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第1章 室の八島の歴史の概要
第3節 [奥の細道]の歌枕あれこれの備考の補遺
1.遊行柳
伊王野 【地図】
 かつての奥州街道に概略相当する国道294号線は伊王野を通ってますが、「東山道伊 王野」って言いますから、実際の奥州街道は伊王野を通ってなかったんですね。奥州街道 は伊王野のずっと西を通っていたようです(栃木県道72号線の越堀、鍋掛辺り?)。

義経街道
伊王野白河線(栃木県道28号線、60号線、76号線と福島県道76号線)のことと 考えておいてよろしいでしょう。
 この辺りの東山道は、のちの 奥州街道 とルートがずれています。そして、奥州街道は、現白河市の中央部を通過してますが、「 追分の明神」やかつて白河の関が在った場所とされる「旗宿」を通る東山道は、 現白河市より少し 東側にずれ ているようです

芦野資俊
あしのすけとし(1637−1692年)、松尾芭蕉の門人、俳号は桃酔。
1646年(9歳)から芦野家19代当主。

(註1) 立ち去るのは誰か?
     @田植をしていた早乙女 A芭蕉 B早乙女に続いて芭蕉 C柳の精

(註2) 「室の八島」の段では、[奥の細道]に書いた文と室の八島で詠んだ俳句<糸遊に結びつ きたる煙哉>とで、言ってることが食い違っているので、芭蕉はこの俳句を[奥の細道] に載せませんでした。(<糸遊に結びつきたる煙哉>は、言ってる意味が分かる ので、「室の八島」の段に載らなかったのが残念なんだが。)

 「遊行柳」の段でも、<田一枚植て立去る柳かな>の俳句と前の文との間に繋がりがな かったら、芭蕉は<田一枚・・>の俳句を「遊行柳」の段に載せることはしなかったでし ょう。

何を言いたいかというと、前の(註1)に関して、「立ち去る」のが、俳 句の前の文章に出て来ない「早乙女」や「柳の精」である可能性は非常に低いということで す。

ついでに言えば、「芭蕉が田一枚植えるのを見物して立ち去った」という解釈が多そうですが、 曾良という連れがおり、かつ先を急いていたので、田植えを見物している 余裕はなかったでしょう。芦野に滞在した時間はせいぜい1時間だったでしょう。そして、 柳の陰に立ち寄れた時間はせいぜい10分程度だったでしょう。

銀座の柳
1874年 銀座通りに日本初の街路樹として、松、カエデ、桜が植えられる。
1877年 地下水位が高いため、松、桜が枯れたので柳に植え替えられる。

「川沿い柳」の和歌
川沿い柳 : つまり「川端柳」の柳並木のこと。柳一本だけでは、川に沿わせることは できません。ですから、「川沿い柳」とは、柳並木を意味します。
 「川端柳」と言った場合は、「川沿い柳」を意味する場合と、その中の一本の柳を意味 する場合とがあるんじゃないでしょうか?『何をくよくよ 川端柳 水の流れをみて暮らそ う』という都都逸(ドドイツ)の柳は、一本の柳の木のことだと思います。

[堀河百首](1105−1106年)
源 俊頼(1055−1129年)
 もかりふね−ほつつしめなは−こころせよ−かはそひやなき−かせになみよる
[春夢草]
肖柏(1443−1527年)
 はるをへし−かはそひやなき−おきふしに−くちはてぬよを−みたれわふらむ

藻刈り舟
広辞苑・その他の辞典より
もかりふね : 藻を刈るために用いる小舟。藻刈り舟。  チンプンカンプンですね。

万葉集(744−759年)
 いそにたち−おきへをみれは−もかりふね−あまこきつらし−かもかけるみゆ

(考察)この万葉集の和歌を見ると「藻刈り舟」とは、海で使う小舟のようなんですが、 他の歌(上の歌や下の歌)を見ると川や池でも用いられるらしいんです。何の目的で使う んでしょう。「藻刈り舟」って、どうも藻刈り専用の機能を持った特別の舟じゃなさそう ですね。すいません、この辺筆者にはよくわかりません。

「藻刈り舟」って、舟の種類じゃなく、「その小船に人が乗って、藻刈り作業を している舟」という意味なんじゃないの?
海で藻を刈る目的は、食用の藻を刈ることでしょうけど、川や池で藻を刈る目的って何な んだろう?
海と川・池とで藻が生えてる深さが違うんで、藻を刈る方法も違うんじゃないの?
海草を採る場合は、竿の先が鉤になっている道具を使い、鉤を海草の根元に絡めて、竿 を引き抜いて海草を採取するんじゃなかろうかとイメージされるんですが、川や池の藻 を刈る場合は、柄の長い鎌で藻の根元を切るんじゃなかろうかとイメージされるんです が。
どうも分からないことだらけです。


  「藻刈り舟」の出てくる和歌って、結構な数あるんですよ。へぇ。
上の万葉集(744−759年))の歌再掲
いそにたち−おきへをみれは−もかりふね−あまこきつらし−かもかけるみゆ
上の[堀河百首](1105−1106年)の歌再掲
源 俊頼(1055−1129年)
 もかりふね−ほつつしめなは−こころせよ−かはそひやなき−かせになみよる
宝治百首:冬(1248年春頃までに)
こほりゐる−さやまのいけの−もかりふね−xxxxxxx−xxxxxxx
春夢草_肖柏(肖柏の没年1527年)
それとたに−よせてやみえむ−もかりふね−おきをふかめし−したのみたれを

鳥羽殿
鳥羽離宮・城南 (せいなん) 離宮ともいう。京都市伏見区鳥羽にあった白河,鳥羽(上皇 時代は1123−1156年)両上皇の離宮。

道興准后
道興准后は修験の本山である京都聖護院の 門跡 でしたが、東日本の熊野修験のテコ入れをめざして、北陸から奥州まで長途の旅に出まし た。この時の紀行が[廻国雑記]です。

塩屋
[下野国誌]に、[廻国雑記]に登場する「塩屋」の場所として次の説明有り、

「塩屋里(シホヤノサト)
塩谷郡氏家駅と喜連川駅との間にて、五月女(サオトメ)坂 【地図】 と云所なり。和名抄には、郡名にのみ塩屋ありて、郷名には無し。(この後[廻国雑記] の文を引用)」

喜連川 【地図】
[下野国誌](1850年)によれば、1590年に、縁起を担いで「狐川」の名前が「 喜連川」に替えられた由。

(註3)  みちのくの−朽ち木の柳−糸たえて・・・
「朽ち木の柳」は陸奥ではなく下野国に在ったので、この歌の「みちのくの」は「みちの べの」の誤写でしょう。<みちのべの−朽ち木の柳−>

(参考)
新古今(1205年完成)1449
 菅原道真(845−903年)
  柳を
 みちのべの−朽ち木の柳−春くれば−あはれ昔と−偲ばれぞする
*この歌から、いくつもの「道の辺柳」の歌、「朽木の柳」の歌が派生したとい う有名な歌のようです。菅原道真は下野権少掾(しもつけのごんのしょうじょう、867 −871年の間)だったことがあります。

(「朽木の柳」の考察)
[廻国雑記]に出てくる「朽木の柳」は、菅原道真のこの歌と関係があるんでしょうか? その可能性は高いです。と言うのは、道興准后が、菅原道真の歌と同じく「みちのべの− 朽ち木の柳−」と詠っているからです。道興准后は、おそらく菅原道真の<みちのべの− 朽ち木の柳−>の歌を知っており、また「朽木の柳」が菅原道真のこの歌ゆかりの柳であ ると、おそらく土地の人から聞いたんで、菅原道真の歌と同じく「みちのべの−朽ち木の 柳−」と詠ったんでしょう。たまたま歌詞が一致したなんてことは考えられません。

 「朽木の柳」と言う言葉は本来普通名詞ですが、[廻国雑記]には固有名詞として登場 して来ています。と言うことは後世固有名詞に変わり得る普通名詞の「朽ち木の柳」とい う言葉が存在したであろうことが推測されるんです。後出の 「道の辺清水」 のように。そういう言葉が存在しなければ、特定の木を指して呼ぶ場合、例えば下野市蓮 華寺の「親鸞手植えの桜」のように固有名詞を絡めて呼んだでしょう。

 道興准后は、「朽木の柳」のところで、土地の人から「朽木の柳」の謂れ(内容はこじ つけかもしれませんが)の説明を受けていたはずです。にもかかわらず、「古への柳は朽 ちはてて、その跡にうゑつぎたる(当然、ここまでは土地の人から聞いた話) さへ、また苔に埋れて朽ちにけ」りなんてことを述べて、その説明の前に述べな ければならない肝心な「朽木の柳」の謂れについては、[廻国雑記]の中で説明しており ません。こりゃおかしいですね。ということは、「みちのべの−朽木の柳−」と言えば、 それだけで、誰でも「みちのべの朽木の柳」の謂れを知っているからなんでしょう。と言 うことは、つまり菅原道真の有名な歌に登場する「みちのべの朽木の柳」だからというこ となんでしょう。

道興准后は、「菅原道真の『朽木の柳』の歌はよく知られた歌なので、『朽木の柳』と 言えばそれだけで、読者は菅原道真の歌の『朽木の柳』のことだと分かってくれるだろう 」と思ったんでしょう。それで[廻国雑記]の中で、「朽木の柳」の謂れを説明しなかっ たんでしょう。ところが[廻国雑記]を参考にして謡曲「遊行柳」を創作した観世信光に は、[廻国雑記]の「朽木の柳」が菅原道真の歌の「朽木の柳」であるとはわかりません 。そのため観世信光は謡曲「遊行柳」の中で、「朽木の柳」を西行の歌の「清水流るゝの 柳」に関係付けてしまいました。「清水流るゝの柳」に「朽木の柳」などという名前が付 くことは有り得ないんですが、その矛盾については、観世信光は気付かなかったようです 。

  ・柳の糸
   作曲 フォスター
      ソーラソミレド ーラー ラーソーミードレー(主人は冷たい土の中に)
   作詞 加藤 義清
    [春 風]
    (1) 吹け そよそよ吹け 春風よ
      吹け春風吹け 柳の糸
      吹けよ吹け 春風よ
      やよ春風吹け そよそよ吹けよ

遊行上人
時宗:鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍(いっぺん、1239−133 3年)。総本山は神奈川県藤沢市の藤沢山清浄光寺(しょうじょうこうじ、通称遊行寺)。

遊行上人とは、この遊行寺を拠点とし,回国する時宗の指導者の称。
遊行(ゆぎょう)とは,修行僧が衆生教化と自己修養のために諸国を巡歴すること。

(註4) 謡曲[遊行柳]の一部引用
ワキ「・・・此程は上総の国に候ひしが。これより奥へと志し候。」秋津州の国 々廻る法の道。国々廻る法の道。迷わぬ月も光そふ。心の奥を白河の関路と聞けば秋風も 。立つ夕霧のいづかくに今宵は宿をかり衣。日も夕暮れになりにけり日も夕暮れになりに けり。「急ぎ候ふ程に、音にきゝし白河の関をも過ぎぬ。又これに数多の道の見 えて候。広き方(これが新道)へゆかばやと思ひ候。」

(考察)このように、謡曲「遊行柳」の舞台設定は、上総の国から陸奥に向かう途中の出 来事であって、陸奥を巡って戻ってくる時の出来事ではありません。

なお、時宗の開祖・一遍(1239−1333年)の時代には、既に白河の関は機能して おりません。後代の遊行上人の時代には、関跡も在ったかどうかわかりません。

『白河の関を越えて』というのは、「坂東から陸奥に入ることを意味する常套句」みたいな もんで、実際に白河の関を越える訳ではありません(だって、白河の関は既に存在しない んですから)。後に出てくる [蒲生氏 郷卿紀行] 参照。

十念
浄土教においては、「南無阿弥陀仏」を十回称える作法のひとつ。

「西行桜」
保延年間(1135−1141年)、西行法師が奥州行脚(第一 回目の奥州行脚は1144年頃)の折、法輪寺に詣でて、境内にあったサクラを 見て、
<盛りには−などか若葉は−今とても−心ひかるる−糸桜かな> と詠んだと伝えられていることから、「西行桜」と呼ばれているんだそうです。

ここではなく京都を舞台とした話ですが、世阿弥作の「西行桜」という謡曲があるんです ね。

(註5) 正しくは: 「朽木の柳」の由来に、それと全く関係の無い西行の歌<道のべに−清水流 るゝ−柳かげ−>を当てはめてしまいました。
 これでは、この柳が「朽木の柳」と呼ばれるようになった由来の説明になってないんで すが、観世信光はそれに気付かないんです。

その他の理由
1) 『白河の関を過ぎ行くほどに』って、白河の関は、平安時代に無くなったと考えら れ、蒲生氏郷(1556−1595年)時代には、存在しません。また1800年に白河 藩主・松平定信が白河市旗宿に比定するまでは、白河の関の在った場所も分からなくなっ ていたはずです。
おそらくホントの紀行なら こんな嘘は書かないでしょう。

2) 川辺に柳があったからと言って、「それはなぜだ」と尋ねる人は一人もいるわけが ありません。なぜなら柳は川辺に植えるものですから。

3) 何よりの理由は
謡曲[遊行柳]に登場する柳が下野国にあったことになっていますが、この柳が下野国に あるとこじつけられるのは江戸時代なので、この[蒲生氏郷卿紀行]は江戸時代に書かれ たものでしょう。

一見
おそらく「いちげん」と読んで、「初めて見る」の意味でしょう。

江戸屋敷
参勤交代の始まった1635年には芦野藩の江戸屋敷が存在したものと思われます。

(註6) このように芦野の柳は、最初は「西行の歌に関連付けられたもの」ではなく、「謡曲[遊 行柳]に関連付けられたもの」だったと思われます。
なぜなら、芦野の柳は、謡曲[遊行柳]に関連付けた後でないと、西行の歌と結びつかな いんです。だって、西行の歌は「題知らず」([新古今集])なんで、どこで詠まれたか 分かんない歌ですから。

[竹葉集]
連阿の下記[竹葉集]によれば、連阿が芦野を旅した当時(1710年代)、謡曲[遊行 柳]の主人公の遊行上人は、十九世尊皓上人だったとなっていたようです。

[竹葉集](1719年著、1713年旅か?)
連阿(1671?−1729年、江戸時代中期の歌人)著
「二月二十六日、葦野といふ山陰に名木の柳あり。これぞ遊行十九世の上人、陸奥巡幸し 給ひけるに、非常の姿、翁と現じて、 渇仰 (かつごう)の気色顕はせし事、世に言継て隠れなければ、尋ね寄てけるに、昔の柳は朽果て、 (ヒコバエ)なるを垣(カキ)結廻しなるとて夫(ソレ)と知らる。誠に草木国土悉(こ とごとく)成仏の 奇瑞 (きずい)眼のあたりに知れて、憑(タノモ)しく覚ければ
 ひとすじに−頼をかけよ−法にあふ−柳の糸の−ためしきくにも
 今も猶−吹きつたへたる−方の風−柳の枝に−見せてかしこけ」

(考察)そして、那須町教育委員会の説明板によれば、尊皓上人が芦野に来たのは147 1年のことであるということになっているようです。謡曲[遊行柳]の初演が1514年 ?ですから、うまいこと年代を合わせましたね。

 連阿が芦野を訪れた時(1710年代)には、名木の柳は柵で囲われていたようですが 、芭蕉が訪れたとき(1689年)も、「清水流るゝの柳」は柵で囲われてたんでしょう 。
 西行の歌「道のべに−清水流るゝ−柳かげ−しばしとてこそ−立ちどまりつれ」に出て くる「清水流るゝの柳」とは、「川沿い柳」の柳並木のことで、一本の柳を意味するんじ ゃないんですけどね。芭蕉らが訪れた当時、もし一本の柳が柵で囲われていたとすれば、 それは「清水流るゝの柳」でなく、謡曲「遊行柳」に登場する「朽木の柳」だったんでし ょう。こちらは一本の柳です。
 現在、芦野の那須湯泉神社(上の宮)の参道の左右に1本ずつ柳の木が植えてあり、玉垣 に囲まれた一方が「遊行柳」ということのようですが(もう一方は「遊行柳」が 枯れた時の予備として植えられたものだそうです)、これは、「清水流るゝの柳」 がどういうものであるかを考えずに、後世思いつくままに植えられたものでしょう。

(註8) [奥の細道]によれば、[下野風土記](1688年編著)編集当時、芦野の殿様は松尾 芭蕉に芦野の柳は西行が和歌に詠んだ柳であると紹介していたと考えられ、この「道の辺 清水」との関係は?

吉次兄弟か塚
福島県白河市白坂皮籠(しらさかかわご) 【地図】
の八幡神社に金売吉次兄弟のものと伝えられる墓がある。

また、栃木県壬生町稲葉にも吉次の墓があり、こちらは義経が頼朝と不仲になり奥州へ逃 亡する際に吉次が同行し、当地で病死したとされる。

関連付けられておりません
おそらく芦野の柳は、「謡曲[遊行柳]の朽ち木の柳」の意味が主で、謡曲[遊行柳]に よって知られるようになった「西行の歌の清水流るゝの柳」の意味が従だったんでしょう。 だから、受け取る人によっては「清水流るゝの柳」の意味が主になることもあったんでし ょう。

清水ノ題
そうです。この歌の当初の主題は「柳」でなく、「清水」だったんです。
そして、主題が「清水」から「柳」へと替わるのが、謡曲[遊行柳](1514年初演? )以降だろうということです。
そしてそのお蔭で、芦野の柳という怪しげなものが生まれて来たんです。
ところで、私が調べた[新古今集](1210〜16年間に完成)の歌では「題しらず」 となっているのに、[新古今集]のどの写本の歌の題が「清水」となってるんでしょぅ。

此所トハ見ヱズ
「新古今集には、この歌が芦野で詠まれたものであるとは書いていない」の意味。

見ヱヌ
「この歌が芦野で詠まれたものであるとは書かれていない」の意味。

ナルヘシ
この歌が芦野で詠まれたものであるという話は、謡曲[遊行柳]が作られたから、それに 関連付けてでっち上げられたものだろう。


謡曲[遊行柳]の舞台、すなわち「道の辺に朽木の柳のあるところ」。

[下野風土記]の著者は、謡曲[遊行柳]に出てくる朽木の柳に関する歌は、西行の「清 水流るゝ柳かげ」の歌より、菅原道真の「道の辺の朽木の柳」の歌の方がふさわしいだろ うと言いたいようです。

無視されています
最初に[下野国誌](1850年)の著者・河野守弘が、この[下野風土記](1688 年)をどう評価してるかを見てみます。
五之巻、仏閣僧坊、「補陀洛山草創建立記」についての河野守弘の補足説明文の一部を引 用します。
「[下野風土記]という書は、[出雲風土記]・[豊後風土記]または[常陸風土記]な どの類ひにハあらで、いささか名所古跡等をしるしたれど、上下二冊にて、引書は[東鑑 ]・ [元亨釈書] ・[歌枕名寄]のみにて、ただはかなき俗説を挙て、大かたはえ×なき 事のみおほし、また記者もまた誰かも記さず。されど下野の事を記したるもののはしめな るべし。」

このように、河野守弘の頭では、[下野風土記]は「ただはかなき俗説を挙て、大かたは え×なき事のみおほし」としか理解できなかったようです。

実際は、[歌枕名寄]などの史料を引用して、そこに書いてあることが正しいか否かを考 察し、また実地調査も結構してるんですが、河野守弘にはそれが読み取れなかったようで す。

そして、この[下野風土記]に対する河野守弘の評価が現在まで生きているようです。
筆者(この私)が、栃木県立図書館や足利市教育委員会に「[下野風土記]に載っている 三毳について、わかりましたら教えてください」と電子メールで質問しても、彼らは、[ 下野風土記]などという史料を全く知らないので、[下野風土記]という言葉は[下野国 誌]としか見えないんです。それで[下野国誌]に載っている三毳山について私に教えて くれるんです。

茶ヤ(茶屋)
日本において中世から近代にかけて一般的であった、休憩所の一形態。休憩場所を 提供するとともに、注文に応じて茶や和菓子を提供する飲食店、甘味処としても発達した。

十町程過テ
「松本市兵衛前ヨリ『十町程過テ』」の意味。
『茶ヤ 松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ』て進んだ芦野の町のメーンストリートが『八幡 ノ大門通リ』のようだ。そして約500m進んだ道路の左側に『八幡ノ大門』が有り、大 門から左の(西の)道が八幡神社の参道で、参道を約200m進んだ国道294号線とぶ つかる辺りに八幡神社が有ったようだ。(今でもあるのかなあ)

左ノ方ニ遊行柳有
(遊行柳の在った場所は?)
奥州街道がどういうルートを通っていたかが分かるので、『芦野町ハヅレ(江戸から芦野 へ行く行程の、手前の町ハヅレ)、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ(そこ に木戸があった?)、八幡ノ大門通リ之内[十町程(約1km。)過テ左ノ方ニ鏡山有]。 左ノ方ニ(「その手前に」とした方が分かりやすい)遊行柳有。』の内容から、茶ヤ松本 市兵衛の場所や遊行柳の場所が大体わかります。それによれば、遊行柳の在った場所は今 と同じだったようですね。

(註9) 芦野の柳に対して、芭蕉が言う「清水ながるゝの柳」でなく、「遊行柳」という呼び方を 、曾良はいつ、どこで覚えたんだろう?  おそらく、茶ヤ松本市兵衛の話に出てきたか、 芦野の柳の傍に「遊行柳」という名前と謂れを書いた案内板でも有ったんでしょう。

西
遊行柳の位置を示す 【地図】 (記念碑の位置が遊行柳。左の鳥居が湯泉神社)から判断すると、「西」は「左」と言い 換えた方が正しそう。
「西」のままだと、次の文との間に齟齬が生じる。


当時は愛宕山の山頂に愛宕神社が有ったが、今は無い。

玄仍ノ松(げんじょうのまつ)
玄仍 ; 里村玄仍(さとむらげんじょう)、1571−1607、安土桃山時代の連歌師。

下記[下野風土記]より、玄仍は兼載(猪苗代兼載、1452−1510年、 福島県 猪苗代町出身の室町時代の連歌師。1505年頃から何年間か芦野に住んでいたようです。) の誤りのようです。

兼載の松 : 猪苗代兼載の故郷・猪苗代町の小平潟天満宮(こびらがたてんまんぐう) に在る兼載の幼少期にゆかりのある「兼載松」にあやかって、芦野にも「兼載の松」が 植えられたものと思われる。

[下野風土記](1688年編著)
「兼載屋敷 : 同所町ノ内也(都賀(郡の)野渡村(現栃木県下都賀郡野木町内)満福 寺境内ニ猪苗代兼載墓有)
世ニ称ル兼載、暫ノ間此所ニ居住セリト、屋敷ニ兼載ノ松トテ有シカ風ニタヲル」

○兼載屋敷について
 [下野風土記](1688年編著):兼載屋敷
 [曾良旅日記](1689年旅):兼載ノ庵跡
○ 兼載の松 について
 [下野風土記](1688年編著):風ニタヲル
 [曾良旅日記](1689年旅):畑岸ニ有

[下野風土記]と[曾良旅日記]との、これらの違いはどう理解したらよろしいんでしょ う?なんか[下野風土記](1688年編著)に書いてある内容は、[曾良旅日記](1 689年旅)よりずっと古そうですね。かつて『風ニタヲル』兼載の松が、[曾良旅日記] (1689年旅)時代には、植え継がれていたんでしょう。

卜居 (ぼっきょ)
ここに住もうと場所を決めて住むこと。

辞人騒客(じじんそうか)
作家や詩人。

2.黒塚(安達が原)
黒塚の岩屋
福島県二本松市安達ケ原4−126の真弓山観世寺の境内に有ります。真弓山観世寺は俗に白真弓観音 堂(しらまゆみかんのんどう)とも言われ、境内に観音堂があります。 【地図】
二本松市は旧郡制では安達郡に属します。

供中ノ渡(ぐちゅうのわたし)
真弓山観世寺のすぐ西隣の「安達ケ橋」辺りにあった渡しのようです。

黒塚
真弓山観世寺から山門前の道路を100mほど行った曲り角に鬼婆を埋葬したという「 黒塚」があるようです。   【地図】この辺りらしい。

別当坊
神社の世話をする寺(社坊[しゃぼう])の中で、それらの寺を取りしきった寺のこと。

ここではそういう意味でなく、神社を世話するお寺、すなわち神宮寺・別当寺のお坊さん のことを別当坊と言ってるようです。(現在の真弓山観世寺のお坊さんのこと?)

謡曲[黒塚/安達原]
「黒塚」は金春流、宝生流、混合流、喜多流の名称、「安達原」は観世流の名称。
最古の演能記録は1465年。
作者については不詳。作者付の記述から、近江猿楽所縁の曲であったと見られる。

(あらすじ)
廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶とその一行は、陸奥国安達ヶ原で、老婆 の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老婆は自らの苦しい身の上を嘆きつつ、求められ るまま糸車で糸を繰りながら糸尽くしの歌を謡う。やがて夜も更け、老婆は「留守中、決 して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。しかし 、山伏に仕える能力(のうりき、寺男)は、寝所の中が気になって仕方がない。山伏との 攻防の末、ついに密かに部屋を脱け出して寝所を覗くが、そこには大量の死体が積み上げ られていた。能力からの知らせを受けた山伏は、「黒塚に住むという鬼は彼女であったか 」と家から逃げ出すが、正体を知られたと悟った鬼女が怒りの形相で追ってくる。山伏は 数珠を擦って何とか鬼女を調伏し、鬼女は己の姿に恥じ入りながら去っていく。

(抜き書き)
ワキ「急ぎ候ふ程にこれははや陸奥の安達が原に着きて候・・・」
 ・・・・・・
シテ「人里遠きこの野辺の 松風寒き柴の庵に・・・」
 ・・・・・・
ワキツレ「恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりと詠 じけん。歌の心もかくやらんと。」
 ・・・・・・
地「・・・安達が原の黒塚に隠れ住 みしもあさまになりぬ(露見した)。・ ・・」

(考察)謡曲[黒塚/安達原]では、安達が原が陸奥のどこに在ったなんてことは言ってお りません。また「黒塚」とは何か?の説明はありません。
 そのため、後世、鬼婆のすみかを「黒塚の岩屋」と言うとか、「黒塚」とは鬼婆の墓の ことであるという話が作られることになります。

次の文は、二回目にこの備考の補遺に飛んで来る時まで読まないで下さい。
上の「地」のセリフを見ると、この謡曲の作者は、平 兼盛の歌の「おにこもれり」 が 「隠れ住 む」の意味だと分かっていたんではないでしょうか?

[大和物語]
平安時代に成立した中古日本の物語。
当時の貴族社会の和歌を中心とした歌物語で、登場する人物たちの名称は実名、官名、女 房名であり、具体的にある固定の人物を指していることが多い。
通常では、内容は173段に区切られる。約300首の和歌が含まれているが、『伊勢物 語』とは異なり統一的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇 ・貴族・僧ら実在の人物による歌語りが連なったいわばオムニバスの構成となっている。

(註11) 「会ったことのない娘に初めて歌を送る」のであることは、次の(2)[拾遺集]の『重之 かいもうとあまたありとききて、いひつかはしける』の表現からわかります。

心にくくも
心にくし=奥ゆかしい : 深みや品があって、心をひかれるさま。[英]elegant

あだち(野)
久安百首(久安六年御百首)(1150年)
 あたちのの−をはなかくれに−ほのみゆる−しらけやしかの−しるしなるらむ

「あだち野」の歌っていくつかあるんですね。それで為家は、平兼盛の歌の「あだちの原 」を「あだち野の原」と理解したんでしょう。

「あだち野」ってどこに在ったんでしょう?

「篭めて」
「篭めて」は他動詞ですが、自動詞を使った「篭りて」と意味は同じなんでしょう。

[和名類聚抄]
「人神ヲ鬼ト曰(註)。・・・和名ハオニ。或説ニ云、オニハ隠音ノ訛 ナリ。鬼ハ物ニ隠レテ形ヲ顕スヲ欲セズ、故ニモッテ称スルナリ」
(註)「人神ヲ鬼ト曰」、つまり人の姿をした神を全て鬼と言うようです。

(参考)[大字典](漢和辞典、1917年初版、講談社)によれば、
鬼の語源は、「人の死してなるもの、即ち死者の霊魂」だそうです(それから転じ て、現代中国語では、「幽霊・亡霊」の意味だそうです)。そしてその意味を取 った鬼の付く字に魂や魄が有るそうです。(と言うことは、「人神ヲ鬼ト曰」は日 本だけの使い方のようですね)また、鬼が「鬼が島の鬼」のような、怖い存在に なるのは後世だそうです。

(註13) 国語辞典より
・おにやらい(鬼遣らい):《悪鬼すなわち疫病を追い払うことの意》「追儺(ついな)」 に同じ。
・ついな(追儺):大みそかの夜に行われる朝廷の年中行事の一。鬼に扮した舎人を殿上 人らが桃の弓、葦の矢、桃の杖で追いかけて逃走させる。中国の風習が文武天皇の時代 (697−707年)に日本に伝わったものという。鬼やらい。鬼追い。鬼打ち。

[奥州安達ヶ原黒塚縁起]
真弓山観世寺発行のパンフレット [奥州安達ヶ原黒塚縁起]
[奥の細道]に出てくる、鬼婆の棲家である「黒塚の岩屋」は、二本松の民話[安達ケ原 物語]には登場しないが、この[奥州安達ヶ原黒塚縁起]に登場してきている。この[奥 州安達ヶ原黒塚縁起]が作られたのは、松尾芭蕉が「黒塚の岩屋」を訪れた1689年よ り古いのかもしれない。

(註14) 阿闍梨祐慶・那智の東光坊(参考) : 謡曲では、平安時代後期に実在し、[平家物語 ]に登場する阿闍梨祐慶をモデルにしたものか?

(参考)僧坊・坊官 : 寺院内において僧侶が住む空間を僧房(僧坊)と呼んだが、特 に寺院の最高指導者(別当や三綱)が居住する僧房内において身の回りの世話や事務の補 助を行う僧侶を坊官(房官)と称した。

(註15) 武蔵国足立郡大宮とは、現在の埼玉県さいたま市大宮区に相当するらしいです。
こちらの鬼婆伝説は次の通りです。

昔、大宮驛の森の中に恐ろしい鬼婆が棲んでいて、往来の女を誘って家に泊まらせ、その 女を殺して血を吸い肉を食っていた。
この鬼婆を退治したのが、武蔵坊弁慶の師匠とも言われる旅の僧・東光坊阿闍梨祐慶で、 祐慶の法力によって石になった鬼婆を埋めて塚としたのが黒塚であり、祐慶の庵室が後に 東光寺となった。

3.しのぶもぢずり
脱線してすいませんが、
「ご苦労さま」と「お疲れさま」との使い分けの問題について
テレビで国語のクイズ番組を見ていたら、答えの解説者として出演していた大学の先生お 二人が、そろって『「ご苦労さま」と「お疲れさま」とは、相手が目上か目下かで使い分 けるんです』って解説してました。
えっ、そんな馬鹿な。使い分けに、言葉の意味の違いは関係ないの?
相手が、目上でも目下でもなく同僚だった時、或いは目上か目下か判断できない時(例え ば相手が目上と目下を含む集団だったとき)には、「ご苦労さま」という言葉も「お疲れさ ま」という言葉も使えないの?そんなアホな!

しかし現在の人達は、先生方がおっしゃるような使い分けはしておりません。そんなこと は、あなた方ご自身(上記のお二人の先生のこと)を含めて世間の人達がどんな使 い分けをしているか、ちょっと観察すれば(ご自身の行動を振り返ってみれば)すぐわか ります。
「ご苦労さま」と「お疲れさま」とは、相手が目上か目下かなんかで使い分けてるんでは ありません。意味が違うから当然のことながら使いわけてるんです。

「ご苦労さまでした」は、「私のため、あ るいは私達のために、つらい作業をよくや ってくれました」と感謝の気持ちを表す言葉です。
一方「お疲れさまでした」は、「さぞ疲れたことでしょう」と相手を気遣って言う言葉で す。「お疲れさまでした」には感謝の気持ちは一切含まれておりません。

つまり「ご苦労さまでした」は相手の作業に対して感謝する言葉、「お疲れさまでした」 は相手を気遣って言う言葉です。

ですから相手が目上か目下かは、全く関係ありません。意味が違うから使い分けてるんで す。

例えば演劇同好者が集まって演劇の練習をするような場合、練習を終えてメンバーの一人 が言う言葉は「お疲れさまでした」でしょう。みんな自分の目的・目標を達成するために かってに疲れてるんですから。こんな時に「ご苦労さまでした」がふさわしくないのは、 どなたでも感覚的に理解できるでしょう。自分の好きなことをやってかってに疲れるのは 、苦労とはいいません。「ご苦労さまでした」の「苦労」とは、「他人が私のためにやっ てくれたこと」のことなんです。

なお、相手が私、私達あるいは公共のためにやってくれたので、簡単な作業でも、感謝の 気持ちをこめて「ご苦労さまでした」すなわち「大変な作業をよくやってくれました」と お世辞を言うんです。

部下(目下)がやってくれた作業に対して、上司(目上)が「お疲れさまでした」などと 言ったら、部下に「なにも自分が好き好んで疲れたわけじゃねえ、お前に頼まれて作業を したから疲れたんだ。少しは感謝の気持ちを表したらどうか?」と言われてしまいます。 だからこういう時には感謝の意味の「ご苦労さまでした」と言わなければならないんです 。この例から、目上か目下かで使い分けるなんて話と全然違うことがおわかりでしょう。 『上司(目上)が部下(目下)がやってくれた作業に対しては「お疲れさまでした」でな く「ご苦労さまでした」と言わなければならない』というのは、使い分け方の一般法則の 説明ではなく、こういう時にはこう言わなければならないという、単に使い分けの一例の 紹介に過ぎないんです。

私は、買い物に行く途中、道路工事をしている県か市の作業者に遭うと、よく「ご苦労さ まです」と声をかけますが、相手集団が目上か目下かなんてわかりませんし、そんなの気 にも留めません。感謝の気持ちを表すために「ご苦労さまです」と声をかけてるんです。

なお、この「備考」のページに飛んでくる理由となった本文中の『なお ご苦労 にも、明 治時代の・・・』の「ご苦労」にも感謝の気持ちが込められているんです。皮肉交じりで すが。

この文を書いた後、国語辞典で「お疲れさま」「ご苦労さま」の意味を調べてみました。
そしたら、「お疲れさま」には特別な意味は有りませんでしたが、「ご苦労さま」には次 のように特別な意味がありました。

【苦労】(多く「ごくろう」の形で)人に世話をかけたり、厄介になったりすること 。「ご苦労をかける」「ご苦労さま」

ところで、部下(或いは目下)が上司(或いは目上)の世話になったり、厄介に なることは大いに有り得ますが、その逆は少ないです。ということは、この辞典によれば 、「ご苦労さま」は、上司(或いは目上)が部下(或いは目下)に言うより、その逆の場 合の方が圧倒的に多いだろうということです。

この国語辞典によれば、「ご苦労さま」とは、簡単に言うと 、人の世話になったり、人 の厄介になった時に、その相手に感謝して言う言葉ね。
一方「お疲れさま」は、人の世話になったり、人の厄介になった時に、その相手に感謝し て言う言葉じゃなさそうですね。そんなの当たり前でしょ。

つまり『「ご苦労さま」と「お疲れさま」とは、意味合いは同じだが、相手が目上か、目 下かで使い分けるんです。』なんてことでは全くないんです。「ご苦労さま」と「お疲れさ ま」とは意味が全く違うんです。だからこの国語辞典の『【苦労】(多く「ごくろう」の 形で)』の項目の所に「お疲れさま」という言葉が出てきてないんです。もし上記先生方 のおっしゃることが正しいなら、この国語辞典の【苦労】(多く「ごくろう」の形で)の項 目の所に「お疲れさま」という言葉が出てこなかったら、おかしいでしょ。

   さてあなたは「ご苦労さま」と「お疲れさま」とをどう使い分けますか?

掘り起こした人
信夫郡の郡長・柴山景綱(1835−1911年)

安洞院
1595年に文知摺観音堂の別当寺として建立された曹洞宗香澤山安洞院

源 融(みなもとのとおる)
平安時代初期から前期にかけての貴族。864年から約5年間陸奥出羽按察使であった
陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営した。

小倉百人一首14番 河原左大臣
みちのくの−しのぶもぢずり−たれゆゑに−乱れそめにし−われならなくに

陸奥(むつ)
今の福島・宮城・岩手・青森の各県

出羽(でわ)
今の山形県・秋田県

按察使(あぜち)
律令制における按察使は、地方行政を監督する令外官(下記)の官職。数カ国の国守の内 から1人を選任し、その管内における国司の行政の監察を行った。

奈良時代の719年に設置された。平安時代以降は陸奥国・出羽国の按察使だけ を残し、納言(大納言・中納言)・参議などとの兼任となり実体がなくなった。

令外官(りょうげのかん):律令の令制に規定のない新設の官職。

[伊勢物語]
ある男の元服から死にいたるまでを描いた歌物語で、ある男の多くは在原業平がモデルと 考えられ、彼の和歌が多く採用されています。

初冠(ういこうぶり)
=元服(げんぷく)
男子が成人し,髪形,服装を改め,初めて冠をつける儀式。元服の時期は一定しなかった が,11歳から 17歳の間に行われた。

はしたなく
不似合いな

[業平集]
在原業平(825−880年)
 かすかのの−わかむらさきの−すりころも−しのふのみたれ−かきりしられす

(現代語訳)
(「乱れる」の縁語である「しのぶ」という言葉を含む)陸奥の「しのぶもじずり」では ありませんが、私の心か乱れ始めたのはいったい誰のせいでしょう? それは私のせいで はありません。(あなたのせいですよ)

そめにし
「染めにし」と「初めにし」との掛詞。

何を言ってるかわかりますか?
「しのぶもぢずり」は「しのぶ・・・」という言葉集合の一成分ですから、「しのぶ・・ ・」が「乱れる」と縁語関係にあるなら、その中の一成分である「しのぶもぢずり」も「 乱れる」と縁語関係にならないか?という考え方です。

直感的には、初め「しのぶもぢずり」が「乱れる」の縁語だったとして、後世「しのぶも ぢずり」という言葉の一部である「しのぶ」が「乱れる」の縁語に変わる可能性は少ない ですが、初め「しのぶ」が「乱れる」の縁語だったら、後世「しのぶ」という言葉を含む 「しのぶもぢずり」が「乱れる」の縁語と誤解されるようになる可能性は高いなと思いま す。「室の八島」と「煙」との縁語関係は、初めは「八島」が「煙」の縁語だったと考え ています。

しのぶ摺
 この[伊勢物語]によれば「しのぶ摺」という染色した布が存在したようですが、「し のぶ摺」がどういうものか?現在分かっておりません。「−摺」とありますから、これは 布を染料液中に浸して布全体を染色したものではないようです。何かの模様に染めた物で しょうか?

国語辞典より
摺り染め・摺り込み染め : 布の表面に型を置き、染料を含ませた刷毛(はけ)で種々の 色を摺り込んで模様を染め出すもの。

[伊勢物語]抜き書き
「その男、しのぶ摺 の狩衣をなむ着たりける。
<春日野の−若紫の−すりごろも−しのぶの乱れ−かぎりしられず> 」

ここで、「男が着ていた『しのぶ摺 の狩衣』は、『しのぶ』の模様を若紫色に摺り染め した『摺り衣』である」としないと、この和歌の上句と下句が繋がらないようですね。

ウラボシ科
シダ植物門に含まれる科のひとつ。和名の「裏星」という名は、胞子のう群(円形状のも の)が葉の裏に多数並んでいるのを沢山の星に見立てたもの

(註16) 堀河院御時、百首歌たてまつりける時(1105−6年)の、この歌の下句は、後に編集 された[千載集](1187年)にあるように、<−しのふもちすり−かわくよそなき> だったんでしょう。それを後で、[堀河百首(堀河院御時百首和歌)]再編集の時にでも 、誰かが、「みだれる」が「しのぶもぢずり」の縁語だからと言うことで、うたの最後を <−かわくよそなき>から<-みたれあひけり>に替えたんでしょう。
ですから、<-みたれあひけり>が「しのぶもぢずり」の真実の姿を伝えているのか否か 断言できないんです。<-みたれあひけり>と替えた人は、「しのぶもぢずり」とは衣に つけた何らかの模様であると考えていたんだろうと思いますが。

 この歌を、「しのぶもぢずり」を知る手掛かりとして採用するか否か、この判断が 非常に難しいんです。和歌の三十一文字は短すぎるんです。採用すれば、「しのぶもぢず り」とは何か?がかなり絞られてくるんですが。

[無名抄]
著者の生存年代から判断して、これは鴨長明(1155−1216年)の[無名抄]では なく、源 俊頼のいわゆる[俊頼無名抄]か? 源 俊頼(1055−1129年)著

[和歌童蒙抄]
1145年頃成立か?、藤原範兼(1107−1165年)著

私云
この『私』は、顕昭(1130頃−1209年以後)本人だと思われます。
そして、『私云』以下の文は[袖中抄]の文と考えられます。

民部卿成範卿
藤原 成範(ふじわら の しげのり)1135−1187年

左京太夫脩範
藤原 脩範(ふじわら の ながのり)1143−1183年以降


[吾妻鏡]
鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親 王まで6代の将軍記という構成で、1180年から1266年までの幕府の事績を編年体 で記す。
成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。
編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に 残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提と なる基本史料である。

4.末の松山
野田の玉川
「野田の玉川」とは、次の歌に出てくる川?海岸?のことです。
夕さればー汐風こしてー陸奥のー野田の玉川ー千鳥鳴くなり 能因法師(988−1050? 1058?)
陸奥のー野田の玉川ー見渡せばーしほ風こしてー氷る月影 順徳天皇(1197−1242)

1)一説では、宮城県塩竈市の大日向に源を発し、市内留ケ谷を通り砂押川へとそそぐ小さな川が 「野田の玉川」だそうです。 【地図】

2)また岩手県九戸郡野田村大字玉川には、西行ゆかりの地であるとして野田玉川駅 ・西行屋敷跡などが在ります。 【地図】

3)また青森県東津軽郡 外ヶ浜 町平舘野田鳴川 【地図】 にもあるようです。
菅江真澄(1754−1829)の【外が濱つたひ】(1788年7月6日〜14日)より抜粋

「過て野田の村に泊をさたむ。村中に小川のふたつなかれたり。そのひとつをいひて、 <ーしほ風こしてーみちのくのー>(能因法師)と、もはらこゝになかめたりし歌といひなかし、 仙臺(上の1))はさらなり、南部路(上の2))にいふすら、うたかはしと、うら人のいへれと、 いかゝあらんか。こゝともこゝろゐされど、月のかけおちてすゝしうおかしければ、 見たゝすみて、
<ゆふ月のーかけこそみつれーしほかせのー越てふ野田のー玉川の水>
<ーしほ風こしてー氷る月かけ>(順徳天皇)と、すんして更たり。」

【訳】
「今津を過ぎて野田の村に宿をとりました。村の中に小川が二つ流れています。そのひとつが <ーしほ風こして(汐風が吹きこす)ーみちのくのー> と、能因法師の詠んだ野田の玉川であると いいます。仙台(陸前国)にも南部の方にも同じ名がありますから、はっきりしたことは申されないと 村の人がいうが、どのようなものでありましょうか。玉川が此処であるとも合点がいきかねますが、 月の影がおちて涼しく興趣が深かったから、立ち止まって眺めながら
<ゆふ月のーかけこそみつれーしほかせのー越てふ野田のー玉川の水>
<ーしほ風こしてー氷る月かけ>と、詠じているうちに夜も更けました。」

しかし (11) [はて知らずの記] 参照

はねをかはし枝をつらぬる
ひよく-れんり【比翼連理】のこと。出典は白居易(はくきょい)の「長恨歌(ちょうごんか)」

男女の情愛の、深くむつまじいことのたとえ。相思相愛の仲。夫婦仲のむつまじいたとえ。
「比翼」は比翼の鳥のことで、雌雄それぞれ目と翼が一つずつで、常に一体となって飛ぶという 想像上の鳥。「連理」は連理の枝のことで、根元は別々の二本の木で幹や枝が途中でくっついて、 木理(もくり、木目などの事)が連なったもの。

みつの浜
[万葉集・武田訓](600年代後半−700年代後半)
あさされは−いもかてにまく−かかみなす−みつのはまひに−おほふねに−まかちし しぬき−からくにに−わたりゆかむと−たたむかふ−みぬめをさして−しほまちて− みをひきゆけは−おきへには−しらなみたかみ−うらみより−こきてわたれは−わきもこ に−淡路の島は−ゆふされは−くもゐかくりぬ−さよふけて−ゆくへをしらに−あかここ ろ−明石の浦に−ふねとめて・・・

あだし心
あだし心(徒し心):変わりやすい心。浮気心。

貞観地震(じょうがんじしん)
869年に三陸沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生したと推定されている巨大 地震。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったとされ、地震に伴って 発生した津波による被害も甚大であった。

[日本三代実録]
「陸奥国、地大(おおい)に震動(ふ)りて・・・海口(みなと)は哮吼(ほ)えて・・・ 溺れ死ぬる者千許(ばかり)、資産(たから)も苗稼(なえ)も殆(ほとほ)と 孑遺(のこるもの)無かりき」

有力視
ウィキペディアで「末の松山」を調べたら、説明文の冒頭からいきなり「古今和歌集(905年) の仮名序 に、貞観津波(869年)は「まつ山のなみ」として取り上げられ」だって、
しかし古今和歌集の仮名序の中に貞観津波の事は一切書かれておりません。

また波が越えるのは末の松山ばかりでなく、海岸の松原、末の松、松山なども波が越えますが、 なぜ末の松山だけが、と言うか、末の松を詠んだ和歌の内で、作者・作歌年の分からぬ 「君をおきてー」の歌だけが、その派生歌を除いて、貞観津波と関係してるんでしょう。 その説明が全く有りません。
こういう方の頭の構造はどうなってるんでしょう。

もし、津波と関係する和歌が有るとすれば、それが1首だけなんてことは考えにくい (津波に関係する和歌を検索しましたが、一首も見つかりませんでした)。
もし「君をおきてー」の和歌が貞観津波と関係するというなら、まずこれこれの和歌が 津波に関係する和歌であり、そのうちの「君をおきてー」の歌は、これこれの理由により 貞観津波と関係する和歌であると言わなければならない。
そして「君をおきてー」の歌の前に、貞観津波の被害の悲惨さを嘆いた歌がなければならない。 最初から恋の歌なんてことは有り得ない。

「古今集の末の松山の歌が貞観津波と関係が有る」などとバカなことを言ってるのは、和歌のことを 全く知らない土木工学専門の先生です。
その著作とは、
「歌枕『末の松山』と海底考古学」(「国文学」2007年12月臨時増刊号、学燈社)

普通名詞の末の松山についての無意味な研究、ご苦労様です。
「国文学」に寄稿したと言うことは、つまりこれは技術論文でなく、SFでした。
得てして、こういう作品が「今までに無いユニークな試みである」として、賞をもらうようです。 こういう賞は、真実か否かは全く関係して来ません。


藤原興風(ふじわら の おきかぜ)
生没年不詳。平安時代の歌人・官人。
小倉百人一首 34番
 誰をかも−知る人にせむ−高砂の−松も昔の−友ならなくに

(註17) やっと見つけたのは、ご存知「炭坑節」の一節で「一山二山三山越え」だけでした。しか し意味は「田川炭坑の西北にある香春岳のことで、一の岳から三の岳まであります。」っ てことで、[能因坤元儀]が言う「・・・とて三重にあり」とは全然違いました。

(註18) 「また或本には末の松、中の松、本の松とも云へり。」以降の文については、いつの時代 の誰が付け加えたのか、筆者にはわかりません。

二戸市 (にのへし)
二戸市の産業 : 浄法寺漆(じょうぼうじうるし)
浄法寺漆とは、主として岩手県二戸市浄法寺町を本拠として活動する漆掻き職人が、 岩手県北や青森県南部、秋田県北東部の漆の木から採取した生漆(きうるし)をいう。

日本国内で使用される漆の98%以上を中国からの輸入に頼る中で、浄法寺漆は、 日本一の生産量(国産の約7割)と高い品質を誇る。


















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