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第1章 室の八島の歴史の概要
第2節 栃木市の歌枕の備考の補遺

(註1) これらの歌枕の在る地区はいずれも、1957年までに既に栃木市に編入されていました 。

誤解した
「さしもぐさ」を詠んだ和歌は付記されていますが、文章中に「さしもぐさ」という言葉 は一切出てきません。出て来るのは艾草(モグサグサ=ヨモギ)という言葉です。ですか ら、『葉の形、尋常より大きくて葉さき七尖なり。』の『艾草』(=ヨモギ)が「さしも 草」であるなどとは書いてないんです。

『葉の形、尋常より大きくて葉さき七尖なり。』は「さしも草」の説明でなく、 [録事尊縁起] (1838年)を読むと、正しくは「七ツ葉 差蓬草」(七ツ葉のさ しも草=七ツ葉のヨモギ)の説明であることが分かります。そして[下野国誌]は通説通 り艾草(=ヨモギ)をさしも草としているだけなんです。だから「さしも草」の和歌がた くさん付記されているんです。

二荒山
神仏習合の江戸時代、日光の寺社は皆ひっくるめて満願寺という一つのお寺でしたが、 満願寺の山号が二荒山でした。
そして石塚倉子は、今の「日光山内」(下記)を参詣したんでしょう。 藩の許可を得ていなければ、東照宮は参詣してないかもしれませんね。

日光山内 : 日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社、家光廟大猷院(たいゆうい ん)のある一帯をさす。

(註3) この室の八島は、名所名と竈を意味する「ムロノヤシマ」とを掛けているんでしょう。

しわぶきの森
国府村の北の方にて
当時、惣社明神(今は大神神社)の所在地は惣社村であり、ここで言う室の八島の所在地 は癸生村なので『国府村の北の方にて』は正確には「惣社村の北の方にて」。国府村は惣 社村の西隣。

朝忠
藤原朝忠(ふじわらのあさただ、910−966年)
ちょっと調べてみましたが、下野国にゆかりの有る人とはとても思えません。

なお百人一首に次の歌がある。
 逢ふことの−たえてしなくは−中々に−人をも身をも−恨みざらまし

(註11) この場合の室の八島の位置は、河野守弘の自説(国府村・惣社村・癸生村などを含むあの 辺り一帯の土地)ではなく、俗説である癸生村辺りを指しているようです。河野守弘の言 うことが一定していません。
河野守弘は、状況に応じて自分の考えをベースにして話すべきか、それとも土地の人たち の考えをベースにして話すべきか、その考えがまとまっていないから、話す内容に矛盾が 生じるんです。
河野守弘の頭はどうなってるんでしょう?まあ、あんまり頭の良い人じゃなさそうですね。

国府村(こうむら)
・1889年 - 町村制施行により、国府村、惣社村、大光寺村、田村、寄居村、 大塚村、柳原村が合併し下都賀郡国府村が成立する。
・1959年 - 栃木市へ編入される。

国府町愛宕
「しわぶきの森」はこの辺りらしい。 【地図】

大日様
大日如来の事。
神仏習合の名残で大日如来を祀った小祠が在ったんでしょう。

歌を詠むことが歌枕探索の目的だから、
江戸時代より前に「しわぶきの森」を詠んだ和歌は一首しか無かったのに、江戸時代後期 に下野国の歌枕を詠んだ和歌を収録した歌集[下野歌枕]から[下野国誌]に転載した「 しわぶきの森」の歌だけでも五首も有るんです。
(これらの歌が「「しわぶきのもり」の歌を作って投稿してください。」と公募 したのに対して投稿された来た歌であることは間違いないでしょう。)
馬鹿馬鹿しいので、この五首の和歌はこのウェブサイトに取り上げておりません。悪しか らず。

しめじが原
志女治原
この「志女治」は表意文字ではなく、表音文字つまりカナみたいなもんでしょう。
つまり「標茅原」に振り仮名を振ったことと同じなんです。

中禅寺山
当時、中禅寺山なんていう名前の場所があったんですね。中禅寺山の範囲がわかりません が、中禅寺湖と戦場ヶ原は含まれていたようです。

(註21) そういう手順を踏まないと栃木市の伊吹山の場所を特定することは不可能です。
なぜって、「花厳寺ノウラノ山」には和歌に詠まれるにふさわしい 特徴は何一つ無く 、また、これこれの故事が有って「花厳寺ノウラノ山」が和歌によまれたという話も 無いんです。

[本朝食鑑]
江戸時代に著された本草書。12巻10冊。
日本の食物全般について、水部以下12部にわかち、品名を挙げて、その性質、能毒、滋 味、食法その他を詳しく説明する。食鑑中の白眉とされる。

江州伊吹山の艾
江州伊吹山とは滋賀県と岐阜県の県境にある有名な伊吹山(1,377m) 【地図】 (伊冨岐神社(いぶきじんじゃ):岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹 【地図】) 。江戸時代にはこの山の麓の柏原宿 【地図】 辺りがお灸のモグサの産地で、「伊吹もぐさ」のブランド名で江戸・上方に大量に出荷さ れていました。

標茅茸
現在の国語辞典によれば、茸のシメジは漢字で占地・湿地・占地茸・湿地茸と書くようで、 標茅茸はありませんでした。

[釈名](しゃくみょう)
元々は、中国の後漢末に劉熙が著した辞典の名前ですが、ここでは単に「言葉(名前)の 解説」という意味でしょう。

草茅卑湿の地に生える
卑湿=低湿。草茅と卑湿とを組み合わせた「草茅卑湿」の意味はわかりません。

シメジタケは湿地に生える茸ではありません。生える場所はコナラやアカマツなどの生きた 木の根と関係があります。

(註22) 「俗に」とありますから、「(江州胆吹山のヨモギと野州の中禅山中の標茅原のヨモギ) これらは昔から歌人に詠まれている」という話が世間に広まっていたということです。

(註23) 「さしも草の伊吹山」と「しめじが原」とは互いに近くに有ったんだろうという考えは、 この[古今和歌六帖](976−982年?)だけを根拠にしているんです。[古今和歌 六帖]の歌から、「さしも草の伊吹山」と「しめじが原」とは互いに近くに有ったのでは ないかと想像できるからです。こういう想像は、話が受け継がれて行く間に 「さしも 草の伊吹山としめじが原とは互いに近くに在ったのである」と断定に変わります。 (この太線で書いたようなことが分かっていないと解析はできません)

[近江輿地志略](おうみよちしりゃく、1733年 完成)
「伊吹絶頂の弥勒堂より十四五町を隔つる郊原なり。占治原と言ふ。」

占治原
後で紹介する[モグサの研究]が言う「占治原」の場所
「頂上から西方(やや北より)で、ゆるやかな傾斜の広野が占治原で、一部は大阪セメン ト石灰鉱山 【地図】 になっている」

また或るウェブサイトは、[モグサの研究]とは違う場所を占治原のようだとしています 。
「伊吹山項から南方の弥高百坊(やたかひゃくぼう、京極氏遺跡の所らしい) 【地図】 へ続く中尾根の、ちょうどまん中あたりにちょっつとした広場があります。ここを占治原 といいます。」

茅の生えるような湿地
茅 : チガヤ・スゲ・ススキなど、イネ科・カヤツリグサ科の植物の総称。葉が細長い。 屋根を葺(ふ)くのに使う。「萱」とも書く。(国語辞典より)
茅には種類によって湿地に生える草とそうでない草が有り、ここでは湿地に生える 草を指しているようです。

 『茅は屋根を葺く(ふく)のに使う。』とのことですが、茅葺屋根に使う茅とはススキのこと だそうです。ご存知のようにススキは湿地に生える草ではありません。

標・しめたる野
国語辞典より
・標(しめ) : 領有の場所であることを示したり、出入りを禁止したりするための標識。
・標(し)めし野 : 〆を結んだ野原のこと。土地・場所の所有・領有を表した。
・標野(しめの) : 皇室や貴人が占有し、一般の者の立ち入りを禁じた野

よもぎのあと
モグサをすえたあと、お灸をすえたあと。
藤原隆信(1142−1205年)
 朝露の−ひるまはいつぞ−秋風に−よもぎのあとも−思ひ乱れぬ

オオヨモギ
滋賀・岐阜の県境の伊吹山の麓にはオオヨモギが多く生えていたので、ここではオオヨモギ を使って灸のモグサを作っていたようです。

[室八島]
江戸時代中期に活躍した現在の栃木市在住の女流歌人・石塚倉子(1686−1758年 )の作品集。

日光名物
次の二史料を紹介して頂きましたので、国立国会図書館 デジダルコレクションで 、詳細を調べました。

1)[日光山志](植田孟縉 著、1824年 序)巻之四
参考史料:[日光山志]、大日本名所図会. 第2輯 第2編 、大日本名所図会刊行会 編 (大日本名所図会刊行会, 1920)
(国立国会図書館 デジダルコレクション)

「日光諸処の名産」
銅、銀、熊の胆(クマノイ)、熊皮、日光蝋石(印章其余細工物に造る)(以上足尾より 出だす。)
飛禽 : 省略
魚虫 : やまめ、鱒、岩魚、山生魚(サンショウウオ)
薬品 : 黄連、直根人参、日光人参  御種人参 の事なり。
     この余薬草多かれど悉く記さず。
草木 : 省略
走獣 : 省略
飲食類 : 岩茸、椎茸、松茸、栗子、 胡鬼子 (コギノミ)、漬蕃椒(ツケトウガラシ)、湯葉 (五色ゆば・巻きゆば)、鳥の (シシビシホ)、平索麺(ヒラサウメン)、 婿菜 、渉釐(ちょくり?、 川海苔
細工物 :  春慶塗 、指物細工、曲物類、挽物、栗山杓子、木鉢、曲桶

2)[下野国誌]( 河野守弘 著、1850年)十二之巻
(国立国会図書館 デジダルコレクション)

「国産名物
・・・日光黄連、日光人参、日光蕃椒・・・」

(考察)これらの史料の中に灸のモグサは無かった。
つまり、モグサは江戸時代の日光名物じゃなかったということです。平瀬徹斉は、(3) [大和本草]辺りを参考にして、「日光山のふもと標地原の艾(モグサ)又名物也」と、 言ってるだけのようです。

[叢桂偶記]
原南陽が、医学的事項に関する所見を述べた評論集。

[江戸後期諸国産物帳集成]
第3巻 陸奥・羽前・羽後・陸中・陸前・磐城・会津・下野・常陸、安田健 編、科学書 院、1998年
の「日光山志」(p827−858)の中に「岩蓬」の図があります(p834)。
なお、下野関連の資料でもう一つ、「日光山草木之図」が収録されていますが(p531 −826)、p537−556の目録を確認した限りでは、「よもぎ」の記載はないよう です。(影印本を職員が目視で確認いたしました。)

この(参考)は栃木県立図書館さんに依頼して調べていただきました。この栃木県立図書 館さん、信じられないくらいよく調査してくれます。感謝感謝感謝感謝!

(考察)インターネットで調べましたが、「岩蓬」がモグサに適しているなんてことを書 いた記事はなかったです。また奥日光の戦場ヶ原に良質なモグサを作るのに適した特別な ヨモギが生えているなら、上記「日光山草木之図」に掲載されていてもよさそうなんです が、掲載されておりません。つまり奥日光の戦場ヶ原がモグサの原料・ヨモギの産地であ るなんてことはないんです。

実は、栃木県立図書館さんからは、上記(参考)の情報以外に明治時代以降の史料に関す る情報も頂きました。 こちらからは、江戸時代の下野国におけるモグサ生産に関する調 査依頼をしたんですが、明治時代以降の史料に関する情報が届いたということは、江戸時 代の下野国におけるモグサ生産に関する明確な史料はどうもなさそうだということです。 下野国から江戸の町に大量にモグサを出荷していれば史料に載って来ないということはな いんです。

千葉寺
海上山千葉寺(千葉市中央区千葉寺町)
本尊 十一面観音
〔御詠歌〕法のたね−しめじが原に−花さひて−あまねきかとに−匂ふ千葉寺

水戸黄門の[甲寅(きのえとら、こういん)紀行](1674年旅)によれば、千葉寺は かつて現在の地から七八町(約700−800m)東方の志面地我原(しめぢがはら)に 在ったという。

千葉寺の昔話
「その昔、千葉寺はしめじが原という所に在ったそうです。ところが永暦元年(1160 年)のこと、千葉寺に雷が落ちて社殿が炎上してしまいました。そうしたら本尊の十一面観 音は今の千葉寺の地の桜の大樹に飛び移って難を逃れたそうです。それで今の地に寺を移 したと言うことです。その後千葉寺のお開帳の折には、花時でもないのに桜の花が咲いた といいます。この故事があってから、この辺りの家では、桜の木を薪にしたりせず、大切 に扱うようになりました。」

なお現在、千葉寺は創建当初から同じ場所にあり移転はなかったと考えられています。

伊吹山より十余町東の方
(十余町=1km余り)
この伊吹山を、[下野国誌]「伊吹山の項」通り『吹上村にあり』、即ち鴻巣山とすると 、『伊吹山より十余町東の方』の位置は、栃木市教育委員会が東武日光線の合戦場駅近く に立てた「標茅が原」の案内板 【地図】 より約1〜1.5km西北西です。

(参考)[下野国誌](1850年刊)
 河野守弘(1793−1863年)著
「月読(ツキヨミノ)社
都賀郡川原田村にあり。近郷の俗は三日月の宮(三日月神社、栃木市総合運動公園の近く です。 【地図】 )と唱えて、月毎の三日の日は参詣の事のおほし。さて此所は伊吹山の麓にて標茅原 なり(この神社は吹上村の山の南東方向3kmの位置にあります)。委しくは上の名 所部に挙げたり。」

(考察)高さ170〜180mの山から3kmも離れていれば、普通麓にあるとは言いま せんけどね。

しらちが原と訛れり
つまり、標茅原なんていう名前の場所は存在しなかったということです。
現在は、「しらちが原」なんていう名前の場所は存在しません。当時「しらちが原」とい う名前の場所があったとすれば、それはしらち沼に関連した名前であって、「しめじが原 」が訛ったのではありません。しらち沼ってすり鉢状の沼?すり鉢のことを古語で「しらじ 」と言ったようです。

契沖
けいちゅう(1640−1701年)国学者。真言宗の僧。1678年大坂今里の妙法寺 住職、晩年は大坂高津の円珠庵に隠棲した。下野国の歌枕については、文献を読んで知っ ているだけと思われます。
話がずれますが、契沖の私家集・[漫吟集]に、室の八島の歌三首があります。

艾草
この「艾草」は おそらく「モグサ」と読んで「ヨモギ」の事だろう。

論にもたらず
[下野国誌]の著者・河野守弘は、下野国の歌枕についてはかなり自信がありますので、 他人に対してはこっぴどくけなします。自分の説が「論にもたらず」であることを自覚せ ずに。

(註24) 日光付近に生えているヨモギはモグサに適しているのではなく、食すのに適していると書 いてあります。これ[日光山志](1824年 序)にある岩蓬(イワヨモギ)のこと?

裾野
山麓の緩やかな傾斜地のこと。

[江戸砂子]・[江戸遊覧花暦]
1)[江戸砂子](1732年)第二巻
 菊岡 沾涼(きくおか せんりょう、1680−1747年)著
「○今戸(東京都台東区にある地名。浅草の北東隣)
浅茅原  総泉寺(1928年に板橋区に移転しました)の門前の原をいふ。
○妙亀塚 あさちか原にあり。梅若丸の母(能、謡曲[隅田川]の女主人公。妙亀は尼に なってからの名前)の墳なり。上に堂あり。妙亀塚(みょうきづか、現在台東区橋場一丁 目二十八番三号にあり)といふ 。×像あり。号 妙亀大明神」
「×」部は、くずし字で書かれてあるため筆者には読めませんでした。

「○今戸
○天台宗
○玉姫稲荷社(東京都台東区清川2−13−20。江戸時代にはこの辺りも今戸だったん でしょう)
この社は山城国稲荷山のいなりを移せしなり。王子村岸稲荷と神縁ありと言ひ伝ふ。 御玉姫いなりといふもゆえあることなり、正慶二年(1333年)新田義貞朝臣、鎌倉の 高時を追討のみぎり、弘法大師直筆の像を襟掛にしたまひしを、瑠璃(るり)の玉塔にこめて 当所におさめまつり給ふゆえに、御玉ひめの稲荷と称すよし。
標茅か原 右社(玉姫稲荷)地の辺りをいふと也。
此わたり水鶏(くいな)多し。・・・」

2)[江戸遊覧花暦](1837年)
  岡 山鳥(?−1828)編輯、長谷川雪旦 画
「○水鶏(クイナ)
標茅原 玉姫稲荷辺り、此社は山城国稲荷山のいなりを移せしなり。王子村岸稲荷・・・ ([江戸砂子]と同じ文の玉姫稲荷の歴史の説明)」
水鳥のクイナのいる標茅原の湿地の中に玉姫稲荷の社が描かれた絵「標茅原 水鶏」が載 ってます。

(註)但し、同じく長谷川雪旦が描いた[江戸名所図会](1834−1836)の絵で は、玉姫稲荷のある場所は、「標茅原」でなく「浅茅か原」となっています。
しかし、玉姫稲荷のある場所は、クイナのいる湿地帯・沼地なので、野原である「浅茅か 原」ではない。

(考察)江戸時代には、東京都台東区にも「標茅が原」が在ったようです。

滋賀県と岐阜県の県境の伊吹山の中腹にある「しめじが原」が湿地でないのにもかかわら ず、この東京都の「しめじが原」および栃木県の三つの「しめじが原」(日光の戦場ヶ原 、宇都宮の「しめじが原」、栃木市の「しめじが原」)がいずれも湿地であるということ は、江戸時代に江戸の町の学者によって、「しめじが原=湿地(しめじ)が原」であると いう説が生まれた可能性が高いです。

(註26) 都賀郡川原田村の標茅原は、「今 しらちが原 と訛れり」、つまり標茅原なんていう名前 の場所は無かったということです。
 また[日光山志](1824年 序)には、「戦場ヶ原は標茅原の異称である。」とあ りますが、 標茅原という名前が有るなら、ここでわざわざ戦場ヶ原の名前を出す理由は さらさらありません。これは戦場ヶ原に標茅原などという異称のないことを意味します。 ただ、だれかが「戦場ヶ原は、かつて和歌に詠まれた標茅原ではないか?」と言ってるだ けだと思います。これを「戦場ヶ原は標茅原の異称である。」と表現するのは間違いです 。

西方2km
[下野国誌]が標茅が原と伊吹山」との距離は1km余りだと言ってるのに、 栃木市教育委員会が、いや2kmが正しいんだと否定できるわけないでしょ。 なぜこんな問題が起きたかと言えば、それは栃木市教育委員会が場所を間違えたことに 依る他ありません。

確かに、ここから栃木市教育委員会が言うところの伊吹山の場所・伊吹山善応寺の観音堂 までは約2kmあります。しかし[下野国誌]が言う「標茅原(シメチカハラ)」と 「伊吹山」との距離は『(標茅原は)伊吹山より十余町(1km余り)東の方』です。 そして[下野国誌]が言う伊吹山とは吹上村の山のことですから、栃木市教育委員会が言う 伊吹山の場所ではありません。そして栃木市教育委員会が言う「しめじが原」の場所と 吹上町の山との距離は東西約2.5kmあります。ということは、[下野国誌]が言う 「しめじが原」の場所は、栃木市教育委員会が言う「しめじが原」の場所より 1〜1.5km西にあったということです。そしてその辺りが[下野国誌]が言う 「しらちが原」の西端だったということでしょう。

(註27) つまり[下野国誌]が言う「 しらちが原 」なんていう名前の場所は存在しないってわけ ね。[下野国誌]が言う「 しらちが原 」が存在すれば、栃木市教育委員会がそれを取り 上げずに[下野国誌]に出て来ない白地沼なんかを出してくる訳がないんです。

さしもぐさとは七つ葉のヨモギである
但し1980年頃吹上町の人たちは、七つ葉のヨモギをさしもぐさは呼ばず、「伊吹の七つ葉ヨモギ」 と呼んでいました。
吹上町の人達は、この頃はまだ、「さしもぐさとは七つ葉のヨモギである」と言う 栃木市教育委員会には騙されていなかったようです。

艾草
モグサと読み、ヨモギのこと。

さしも草は栃木市指定天然記念物
1)1979年4月15日付の「栃木市政だより」の記事によれば、
  @さしも草とはヨモギの異称である。
  A さしも草は栃木市指定天然記念物 である。
2)確かに、栃木市の文化財一覧を見ても、栃木市指定天然記念物は「さしも草」となっている。
3)ところが、2019年9月20日付の「広報とちぎ 10月号」の記事によれば、
  Cさしも草とはヨモギの別名である。
  D七つ葉のヨモギは栃木市指定天然記念物 である。
となっており、さて
A.栃木市指定天然記念物は、さしも草なのか?七つ葉のヨモギなのか?
B.栃木市指定天然記念物のさしも草とは、ただのヨモギなのか?七つ葉のヨモギなのか?
これらがさっぱりわからない。

[和歌童蒙抄]
平安後期の歌学書。10巻。藤原範兼著。1145年ごろの成立か。万葉集以下の諸歌集 の歌を、日・月など22項の部類に分けて語釈・出典を記し、さらに雑体(長歌・旋頭歌 (せどうか)・俳諧歌などの総称。)・歌の病(和歌の修辞上の欠陥)・歌合判 について述べたもの。

[袖中抄] (1185−87年頃〜添削終了は江戸 時代?)
あまり正確な話ではありませんが。
元々の[袖中抄]あるいは[顕秘抄]は、顕昭(1130頃−1209年以後)による 1185−87年頃の著作ですが’(これを「略本袖中抄」という言い方があるようです) 、その後他人によって書写される度に内容が添削されているようです ’(これを「広本袖中抄」という言い方があるようです。このWSに引用したものは 全て広本です)。[袖中抄]のしめじが原の説明は、上記[童蒙抄]からの 引用文に続いて次の文があります。

「又或説云、しめちの原といふしめちとは、下総国(傍註:私云下野国)に しめつの原と云所有。其原にさしも草おほくおひたり。さればしめつをしめちと云か同事也。
又云、さしも草とはよもきを云。
またよもきに似たる草とも。
又云、しめしとは夏の一名也。(されば夏の原といふべき也) (註21)

ここで「顕昭云」、あるいは「童蒙抄云」など顕昭の時代以前の文献を引用している部分は、 元々の[袖中抄]、[顕秘抄]に記載されていた内容ではないかと思います。
しかし「或説云」などは、それ以降に(顕昭没後に)付け加えられた 可能性があります。上の「或説云」の『下総国にしめつの原と云所有。其原にさしも草 おほくおひたり。』とは、もしかしたら、江戸時代の 千葉寺 に関する俗説を参考にしたものかも知れません。あるいは、『私云』うように下野国を 下総国と誤写したのかもしれません。

藤原基俊の逸話
[千載和歌集](1188年)
藤原基俊
「律師光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たひたひもれにけれは、法性寺入道前太政 大臣にうらみ申しけるを、「しめちのはら」と侍りけれとも、又そのとしももれにけれは よみてつかはしける
 契りおきし−させもか露を−いのちにて−あはれことしの−秋もいぬめり(百 人一首)」

(説明)藤原基俊が息子の律師光覚を維摩会の講師に推薦してもらうよう、法性寺入道前 太政大臣(藤原忠通)に頼んだところ、清水観音の歌<なほ頼めしめぢが原のさせも草わ が世の中にあらむかぎりは>の歌の一部である「しめぢが原」と答えてくれたので、「な ほ頼め」つまり「私にまかせなさい」と承諾してくれたものと喜んでいたが、その後もた びたび推薦から漏れた。それで「させも草の約束をしてくれたのに、今年も推薦から漏れ てしまった」と恨みを込めて忠通に送った歌だそうです。

(註28) この歌が普及するのは、謡曲[田村]と[船弁慶]に取り上げられた以降のことでしょうか ?
 「田村」 世阿弥(1363年−?年)作?
 [船弁慶]観世小次郎信光(1435or1450−1516年)作
  ただ頼め−標茅が原の−さしも草−我世の中に−あらん限りは

(註29) 「しめじが原」・「さしも草」を詠み込んでいる現在の御詠歌の例
・栃木県宇都宮市宮町[玉生山 能延寺](本尊 千手観世音菩薩)
  唯頼めーしめじが原のー観世音ー抜苦与楽(ばっくよらく)のー誓ひ頼もし
・新潟県新発田市道賀 [福聚山 興善寺](本尊 聖観世音菩薩)
  唯たのめ−しめじが原の−露の身を−さしも道賀の−草のはずいを
・福島県原町市本町[平田山 新祥寺](本尊 如意輪観世音菩薩)
  罪深き−人も仏を−ただたのめ−標茅ヶ原の−つゆと消えなん
・福島県南会津郡南会津町[金光山 照国寺](本尊 聖観世音菩薩)
  照る程の−国はしめじが−原なれば−誰か誓いの−影にもるべき
・徳島県板野郡上板町大山[仏王山 大山寺](本尊 千手観世音菩薩)
  さしもぐさ−たのむちかひは−大山の−松にも法の−花やさくらむ
調べればまだ沢山出て来ると思います。


さしも草の伊吹山
近江・美濃の境なる伊吹山説と下野国の伊吹山説
前者の山については、具体的にどの山を指しているのかが分かりますが、後者の「下野国 の伊吹山」については、現在そんな名前の山は栃木県に存在しませんので、下野国内のど の山を指しているのか、さっぱりわかりません。実は、元々「下野国にある」ということ は分かっていましたが、「下野国内のどこそこにある山」かっていうのは分かっていなか ったんです。でもこういうことって有り得ることでしょうか?

曾禰好忠
小倉百人一首46番
由良の門(と)を−渡る舟人−梶(かじ)を絶え−行方も知らぬ−恋の通かな

由良の門
1)紀淡海峡。 紀州(和歌山県和歌山市、田倉崎)と淡路島(兵庫県洲本市、生石鼻)の間の海峡。 特に、兵庫県淡路島の洲本市由良の付近。
2)京都府北部の由良川の河口。西岸は宮津市由良。

作者がどこを詠んでいたのかはともかくとして、百人一首が編まれた当時は、 紀伊の由良には波の荒い湊のイメージが持たれていた。
舟人という言葉も相まって、当時の受け手は皆「由良→波の荒い湊がある紀伊の由良 だな…」 と考えていたことだろう。


花厳寺
1868年(明治元年)の神仏分離令に伴う廃仏毀釈により廃寺となるまで、栃木市都賀 町木([下野風土記]当時は都賀郡城村(or木村)(きむら))に在った華厳寺。

花厳寺は日光を開山した勝道上人の開基で、[下野風土記](1688年編著)の頃には 、勝道上人作の十一面観音の像が存在しました。

観音山
昔は出井山?華厳寺の本尊は十一面観音で、日光を開山した勝道上人作の十一面観音像が 有ったことから出井山が「観音山」と呼ばれるようになったんでしょう。

鴻巣山
この山のすぐ西隣(仲方町)に「サントリー梓の森工場」があり、「デリカ・メゾン」の ワインを製造しています。但し醸造しているわけではなく、いろんな原料を配合して 作っています。
サントリーは、鴻巣山が有名な歌枕の「伊吹山」であるなどとは毛頭考えておりませんので、 「伊吹山工場」などという名前は付けませんでした。

哥九首
[歌枕名寄]の近江の国の部に載っている「さしも草の伊吹山」を詠んだ歌の数のことのよ うです。
そして、その内の2首はダブって下野国の部にも載ってます。

[勝地吐懐編]上下
記載内容からこれも一巻本と思われます。他に、記載対象は同じく和歌に登場する地名で すが、記載内容がかなり違っている三巻本があります。

結論
[モグサの研究(2)]−(歌枕の)(さしも草の)伊吹山考−
結論(原文を書き換えてます)
「モグサの産地として最初(平安時代の頃)有名だったのは、栃木市の伊吹山である(つま り、歌枕・さしも草(ヨモギ)の伊吹山とは、栃木市の伊吹山のことである)が、その後 滋賀県の伊吹山へ移った。江戸時代には滋賀県の伊吹山のモグサ生産は隆盛を極めるが、 栃木市の伊吹山のモグサ生産は衰退した。」

(補足)
この結論に至るには[下野国誌]と栃木市教育委員会が建てた案内板が大きく 影響しています。
(「下野国の産物」の中にモグサの名が登場してきたことは、歴史上一度も無い んですが)

中野智玄(?−1190年)
えっ鎌倉時代の人物なの? 「中野智玄」「録事法眼」でインターネット検 索しても、この[録事尊縁起]にしか出てこない不思議な人物。

(録事法眼)(ろくじほうげん)
「録事尊縁起」によれば、後鳥羽上皇(1180−1239年、中野智玄の死後の1198年 より上皇となる) の病を治して録事法眼の号を受けたという。
                号 : 称号の略。本名とは別に使用する名称。

録事 : 記録・文書をつかさどる官職。書記。
    (なぜ、この官職名が付いたのか全く理解不能)

法眼 : 仏教における僧位のひとつ。法眼和尚位またその略称。
    ・上記の僧位にちなんで、医者・儒者・絵師・連歌師などに授けられた敬称。

差蓬草
「さしもぐさ」と読ませて、ヨモギを意味するものと考えられます。江戸時代には差蒿と 書いて、「さしもぐさ」と読ませる例もありました。
ここでは、ここに登場する伊吹山(イブキサン=善応寺)が歌枕の伊吹山(いぶきやま) と関係あるんだ、と言いたいためにヨモギと言わずに「さしも草」と言ってるわけです。

思います
「思います」とは、この[録事尊縁起]の(考察)内容を全て踏まえた上での「思います」 です。
まず[録事尊縁起](1838年写)の中で伊吹山について言ってることは、「吹上村には 伊吹山(Aいぶきやま)という名前の山は存在しない。在るのは、伊吹山(Bイブキサン) という山号を持つ寺だけである。」というものです。

ところで、上記(Aいぶきやま)に関して、[録事尊縁起](1838年写)より 150年ほど古い[下野風土記](1688年編著)には、『伊吹山 :  花厳寺ノウラノ山ナリ、吹上村ノ内   此山 歌ニヨメルイブキ山也共云』すなわち、 「歌枕の伊吹山(Aいぶきやま)ではないかと推測される山が吹上村にある」と書いてあります。

[録事尊縁起]と[下野風土記]とで、{吹上村に伊吹山(Aいぶきやま)が在るか? 無いか?}について言ってることが違うでしょう。さて、[録事尊縁起](1838年写) の話が作られたのは[下野風土記](1688年編著)より前でしょうか?後でしょうか?

ここで、[録事尊縁起]に戻りますが、この話が作られたときには、「吹上村には 伊吹山(Aいぶきやま)という名前の山は存在しませんでした。」が、それより前の(前で なかったら、[録事尊縁起]の話に取り上げることは不可能です)、この神社に伊吹山 (Bイブキサン)という山号が付けられた時には、吹上村に伊吹山(Aいぶきやま)が在った はずです(無かったら伊吹山(Bイブキサン)という山号をつける理由がありません)。

と言うことは、この神社に伊吹山(Bイブキサン)という山号がつけられた時期より後の、 [録事尊縁起]の話(吹上村には伊吹山(Aいぶきやま)という名前の山は存在しない。) が作られた時期は、[下野風土記](歌枕の伊吹山(Aいぶきやま)ではないかと 推測される山が吹上村にある)より後だということです。

それではなぜ、[録事尊縁起]の話が作られた時までに、吹上村には伊吹山(Aいぶきやま )は無くなってたんでしょう?
それは、吹上村の、あんな独立した山とも思えない何の特徴も無い山が歌枕の伊吹山 (Aいぶきやま)であるなんていう馬鹿げた作り話は、短期間のうちに消えてしまったでしょう。
一方、吹上村に伊吹山(Aいぶきやま)なる山が在った時にお寺に付けた伊吹山 (Bイブキサン)という山号の方は、お寺が廃寺になるまで消えません。それで[録事尊縁起] の話がつくられた時まで伊吹山(Bイブキサン)という山号が残ってたんです。

ということで、「[録事尊縁起](1838年写)の話は、伊吹山に関する記述内容から 推測して[下野風土記](1688年編著)より後の1700年代か、1800年代初め かに作られた」となるわけです。

ところで(9)[録事尊縁起]と(10)[下野国誌]とで、伊吹山(Aいぶきやま)と 伊吹山(Bイブキサン)とについて言ってることが同じです。もしかしたら[録事尊縁起]が 作られた時期は[下野国誌]が作られた時期に近い(1700年代終わりか?1800初 め?)のかも知れません。
なお筆者は、「録事尊のあっさりした内容の伝説は昔から有ったんだと思いますが、上記 のような[録事尊縁起]の細かい話は1773年に常楽寺に録事法眼を祭る録事堂が作ら れたときに作られた可能性がある」と考えています。なお録事尊縁起関連資料 は、 1552年〜1774年のものが残存するようです。

伊吹山
この伊吹山は、名所勝地の部に書いてあり、かつ「イブキサン」ではなく「いぶきやま」 と読んでいるので、次に出て来る善応寺の山号ではありません。


「里」については、「伊吹の里とは吹上村のことだ」と言ってるつもりなんでしょう。
関連する和歌
 いつしかも−ゆきてかたらむ−おもふこと−いふきのさとの−すみうかりしを
 思ひだに−掛からぬ山の−させも草−誰か伊吹の−里は告げしぞ  清少納言

其所に
「伊吹山に」という意味でなく、「吹上村に」という意味でしょう。善応寺は伊吹山に在 りませんから。

山号(さんごう)
寺名につける山号の習慣は、鎌倉時代に中国から伝わったようです。善応寺の伊吹山(イ ブキサン)という山号は、しめじが原とさしも草の伊吹山(いぶきやま)が栃木市付近に こじつけられた後(江戸時代の1600年代ではないかと思われます)に付けられたもの でしょう

(註32) 伊吹山(イブキサン)とはお寺の山号だと言ってますが、これは「このお寺の近くに 伊吹山(いぶきやま)があるから、このお寺が伊吹山の名をお寺の山号にしている」 すなわち「このお寺の近くに歌枕の伊吹山(いぶきやま)がある」ということを 言ってるようです。

 お寺の説明はどうでもよい。それより山のことをちゃんと説明しろ。『都賀郡吹上村にあ り』 だけでは説明不足だ。当時の山の名前は何と言うんだ?隠すな。それを書いてない から、[下野風土記]の記述との絡みが有って、[下野国誌]が言う伊吹山がどの山のことなのか 明確にならないのだ。

(註33) 『また境内に観音堂たてり』をここに書くことに、どんな意味があるんだろう。どうも 本堂がなく、在るのは観音堂だけだということだろう。でないと理解できない。なお『観音堂』 の観音とは聖観音のことです。

是は
「善応寺は」の意味でしょうね。観音堂だけかつて標茅原に在ったというのはおかしいの で。また観音堂だけかつて標茅原に在ったとして、本来、観音堂は、善応寺の本堂と一緒 に「ここ」に在るべきものですから、『ここにうつしたる也』と表現するのはおかしいで す。

もしかしたら、善応寺が標茅原に在った時代に本堂だけが老朽化して朽ち果ててしまい、 残った観音堂だけが「ここ」に移って来たのでしょうか?だとすれば、「是は」は「観音 堂は」の意味でしょう。

なんか、こっちの意味の方が当たっていそうですね。 前の文の「其所に 善応寺と云ふ真 言宗の古寺ありて」は、「しかし本堂は残っておりません。」という意味かも知れません ね。つまり、当時(1850年頃)も今と同じく観音堂しか残っていなかったんかもしれ ません。

(註34) ここに移してから伊吹山(イブキサン)の山号をつけたということね。そしてここに移し た時には、伊吹山(いぶきやま)という名前の山が在ったと言いたいのね。

其あたり
「善応寺の辺り」の意味でしょうね。

葉さき七尖なり。
研究論文[モグサの研究(2)]−伊吹山考−によれば、

「「七つ葉」というのが裂片の数のことならば, これだけでは特別の種類とはいえない。 通常5裂のものが多いが7裂あるいは9裂した葉のヨモギも少くないのである。」

だそうです。

[徐嘯随筆]
栃木県内のすべての公立図書館の蔵書を「横断検索」しても、この本見つからず。

(註35) 『其あたりに 艾草(モグサ=ヨモギのこと)あまた生ず、葉の形、尋常より大きくて 葉さき七尖なり。(=七つ葉のオオヨモギ)』は、[下野国誌]の著者・河野守弘が 善応寺付近のヨモギを実際に観察した結果を述べているのでしょう。

最初に、[徐嘯随筆]の著者・甲田貞丈がこのヨモギ(七つ葉のオオヨモギ)を見て、 「[録事尊縁起]に出て来る、モグサとしての効能に優れた「七ツ葉の差蓬草 (さしもぐさ)」とはこの艾草のことか」と考え、
その後[下野国誌]の著者・河野守弘がこのヨモギ(七つ葉のオオヨモギ)を見て、 「[徐嘯随筆]に出て来る、モグサとしての効能に優れた「七ツ葉の艾草(もぐさ)」 とはこのヨモギのことか」と考えたんでしょう。

[坤元儀]
別名『諸国歌枕』といい「諸国の歌枕を集めたもの」のようです。但し現存せず。

下野なり
これについては、後の「さしも草の伊吹山の考察」の所で解析します。

『さしも草よむは、皆下野なり』
[下野国誌]の著者・河野守弘が言ってる[勝地吐懐編]の『さしも草よむは、皆下野な り』とは、前に示した [勝地吐 懐編]一巻本 (1692年)と、次に示す[勝地吐懐編]三巻本(1696年)の「伊吹」の項にある 次の文『さしも草よめる哥とも九首は、皆下野のいふき山なり』のことのようです。

「伊吹           近江 坂田郡、又濃州不破郡
                           曾禰好忠
続古今
冬深く野はなりにけり近江なるいふきの外山雪降ぬらし
右、此外に、さしも草よめる哥とも九首は、皆下野のいふき山なり、下に至りて 、別に出して注すべし。(ただし、この史料には、下野国の伊吹山の項はありません)
                           藤原康光
建保三年(1215年)名所百首
吹すてて風はいふきの山のはをさそひて出る 関の藤河
此哥は美濃によめり。」

(註)後書きに「この三巻は1696年に書いた。先に一巻があり、合わせて四巻の草稿 が成った。 契沖」という内容が書かれてあります。

(考察)『([歌枕名寄]に載っている)さしも草よめる哥とも九首は、皆下野のいふき 山なり』かもしれませんが、次の哥は明らかに近江と美濃の境に在る伊吹山のさしも草を 詠んだものです。

俊成女(1171?−1254年?)
さしもやは−みにしむいろも−いぶきやま−はげしくおろす−みねのあきかぜ
*この強風を「伊吹おろし」と呼ぶようです。

(戯言)
この「伊吹おろし」に対して栃木市辺りでは「赤城おろし」(或いは単に冬場に西から吹 く「空っ風」)が冬の風物詩です。
「赤城おろし」とは、かなり西に在る群馬県の赤城山の方向から冬に吹く強い空っ風のこ とです。この空っ風の影響で、栃木市ではよく冬に火事が起きました。という印象です。
これに関して、
普通、消防車のサイレンの音を聞いて火事が起きたことを知り、「さて火事場はどこだ?」 と考えるでしょう。
ところで、1950年代の我が家には電話局所有の電話機があり、火事が発生すると電話 局からすぐ連絡が入りました。「電話ケーブルなどの保護のために関係部所の人は現場に 駆けつけて下さい」という意味だと思いますが。
ということで、我が家ではいち早く火事場の場所を知ることになるので、近所の人たちが 「火事はどこですか?」と聞きに来ます。
そして、火事の現場を見てものすごく興奮する私は、近所の人達と一緒にすぐ自転車で現場に駆 けつけることなります。ものすごく興奮します。
火事場を見て一番興奮したのは、翌年入学する栃木市南中学校の校舎が焼けてる現場です。

(註36) これらは下野国外の人が書いた史料です。おそらく、下野国の人が下野国の伊吹山につい て書いた史料はないのでしょう。それは下野国に伊吹山と名の付く山がないからでしょう 。

省略
省略、つまりここで紹介しなくてもいいんですが、和歌を楽しんで詠むためのテクニック の一つを利用した歌が[下野国誌]に載ってましたんで紹介します。

[下野歌枕] 沓冠歌  伊吹山さしもくさ、よみ人しらず
 いかに今朝−ふりかさねてし−菊の霜−やへにやへさく−ませの花ふさ

この五七五七七の、それぞれの最初の言葉を繋げると、「いふきやま=伊吹山」となりま す。
 (い)かに今朝−(ふ)りかさねてし−(き)くの霜−(や)へにやへさく−(ま)せ の花ふさ

またそれぞれの後ろの言葉を繋げると、「さしもくさ」となります。
 いかにけ(さ)−ふりかさねて(し)−菊のし(も)−やへにやへさ(く)−ませの花 ふ(さ)

(考察)こんな複雑な「折句(おりく)」を詠み込んだ和歌を作れる歌人は、かなりの「 折句マニアですね。

伊吹山の説明が無く
全く変な話です。本来なら「・・・吹上村にあり、今は○○山と呼ばれています」くらい は少なくとも書くべきでしょう。実は、[下野国誌]の著者・河野守弘は、当時吹上村に 在った山の名前を隠してるんです。他の歌枕の例でも、河野守弘は当時の名前を必ず隠す んです。

吹上村には標高約180mの鴻巣山 しかありませんから、[下野国誌]が言ってる伊吹山 とは鴻巣山のことであると言うことになるんですが、河野守弘が明言していないんで 、河野守弘が歌枕の伊吹山と考えている山がホントに鴻巣山なのかはっきりしないんです。

国産名物
 *これらの物が、どんな基準で「国産名物」に選ばれたのか、筆者にはよくわかりませ ん。
 *下記文中『 』内の文が、[下野国誌]にある「国産名物の説明文」です。

毛氈(もうせん) : [下野国誌]当時の名物ではない。延喜内蔵寮式にある『氈(カ モ)十枚下野国所進』などの文を、毛氈が下野国の名物であることの根拠にしているだけ のようだ。『都賀郡三毳(ミカモ)山も氈(カモ)の出来しゆえの名なり』は、全くのデ タラメ。だって、「大田和山」別名「みかほ山」に「三毳山」の名前をつけたのは、[下 野国誌]の著者・河野守弘本人だから。
 氈は敷物の一種で、獣毛を平らに敷きつめ、水などを含ませて圧力や摩擦を加え縮絨( しゅくじゅう)して製作されたフェルト。

砂金 : 昔採れた「那須のゆり金」のこと。[下野国誌]当時採れたわけではない。

調布(付真岡晒布・足利染物) : 『古の調布は麻にて、今の晒布は木綿なり』

牧馬 : 昔の史料に載っているだけのようだ。

下毛草 : 木シモツケと草シモツケとがある。[下野国誌]は『上代当国に始て生る故 に下毛草とは云うなるべし』を言いたかっただけで、特に栃木県に多いわけではない。

日光黄連 : キンポウゲ科オウレン。根茎は黄連(オウレン)という生薬で、苦味健胃 、整腸、止瀉等の作用がある。

日光人参 : 『日光山の奥白根山におのずから生ずるなり。・・・今日光山の麓大芦郷 にて多く作るなり。是は朝鮮種(朝鮮(高麗)人参=御種人蔘(おたねにんじん)) なり。』
これによれば、日本古来の人参が有ったようですね。
また「1960年代までは、我が国の朝鮮(高麗)人参需要のすべてを国産品でまかなう ことが出来た。」だそうです。

日光蕃椒(トウカラシ) : 『紫蘇の葉に巻きたる漬蕃椒なり。』
 塩漬けした青トウガラシをシソの葉で巻いたもの。こんなものは、湯波など数ある日光 名産の中の一つで、とても下野国の名物とは思えませんが。

大山田蕃草(タバコ) : 『那須郡武茂(むも)庄大山田村より出る上品なり。』「大 山田蕃草」はブランド名で、大山田村の他にいろんな所で「大山田蕃草」を生産し、江戸 に出荷していました。」

鹿沼麻 : これもブランド名で、鹿沼ばかりでなく、現在の壬生町・栃木市あたりでも 「鹿沼麻」を生産していました。

伊吹艾 : こんな名物は存在しなかったと思われます。

衣川黄骨魚(キヌカハ アイサ) : 『三月上旬より、きぬ川の瀬々に群がり集まるな どおびただし。・・・この時脇腹に赤き条(婚姻色)出てくる。・・・アイセ、 アイソ とも呼べり。』

現在では鬼怒川や那珂川の鮎が有名だと思いますが、昔は下野国の鮎は名物じゃなかった んですね。

吹上村の産物
史料(1)[栃木県史附録 吹上藩県材料 全](1888年)
 記載内容は「郷村高辻帳」「職制」「歳入歳出御勘定目録」「官員姓名」「貫属子卒禄 高姓名」などであり、諸産物の記載は無い。

史料(2)[吹上郷土誌全](1913年)
 「栃木県下都賀郡吹上村郷土誌」との記載有り。
「第五章 経済」の「第二節 産業」の「第一目 農業」(96-97丁)に、
「二、主産物ハ水田米、陸稲、大小豆、大小麦、蕎麦(ソバ)等ヲ主ト シ」とあります。
 また、
「特産物ハ、大麻ヲ主トシ、製産高頗ル多ク、且煮剥(にはぎ)ト称スル、 皮麻 (かわま)ノ産額モ亦少ナカラズ。西部ヨリ葱ヲ産シ、 宮葱、千手葱 ノ名遠近ニ聞ユ」
「大字吹上ヨリ産スル大根モ、亦沢庵漬用トシテ称揚セラレ(略) 青芋 モ亦其味佳良ニシ テ産額少ナカラズ、有望ノ一特産物タリ。」とあります。
 これに続いて「生産額中ノ重ナルモノ」というタイトルの表に挙げられる作物は、「水 田米」「陸稲」「大麦」「小麦」「蕎麦」「大豆」「小豆」「蕎麦」(2回出てきます) 「大根」「葱」「大麻」「皮麻」です。

 なお、「第二目 工業」(97丁)には「見ルベキモノナク」とあり、手工業として「石 工」「 皮麻 製荷縄」「麻布(サユミ)」「石灰俵」が挙げられています。

 さらに、「第三節 第十一目 生産額及其一戸一人当」(102-103丁)の表には、生産 品名と作付反別、生産額等が示されていますが、ここに挙げられている作物は以下のとお りです。
「米(田)」「米(陸)」「大麦」「裸麦」「小麦」「大豆」「小豆」「蕎麦」「粟」「黍 (キビ)」「胡麻」「碗豆(エンドウ)」「菜豆 (インゲンマメ)」「玉蜀黍(トウモロコシ)」「大根 」「人参」「牛蒡」「芋」「甘藷」「馬鈴薯」「茄子」「胡瓜」「薑(ショウガ )」「葱」「 蜀黍 (モロコシ)」「荏(エゴマ) 」「菜種」「麻種」「大麻」「皮麻」「茶」「桑」「 紫雲英青刈大豆 」「繭」
*栃木県立図書館さんは、ホントによく調査してくれます。

(考察)この1913年刊の資料の調査から、吹上村ではお灸のモグサを生産していなか ったことがわかりました。これより[下野国誌](1850年)が言ってる「伊吹艾 :  都賀郡伊吹山よりでる艾を日本の最一とす。」が、根拠のない話であることがわかりま した。

 「外国からモグサに替わる薬が輸入されて、日本ではモグサを使わなくなった」という こともないのに、日本一効能の優れたモグサの生産量が[下野国誌](1850年)後の 60年間でゼロになることは有り得ません。2000年の現在でも、モグサは北陸地方で 生産されているんです。[下野国誌]の著者・河野守弘が歌枕について言ってるこ とは全てこの調子なんで、全く困ったものです。

[延喜式](927年成立)
[古事類苑](1896−1914年)より

〔延喜式 二十三民部〕
下野國〈筆一百管、麻紙一百張、麻子三斗、◯中略〉 交易雜物〈◯中略〉 下野國〈布 一千四百卅六端、商布七千三段、履料牛皮七張、洗革一百張、鹿角十枚、席(む しろ)八百枚、砂金百五十兩、練金八十四兩、紫草一千斤、氈十張、 櫑子 四合、〉

〔延喜式 二十四主計〕
下野國 調、緋帛五十疋、紺帛六十疋、 帛廿五疋、?二百疋、紺布八十端、 布十五端、 布十端、自餘輸レ布、 庸輸レ布、 中男作物、麻一百五斤、紙、紅花、麻 子、芥子

〔延喜式 三十七典藥〕
諸國進年料雜藥〈◯中略〉 下野國十四種  青木香 廿斤、??十五斤、【G木・巳】二斤八 兩、黄菊花五兩、藍漆九斤、石斛廿斤、秦膠十六斤、干地黄、桃人、鳥頭各二斗、附子四 斗、決明子一斗、牡荊子八升、石硫黄二斗三升

〔續日本紀 一文武〕(平安時代初期)
二年七月乙亥、下野備前二國獻二赤烏一、 三年三月己未、下野國獻二雌黄一

〔續日本紀 六元明〕(平安時代初期)
和銅六年五月癸酉、相模、常陸、上野、武藏、下野○○五國輸レ調、元來是布也、自今以 後?布並進

〔毛吹草 三〕・〔國花萬葉記 十一下野〕・〔海東諸國記〕 省略

(考察)[栃木県誌]の内容は、[古事類苑]から引用したものだったんですね。

鷹鈴
鷹狩に使う道具
飛んでいった鷹、獲物を追って藪等に入った鷹の居場所を特定するために使います。
次の「餌カゴ」も鷹狩に使う道具の名前です。

麁相物(そそうぶつ)
麁=粗
麁相物 : 粗末な物
麁相(粗相、そそう)する。 : 大便や小便を洩らすこと。

那須大方紙
大方紙は「たいほうし」と読むらしいが、どんな紙かよくわかりません。那須地方での和 紙製造の名残としては、現在烏山(からすやま)和紙が存在します。厚手の和紙で卒業証書の 用紙として人気が有るようです。

774年に正倉院に奉納された写経料紙1万5千張のうちの 4千張が下野産であるとい う記録もあります(上の[延喜式](927年成立) に、下野国の産物として「紙」が 挙がってきています)。鎌倉時代には那須奉書が漉き出され、全国に那須紙として知られ るようになりました。

11県
新潟、長野、岐阜、愛知、富山、石川、福井、滋賀、京都、愛媛、福岡。

(註37) モグサを生産していた県は新潟、筑摩(長野県の一部と岐阜県の一部)、岐阜、静岡、富 山、石川、福井、滋賀、三重、京都、奈良、鳥取、島根、福岡、大分であり、

蓬・乾(干)蓬・艾葉・乾艾・切り艾なども調査しているが、 の生産量が一番多かったのは、1873年の富山県で年間生産量は約12トン、一番少な かったのは、1873年の滋賀県と1874年の奈良県で年間生産量は共に約40kg。

さしも草
「よもぎ」の慣用句
蓬生(よもぎふ、よもぎう)
 ヨモギなどの雑草が生い茂って荒れ果てている所。
  是貞親王家歌合(仁和二宮歌合)(893年以前の秋)
 あきかせに−すむ蓬生の−かれゆけは−こゑのことこと−むしそなくなる

蓬が(の)門(よもぎが(の)かど)
 ヨモギが生い茂って荒れ果てた門。ヨモギで葺いた粗末な門。転じて、隠者や貧者の質素 な住居。また、自分の家をへりくだっていう語。蓬門(ほうもん)
  千五百番歌合(1202−1203年)
 まつむしの−こゑするかたに−やととへは−よもきかかとの−すまひなりけり

蓬が島(よもぎがしま)
 蓬莱山 のこと。
  堀川百首(1105−1106年)
 真にや−蓬が島に−通ふらむ−鶴に乗るてふ−人に問はばや

蓬が杣(よもぎがそま)
 ヨモギが杣山(材木用の木が生えている山)のように茂っている所という意味から、自分 の家を、庭の手入れも (ろく)にしてないとして、謙遜していう言葉。
  曾禰好忠(平安時代中期)
 鳴けや鳴け−蓬が杣の−きりぎりす−過ぎ行く秋は−げにぞ悲しき

蓬が洞(よもぎがほら)
 仙洞御所 (せんとうごしょ)の異称。
  内裏歌合(1214年)
 影清き−蓬が洞の−秋の月−霜をてらさは−すてすもあらなむ

蓬の跡(よもぎのあと)
 灸(きゅう)をすえたあと。(つまり、当時モグサのことをヨモギと言ったんです)
  藤原隆信(1142−1205年)
 朝露の−ひるまはいつぞ−秋風に−蓬の跡も−思ひ乱れぬ

蓬の宿(よもぎのやど)
 ヨモギなどが生え茂って荒れ果てた家。よもぎがやど。
  源頼政(1104−1180年)
 玉しける−庭に移ろふ−菊の花−もとの蓬の−宿な忘れそ

*その他多数有り。「蓬の(が)・・」で「雑草が生い茂って荒れ果てた・・」の意味の 慣用句が多い。つまり蓬は雑草の代表で、雑草の代名詞みたいなもんです。火の縁語であ るさしも草なんかとは、全く扱いの異なる植物です。

フトイ
太藺(ふとい)。カヤツリグサ科。茎が太く、太い藺草(いぐさ)ということからこの名 前になったとのことです。フトイは池や沼などに群生する水草で、ほぼ日本全土に自生する 多年草。高さは1.5−2m。フトイで椅子の座面を編んだものを和食の店で見かけます ね。
・[万葉集]巻14−3417
 上つ毛野伊奈良(いなら)の沼の大藺草(おほゐぐさ)外(よそ)に見しよは今こそま され
                        [柿本朝臣人麻呂歌集出也]

[本草和名]
本書は醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根輔仁により延喜年間の918年に編纂された 日本現存最古の薬物辞典(本草書)。輔仁本草(ほにんほんぞう)などの異名がある。

[和名類聚抄]
平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて 源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。

萌える
「草木の芽が出る」の意味。

[日本一鑑](にほんいっかん)
明の鄭舜功(ていしゅんこう、中国明後期の探検家)が戦国時代の日本に関して情報を収 集し編纂した研究書で、日本百科全書である。全3部16巻。

全3部構成となっており、日本の歴史・人物・風習などを記した『窮河話海』9巻、日本 の地理及び地図を記した『桴海図経』3巻・『[×絶]島新編』4巻からなる。

蚊遣火(かやりび)
蚊遣火とは、よもぎの葉、カヤ(榧)の木、杉や松の青葉などを火にくべて、燻した煙で 蚊を追い払うものである。

火口(ほくち)
火打石で火をつける際に火種とする燃えやすい素材のこと。

(註41) これだけではサセモグサがどんな植物なのかさっぱりわかりません。現地でも何の草かわ からなくなっているようです。なおこの地方のヨモギの呼び名は フツ なので、このサセモグサはヨモギのことではありません。

やいとう
「焼き処」が訛ったもので灸をすえるところ、または灸を意味します。「こらっ、いたず らするとやいとすえるぞ」。なお、モグサのことをかつてはヨモギとも言ったようです。当 然ですね。「蓬の跡(よもきのあと)」=モグサの跡、灸を据えた跡。

[栃木繁昌記]
[栃木繁昌記 : 名勝旧跡地理沿革](柴田博陽 著、1899年)
(国立国会図書館 デジダルコレクション)
これによれば、源義経が桜の木に旗を立てかけたという逸話も、弁慶が太刀で石を割った という逸話も、いずれも義経が兄頼朝に追われて、奥州の平泉に下る途中の出来事という ことになっているようです。

名勝旧蹟
[栃木繁昌記]には、標茅が原、室の八島、伊吹山などの歌枕が紹介されています。

○白旗山の由来
白旗山勝泉院は・・・初め法専寺阿弥陀坊と称し都賀郡片柳村二杉神社 【地図】 ・八幡宮の両別當たり(=法専寺は、二杉神社と八幡宮とを管轄する別當寺だった)、文 治年間(1185−1190年)源九郎義経(1159−1189年)(兄・頼朝に追わ れて)奥州へ下向(1186年・7年頃)の際八幡宮に旗を掛け其記念として桜樹一本を 社殿の裏面に植え付けたり而して其樹に源氏の白旗一流を翻したり村民此樹を「旗掛桜」 と称し八幡宮の神木となしたり・・・慶長年間・・・白旗山勝泉院と称せしむ
(註)白旗山勝泉院の現在の所在地:湊町3−4 【地図】
白旗山勝泉院が湊町に移ってきたのは、この[栃木繁昌記](1899年)が書かれた時 期より後のようですね。確か 湊町の白旗山勝泉院にも 旗掛け桜が有りました。

○芝塚山由来
・・・義経、兄・頼朝に追われて奥州に下るや此地に・・・従者・・・臣卿の武運を卜せ ん為に此岩を切らんと刀を抜て此岩を斬るに奇なるかな岩は見事に切断せられ・・・「刀 割岩」と云ひ半は没して刀痕あり。
(註)芝塚山の所在地:片柳町1丁目 【地図】

栃木市ホームページより
芝塚山公園
「芝塚山は、中心市街地の西部に位置し、標高約60mの小高い山となっています。 山 の東斜面中腹には三つに割れた大きな岩があり、牛若丸あるいは弁慶が割ったと伝えられ ており、「牛若丸太刀割り石」「弁慶太刀割り石」と言われています。」

(考察)[栃木繁昌記]によれば、明治時代の伝説では、岩を割ったのは、誰か知らぬ従者 の一人だったようです。
『牛若丸太刀割り石』って言うのはおかしいですね。この時はもう義経と名前が替わって ます。
弁慶が切ったという岩は、足利市名草にもあるようです。

○桜岡
八幡太郎義家・・・後三年の後(1087年頃)・・・栃木を通過せんとする際・・・ 自ら桜を植えて即ち曰く地形甚だ大和に似たり・・・故に此の地辺を今尚ほ大和と称す 同所は一の小丘なるを以て「桜岡」と称したり・・・十数株の桜樹あり丘上一の小なる 石室あり之れ即ち八幡公を祭りたる者なり・・・1899年・・・小野湖山の詩を刻したる 碑を・・・建設したり又同年四月中同所に大劇場明治座を建築した・・・

(註)
・小野湖山:1814−1910年、幕末から明治時代の漢詩人。近江国の生まれ。
・桜岡の所在地:万町26 【地図】 辺り(栃木市教育委員会さんに教えてもらいました)

(補足)この場所は、八幡太郎義家が云々とか、小野湖山の碑があるとかと言うことで名 が知られていた場所ではなく、栃木の町の桜の名所の一つで、かつ舟遊びができるほどの 大きな池があって観光地として名の知られた場所だったようです。
 しかしその場所は、現在では道路や宅地に分断されて、かつての「桜岡」の名残は、一 民家の庭にしか残っておりません。その庭には現在、数本の桜、池の名残らしき小さな池 、小野湖山の石碑と、もう一つの記念石碑が残っています。しかし八幡太郎義家を祭った 小さな祠は、重要なものではないだろうということで現在は廃棄されたそうです。
また「桜岡」が丘だったのはいつのころやら。民家が密集する前のこの辺りは「田村が原 ?」と呼ばれていたそうです。以上これらのことは当の民家のご主人に教えていただきま した。明治座の件は聞き漏らしました。

その他沢山紹介されていましたが、ここで紹介するのは省略します。



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