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第5章 近代室の八島・第6章 現代室の八島 以降の備考


国府の跡
「大字国府にあり、今は勝光寺といえる寺の境内となりて、北と東西とに塁湟(るいこう?、 城柵と堀)の形を存せるのみ。(以下省略)」

花見ケ岡の旧跡
「大字大光寺にあり、僧親鸞幽居の地なりという。この地に蓮華寺という梵刹(ぼんさつ) あり」

(参考)[下野国誌]より、
[親鸞聖人行録]に、『下野国に御経廻ありて、室のやしまという所に、暫く御住居まし ますとなり。 御旧跡の所は、室明神の東にあたりて、「思川」という 渡り あり。それよりまた東に越えて、 花見が岡という小山あり。是上人御幽居の跡なり。此所 を大光寺村という。近隣に大なる池あり。 上人常に愛させ給えリとて今にあり云々』。

(考察)花見ケ岡の旧跡とは、かつて『親鸞(1173−1263)が室の八島に百日間 (親鸞と縁語みたいな関係にある数値)逗留した』という伝説の地・今の下野市国分寺 1301の浄土真宗 本願寺派 紫雲山 蓮華寺の所 【地図】 と大蛇済度(大蛇から人々を救ったこと)の伝説(各地にあるようだ)のある蓮華寺境内の池 とのことでしょう。

蓮華寺の現在の住所は下野市国分寺ですが、[宇都宮四近町村略志](1892年)当時は、 蓮華寺の所まで国府村(現栃木市内)大字大光寺だったんですね。但し、国府村が栃木市に 編入された年・1957年5月発行の[栃木市政だより]では、寺の名前は花連山となっており、 地番は栃木市大光寺町となっています。また池の名前は、親鸞沼と言い、現在は存在しませんが、 当時は池が存在したようです。

景行天皇四十二年(景行天皇vs崇神天皇・豊城入彦)
 景行天皇(けいこうてんのう、生没年未詳、古墳時代)四十二年は、 [室八島山諸書類調控帳] (1838年編集)では「十二代景行天皇四十一年」。これが現在の 大神神社の由緒 では「第十代 崇神天皇 (すじんてんのう)の皇子 豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)が東国治定の時」と、崇神天皇や豊城入彦に関連付けられています。 この景行天皇から崇神天皇、豊城入彦に替わるのは、この神社が明治時代の大神神社に なってからのようです。おそらく時の政府によって書き改めさせられたんでしょう。 同様に明治時代になって由緒の内容を書き換えられた神社が他にも多数あるんでは ないでしょうか?

地方(じかた)
江戸時代、町方(まちかた)に対して、村方(むらかた))のこと。「在方」(ざいかた) とも。農村。

室ノ八島の旧跡
『当社の地方は、元ト 室ノ八島の旧跡 なり』の表現から、この「室ノ八島の旧跡」とは 松尾芭蕉の[奥の細道]室の八島の段にある無戸室の故事の旧跡のことかと思いましたが 、次の「室の八島」の項を読むと「室ノ八島の旧跡」とは単に「歌枕の地」という意味の ようです。

天正六年
『都賀郡の式内なる大神神社ハ当社の境内に在りしを、 天正六年 北条氏直皆川広照と戦 闘の時、兵火に罹りしにより、その後当社の相殿に祭し』は、総社明神時代のこの神社の 由緒書きにある内容でしょう。神社がこの総社明神から現在の大神神社に替わると、この 天正六年(1578年)が、なぜか天正十二年(1584年)または十三年(1585年 )と変わります。おそらく、総社明神が兵火によって焼かれたなどという記録は無いでし ょう。少なくとも皆川氏を描いた軍記物語[皆川正中録(せいちゅうろく)] にはありませんでした。

[大日本博覧図 栃木県之部]
 青山豊太郎 編、精行舎、1890年刊。
この中に下野惣社が宣伝のために金を払って彫ってもらったと推測される「室之八嶋大神 社之図」と銘のある細密な銅版画があります。これを見ると下野惣社は自社を「室之八嶋 大神社」と名乗っていたようです。この「大神社」はまぎらわしいですが、「おおみわの やしろ」でなく、「だいじんじゃ」と読むんでしょうか?この神社を[宇都宮四近町村略 志]では「総社明神」としていますので、統一された神社名は無かったんでしょう。

惣社村以外の室の八島説
(1)都賀郡内説
1−1)[閑田次筆]1−14(かんでんじひつ、江 戸後期の随筆。4巻。1806年刊)
 伴蒿蹊(ばん こうけい、1733−1806年)著
「室のや志まに立つ煙ハ、よよの歌にきこゆ、志かるに其の所を貝原翁の日光の記の付録 に、・・(前出「日光名勝記」)・・と記さる、此の頃、かの国の士の一説を得たり、こ れハ一所にあらず、嶋と号くる所八村、倶に都賀郡にて、鯉が島・高島・萩嶋・大川島・ 卒(ソ)島・曲(マガ)の嶋・沖の島・仲の島等なりとぞ (註1) 、いづれか是なることを志られど、見きくままに記す、さて煙ハはたして水気か、又里の 煙か志らず、室といふハ若一所ならバ、惣社村の古名か、都賀郡の所々をいふとならバ、 郡内にて室といふ惣名ありしや、弁ふべからず、室といふ名も煙によしあり」

(考察)『(室の八島が)都賀郡の所々をいふとならバ、郡内にて室といふ惣名ありしや (これらの村々をひっくるめた室という地名があるか?そんなのありゃあしねえ じゃねえか)、弁ふべからず』は、全くごもっともなご意見です。

(参考)[下野国誌](1850年)
 河野守弘 著
「室の八島・・・また或る人は、都賀郡の 茂呂駅 の辺りなる、中ノ島、曲ノ嶋、 鯉が島、大河島、萩島、高島、卒嶋、島田等の八ケ村をさして茂呂の八島なりなどいへる は、付会の説にも論にもたらず。」

1−2)[奥の細道の下野](1950年刊)
小林晨悟 著、栃木渋柿会
「室の八島とは、往古、下野南部を室と云ひ(単なる空想)、八島とは数 々の島で、思川、巴波川、赤麻沼などが水郷をなしており、村々が島のやうに見えたので 、室の八島と呼ばれたのを、此の地に今も村の名を残す下野国府が置かれて、役所に下っ て来た都人に、煙のあはれを詠はれて歌枕となり、此の地の名になったのだと云ふ (誰が言ってるの?)。」

(考察)室の八島をかなり広く考えたようですが、この可能性があるか否かのポイントは、 平安室の八島の章に書きました「移動メカニズム」が解明できるか否かでしょう。

(2)那須郡内説
[答問雑稿](1802−1822年頃)
 清水浜臣  著
「○室のやしま
 下野の室のやしまは、よよの人の言の葉におほくよみきたりたるを、はやくよりつたへ をうしなひて、其あとさだかならぬを、近きころ、結城と壬生の中ほどなる 大神神社 の森のうちに、高き塚八ツをきづきて(これ、水の涸れた元の室の八島の池の八 つの小島のことを言ってるようです)、ここなんいにしへの室の八島よと、人目 をまどはし、又西のかたニ三里へだたりたる大平山を、あぢきなく世のえせもの の伊吹山ぞといひならはして、<伊吹の山を−尋ねなば−むろのやしまの−西に あり>てふ、 ふる歌 の心をとりて、彼大神のみやしろへまうづる人々を、あざむきいつはらんとす也。されど かくまうけなせしも、はやく四十年五十年の昔となりぬれば、其偽たどりしれるものしも 、をさをさまれになりて、物しらぬ賤の男、しづの女が耳にふれ口に残りて聞人もあやし まず。まがこともまこととつたへあやまり、およづれ言((妖言):根拠のない、人を迷 わせる言葉やうわさ。)と聞なして、過来ぬるよ、いといとかたはらいたき事なん有ける 。

 ここに大やけよりわがとほつおやの賜りて、うみの子のつぎつぎにあづかりしる、那須 の あがた の野末はるかにひろき所に、いにしへ某の親王の、此国守にてくだり給ひし時、氷室とせ させ給ひしあととて、大野室、薄室、迯(=逃)室、柏室、数が室、室の井、岡室、板室 てふ名の残りたるあるなり。又ほど近き山ぎしに、 磯上 といふところあり。
 われ一とせ那須の嶽にのぼりて、四方を見おろせるに、葉末を分るのちのあらしのおと なひは、大海原の沖つ波打よするがごとく聞なされ、四方の木だちは、ゆふべの霧けぶり あひたる中に、遥けき海原と島とも見えまがひぬれば、まこと此野には八所の室の名残れ るこそ、いにしへの室の八島といひけん所には有けめ。
 又那須野のさかひちかき所に波立、塩先などいふ所あり。これも近きほとりなれば、海 辺の名もてよびならはしたりと見ゆ。皆其よしあるが中に、那須の嶽は嶺に今もけぶりと はにたちおほひたり。いにしへは今よりもましてたちのぼりけんかし。
 かくて思へば、(那須の嶽を)伊吹山とよみしもことわり、伊吹は息吹 にて、神代紀にもいぶきのさぎりなどいへれば、すべてけぶりのたちのぼる山おば、いぶ き山とはいひしなるべし。又「(下野のいぶきの山を尋ねなバ)室の八島の西にあり」て ふ歌もていはば、那須の嶽は此野の戌亥(いぬい、北西)にあたりて、迯室などよりはま たく西に当れる也。されば、とにかくに考あはせて、室の八島は那須野にあるをいふべき にて、結城と壬生とのあはひなるは、後の世の人のさかしらとおもひわきまふべき事にな ん有ける。
 此考ハ 黒羽侯 ノミヅカラ彼地ニオハシタルヲリニ考玉ヘルナリ。」

(参考)室の八島の煙=湯煙説
[奥細道註](江戸時代後期か?調査未了)
「室温泉大権現(?)ハ下野国 伊吹山 の麓に垂跡。室温泉大権現ハ六位(?)に して座す。湯泉寺(?)真言宗当山修験寺也。
 ・・・・・・
正一位(?)室八島温泉大明神(?)。今の大宮室温泉大明神(?)是也。神霞の山に立 せ給ふ、是名所也。室の八島の事ハ島の里今は十むろの余里あり。八つハ地の数なれば八 百万八千代経八ちまた八島ハ八つにかぎらず。地の数をもちて八しまと云なるべし。八重 と云に同じ。室ハ温泉の浴室の事也。けふりハ湯煙りの事なり
 ・・・・・・
法性寺内大臣時の歌合 に女房攝津、
 絶えずたく−室の八島の−けふりにも−猶立まさる−恋もするかな
判者基俊也。基俊の曰、絶えず焚くの五文字を難ハし侍り。水靄にして湯けふりなれバ、 誠の煙リにハ非ずにや。「かくと谷絵」と実方の読侍るも此けふりとさしも草のけふりと かけ合せ侍る也。此室の八しまハ伊吹山よりの勝景にして奇也。惣社村室の八島ハ後の事 也。千蔭先生(加藤千蔭 かとう ちかげ、1735−1808)も此×を著出す。
塩原温泉の内、板室、逃しむろなど、湯けふりにむすぶ室あり。」

*この文に関心のある方は解読してみて下さい。[奥の細道古註集成〈1〉1・ 漂泊の思い〜26・瑞巌寺]西村真砂子・久富哲雄 編、笠間書院、2001年 に全文掲載されています。

(3)芳賀郡内説
[日光開祖勝道上人略伝](1901年)
 田中福太郎 編、田中福太郎 刊
「今を去ること一千年の昔下野国芳賀郡高岡(現在の真岡市内)といへる郷に世にも稀な る高徳の少年ありけり。この少年こそ後世に名僧の名を残し給ひし勝道上人と敬ひ奉る御 方なれば、・・・天平七年(735年)四月二十一日正中に上人を高岡の郷室の八嶋 に産み給ひき・・・」

(考察)芳賀郡内説はおそらくこの勝道上人の誕生地からきたものでしょう。そして、 「高岡の郷室の八嶋」とは、前出の[補陀落山建立修行日記](鎌倉時代)にある、勝道 上人の先祖である巻向尊(まきむくのみこと)が下野国の室の八島に住みついたという記 述に由来するものでしょう。

坤(ひつじさる)方五丁弱
南西方向500m弱。

大神神社の誕生(補足)
 「明治五年(1872年)郷社に列す。」の時点では、まだ大神神社にはなっていなか ったでしょう。その後いつの頃からか、明治政府による社格制度、式内社重視の政策に対 応するために、下野惣社自身が自社が式内社の大神社であると主張し始めたんではないで しょうか?

 と言いますのは、既に1800年代から式内社大神(神)社は下野惣社であるとする史 料(答問雑稿)が登場しています。また[栃木案内](阿部善蔵 著、阿部善蔵 刊、1 914年)によれば、いつ頃のことか、惣社明神の「路傍に延喜式内大神社といふ石標」 が建てられていたようです。そしてそれ以前の1750年頃に徳川幕府(吉田神社)によ る式内社調査([日本輿地通志]編纂など)が実施されますが、その頃から既に下野惣社 を大神社とする説が存在したようです。 (参考 「室八嶋一宮」の石仏 有り)

 式内社の大神社であるという下野惣社の主張はその後政府に認められて、1907年の 神幣帛料供進社指定、1911年の県社昇格に繋がったということでしょうか?このように 考えますと、これは惣社大明神(室の八島大明神)から大神神社に変わったのではなく、 もともと大神神社であったことが認められただけということになりますから、これこれの 年に大神神社に替わったという年は表に出てこなかったんではないでしょうか。

 下野惣社は、国家神道の廃止された太平洋戦争後(いや今でも国家神道みたいなもんで しょう)もあいかわらず大神神社ですが、下野惣社自身が式内社の大神社であると言い出 したことですから、今更惣社大明神(室の八島大明神)に戻す訳にはいかないんでしょう (うがち過ぎ?)。・・・しかしこの神社は是が非でも元の神社に戻さなければなりませ ん。皆様のお力添えをお願いいたします。

水引(ミズヒキ)
タデ科イヌタデ属の草本。和名は、紅白に見える花序(花の配列)が水引に似ていることに 由来する。
多年草で、高さ30〜80cm。茎の節部は膨らむ。
時季(初夏の頃)によっては 葉に「八」の字の模様(鼻緒のような模様)が入る。

(註3) 戦前までは、[奥の細道]を引き合いに出して室の八島を説明する史料は皆無だったんです。
江戸時代前期に室の八島を池から神社に転換しようとした吉田神道の目論見
([奥の細道]の「室の八島の段」の筆者(この私)の解説 「下野惣社の縁起に見る吉 田神道の野望」 参照)
が、その約300年後、すなわち吉田神道がその権力を失った遥か後にこんなことになろうとは、 京都の吉田神社もあっけにとられて、さぞ開いた口が塞がらないことでしょう。

(註4) インターネットで室の八島を検索すると、大部分は[奥の細道]に登場す歌枕として 紹介されております。しかしそこで説明されている室の八島は[奥の細道]に書かれてある 室の八島そのものではありません。
だからといって[奥の細道]の室の八島が否定されているわけではありませんので、 これらの室の八島が皆[奥の細道]の室の八島から派生したものであることがわかります。
つまりウェブサイト開設者は皆自分が紹介している室の八島が[おくの細道]の室の八島だと 思って誤った「おくの細道」の室の八島を紹介しているわけです。

境内案内
「大神神社
 今から1800年前に、大和国三輪山の大三輪神社の分霊を奉祀し建立されたと伝えら れ、別名『八島大明神』。
 境内の池には8つの島があり、八神が祀られています。池からは絶えず水蒸気が立ちの ぼり、煙の名所「室の八島」と称され、「糸遊に結びつきたるけぶりかな」(松尾芭蕉) をはじめ、多くの歌人に詠まれています。」

(考察)これは大神神社が境内に立てた案内板「大神神社案内図」にある文です。「別名 『八島大明神』」と言うのは明らかな嘘です。大神神社の主祭神は大物主命ですが、『八 島大明神』の主祭神は木花咲耶姫命でした。と言うことは、別名云々ではなく、大神神社と 八島大明神とは違う神社だったということです。江戸時代の『八島大明神』(主祭神は木 花咲耶姫命)が、明治時代に「大神神社」(主祭神は大物主命)に替えられたものです。 いや、これだけでなく、上記の文の全てが呆れる程のデタラメですが。


栃木市指定文化財(指定第三十八号)
下野惣社(室の八島)
        昭和四十三年(1968年)二月十六日指定
 大神神社は、今から1800年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えら れ、祭神は大物主命です。
 惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神 々を勧請し祀ったものです。
 また、この地は、けぶり立つ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都 まで聞こえた名所でした。幾多の歌人によって多くの和歌が、残されています。(以下和 歌は省略)             栃木市教育委員会」

(考察) こういう案内板を大神神社境内に立てたということは、栃木市教育委員会は大神 神社の境内一帯を室の八島としているようです。栃木市教育委員会は、どういう根拠があ ったのか知りませんが、室の八島は神社と無関係であると書いてある [下野国誌] や、室の八島とは境内の池であるとしている神社の言うことより、[奥の細道]に紹介され ている、芭蕉時代のこの神社の嘘ばっかり書き連ねた由緒書きの方が正しいと判断したよ うです。ご立派。

 『おおみわの神は大和の三輪神で、山そのものが御神体として知られている。』が、故 荒川宮司によれば、栃木市の大神神社の 御神体は男体山 だそうです。どういうことなのか素人の筆者には全く理解できませんが、御神体と祭神は 無関係のようです(神社とはご神体を祭った社であるから、社に祭られていない ものがその神社のご神体であるわけがないでしょう。これから、神社がいかに歴史に翻弄 されてきたかがよく分かります)。どうも神社であるということだけ認めてもら えれば、御神体が何であろうが、祭神が誰であろうが、神社にとって「そんなの関係ねえ 」ということのようです。
 ところで、栃木市は1968年に「下野惣社(室の八嶋)」を文化財の【史跡】に指定 しています。そうすると史跡でない方の大神神社とは何者でしょう?大神神社は明治時代 にこじつけられたものですが、栃木市教育委員会がそんなことを書いたら、大神神社から 案内板を境内に掲示することを許可されなかったでしょう。それで下野惣社と大神神社と の関係について案内板で触れることができなかったんでしょう。


碑文
「奈良の都で孝謙天皇の御信任が厚かった道鏡禅師は天皇崩御まもない西暦770年下野 薬師寺の別当として赴任の際この室の八島神領に久しく住んだと伝えられている
(室八島大明神勧進帳にあり)
2010年4月7日
道鏡を守る会」

(考察)
室の八島神領: 弓削道鏡(ゆげのどうきょう、700年 - 772年)の時代、室の八 島は下野国府の集落付近の広大な湿地帯・沼沢地だったはずなので、「室の八島神領」の 表現は全くのナンセンス。室の八島が神社とされるのは、ざっと江戸時代の松尾芭蕉の [奥の細道](1689年旅)以降です。

(室八島大明神勧進帳にあり): これは[室八島山諸書類調控帳](1838年)に有る 偽書でデタラメな内容の「1675年の下野国室八嶋大明神勧進帳」のことです。

歴史に関するでたらめな記述は、このように21世紀になっても存在することにご留意く ださい。


「下野惣社【史跡】
 惣社明神、室の八嶋明神ともいう。下野惣社として知られたもので、祭政一致の時代、 毎朝国司がおまいりした神であり、それは下野国中に分布する神々におまいりをするかわ りにこの神社に奉幣する。いわゆる惣社の神であった。おおみわの神は大和の三輪神で、 山そのものが御神体として知られている。国司がその神をおむかえし惣社に相殿としてま つったものがいつの間にかこの神の名を以って、おおみわ神社と唱えられることになった ものです。」

(考察)この案内板に掲示者の表示が無いところをみると、この案内板はこの神社が掲示 したんでしょうか?
 『大和の三輪神を祭った大神神社に下野国の全ての神々を祭って下野国惣社とした』と いう嘘ばかりでなく、反対に、この案内板のように『大和の三輪神を下野国の惣社におむ かえし相殿としてまつったものが、いつの間にかこの神の名を以って、おおみわ神社と唱 えられることになった』って嘘もあるんですね。どうせ嘘をつくなら前者の嘘に統一した らどうですか?下野国の惣社に他所の国の神を祭るって、不合理でしょう。


室の八島を元の池に戻しました。
[下野のおくのほそ道]栃木県文化協会 編、栃木県文化協会 刊、1977年
「なお、 『下野風土記』 に記してある、室の八島(の池の島)の竹を持って富士登山をするという習俗のことは、 江戸時代の俳人宝馬の『日光山紀行』(1777年刊)にも、『諺に、富士に詣づる人、 この社頭の笹をとりて登れば山よしとて、今もすなり』とある。宮司の荒川真澄氏による と、かなり最近まで行われていた由である。」

(考察)[日光名勝記](1685年旅)の後、下野惣社は室の八島を池から神社に替え ますが( [奥の細道]現代語訳 )、その後も[下野風土記]の「島の竹」が宝馬の[日光山紀行]の「社頭の笹」 (註9) に替わっただけで、池が室の八島であった時代の風習は生き続け、この[下野のおくの ほそ道](1977年刊)が書かれた頃まで残っていたようです。ですから神社は、外面 だけでも池を室の八島であると認めざるを得なかったんです。

大神神社の由緒・沿革
(1)故荒川真澄宮司(−2004年?)作の修正版でしょうか?
由 緒
 人皇第十代崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国治定に際し、この地に来られた時に天変地 異相次ぎ、悪疫流行し民衆が疫幣していたので、景勝の地室八嶋に大三輪の神を 奉斉したところこれらのことが正しみ、人心大いに安定したと言う。
 延喜式神名帳に下野国に十一座定められた折、当社はその筆頭に名神小として記されて いる。名称は大神社(ムワのカミ)毎年の祈年祭(トシゴイのマツリ)には国司の奉幣あ り、また国の大事には奉幣し神意を伺ったと言う。
 古文書には 「絶えず立つ−煙や室の−八嶋 守る−国津神の−誓いなるらむ」 とあり、当社祭祀の起国をよまれていると思う(ご冗談を。この「国津神」とは 具体的な神社を指したものではないでしょう。当時はまだ室の八島と神社は全く繋がり無 し)
沿 革
 延長4年(926年)に 惣社が創立されて (註10) 、国司が国府所在の当社は国中の名碑を奉斉して朝夕礼拝する事になり、惣社六所 明神と称することになった。ここに大神の威徳は益々高く、社殿楼門宏壮を極めたとある 。
 天正十二年(1584年)北条氏直と皆川広照交戦の時、皆川の敗残兵が室八嶋に籠も った為、兵焚に羅り宏壮華麗であった社殿、楼門全て焼失し(そんな記録は無い )、その後再建の力もなく境内に小祠を建てて僅かに祭祀のみ継承されていた。
 寛永17年(1640年)4月20日三代将軍家光公が東照宮社参の折名勝の地室 八嶋に立寄り参詣された折に名社の余りにも衰退していることを嘆かれて社人等の請 願も容れて諸大名に命じて多数の金品の寄進をされた。(徳川実記  註11) それによって天和2年(1682年)5月現在の社殿に修復し、往時の荘厳さをとりもど した。
 大正7年(1918年)野中猪三郎氏が東京より来栃して当社の社司に就任するや社殿 の朽頽の激しさを見て、その改修と社殿の位置関係を改めようとして知事の許可を受けて 自らも私財を投じ氏子崇教者の協賛を得て浄財の寄進を仰ぎ、改修に着手して大正14年 (1925年)11月起工、先づ境内地の模様替えをし現在の配置に改め、さらに神饌所 、神札授与所、幣殿を併設して大正15年(1926年)4月1日竣工、4月15日正殿 遷座祭を斎行した。
 昭和18年(1943年)には戦局の重大時に際して銅板ぶき鳥居2基を金属回収の為 撤去して、昭和18年10月木造鳥居とした。昭和24年(1949年)11月にはこの 二基の鳥居に銅版を貼り現在に至る。

(考察)この由緒・沿革は明治時代に作られたものを荒川宮司が修正したものと推測され 、江戸時代の惣社大明神(室の八島大明神)時代のものとは全く異なります。
 延喜式神名帳にある大神社に下野国の神々を祭って下野惣社としたというような記録は ありません。1700年代中頃には、太平山神社が{自社が延喜式神名帳にある大神社で ある}と言っています ([下野国誌]大神社) 。 下野惣社が、自社が大神社であると言い出したのは、その頃以降でしょう。
 家光が「諸大名に命じて多数の金品の寄進をされた。」は、[徳川実紀]にはなさそう です。[室八島山諸書類調控帳](1838年編集)あたりを参考にしたんでしょう。


(2)2006年当時の大神神社のパンフレットに書かれた由緒
 第十代崇神天皇の長子豊城入彦命が使命をうけて東国治定の時、天皇の崇拝厚い大和三 輪山の大三輪大神「奈良県桜井大神神社」を当地室八嶋の琵琶島に奉斎した。景行天皇は 42年国々の府中に六所明神をまつり惣社六所明神と称した。これが後に室八嶋明神とな った。それがいつ大神神社という名前の神社(主祭神は大和大物主櫛みか玉命) に替わったの?現在、木花咲耶姫を主祭神とする室八嶋明神などという神社は存在しませ ん。

(嫌み)現在の全国の神社の創建は大部分神仏習合時代のはずですが、その由緒に はまるで神仏習合時代以前から存在したように書かれてあります。このことから神社の由 緒なるものが明治時代以降に作られた全くの作り話であることがよくわかります。

(考察)琵琶島とは、 [下野風土記] (1688年編著)によれば室の八島の池にある八つの小島の一つですが、 [室八島山諸書 類調控帳] (1838年編集)では、それが惣社明神誕生ノ地で惣社明神ノ元宮があった清水池 (所在不明。少なくとも今の場所ではありません)の名前(or清 水池の在る場所の地名)と変わり、この2006年の大神神社の由緒では、室の 八島の地の中の、現在の大神神社の在る場所の名前と変わっています。どうも琵琶島とは 架空の地名と考えた方がよさそうです。

・ (大神神社の境内案内と由緒・沿革についての考察)
上記の 境内案内大神神社の由緒・沿革 とには、江戸時代のこの神社の真実については一切書かれていませんでしょう。江戸時代 の史料が豊富に存在するにもかかわらずです。
どうしてかって?
それをまともに書いたら、大神神社は1900年以前には存在しなかったってことがばれ ちゃうからです。ですから江戸時代のことは触れないに越したことはないんです。

通説
祭ってある小祠を含めて「通説」室の八島としているのかどうかは分かりません。神社が 近世室の八島をイメージして「通説」と言っているなら、小祠は室の八島に含まれませんが、 戦後の室の八島をイメージして「通説」と言っているなら小祠は室の八島に含まれます。 「通説」の文字は、先の荒川真澄宮司(−2004年?)が付け加えたものと思われますので、 恐らく前者でしょう。小祠が室の八島の一部であるなどとは、先の荒川真澄宮司の頭には はなから無かったでしょう。

なお「通説」の文字は2012年までは有りましたが、2016年の時点では消されていました。 それは、荒川真澄宮司が亡くなられた後、室の八島の知識の全くない太平山神社の宮司が 大神神社の宮司を兼務するようになったからです。
(2019年に見た他の人のウェブサイトによれば、故荒川宮司の息女・荒川育子さん (1956?−)が 権禰宜 (ごんねぎ)であるとの事。太平山神社との関係はどうなったのかな?)

[栃木県市町村誌](1955年刊)
 明治以降、中世室の八島の「下野国府一帯」のイメージは完全に消滅したと思っていま した。ところが、室の八島を解説した本ではありませんが、何と戦後の1955年に書か れたこの資料にそれが見つかりました。2006.09.23
[栃木県市町村誌]、平井恒重編、栃木県市町村誌刊行会、1955年刊 の 「富田村」 の項です。

なお、市町村によっては歌枕を紹介している市町村もありますが、内容が馬鹿馬鹿しいの で[栃木県市町村誌]の文は一切紹介しません。

水気(デジタル大辞泉より)
A.水気(みずけ、みづけ)
  物に含まれている水の量。水分。すいき。「―の多い果物」

B.水気(すいき)
 1 みずけ。しめりけ。
 2 水蒸気。水煙。
 3 からだがむくむこと。水腫(すいしゅ)。浮腫(ふしゅ)。「少し―が来たようにむく んでいる」〈芥川・鼻〉

(考察)この文の場合は、「すいき」と読んで、「水蒸気、水煙」を意味するようですね 。

(註6) 昔、宮中では、竈を隠語で「八島」と呼んでいましたが、後に竈の煙と下野国の歌枕・ 室の八島の煙との煙繋がりから、竈(八島)をシャレで「室の八島」と呼ぶようになりました。
これ私が言ってんじゃありません。 [散木集註] に書いてあるんです。

言問ふ
=質問する。
在原業平((ありわら の なりひら、825−880年)
 名にし負はば−いざ言問はむ−都鳥−わが思ふ人は−ありやなしやと

勿論室の八島が答えるわけはありませんので、『室の八島のこと問ひ』とは「室の八島で 占うこと」という意味になります。

[大辞泉]小学館
[広辞苑]発行(1955年)の10年後の1966年に企画が持ち上がるが、出版され たのは、その30年後の1995年。

(註7) 温泉でもないのにそんなことあるわけないだろ。アホか。

設問に対する解答と解説
[解 答]  2.(この室の八島とは境内にある八つの小島のある池を指し、小島にあ る小祠は室の八島に含まれません。)
[解 説]
 先代の宮司は、(江戸時代の)通説室の八島である八つの小島のある池が境内にありま すと言う意味で、この看板を立てたんです。八つの小島にある小祠まで室の八島と関係が 有るなどとされるのは戦後のことです。
 なお、宮司本人は、惣社町一帯はかつて景勝地であって、それが本来の室の八島である と考えていました。

1(神社であり、池は含まず)
 これは松尾芭蕉の[奥の細道]に登場する室の八島で、当時のこの神社がこじつけたも のです。
2(池である)
 江戸時代に主流であった室の八島です。
3(小祠である)
 アホか! でもこう信じている人が確かにいるんです。
4(神社と池であり、小祠は含まず)
 こういう室の八島はありません。
5(池と小祠である)
 戦後の室の八島です。
6(神社と池と小祠である)
 これも戦後の室の八島です。
 戦後の室の八島の特徴は[奥の細道]の影響を受けて、宗教絡みの室の八島となってい ることです。[奥の細道]が登場するまでは、室の八島は宗教とは全く無縁のものだった んです。

発想・手順・技法−歌枕調査方法の基本
 室の八島は、歌枕として多くの歌人に詠まれ、また江戸時代には松尾芭蕉の[奥の細道 ]に登場するほどの名の知られた歌枕であり、多くの学者によって解説されています。に もかかわらず、的を射た解説はひとつもありません。おそらく室の八島を学術的に取り上 げて調査したのは、筆者が初めてでしょう。

1)発想
 [奥の細道] には「室の八嶋に詣す」、すなわち歌枕室の八島とは神社であると書いてありま す。池については一切触れておりません。曾良が「この神は木の花さくや姫の神」と言っ ているのに、室の八島をまさか八神を祭っている池だと考えた方はいらっしゃらないでし ょうね。それにしては、インターネットで調べると神社でなく池を室の八島としている[ 奥の細道]愛読者のほうが多そうですが、[奥の細道]解説書は室の八島を何だと説明し ているんでしょう。解説書によっては貝原益軒の [日光名勝記] を紹介していますが、[日光名勝記]は「其社の前に室のやしま有」と、室の八島は神社 ではない、その前にある池だと、[おくの細道]とは違うことを言っているんですが。解 説書の著者はこれをどう説明しているんでしょう。

 ここで{解説が何かおかしい。[奥の細道]が正しいのか、[日光名勝記]が正しいの か?}と疑問を持たずに、例えば{広義の室の八島は神社であり、狭義の室の八島は池と いうことか}、あるいは{室の八島は神社であり、境内の池から立ち昇る水蒸気が室の八 島の煙のようだ}などと、勝手に解釈して納得してしまっては、室の八島とは何なのかを 解明するきっかけはつかめません。読み返してみれば分かると思いますが、両者の言う室 の八島は明らかに異なるのですから。

 更に{本来は竈のことで、それを下野の室の八島に付会したものである}という解説を 読んだときには、{それじゃあ、付会する前の下野には何があったのか?}という疑問を 持つ必要があります。何もないところに付会することは不可能です。その説明が無いのに 竈説をそのまま鵜呑みにするわけにはいきません。

 室の八島について何ら予備知識のない我々は、学者の言うことを鵜呑みにしたくなりま すが、根拠を示さずに言っていることは、単なる思いつきで言っているか、先人が想像で 「〜だろうか」と言ったことを鵜呑みにして断定的に「〜である」と書いている可能性が ありますので、疑ってかかる必要があります。このWSをお読みになったあなたはお分か りと思いますが、学者、つまり参考書の著者の言うことを鵜呑みにしてそのまま書いたと ころは一箇所もありません。調査の初期から学者の言うことは全て無視しました。データ 、つまり史料重視です。学者の言うことを鵜呑みにしていたらこの室の八島の歴史をまと めあげることは不可能だったでしょう。

 そして室の八島として神社、池、竈説と出てきたら、「これらのうちどれが正しいのか 」と考えるのではなく、「いろんな室の八島が出てくるということは、現在室の八島とは 何なのかが分からなくなっているということだ。しかし本来の室の八島はひとつのはず、 さて本来の室の八島とは一体何だったのか?」と疑問を持つことが重要です。室 の八島が何なのかを解明できるか、できないかは一にこのような疑問を持てるか否かなん です。しかし過去にこのような疑問を持った学者は一人もいなかったようです。このWS は、この「本来の室の八島とは何だったのか?」に興味を引かれて調査した結果をまとめ たものです。

 以上のように調査の目的が「本来の室の八島は何かを調べること」と決まれば、次に書 きます手順とか技法とかは自然に定まってくるものなので、ここで説明する必要も無いと 言えば必要の無いことです。

2)手順
 本来の室の八島は、室の八島に触れた最古の史料が現れる以前から存在したはずです。 室の八島が存在しなければそれを史料に残すことはできません。しかし最古の史料以前の 室の八島を調べることは困難です。そこで最古の史料が室の八島調査の起点(基点)とな ります。これが調査手順の基本です。近年の学者が言っていることを精査しても何も生ま れてきません。学者が書いた本に引用されている史料だけが参考になります。そしてそれ らの中から最古の史料を探し出し、調査の起点とします。

 ここで近世に書かれた[奥の細道]などを調査の起点とすることはきわめて危険です。 上で述べましたように、江戸時代には本来の室の八島からずれてしまっている恐れがある からです。どうも近世に書かれた史料を調査の起点にすると、それ以前の中世室の八島や 平安室の八島に到達することは不可能なようです。よく分かりませんが、「時間は逆に流 れない」と同じような原理が働くようです。一つ言えることは「因果関係を逆にすること はできない」、つまり先代の史料を参考にして後代の史料が書かれることはあっても、後 代の史料を参考にして先代の史料が書かれることは有りえないということです。何を言い たいかといいますと、後代の史料を参考にして先代の史料を解釈したり、先代の史料に書 いてないことを類推することは極めて危険であるということです。事実そうなんです。そ れをやったために、何回か痛い目に遭いました。

 最古の史料を調査の起点としたら、それから順に調査・解析を進めていきます。そうし ますとある時点から室の八島が変貌していることに気がつきます。中世室の八島の下野国 府一帯の土地は、そうして存在があきらかになったものです。これを後世の史料である[ 奥の細道]辺りから調査を始めていたら、例えば[平治物語]を見ても「大神神社ばかり でなく、その周辺の土地も室の八島に含まれるのか」で終わっていたでしょう。そして歌 枕(と言っても歌枕の実体ではなく、歌枕のイメージとか比定される場所などですが)と は時の流れとともに変化するようだと気付くことが重要です。後代の史料になればなるほ ど、それに書かれてある内容は本来の歌枕からずれてきます。特に平安時代が終わって鎌 倉時代になりますと、都と歌枕の現地との交流が希薄になるためでしょう、史料の内容が 大きくずれてきます。それで平安時代以前から存在した歌枕を調べようとしたら、鎌倉時 代以降の史料はほとんど役に立ちません。それで平安時代以前の史料を中心に調べること になりますが、平安時代に既にわからなくなっている歌枕も多そうです。

 結局最も信頼すべき史料は最古の史料です。そこでまず最古の史料を充分解析し、それ から順に新しい史料の解析に移っていくやりかたが重要です。室の八島については、大江 朝綱か[古今和歌六帖]読人不知の<下野やー室の八島にー立つ煙ー思ひありともー今日 (or今)こそは知れ>の和歌が最古の史料です。最古の史料といっても一首の和歌です。 しかし、これには室の八島とは何かを推測する上で重要な室の八島という歌枕の名称が登 場しています。また煙が室の八島の縁語のように使われています。これら歌枕の名称や縁 語関係を解析・考察することはもちろん他にもいろいろ調査しなければらなないことはあ ります。

 参考書によっては、古い史料から順に解析していくのではなく、時代の異なる二つの史 料を取り上げて「一方ではこう言い、一方ではこう言っているが、どちらが正しいのか? 」などと、まるで同一時期に書かれた2史料が違うことを言っているかのような書き方を しているものがありますが、こんなやり方をしていたらまともな答えが出るはずがありま せん。実はこういう参考書が非常に多いんです。というより史料の作成年代をまるで無視 して考察しているものが多いんです。つまり歴史という視点がまるで欠けているんです。

 作成年代の異なる2史料がありそれらの言っていることが異なっていたら、「その間に どのような変化があったのか」を調べることが重要です。その変化がわかれば、新しい方 の史料に書かれてあることが、なぜそのように書かれるようになったのか経緯を知ることが できます。つまり歴史が繋がることになります。ところでここでもし新しい方の史料を基 準にして、古い方の史料の内容を判断しようとしたらどうなるでしょう。それは 以前に書きましたが 判断を誤る恐れが高いので非常に危険です。どうも時間は逆には流れないと認識しておい たほうが良さそうです。

3)技法
 最古の史料を起点(基点)として時代を上下し調査を進めるためには、当然ですが全て の史料の作成年代を知る必要があります。といってもそれは不可能です。しかし「鎌倉時 代に作成された」程度の漠然とした作成年代でもわかれば結構使えます。その程度のこと もわからなければ資料として使えません。場合によってはAの史料の作成年代はBとCの 史料の間であろうと推定することも重要です(つまり、絶対年代が分からない時 は、相対年代を知ることも非常に重要です)。この作成年代を調べるのが一仕事 です。

 それと言い遅れましたが和歌も一首一首が貴重な史料です。和歌は先に詠まれた歌を参 考にして詠まれることが多いので、詠まれた当時の歌枕の実体とずれている可能性が高い んですが、作歌当時、作者がその歌枕をどのようにイメージしていたかがわかります。和 歌を作成年代順に並べて観察すると、ある時期から歌枕のイメージが変化するのに気付き ます。これも歌枕の歴史を知る上で重要なことです。また和歌を含めて史料の作成年代に 100年もの空白期間があれば、その間に本来の歌枕がわからなくなってはいないか、な どと考えることも必要です。

 以上が調査を進める上での基本で、当然といえば当然のことです。そしてこの基本に則 って忠実に作業を進めることが肝心です。筆者のような全くの門外漢で県外に住んでいて も、近隣の公立図書館の機能は充実しており、またインターネットという便利なものがあ りますので、本来の室の八島とは何かを解明しようという執念さえあれば、このWSの内 容程度のことが調べられます。それだけ室の八島に関する史料は豊富だとも言えますが。 [奥の細道]室の八島の段で曾良の話したことを解読するのに1年以上掛りましたが、室 の八島の歴史の概要は関連資料を集め始めてから2か月で把握できました。[奥の細道] 解読に対する寄与率は、史料30%、推理70%で、推理した後からそれを証明する史料 が現れることが多かったですが、歴史の解明の方の寄与率は、史料80%、推理20%で 、ここに書きました技法・手順で解析(「ここに書きました」というより、この WS全体が歌枕調査方法の解説みたいなもんで、調査方法の細かなテクニックはこのWS の各所に出てきます。)を進めましたが、特に手こずることもありませんでした。

なお、この調査手法は、最初に手がけたさしも草の調査開始時から採用しているもので、 今まで一度もぶれだことはありません。ですからこのWSに取り上げた全ての歌枕は同じ 手法によって調査したものです。


 筆者は、以上の発想・手順・技法によって室の八島ほかの歌枕を調査し、次のことを明 らかにした。

1.歌枕の調査方法において次の方法がかなり有効であることを示した。すなわち、和歌 を含む全ての史料を時間軸上に配置し、古い史料から順次解析する方法である。また歌枕 をその歌枕の歴史という視点から捉えることが重要であることを示した。

(こんなことは今更お前に言われなくとも、とあなたは思うでしょう。しかしこ の「今更お前に言われなくとも」の手法で歌枕を調査した資料を見たことがありません。 「今更お前に言われなくとも」が事実なら、今のようにでたらめな歌枕の解説がはびこる ことはなかったでしょう。)

2.歌枕室の八島を初めて歴史という視点から明らかにした。(歌枕を説明する 、ないしは調査するのに歴史という視点を取り入れたのはおそらく筆者が最初でしょう)

3.今まで誰も気付かなかった中世室の八島の存在を明らかにした。

4.今までだれも解読できなかった松尾芭蕉の[奥の細道]室の八島の段で曾良が話した 内容を初めて解読した。

5.浅間神社の祭神が、江戸時代の初め頃に、それまでの浅間大菩薩・富士権現から現在 の祭神である記紀神話の木花咲耶姫に代えられる経緯を、下野惣社の縁起・由緒側から明 らかにした。

6.それに関連して、現在多くの神社が記紀神話の神を祭神にしているが、それは昔から そうだったのではなく、また明治政府によって強制されたのが始まりではなく、それ以前 の江戸時代に全国の多くの神社を支配していた吉田神道によって企てられた結果でもある 可能性のあることを、浅間神社と下野惣社の例から示した。

7.その他、室の八島以外の歌枕についても、このウェブサイト記載のとおり種々明らか にした。



























室の八島の解説傑作選
 この「室の八島の解説傑作選」はちょっと過激なんで、本文中では案内せず。つまり、 この「室の八島の解説傑作選」は、このウェブサイトに載ってないことにしてあります。
ですから、この「「室の八島の解説傑作選」の存在は口外しないでください。

1.{講談社古語辞典}(1969年刊)
「むろのやしま 室の八島 (「室」は出入り口をふさいだところ、「やしま」は、かま どの意(アホか、室の八島のヤシマは竈ではない))下野の国都賀郡、 今の栃木県国府村にある室八島明神(こんな名前の神社は明治時代になくなって らぁ)。コノハナサクヤヒメを祭り、同神が火中の無戸室で三神を出産したこと に由来する社名という(彦火々出見命一神でなく三神を出産したことに由来する とどこにある? この大嘘付きめ)。「−に詣す」(奥の細道・室の八島)」

(考察)『室は出入り口をふさいだところ』だって、ご冗談を。そりゃあ芭蕉の[奥の細 道]に出てくる「無戸室」(うつむろ)のことだろう。この人古語辞典の筆者であるにも かかわらず、平安時代以来の歌枕である室の八島を江戸時代に書かれた松尾芭蕉の[奥の 細道]でしか知らない。そして聖人芭蕉の書いたものであるから誤りは無いと信じきって いる。そしてあきれることに[奥の細道]に何が書かれてあるか全く分かっていない。に もかかわらず当人は分かったつもりでいる。こういう輩が戦後室の八島を捻じ曲げたので ある。

2.[芭蕉物語](上)(1975年)
 麻生磯次 著
[奥の細道]室の八島の段 曾良の話部分の解説
「『・・・やしまは竈の神、大釜などの古語ですが(嘘つけ 「やしま」が大釜 を意味したことは一度もない。やしまを釜と誤解した人はかつて居たが。 また「やしま は竈の神」は室の八島と無関係) 、無戸室で火をたいたということや、この土地の清水から煙が立ちのぼるということもあ って、煙と関係のあるやしまという名が与えられ(全くのでたらめ。まず無戸室 と清水は全く関係がない。)、後になって八嶋に書きかえられたのです (何を寝ぼけたことを言う。反対に竈の神を意味するやしまも元々は八嶋から来たのだ) 。それというのもこの地方は土地が低く、水郷で多数の島があったので (単なる空想。それに水郷と言うが室の八島は人が住めるような場所ではない) 、八嶋という名がふさわしくおもわれるようになったのだと思います( げっ)。室の八嶋を歌によむ時は、煙に因んだ歌をよむことになっておりますが これは木花開耶姫の神話によるのです(と、神社がかってにこじつけているだけ 。それに記紀神話は直接関係ない)。またこの地方では、このしろという魚をた べることを禁じております(この地方では? ご冗談を この神社ではだろ) 。このしろはつなしという魚で、小さいのを小鰭(こはだ)といいますが (こんな説明は無用)、この魚を焼くと、人体を焼くような臭気がある と申します(そんなことが「將このしろという魚を禁ず」の理由になるか) 。木花開耶姫が火中にあってお産をなされた労苦を思い(誰が思うか) 、この付近の人はこのしろを食べないことになっております(アホか、 無戸室の話とコノシロの話は全く別)。』
 曾良の話は明快であった( げっ)。芭蕉はその伝説的な話(嘘付け これは神社が最近作ったでたらめ な話だ)を何の疑いもなく、素直に耳を傾けた(ぐぇ〜)。」

(考察)味噌もクソも一緒くたにして一つの話に仕立て上げる、この才能には恐れ入りまし た。自分で作った空想話に溺れて満足しているこの著者、学者というよりどう見ても単な る空想狂。曾良の話は今まで誰も解読できなかったほど難解なのだが、これに対して『曾 良の話は明快であった。』って、並の頭脳ではこうは言えません。芭蕉は初めて聞く曾良 の話を半信半疑で聞いていたのである。それを『芭蕉はその話を何の疑いもなく、耳を傾 けた。』と、考えられるのはこの著者くらいのものでしょう。あなたはえらい。

3.[下野のおくのほそ道](1977年)
 丸山一彦監修、栃木県文化協会
[奥の細道]で曾良が芭蕉に説明した内容について「−−というのが曾良の神道者として の見解である。煙と木花咲開耶姫とを結びつけたのは、曾良の独自の解釈のようである。 」

(考察)芭蕉が最後に、「曾良の話は、この神社の「縁記(縁起)」、すなわち由緒書き にある当社創建の由来の説明である」とちゃんと言っているのに、曾良の話が『曾良の神 道者としての見解』、『曾良の独自の解釈』である訳がないだろう。神社の縁起は当然神 社が作ったのだ。それとも何か、この神社の縁起は曾良が作ったとでも言うのか?そんな アホな。

4.岩波文庫[おくの細道 付・曾良旅日記 奥細道菅菰抄 ](1979年)
「無戸室に入りて・・・より室の八嶋と申す:八島は竈の神(文徳実録、斉衡二年十二月 丙子朔)で、それを室の八島に付会したもの。」
「煙:煙に室の八島は付合い(類船集)」

(註)類船集:江戸時代の連句・連歌の付合語集
(註)付合(つけあい):
1 連歌・俳諧で、五・七・五の長句と七・七の短句を付け合わせること。先に出される 句を前句、これに付ける句を付句という。
2 1で、前句と付句を関係づける契機となる語句。寄合(よりあい)よりも広く、素材・ 用語のほか、情趣・心情などを含む。

(考察)『八島は竈の神で・・・付会したもの』、これは、曾良の話はこじつけだと言っ ているものと思われるが、言葉足らずで室の八島そのものが竈の神を意味する「やしま」 からのこじつけであるとも取れそう。この著者、室の八島の煙が多くの和歌に詠まれた、 つまり室の八島が歌枕であることを知らず、連句・連歌に初めて登場したと思っている。 室の八島と煙の関係は連歌の付合などではなく和歌の世界でいう縁語である。戦後はこの ように室の八島の何たるかを知らない学者まで出てくるようになるのである。戦後は室の 八島がそこまで知られなくなってしまったということだ。

5.講談社学術文庫[おくのほそ道 全訳注](1980年) ほか多数の[奥の細道]解説書
「室の八嶋 下野国都賀郡惣社村(いま栃木市惣社町)の大神神社」

(考察)他の資料を参考にして、「室の八嶋とは神社である」と言ってるんだろう。とこ ろがその参考にした資料は何を典拠にしているのかといえば、巡り巡って「奥の細道」に 戻るのである。なぜなら「室の八嶋とは神社である」の唯一の原典が「奥の細道 」だからである。何のことはない、「室の八嶋とは神社である」というのは解説などでは なく、単に当の「奥の細道」にそう書いてあると言ってるだけである。
なんかこういうのって「タバコ屋の店先に郵便ポストがある。従って、この郵便ポストの 後ろの店がどんな店かといえば、それはタバコ屋である。」という話と似てるね。この店 がどんな店かは、最初の「タバコ屋(の店先に)」が本当にタバコ屋だったのかの問題で あり、店先にある郵便ポストとは何ら関係ないのである。こういういい加減な「奥の細道 」解説書が多くて閉口する。

 そればかりではない。筆者の持っている[奥の細道]解説書などは『是、下野の惣社な り。其(その)社の前に室のやしま有。小嶋のごとくなるもの八あり。 ・・・』と、芭蕉らが訪れた神社の前にある八つの小島のある池を室の八島としている貝 原益軒の[日光名勝記]を紹介しておきながら、それを否定することもなく「室の八島と は神社である」と言ってるのである。そして池の室の八島との関係については何も説明 していないのである。ところで「A(室の八島)=B(神社) でありかつA(室の八島)=C(池)であるな らB=Cである」から、この著者のやり方によれば、神社の前にある池は神社であるとい うことになる。そしてそれならタバコ屋の店先にある郵便ポストもタバコ屋であるという ことになる。そんなアホな。

 あなたは、筆者がこの「奥の細道」解説書の著者を小馬鹿にしているように思うかもし れない。しかし実際この著者は神社の室の八島と池の室の八島は同じものであると考えて いたのである。だから、池の室の八島を否定する必要も、両者の関係を説明する必要も無 かったのである。「奥の細道」をじっくり読めば、「奥の細道」と[日光名勝記]が言っ てる室の八島が違うことくらいわかりそうなものだが。しかし室の八島が複数有るなどと はハナから頭に無いので、彼には皆一緒に見えちゃうのである(彼ばかりでなく、後の1 1番になるともっと酷いですよ)。こういう[奥の細道]解説書のお陰で、殆どの読者は 神社の室の八島と池の室の八島とをごっちゃにしているのである。両者は由来の異なる全 く別の室の八島なのだが。

6.栃木市のウェブサイト
トップページ→教育委員会→教育委員会担当課→文化課→文化振興担当→文化財→下野惣 社(室の八島)(室の八島は、トップページに続く観光案内のページに紹介され ていないので、このように室の八島のヘージに辿りつくのは容易ではないのである)
「下野惣社(室の八島)
 大物主神を祭神とする大神(おおみわ)神社は、古くから「下野惣社」として知られてい ます(註)。惣社とは、平安時代、国府(国庁の誤り)の長官が下野国 内にまつられている神々をお参りするために国庁に近い(現在の)大神 神社の地に惣(すべ)ての神々を勧請(かんじょう)し祀(まつ)ったものです。また、この 地は、けぶりたつ(煙立つ)「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として、都 まで聞こえた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が残され、江戸時代には「奥の細 道」の芭蕉も訪れています。」

(註)「大物主神を祭神とする現在の大神(おおみわ)神社は、明治時代に大神神社に替え られたもので、江戸時代には惣社大明神・室の八島大明神(祭神は木花咲耶姫)などと呼 ばれ、本来は下野国の惣社であったと考えられます。」が正しい。どうも神社に気兼ねし て真実を書けなかったようだ。

(考察)これを読んでも栃木市が室の八島として文化財(史跡)に指定している『この地 』が、神社の敷地のことなのか、それとも神社のある一帯の土地(そうすると、 この土地は神社の敷地ではないので「下野惣社(室の八島)」のタイトルは矛盾する) なのかよく分からない。それで、史跡に指定している場所はどこか、と栃木市教 育委員会に問い合わせた。ところがその回答がさっぱり要領を得ない。つまり自分でどこ かの場所を史跡に指定しておきながら、その指定した場所を答えられない。ただ、質問に ちゃんと答えているんだと人をたぶらかすことに躍起となっていることだけはよく分かっ た。

 ところで上記栃木市のWSや栃木市教育委員会が大神神社境内に立てた案内板、それと 栃木市教育委員会からの今回の回答を総合すると、どうも室の八島とは神社であると書い てある[奥の細道](1702年)と、室の八島は神社と無関係な「この地」であると書 いてある[下野国誌](1850年)を採用して史跡室の八島の場所を指定しているよう だ。そう考えると上の文が理解できるでしょう。しかし神社と関係があり、かつ神社と無 関係な場所などというものはこの世に存在しない。このこの世に存在しない場所が栃木市 には存在するのである。さすがは室の八島の地元の教育委員会である。

 それにしても文化財を指定するのに、なぜ江戸時代以来室の八島として厳然と存在する 八つの小島のある池を無視して(上の説明文に池のことは書かれてないでしょ) 、言っていることが正しいか否か確認されていない、[下野国誌]の著者という たった一人の人間の見解にすぎないものを採用するのだろうか(註)。栃木市民は大方室 の八島と言ったらこの池のことと理解しているのである(なぜって、池の所有者 である大神神社がそう紹介しているから)。本来の室の八島であるか否かは抜き にして。

(註)栃木市は、さしも草の伊吹山やしめぢが原など平安時代の歌枕を市の史跡に指定す る場合も、江戸時代末期などという後世に書かれたこの[下野国誌]の著者の見解を全面 的に採用しているようだ。室の八島に限ってはなぜか「奥の細道」の記述も併せて採用し ているようだが。

7.栃木市観光協会のウェブサイト
「室の八嶋
大神神社は古来「室の八島」ともいわれ(ご冗談を。今から100年前に誕生し た神社に古来なんて言葉があてはまるか。それに地元では大神神社は大神神社、それを室 の八島と呼ぶなんてお前らどこの人間だ)、境内の水を張った池の中に石橋や、 朱塗の橋がかかる島が八つあって、それぞれの島に筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神 社、浅間神社、熊野神社、二荒山神社、香取神社が鎮座している(神社が室の八 島なら、この池は何なんだ。さらにこれらの小祠は何なんだ)。(「室の八島」 の「八島」(やしま)とは、古くは「かまど」をそのように呼んだ(全くの誤り。 室の八島の八島はたくさんの島の意味)。古来、松尾芭蕉をはじめ多くの歌人が 歌に詠んでいる(はじめに芭蕉の名が出てくるの?彼は歌人でなく俳人だよ)

古事記にある「一夜にして懐妊したため貞操を疑われた 木花咲耶姫命が、不貞でできた 子なら焼け死んで出産できないはずと、身の潔白を誓って無戸室に入って火を放ち、燃え 盛る炎の中で無事に彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)ら三柱を産み落とした」とい う神話によるもので(神社が勝手にこじつけているだけ。それに神社が言ってい るのは三柱ではなく彦火々出見命一柱だ)、大神神社が「かまど(古くはかまど を『やしま』といった)のごとく燃え盛る無戸室」で出産した咲耶姫を祭ってあることか ら「室の八島」と呼ばれるようになった(ご冗談を)ことを説明してい る(説明しているって誰が?曾良が?ナヌこの文は室の八島の説明でなく[奥の 細道]室の八島の段の解説?)。」

(考察)室の八島とは江戸時代に書かれた[奥の細道]以降に生まれた俳枕とでも思って いるのか(戦後の室の八島について言えば、それは全く正しいが)、栃 木市観光協会のこの文は[奥の細道]解説書中の室の八島の段の解説文丸写し。室の八島 の地元の観光協会だと言うのに、室の八島と言ったら嘘ばっかり書いている[奥の細道] 解説書でしか知らないこの無知さ。というのも市当局が無知だからこういうことになる。 なんてったって栃木市公式ウェブサイト観光案内のページに、栃木市の歴史上もっとも 誇れる名所である室の八島がなんと載っていないのである。栃木県には那須町の遊行柳の ような偽歌枕でさえ観光に力を注いでいる自治体があるというのに。ろくな産業も無い地 方都市がどうやって生きていくというのだ。

 なお2009年に再度栃木市観光協会のウェブサイトを覗いたら、なんと栃木市の歴史 上最も誇るべき名所である室の八島が案内から消えていたのである。何という無知さか。
 室の八島は大神神社の案内の中に次のように書かれてあるだけである。『大神神社を室 の八嶋大明神ともいい(但し室の八嶋大明神は江戸時代の神社の名前ね) 、大神神社内にある八つの島には、それぞれやしろ(浅間神社、二荒山神社、筑 波神社、雷電神社、香取神社、鹿島神社、熊野神社、天満宮)を祀っています。平安時代 以来東国の歌枕として多くの歌人に詠まれその名は都まで聞こえていました。 』つまり これらの小祠を祭った八つの小島のある池を室の八島としているわけね。観光協会の 案内としては、それでOK。栃木市はこれを見習いなさい。自身のウェブサイトの室 の八島の説明のなかに、この池が出てこないなんてのは言語道断である。

8.栃木県総合教育センターのウェブページ
「室の八島
元禄2年3月29日、芭蕉と曾良は、『おくのほそ道』の旅における最初の歌枕の地、室 の八嶋を訪れた。室の八嶋は、木花咲耶姫が貞操の証として、燃え盛る無戸室で子を三柱 出産した(三柱を出産したからだって?彦火々出見尊以外の二柱が生まれたとど こに書いてある?)という神話(神話ではない。この神社の縁起だ。そ してその縁起は記紀神話の筋どおりではない。)から、古来、煙を題材にして多 くの歌が詠まれた歌枕であり(ご冗談を。木花咲耶姫がこの神社の祭神になった のは江戸時代である。と言うことはこの神社の縁起は全てこじつけだと言うことだ。平安時 代の歌枕を解説するなら平安時代の史料を使え。このセンター、室の八島のある県の教育 関係機関だと思うが、こんな教育されたんじゃ県民がかわいそうだ)、芭蕉一行 は、日光への道からわざわざ逸れてこの地を訪ねた。(日光に行くついでに寄っ たような書き方をしているがそうではない。下野国の最大の目的地は室の八島だ)
・・・
室の八嶋は、歌枕としても有名である(「歌枕としても」って、じゃあ、本来何で 有名だったのか?室の八島は歌枕以外の何物でもない)。松尾芭蕉の『おくのほ そ道』には、室の八嶋を参詣したときに、曾良が次のような話をしたことが記されている 。
 「室の八嶋が木の花さくや姫の神で、富士山と一体であり、(静岡県富士宮市の浅間神 社と祭神が同一ということ)(ということは、この神社も浅間神社だったという ことか?ちゃんと説明しろ)無戸室の火の中で、火々出見のみことがお生まれに なったこと(これがなぜ三柱を生んだと読めるのか?)、またそのこと から室の八嶋といわれるようになった(どこが室の八島といわれるようになった のか?神社か?池か?ちゃんと説明しろ。そうすればお宅らの言ってることが矛盾してい ることに気付くだろう)こと、煙を読みならわすのもこの神話に由来するもので あること、「このしろ」といわれる魚を食べないという言い伝えがあること(言い 伝えではない。当時の神社が言っているのだ)」などを記述している。( 説明不足と間違いだらけで、こんなものが曾良の話の解説と言えるか)
これらは、中世の浅間の本地の物語に基づく話である。
室の八嶋には八つの小さな島があり(つまり「奥の細道」がいう室の八島とは池 だと思ってるわけね。それは大間違い。)、それぞれが橋で結ばれている。島の まわりは池になって水がたたえられている。気温と水温の関係で水蒸気が上がることがあ る(室の八島の煙は水蒸気ではない。室の八島の煙は恋の煙であるが、室の八島 の煙を水蒸気とすると恋と結びつかないのである)。八つの島に小さな祠がある が、最も大きな祠が、浅間神社である。(浅間神社の小祠が一番大きいって、こ れが何を意味するというのか? 曾良が、室の八島の神は木の花さくや姫であると言って いるのに、なぜ[奥の細道]のどこにも顔を出さない八神を祭った池が室の八島となるの か?お宅らの頭おかしくないか?曾良は「室の八島とは一般に知られている池のことでは ない、実は神社(の境内一帯)のことである」と言っているのである。)

(考察)曾良の話には、記紀神話の神である木花咲耶姫は登場するが、仏は一切登場しな い。にもかかわらず、曾良の話が「本地」の話だって?このセンターによれば「本地」と は記紀神話の神のことらしい。それじゃ「垂迹神」って何? この神社の縁起は、中世の 浅間の本地の物語に基づいて作られたものではない。中世の浅間の本地の物語(=中世の 浅間神社の縁起)に基づいて作られたのは、芭蕉時代の浅間神社の縁起である。そしてこ の神社の縁起は、浅間神社の縁起から一部分を抜き出してそれを縁起としたものだ。そう いうことでこの神社の縁起が中世の浅間の本地の物語と全く繋がりがなくはないが。
 ところで、栃木県総合教育センターが参考にした中世の浅間の本地の物語には、なんと 本地が登場しないのである。江戸時代に本地に関する部分が削除されて、本地の登場しな い本地の物語が今に伝わっているのである。ということで「仏が一切登場しないのに曾良 の話が「本地」の話か」という筆者の非難は当たらないのである。すいませんでした。

 なお、栃木県総合教育センターにクレームつけたら、筆者の意見に沿った形で書き直し ましょうとかなんとか言われたので期待していたら、だめでした。でたらめばっかり書い ている過去の参考書や文献に完全に毒されている人間に、それから離れろと言っても無理 なんですね。書き直されたやつもしっちゃかめっちゃかでした。それで修正版をここで紹 介するのはやめました。修正版を見たい人は栃木県総合教育センターのWSを見てくださ い。

9.栃木県神社庁のウェブサイト
「大神神社
崇神天皇48年創建と口碑にある。歌枕の地「室の八嶋」に鎮まり、延喜年間からの伝統 の祭、春は五穀豊饒を占う「流鏑馬」の神事、秋は、「安産子育て」「醸造」繁昌の祈願 をする「鉾祭」戦時中も伝統の灯火を消さず守り通して来ている。又万葉の頃から「室の 八嶋」の「煙」を詠んだ歌人達も多く勅選集、私家集等にも幾多の短歌があり、俳聖芭蕉 の「奥の細道」にも登場し「慈元抄」「神道集」「袋草子」 他多くの文学にも登場し「 浅間御本地開来」には富士浅間と木花咲耶姫のロマン溢れる物語、そして「鮗」の伝説、 勝道上人、道鏡禅師、親らん上人、等の伝説等あり。
 国府の置かれた場所から近く口衙に関する地名、国学の置かれた地と言われ下野国惣社 の「大神神社」古代製鉄の職人集団の居住した地でもあり「煙の名所」 の呼称も嘘では ない由緒のある下野最古の神社である。」

(考察)これは傑作である。大神神社側からみるとここに挙げた史料がみな大神神社と結 びつくようだが、史料側からは、「奥の細道」とコノシロ(鮗)の伝説(どちらもこの神 社の前身である下野惣社の江戸時代の由緒書きの内容)を除いて一切大神神社ばかりでな くどの神社とも結びつかないのである。そしてそればかりでなくこれだけの史料を集めれ ば、室の八島が神社とは無関係だということを説明するのに十分なのだが。
 それと肝心の「下野国誌」がここに取り挙げられていないがなぜだろう。「下野国誌」 には室の八島は神社と無関係と書いてあるので都合が悪かったんだろう。

10.[歌枕の研究](1992年)
 高橋良雄 著
(室の八島の和歌を多数ランダムに掲載後に)
「五月雨に室の八島を見渡せば煙は波の上よりぞたつ
 川霧のけぶりと見えてたつなべに波わきかへる室の八島に
 身になして室の八島を思には波の下より煙やは立つ

などは、その煙が水の上に立ちのぼる煙であることを思わせるが、それは、実際の室の八 島の煙の実態を反映したものであるといえよう。(註)」

(註)これらの歌は本来の室の八島、すなわち下野国の室の八島を詠んだものではない。 1100年頃以降になると、室の八島はこの場所と同じような景色なのではなかろうかと いうその場所が、室の八島として登場して来るようになるのである。

(考察)多数の和歌、言い換えれば沢山のデータを載せながら、それから答えを導き出そう とせず、予め室の八島の煙とは「水の上に立ちのぼる煙である」と決めてかかって、それ に合う和歌を選び出してきて、それらの歌がその証拠であるとしている。こんなムチャク チャなデータ解析の仕方があるか(これを「データを無視して結論を導く」ある いは「初めに結論ありき」と言い、最低の研究態度として研究者の間で軽蔑されています 。こういうやり方をするとデータに関係なく、いかなる結論も導き出せることになります )
 和歌データの解析とはまず、意味のあることかどうか分からないがとりあえず今できる こととして、和歌を作られた時代順に並べる作業から始めるのだ。そして次にそうして並べ た和歌を古いものから順にじっくり眺めていくのだ。そうするとこの段階で室の八島の煙 が何であるかが見えてくるのである。これは和歌に限ったことではなく他の文献史料の解 析も同じである。こんな初歩的な解析方法も知らない輩が歌枕をいくら調べたってなんら 分かろうはずはないのである。

11.或るウェブサイトより(2006年採取)
[奥の細道]室の八島の段「煙を讀習し侍も・・・」の注釈
「『國家萬葉記』に「煙を專に讀り、下野の野中に有清水也。これを室の八嶋と云り。そ の水気立のぼるを室の八嶋の煙と云。實の煙に非ずと也」という。しかし、主人公が訪れ た当時の室の八嶋は、『日光名勝記』(正徳四年刊)に「室の八嶋古哥に多くよめる名所 也。しまのまハりの池より、水気の煙のごとく立けるを賞翫しける也。其村の人あまたに 問しに、今ハ水なきゆへ、烟もなしといへり。」とあり、当時は水もなく煙が出ていなか ったことがわかる。」

(考察)大学の先生か学生が作ったと思われる[おくの細道]解説ページだが、平安室の 八島[國華萬葉記]、近世室の八島[日光名勝記]、神社縁起室の八島[奥の細道]の区 別もつかず、皆同じものだと思っている。読み比べれば、説明している室の八島がそれぞ れ違うことぐらいわかりそうなものだが。野中の清水(國華萬葉記)と は人工の池(日光名勝記)か?、野中の清水や人工の池は神社( 奥の細道)か?このウェブサイト開設者は[奥の細道]を解説しながら[奥の細 道]に室の八島とは神社(の境内一帯)であると書いてあることすらわかっていない。ま た[奥の細道]のどこに室の八島とは野中の清水や人工の池であると書いてあるのか。文 章読解力ゼロ。まあ他の[奥の細道]解説書も似たり寄ったりですが。

12.室の八島について書いた或る本の宣伝文(?)より
「古代下野の歴史をみるとき、室の八島と東山道を抜きにして考えることはできず、深い 関係にあるように思われるが、室の八島は歌の世界にのみ存在し、歌の世界だけで語られ る。東山道はと言うと、これも古代史の中で語られるに過ぎず、下野の歴史の中で、この 二つが出会うことはまず、ないと言っていい。」

(考察)この文は、この本の序文にでも書いてあったのだろうか?この本はすごい本であ る。何か参考になることが書いてないかと斜め読みしたのだが、「室の八島とは何だかよ くわからない、よく分からない」と書いてあるだけで一冊の本になっているのである。

 上記の文中「室の八島は歌の世界にのみ存在し、歌の世界だけで語られる。」って、ま るで歌以外の史料では室の八島に触れていないような書き方をしているが、ご冗談を。室 の八島のような地方の名所に触れた史料は歌以外にないのである。また東山道に触れた史 料なんてのはそんなに有るもんじゃない。それで「下野の歴史の中で、この二つ(室の八 島と東山道)が出会うことはまずない。」というのを「ひとつの史料の中で両者に触れた ものはない。」という意味に取れば、そんなものはなくてあたりまえ。史料自体が少ない んだから。

 また「下野の歴史の中で、この二つ(室の八島と東山道)が出会うことはまずない。」 を文字通り取れば、とんでもない。そんなことはない。藤原清輔の歌論書[袋草紙]では 下野守源経兼が下野国庁付近から、『あれ見給へ、室の八島はこれなり。都にて人に語り 給へ』と言っているが、下野国庁は東山道のすぐ近くにあったのである。したがって室の 八島は東山道からほど遠からぬところにあった、そしてもしかしたら東山道が室の八島を 貫通していたかもしれないと考えられるのである。[袋草紙]には室の八島は登場するが 東山道という言葉は出てこない。しかし[袋草紙]に出てくる都からの使者は東山道を通 って下野国庁まで来たのである。そしてそういう人達によって室の八島が都の歌人達に知 られるようになったのである。源経兼も「都にて人に語り給へ」と言っているではないか 。「室の八島と東山道が出会うことはまずない」などとは、東山道がどのあたりを通って いたかを知らず、室の八島が何なのかも、どの辺りに在ったのかも知らず、文献史料の字 面しか理解できない人間の言う言葉である。

13.[奥の細道]と言うより、その解説書の愛読者のホーム ページより数例紹介
以下出典不明
(1)室の八島、正式名称は大神神社(おおみわじんじゃ)。(ぎょっ、室の八 島に正式名称も非正式名称もあるか。有るのは室の八島という名称だけだ)

(2)今から1800年前に建立された(神社の大嘘。出来たのは今からわずか1 00年前)大神神社は別名「室の八島」と呼ばれ(へぇ、誰が呼んでるん だろう。地元ではおおかた大神神社と呼ぶが)境内の池には八つの島があり八神 がまつられています(地元ではこの池を室の八島と呼んでいると思うが)

(3)室の八島とは、神社の境内の池の中に、筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、 浅間神社、 熊野神社、二荒山神社、香取神社を鎮座した8つの島があることから名付けら れた。(どこをどうひねるとこんなデタラメが生まれるんでしょう。)

(4)室の八島の煙は、大神神社境内の池から立ち昇る水蒸気を煙に見立てたもので、木 花咲耶姫の神話に登場する燃る無戸室(うつむろ)から立ち昇る煙に由来する。 (何だこりゃ。全く無関係な二つの話を結び付けている。もうムチャクチャ)

(5)その昔、「カマド」のことを「ヤシマ」と呼んでいたようです。それゆえ、かまど のように燃え盛る室の中で安産されたことから、この姫を祭る神社を「室のヤシマ」とい ったそうです。それが後世、「ヤシマ」を「八つの島」の意にとって八つの島を作ったよ うです。(これはいろんな話をごちゃまぜにして作った荒唐無稽の極み。ところ がこのようにそれを信じてウェブサイトに引用している人がいるから面白い)

(考察)ここまでシッチャカメッチャカだと、もう開いた口が塞がりません。これが奥の 細道狂団の世界。奥の細道狂団ってどこかのカルト教団? いいえ、カルト教団ではあり ません。しかし奥の細道狂団では、芭蕉の言ったこと、書いたものは絶対であり、決して 誤りはないのです。また狂団内部でしか通用しないことが、まことしやかに信じられてい ます。信者は[奥の細道]の殻に閉じこもって、決して外の世界を見ようとしません。そ ういった意味でこの狂団はカルト教団に似てるといえば似てますが。この狂団の信者のホ ームページを覗いていてそら恐ろしく感じるのは筆者だけでしょうか?

 室の八島をいろんなもので調べると、こんな解説がゴロゴロでてきます。世に歌枕 はあまた存在しますが、これほど出鱈目な解説のはびこっている歌枕は他にないでしょう 。そういった意味で室の八島は最高に面白い歌枕なんです。





終わりに
 こんなくそ面白くもないウェブサイトに最後までお付き合いいただきまして、心より感 謝致します。
 こんなウェブサイトより、辞典や参考書の室の八島の説明の方がずっと面白いです。イ ンターネットで調べるだけでも、傑作がゴロゴロしています。また図書館で閲覧するか、 本屋で立ち読みするなら、最近の参考書は傑作揃いです。次はぜひそれらをお楽しみ下さ い。こんな面白い歌枕は、室の八島を置いて他に無いでしょう。

 なお近世室の八島の章の[陸奥日記]の項に「尾鰭の付き具合を見れば、世間にどれだ け浸透したかがある程度推測できます」と書きましたが、近年の[奥の細道]解説書を読 むか、それを読んだ読者のウェブサイトを覗いてみてください。[奥の細道]の室の八島 が近年になってかなり世間に浸透したことがよくわかります。




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