下野や 和歌において「どこそこの国のなになに」と言う時、上野国の場合は「かみつけの なになに」と表現しましてこれが当たり前ですが、下野国の場合は、おもしろいことに「しも つけやなになに」と表現します。これ、「シモツケの花よ」の意味の「しもつけや 」が下野国に誤用されて、「下野国の」が「しもつけや」となったりして。 藤原実方 平安時代中期の貴族・歌人。 風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも20人 以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人と されることもある。 殿上で藤原行成と口論して勅勘(ちょっかん。天子から受けるとがめ)を被り、「歌枕 注して (しるして)進れよ(まみれよ)」と、995年陸奥守に左遷された。 鴨長明(1155−1216年)[無名抄]74「五月かつみ葺(ふく)事」 「或人云、 橘爲仲(たちばな の ためなか、1014年頃−1085年)陸奧國の守にて下りける時、 五月五日 家毎に菰(こも)を葺きければ、怪しみて是を問ふ。 その所の庄官『此國には昔より今日菖蒲葺くと云ふ事を知らず。しかるを、故中將御館の御時、 「今日は菖蒲葺く物を。尋ねて葺け」と侍ければ、此國には菖蒲なき由を申しけり。其時、 「さらば安積の沼の花かつみと云ふ物あらん。それを葺け」と侍しより、かく葺き初めける。』 とぞいひける。 中將御館とは(藤原)實方朝臣也。」 松尾芭蕉[奥の細道]「安積山」の段 「等窮が宅を出て五里計(ばかり)、檜皮の宿(ひわだのしゅく、日和田宿)を離れて、 あさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比(ころ)もやや近うなれば、 「いづれの草を花かつみとは云ぞ」と、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋人にとひ、 「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかかりぬ。」 [源平盛衰記]巻七「笠嶋道祖神事」 「終に奥州名取郡、笠嶋の道祖神に被蹴殺(けころされ)にけり。実方馬に乗りながら、彼 道祖神の前を通らんとしけるに、人諫て云けるは、此神は効験無雙の霊神、賞罰分明也、 下馬して再拝して過給へと云。…(中略)…実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及 ばずとて、馬を打て通けるに、神明怒を成て、馬をも主をも罰し給けり。其墓彼社の傍に 今に是有といへり。」 松尾芭蕉[奥の細道]「笠島」の段 「鐙摺、白石の城を過、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人 にとへば、「是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社 、かた見 の薄(下記の註[山家集]参照)、今にあり」と教ゆ。此 比の五月雨に道いとあしく、 身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、 笠島はいづこさ月のぬかり道」 (註)[山家集]:西行(1118−1190年)の歌集 みちの国にまかりたりけるに、野の中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひ ければ、中将の御墓と申すはこれがことなりと申しければ、 ・・・・・・ 朽ちもせぬ−その名ばかりを−とゞめをきて−枯野のすすき−形見にぞ見る 大江匡房 小倉百人一首 73番 権中納言匡房 高砂の−尾の上(へ)の桜−咲きにけり−外山の霞−たたずもあらなむ (註1) 室の八島という名前は、室の八島が本来の景観を保っていた当時につけられたものでしょ う。それで室の八島という名前は本来の室の八島がどういう所であったかを言い表してい る可能性が高いんです。 みずがき 能因法師(988?−1051年以後)の[能因歌枕]に「やしまをば、水がきといふ」 とあります。しかし「やしまをば」と言われても我々現代人には「やしま」の意味が分か りません。国語辞典で「水がき」を調べると次のようにあります。 みずがき(瑞垣・水垣・瑞籬):神社・宮殿の垣根。たまがき。〔「みず」は美称。古く は「みずかき」〕 室の八島の「やしま」はこのやしまのことでしょうか? 下野国庁・下野国府 (1)下野国庁跡 栃木市田村町宮ノ辺の宮野辺神社周囲に、700年代前半から900年代初めにかけて 存在した下野国庁の跡 【地図】 が発見されている。 T期 700年代前半−中頃(奈良時代前期) U期 −700年代末(奈良時代後期)→焼失 773年に下野国庁に火災がおこり、正倉14棟とた くさんの穀物を焼失する。 V期 800年代初め−中頃(平安時代初期) W期 800年代後半−900年代初め(平安時代前期) 939年に平将門(たいらのまさかど)が下野国庁を占領する。 国庁域は約90メートル四方の正方形で、外側に堀をめぐらした塀(のちに築地に改修 )で囲まれ、南正面からは両側に幅3メートルの側溝を伴う幅9メートルの朱雀大路が延 びて、その左右に官衙や国司館が立ち並んでいた。しかし、京の都のように整然とした碁 盤目状の街路は認められない。役所や倉庫などは、政庁周辺に分散して存在していた。 (考察)W期の後はどうなったんでしょう?この頃以降全国的に、このような整然とした 国庁は姿を消し、新たに役人の屋敷(館)が国庁(政庁)になるようです。そしてその国 庁は、より北の国府町、惣社町寄りに移転したのだろうと推定されていますが、まだ場所 は特定されていないようです。屋敷(館)を国庁(政庁)にしたということなら、移転は 比較的容易なので、W期の後の政庁が一箇所に限定されることはないでしょう。 (参考資料)思文閣史学叢書[中世都市「府中」の展開]、小川信 著、思文閣出版、2 001年 (2)[将軍家政所 下文 ](1192年) 「将軍(源 頼朝) 家政所下 下野國日向野郷住人 補任 地頭 職事 左衛門尉 藤原朝政(小山朝政) (註1) 右壽永二年八月 日御下文云以件 人補任彼職者今依仰成賜政所 下文之状如件以下 建久三年九月十二日 案主藤井(花押) 令民部少善藤原(花押)知家事中原(花押) 別當前因幡守中原朝臣(花押) 前下総守源朝臣」 (考察)ここでは地頭職小山朝政を下野國日向野郷住人としていますが、彼の居館が、下 記[小山朝政譲状]にある「国府郡内」の「 日向野郷 」にあり、それが下野国の政庁だっ たんでしょうか? (3) [小山朝政譲状] (1230年) 「 ・・・ 一下野国 権大介職 寒河御厨号小山庄 重代屋敷也 国府郡内 日向野郷 菅田郷 蕗嶋郷 古国府 【地図】 大光寺 【地図】 国分寺敷地 【地図】 惣社敷地同惣社野(=/+)荒居 宮目社 【地図】 (地図では宮野辺神社) 大塚野 【地図】 東部家郷 中泉庄加納 一武蔵国 上須賀郷 一陸奥国 菊田庄加湯竈郷定 一尾張国 海東三箇庄除太山寺定 一播磨国 守護奉行職 高岡庄 高岡北条郷 ・・・」 (考察)この書状に室の八島の地名が出てきませんが、おそらく室の八島の土地は行政単 位に成りえなかったんでしょう。当時、土地の人が知っていたのは、「この辺りは昔から 室の八島と呼ばれていたということだけで、どこまでが室の八島なのか知らないし、日向 野郷、古国府、惣社敷地、大塚野辺りは室の八島に含まれていそうだがよく分からないし 、どの郷にも属さない利用価値の無い荒地もかなり含まれているようだ。」ということで 室の八島は行政単位に成りえず、それでこの書状にその名が出てこなかったんでしょう。 (4)参考書によれば、1336年の茂木知貞代祐恵の軍忠状に「小山乃御舘」へ馳せ参 じたとあり、その頃までには政庁が今の小山市に移っていたようです。国府に関連する地 名として、近年(?)まで「府中」「鋳物師内」(いもじち)、「内匠屋」(たくみや) 、「宿」、「三軒屋」、「馬場」(ばんば)、「関場」などの地名がありましたが、これ らの地名は惣社町に集中していますので、下野国の政庁が小山市に移転する前は、国府の 中心は惣社町辺りに在ったものと思われます。 (5)日光山禅定峰寒沢宿(寒沢宿はこの辺りかも 【地図】 )にあっ た宝殿蔵と伝える法華経 「法華経一部 文明九年(1477年)丁酉八月二十日 下野国都賀郡府中国分寺一結講衆等 執筆府中勝光寺 【地図】 住侶宏「三十六 願主小山庄村崎住光禅房弘蓮 日光山満願寺禅定峯寒沢宿御宝前奉2進調1」 (考察)この頃には下野国の政庁は現小山市に移転していたはずですから、この「府中」 は普通名詞ではなく、固有名詞の地名のようです。「府中」に、現栃木市国府町にある勝 光寺から下野市の国分寺(これは地域名ではなく寺院名でしょう)まで含まれるというこ とは、「府中」とは一郷名ではなく複数の郷を含む地域名だったのでしょう。 (6)[慶安卿帳](慶安:1648−1652年) 「惣社村」、「大塚村」、「大光寺村」、「田村」、「寄居村」、「国府村」(その他の 村は除く) (7)[宇都宮四近町村略志](1892年) 栃木県 編集・発行 「国府村 大字は惣社、大塚、柳原、大光寺、田村、寄居、国府の七村なり」 (8)2006年現在 栃木市 惣社町、大塚町、大光寺町、田村町、国府町(柳原村と寄居村は町名に残らず)そ の他は省略。 明治時代の太平山からの眺め [日本之名勝](1900年刊) 瀬川光行 編、史伝編纂所 刊 「太平山神社 ・・・・・・ 境内の眺望は甚だ絶佳にして、北には、白根・日光・高原の連山あり、東に、八溝山・加 波山・足穂山・筑波山あり、西南に浅間・秩父・足柄の連山あり、遥かに冨士の高峯に対 し、巴波川・思川の長流、利根・渡良瀬の大江皆眸に入り、白帆風に孕んで草野の間を縫 ひ行く光景は、終日見れども飽かざるべし。丘亦た風趣に富み、老樹梢高く岩石苔滑にし て、泉渓の音松風に和して、自ら深山仙境に遊ぶ心地せしむ。近来公園地となりて、一層 其規模をまし、春花秋月いづれも適せざるはなしといふ。」 太平山は、「明治十六年(1883年)十月官准(=公認)を得て此地に公園地を置き」 ([栃木県誌]、舟橋一也 編、(両毛文庫本部、1904年)、1955年に栃木県立自 然公園に指定されたようです。 「まるで陸の松島のようだ」 兼信平から東の栃木市街の方を見ても、陸の松島のような景色には見えないんだけど、い ったい太平山のどこからどっちの方角を見たら陸の松島のような景色が見られるんだろう ? もしかしたら、岡吉胤は、かつて存在した室の八島を想像して「かつてここに陸の松島の ような景色が在ったんだなあ」って言ったんじゃなかろうか? 忍野八海(おしのはっかい) 山梨県南都留郡忍野村にある富士山の伏流水を水源とする湧泉群。「八海」の名は、 富士講の人々が富士登山の際に行った八つの湧泉を巡礼する八海めぐりからきており、 多数ある湧泉のうち八つに限ったのは、八を尊ぶ仏教的思想に基づく。 つまり実際にある湧泉の数は八つどころではありません。ですから、室の八島という 名前だから島の数が八つであるなどとは簡単に言えないんです。 思川の中洲の可能性 実は、あまり根拠もないのに思川の中洲などと言うのは、下野国府・国庁の存在する場 所に疑問があるからです。思川の東側には多くの古墳があって早くから拓けており、また 国分寺・国分尼寺・薬師寺などもあります。それなのになぜ下野国庁・下野惣社が通行の 障害物である思川を挟んで西側にあったのかという疑問です。 これについては栃木市田村町に下野国庁が置かれた当時、下野国庁も思川の東側に在っ たのではないか、と言うより思川は下野国庁より西、現在の巴波川辺りを流れていたとい うことはないのだろうか、と漠然と考えています。そうして思川の中洲、あるいは思川が 形成した湿地帯にあった沢山の島からなる景勝地が、室の八島だったのではないかと考え ています。 その後、思川が現在の位置に流路を変え、その跡に各所に湧水のある「巴波川低地」の 湿地帯が形成されたのではないか?そうして1100年ころ、すなわち源経兼(下野守時 代:1098年−数年)が下野国府に赴任していた頃、そして源俊頼が[内大臣忠通家歌 合](1118年開催)で「野中に清水のあるが、け(気)のたつが烟(けぶり) とみ ゆるなり。」と言った頃には、そこには室の八島の本来の景観は全く残っていなかったの ではないか? そう考えますのは、おもて面の本文に書きましたように900年頃から登場する室の八 島という名称から想像される景色と1100年頃の「野中に清水のある」から想像される 景色が異なり、この間に室の八島が景観を失ったのではないかと考えられるからです。思 川の流路変更があったのか否か、思川の流路変更によって室の八島の景観が変わったのか 否かは定かではありませんが、水量が激減したために室の八島の景観が変わってしまった 可能性は、かなり高いと思います。1100年頃は、室の八島の場所はわかっていたが、 昔日の面影は全く失われていたのではないかと思います。そして土地の人たちには、本来 の室の八島がどんな景観の場所だったのか既にわからなくなっていたのではないかと思わ れます。そうなると場所の目印は?そうです。近くにある下野国府の集落です。 そうして、現在栃木市の中心部を南北に貫流する巴波川とその支流、およびそれらの源 流域に今ではわずかしか残っていない湧水などが、室の八島の名残なのではないでしょう か? 室の八島の詳細位置解明、そして下野国庁の立地の解明のためにも、「巴波川低地」を ボーリングして地質調査することなどが今後の課題になろうかと思われます。かつて日本 全国に分布していた湿地帯の8割以上が干拓など人間の営みによって消失してしまってい ることを考えれば、「巴波川低地」にかつて室の八島の広大な湿地帯が存在していた可能 性は充分考えられます。 室の八島の移動メカニズムの解析 室の八島の場所が、なぜ「野中に清水のあるところ」(平安室の八島)から「下野国府 一帯」(中世室の八島)に移動することができたのかを、平安室の八島と下野国府との距 離、および両者の面積の大小関係から解析しました。 その結果、かつて下野国府の集落近くに広大な湿地帯(広義の室の八島)があって、そ の中に景勝地室の八島(狭義の室の八島)があり、下野国府は広義の室の八島である湿地 帯の面積よりずっと狭く、かつ湿地帯の周縁部に在って、湿地帯の水が無くなり、湿地帯 が湿地帯でなくなれば室の八島と下野国府との境界があいまいになるために、室の八島の 中に下野国府があると言ってもよいようなそんな位置関係に室の八島と下野国府とがあっ たのではないかと考えました。平安室の八島と下野国府との距離と言いますか、位置関係 と言いますか、それと両者の面積の大小関係をいろいろ想定して解析すると、これが一番 可能性がありそうです。 そして何らかの原因で景勝地室の八島がその存在感を失ったので、室の八島の中心が存 在感のある下野国府の方に移動し、やがて下野国府一帯が室の八島であると考えられるよ うになったのではないかと考えました。1100年から1160年(平治の乱)間の、わ ずか60年の間に室の八島の場所が替わっていますが、1100年時点で室の八島が既に その景観を失っていたと考えれば、それから室の八島の場所が移動するのにあまり時間は 掛からなかったと思われます。 広義の室の八島である湿地帯については、川原田町辺りにある湿地帯というかその名残 である湧水群がよく知られておりますが、参考書などで調べると栃木市の市街地から大宮 地区辺りにかけても湿地帯であった可能性があり、下野国府の周辺にかつて広大な湿地帯 が存在した可能性をうかがうことができます。 この室の八島の移動メカニズムを、宮城県の観光名所松島をモデルにして説明すると、 理解しやすいかと思います。広義の室の八島に相当するのが松島湾です。そして狭義の室 の八島、景勝地室の八島に相当する景勝地松島はその中にあります。松島湾内全体が景勝 地ではありません。また松島湾の奥にはエンヤードットの瑞巌寺や五大堂などのある松島 海岸があり、これが下野国府に相当します。これらは皆名前の頭に松島がつき、広義の松 島に含まれると言えます。 ここでもし1804年以降の象潟(きさかた)ではありませんが、地震でもおきて松島 湾の海底が隆起し松島湾が陸地になってしまったら、どうなるでしょう。松島の見所は瑞 巌寺や五大堂などのある松島海岸の方に移動しないでしょうか?そしてやがては松島と言 えば松島海岸辺りを指すようなことにならないでしょうか?(観光地松島を案内 するのに、現在でも瑞巌寺や五大堂のある松島海岸を中心に説明している観光案内書(と 言えないかもしれませんが)を見かけるくらいですから、その可能性は高いのです。) これは仮定の話ですが、このようなことが室の八島で実際に起きたのではないか と考えます。松島の場合は海底と島との高低差がかなりありますで、海底が隆起し松島湾 が陸地になっても松島の面影は残ったかもしれませんが、室の八島の場合は水底と島との 高低差はあまりなかったのでしょう。室の八島の島が川の中州のようなものであれば、川 底と中州との高低差はあまりありません。 古墳の分布 古墳のあるような地域は平安時代に既に開拓されていた地域と考えられます。そこで[栃 木市史 史料編古代・中世]で古墳のある場所を旧町村名・大字名で調べると次のように なります。 寺尾村 尻内3(基) 皆川村 岩出61・皆川城内26・志鳥1・小野口1・柏倉3 吹上村 梓5・川原田1 国府村 大塚22・惣社6・田4・大光寺16 大宮村 久保田2 栃木市 薗部(そのべ)21・平井12・箱森(はこのもり)1・城内(の円通寺境内)複数 この結果から、現在の町名で言えば、南北は巴波川(うずまがわ)の水源地域川原田町〜 城内町の円通寺(?南限はどこまでかよくわかりませんが)間、東西は箱森町〜国府町間 の、栃木市の中心市街地を含む巴波川沿いの地域がすっぽり抜け落ちて、古墳の存在しな いことが分かります。また[日本地誌]日本地誌研究所等編、二宮書店、1987年 に よれば「巴波川低地」という学術的な名称があるようですが、それはこの辺りを指すので しょうか?これらのことからこの地域が広義の室の八島の湿地帯・沼沢地ではなかったか と筆者は考えています。そして栃木市の市街地を流れる現在の巴波川がかつての室の八島 の名残ではないかと考えています。 [奥の細道]解説書 いくつかの[奥の細道]解説書では、曾良が「・・・室の八嶋と申す」と言ったのに対し 、「曾良の話は、「八島が竈の神を意味するところから、それを歌枕の室の八島に付会した 説である」」、すなわち曾良の話はこじつけだと正しく説明しています (註2)。 それを読者が読み違え、その読み違えた内容(室の八島=「八島が竈の神を意味するとこ ろから、それを歌枕の室の八島に付会したもの」)が流布しているのでしょうか? (考察)確かに、述部「付会したもの」に対応する主部「曾良の話は」の記述が省略され ているので、注意して読まないと主部を「室の八島は」と誤解してしまいそうです。 (註2) 鼎:かなえ。現在の鍋・釜で、もともとは足付き。 中国の殷周時代の祭器が有名で、伝説に夏の禹(う)王が九鼎(てい)をつくり王位継承 の宝器としたという。九鼎は中国全土を意味する。 [文徳実録]・[三代実録] ・[文徳天皇実録](855年12月丙子朔条) 「大炊寮大八島竈神。斎火武主比命神。内膳司庭火皇神。並授従五位下。」 ・[三代実録](859年正月27日甲申条) 「大炊寮従五位下大八島竈神八前」 ・[延喜式の大炊寮式](905年編纂開始−927年奏進−967年施行) 「竈神八座」 (考察)天智天皇崩御の際に登場した、大炊寮の神がかりした八つの鼎が「大八島竈神」 (後にこれが略されてヤシマと呼ばれるようになるようです)になったようです。中国で は九鼎が中国全土を意味しますが、こちらは八鼎が「大八島」、すなわち日本全土を意味 するのでしょうか? このように鼎が神になったことを考えると、この時代はまだ不思議な力を持った存在なら 、世の中のあらゆるものが神になれる時代だったのでしょう。そしてこの大炊寮の竈神に は神の社、すなわち神社などは作られなかったのでしょう。こういうのがわが国における 本来の神の姿だったんでしょうね。[神道集](1352−60年頃)を見ると、特に霊 力を持つわけでもない、架空の普通の人間が神になっていますが、そんなのはずっと後の 時代のこじつけなんでしょう。そして現在のように多くの神社が記紀神話の神を祭神にす るようになるのは、もっと後のことです。おそらく現在の多くの神社の祭神は、その神社 の本来の神ではないでしょう。 なおこの竈神、[神道集]の「釜神(釜屋の守護神)の事」とは繋がりがなさそうです 。 盗める物=盗むことのできる竈 盗むことのできる竈とは、大雑把に言えば底の抜けた七輪のようなものだったでしょう か?古墳時代の竈型土器や、時代は下りますが[守貞謾稿](もりさだまんこう)、喜田 川守貞著(1837−67年間の記録)に描かれている、江戸時代に江戸や上方の町人が 使用した「へっつい」などは、盗むことのできる竈と言えるでしょう。 なお古墳時代から、据え付け式の竈と持ち運びができる竈とが存在したようです。 かまど説の補足説明 困ったことに史料の記述の一部分だけを引用して、室の八島と竈の関係を説明している 参考書など がありますので、ちょっと一言。 (1)[散木集註](さんぼくしゅうちゅう)1183年?顕昭(1130頃−1209 年以後)著 源俊頼(1055−1129年)の歌集[散木奇歌集](さんぼくきかしゅう、 1128年頃)の註釈書(散木集の註) 「さらひする−むろのや志まの−ことこひに−みのなりはてむ−ほどを志るかな さらひするとハ、攫(さらい)とかけり、掃除すること也、むろのや志まとハ、竈戸 をいふと 古髄脳 にかけり、下野にあるむろのや志まも(竈戸と同じく)けぶりの たつところなれバ、それにおもひよせて、(竈戸をむろのや志まと) いひはじめたるにや、 是れも除夜に、民の竈戸をさらひて、こむずる年のうちのことの吉凶みなみゆといへり、 火を日々にあてて、きへきらぬをみて志るなどもまうすめり、ことこひとハ、みんと思ふ 事を云ふなり、それに我身のなりはてんほどを志ると読む也」 (考察)「下野にある歌枕・室の八島も竈同様煙の立つ所なので、煙繋がりから、竈(八 島の別名あり)をシャレでムロノヤシマと言い始めたのでは?」と言っています。先に説 明しましたようにこの推測は正しいと思います。 (2)広本[袖中抄](1185−7年頃〜添削終了 は江戸時代?) 「いかでかは−思ひありとも−知らすべき−室の八島の−煙ならでは 顕昭云、・・・むろのやしまとは下野国の野中に嶋あり。俗にむろのや嶋とぞ云。・・・ 是は能因が[坤元儀]に見えたり。 ・・・・・・ 私 、俊頼歌を考えて云ふ、 歳暮 さらひする−室のやしまの−こさらひに(orこととひに、ことこひに)−身のなりはて む−ほどをしらるれ(orしるかな) 此歌は竈を室のや嶋とよみたるにや。師走の晦日(つごもり)の夜、ゐ中のげすの (?)、竈の灰をさらへておきて(orおき取り置きて)、其が消きらぬさまにて、次 の年あらんずる事をしると云る事の侍るとかや。たとへばをかみなどのやうなる事を、か まどにてもつかまつるにや。くはしくはたづぬべし。」 (考察)下野の室の八島の歌以外に、竈を「むろのやしま」と詠んでいる歌を紹介してい ます。先に説明しましたように、俊頼(1055−1129年)の時代に、下野の室の八 島ばかりでなく、竈を「むろのやしま」と呼んでいても不思議ではありません。 (3)[色葉和難集](1236年頃?著者?) 「いかでかは−おもひありとは−しらすべき−むろのやしまの−けぶりならでは 和 云、 @一義云、むろのやしまとは下野国にあり。野の中にことともあらぬいけのあるに、ちぢ とある嶋の八あるなりといへり。それより遠くでみれば、時々けぶりたつといふは、水の 気などにや。 A又一義云、むろのやしまとは、竈をいふなり。かまをぬりこめたるをむろといふ。室な り。かまをばやしまといふなり。 大嘗会 の行幸にも、かまのわ たるをばやしまのわたるといふなり。」 (考察) @ 野中の池について : 意味の分からない箇所がありますが、おそらく「野中に清水 のある所」という平安時代の史料 [袋草紙]内大臣忠通 家歌合 の記述を参考にしているのでしょう。次の文の『又一義云、・・・室なり。』まで、[袋 草紙]を参考にしたようです。 A 『かまをばやしまといふなり。大嘗会の行幸にも、かまのわたるをばやしまのわたる といふなり。』について : 大嘗会の行幸で渡るのは大炊寮の釜でしょう。確かに渡る のは釜ですが、「やしまのわたる」とは、釜が渡るという意味ではなく、 竈神のヤシマ が渡るという意味でしょう。大炊寮にある八つの釜は、大八島竈神、略称を「八島(やし ま)」という竈神なんです。この[色葉和難集]が、 「”やしま”は釜の意」 の元凶のようです。 著者が誰かも分からぬこの[色葉和難集]がけっこう国語辞典・参考書類に引用されて いますが、この史料、室の八島に限って言えば、根拠の無い噂話を無批判に「一義」とし て引用しているようで、参考にするにはかなり問題があります。平安時代の歌枕を説明す るのに、鎌倉時代以降になってから、何の前触れもなく史料(この[色葉和難集]のこと )に登場してくるような内容を参考にすること自体、極めて問題があるんですが。 (蛇足:ですから、ましてや江戸時代などという後世になってから、何の前触れ もなく史料([奥の細道]のこと)に登場してくるような内容を参考にすることは論外な んです。) (註3) 中には、大神神社境内の池から立ち昇る水蒸気を煙に見立てたもので、木花咲耶姫(この はなさくやひめ)の神話に出てくる無戸室(うつむろ)から立ち昇る煙に由来する、とい うムチャクチャな説明もあります。 (註4) 源重之(父):(940?−1000年?)995年に陸奥守藤原実方に随行して陸奥に 下り、同地で没しました。 おき 漢字で燠または熾と書く。 1.赤く熱した炭火。 まきなどが燃えて炭火のようになったもの。 2.炭やまきが燃えきって、白くなりかけた状態。 3.消し炭(まきや炭の火を途中で消して作った軟質の炭。火つきがよいので火種に用い る。) この和歌の「おき」は1.の意味だと思いますが、筆者は「おき」を間違って次のように 理解してました。 「おき」とは、使い残して灰中に残った1.のことである。であるから見た目は、2.で ある。もったいないのでその「おき」を「消し壷」に移して3.を作った。 (註5) 先に、大江朝綱の歌が作られた時点で、既に煙が室の八島の縁語だったようだと書きまし たが、現存する最古の歌が室の八島を詠んだ最初の歌であるなどと考えるのは大間違いで 、その前に室の八島を詠んだ歌がいくつもあり、それらの歌が作られる過程で煙が室の八 島の縁語となったんだろうと考えることが重要なんです。 最初の水蒸気説 実は広本[袖中抄](1185−87年頃〜添削終了は江戸時代?)に「顕昭云、・・ ・むろのやしまとは下野国の野中に嶋あり。俗にむろのや嶋とぞ云。室は所の名か。 其野中に清水の出る気の立が煙に似たるなり。是は能因が[坤元儀]に見えたり。」 と、能因法師(988年−1053〜69年)の[坤元儀]に「野中に清水の出る気の立 が煙に似たるなり」と書かれてあったように書いてありますが、[坤元儀]そのものは伝 わっておらず確認できません。 それに対して、源俊頼(1060−1142年)が「野 中に清水のある」と言った可能性は、次の行に説明していますように充分考えられること です。ということで[袖中抄]の記述は俊頼以後に追加された可能性がありますので、俊 頼の「野中に清水のある」を最初の水蒸気説としてあります。 蒸気霧 水面から発生する水蒸気(霧と言うのが正しい)は、温かい水面から発生した水蒸気が冷た い空気によって露点以下まで冷やされ、水蒸気が凝結して水滴となり霧となったもので、 学術的には蒸気霧と言います。空気の冷たい冬の川に多い川霧(かわぎり)などもこの一 種です。このような霧が発生するのは特定の気象条件下であり、霧が「絶えず立つ」こと はありません。もし絶えず立っているとすれば、それは温泉の湯煙くらいのものでしょう か。 かすみ(霞) 霧(きり)・靄(もや)・煙霧(えんむ、英: haze)などで遠くの景色がぼやけている (=かすんでいる)様。やや文学的な表現で、気象学用語ではない。春の季語。 やへ(八重) 八つ重なっていること。また、数多く重なっていること。 やえがすみ【八重霞】幾重にもたちこめたかすみ。 のもせ(野面) 野原一面。 さみたれ(五月雨、さみだれ) 陰暦五月ごろに降る長雨。つゆ。梅雨。 わきて(別きて・分きて) とりわけ。特に。格別。 藤原定家(ふじわら の さだいえ) 鎌倉時代初期の公家・歌人。諱(いみな)は「ていか」と音読みされることが多い。小倉 百人一首の撰者である。 たくふ(類う・比う、たぐう) 同等のものとして肩を並べる。匹敵する。 まかへ(紛ふ、まがふ、まごう) 思いちがえる。見まちがえる。聞きちがえる。 田上(たなかみ) 淀川水系の大戸川(だいとがわ・だいどがわ)下流域の地名のようです(現大津市田上町)。 【地図】 (註6) 瀬田川(淀川)と大戸川の合流点には、大戸川が運んできた土砂がいくつもの砂州を作り、 それらの砂州群が室の八島・黒津八島(彦九郎島、大島、道万島、かうとう島、高島、上の島、 小島、しめの原島)と呼ばれていたようです。 千鳥 「千草」が「いろいろな種類の草」を意味するように、「千鳥」は「いろいろな種類の鳥 」を意味するのではないかと思われます。 |