習し侍るもこの謂なり』すなわち 「室の八島の煙も、燃える無戸室から立ち昇る煙のことであって、一般に言われている池 から立ち昇る煙(水蒸気)のことではない」と否定しているんです。なぜそんな ことをする必要があるのかは、話が長くなりますので後で説明します。

 なお曾良の[俳諧書留]によれば、芭蕉は室の八島で <糸遊に結びつきたる煙哉> (この糸遊は 陽炎 (かげろう)のことのようです。)の句を詠んでいるようですが、[奥の細道] には載せておりません。なぜでしょう。
 それは、室の八島で詠んだこの俳句と、室の八島の段に書いた文の内容(曾良が説明し てくれた内容)とが食い違っているので、俳句を載せたらまとまった一つの文章にならな くなるからです。芭蕉は室の八島とは神社であると言う曾良の説明を素直には信じられな かったんです。曾良の話を信じたら、芭蕉はそれに合致する俳句を後から作ってでも[奥 の細道]に載せたでしょう。

 なお、上記[奥の細道]の文中二重かぎカッコ(『』)は、後世の学者によって付けら れたもので、[奥の細道]原文に有るわけではありませんので念のため。(こういう のを伏線と言います)

<糸遊に結びつきたる煙哉>
 これは芭蕉が室の八島で詠んだ俳句ですから、この俳句にある煙とは室の八島の煙のこ とでしょう。そしてこの俳句では室の八島の煙が「糸遊」すなわち陽炎(かげろう)に結 びついたと詠んでいます。
 しかし芭蕉らが室の八島だとして訪れた神社・栃木市の大神神社(おおみわじんじゃ) に来られた方は分かると思いますが、ここは樹木が鬱蒼とした鎮守の森に囲まれており、 とても陽炎が立つような場所ではありません。つまりこの俳句はこの場所を詠んだもので はありません。芭蕉は、 本来の室の八島 は 既に景色が変わってしまい、当時の室の八島は何も無いただの野原や田畑など陽炎の立つ ような場所、あるいはかなり広い面積の土地で、所々に民家や屋敷林があっても大部分は 田畑であり、遠景に陽炎の立つのが見えるようなそんな場所に変わっているだろうと考え ていた(聞いていた)んです (註11)


 そういう考えで詠んだ俳句が上の句です。だから本来陽炎などでない室の八島の煙が、 陽炎に結びついたとこの句は詠んでいるんです。
かの有名な名所室の八島も、今では煙の代わりに陽炎が立つような田園地帯に変わ ってしまったのだなあ
そこで一句  <糸遊に結びつきたる煙哉
 この句碑が大神神社境内に立てられていますが、面白いことにこの句は「鎮守 の森に囲まれて陽炎の立たない、こんな狭い場所は、室の八島ではない」という意味なん です。

 なお多くの解説書が「室の八島に来てみたら、想像していた景色と違っていた(変わっ ていた)ので、芭蕉はがっかりした」と解説していますが、今説明しましたようにその解 説は誤りです。芭蕉は曾良が紹介するこんな場所は室の八島ではないだろうと考えていた ので、その場所が想像していた室の八島の景色と違っていたからと言ってがっかりする訳 がありません。芭蕉は「奥の細道」に室の八島の印象を一言も書いておりませんが、それ も「こんな場所は室の八島ではないだろう」と考えていたからです。芭蕉は、曾良が言う 「室の八島とは神社である」という話を、そういうこともあろうかとは考えましたが、か なり疑っていたということです。
 曾良も 「跡もなき室の八島・・・」 「・・・室の八島も 名のみなりけり」 の和歌をメモして[奥の細道]の旅に持参してますように、曾良自身、室の八島で芭蕉に 説明した「室の八島とは神社である」という話を100%信じていたわけではありません 。

当時の室の八島を芭蕉同様に考える人は江戸の町にたくさんおりました。松尾芭蕉(16 44−1694年)と同世代の井原西鶴(1642−1693年)なんかも似たような考え ([新可笑記]) をしていたものと思われます。「かつて栄えた室の八島の町も、今はさびれて、野原や田 畑など、昔日の面影の全くない場所に変わってしまった」、これが当時の江戸の町の人達 の代表的な室の八島に対するイメージなんです。そしてこの「かつて栄えた室の八島の町 」が、[奥の細道]と同じ頃書かれた [本朝食鑑](1697年) にはずばり「昔・・・室の八嶋の市中に」と表現されています。そしてこんな 俗説 が世間に広まっていたんです。

 ところでこの俳句はよくわかりません。<糸遊に結びつきたる>と詠んでいますが、和 歌の中に室の八島の煙を陽炎に結びつけたものを知りません。連歌の中にでも有るんでし ょうか?また陽炎に結びついた室の八島の煙とはどんな煙なんでしょう?この俳句は「本 来の室の八島は 野中に清水のある 所で、室の八島の煙とはその清水から立ち昇る水蒸気のことなんだが、今では野原や田畑 など、水蒸気の替わりに陽炎が立つような場所にかわってしまった」という意味なんでし ょうか?

 どうも俳句というのは難しすぎて、筆者の頭では理解できません。だから好きになれま せん。それより、同じ五七五でも江戸川柳[誹風柳多留]はいいですね。「孝行のしたい 時分に親はなし」・「子が出来て川の字なりに寝る夫婦」・「寝ていても団扇の動く親心 ・「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」・「本降りになって出てゆく雨やどり」 なんてのは「なるほど、そう言われりゃそうだ」と、人生や日常生活の機微の穿ち(うがち) に感心させられます。

「室の八島の段」の草稿
「室の八島に詣ス曾良か曰此神ハ
木の花咲や姫の神と申て富士一
所の神也ほゝてみのみこと土室の中に
入て焼給ふ
によりて室の八島と申
又煙をよみ習し侍るも此謂也
とか將(はた)このしろと云魚ヲ禁ス
縁記の旨世に伝ふことも侍し」

(考察)草稿の段階では『ほゝてみのみこと土室の中に入て焼給ふ』と、なんと彦火々出見 尊(ひこほほでみのみこと)を焼き殺していました。松尾芭蕉は、古事記・日本書紀(= 記紀)にある木花咲耶姫の神話まではご存知なかったようです (註12) 。完成文ではこの部分に相当する箇所だけ『無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に火火 出見のみことうまれ給ひし』と説明が詳しくなっていますが、それは特に強調したか ったからではなく、単に芭蕉自身知らなかった話なので、ちゃんと書いとかないと読 者は理解できないだろうと考えたからでしょう。(ところで芭蕉はどういう人た ちを読者として考えていたんでしょう?)

 このことから、この室の八島の段を解釈するうえで、完成文にあるこの個所は、説明が 特に詳しいからといってあまり重要でないことが分かります。ここは、[奥の細道]本文 にはありませんが、筆者が次の現代語訳に書きました「(この神社の祭神木花咲耶姫の無 戸室の故事は)この場所を舞台とした出来事です。」がポイントです。「この場所を舞台 とした」がないと、現在の数で言えば、全国に1,300社の室の八島が存在したことに なってしまいます。なお曾良が説明した中で最も重要な意味を持つ個所は、後出の現代語 訳を読んで頂ければご理解いただけると思いますが「富士一所の神也」(富士一体也)で す。

 ところで草稿の『富士一所の神也』を完成文で『富士一躰也』と替えていますが、こう いう場合「一躰」でなく「同体」を使うのが一般的なようです。「富士の神と同体なり」 と使うように。にもかかわらず『富士一躰也』としたのは、 「不二一体也」 の意味を掛けた芭蕉のジョークでしょう。富士山は不二山とも書きますので、このジョー クはピッタリです。芭蕉さんってジョークの才能もあったんですね。 (註13)

(曾良の登場)
それまで曾良の紹介は一切無かったのに、室の八島の段に来ていきなり『曾良か曰』と曾 良が登場します。こんな書き方では曾良が誰なのか読者にはさっぱり分かりません。 つ まり芭蕉は、「曾良」と言っただけで、彼が奥の細道の旅を共にした芭蕉の俳諧の弟子で あることが分かる身近な人達だけを[奥の細道]の読者の対象として考えていたと言うこ とです。
だから「室の八島の段」のような、我々現代人にとって全くちんぷんかんぷんな部分が [奥の細道]の中にでてきても別に不思議ではないんです。江戸時代でもどれだけの人が 「室の八島の段」を理解出来たか?

室の八島なんだろうか?
『曾良が曰く』という書き方は、記載内容について芭蕉は責任を持ちませんと言っている ような印象を受けます。 遊行柳の段 の『この所の郡守戸部某のこの柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを・・・』も、「 芦野の柳が西行が歌に詠んだ柳であるなどとは疑わしいが、戸部某が見せたい見せたいと 言うので義理でやって来た」ということを暗に言いたいのかもしれません。

分社
本社(浅間神社)から神霊(木花咲耶姫)を分けてまつった神社。

疑問に思ってない
[『おくのほそ道』解釈事典 諸説一覧]堀切 実(編)、東京堂出版(2003年) 参照。
この本の内容は、 『おくのほそ道』の各段毎に学者の諸説をまとめたものです。これを 読むと、筆者(この私)が感じた@〜Fの疑問について、諸先生方は一切疑問に感じなか ったようです。
 そんなですから、「室の八島の段」は、他の段と比べて特に諸先生方の議論の少なかっ た段だそうです。

 唯一の議論らしいのが、「曾良の言葉は、
@『又煙を読み習し侍るもこの謂なり。』までか?
A『 將このしろという魚を禁ず』までか?
B最後の『縁起の旨世に伝うことも侍りし』までか?」 だって。

でも「室の八島の段」には、「曾良の話はAの『 將このしろという魚を禁ず』まで」 だって、 ちゃんと書いてあるんですけどね。

曾良の話は難解です
[奥の細道]について書いた本の中には『唯一室の八島の段だけは何が書いてあるのかさ っぱり分からない。』と正直に白状しているものもありますが、当然です。あなた方に室 の八島の段が理解できるわけがありません。

全くのデタラメ
[奥の細道]「室の八島の段」を読んだら、すぐに「曾良の話はデタラメだ」と分かりました。 それで「室の八島と関係ないや」と思ってほっといたんです。そしたら、周りの人は、 室の八島を[奥の細道]でしか知らないんで、「室の八島の段」に書いてあることを私に色々 質問してくるんです。それで「それじゃ解読してみるか」と解読に取り掛かりました。 そしたらこれがかなり難解で、解読するのに一年以上かかりました。

浅間神社
全国浅間神社の本社である現在の富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市宮町)
・祭神
 主祭神:浅間大神(あさまのおおかみ)
     :木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
 相殿神:瓊々杵尊(ににぎのみこと)
     :大山祇神(おおやまづみのかみ)
・御神体:富士山
・由緒「・・・木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵 尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため 、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。・・・」

(考察)浅間大神という神は古くは存在しましたが、江戸時代には存在しなかったようで す。それが明治時代に主祭神という形で復活しました。なお現在の由緒には記紀からとっ た木花咲耶姫の無戸室神話が取り入れられていますが、芭蕉時代の由緒にもあったかどう か?なお、当時の浅間神社には、木花咲耶姫ばかりでなく無戸室で生まれた三人の御子も 神として祭られていたと考えられます。ところで現在、浅間神社は全国に約1,300社 あります。

彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)
木花咲耶姫に替わる前のこの神社の祭神で、当時は配神だったと考えられます。

室の八島と申します
燃える無戸室を竈(むろのやしま)、または室の形をした竈(やしま)に見立てたんでし ょうか?ここはよく分かりません。 (室の八島と「かまど」)

煙を詠む習わしになっています
これを和歌用語を使って言えば「煙が室の八島の縁語になっています」となる。

禁じています
(参考) 時期的にはもっと後のことですが、 [駿河国新風 土記] (1834年完成)によれば、虚空蔵菩薩信仰の信者がウナギを食べない (蛇足) のと同様に、浅間神社の氏子も、コノシロを神聖な魚として食べない習慣があった、ある いは食べることを神社から禁じられていたようです。


(註8−1) それを略して室の八島と呼ぶ例は地元の下野国の人達の間に無くはありませんが。但し江 戸時代の1800年頃のことのようです。

(註8−2) 室の八島大明神の別称である惣社大明神も、この神社がかつて下野国の惣社であったから つけられたんではなく、この神社のある土地・惣社郷の神という意味で付けられたんでし ょう。

明神
日本の神仏習合における仏教的な神の称号の一つ。「明神」という言葉が文献上最初に現 れたのは731年です。

同様の例
[(林)羅山詩集]、巻第六 紀行六「癸巳日光紀行」(1653年旅)
「幸手の辺半里ばかり 鷲の宮 有り・・・又云わく、王子野州長者の娘を携え夜川を渉る ・・・」

(考察)「鷲の宮」とは現在の鷲宮(わしのみや)神社のこと。「野州長者の娘」とは、 この内容の縁起が作られた当時(1650年頃か?)の鷲宮神社の祭神・木花咲耶姫のこ とで、野州(の室の八島の)長者の娘・木花咲耶姫が後に鷲宮神社の祭神になりました。 王子とは 有間王子良岑安世のことと思われますが、彼は木花咲耶姫がなる前の鷲宮神社の 祭神でした。

 つまり、前の祭神・有間王子良岑安世が、祭神になる前の木花咲耶姫をつれて夜川を渡 ったと言ってるわけです。そして当然のことながら、この後、木花咲耶姫が鷲宮神社の祭 神になったという話が続くのでしょう。なぜって、これは木花咲耶姫が祭神だった時代の 縁起物語ですから。但し「癸巳日光紀行」にはそこまでは書いてありません。

 この祭神・木花咲耶姫時代に作られた縁起に、前の祭神・有間王子良岑安世を登場させ たのは、前の祭神を登場させることによって、祭神が前の祭神・有間王子良岑安世から今 の祭神・木花咲耶姫に替わった経緯を説明している可能性があります。

 これを解析すると、1650年頃作られた神社の由緒書きは、まだ長ったらしい縁起物 語だったようです。縁起物語が簡略化されるのは、もうちょっと後、1680年頃からの ようてです。勿論そんな明確な時期が有る訳はないので、これはいい加減な話ですが。

 また「野州長者の娘・木花咲耶姫」は、浅間神社の縁起物語の中で誕生したものなんで すが、鷲宮神社(浅間神社ではありません)の祭神・木花咲耶姫も「野州長者の娘」なの で、「野州長者の娘」は浅間神社の祭神・木花咲耶姫に限ったものではなく、木花咲耶姫 を祭神とする全ての神社の祭神・木花咲耶姫に共通するものになったようです。

(註8−3) 記紀神話に出てくる木花咲耶姫は富士山の神なんかじゃないでしょう。また無戸室神話の 舞台が室の八嶋であるわけがないでしょう。これらから「富士山の神が無戸室に入て焼た まふちかひのみ中に火火出見のみことうまれ給ひしより室の八嶋と申」が根拠の無い出鱈 目であることがわかるんです。

(註8−4) にもかかわらず、「室の八島という名前は、木花咲耶姫が無戸室で三神を出産したことに 由来する」などと、デタラメな解説をしている解説書がいくつもあるようです。

(註8−5) そんなの常識でしょう。それだけでも室の八島に関する曾良の話がでたらめだとすぐ分か るんですが。もちろん曾良が悪いわけではありません。室の八島の段の難解さはこんなこ とではなく、なぜこんな出鱈目話がでてきたのか?なんです。出鱈目話に、調べれば分か るというようなまともな根拠があるわけがありません。だから解読が難しいんです。

(註8−6) 曾良が「室の八島とは池ではない」と実際口に出して言ったかどうかの前に、当時の池は 水が涸れていて、池の面影は乏しかったので、芭蕉も曾良も池の存在に気付かなかった可 能性が有ります。池の存在に気付かなければ、曾良が池について触れることはなかったで しょう。また芭蕉は室の八島の池については江戸で聞いていなかった可能性があります。 聞いていたら、いかがわしい曾良の話などより池のことを[奥の細道]に書いたでしょう。

(註8−7) 室の八島の段などという難解な文は一回読んだだけで理解できるものではありません。理 解しようとして何回も読み返すことが重要です。そうすると、この「ちょっと寄り道」の 初めに書きましたように解説書の解説内容が疑問だらけであることが見えてくるんです。 筆者による室の八島の段の解読は、そういうことが手掛かりとなっています。解読作業と は、その人が疑問を持ち続ける間継続され、疑問を持たなくなった時点で終了して、それ がその人の能力の限界です。この筆者による室の八島の段の解読も、ここで説明している 内容で限界です。これ以上の詳細はあまり重要でないし、参考史料も見つからないだろう と諦めています。

[下野国誌] 神祇鎮座 総社六所大明神
「都賀郡国府にあり、社ある所を惣社村と云なり、
  ・・・・・・
さて当社祭神は木花開耶媛ノ命にて、相殿は天照大御神、天ノ忍穂耳ノ尊、日子番能爾爾 芸ノ尊、日子穂穂手見ノ尊、大山祇ノ命なりといへり、社領三十石、
  ・・・・・・
さて祭礼は毎歳八月朔日、内陣に蔵めおく、一口の鉾を形代として、旅所に出し、九月八 日の夜、もとの内陣に納むるなり、鉾の形は十文字鎗に似て、長さニ尺許あり、さて翌九 日広前にて制魚(コノシロ)を焼きてささぐ、此日国府村、田村の両村より、判官と唱ふ る者十二人、年番に出て其神事をつとむるなり、」

(考察)ここに総社六所大明神(下野惣社のこと)のコノシロ神事のことが書かれています 。[奥の細道]解説書によれば、室の八島の段の『このしろと云魚ヲ禁ス』の説明として 、「コノシロを焼くと人を焼く匂いがするから」とのことですが、そんな理由じゃとてもこ のコノシロ神事を説明できません。
なおコノシロ神事に触れた史料は、この[下野国誌]より古いものはなさそうです。。
 また『このしろと云魚ヲ禁ス』を土地の風習であると説明している解説書もあるようで すが、コノシロを見たことも食べたこともないでしょうこんな関東の内陸部に、そんな風 習があったとは到底思えません。(栃木市辺りでは、現在コノシロは三枚におろ して酢〆めしたコハダしか店に出回っておりませんが、酢〆めの調理法は芭蕉の時代には まだなく、江戸時代後期に開発されたようです。)

(註8−8) 浅間神社の当時の(下記註8−9参照)縁起譚( [浅間御本地御由来 記] )の最初に、木花咲耶姫が浅間神社の祭神になる前の、姫の故郷である下野国を舞台とした 話(コノシロ身代わり火葬の話)が出てきますが、下野惣社の縁起は、その木花咲耶姫の 故郷での話、つまり浅間神社の縁起の一部を縁起としたものなんです。(えっ、親神社の 下野惣社って、その子の浅間神社から生まれたの?)

(註8−9) いやもっと古いかもしれません。 [集雲和尚遺稿 ] の(考察)参照。(すいません。この辺のことは解析が難しいんです)

下野惣社の縁起に見る吉田神道の野望
 曾良の話は下野惣社の当時の由緒書きの内容を紹介したものです。由緒書きは当然特定 の目的を持って作られています。それで由緒書きの内容を知れば、作成者の意図やそれが どういう経緯で作られたものであるかが或る程度推測できます。次にその推測した内容を 紹介します。

読み進める前に 下野惣社の縁起物 語の系譜 を読んでおいたほうが、理解しやすいかもしれません。これを読みこなすだけでも大変で すけどね。

 中世の神道界は仏を本地(ほんぢ)または本地仏、神を垂迹(すいじゃく)または垂迹 神とする 本地垂迹思想 が支配していました。そこに吉田神道の 吉田兼倶 が登場してきて、反本地垂迹説に基づく 「元本宗源神道 」 を打ち出し、本地垂迹説をくつがえそうとします。すなわち「神社本来の神は、本地垂迹 説が言うところの仏などではなく、古事記・日本書紀に出てくる日本古来の神々である」 と (註14) 。・・・吉田兼倶が登場してくる以前の神社の祭神は、ほんの一部の神社を除いて、記紀 神話の神ではありませんでした。

 この吉田神道は、その後、時の権力に取り入るなどして権勢を増し、江戸時代には、徳 川幕府を後ろ盾に 全国 の多くの神社を支配する ようになります。この吉田神道のやることはかなり強引だったようで、現在多くの神社が記 紀神話の神を祭神にしていますが、それはおそらく吉田神道そして後の明治政府のしわざ だろうと筆者は考えています。

 ところで、富士山を山岳信仰の対象として興った浅間信仰(富士信仰)の祭神が、本地 垂迹時代の 富士権現・浅間大菩 薩 から、現在の祭神である、記紀神話に登場する木花咲耶姫に替わるのが江戸時代が始まる 頃( [集雲和尚遺稿 ] )、定着するのは江戸時代中期のようです。おそらく吉田神道によって替えられたんでし ょう。 (神道の研究)

 しかし、そう簡単に祭神を替えられるわけがありません。そこで吉田神道は、以前から 有る浅間神社の縁起譚・ [浅間 御本地御由来記] (下野国から物語の主人公がやってきて富士山の神となったことから浅間信仰が起こった という、コノシロ身代わり火葬の話が出てくる物語。)のヒロイン「北の御方」を、実は 記紀神話に登場する木花咲耶姫だったんだとこじつけて、縁起譚のヒロイン「北の御方」 を木花咲耶姫に替え、浅間神社の祭神・浅間大菩薩とは木花咲耶姫のことであるとして、 祭神を浅間大菩薩から木花咲耶姫に替えます (註15) 。こうして浅間信仰の起源を、むりやり記紀神話に結び付けようとします。

 ところで、浅間神社の縁起譚・ [浅間御 本地御由来記] の最初の部分は下野国を舞台とした木花咲耶姫の話です。そこで吉田神道は、浅間神社の 祭神を木花咲耶姫とする根拠を更に充実させるために、それに対応する話、つまり下野国 を舞台とした木花咲耶姫の話を下野国内に存在させようと企てます。そして浅間神社の縁 起譚にある「主人公がそこからやって来た下野国」というのが、より具体的には室の八島 (但し中世室の八島の下野国府の集落のことです)を指すことに着目します。当時の室の 八島は近世室の八島の池に替わっていましたが、池には吉田神道の管轄下にあった (この時に管轄下に置いたのかもしれませんが)社殿再建前の下野惣社 があったんです。

 そこで、吉田神道は、浅間神社の祭神を木花咲耶姫に替えただけでなく、下野惣社の祭 神をも、室の八島大明神(神名)から木花咲耶姫の御子(後の[奥の細道]に登場する彦 火々出見尊に相当する神)に替え、「此の所(中世室の八島の下野国府の集落)の長者の 娘・木花咲耶姫が富士山の神になり、その御子が室の八嶋(近世室の八島の池、すなわち 室の八島大明神(神社名))の神になった」という、浅間神社の縁起譚の最初の部分に対 応した下野惣社の縁起譚・ [下野風土記] (そういうことでこちらにもコノシロ身代わり火葬の話が出てきます。 (註16) )を作り広めます。つまり、「祭神木花咲耶姫は下野国からやって来た」という浅間神社 の縁起を聞いたら、浅間神社の氏子から「祭神木花咲耶姫は下野国からやって来たという が、より具体的には下野国のどこか?そしてそこにも浅間神社の縁起と同じコノシロ身代 わり火葬の話はあるのか?」という疑問が出てくるだろうことは充分考えられます。そこで それに答えるために吉田神道がでっちあげたのが下野惣社の縁起です。現在の我々には信 じがたい話ですが、芭蕉らが室の八島を訪れた当時「室の八島より富士山の神出たまうと 云う事世人皆云える事なり。」( [下野風土記] 1688年編著)だったんです。ということで浅間信仰の起源を記紀神話に結びつけるた めに、浅間神社と全く無関係な室の八島と下野惣社が吉田神道に利用されたわけです。

 なお、同じ栃木市内にある 太平山神社 の境内社の一つである浅間神社の祠に、(富士山本宮浅間大社でもなく、かつて下野惣社 であった現在の大神神社でもなく、太平山神社が)「全国浅間神社の本社である」という 札が現在掛かっているようです。(太平山神社に確認しましたが、既に札を掛けた経緯は わからなくなっているようです。)

 その後、おそらく下野惣社の社殿が再建された際でしょう、そういう機会でないと実施 するのは難しいですから。吉田神道は下野惣社の祭神をなぜか木花咲耶姫の御子から木花 咲耶姫本人に替え (註17) 、またそれに合わせるように由緒書きを新しく作り替えて、下野惣社に無理やり押し付け ます (註18) 。その中で吉田神道は室の八島を、彦火々出見尊が祭神であった時代の室の八島であり、 当時の代表的室の八島でもあった池から、池を含む境内一帯に拡大します。「それまで池 に神を祭っていたので、池だけが室の八島であると誤解されていたが、本来は境内一帯が 室の八島なのである」と、室の八島を池から要するに神社にすり替えるわけです。下野惣 社の縁起に盛り込む木花咲耶姫の無戸室の故事やコノシロの故事の舞台を室の八島にこじ つけるためには、室の八島が池では都合が悪かったんです。

これをもう少し突っ込んで解析すると、
 上に書きましたように、木花咲耶姫の故郷は元々は室の八島の集落(中世室の八島の下 野国府の集落)でした。ところが、吉田神道が下野惣社に関与してきた時は、室の八島が 近世室の八島の池に替わっていました。そのため以前の縁起では木花咲耶姫の故郷が室の 八島(の集落)なのか室の八島(の池)付近の集落なのかあいまいな表現になっていまし た( [下野風土記] )。そこで吉田神道は、社殿再建を機に新しく作り替えた縁起で、室の八島を本来の室の 八島の集落に戻そうとしました。そうしないと上に書きましたように縁起譚との整合が取 れないんです。吉田神道は、神社のある一帯はかつて室の八島の集落だったと考えていた のでしょう。ところで室の八島を本来の室の八島である室の八島の集落に戻すなら、惣社 村全体を室の八島であるとしてもよさそうです。ところが芭蕉が「室の八嶋に詣ス」、つ まり歌枕の室の八島を神社と理解したところをみると、吉田神道は室の八島を惣社村全体 にまで拡大せず、神社の境内一帯としているようです。ということはつまり室の八島とい う名高い名所を、室の八島の名を冠した神社、室の八島大明神が(正確には吉田神道が) 当社の権威付けのために独占しようとしたということです。しかし、室の八島がそんな狭 い土地であるなどとは、馬鹿馬鹿しくて、土地の人は誰も相手にしません(室の 八島という土地の神だから室の八島大明神なんであって、室の八島大明神というからその 境内が室の八島であるなどと言うのは、室の八島と神社名の室の八島大明神との依存関係 が逆で、全くナンセンスです)。当の神社の神官だって馬鹿馬鹿しいと思ってい たでしょうけど。

 曾良の話は、下野惣社が吉田神道から押し付けられた由緒書きにあるこの神社の縁起、 すなわち当社創建の由来の説明です (註19)。 曾良の話(すなわちこの神社の縁起譚)のうち、「此神ハ木の花さくや姫の神と申て富士 一躰也」と「將このしろと云魚ヲ禁ス」とは、下野惣社が室の八島の池であった時代の縁 起譚・ [下野風土記] との繋がりがありますが、「無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に、火火出見のみことう まれ給ひしより室の八嶋と申、又煙を読習し侍るもこの謂也」は、もとの縁起譚との繋が りが全く無く、神社縁起を作り替えた際に、記紀にある木花咲耶姫の神話をヒントにして こじつけられたものでしょう。「無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に、火火出見のみこ とうまれ給ひしより室の八嶋と申」とこじつけたのは、「奥の細道」に書いてあるとおり 神社の境内一帯を室の八島にこじつけるためです。そして「又煙を読習し侍るもこの謂也 」とこじつけたのは、室の八島を池から神社に替えても、室の八島の煙が池から立ち昇る 水蒸気のままでは都合が悪かったからです。池は無戸室の故事にもコノシロの故事にも登 場しないんです。



 今だったら、ほとんどの神社がその由緒を書いた案内板を境内に立てていますが、当時 はそんなことをしていません。吉田神道を学んだ曾良だからこそ、そして室の八島が曾良 の専門である神道が絡んでくる歌枕だったからこそ、各地の地誌を集めた [日本鹿子] のような当時の本にも載っていない、下野惣社の由緒書きの詳しい内容を知っていたんで す。曾良は下野惣社の由緒書きをメモして持参したんでしょうか?この神社の縁起をかな り詳しく芭蕉に説明しているんです。下野惣社の由緒書きを書き換えることは吉田神道の 比較的新しい事業だったんでしょう。それで曾良は特に詳しく説明を受けていたんでしょ う。現在の大神神社の由緒によれば、1682年5月に社殿が再建されたことになってい ます。神社の言うことで当てになりませんが、神社の言うとおり1682年(芭蕉らが訪 れる7年前)に社殿が再建されて、由緒書きが書き換えられたとすると、筆者の解析結果 とよく符合します。おそらくその頃にこの神社の社殿は再建されたんでしょう。

 この[奥の細道]室の八島の段は、

1.浅間神社の祭神が本地垂迹時代の富士権現・浅間大菩薩から現在の木花咲耶姫に替え られる経緯を知る一つの資料として、

2.またそれに関連して、現在多くの神社が記紀神話の神を祭神にしており、それらの多 くが明治政府によって祭神を記紀神話の神に替えられたものですが、そればかりでなく、 それ以前の近世初頭の頃に吉田神道によって祭神を記紀神話の神に替えられた神社も結構 存在することを示唆する資料として (註20)

3.さらには、この時代の神社がどのような状況下におかれていたかを具体的に示す例と して

非常に貴重な史料です。

(後書き)
 芭蕉は、曾良の話を聞いてその要点をメモしておき、[奥の細道]として纏める段にな って、メモしておいたその要点だけを記したんでしょう (註21) 。そのため室の八島の段は非常に難解な文になっています。しかしそのメモした内容が全 て曾良の話の核心をついたものばかりであり、かつそれを正確に伝えているので、室の八 島の段という非常に短い文ながらここまで解読することができました。室の八島の段でわ からないのは「−より室の八嶋と申」の部分を曾良はどう説明したのか、くらいです。

(続き)第3節 神社縁起室の八島(または奥の細道室の八島 ) の備考

烏糸欄 (うしらん)黒い細い罫(けい)を引いた紙。

[広益俗説弁]
 熊本藩神学者の井沢蟠竜が俗説や迷信を考証した啓蒙書。
 熊本藩神学者と言っても、江戸に約30年間居たんです。だからその間に室の八島の俗 説なんかを聞いていたんです。

下ニ見タリ
「『室の八島に詣ず』以下の文に祭ル神が木花開耶姫であることが書いてある」の意味。

内容のずれた資料
(1)[日本鹿子](日本賀濃子)(にほんがのこ、−かのこ)(1691年刊)全国の 地誌を収録した資料集
 磯貝舟也 著
「室の八島 : 新後撰夏の部に家隆のうた
立のぼるー煙も雲にー成にけりー室の八島のー五月雨のころ」

「室八嶋大明神 : 惣社村ニ立。社領五十石。別当神宮寺。社人十二人あり。当社 ハ富士浅間の御親神也ト云。俗に浅間の御身かはりにこのしろの魚をのべおくりして やきたるといふも此所也。今にそのやきたる跡に草木はへず、そのしるしありと云伝る也 。」

(2)[国花万葉記](國華萬葉記)(1697年)
 菊本賀保 著
「室の八嶋
煙を専らに読り。下野の野中に有清水也。これを室の八嶋と云り。その水気立の ぼるを室の八嶋の煙と云。実の煙に非ずと云。
×   いかでかハー思ひ有共ーしらすべきー室の八嶋のー煙ならでハ 実方
×返し 下野やー室の八嶋にー立煙ー思ひ有共ー今こそハしれ 女房
法性寺内大臣の時の歌合に、摂津が絶えず焼室の八嶋と読けるを、判者俊基絶へずたくの 五もじを難じけり。誠の煙にあらざる故にや。」

「室八嶋大明神
惣社村ニ立。社領五十石。社人十二人。別当神宮寺。
当社ハ富士浅間権現の御親神也と云。けだし大山祇(おおやまつみ)ノ謂(いひ )カ (註30)
俗ニ浅間の御身かハりにこのしろの魚をのべ送りして焼たると云も此所也。今に其焼たる 跡にハ草木はへず。そのしるし有と云伝ふる也。・・・」

(3)[和漢三才図会](1712年)
 寺島良安 編
「室ノ八島大明神 惣社村ニ在。社領五十石。祭神 富士浅間権現之祖神ト云。 社人 十二人。別当 神宮寺。野中ニ清水有、其ノ水気上リテ煙ノ如シ、歌人之ヲ室ノ八 島ノ煙ト称ス。
詞花 いかでかハ思ひありとも志らすべき室の八島の煙ならでハ 実方」

(考察)筆者(つまりこの私)は「著者寺島良安は、室の八島とはどんな所かという世間 の噂話は聞いてなかったんだろうか?[奥の細道]で初めて室の八島を知ったような、変 なことを書いてるなぁ」と思ったんですが、寺島良安は大阪の人だったんですね。じゃあ、 室の八島とはどんな所か?という世間の噂話は聞いてなかつたでしよう。だから[奥の細 道](1702年刊)の言うことをまともに信じて書いたんだ。

 上記[日本鹿子](1691年刊)や[国花万葉記](1697年)では、まだ名所の 室の八島と神社の室八島大明神とをきちんと分けて載せており、記載内容も明瞭ですが、 これらの史料より後の[和漢三才図会](1712年)などになりますと、名所と神社と がごっちゃに書かれるようになり、意味がずれて来てしまいます。梨一が参考にしたのも おそらくそういった資料でしょう。

 [日本鹿子](1691年刊)の『当社ハ富士浅間の御親神也』とは、「当社は浅間神 社の親神社である」の意味ですが、梨一が参考にした資料には[和漢三才図会](171 2年)同様『祭ル神富士浅間ノ祖神ト云』と書かれてあり、これでは「当社の祭神は、木 花開耶姫の親神である大山祇神である」となってしまいます。

 (この例は「現在こうだから、以前も同じだったろう」と考えることが、いかに危 険であるかを示す典型的な例です。[日本鹿子](1691年刊)発行のわずか21 年後には本来の意味から大きくずれてきています。このことを肝に銘じて調査 (まあ殆どの人は実行不可能でしょう。おそらく誘惑に負けて誤りを犯すでしょ う)を進めなかったら、室の八島の歴史も、[奥の細道]室の八島の段で曾良は 何を話したのか、をも解明することはできなかったでしょう。)

 なお[日本鹿子]では『俗に(=浅間神社の縁起によれば)浅間の御 身かはりにこのしろの魚をのべおくりしてやきたるといふも(下野惣社の縁起に よれば)此所(室八嶋大明神のある場所)也。』と言っていま すが、「此所」を下野惣社の縁起([奥の細道]で曾良が説明した内容) のように室の八島とはしておりません。[日本鹿子]の編集者・磯貝舟也は、室 八嶋大明神のある場所が室の八島であるなどという荒唐無稽な話は相手にしなかったとい うことでしょうか?それとも彼の知っていた縁起は書き換えられる前の縁起でしょうか? おそらく後者でしょう。そして書き換えられる前の縁起には[奥の細道]で曾良が言って いる『無戸室に入て焼たまふちかひのみ中に火火出見のみことうまれ給ひしより室の八嶋 と申又煙を読習し侍るもこの謂也』なんてことは、まだ書かれていなかったんでしょう。当 然でしょう。書き替えられる前の縁起では室の八島はまだ池でしたから。なお磯貝舟也は 、池が室の八島であるというのを信じなかったようですね。

 また[国花万葉記](1697年)には『下野の野中に有清水也。これを室の八嶋 と云り。その水気立のぼるを室の八嶋の煙と云。』とありますが、[和漢三才図会] (1712年)以降の資料では、『これを室の八嶋と云り。』が削除されています。この ため室の八島が「野中の清水」から室ノ八島大明神に変わってしまいました。この誤りは おそらく直接的にか間接的にか[奥の細道](1702年刊)室の八島の段冒頭の『室の 八嶋に詣ス』(歌枕室の八島に参詣した)にだまされたためでしょう。


[慈元抄]にあるような話
[奥細道菅菰抄](1778年)
 高橋(蓑笠庵)梨一 著
「・・・○むかし此処に住けるもの、いつくしき娘をもてりけり。国の守これを聞玉ひて 、此むすめを召に、娘いなミて行ず(否みて行かず)。父はゝも亦たゞひとりの子なりけ るゆへに、奉る事をねがハず。とかくするうちに、めしの使数重なり、国の守の怒つよき ときこえけれバ、せむかたなくて、娘ハ死たりといつはり、×(魚偏に庸。魚偏に祭(コ ノシロ)の誤り)魚を多く棺に入て、これを焼キぬ。×魚をやく香は、人を焼に似たるゆ へなり。それよりして此うをゝ、このしろと名付侍るとぞ。哥に、<あづま路の−むろの 八嶋に−たつけぶり−たが子のしろに−つなじやくらん>此事[十訓抄]にか見え侍ると 覚ゆ。このしろハ、子代(コノシロ)にて、子のかハりと云事也。此魚上つかた(上方( かみがた))にてハつなじと云。」

(考察)冒頭の『むかし此処に』の『此処』の説明がないので、どこなのか分かりません。

[十訓抄](鎌倉時代の説話集、1252年)、「つなじ」はそれぞれ [慈元抄] (室町時代後期の教訓書、1510年)、「つなし」の誤りでしょう。

(続き)第2節 その2 下野国府があった辺りの特定の場所  の備考

竹生島神
琵琶湖に浮かぶ竹生島の現在の祭神は下記のとおりですが、[室八島山諸書類調控帳]に ある「竹生島神」とは弁財天のことと思われます。ところでなぜ惣社大明神(六所大明神) に竹生島神・弁財天が関係してくるのかよくわかりません。 [下野風土記] にあるこの神社の縁起に登場する琵琶嶋と、琵琶湖あるいは弁財天が持つ楽器の琵琶とが、 たまたま名前が合っていたんで琵琶湖の竹生島の神・弁財天を縁起譚の中に持ち込んだだけ じゃないの。おそらく竹生島神なんて祭ったことないでしょう。

現在の竹生島の諸神 :
弁財天(市杵島姫命)、宇賀福神、浅井姫命、竜神

国長(くにかみ)
[室八島山諸書類調控帳]には、次の説明があります。
国長 : 其国ヲ開発シ、元祖神ヲ其国ノ惣社ニ祭、其惣社神ノ正統之子孫ヲ其国ノ国長 ト定。

武稚彦命
この神不明。
記紀神話に登場する稚武彦命(わかたけひこのみこと)の間違いではないかと思われます 。
記紀神話の知識は、江戸時代以前はあまり世間には普及していなかったのではないかと思 われます。知識不足から稚武彦命を武稚彦命と間違えたのではないかと思われます。

伊倭男太神
この神不明。
記紀神話には、「伊倭大神」(いわのおおかみ、大国主命のこと)という神がいるようで すが。

(註9)  この史料の書名[室八島山諸書類調控帳]の「室八島山」のことですが、現在の大神神 社に「室八島山大明神」の扁額が掛かっていることから、この「室八島山」とは下野惣社 のことなんでしょう。
また「室八島山」とは、おそらくお寺の山号と同じものなんでしょう。と言うことは室八 島山はおそらく「むろのやしまさん」と読むんでしょう。お寺ばかりでなく神社も 山号 で呼んでたことがあるんですね。
実は、明治初年(1868年)に廃寺になりましたが、下野惣社には神宮寺がありました。 室八島山はその神宮寺の山号なんでしょう。この、神宮寺の山号と思われる「室八島山」 と「室の八島大明神」の名が合体すると、「室八島山大明神」となりますが、神仏習合の 影響で、お寺の山号が神社の名前になってます。
 次の[下野国誌]を見ると、この神社は「総社六所大明神」とも呼ばれていたようです が、付近の人達は親しみをこめて「室八島山(むろのやしまさん)」と愛称で呼んでたん でしょうかね?

 ところでこの神宮寺の名前が史料に見当たりません。もしかしたらこの神宮寺の名前は 室八島山神宮寺(むろのやしまさんじんぐうじ)という名前だったのかも。
現在神宮寺という名前のお寺が全国にいくつもあります。そしてそれらの神宮寺にはちゃ んと山号があります(例:茨城県古河市にある、かつて雀神社の神宮寺だった現在の真龍 山神宮寺)。
 なお小津久足(1804−1858年)の[陸奥日記]によれば、この控帳が書かれた 1838年ころには、「正一位惣社大明神」の扁額が掛っていたようですが、今でも拝殿 にあるようです。


 ところで神仏習合を物語るものとして、経緯は知りませんが、足利市月谷町にある放苦 離(ぽっくり)神社の、日本六十余州霊場の石仏群の中に宝暦年間(1751−62年) (1754年が多い)に、篤信者が寄進した「室八嶋一宮」と銘のある聖観音立 像があるようです。
 また壬生町藤井稲荷内上坪の道路沿いの碑塔群の中に、赤い前掛けをしたお地蔵様があ って、その胸元に「室八嶋地蔵大菩薩」の石文があるようです。紀年銘はありま せんが、江戸中期を下ることはないだろうということです。さて室八島山大明神・正一位 惣社大明神にも本地は存在したはずですが、いったい本地は誰だったんでしょう。聖観音 か地蔵菩薩だったんかな?

 なお「室八嶋一宮」の一宮とは延喜式神名帳にある、下野国都賀郡の神の筆頭に書かれ た大神社のことと思われます。このことからこの時代(ざっと1750年頃)既に「下野 惣社=大神社」説が存在したようです。

デタラメな祭神名
1682年頃に社殿が再建されましたが、
社殿が再建される前の縁起に登場する神は、木花咲耶姫命とその御子でした。[下野風土記]
社殿再建後の1689年当時の神は、木花咲耶姫命と その御子である彦火々出見命でした。 [奥の細道]
また現在の大神神社の配神の中に木花咲耶姫命と彦火々出見命がいます。

ところが この[下野国室八嶋大明神勧進帳]の祭神は、宇津室八島大神= 武稚彦命と 全くデタラメな祭神でした。

(註10) [下野国誌]のしわ ぶきの杜の項や掲載地図などを見ると、 この頃土地の俗説では室の八島を惣社村でなく癸生村辺りとするのが主流 だったようです。

エト
このエトとは兄と弟とのこと。
ここでは、 十干十二支 (じゅっかん・じゅうにし)の十干のことを「十幹のエト(エ=兄、ト=弟)」 」と言ってるようです。
 一説によれば、十干の干は幹を略した字、十二支の支は枝を略した字、だそうです。 すなわち干支(かんし)とは、幹(天の幹、天を支配する気)と枝(地の枝、地を支配する気) とのことだそうです。

木火土金水(もっかどごんすい、化学で習った元素みたいなもの)の五行と、兄(え:  中大兄皇子などの兄(え)、陽)と弟(と: 弟橘媛(おとたちばなひめ)などの弟 (おと)が変化した形・弟(と)、陰)の陰陽との組み合わせで、五行×(陽と陰)=計十干 となる(下表)。この思想を陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)と言います。これは 中国の紀元前の思想で、陰陽説と五行説とは元々は全く無関係な思想であった。

【 十干 】
意味読み漢字 読み
木の兄きのえコウ 1
木の弟きのとオツ 2
火の兄ひのえヘイ 3
火の弟ひのとテイ 4
土の兄つちのえ 5
土の弟つちのと 6
金の兄かのえコウ 7
金の弟かのとシン 8
水の兄みずのえジン 9
水の弟みずのと10

「漢字」の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」について。
(1)1位、2位、3位・・・の順位の意味で使われる。「甲乙( 二つのものの間の優劣) つけがたし」などと。
(2)複数の事柄が有って、それぞれに記号を付けて区別したい時に、仮に「甲」「乙」 「丙」などの記号を付けて区別する。例えば一方の契約当事者「甲」に対し、もう一方の 契約当事者「乙」などと。


 五行(5)と兄弟(えと)(2)との組み合わせ(計10)からなる上記の十 干と、
十二支 :子(ね、ねずみ)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う、うさぎ)、辰( たつ、りゅう)、巳(み、へび)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり、 にわとり)、戌(いぬ)、亥(い、いのしし) 計12
との全ての組み合わせは10×12=120です。ところが干支(かんし= 十干・十二支)は60年で一周する。
ということは

1)十干は十干で10年1サイクルで繰り返し、十二支は十二支で独自に12年1サイク ルで 繰り返す(参考書で調べたら正しかったです)。そうすると10と12の最大公約 数は2で、最小公倍数は2×10/2×12/2=60。ということで干支は60年で一 周し、翌年還暦する。
つまり昔のことですから、年齢を「 数え歳 」で数え、「数え歳」で61歳になった元日に還暦するということです(と言うか、「数 え歳61歳」のことを「還暦」と言います)。
ということで、現在使われている「満年齢」では、元日生まれでない人は、まだ満59歳 の年齢の内に還暦の年を迎えることとなります。
この60年1サイクルの干支の最初の年が「木の兄子」(きのえ・ね、甲子、近年では1 984年)で最後の年が「水の弟亥」(みずのと・い、癸亥、近年では1983年)。
甲子園球場の甲子園という名前は、1924年の甲子(きのえ・ね)の年と関係があるよ うです。

2)十干と十二支との全ての組み合わせが120個であるのに対して、干支が60年1サ イクルであるということは、干支サイクルにはその半分60個の組み合わせしか出てこな いということです。それで、それを確認するために、過去60年間の干支を調べてみまし た。そしたら「木の兄・子(きのえ・ね、1984年)」「火の兄・午(ひのえ・うま、 1966年)」の年はありましたが、「木の弟・子(きのと(の)ね)」「火の弟・午 (ひのと(の)うま)」の年は有りませんでした。


「下野国誌」によれば幕末のころ、十干のことを(エト)と呼んでたようです。 ところが最近は、なぜか十干十二支を略した「干支と書いてエトと読ませ、 意味は十二支のこと」です。(これを数字を使って表現すると、 「漢字で60と書いて2と読ませ12を意味する」となります。)

これ、どこの方言?いつからテレビがこんな不合理な言い方をマネするようになったんで しょう?テレビでよく聞くようになったのは2010年頃からのようです。その頃以降 「来年の干支(えと)は?」という言い方をしていますが、

それ以前は十二支を念頭にお いて「来年はナニ年?」という言い方をしていました。「来年の十二支は?」・「来年の 支は?」などとは言ってなかったですね(正しくは「来年は十二支のなに年?」と、 聞くべきなんでしょうけど)。
それに対して「来年は「うまどし」です。特に「ひのえうま」 の年です。」などと答えてました。

そう言えば、「ひのえうま」と同じような迷信で 「五黄の寅」 (ごおうのとら)というのも聞いたことがあります。

その他、似たような おかしな言葉

 おそらく2026年の丙午(ひのえうま)の年になったら、午(うま)ばかりでなく、丙 午(ひのえうま)のことも「干支(えと)」と呼ぶようになるんでしょうね。だって丙午 (ひのえうま)はまさに干支ですから、「えと」と呼ばなかったらおかしいでしょう。
この現象を漢字で表現すると、「そのうち、十二支のことも、干支のことも、どちらも兄 弟と呼ぶようになるでしょう」となり、これを数字で表すと「そのうち12のことも、 60のことも、どちらも2と呼ぶようになるでしょう」となります。全く訳がわかりませ ん。
(なお[広辞苑]を見ると、恐らく1955年初版のころ、「ひのえうま」など の干支をエトと呼ぶことがあったようです)

(まとめ) エトの意味の変遷
兄と弟(本来の意味)→十干(幕末の頃)→干支(第二次世界大戦の頃) →十二支(現在、2010年頃以降)→十二支と干支(将来、2026年頃)

2(本来の数)→10(幕末の頃)→60(第二次世界大戦の頃) →12(現在、2010年頃以降)→12と60(将来、2026年頃)

干支については、日本十二支学会のウェブサイト「干支はカンシ、エトは兄弟」に詳しい 説明があります。

(註11) 元々は煙(ケブリ?)村という名前の村だったが、今では癸生(ケブ)村と言ってるのは 、
ケブの漢字を隣郷の壬生(ミブ)(壬は十干の「みずのえ」)にあわせ るために、ケブのケを十干の癸(みずのと)とし、ケブのブを壬生のブ「生」と同じく「 生」として、ケブを「癸生」としたんだろうの意味。

(註12) この歌は[日光山紀行](1617年旅)に取り上げられておりませんので、 その後の日光社参時の歌でしょう。



















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