このウェブサイトの正式タイトルは[歌枕 室の八島 の 歴史の旅]です。 歌枕 :和歌に詠まれた名所などのこと。 [室の八島の真実]は、2020年01月から使い始めた略称です。 その前の略称は、2〜3年間[室の八島の歴史]でした。 「旅」と言っても実際に旅をするわけではありません。歴史上を旅するんです。 しょっちゅう 道草しながら。 皆さんは歌枕の室の八島がどんな所かって簡単に説明できるとお思いでしょう。ところがどっこい、 室の八島にはかなり複雑な、波乱万丈の歴史があるんです。 とても一言で説明できるような場所ではありません。 そのかなり複雑な、波乱万丈の歴史を紹介しようとい うのがこのウェブサイトの趣旨です。それでこのWS全部を読むのはかなりしんどいんです。 ところで、「恋の煙」って聞いたことありますか? 「恋の煙」 註書き(注書き)について 紙の本ですと、(註1)などと書いてある場合、その註1の内容が全然違うペ ージに書いてあって、探して参照するのが面倒なことがよくありますが、 このウェブサイト (電子書籍みたいなもんです)では、ワンクリックで註の説明文にジャンプしたり戻った りでき便利なんで、このジャンプをおおいに活用しています。 註の説明文にジャンプするばかりでなく、本文中の他の箇所にジャンプすることも多いで す。 例えば「これについては本文中のこの箇所を参照して下さい (例えばここ) 」っていうようなジャンプの仕方も多いです。これが紙の本と違って非常に便利なところ です。 なお赤字をクリックして備考ページなど他のページに飛んだ後もとの所に戻る時は、 画面左上の(←)のボタンで戻ってください。 メール 各ページの上下に、このようなメールボタン があります。これをクリックすると、「室の八島を名所にする会」宛てメールの「メッセ ージの作成」画面が現れます。 ためしに、上のメールボタンを押してみて下さい。すると「メッセージの作成」画面が現 れますので、何か書いて送信してみてください。どんな返事が返ってくるかな? ところで、[メール]画面に飛んでから、左上の(←)ボタンで元のページに戻ると、 元のページの一番上に戻っちゃうんだけど。 そして その同じことを何回も繰り返すと その内正しい位置に戻ることがあるので、 訳が分かりません。 どうすれば良いの?誰か教えて。 室の八島を名所にする会
会員細則 [tntenjiのプロフィール] 性別 男 年齢 かなりの老人です。 もとメーカーのしがない一研究員でした。と言いますか?プロの実験屋でした。 出身地は室の八島の地元です。 ただし、「室の八島」の存在を知ったのは、故郷を離れてかなり経ってからです。たまた ま読んだ本(本屋で[奥の細道]を立ち読みしたんかなあ)に紹介されていたので、その 時に初めて「室の八島」の存在を知りました。故郷にいた時には学校で教えられたことも ありませんし(栃木女子高でも教えられなかったようですね)、人から聞いたこともあり ません。ひどい話です。ところが今回調べてみて、「室の八島」がかつてはいかに有名な 名所だったかということを初めて知りました。 「室の八島」に興味を持ち、調べ始めたのは2004年初夏からです。きっかけは、参 考書によって「室の八島とは何か?」について言ってることがまちまちなので、「いった い本来の室の八島とは何か?」に興味を持ったことです。知りたかったのは「真実は何 か?」ただそれだけです。つまりその時に、たまたま「真実は何か?」知り たかった対象として室の八島に出会ったということです。その結果この謎解きにのめり 込みました。 「室の八島」の歴史については、調査開始後2か月で概略把握できましたが、[奥の細道 ]室の八島の段の曾良の話の解読には手こずり1年以上かかりました。そしてかけた 労力、いや脳力は学者の10年分以上でしょう。 なお、この分野は全くの専門外で、知識もありませんし、興味もありません。私はただ、 「真実は何か?」を知りたかっただけです。 [大辞林] 三省堂の国語辞典 [大辞林]参照。 この辞典では、「室の八島とは地名である」として、松尾芭蕉の[奥の細道]に書いて あり、多くの人が信じている「室の八島とは神社である」っていう話を全く相手にしてな いでしょう。 室の八島ってホントに神社なの? 訊けるものなら[奥の細道]当時 の当の神社に訊いてみたいですね、「お宅が室の八島なの?」。でも答えてくれ ないかもしれません。実は、室の八島が自分とこか否か知ってるんですが、正直に答えら れない事情が当時のこの神社にはあるんです。 えっ?どういうこと? まさかあなたは、[奥の細道]に出てくる室の八島を、神社境内にある、それぞれに小祠 を祭った八つの小島のある池だと思ってんじゃないでしょうね。[奥の細道]のどこに池 のことが書いてあるって言うんです?分からなければ何回でも読み返してごらん なさい。参考書の言うことは全く無視して、自分の頭だけで考えながら読むんです。もし あなたがそれをなさらなければ、このWSを読んでも[奥の細道]室の八島の段を理解す ることは不可能でしょう。 室の八島の段 なお芭蕉が訪れた当時もその神社の境内に池は有ったんですが、当時の池は現在のもの と全く違うものです。そして当時の池は今の池よりはるかに大きかったんですが、芭蕉は 池の存在に気付かなかったようです。 えっ?なぜ? というような疑問の答までこのWSでは解説しています。こんな資料他にはありません。 [小倉百人一首]と宇都宮頼綱との関係 宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・ 御家人・歌人。宇都宮氏5代当主。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く宇都宮歌壇 を築いた。 小倉百人一首は、宇都宮頼綱が京の別荘小倉山荘に住まった折に、藤原定家に選定して もらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている。 (註01) この(註01)は最後の文だけ読んでいただければ、途中は読み飛ばして結構で す。 → 以下はこのウェブサイト開設当時(2006年)の栃木市のウェブサイトに関す る話です。 栃木市のWS(リンク) に室の八島が紹介されているんですが、”室の八島”をキーワードにして「サイト内検索 」(2018年現在はできなくなりました)せずに、探せるものなら探してごらんなさい。 地元の栃木市から見捨てられてしまったと言ってる理由がわかるでしょう。 (栃木市の観 光資源) また室の八島の画面にたどりつけても、栃木市が史跡室の八島に指定している『この地 』(下記)がどこを指しているのか、あなたには分かりますか? 頭の体操になりますか ら是非挑戦してみてください。(2018年に再確認してみたら、室の八島のタイ トルは栃木市のWSのどこにも見当たりませんでした。) *2006年当時の栃木市のウェブサイトにあった室の八島の紹介文* 下野惣社(室の八島) 「大物主神を祭神とする大神(おおみわ)神社は、古くから「下野惣社」として知られてい ます。惣社とは、平安時代、国府の長官が下野国内にまつられている神々をお参りするた めに国庁に近い大神神社の地に(下野国内の)惣(すべ)ての神々を勧 請(かんじょう)し祀(まつ)ったものです。また、この地は、けぶりたつ(煙立つ)「 室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として、都まで聞こえた名所でした。 幾多の歌人によって多くの歌が残され、江戸時代には「奥の細道」の芭蕉も訪れています 。」 ところで当の大神神社は境内にある八つの小島のある池(小島にある小祠は含み ません)を 通説 室の八島であると案内しています。ところが上文のように栃木市は大神神 社の言うことを全く無視しています。筆者ならこの池を室の八島関連史跡として市の文化 財に指定したいです。だって通説だろうが何だろうが、300年も前から室の八島として 存在するんですから。 この紹介文を読んでも、室の八島が大神神社社の境内の事なのか、大神神社が在る辺りの 土地の事なのか分からなかったんで、栃木市教育委員会文化課にメールして 「栃木市が史跡に指定している室の八島とはどこですか?」と訊きました。 そしたら、要領を得ない返事が返ってきて、どうも「よく分かっておりません」という事の ようでした。そんなバカな、自分が史跡に指定して置きながら、その指定した場所 分からないなんてことあるか?! 上記質問に対するヒント この室の八島紹介文のタイトル[下野惣社(室の八島)]について、このよう に書いた場合、室の八島は下野惣社と関係有るの?無いの?またこのタイトル[下野 惣社(室の八島)]と本文中の『この地は室の八島と呼ばれ』の『この地』との関係 は? 『この地は』と言われると、室の八島は下野惣社と関係有る場所なのか、関係 無い場所なのかわからなくなってきました。読む人によって室の八島の場所が違ってくる でしょう。だから『この地』がどこか分かりますか、と質問したんです。もし室の八島が 下野惣社と関係ある場所なら、『この地は』などとせず、例えば「この神社の境内一帯は 室の八島と呼ばれ」のようにより具体的に書くべきですし、もし室の八島が下野惣社と関 係無いなら、[下野惣社(室の八島)]などとせず、史跡[下野惣社]、 史跡[室の八島]と分けて書くべきなんです。 栃木市は或る2つの文献史料(以下、史料と略す)を参考にして室の八島の場所を特定 していると考えられますが、それら2つの史料とは何と何か?これらの史料を史 料A・史料Bとすると、史料Aはよくご存知ですよね。史料Bは、地元の下野国の人が幕 末に書いたもので、栃木市が「室の八島」ばかりでなく 「しめじが原」「さしも草の 伊吹山」「しわぶきの森」などの歌枕 を市の史跡に指定する際にも重要視した史料です。そして「室の八島」を除く歌枕につい ては史料Bだけを根拠にして場所を特定していると言ってもよいのです。ですから「室の 八島」の場所を特定する場合でも史料Aだけでなく史料Bも参考にせざるを得なかったん です。そうして出来上がったのが上の文です。でなかったら、こんな分かりにくい文には なりようがないんです。史料Bの名前が分かりましたら巻末の「参考文献一覧」で探して ください。史料Bにある室の八島関係のほぼ全文がそこに載っています。さて、そこには 室の八島はどこだと書いてあるか?史料Aに書いてある場所と同じ場所だと書いてあるか ? 「参考文献一覧」 →まあ、そんなことより、史料Bを見れば、 1.室の八島が何かって、簡単にわかるもんじゃないんだなってことが分かるでしょ う。 また、 2.室の八島って史料が豊富なんだな、かなり有名だったんだなってことが分かるで しょう。 室の八島の真実に迫るポイントは、これら豊富な史料をいかに冷静な頭で解析し て答を導き出すかなんです。 (質問の答え) 圧倒的に多くの和歌に詠まれ 下野国の歌枕を詠んだ和歌の数 (厳密な数字ではありません、また、江戸時代以降の和歌は含みません。) 二荒の山 2首 黒髪山 3首 山菅の橋 3首 那須 4首 あその河原 5首 みかもの山 4首 室の八島 80首 室の八島の和歌一覧 なお、このWSを読めばわかりますが、百人一首で有名な歌枕の「伊吹山」なんか、下野 国に存在しませんよ。 有名な [広益俗説弁](1716−27年) 「俗説云、下野国室の八島は、往昔八島大臣といふ人住せしより其名を得たり。」 こんないい加減な説が世間に流れるほど、室の八島は江戸の町で有名だったと言うことです。 また、 索引と 参考文献一覧 とを見れば、室の八島に触れた史料がいかに豊富に存在するかわかるでしょう。 (註02) でも上方(かみがた)までは知られていなかったようです。 (註03) だから、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で「室の八島」を訪れたんです。 「奥の細道」の旅における下野国の最大の目的地は、日光でなく「室の八島」だったんで す。 現在、西日本の人達にとって、「日光はよく知っているが栃木県なんてどこにあるか知ら ない」という状態ですが、 江戸時代の江戸の町の人達にとっては「室の八島はよく知っているが、栃木なんていう宿 場町はどこにあるか知らない」って状態だったんです。 なお、名所と言うより、史跡(つまり かつての名所)と言ったほうが適当かも? (註04) 今まで、歌枕を歴史でとらえた研究はあったんだろうか? [奥の細道]解説書 「室の八嶋とは、栃木県栃木市惣社町の大神神社(おおみわじんじゃ)のことである」 (これは、松尾芭蕉という神様が言ってる事ですので間違いありません。神様は、 決して間違ったことは言いません) (考察)他の資料を参考にして、「室の八嶋とは神社である」って言ってるんだろう。と ころがその参考にした資料は何を根拠にしてるのかといえば、巡り巡って[奥の細道]に 戻るのである。なぜなら「室の八嶋とは神社である」と最初に言い出した史料が[奥の細 道](1689年旅、1702年刊)であり、他の史料・資料は全て、直接・間接に[奥 の細道]の影響を受けて「室の八嶋とは神社である」って言ってるんである。何のことは ない、「室の八嶋とは神社である」っていうのは解説などでなく、単に当の[奥の細道] にそう書いてあると言ってるだけである。← 室の八島は平安時代以来多くの和歌に詠まれた名所ですが、「室の八嶋とは 神社である」などとバカな事を言ってる史料は、江戸時代に書かれたこの[奥の細道]の 前には存在しません。歴史という視点を持ち込まないと、言い換えれば時間軸を導入して データ解析しないと、こういうことは見えてきません。ここで言う「時間軸を導入して データ解析する」とは、一例として次の「何でこんなことになったのか?」のように 解析することです。 ←何で こんなことになったのか? また或る[奥の細道]解説書は、『是(これ)、下野の惣社なり。其(その)社の前に 室のやしま有。小嶋のごとくなるもの八あり。 』と、芭蕉らが訪れた神社の前にある八つの小島のある池を室の八島としている貝原益軒 の [日光名勝記] (1685年旅、1714年刊)を紹介しておきながら、それを否定す ることもなく「室の八島とは神社である」と言ってるのである。そして神社の室の八島と 池の室の八島との関係については何も説明してないのである。こういう解説書のお陰で、 ほとんどの読者は神社の室の八島と池の室の八島とをごっちゃにしてるのである。両者は 由来(つまり歴史のことね)の異なる全く別の室の八島なんだが。 と言っても、松尾芭蕉や貝原益軒の時代、池の室の八島は存在したが、[奥の 細道]にある神社の室の八島なんてのは当時まだ存在しなかったのである(神社は存在し たが、まだ室の八島にこじつけられていなかったという意味。当時こじつけられ始めては いましたが)。こういうことも時間軸を導入してデータ解析したからわかったんです。 この[奥の細道]解説書の例からだけでも、歴史という視点を持ち込むこと、 言い換えれば時間軸を導入してデータ解析することがいかに重要であるかがご理解頂ける と思います。こういう解析をこつこつ積み重ねることによって初めて室の八島の歴史の全体 像が見えてくるんです。 それにしても、「室の八島の段」冒頭の『室の八島に詣す(室の八島に参詣し た)』を「室の八島明神に参詣した」と訳している奥の細道解説書が沢山あるの には開いた口が塞がりません。彼等は、有名な歌枕室の八島の「室の八島」という名称は 略称で、正式名称は「室の八島明神」だと思ってんです(それじゃ室の八島明神 という正式名称の頭にある「室の八島」って何なんだ?)。こんなんで室の八島 の段が解説できるわけがありません。読んでみるとしっちゃかめっちゃかです。肝心な所 は何一つ説明しておりません。 分かんないことだらけです。 (註05) 実はこの(2)がこの研究の一番の成果です。 (註06) 参考書などの著者が言ってること(個人的見解など)は、批判の対象にしても、一切 参考にしておりません。 と言いますか一切参考になりませんでした。と言いますのは関係史料を調べたら彼らの言 ってることが正しいか否かがすぐ分かったからです。なお史料についても、その著者の個人 的見解は一切参考にしておりません。その著者が個人的見解を出す根拠としたデータ(史 料など)だけが参考になるんです。 このWSに掲載した歌枕の研究は、ただ故郷に室の八島があるというだけで、それまで 歌枕などには全く縁が無く、興味も全く無かった 素人によるもの ですが、室の八島ばかりでなく、ここで取り上げた歌枕のどれをとっても市販の参考書の レベルを超えているでしょう。と言っても本研究は、歌枕を調べるなら最低この程度のこ とは調べるべきだろう、というレベルのものですが。裏を返せば歌枕は今まであまり力を 入れて調査されて来なかったということです。 このWSでは、史料を一つ一つ取り上げてその文を載せ、それぞれについて解析・ 考察するという書き方を採用していますので、個々の史料に対して筆者(この私)の 解析・考察が正しいか否か判断できるようになっています。ですからあなたはこの筆者の 言うことを頭から否定したりせず、言っていることが誤りか否か考えながら読んでください 。でもその作業はなかなかやっかいです。やっかいと思われる方は筆者の言ってることに は目もくれず、引用されている史料だけを古いものから順にずらっと眺めてみて下さい。 それだけでおおよその室の八島の歴史が見えてくると思います。 そして多くの参考書の説明に対して、そんなの有り得ねえということがわかるでしょう。 ただし、[奥の細道]室の八島の段については、そんな簡単なことでは理解できま せん 。まず筆者の答を見て、それからその答が参考史料の内容と食い違っていないか判 断してください。史料を見ただけでは答は見えてこないでしょう。 なお、歌枕そのものばかりでなくその歌枕を歌人がどのようなイメージとして捉えるか についても大なり小なり歴史的な変遷があります。そこで和歌を解釈する上においても、 その歌人がその歌枕の歴史上のどの時代の歌人であるかを知らないと、和歌の 解釈を誤る おそれがあります。しかし、歌枕をまともに歴史で捉えたのはおそらく この研究 が初めてでしょう 。そういうことでこの研究は画期的な研究なんです。歌枕の調査は今後この研究から再ス タートします。そしてその主役は素人である我々なんです。現在のように情報技術の発達 した時代、必要な情報は我々素人でも充分集められます。おそらく、その歌枕の地の人が 情報を集めるのが、一番集められるでしょう。 しかし、歌枕の調査なんてのはなさらない方が賢明です。なぜなら、このウェブサ イトの室の八島以外の歌枕の調査結果から分かりますように、分かるのは、「多くの通説 は根拠に乏しい」ということだけで、それじゃあ本来の歌枕は何なのかと問われたら、そ んな大昔のことは情報量不足で分かりようもないということが分かるだけですから。 (註07) 実は、曾良は神社に騙されたんです。神社という表現は正確ではありませんが。 (註08) 実は、芭蕉が室の八島で詠んだ俳句 <糸遊に結びつきたる煙哉> が一つの答えです。 室の八島の字義 室 :いくら調べてもこの室に該当しそうな意味は分かりません。こういう時は、 「室」は例えば土地の名前ではないかと考え、「八島」を説明する言葉ではないだろう と割り切ると気分が楽になります。 八島 :「大八洲(おおやしま)」「八尋殿(やひろどの)」「七重八重」などから考えて、 八島は八つの島の意味でなく、沢山の島の意味でしょう。 西暦900年頃 室の八島を詠んだ和歌で現存するもののうち最古のものが、西暦900年頃に詠まれたも のであるということを言ってるつもりです。室の八島が最初に和歌に詠まれたのは もっと古いでし ょう けど、最初の和歌なんて残っておりません。 歌枕(うたまくら) 和歌に詠まれた名所。名所だったから和歌に詠まれたのか?和歌に詠まれたから名所にな ったのか?それが問題だ。 下野国府(しもつけこくふ) 国府(こくふ、こう)とは : 奈良時代から平安時代に国司が政務を執る国庁が置かれ た都市。国府付近には国庁のほかに国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置されていた。 下野国府の在った場所は、現在の町名で言うと、栃木市の国府町、惣社町、大光寺町、田 村町、寄居町、大塚町、柳原町辺り。 下野国庁の位置(宮野辺神社の境内辺り)は 【地図】 (参考) 下野国庁・下野国府 景勝地 (参照) [袋草紙]源経兼の逸話 [千載集] 推測される 推測されるが、正確なところはよく分かりません。解析には自信がありますが、「当時の 室の八島」そのものに関する情報量が少ないので断言は避けます。 1100年頃までに 『1100年頃までに』と言うか、もうちょっと前の1000年頃までに既に本来の景観 を失っていた可能性があります。もしかしたら、室の八島を詠んだ和歌で現存するものの うち最古のものが詠まれた900年頃に既に本来の景観を失っていたかもしれません。室 の八島が本来の景観を保っていた頃の室の八島の実景を詠んだものであると分かる歌が一 首も無いので、室の八島がいつ頃まで本来の景観を保っていたかがわからないんです。 (註1)中世の室の八島 ここでは便宜上平治の乱(1160年)頃以降を中世としています。 あろうことか、今まで全くと言ってよいほどその存在が知られていなかったこの中世室 の八島の時代が約450年間も続き期間的には一番長いのである(更に近世までその影響 は残るのであるが)。そしてこの時代の室の八島は、本来の場所から位置が少しずれただ けのものであった。すなわち本来の室の八島が自然の営みによってか、人工的な干拓によ ってか、その景観を失い存在感がなくなったので、室の八島の中心が、室の八島の周縁部 にあって存在感のある下野国府の集落の方に移動し、その結果下野国府の集落を中心とす る一帯が室の八島であると考えられるようになったものと思われる。 そしてこうなると、或る人は室の八島という漠然とした地域の中に下野国府の集落があ ると考え、また或る人は室の八島とは下野国府の集落そのもの、あるいは下野国府の集落 の地のことであると考えるようになったものと思われる。つまり自然の成り行きなのだろ うが、人によってそれぞれ考える室の八島が異なり始め、後代になればなるほどそれは激 しくなるのである。そういうことで、この時代はまだよい方で、次の時代とその後の時代 になると怪しげな室の八島が次々と登場して来て、ついには本来の室の八島から想像もつ かない荒唐無稽な室の八島に成り果てるのである。と言うことであなたがご存知の室の八 島とはその成れの果ての姿なんです。 など この場合の「など」は他にも室の八島が存在したことを意味します(近世は室 の八島の池のように怪しげな室の八島が次々登場してくる時代である)。例えば 、当時室の八島の池のあった惣社村の北側に接していた 癸生村 (けぶむら)辺りが、その村名が室の八島の煙(けぶり)に関連付けられて室の八島の地 であると考えられていた(この村は、芭蕉と[奥の細道]の旅を共にした曾良の旅 日記に「毛武(けぶ)ト云村アリ」と出て来るあの村のことです。 [曾良旅日記] )。 なお室の八島の池の場合は下野国外まで知られて、近世を代表する室の八島であるが、こ ちらは下野国外までは知られていなかったようだ。ただし下野国内ではこちらの室の八島 の方がよく知られており、歴史の流れから考えれば室の八島の池より古くから存在したの ではないかと思われる。 そう考えるのは次のような理由による。 中世になって下野国府の集落一帯が室の八島と考えられるようになると、また室の八島の 景勝地は下野国府の集落一帯のどこかにかつて存在したのだろうと考えられるようになる。 そうして誕生したのが癸生村辺りの室の八島であろう(本来の室の八島についても、 湿地帯全体を室の八島とする見方(広義)と、その中の景勝地だけを室の八島とする見方 (狭義)の両方が存在したであろうことは十分考えられるのである)。一方、室の 八島の池の場合は、当然のことながら作られた当初はそれが本来の室の八島でないことは 村人は皆知っていた。それが時が経つにつれて忘れられて、いつしか本来の室の八島であ ると誤解されるようになったものと思われる。つまり癸生村辺りが室の八島であると考え られるようになるより、単なる人工の池が室の八島と誤解されるようになる方が可能性は ずっと低いし、時の経過もずっと必要なのである。 なおこの人工の池が室の八島と誤解されるようになったのも、上記の「室の八島の景勝 地は下野国府の集落一帯のどこかにかつて存在したのだろう」という考えに基づくものだ ろう。そうして癸生村辺りの室の八島にしろ、人工の池の室の八島にしろ、最初に下野国 府の集落一帯に該当する室の八島が生まれ、これらはその後に誕生したのである。そうし て広義の室の八島(下野国府の集落一帯)と狭義の室の八島(癸生村や池など)は並存す ることとなる。広義だ狭義だなどと意識する人はいなかったでしょうけど。 と言うことで近世になっても「下野国府の集落一帯」の中世室の八島のイメージは残る のであるが、近世には下野国府のあった場所は既に分からなくなっており、「下野国府の 集落」のイメージは「かつて栄えた室の八島の町」へとイメージを変えるのである。そし て松尾芭蕉・井原西鶴初め江戸の人たちの多くが聞いていた室の八島とはこのイメージな のである。もしかしたら室の八島の池より、この「かつて栄えた町」の方が江戸時代を代 表する室の八島のイメージなのかもしれない。しかし、イメージより現実に存在する室の 八島の池の方が印象は強いので、「かつて栄えた町」というイメージの方は江戸時代後期 にはほぼ消えてしまったものと思われる。下野国内には残っていたようだが。 なお、近世には室の八島を神社とする松尾芭蕉の[奥の細道]が登場してくるが、[奥の 細道]の言うことが多くの人に信じられるようになるのは第二次世界大戦後なので、近世 の室の八島の説明の所には書きません。 (註3)近世の室の八島 近世には、[広益俗説弁](1716−27年)の「俗説云、下野国室の八島は、往昔 八島大臣といふ人住せしより 其名を得たり 。」(それじゃあ、室の八島の室はどんな意味なの?)というかなりい い加減な俗説まで生まれますが、これは、こんないい加減な俗説が生まれるほど室の八島 の名が世間に知れわたっていたということです。 (註4)近代の室の八島 近世までは一般民衆によって作られた室の八島の歴史であるが、近代に入ると学者が口 を挟んできて引っ掻き回し、それまでの歴史からかけ離れた新しい歴史の時代へと突入す ることとなる。 なおこの近代室の八島の時代は、前後の時代との間に歴史的な繋がりの見出せない特異 な時代である。 大神神社 【地図】 所在地は栃木市惣社町で、かってこの付近は下野国府の集落(つまり後の中世室の八島 の地)であった。 この神社は本来下野国の惣社で、惣社制度がなくなった後は、かつて下野国府の集落が あった辺り一帯の土地「室の八島」と、室の八島と土地の範囲の違いのはっきりしない「 惣社郷」との両方の土地の、と言うか、両方の土地の名を持つ神の、神社になったと考え られ、江戸時代には「室の八島大明神」・「惣社大明神」(主神は木花咲耶姫命)などと 呼ばれていたが、明治時代の1900年頃に 延喜式 に記載の神社、すなわち式内社の 「大神社」 に付会されて大神神社(主神は 倭大物主櫛みか 玉命 )に 替えられた ものである。 小さな池 この小さな池は近世のところに書いた「八つの小島のある大きな池」の水が涸れてしま った後に作り替えられたもので、どちらの池にも日光の神ほかの小祠が祭られていた。そ して近世においては、それまでの室の八島の歴史から考えれば自明のことながら、小祠は たまたま室の八島の池に祭られているだけの存在でしかなかった。そして戦前までそうだ ったのである。ところが戦後はおかしなことが起きて小祠が室の八島の主要な構成要素と なっている。 なお作り替えられる前の池は、室の八島とはこんな所ではなかったかと想像して作られ たもので、今の池よりずっと大きかった(池の大きさは「40m四方もあったろうか」、 との史料もある)。 現在の池は(松尾芭蕉が訪れた1689年には、まだ存在しなかったのである)、 1738年頃に、池中の小島にある 小祠をお参りできるようにと作られたもので 、池が大きい必要はないので小さくし、池の島に渡れるよう小さな 橋を架け 、島の表面を平らにしてある。 但し小島のある池と言っても、島にする予定の8箇所の地面は掘らずにそのままにし、 それらの周りを廻り廻って掘り下げることによって、一工程で池と島とを同時に 作ってあるので 、島の高さは地面と同じであり、表面は元々平らである。よく御覧なさい 。池の中に島が作られているというより、島の周りに水路が掘られているとしか見えない でしょう。これに対して、室の八島とはこんな所ではなかったかと想像して作られた元の 池は、それがどんなであったか説明しなくても想像できるでしょう。それは村人が本物の 室の八島と誤解するような池だったんです。 と言うことで、現在の池は、江戸時代前期の代表的室の八島であった大きな池を、こん な人工の池は室の八島ではない(当然ですが)として、神社自身が作り 変えてしまったものですから、神社が今の池を(通説)室の八島であるなどと案内するの はとんでもない。そんなことは元の池を復元してから言え。但し元の池があった場 所の大部分は現在、公道・宅地 (大宮司邸の敷 地) ・水田などに変わっていて元の位置に池を復元するのは難しい。そこでいっそのこと拝殿 の前に巨大な室の八島の池を再現して、参道を参宮橋に替えたらどうか? (註5)戦後の室の八島 戦後の室の八島は、松尾芭蕉の[奥の細道]を起源として、それから派生したもので、 [奥の細道]の解説者によって作られ読者によって支持されて来た イメージである 。 [奥の細道]には室の八島として神社が紹介されているので、その影響を受けて、戦後の 室の八島も本文に書いたように宗教絡みの室の八島となっている。しかし[奥の細道]( 1702年刊)が登場するまでは室の八島は宗教と無縁な存在だったのである。 こういうものであるから戦後の室の八島は直前の室の八島である戦前の室の八島と全く 繋がりがなく、特異な歴史的経路を経て誕生した室の八島である。 このような現象が起 きたのは、戦前までは室の八島はそこそこ世間に知られていたが、戦後はほとんど知られ なくなり、唯一[奥の細道]にしか登場しない(ホントはそんなこと無いんですが )歌枕として[奥の細道]の読者くらいにしか知られなくなってしまったためで ある。 加えて[奥の細道]「室の八島の段」に何が書かれてあるか、解説者や読者らは字面し か理解せず、その中身を全く理解していないために起こった現象である。と言うのは、戦 後は本文に書いたように大神神社および/またはその境内にある、それぞれに小祠を祭っ た八つの小島のある池が室の八島であると広く信じられており、神社の室の八島といって も、境内の池から立ち昇る水蒸気を室の八島の煙と考えているのか、池は神社の室の八島 の心臓部なのである。しかし、[奥の細道]に直接的表現はないが、室の八島の段は、「 室の八島とは神社のことであり、池は室の八島と関係ない」と言ってるのである。 「室の八島の段」 要するに戦後の室の八島は、[奥の細道]を起源とするが[奥の細道]に描かれた室の 八島そのものではなく、[奥の細道]の内容を誤って理解したその解説者や読者らによっ て作られた誤った「奥の細道室の八島」のイメージなのである。そしてそのイメージが、 [奥の細道]の影響を受けて宗教が絡んできた、すなわち小祠を室の八島の主要な構成要 素とみなす「八つの小島のある池」と、この宗教絡みの池が取り込まれてしまった[奥の 細道]に紹介されている「神社」の室の八島との二つである。 このように、現在(2006年)の室の八島が誕生したのはなんと戦後(1945年以 降)であり、室の八島の長い歴史から見ればつい最近のことなのである。 縁語 三省堂 の国語辞典[大辞林]より 「修辞法の一。和歌や散文の中などで、一つの言葉に意味上縁のある言葉を使って表現に 面白みを出すこと。また、その縁のある一組の言葉。 例えば、「青柳の−糸よりかくる−春しもぞ−乱れて花の−ほころびにける/古今(春 上)」では、「より(縒り)」「乱れ」「ほころび」がともに「糸」の縁語となる。」 (柳の糸:細くてしなやかな柳の枝を糸に見立てていう語) (考察)「より(縒り)」「乱れ」「ほころび」が「糸」の縁語であることは、我々現代 人でも理解できます。そしてこんな関係は、わざわざ縁語と呼ばなくても、関連語と言え ばいいんです。 ところが、[能因歌枕]には、「かくもぐさとは、雨のふるをいふ」とあり、「 かくもぐさ 」と「雨」とが縁語関係にあることが分かります。しかし、「かくもぐさ」と「雨」とが なぜ縁語関係にあるのか?我々現代人には全くチンプンカンプンです。こういう訳の分か らない縁語も結構ありそうです。そう、このウェブサイトの「室の八島」と「煙」との縁 語関係のように。 そして、「室の八島」と「煙」とのように関連性はよく分からないが 縁語関係 にある二つの言葉を詠みこんだ和歌がたくさんある場合の縁語が、縁語らしい縁語なんです。 (註6)恋の煙 「恋の炎」「恋に身を焼く」「恋い焦がれる。胸を焦がす」など、現在でも恋心は火に譬 えて表現されるが、和歌を調べると、室の八島の歌が登場してくる西暦900年頃、それ 以前の昔から恋心は火に譬えられており、そして 恋の思い(→胸が熱くなる?)−火− 煙 の縁語関係が出来上がっていたようだ。 [寛平御時后宮歌合] それに対して 恋の思い−水−煙 などという縁語関係は成り立ち得ない。それは、「 他人 (ひと)の恋に水を差す 」と言う言葉が有ることからも分かるように。そのため1100年頃以降に登場してくる、室 の八島の煙を 水蒸気とみなした和歌 に恋の歌は一首もない。 ところでこれは日本独特の発想・表現なんだろうか?外国ではどうなんだろう? 架空の煙 室の八島の煙が「恋の煙」という架空の煙であることは、大学などで室の八島の和歌を勉 強された方達は皆さんご存知のようです。 八島 たくさんの島という意味。 掛詞 三省堂 の国語辞典[大辞林]より 「主に韻文で用いられる修辞上の技法の一。同音を利用して、一語に複数の意味をもたせ るもの。たとえば「わが身世にふるながめせしまに/古今(春下)」の「ふる」が「降る 」と「経る」、「ながめ」が「長雨」と「眺め」のように、また「その手は桑名の焼蛤( やきはまぐり)」の「食わない」と「桑名」のように一連の字句に二語の意味をもたせる 場合をいう。言い掛け。」 (註7) ということで、初期の歌(現在まで残っておりませんが)の構造は、 室の八島の「八島」−(掛詞)−竈(神)を意味する「八島」−(縁語)−煙− (縁語? 関連語)−火−(縁語)−恋の思い (掛詞と縁語を多用するのが平安時代の和歌の特徴のようです。) となっており、室の八島は、煙だけでなくその先の恋の思いまで縁語関係で結ばれていた ものと思われる。そして 藤原範永の歌 などは、ここから中間部分が省略されて「室の八島」と恋の思いとが直接縁語関係になり 、さらに恋の思いに関する言葉(「お慕いしております」など)が省略されて、「室の八 島」という言葉で「お慕いしております」を代用している形と思われる。つまり、上記「 初期の歌の構造」が、時代が下るにつれて次のように変化していった結果と思われる。 → 室の八島−(縁語)−煙−(縁語)−恋の思い → 室の八島−(縁語 )−恋の思い → 室の八島(=恋の思い) 筆者の一研究によれば、掛詞と縁語に関する和歌の構造は、この例のように時代と共にか なり変化していくようです。 なお室の八島は当初そこが景勝地だったからという理由で和歌に詠まれるようになった ものと思われるが、多くの和歌に詠まれるようになったのは、室の八島が煙を介して恋の 歌と結びついたからだと思われる。恋の歌に取り上げられたために、多くの歌人に詠まれ るようになったのだろう。(その後室の八島は恋と関係なくなってしまったのだ が。)また室の八島が下野国府の近くに在ったために、古代の街道東山道を経由 してその名が都に伝わり、室の八島の名を広めた効果も大きかったでしょう。そうして室 の八島は和歌によって有名になったのだが、殆どの人は和歌にある室の八島の名だけしか 知らず、室の八島の実体を知らないのである。現存する和歌の中に、本来の室の八島を知 っていて詠んだものは一首も無いかもしれない。 室の八島 歌枕室の八島は、[小倉百人一首]の和歌に取り上げられておりませんので、現在では 松尾芭蕉の[奥の細道]くらいでしか知られておりませんが、下野国府付近にあったと考 えられる下野国随一の歌枕で、「絶えず立つ室の八島の煙」のように煙と結びつ けて数多くの歌人に詠まれております。そして日光に東照宮が作られて日光に取って代わ られるまでは、下野国に無双の名所でした。江戸時代には、徳川三代将軍家光 (1640年旅)、[養生訓]の著者でおなじみの貝原益軒(1685年旅)、俳人 松尾芭蕉(1689年旅)、その他の歴史上の人物が訪れその足跡を残しています。但し 、彼らが訪れた当時の室の八島は、既に本来の姿ではありませんでしたが。 (註11) ( 「目次」 の「和歌一覧」と「参考文献一覧」をクリックして確認して下さい) このWSに引用した江戸時代までの史料は全て、[日本歌学大系]などの市販本の中味や インターネットWSなどを室の八島のキーワードで隈無く探せば見つかる史料ばかりです 。つまり筆者のような素人でも探せた史料ばかりなんです。素人が探してもこれだけ沢山 の史料が見つかったということは、室の八島に関する史料がいかに豊富に存在するか! ということです。 (註12) 学者達は、[奥の細道]を読んで、「室の八島などというあんなつまらない歌枕に、史料 が豊富にあるわけがない」と信じきってますから、誰も調べてないんです。調べるのは、 せいぜい「こんなつまらない歌枕でも、和歌は結構多いんだな」程度の内容までです。 が、それ以前に「歌枕なんぞは学者がまともに取り組む研究対象ではない」として、歌 枕は今までまともに研究されて来ておりません。その結果、中には歌枕調査方法の「いろ は」も知らない学者がろくに調べもせずに歌枕を解説することになります。 室の八島については、比較的詳しく書かれた下記書籍の内容と本研究の成果を比較すれ ば、室の八島に関する従来の研究レベルがわかろうというものです。 ・[下野のおくのほそ道]丸山一彦監修、栃木県文化協会、1977年 ・[なにしおう室の八島]牧口正史、随想舎、1988年 ・[東国の歌枕]高橋良雄、桜楓社、1991年 ([歌枕の研究]高橋良雄、武蔵野書院、1992年) ・[東国歌枕]佐佐木忠慧、おうふう、2005年 これは立派な研究書ですが、この本でさえ内容にかなりムラがあります。現 時点で一人の著者がこれだけ多くの歌枕を解説するには無理があるようです。つまりそこ まで歌枕の研究が進んでいないということです。 本研究に当たっては参考書の著者の見解は一切参考にしておりません。ただしそれらの 参考書に引用されている史料は大いに利用させて頂きました。感謝しております。 全く歯が立たなかった [奥の細道]について書いた本の中には『唯一室の八島の段だけは何が書いてあるの かさっぱり分からない。』と正直に白状しているものがあります。 勿論、この本は[奥の細道]解説書なんかではありませんよ。[奥の細道]解説書が『 何が書いてあるのかさっぱり分からない。』などと言っていたら、誰もこの解説書を買っ てくれません。ですから解説書の著者は『何が書いてあるのかさっぱり分からない。』こと を隠して、適当なことを言って誤魔化します。例えば「木花咲耶姫」の「姫」について、 これは「ひめ」と読むべきか?それとも「びめ」と濁って読むべきか?だって。「室の八 島」の段を理解する上で、そんなのどっちでもいいでしょ。 奥の細道]解説書の例でびっくりしたのは、「室の八島」の段の無い解説書に遭遇したこ とです。実際、そういう[奥の細道]解説書が有るんです。 「室の八島の段なんて重要な段じゃないし、何が書いてあるかわかんないから、 いっそのこと省いちゃえ」という考えから省いちゃったんだと思いますが、唖然とし ました。 神社 先に言いましたように、神社という表現は今後とも正確ではありません。あとできちんと 説明しますので悪しからず。 (註13) しかし、地元の人達は賢明なことに神社に騙されなかったようで、下野国の人が室の八島 について書き残したものに、室の八島とは神社であるなどと書いたものは一切ありません 。いやこの神社は、「室の八島とは神社である」などと言って氏子を騙すことは なかったのかも知れません。当然のことながら、「室の八島が神社であるなどとは馬鹿馬鹿 しい」と当の神社自身が一番よく知ってましたから。 (補足説明) そして近世になって木花咲耶姫がこの神社に関係してきた初期のこの神社の祭神は木花 咲耶姫の御子でしたが、後に木花咲耶姫本人に替えられます (註1)。 そして祭神が木花咲耶姫本人に替わってから、この神社は、室の八島とは当神社(の境 内一帯)のことであるとして、祭神・木花咲耶姫の故事に絡めてその由来を言い出します が、木花咲耶姫がこの神社の祭神になるのは、何と1689年に芭蕉らがこの神社を訪れ るちょっと前、7年以内(=1682−1689年)のことです(ですから「室 の八島とは神社である」などと馬鹿なことを言う史料は、近世より前に存在する訳がないん です) 。 木花咲耶姫の御子の時代には、この神社は、室の八島とは、池であり (註2) かつ池の所在地であるかつて栄えた町でもあるというようなあいまいな認識をしていたん ですが(本来両者は狭義と広義の室の八島の関係なんですが、そんな認識がない んでこういうことになるんです。)。 ところで木花咲耶姫の御子の時代に木花咲耶姫本人はどうしてたんでしょう?姫は故郷 である室の八島の町を離れて富士山へ行き、富士山の神になっていました。とい う木花咲耶姫の御子の時代のこの神社の縁起のお話です。(縁起(=起源・由来 )の話ですから木花咲耶姫が富士山の神になった時期も、御子がこの神社の祭神になった 時期も昔々のことですということになってます。)そして、室の八島とは神社で あるというのは、木花咲耶姫がこの神社の祭神として故郷の室の八島に戻ってきてから (註3) 新しく作られたこの神社の縁起の話です (註4) 。 もちろん木花咲耶姫の故郷が室の八島であるなどとは神社の縁起譚上での話です。なお 芭蕉時代の浅間神社の縁起譚でも祭神木花咲耶姫の故郷は下野国(の室の八島)であると いうことになっていました。そういうことになると同じく木花咲耶姫を祭神とする浅間神社 とこの神社との関係はどういうことになるんでしょう?是非推理してみてください。驚く ような結論が導き出されます。でもそのことは当時の各地の地誌を収録した[日本鹿子] (1691年刊、読みはニホンガノコ?)の、この神社・ 室八嶋大明神の項 にも載っているんです。それがこの神社が両縁起話(御子時代の縁起話と木花咲 耶姫時代の縁起話)を通して一番言いたかったことです。ですから曾良の話とい うのはそのことが中心なんです (註5)。 でも芭蕉はそんなことより歌枕室の八島の由来の方に興味がありますので、[奥の細道 ]には室の八島のことをより詳しく書きました (註6) 。しかし「かの有名な歌枕室の八島とは当神社のことである」なんてのは、木花咲耶姫が 祭神になってから神社の権威付けのためにでっち上げた付け足しの話に過ぎないんてす。 さて少しは[奥の細道]室の八島の段の解読のヒントになりましたか?詳しくは本文を 読んでください。でも、この箇所は解説書的要素より、研究論文的要素の方が圧 倒的に強いので、ややこしくて頭が痛くなりますよ。 神社縁起室の八 島(または[奥の細道]室の八島) (註14) 市販の本ではありませんが、2011年に学会誌に発表された研究論文に1件見 つけました。 駒沢史学76号(2011)〔研究ノート〕「鷲宮神社の祭神 ―近世における祭神変容の一 事例―」池尻 篤(インターネットWS(PDF)有り) 本来の室の八島の所在地説明 −下の略図参照− [日本地誌]日本地誌研究所等編、二宮書店、1987年 にある栃木県全体の地形図 によれば、大雑把な話ですが、栃木市街西方にある永野川と、東方にある思川(おもいが わ)に挟まれた地域は、学術的に「巴波川低地」(うずまがわていち)と呼ばれているよ うです。そしてその低地では思川の伏流水が地表に湧出して、巴波川を形成し、栃木市街 を貫流しています。 栃木市街から見て、かって下野国府のあった国府(こう)地区は東北〜東方にあり、 北方の川原田町付近は巴波川の水源であって、かって湿地帯であり、 東方の大宮地区にも、赤淵川など平地の湧水を水源とする巴波川の支流が流れており、か ってはかなり広い面積の湿地帯があったと思われます。 また下野国府付近と比べて開発の遅れた栃木市街付近は、巴波川が貫流しており、近世ま では湿地帯も残っていたことから、古くは湿地帯であったと推測されます。 (略図下に詳細地図があります)
[国府地区](中世室の八島) (国府町・惣社町・大塚町・柳原町・寄居町・田村町・大光寺町) 下野国庁は、900年代初め頃まで大宮地区の東、思川の西の田村町にあり、その跡 【地図】 が発見されていますが、その後、その北 の国府町、惣社町寄りに移転した可能性があります。それに伴って国府の集落の中心も移 動したのでしょうか?田村町から国府町、惣社町にかけて国府関連の地名が沢山残ってい ます。ただし、それらの地名がいつの時代のものか詳しく調べる必要があろうと思います 。 [巴波川水源地帯の湧水] 【地図】 【地図】 【地図】 [大宮地区の湧水] (大宮町・平柳町1-3丁目・今泉町1-2丁目・仲仕上町・藤田町・久保田町・宮田町・高谷 町・樋ノ口町) 【地図】 【地図】 [栃木市街] 入舟町の中央小学校付近は、かって鶉島(うずらじま)といって、低湿地帯でした。 【地図】 |